
うとうとしている。
朝からずっと……とろとろと……まどろんでいる。
好きな場所で……好きな人を感じながら……好きな人の息遣いや……ページをめくる音を聞きながら……。
ここは東京のはずれにある小さなお店。わたしは入ってすぐのところの、ガラスケースの中にいる。
別にわたし、売りモノじゃないのよ。
昔は和菓子屋さんだったんだって。かつてここには色とりどりの和菓子がずらりと陳列されていたらしい。
今は店主がひとりであずかりやを営んでいる。お客からものをあずかる仕事だ。あずかったものを店主は奥の部屋にしまう。そこには鍵がかかっている。前に、ナイフを持った強盗が押し入ったことがあった。でもそこを開けることはできなかった。厳重に守られている部屋なの。
わたしね、一度そこに閉じ込められたことがある。思い出すと背中の毛が逆立ってしまう。とてつもなく不気味な場所だった。
棚がいくつもあって、その上にたくさんのあずかりものが並べてあった。古そうなラジオや手編みのセーター、いびつな鍋や封筒の束、サッカーボールやでっかい置き時計や小さな砂時計や長靴やバイオリン……そうそう、ジンコツ? お客は「主人」と言ってたけど、布に包まれた壺みたいなものまであった。
それらはみんな動けないものたちで、でもちゃんと心はあって、そこにいるしかないじれったさ、みたいな、念っていうか、将来の不安や居場所が決まらない焦燥感、そういうのを発していた。中にはあきらめの境地っていうのかな、達観しているものもあった。もーどうにでもなれ、て感じ?
いずれにしろ負の感情だ。持ち主から距離を置かれた寂しさや、捨てられるかもしれない悲しさが内側から発せられて、その部屋じゅうにただよっていた。そもそもは愛されていたものたちに違いない。ポイ捨てされず、お金を払ってあずけられるのだから。愛された記憶があるからこそ今の身の上に馴染めないのだろう。
店主がわたしを助けにきてくれて、それ以来、あそこには近づかないようにしている。
わたしが今いるガラスケースは、あずかる仕事とは関係なくて、ただ昔のままにここにあり、今では飾り棚みたいなもので、上に盆栽が置かれたりもするし、中に並べてあるのは、古くて立派なオルゴールと、表紙が傷んでいる『星の王子さま』という本が一冊。この本、枕にちょうどいいのよね。古い紙の匂い最高。
どちらももともとはあずかりもので、引き取られずにおいてけぼりにされたものたち。そのものたちをなぐさめるように、店主は時々オルゴールを鳴らすし、『星の王子さま』をめくったりする。
このふたつに負の感情はない。今の場所に満足している。なぜなら、あずかりやの店主はそのふたつを手放さないと決めている。だからここが彼らの終のすみかで、幸福を感じているのだ。居場所があるって大事よ。ガラスケースの中は、幸福な空気が漂っている。店主はガラスケースの内側の戸をいつもわたしの顔ひとつぶん開けておいてくれるので出入りが自由になっている。
わたし?
わたしはあずかりやの社長。
店主が「社長」と呼ぶのだから、わたしはたぶんとても偉い。猫だという自覚はあるの。でも特別な猫。店主のてのひらから生まれ、育てられた。母さんの記憶はない。猫とのつき合いは薄く、会話ができない。人の言葉はわかる。話せないけどおおよそ理解できる。話せないのだって、必要がないからであって、必要があれば話せると思う。
世間では猫より犬のほうが賢いとされているらしい。あれは嘘。猫は言葉がわからないふりをしている。賢いから。盲導犬とか警察犬みたいに人に利用されるなんてごめんだわ。
「あずかりやさんはこちらですか?」
お客がやってきた。ハキハキした声。まるで二軒先の人に挨拶するみたいな大きな声だ。目が覚めちゃった。
点字本を読んでいた店主はさっそく対応する。
「いらっしゃいませ」
お客は小上がりに腰をかけ、もたもたしている。少年? ではないけれど、小柄で、店主よりだいぶ若そう。靴紐を解くのに時間がかかっている。やっと脱いだら、臭い。靴下は汚れていて踵と指先に穴が空いている。お客はそれに気づいて、上がるのを断念し、紐の解けた靴に足をのっけて、ふうっとため息をついた。ちょっとお疲れっぽい感じ?
