僕が君を初めて見たのは、どんよりした曇り空から今にも雪が降り出しそうな冬のある日だったよね。
君は君のママの腕に抱かれて、僕の家の隣りにやって来た。産院で十日前に生まれたばかりだと、僕のママが教えてくれたんだ。可愛いわねえ、赤ちゃん。本当に可愛いわ。僕は少しムッとした。僕だって可愛いはずなんだから。ママはいつだって僕のことを可愛い、可愛いと言ってくれていたんだ。
だから僕は、ママに内緒でそっと隣の家の庭に忍びこみ、窓から覗いてみた。僕の方が可愛いに決まっているんだから、どれ、その不細工な顔を見てやるぜ。
君は眠っていた。白い、レースのたくさんついたとても美しい布にくるまれて、窓辺の暖かい場所で。藤の揺りかごの中で。
僕が見つめていると、不意に君は目を開いた。
ひと目で僕は、君に夢中になってしまった。
君はちっとも可愛くなんかなかった。赤くて皺くちゃの顔をしていて、髪の毛だって前髪しかない。でも君の瞳はきらきらと輝いていて、なんだかとても曖昧な視線を世界のいろいろなところに向けていた。後でママが教えてくれたんだけど、赤ちゃんって、生まれてしばらくは目があんまり見えないんだね。でも光は感じることができるんだって。君は光を感じて、嬉しそうにしていたね。小さな小さな掌を閉じたり開いたり、一所懸命、何かをつかもうとしていたね。その様子に僕は魅了されてしまったんだ。いつまで見ていても飽きることがなかった。
それから僕は、しょっちゅう隣の家の庭に入って、窓越しに君を眺めていた。君はすくすくと大きくなり、泣いたり笑ったりするようになった。そして窓ガラスの向こうに僕の顔を見つけると、大喜びして叫んだ。
嬉しい、嬉しい、嬉しいの!
君はまだ言葉を話せなかったけれど、僕には君が言いたいこと、全部わかったよ。
僕はそれだけで満足だった。隣の家のママに、赤ちゃんと遊ばせて、と言いたかったけれど我慢したんだ。なぜって、赤ちゃんとどう遊んだらいいのかなんて、僕にはわからなかったからね。だって僕もまだ、幼かったんだもの。
ところがある日、思いがけない素敵なことが起こった。
君はいつの間にか歩けるようになっていて、そしてよちよちと歩きまわる君の手をひいて、君のママが僕の家にやって来たんだ! 君のママと僕のママは友達だった。
これから仲良くしてね、と君のママが言った。僕は嬉しくて、はしゃぎまわった。その様子を見て、僕のママが笑い、君のママも笑った。
そうして、僕と君とは友達になったんだよね。
君はやがて幼稚園に通うようになり、あっという間に小学生になったけれど、君と僕との友情は途絶えることがなかった。君は学校から帰るとランドセルを家に置く間も惜しんで僕と遊んだ。たいがいは君が僕の家にやって来たけれど、時には僕が君の家にお邪魔して。
君はどんどん大きくなり、僕もどんどん大きくなった。君のママは、僕と君とを見て、本当のきょうだいみたいね、と言った。僕のママは僕たちみたいな関係を、幼なじみって呼ぶのよ、と教えてくれた。
幼なじみ。僕と君とは、幼なじみなんだ。そう思うとすごく嬉しかったよ。
何年か幸せな時が過ぎて、やがて君はとても忙しくなってしまった。小学校だけじゃなくて、塾に通い始めたんだ。僕のママが、夏菜子ちゃんは優秀だから私立の中学を受験するのよ、と僕に教えてくれたんだけど、僕はピンと来なかった。私立だろうとなかろうと、中学生になっても君は僕の幼なじみで、きっと家に帰って来たら僕と遊びたがる。そう信じていたから。
そして、君は僕を裏切らなかった。やがて中学生になっても、君は僕と遊んだ。ただ、一緒に遊べる時間はどんどん短くなっていった。君は部活を始め、学校から帰るともうあたりは真っ暗で、宿題もたくさんあるから夜も忙しい。それは仕方ないことだったし、実は僕だって、いろいろ忙しくなってたからね。僕も大きくなって、することはいっぱいあったんだ。
