
ラッキーは、とつぜん家にやってきた。
遠くの街からもらわれてきた子だった。鍵しっぽで、手のひらの上で眠れるほどの小さな猫。
やってきた猫を、母と父はふたり並んで、じっと見つめた。
そして、どちらからともなく、
「これは、ラッキーだね」
「うん、ラッキー」
と言い合って、その小さな猫は、ラッキーという名前になった。
その様子を横から見ていた幼いわたしは、ラッキーって、あんまりおしゃれな名前じゃないな、と思ったけれど、口にしなかった。大人が本気で言ってることを、子供が邪魔をしてはいけないような気がしたのだった。
それからしばらくして、ポンとコロンはやってきた。この二匹も生まれたばかりの小さな猫で、母の知り合いからもらいうけたキョウダイ猫だった。
ちなみに、ポンと名付けたのはわたしで、コロンと名付けたのは兄である。
ポンは、もともとポン太と名付ける予定だった。意味というよりは、音のひびきがかわいいとおもって、ポン太と決めた。
しかし、実際うちに二匹がやってきて、しばらくすると、男の子だと聞いていたポンは、女の子であることがわかったのである。
もうそのときには、なんどもポン太〜と呼んだあとだったので、わたしは、ポンに改名することを家族につげた。それからポンは、ずっとポンである。
名付けとは、不思議なものである。
ポンは私に、コロンは兄に、性格がそっくりなのである。
ポンは、やきもち焼きのふてくされ屋。かくいう私もそうである。誰かがコロンを撫でているところを見ようものなら、すぐさま敵だと判断し、シャーシャー言って、爪を立てる。すぐに狭いところで、ひとりになろうとする。けれど、ほとぼりのさめたころ、撫でにいってみると、冷たい目を向けながら、まだ信じていませんから、という顔つきのまま、のどをゴロゴロならす。
反対に、コロンは、調子の良い猫である。みんなから可愛がられる愛嬌と、もののねだり方を知っている。兄も、そのようなところがある。
たとえば夕食なんかを食べていると、ミアーミアーと甘い声を出して、父の背中をとんとん叩く。父は父で、ぶっきらぼうな顔をつくりながら、低い声で「おう」とかなんとか言って刺身を一枚あげてしまう。
もちろん、それをカーテンの隙間などから見ているポンは怒り心頭である。真似をすれば、ぜったいにくれるのに、ポンはぜったいにそういうことをしない。不器用なのである。
わたしはポンの振る舞いをみながら、よく自分のことを考えた。そんなんじゃ損するよ、とか、もっと可愛くできないの、とか、猫なんだから、とか、自分がなんども大人から言われてきたことを、ポンに思うなどした。それと同時に、ポンはポンでいいよ、とか、そりゃあシャーシャー言いますよ、とか、ポンなりの筋だもん、とか、猫ではなくてポンなのだから、と自分がだれかに言ってほしかった言葉をかけてみたりした。
ラッキーは父と母、どちらに似たのだろう。と考えるときがあるけれども、どちらにも似ていないような気がする。ラッキーはいつも、でん、としていた。学校から帰ってくると、庭に自転車を止めるのだけれど、そのときいつも庭を見ているラッキーと目があって、手を上げると、にゃーとちいさく鳴いてくれたことを忘れない。
小原晩(おばらばん)
作家。1996年、東京生まれ。2022年にエッセイ集『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』を自費出版する。2024年11月に実業之日本社より増補版を刊行。他の著書に『これが生活なのかしらん』(大和書房)がある。