店主は「少しお待ちください」と言って奥へ行き、しばらくすると冷たいお茶とおしぼりをお盆に載せてやってきて、お客の前に出した。
「遠くからいらしたんですか? 少し休んでいかれますか?」
お客は店主の顔を見てハッとした。
やっと気づいたみたい。店主の目が見えてないって。
世の中は見える人が多いから、見えて当然だという雰囲気がある。だからこうして気づいた時に相手はたいてい「あっ」という顔をするの。
店主は店の中なら杖をつかずに動けるし、趣味は読書で、点字本をすらすら読める。料理だって得意だし、猫だって育てられる。わたしは盲導猫ではない。わたしの手を借りなくても、店主は杖ひとつで外を歩ける。でも見える人たちは、見えない人を「とても不自由」と思うみたい。
見えないからお客の靴下の穴には気づかない。真っ黒で汚い靴下で上がってもバレないとわかったけど、お客は上がろうとはしない。毎朝店主は固く絞った雑巾でそこらじゅうを拭き清める。だから畳がとっても綺麗。それを汚したくないみたい。声はでかいけど、繊細なひとみたい。
「ありがとうございます。いただきます」
お客はまたまたでっかい声を出すと、冷たいお茶をごくごくとおいしそうに飲み、グラスに添えてあった冷たいおしぼりで顔を拭いた。おしぼりは真っ黒になった。
これからあずけに来たものを渡したり、あれこれやりとりがあるはず。声が大きい人は苦手なので、わたしはそろ〜っとガラスケースを抜け出し、店を出た。
出てすぐのところに奇妙なものがあった。タイヤ……だよね、それがひとつ、ふたつ、みっつ。子どもが遊ぶ三輪車にしては大きいし、おとなが乗る自転車でもないし、屋台っぽくもない。ぐるっと回ると、正面に目が付いていて、こっちを睨んでいる。あわててぴゅうっとうしろに回って、匂いを嗅ぎ、危険な感じがしなかったので、力一杯ジャンプして乗っかってみた。
あらまあ、見晴らしが良いこと。秋の涼しい風が心地よい。わたしの全身をやさしく撫でてゆく。おひさまがぽかぽかだし、とってもいい気持ち。
「おまえさんの席はそこだよ」と誰かがわたしにささやいた。
「よく戻ってきたね。もうずっとここにいなさい」
なんだかよくわからないけど、歓迎されているみたい。うずくまり、目をつぶってみた。その瞬間、ずどーんと睡魔に飲み込まれた。
ぽつん、と頭に感じた。
目を覚ますと、ぽつぽつぽつんが次々とやってきて、やばいと思ったらもうざーざー降り始めた。豪雨ってやつ。身を隠そうとして立ち上がると、よろけた。
にゃんと!
地面が動いている!
首を伸ばしてみると、世界がびゅーんびゅーんと後ろに流れてゆくのが見えた。
何これ?
怖くなり、身を縮めた。
走ってる。居場所が走ってる。わたしの居場所が走ってる───!
雨が叩きつけるように降っているけど、そんなことはどーでもいい。
ここはどこ? わたしは誰? わたしは誰だっけ?
怖いから丸くなる。丸くなると自分を感じる。できるだけ丸くなって、ボールみたいになって、縮こまった。そして考えるのを止めた。音は絶え間なく聞こえ続ける。
ふぁーん、ふぁーん、ふぁーん……
世界が流れて消えてゆく音……
考えちゃだめ……考えちゃだめ……
安心はあきらめて、不安を消すのよ……
消えてゆく……何もかも……
次に目を覚ました時、わたしはあたたかいお湯で洗われていた。
それは台所の流しってやつで、人はふつう食べ物を洗う。そこでわたしは洗われている。たらいに浅くお湯がはってあって、わたしはそこにお尻を浸され、じゃがいもみたいに洗われている。
世界はすっかり流れてしまい、今までのことを思い出せない。
でも……流しで食べ物を洗う人の後ろ姿はぼんやりとだけど覚えている。その人は背が高くて、じゃがいもやトマトやレタスを洗っていた。そうだ、お茶碗も。わたしのお茶碗とその人のお茶碗がかちゃかちゃとそこで音を立てながら洗われていた。ふたりの世界を確認できる音だった。
今はわたしが洗われている。誰かがわたしを食べようとして、洗っているのだ。それとわかっていてもわたしは抵抗しなかった。冷え切った体にお湯が心地よかったし、その手はぎこちないけど優しかった。
じゅうぶんあたたまったあと、タオルで拭かれた。優しい手で丁寧に拭かれた。
その人は肌が浅黒く、目の白いところが目立っていた。無言でわたしを洗ったあと、その人は自分を洗いにお風呂場へと消えた。彼が脱いだ靴下は真っ黒で、穴が空いていた。
その匂いを嗅いだ瞬間、流れてしまった過去を思い出した。
あの人はお客。声の大きいお客。
わたしはあずかりやの社長だ。
なぜわたしはお客の家にいるのだろう?
あずかりやはあずかるのが仕事だ。貸し出す仕事はやってないはず。
ひょっとしてわたし……盗まれた?
