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第3回

怒りの理由

 真尋が嘱託社員として勤めるコミュニィFM、「FM潮ノ道」の局長は頭脳明晰、常に冷静沈着、感情の起伏を見せず、端正な顔立ちをめったに崩さない人物だ。以前、「局長はいつも冷静だから、血が通っていないんじゃないかと思っていました」と言ったところ、「そんなわけはないでしょう」と一言のもとに否定された。自分でも当たり前だと思うが。

 そんな冷静沈着な人物が、真尋が局に加わってからは焦ったり困ったりするのをよく見るようになったと、同僚たちは言っている。確かに局長は、他の人には常に紳士的なのに、真尋に対してはしばしば小言を言うし、何かといえば理路整然と叱りつけてくる。そんなに私のことが嫌いか、とひがむことも三日に一度くらいある。こんなに叱られてばかりでは心が折れます、と局長に言ったら、「それは僕の言うことでしょう。叱るのも気力をつかうものなんですから、なるべく叱られないように行動してください。しかも君が、なにかおおきな失敗をやらかすたびに、先日のようなスポンサーの名前の呼び間違いなどですね、関係各位に謝罪に行くのも僕なんですからね」とまた叱られた。

 しかし今日は、今まで叱られたと思っていたのはただの予行演習だったかと思うほど、怖い顔で叱られている。今まで私に小言を言い続けていたのは、予行演習だったんですか、などと聞こうものなら、間違いなく、「僕をそんなひま人だと思っているんですか」と反論される。以前、「局長はいつも冷静だから、血が通っていないんじゃないかと思っていた」という真尋のいつものジョークを真に受けたかのように、「君が僕という人間をどう認識しているのか、時々大いに疑問になります」と言われたこともある。

 そもそもは、局長が分厚い本を真尋にさし出してきたのがことの始まりだった。「マスコミに携わる者は、なるべく幅広い教養を身に着けておく必要があります。君も、小さいわが局とはいえ、マスコミの一端を担っているのですから、無理にとは言いませんが、これくらい読んでおくといいでしょう」

 その本の表紙と背表紙には、真尋でもタイトルだけは知っている,『カラマーゾフの兄弟(上)』と書かれていた。本の半ばくらいに、透かし彫りのような模様が入った薄い金属の栞がはさんであった。真尋は何の気なしにその栞を外し、本の初めのほうをめくって登場人物の一覧が載っているページにはさみなおした。翻訳作品を読むときは、登場人物の名前が分からなくなることが多く、読みながら何度も登場人物一覧のお世話になる真尋であった。特にロシア文学は名前がややこしいし。すると、栞の位置を変えたことを見とがめた局長が、このいつも冷静沈着な局長が、「何をやってくれるんですか、君は!」と、入局以来初めて聞く大声で言った。

 栞をはさんであるということは、誰かがその本を読んでいて、そこを読んでいるところだということです。それを勝手に外して場所を変えるとは、どういうつもりですか。

 真尋は自分ではほとんど栞というものを使わない。読んでいる途中の本なら、中断したまさにそのページは覚えていなくても、そこまでの話の流れは大体覚えているので、読むのを再開するときも、どこだったかまったくわからないということはないからだ。だから、栞の挟んである位置がそれほど重大であるという意識がなかった。

 そんなことを、できる範囲で理路整然と説明すると局長は、「わかりました。一事が万事と言いますが、栞の使い方にもその人の人生観のようなものが現れるのですね。いかにも君らしい、おおざっぱな人生観がわかります」

「使わないといっても、『しおり』というものと言葉は好きです。小説を読んでいると、しおりという名前の付いている人は、本好きで物静かで魅力的なキャラクターと設定してあることが多い気がします」

「君の名前、『真尋』だって名前だけ聞けば、海のような深みのある魅力的な人の印象がありますよ」

「みみみ、魅力的って、局長、それは」

「名前だけ聞けばと言ったでしょう。 ただ、いま僕が言いたいのは」

まだ何か言うことがあるか。

「読んでいた当人が読書を再開するなら、どこを読んでいたかは自分でおおむねわかるでしょう。僕なら、どんな厚い本でも、読むのを中断したまさにそのページを五秒以内に捜し当てる自信があります」

 畏れ入りました。

「しかし、読んでいた当人がもう読書を再開できないとしたら、その人がどこを読んでいたかは、栞の位置でしか知る術がありません」

「もう読書を再開できないって、それでは局長、この本を読んでいた人は」

「僕の今は亡き親友です。この本に栞を挟んで僕に貸してから、急な事故で逝ってしまいました」

「そんな重大な意味のある本を、何も言わずに渡すのはやめてください。いくら私だって、それがわかっていたらうかつに栞を動かしたりしませんでした」

「どうだか」

局長が真尋という人間をどう認識しているかも時々聞きたくなるけれど、二度と立ち直れなくなりそうで、聞く勇気がない。さっきの、「名前だけ聞けば魅力的」というのは、いままで局長からもらった最大の誉め言葉であったよ。

「そういうわけですから、彼が最後にこの本のどこを読んでいて、どんな思いでそこで中断したかも、わからなくなってしまったのです」

「そこにはちょっと誇張があるでしょう。あんな怖い顔でお怒りになった理由はわかりましたが」

「誇張とは何です」

「そんな大切な方が残した本の栞の位置、局長だったらとっくに確認して読んで、そのページごと暗記しておられるに違いないと思います。栞がどこにあったかわからないなんてこと、局長に限ってありえないと思います」

「君が僕という人間をよく理解しているのか、過大評価しているのか、時々わからなくなります」

「感情の起伏を他人に見せず、本気で怒ることなんてめったにない人だということはよく理解しています。今日は珍しいことが起こりましたね」

 すると局長は、滑らかな口調で、何やら難し気な文章をそらんじ始めた。察するにこれが、局長の親友がしおりを挟んでいた個所の、『カラマーゾフの兄弟』の一節なのだろう。やっぱり暗記していたんだ。栞を動かしたのが、亡き人がどこを読んでいたかまったくわからなくなるような、取り返しのつかない失敗でなくてよかった。それでも、最後に親友が触れたに違いない栞に真尋が触れてしまったことに変わりはない。その一事をもって、このへっぽこ局員もう許さんと思われたらどうしよう。

 それは結構つらいかも。

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