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第5回

あるべき場所で、あるがままに―三鷹

大学時代、初めて一人暮らしを始めたのが三鷹だ。
一人暮らしといっても、実家からは自転車で30分ほどの距離だった。
三鷹の地を選んだ理由は、大学から近かったことと、三鷹の森ジブリ美術館があったり、
自然が多かったり、メルヘンな雰囲気に憧れたりしたこともある。
家賃は3万、ユニットバスで、オートロックもないワンルームのアパートの一階を選んで住んでいた。
そんなところに住んでいたの?と驚く人もいるかもしれないが、当時の私は目を輝かせながら、
このアパートの一室を選んだ。

駅からは遠いけど、外観がミントグリーンで可愛らしかったり、ロフトが付いていたり、
内見時にちょっとした庭のような場所に野良猫がいたのも大きなポイントだった。
ここで一人暮らしをすれば、この猫がたまに遊びに来てくれるかもしれない。
なんだか、アニメの世界みたいでいいなあ、と思った。

実家が東京、かつ大学までもさほど遠くないのに、一人暮らしを決心したのは、
自分は絶対に一人暮らし向きだという確信があったからだ。
そもそも、私は人にペースを合わせることにストレスを感じるタイプである。
学校で決められた時間割をこなしたり、実家で家族と決まった時間にご飯を食べたりしなければいけないことも苦痛だったし、家族のたてる生活音が鬱陶しく感じたりもして、人と暮らすことに向いていないだろうとずっと感じていた。
そんな私が三鷹で一人暮らしを意気揚々と始め、最初は自分だけの空間が心地よくて仕方なく、心配していた家事もそこまで苦に思わなかった。

期待していた猫も一向に庭に現れない。
程なくして、自分がからっぽになってしまった感覚になった。
今まで1人になることを渇望していたのに、今度は一人の寂しさを紛らわすことに一苦労した。
私はずっと一人になりたかった。
だけど、一人でいることの難しさに気がついたのもこの場所に住んでいた頃からだったと思う。

平日お昼前の11時、三鷹駅南口から出発する。
三鷹駅には北口もあるが、なぜ南口かというと南口方面には当時私が暮らしていたアパートがあり、
当時の思い出があるのも南口方面だったからだ。
駅の近くには、バス停が数カ所あり、人々が混在している。
私もかつてはここで大学行きのバスをサラリーマンや、
おじいちゃんたちと一緒に並んで待っていたりした。
ひとりぼっちの狭い部屋から街に出てバスの列に並ぶ、これだけでも一人から解放されたのをなんとなく覚えている。

南口の外階段を下り、商店街をまっすぐに歩いていく。
文房具屋、マクドナルド、変わっていない光景を懐かしみながら、当時住んでいたアパートの場所を記憶を辿って探していく。
10年も前だから、住所も記録に残っていないし、アパートが当時の状態であるのかもわからない。
結局30分ほど歩いたがアパートは見つけることができなかった。
だけど、当時家の近くにあったおやつ屋さんは見つけることができた。

アパートから駅まで徒歩10分程あったから、ここでソフトクリームを買って駅まで食べながら歩くとあっという間だった。

家路には、いろんな思い出がある。
BiSHの活動を始めたのは、一人暮らしをする少し前だったが、当時はダンスの振り付けが
なかなか覚えられなかったりして、イヤホンで曲を聞き、駅から振り付けを復習しながら歩いていた。
部屋の鏡の前で練習するより、歩きながらの方が覚えやすいと発見したのだ。
今でも色々と行き詰まった時には歩きながらものを考えることが多い。

アパートを探すのを諦め駅に戻りつつ、仕事や学校の前によく寄っていたコーヒーショップへ向かう。
私にとって、仕事や学校に行く前の一服の時間がとても大切な時間になったのもこの頃からだ。
実家では、母の作った朝ごはん食べて、家を出るギリギリまでダラダラと過ごしていたが、一人暮らしを始めてからは、朝ごはんをどこで何を食べるのかも自分の自由なのだ。

向かったコーヒーショップには、豊富な種類のコーヒー豆が販売されていて、
店内に入るとその良い香りに包まれてほっと一息つける。
テラスに移動して、ホットケーキとホットコーヒーを注文する。
当時もこの場所で私は外の景色を眺めながら時にノートを広げ、
誰へ向けたものでもない言葉を書き留めたりして、自分を整えてから目的地へと向かっていた。