ドロボーだと気づいたら、急に怖くなった。わたしは逃げ道を探して歩き回った。家はすすけていて、古さはあずかりやと似たようなものだけれど、掃除が行き届いてなくて、歩くとすぐに肉球が汚れ、そのたびに舐めなくちゃいけない。必死で舐めていると、声をかけられた。
「シラタマ?」
ハッとして声のほうを見ると、お布団があって、半身を起こしたおじいさんがわたしをびっくりしたような目で見ていた。
「シラタマ! 帰ってきたのか」
おじいさんは立ちあがろうとしてよろけた。そして、立つのをあきらめて座ったまま手で畳を押すようにして、じりじりとこちらににじり寄ってくる。
逃げたかったけど、わたしはじっとしていた。不気味だったけど、今逃げるのはちょっと申し訳ないような、せっかくの努力を無にするのはかわいそうな気がして、動けなかった。
おじいさんはわたしのそばにたどり着くと、目に涙を浮かべて、「帰ってくると信じていたよ」と言った。
わたしは「にゃあにゃあ(違います、わたしはシラタマではありません)」と言ってみた。うまく言えたと思う。
おじいさんは「そうかそうか、腹が減ったな」と言って、またじりじりと移動すると、部屋の隅に積んであった缶詰を手に取り、ぱかんと開けて、きょろきょろと周囲を見回した。お皿は見えるところにあるんだけど、台所で、距離がある。おじいさんはそこまで行くのをあきらめて、なんと自分の片方のてのひらに中身を移して、わたしに差し出した。
おなかが空いていたので、それを食べた。あずかりやで食べていたのはカリカリしたご飯だったけど、こっちもなかなかな味である。
「シラタマや、ゆっくりお食べ」
さっき違うって言ったのに。おじいさん、耳が遠いんだ。だからあのドロボーは大きな声で話す習慣なんだ。
「もうどこにも行くなよ」とおじいさんは言って、涙をぽとぽと落とした。
似たようなセリフを乗り物の上でも聞いたような気がした。
わたしは食べ終わったあと汚れてしまったおじいさんのてのひらをぺろぺろ舐めてあげた。おじいさんはニコニコしていた。嫌なひとの肌は不味くて舐められない。おじいさんの手はいいひとの味がした。
ドロボーがお風呂から出てきた。
するとおじいさんはちょっと驚いたような顔をした。
「ただいま帰りました。お風呂、お借りしました」とドロボーは言った。
「おかえり……マサト」と、おじいさんは言った。
ドロボーはマサトという名前なんだ。このうちの子なのだろうか。だって、「おかえり」って、そういう意味じゃない?
「シラタマが帰ってきたんだよ」とおじいさんは言った。
「シラ……タマ?」
おじいさんはじりじりと移動して、仏壇の近くに行った。仏壇はあずかりやにはないけど、ご近所のよそのうちにはあって、大きいのから小さいのまでいろいろだ。これは中くらいかな。古くて大切にされている感じ。ここだけ埃がないもの。
仏壇にはいくつもの写真が飾ってあって、その一つを手に取った。それはおじいさんが白い猫を抱いている写真だ。仏壇に飾られる写真のひとはたいてい死んでいる。おじいさんは生きているのに飾ってある。なんで?
「シラタマはこんなに早く帰ってきた」とおじいさんは言った。
マサトは遠慮がちに言う。
「庭にお墓がありますよね? 石にシラタマの墓って書いてありますけど」
「一ヶ月ほど前、タクシーに轢かれたんだ。目を覚まさんかと思ったが、無理だった」
「何歳だったんですか?」
「さあ……うちにふらっと来て五年、いやあ、七年になるかな。七代目のシラタマは」
「七代目?」
「昔からうちには何年かに一度、ふらっと猫が現れて、いつくんだ。不思議と白猫なんだ。最初に現れたのは確か俺が小学生の時だな。白い猫と暮らし始めると、いいことがあるんだ。畑の作物が豊作だったり、病気だった母ちゃんが元気になったりな」
マサトは黙って聞いている。おじいさんが機嫌よさそうに話すので、邪魔しないようにしているのね。お客の話を聞く時の店主を思い出す。
「七代目のシラタマは人懐っこいタイプで、俺と一緒にケサブローに乗って、畑まで行ったし、買い物も一緒に行った。寝るのも何もかも一緒だった。だから事故で死なれた時はまいってしまって。神経痛がひどくなって、歩けなくなった。俺がまいっているから、急いで生まれ変わって戻ってきたんだ」とおじいさんは言う。
「ケサブローにいたんです」とマサトは言った。
「ケサブローに?」
「東京から戻ってきたら、荷台に乗っかっていたんです。びしょ濡れで冷え切っていたのでお湯で温めました」
「マサト、行ったのか? 東京」
「はい」
マサトは大切そうに封筒を差し出した。
おじいさんは受け取って中身を見た。お金がいくらか出てきた。
「一日百円だそうです。五年間だと十八万二千六百円。再来年はうるう年なのでその分も入っています。封筒のお金が二十万でしたから、一万七千四百円のお釣りです」
「マサト……本当にあずかりやに行ったのか」
「ええ……はい……」
「箱の中身は確かめたか?」
「いいえ……万が一にも事故に遭って散らばったら行けないと思って、行く前に厳重に閉じて運びました」