でもね。
僕が恋をしたのは君だけだよ。本当だ。
君はと言えば、僕じゃない誰かに恋をしていたね。初めて君が恋をした時のこと、僕は知ってる。だって君ってば、僕にそのことを打ち明けるんだもの! 君ってそういうところがあるよね。ちょっと無神経でさ。
でもいいんだ。僕は嬉しかった。君が僕を信用して、僕なら誰にも言わないとわかっていて僕にいろんなことを話してくれる、そのことが嬉しかった。
君の初恋は実らずに終わったっけ。でも君が高校生になった時、君の想いが通じて誰かとおつきあいを始めたね。僕は全部知ってるんだ。全部、君から聞いたから。
さて、と。
ちょっと疲れたな。
この頃、僕はすぐにくたびれてしまう。一日中眠くて仕方ない。
でももうすぐ君に逢えるから、もうちょっと我慢して起きていよう。
早咲きの桜の花びらがちらちらしていた三月のある日、君は旅立って行った。東京の大学に入学する為に。
家を出てからわざわざ僕のうちまで来てくれて、玄関で僕にさよならを言ってくれた。
寂しかったけれど、悲しくはなかった。君の新しい人生が始まるんだから、それは喜ばしいことだった。夏休みに帰って来るからね、と君は言った。
夏休みがとても楽しみだった。夏は暑いのであまり好きじゃないけど、今年は七月が来るのがとても待ち遠しかった。
そして、今日、君は帰って来る。君のママが僕の家で僕のママと一緒にお昼ご飯を食べながらそう言っているのを聞いたんだ。
僕は嬉しくて嬉しくて、ずっと待っている。君が歩いて来るのが見える、窓辺で。
だけど。
なんだかちょっと……何日か前から変な感じなんだよな。いつもに増して疲れやすくて、眠くて。
今、僕はちょっと不安になっている。もしかしたら……間に合わないかも。
僕は君より数ヶ月年上だから、もう十九歳になったんだよ。
十九歳。今度の冬で君も十九歳だね。輝くばかりの若さに包まれて、艶々の肌と髪で、美しい音楽のような笑い声で。
そして僕は……
僕は。
ごめん。ごめんね。
どうも、もう目が開けていられない。とっても眠い。
君にもう一度逢いたかった。でも、ちょっと無理みたいだ。
残念だなあ。残念。
だけど悲しくはないよ。だって僕は君の幼なじみでいられて、本当に幸せだったもの。
僕は僕で、僕の命を充分に生きた。優しいママ、時々優しいパパに愛されて、この家で十九年、楽しかった。
そして僕はずっと君に恋をし続けていられた。いろいろ事情があって、僕は一歳になった頃に手術を受けていたから、他の恋は必要なかったんだ。
僕たちは、虹のたもとで君たちを待つことになっているらしいけど、君の人生はこれから花ひらいていくんだから、待っていてもなかなか君は来てくれないだろうし、そんなに早く来てもらったら困るし。だから僕は虹のたもとで君を待たない。
これからも、きっと君のそばにいる。
それでいいよね?
ああ、眠たい。
目を閉じた。もう瞼が動かない。
幼なじみの君と遊ぶ夢を、これから永遠に見ていられる。
永遠に。
「ぽんきち?」
由里子は窓辺で丸くなっている黒猫を呼んだ。
「ぽんきち? 寝ちゃってるの? 夏菜子ちゃん、来てくれたわよ」
「おばさん、ぽんちゃん寝てるの?」
「うん。この頃は寝てばかりなのよ。何しろもう歳だものね。猫の十九歳って、人間だといくつくらいなのかしら。百歳くらい? 夏菜子ちゃん、スイカ食べる?」
「あ、いただきます!」
「じゃ、切りましょうね。手を洗ってらっしゃいな」
「はーい。でもその前にぽんちゃん撫でたい。ぽんちゃーん」
黒猫は、薄れていく意識の中で、大好きな幼なじみの声を聞いていた。黒猫の耳が、大好きな声に反応して、ひく、ひく、と動いた。
それが最期だった。
黒猫は誰にも見えない姿になって、夏菜子の足元に座った。
これからは、僕が君を護るからね。
やがて夏菜子の泣き声が聞こえて来るのを、黒猫は静かに待っていた。