ホットケーキの優しく素朴な味と、ブレンドコーヒーのほろ苦さに癒される。
以前、雑誌の取材で思い入れのある喫茶店を聞かれ、当時三鷹で通っていた喫茶店をいくつかネットで調べてみた。
すると、そのほとんどが閉店してしまっていた。
それらの喫茶店の雰囲気も、店員さんのことも昨日のことのように覚えているのに
とても切ない気持ちになった。
だけど、もう10年も前なのだから仕方ない。
私自身、この10年の間に何度か住む場所を変えたりして、結局三鷹の地を離れてからは、
再訪する機会もなかった。
もう一度、行っておけばよかったと悔やまれる。
このコーヒーショップも、当時とは名前を変えてリニューアルしている。
だけど、雰囲気が変わっていないから嬉しかった。

私が当時喫茶店など、お気に入りのお店を探すのが好きになった頃は、
特定の店の常連になったり、店員さんと雑談をしたりするほど仲良くなったわけではない。
だから、当時の店員さんも私のことはきっと覚えてはいないだろう。
けれど、早起きしてサラリーマンが新聞紙を広げているのに混じって食べた
駅の近くの純喫茶でのモーニングや、家の近くの穴場の喫茶店のマスターの笑顔ひとつで
孤独な気分が随分救われたりしたものだ。

コーヒーショップを出て、吉祥寺方面へと歩いていく。
三鷹駅を越えたあたりで道なりに小川が流れていて、緑が多くなってくる。
さすが文豪が暮らしていた街、歩いている途中にも展示をしているギャラリーなどがちらほら見受けられ、やはり文化的な雰囲気の漂う街だと感じる。
そういえば、三鷹は文豪・太宰治にゆかりがある土地としても有名だ。
晩年は三鷹で過ごし、『人間失格』を書いていたのも三鷹に住んでいた頃だ。
私は、太宰治の作品は『人間失格』くらいしか読んだことがないし、そこまで詳しくないが、
文豪たちってどこで生まれたかよりもどこで一生を終えたかの方に
よくフォーカスが向いている気がする。
文豪に限らず、人間はみんなそうだろうか。
生まれるのは、自分の意思は反映されないが、どこでどう一生を終えるかはその人の集大成というか、意思が反映されていることもあるからだろうか。
そんなことを考えながら、歩みを進めていく。


ちょうど三鷹と吉祥寺の間くらいまで吉祥寺通りを歩いていくと、
東京都井の頭自然文化園が見えてくる。
住んでいた当時は訪れたことがなかったが、
今回の散歩では、今まで行かなかった場所にも行きたいと思ったのだ。

地図のように、動物園(本園)と水生物園(分園)に別れている。
まずは正門から動物園の方に入っていこう。
ペンギン、ミーアキャット、アカゲザル、鳥類、様々な種類の動物を見ていく。
三鷹にこんな風に気軽に行ける都営の動物園があったなんて、住んでいた頃は知らなかった。
途中、フェネックというキャラクターのようなとても可愛らしい風貌の動物を見つけた。
気になって、ネットで調べてみると希少な動物で、性格は好奇心旺盛と記載されていた。

確かに、こんなに可愛らしくて飼育可能なら、
街中でフェネックを散歩する人も出てくるかもしれない。
しかし、可愛だけでは飼えないのが動物だ。
このくらいの距離で見ている方がいいのだろう。
そういえば、動物園に行くのはいつ以来だろう。
イラストで見る動物ではなく、まぢかで動く動物たちを見ていると、こんな動き方をしていたっけと、なんだか見入ってしまう。
とりわけサルに関しては、やっぱり人間と似ていて、
サル同士で絡んでいたり、独りぼっちでいたりと、サル社会でも色々あるんだろうなと同情した。
しかし、私はとりわけ動物好きというわけではない。
特に小動物がなぜか苦手である。
あの、すばしっこい予測不可能な感じが、もしかしたら自分と似ていて、
同族嫌悪なのかもしれない(苦笑)。
これまでは動物園に行く人の気持ちがよくわからなかったけど、
今回、動物たちの伸び伸びとあるがままに生きている姿が見られて、
人間としても伸び伸び生きようと感じさせてくれた。
一通り動物園を見ると、時刻は16時前でもう最終入園時間ギリギリになっていたが、
せっかくなので少し歩いた場所にある水生物園も訪れることにした。