「そうか……見ていないのか」とおじいさんは考え込んでいる。
マサトは不安そうにつぶやいた。
「シゲさん、東京のあずかりやに五年間あずけたいとおっしゃいましたよね? そしてあずけ代をぼくに渡した。大金だったし、あれ、大切なものなんでしょう?」
おじいさんはシゲさんっていうんだ。シゲさんはしばらく無言でお金を見ていたが、封筒にしまうと、にっこりと笑った。
「シゲさんはないだろう? マサトは俺の孫なんだから、じいちゃんと呼んでくれ」
マサトはハッとして、そのあとうつむくと、こもった声で「はい」とつぶやいた。
「ダメだぞ、マサト。大きな声でな。お前は声が小さい。初めてここに来た時も、ケサブローの前でぶつぶつしゃべってて。こっちが何を尋ねても、もごもごしていた。いったい誰だお前って思ったぞ」
「……すみません」
「大きな声でハキハキしゃべる。するとみんなお前のことを好きになる」
「……はい」
そういえばマサトはこの家では静かに話す。あずかりやではよそゆきの声を出していたのかしら。シゲさんに「人と話すときは大声で」と言われて、そうしていたのかもしれない。真面目くんだ。
「よく東京までケサブローで行けたなあ」とシゲさんは感慨深げに言った。
「大型トラックのそばを走る時はちょっと怖かったです。みなさん優しくて、煽られたりはしなかったけど。カーブは慎重に曲がりました。オート三輪ってタイヤが三つしかないし」
「なんの、ケサブローは優秀だ。五十年、いやそれ以上になるか。きちんと手入れをしてきたし、半年に一度は近所の修理工場にあずけて、しっかりメンテナンスしてきた。車検だっていつも一発で通る」
「でもシートベルトがないのはちょっと」
「今度そこの修理工場でベルトをつけてもらうか」
ふたりは和やかに話し、最後にシゲさんは封筒のお金をマサトに渡すと、「しばらくいられるだろ? 着替えを買いなさい」と言った。
マサトは黙っている。
「お前は孫なんだから、ジジイが具合悪い時は面倒を見ろ。俺の足が治るまででいいから。明日はケサブローに乗って、一ヶ月放置してた畑の様子を見てきておくれ。あと、買い物も頼む。買い物はうちのぶんだけじゃない、隣の西村さんと、あと、角のうちの吉田先生、年寄りしかいないから、いつもついでに何か買って来ましょうかと声を掛けて、届けてやってるんだ」
シゲさんはそう言うと、布団に入って寝てしまった。
翌日からマサトはシゲさんの指示通り、ケサブローつまりオート三輪に乗って、近所のお年寄りのうちで御用聞きをし、畑に行って雑草を抜いたり、作物の写真をスマホで撮り、買い物をしてお年寄りたちの家に寄り、感謝されてお茶菓子をご馳走になったり、お駄賃を貰ったりし始めた。なぜそんなに詳しく知っているかというと、シゲさんの考えで、わたしもついてゆく羽目になったのだ。
シゲさんが言うには「年寄りはみんな強盗や詐欺を警戒するから、俺の孫だという証拠に、シラタマを乗せてゆけ」とのことなのだ。
わたしはうちにいても面白くないし、ケサブローに乗れば「不意にあずかりやへ戻れるかも」とかすかな期待もあって、その話に乗ったの。
ふたりの会話はだいたいわかるつもりだけれど、複雑な人間社会のことは知らないから、畑に行くのか、東京へ行くのか、正直言うと、よくわからない。だからマサトがケサブローのエンジンをかけると、飛び乗る、を繰り返している。
西村さんは背中の曲がったおばあさんで、わたしを見ると「シラタマちゃん!」と喜んで迎えてくれた。いつもシラタマ七世が行くとおやつをあげていたようで、わたしにもくれる。
西村さんはシラタマが事故に遭ったことを知らないように見えた。
シゲさんとマサトの夕食時の会話でわかったんだけど、実は西村さんが乗っていたタクシーにシラタマは轢かれたんだって。その時西村さんはパニックになって、嘆き悲しんで、申し訳ない申し訳ないと、シゲさんに頭を下げ続けたらしい。けど、彼女は記憶がもたないらしく、翌日にはシラタマの死を忘れてしまい、「あれ、今日はシラタマちゃん来ないの?」と言い出したらしい。
シゲさんは「認知症って、ありがたいなあ。あんなに謝られたら辛いもん。よかったよかった」と言う。シラタマが死んで辛いのはシゲさんなのに。あんなに毎日「シラタマちゃんは?」をやられたら、辛くて、神経痛も悪くなるだろう。
角のうちの吉田先生はシゲさんよりだいぶおじいさんで、元教師で、シゲさんが中学生の頃に担任だったらしい。吉田先生は猫はあまり好きじゃないみたいで、ケサブローをこよなく愛している。
「マツダのK360が今も現役っていうのが感慨深い」などと言う。
「あのわんぱくなシゲに孫がいるなんてなあ、感慨深い」とも言う。
マサトはシゲさんに言われた通り、ハキハキとしゃべり、近隣の人に好かれていった。
シゲさんも若くはないから今まで遠慮してものを頼めなかった人たちも、西村さんと吉田先生の口コミでマサトの存在を知り、ちょっとしたことを頼みに来るようになった。電球を替えてくれとか、郵便局まで乗せて行ってくれとか。
みんなお駄賃をくれる。時にはかなり奮発して払う人もいるみたい。「こんなに困ります」「まあいいから」なんて会話もあった。
マサトは便利に思われていた。だけでなく、愛されている、そんな気がした。
わたしは流石に毎日ケサブローに乗ることはできない。だって猫だもの。気分屋だし、とうぶん東京に行きそうにないとわかったので、どうやってあずかりやに帰ろうか、頭の隅で考えながら、シゲさんのうちで暮らしていた。
ここにずっといるつもりはない。だってシラタマと呼ばれるたびに、「わたしじゃないし」とうんざりする。
「にゃあにゃあ(違いますよ)」と毎回言うのだけど、伝わらないの。
わたしはどうやら人間の言葉をしゃべれないみたい。やればできるはずと思っていたけど、思い上がりだった。うぬぼれは猫の特技なのでよしとしよう。
シゲさんの神経痛は日々良くなっていくようで、マサトが出かけたあと、普通に立って歩き回れるようになった。
不思議なのだが、マサトが帰る時間になると、座ったり、横になったりして、「なかなか治らんなあ」と言って、足を引きずりながら料理をしたりする。
昼間だけ調子がいいみたい。
ある夜のこと。真夜中にシゲさんはむっくりと起き上がった。
マサトは別の部屋で寝ていた。畑仕事をしっかりとやるようになって、マサトはよく眠るようになった。シゲさんは夜なのにシャキッと起きて、マサトが寝ているのを確認すると、すたすたと歩き、回り廊下のガラス戸をそっと開けて外へ出た。
このうちには玄関らしきものはあるけど、物置になっている。廊下の外側が濡れ縁になっていて、そこから出入りするのだ。
わたしは昼間たっぷり寝たので、シゲさんのあとを追って外へ出た。
ちっぽけな家より広い庭があって、そこに木で作られたしょぼいガレージがあり、ケサブローがいる。真ん中から下がねずみ色で、真ん中から上が白に近いねずみ色だ。目がくりっと丸くて、まぶたに触角みたいなミラーが付いている。
シゲさんはケサブローに「偉い偉い」と声をかけた。そしてケサブローを磨き始めた。磨きながらシゲさんはケサブローに話しかける。
「事故を起こさず東京を往復してくれてお疲れさんだったな」
「長いこと一緒にいてくれてありがとな」
「俺は驚いたよ。マサトが戻ってくるなんてさ」
「しかもシラタマまで連れてきてくれた」
「ありがとな、ケサブロー」
「マサトはいいやつだよなあ」
実はケサブローは時々返事をしていた。
「そうだな、マサトは見どころがある」とか「シラタマは東京にいたよ、あずかりやにね」とかしゃべっていたけど、シゲさんには聞こえない。
あずかりやでものれんやガラスケースがひとりごとを言ってるけど、店主は気づかない。人間って、人間以外の話を聞こうとしないのね。
でもあずかりやの店主は違う。ものたちの気持ちを知ろうとしている。その姿勢が伝わってくるから、ものたちはみんな店主が好きなの。
ああ……わたし、ホームシック! いつになったら戻れるのかな。
そう言えばケサブローの声はあずかりやの前で聞いた声と同じだった。
「おまえさんの席はそこだよ」
「よく戻ってきたね。もうずっとここにいなさい」
そう、あれはケサブローの声だったんだ。
ケサブローはわたしをさらった張本人なのね。シゲさんのためなのね。憎いけど、仕方ない。ものはみんな所有者に忠誠心がある。それがものってものよね。
磨き終えると、シゲさんは缶詰を取り出した。わたしは「にゃあにゃあ(もうごはん?)」と言いながらシゲさんに近づいた。
するとシゲさんは困ったような顔をした。
「シラタマ、ごめんな、こりゃあメシじゃないんだ。舐めたらダメだぞ」
シゲさんは匂いを嗅がせてくれた。強烈な匂いがして、びびって逃げた。気がつくと庭の松の木に登っていた。生まれて初めて木登りってやつをやっちゃった。
上からシゲさんの様子を覗うことにする。
シゲさんはハケのようなものを缶詰に浸して、そのハケでケサブローを撫で始めた。首を捻りながら、一部だけを慎重に撫で、それから少し離れてその箇所を見つめ、また近づいて撫でた。何かを書いているように見える。
それは文字ってやつだろうけど、わたしには読めない。育ててくれた店主も、文字は読めない。店主が読めるのは点字だけで、筆で書いた文字は読めない。店主にできないことをわたしができるわけがない。
わたしは松の枝の上でにゃあにゃあ鳴いた。高く登りすぎて、降りるのが怖くなってしまったのだ。
シゲさんは笑いながら梯子を持ってきて、「これで降りてこい」と言った。梯子はツルツルピカピカしてる。爪が立たない。びびっていると、「仕方ないなあ」とシゲさんは梯子を登って迎えにきてくれた。
シゲさんの肩にしがみついた。怖くて爪を立ててしまったけど、シゲさんは「しっかり捕まってろ」と言って、梯子をそろそろと降りた。
「八代目は鈍いなあ。東京育ちかな」とシゲさんは笑った。
シゲさんが地面に降り立つと、わたしはだっと飛び降りて、すたこら家の中に入った。
朝日が昇って、わたしが居間でごはんを食べていると、マサトが起きてきた。