水生物園とは、名前の通り、水に関わる動物や植物を展示・飼育する施設だ。
まずは、弁天門入口付近にある水生物館へ入ってみる。

入ってすぐに水生物園の成り立ちが書かれている展示があり、
当時の記事の切り抜きなどを見てまわる。
平日かつ閉園間近なこともあり、お客さんはまばらで、ゆったりと展示を見ることができた。
この部屋を出ると、川に生息する水生物たちの水槽を眺めてみる。
なんだか、小学生くらいのときに遠足で訪れているような懐かしい気持ちだ。
小学生の頃はこのような場所に来ても、友達とふざけていただけだった気がする。
しかし、じっくり説明書きを見てみると知らないことばかりで、私は今まで人間ばかり気にして生きてきたんだな、と謎の焦りのような感情が芽生える。
私も地球に生まれたからには、人間以外の生き物のことも知っておくべきだろう。

特に川の流れとそこに住む生き物の関係が興味深かった。
まずは土地があり、そこに流れる川の流れの特徴によって住む生き物が決まるという。

例えば、川の上流は大きな岩がゴロゴロとあり、水が早く流れていて、冷たい水を好む生き物が住み着く。
中流域では、浅くて流れの早いところ(瀬)と、深くて流れの緩やかなところ(淵)があり、
瀬は日当たりがよく岩の表面に藻類が生えやすいため、それらを食べるアユなどが見られるという(※館内資料参考)。
川と一口に言っても、場所ごとに適した生物が生息しているのだ。

どんな環境に身を置くかは、自然の摂理にのっとってもとても重要なことなのだろう。
適材適所というか、人間である私たちも本来あるべき姿、場所で、無理せずに生きた方がいいと思う。
だけど、「本来あるべき場所であるがままに」そんな生き物にとって当たり前のことも、人間は見栄やプライドなどが邪魔して難しい。
説明を眺めながら、なんだか考えさせられてしまった。

次は、カエルやカメを間近でじっくり見てみる。
彼らはよくキャラクター化されているけど、本来の質感や挙動ってこんな感じだったよなと、
動物園同様、彼らの現実を見せつけられているような気分になる。
SNSで加工された顔に慣れてしまっても、実際に人の顔をみるとこんな感じだったよな、と思う感覚に似ている。
水生物館に思いの外長居してしまい、閉園までの時間が迫ってきた。
館内を出て、近くの水辺に生息するカモなどの鳥類を早足で見物しながら、小道を通ってまた入り口の方へ戻っていく。

途中、犬を散歩している人たちが増えてきて、確かに動物にはいい散歩道だろうと眺めていると、
手を繋いだ仲の良さそうな老夫婦とすれ違い、ジブリの世界みたいだなと思った。
私は、変わらないものは、この世界には少ないと感じている。
老夫婦の背景は知らないが、きっと一緒に変わっていけたのだろう、と思った。
自由な一人と一人が、一緒に生きていけるのってすごい。

自由とは、自分で選択できるということだろう。
この場所に住んでいた頃は、BiSHに入ることも自分で決めて、一人暮らしの家も自分で決めて、
まさに自由への一歩だった。
私は、自ら進んで友人たちとは違う道、そして家族からも離れて(電車で30分ではあるが……)
一人を選んだ。
だけど、自分が考えていたより、「一人」は難しかった。
良い自分、できる自分、強い自分でいることが一人で生きるということでもないはずだ。
一人でいるということは、それと同じくらいどこかに手を伸ばす力、誰かに頼る力が必要なのだ。
当時の私は、必死に自分を受け入れてくれる場所を探していた。
ひとりぼっちの部屋でも、メンバーと一緒の仕事でもなく、学校の授業でもない。
いわゆる社会の枠組みから外れた自分をありのままで受け入れてくれるような場所。
一人だけど、一人じゃない、と思える場所。

今も、私は一人でいることは好きだし、一人に向いているとは思う。
しかし、一人が得意かと聞かれれば、そうではない。ただ、昔より少し慣れただけだ。
一人になった当時、私が向き合うことになった寂しさの感情はまだ残っている。
それは誰かといてもなくなるわけではなく、ずっと自分が付き合っていかなければならないもののような気がする。

一見変化がないような、波のない緑色の池の中の世界もきっと変わっていっている。
一体どんな風に変わってきたのかは、そこを棲家とする生物にしかわからない。

早歩きでも遅歩きでも、自分の歩幅が道になる。

歩くのが下手なんだったら、どうせなら人よりユニークで面白い道をゆこう。

さて今度はどんな街を歩こうか。次回へ続く。



【協力/井の頭自然文化園】https://www.tokyo-zoo.net/zoo/ino/

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