シゲさんは朝になるとまた足が不自由になっていた。マサトはシゲさんが用意した朝ごはんを食べ終わると、「ごちそうさま、行ってきます」と言って、外へ出た。
シゲさんはニヤニヤしていた。
マサトはすぐに戻ってくると、真っ青な顔をして「じいちゃん! ケサブローが落書きされてる!」と叫んだ。
するとシゲさんは「えっ」というわざとらしい顔をして、足を引きずりながら外へ出た。
マサトは怒っている。
「ケサブローに落書きするなんて。ぼくへの嫌がらせかも。ケサブローって人気だから。お前には乗る資格ないって言いたいのかも」
シゲさんは慌てていた。
「そ……そんなことはないんじゃないか? いいじゃないか。アクセントになって」などと口をモゴモゴさせている。
「だって、見てください、これ。下手くそな字でシロネコマサトって! ぼくが近所の人の買い物を手伝ってお金をもらっているから、それを誰かが悪く思って……」
マサトは目に涙を浮かべて、しゃがみ込んだ。
「ぼく……ぼく……」
マサトはしゃがんだまま涙をぽとぽとと落とした。
シゲさんは慌てて「違う違う、これ書いたの俺だから」と白状した。
「マサトが毎日がんばってくれてるからさ、ケサブローはマサトに引き継いで欲しいと思って……ずっとうちにいて、シラタマと一緒に便利屋をやってくれたらなあって……いずれ正式にケサブローの名義をマサトに変えようと思っているのさ。びっくりさせたくて俺が書いた……ごめんごめん」
そのあと、ガレージでふたりは少しだけ会話をした。
マサトは子どもの頃に吃音があって、友だちにからかわれ、ノートや教科書に落書きをされた過去があり、それを思い出してしまった、と、ぽつんぽつんと話した。
シゲさんは言う。
「この村のみんなはマサトが大好きで、ありがたいと思ってる。じいちゃんは鼻が高い。いい孫を持って。シラタマは幸運を運んでくれる猫だから、一緒にいる限り、マサトをずっと守ってくれるさ」
「じいちゃん」
「字、下手かなあ……俺学校の成績悪かったもんなあ……でもこれでケサブローはお前のものだ。名前書いてあるもんなあ」
シゲさんは笑って、マサトを送り出した。
わたしも「幸運を運ぶ」とか「守ってくれる」なんて言われたものだから、一緒にケサブローに乗って出かけた。シロネコマサトは村の人に好評だ。マサトは「シロネコさん」と呼ばれたり、「マサトくん」と呼ばれたりして、どんどん村の人になっていった。
その日は雨が降っていた。
わたしはうちにいた。マサトは畑仕事がお休みで、町へ映画を見に行くと出かけて行った。シゲさんは「楽しんでおいで」と言って送り出し、ガレージでケサブローの手入れをしていた。シゲさんの足はすっかり良くなり、悪いふりもしなくなった。
ケサブローに「シロネコマサト」と名前が付いてから、便利屋はすっかりマサトの仕事になり、シゲさんの代理じゃなくなった。シゲさんはマサトの運転するケサブローに乗って畑に行き、帰りは便利屋を終えたマサトが畑に迎えにくる。そして一緒に帰る、というわけ。マサトは張り切っていた。それは近くにいるわたしにはよくわかる。
雨の中、お昼近くに、ひとりのおばさんがやってきた。
シゲさんが餅を焼いている時だった。
「とうさん、どういうこと? 他人を家に置いてるっていうじゃない」
「ユキコ……どうした……いきなり」
シゲさんはちょっと嬉しそうだった。
ユキコさんはシゲさんの娘さんらしい。遠くに住んでいるらしくて、何年も会っていなかったということが、会話から伝わってくる。
シゲさんはニコニコしてお茶を出し、焼いた餅をちゃぶ台に置くと、台所へ行って、大根をすりおろし始めた。
「とうさん、何やってるの?」
「大根おろしで餅食うの好きだろ?」
シゲさんはとても機嫌がよかった。「いつの話よ」「いいから座ってください」
「話があります」というユキコさんの言葉を無視して、大根を山のようにすりおろし、白い山に醤油をかけて、お餅の横に、大切なご馳走のように置いた。
「食え、食え」としつこく言うので、ユキコさんはしかたなく箸を取り、餅にたっぷりと大根おろしをのっけて食べ、「うまいか?」と言うシゲさんに「美味しい」と答えていた。
でもユキコさんはご馳走攻撃に怯まない。
「誰よ、マサトって」と針を刺すような言い方をした。
「……」
「久しぶりに同窓会でエミちゃんに会ったら、とうさんが若い男と住んでるって言うじゃない」
「……」
「とうさん、特殊詐欺に引っかかったんじゃない?」
「……」
「土地の権利書とか、渡したんじゃないでしょうね?」
「……」
「何かなくなってない? 今どこにいるの? そいつ」
シゲさんはニコニコ顔がなくなって、しゅーんとしてしまった。
「さっきお隣の西川さんに会ったら、孫のマサトくんにはすっかりお世話になってしまってと言ってたわよ。わたし笑って誤魔化したけど、孫のふりして家に上がり込むなんて、詐欺でしょそれって。西川さんや吉田先生のうちのものも盗んだりしてない? そのマサトってやつ」
シゲさんは「ユキコ」と遮り、「何年も顔を見せんで、久しぶりに来て、そういうことしか言えんのか」と悲しそうな顔をした。
「だって」とユキコさんは声を荒らげた。
「孫はメイサとルミでしょ。マサトなんて孫はいないじゃない!」
シゲさんはフーッと大きくため息をついた。
ユキコさんは仏壇から男の子の写真を取り出すと、シゲさんに見せ、畳み掛けるように言う。
「マサトは兄さんだよ! わたしの兄さん。とうさんの息子。五歳の時に事故で死んだ、とうさんの息子!」
シゲさんは言い返す。
「死んでなかったんだよ。マサトもシラタマも。俺が死んだと思っただけで、実は生きていて、戻ってきたんだ」
ユキコさんは急に涙ぐんだ。
「とうさん……放ったらかしててごめん……病院行こう……おかしいよ……」
シゲさんはやれやれという顔で奥の部屋へ行き、ごそごそやっていたが、しばらくすると書類の束を抱えて、ユキコさんの前に置いた。
「土地と家の権利書だ。あと、多少は証券もある。みんなお前にやるから、俺が死ぬまでは放っておいてくれ」
「とうさん……」
「放っておいてくれ。好きにしたいんだ…… 田舎の親父のことなんぞ忘れろ。親孝行だと思って」
そのあとも少しやりとりがあったけど、複雑でよくわからない。ユキコさんは帰って行った。お餅はもうすっかり固くなってしまって、シゲさんは食べずに捨ててしまった。どんなに古くなっても食べものを捨てることはしない人なのに。
夕方になってマサトは帰ってきた。
シゲさんはほっとした顔で、「腹減っただろう? 何か作るな」と言って台所へ行った。
マサトは「お寿司買ってきた」と言った。
「何? 寿司?」
「じいちゃん、映画代だよって、たくさんお小遣いくれたじゃない。映画ってそんなに高くないから、お釣りで買ってきた」
「寿司だと? 何年ぶりだろう。ウキウキしちゃうなあ。でも寿司買えるほど渡したかなあ」
「回るお寿司やさんだから安いよ。お持ち帰り用があるんだ」
その夜はみんなでお寿司を食べた。
わたしもタイやマグロをもらえた。店主は生のお魚をくれないの。社長にはヨクナイカラって。でも美味しい。ホントに美味しい。
シゲさんはニコニコしながらうまいうまいと食べ、マサトに映画の内容を尋ねた。
マサトは「アニメだよ」とか「戦うやつ」などと言って、説明がうまくなかった。ひょっとしたら見てはいなくて、お金は全部お寿司に使ったのかもしれない。
その夜寝る前にシゲさんは言った。
「明日、もう一回東京へ行ってくれないか」
「え? また?」
「五年経ってないけど、あの箱を引き出したいんだ」
マサトは「あずかりや? いいよ、行ってくる」と言った。
「あのお店、不思議だよね。あずかる仕事なんて。じいちゃんどうして知ってたの?」
「昔、あの商店街に親戚が店を出していてね、あずかりやさんがあるって聞いてたんだ。本当にあるんだなあ」
わたしは興奮し、毛が逆立った。フーッと恐ろしいような息が喉から漏れる。
「なんだ? シラタマ、ご馳走で興奮したか?」
シゲさんたちはゲラゲラ笑っていた。
家に帰れる! やっと帰れる! ドキドキワクワクが止まらない!
シゲさんは食った食ったと言いながら、満足げに寝てしまった。
その夜、わたしはケサブローの助手席で眠った。寝ている間にマサトが出かけちゃうといけないから。ケサブローは明日東京へ行くことを知らないらしく、「珍しいなあ、ここで寝るのは」なんて呑気に話しかけてきた。わたしは「にゃあにゃあ(明日は長距離だからよく休みなさいよ)」と言ったけど、返事はなかった。
猫の言葉は高度すぎて誰にも通じないみたいね。
朝早く、エンジンの音で目覚めた。
マサトは運転席にいた。天気はとても良かった。
わたしは万が一にも雨に降られないよう、助手席にいることにする。
シゲさんは見送りに出てきた。
「運転、気をつけてな」
「はい」
シゲさんは助手席にわたしがいるのを見つけると、手を伸ばして降ろそうとした。わたしがサッと身をよけると、「ほんじゃ、マサトをよろしくな」と呟いた。
シゲさんはマサトに「あずかりやでは箱の中を確認して欲しいんだ」と言った。
「え? 箱を開けるの?」
「ああ、中をひとつひとつ確認して、間違いがないかよーく確かめてくれ」
「何が入ってるの? 目録とかある?」
「ない」
「ぼくが確認してわかるかな」
「いいんだ、確認すれば。とにかく箱を受け取ったら、その場で開けろ。そして見るんだ」
「わかった」
マサトはケサブローを発車させた。
荷台よりずっと快適。雨の心配もない。でもドアがあって首を伸ばさないと外は見えない。退屈。退屈と言えばアレしかない。わたしは眠りに落ちた。
バタンと、ドアが閉まる音で気づいた。
眼を覚ますと、運転席にマサトの姿はない。
着いた?
首を伸ばすと、見えた。
わたしのおうち! あずかりやさん!
懐かしいのれんをくぐって、マサトが店に入ってゆく。
慌てて外へ出ようとしたが窓ガラスが閉まっている。ギャーギャー鳴きながら窓に飛びかかったが、跳ね返された。反対側にも飛びかかったが、跳ね返され、床に転がり落ちた。
どうしよう……外へ出られない。
わたしは激しく鳴き叫び、暴れ回った。開けろ! 開けろ! 開けろ!
ああ……荷台にいれば良かった、助手席で楽をしたからだ。このまま閉じ込められてしまったら、またシゲさんちに運ばれる!
シゲさんは優しい。マサトもいいやつ。マグロも美味。でもわたしはシラタマじゃない。あずかりやの社長だ!
嫌だ、嫌だ、嫌だ─────!
暴れ回りながら、こんなことが過去にもあったような気がした。そうだ、あずけものをしまう部屋に閉じ込められた時。あの時は店主が迎えにきてくれた。
会いたい! 店主に!
うわあああ、ケサブローのばか、ここを開けろ! あんたの甘い言葉に乗っかって、荷台で眠りこけたのがいけなかった! あんたのせい!
ケサブローのバカヤロー、ケサブローのバカヤロー、ケサブローのバカヤロー。
「頼むよ、シラタマでいてくれ」とケサブローはささやく。
うるせー、白い猫ならまた現れる! でもわたしはわたし。特別な、店主にとって特別な白い猫だ。一代きりで、二代も三代もない、唯一無二の社長なんだ!
激しく暴れ回っていると、窓ガラスをコンコンする音がして、見ると、相沢さんが驚いた顔でこちらを見ている。相沢さんは点字翻訳のボランティアで、あずかりやにしょっちゅう来ていて、店主の友だちみたいな人。
「ぎゃあぎゃあぎゃあ(相沢さん、開けて!)」
さすが相沢さん、言葉が通じたみたいで、ドアを開けようとして、開かないとわかると、あずかりやに飛び込み、マサトの腕を掴つかんで引っ張ってくると、鍵を開けさせた。
わたしはダッシュでドアから飛び出した。
「社長!」
ああ、懐かしい店主の声! 次の瞬間には店主の胸に抱かれていた。滅多に外に出ない店主が店の前にいて、飛び出したわたしを受け止めたのだ。
「社長……社長……」
店主は強くわたしを抱きしめた。わたしは店主の胸にしがみついた。ああ、この匂い。微かな石鹸の匂い。いつも清潔を心がけている、優しい青年の匂い。わたしはあえて爪を立てた。店主の胸に、爪を立てた。寂しかったから、もう二度と離れたくないから、わたしのものだという印を店主につけた。
店主は微笑んだ。そして「おかえり」と言った。
店に入った途端、もうすっかり、いつもが戻ってきた。
店の中は変わっていない。ガラスケースもそのまま。心配だから、わたしは店主のそばを離れない。
マサトは「こちらの猫だったんですね、前に来た時、気づかずに乗せたまま戻ってしまって、ごめんなさい」と言った。
「社長がお世話になりました」と店主は言った。
店主があずけものを取りに行く時もわたしは足元にくっついて行った。鍵の部屋には入らずに手前で待って、店主が紙の箱を持って小上がりに戻ると、わたしは店主の膝に乗った。
その様子をマサトはじっと見ていた。
マサトは「箱の中身を開けて、確かめるように言われてて」と言った。
「どうぞ、ここでお開けください。今、飲み物をご用意しますね」
店主は台所へ行って湯を沸かし始めた。もちろんわたしは付きまとった。シゲさんちと違って、どこもかしこもピカピカに磨き込まれている。生臭い匂いもない。清潔大好きな店主なのだ。わたしはここで育ったから、清潔が落ち着くけど、シゲさんちのユルさも嫌いじゃない。今思うと、悪くない場所だった。
店主がお茶を盆に載せて小上がりに戻ると、マサトは開けた箱の前で、しゃくりあげていた。
箱には真っ白な靴下と、Tシャツが入っている。そして手紙。それを読みながらマサトは真っ赤な顔をして涙をぽろぽろ流していた。
店主はそっとお茶を出し、小上がりから降りると、のれんをおろし、ガラス戸を閉めた。
「落ち着くまで、ゆっくりなさってくださいね」
店主はいつものように少し離れて正座をし、わたしは膝の上に乗った。
静かな時間が流れた。落ち着くわあ、ここって。
マサトは「ぼく……実は……盗もうとして……」と呟いた。
店主は黙って聞いている。
「学校辞めちゃって……家にも居場所なくて……何となく家を出て……ヒッチハイクとか……放置自転車を勝手に使って……当てもなく……野宿したり……はじめは自由になって……楽だったんだけど……金も尽きて……そんな時に、すっげえかっこいいオート三輪見つけて」
「オート三輪。ダイハツのミゼットですか? それともマツダ?」
「マツダのK360」
「ケサブローですか。素敵なデザインと聞いています」
「田舎の、誰でも入れる庭の、ドアもないガレージにぽんと置いてあったんです。吸い寄せられるように近づいて、眺めていたんです。鍵も付いてて……ちょっと乗ってみたくて……それに乗ってまた旅を続けようかなと思ったりして……見つめていたら、声をかけられたんです。マサトかって」
「マサト?」
「はい、って思わず返事をしていました。だってぼく、マサトという名前なので」
「知っているひとだったんですか?」
「いいえ……知らない人で、その人、ぼくを孫と勘違いしたみたいで……たぶん同じ名前の。泥棒と思われたくないから、その人に話を合わせて……」
「そう」
「その人、シゲさんって言うんですけど、足を引きずってて、神経痛だって。ちょっと肩を貸してくれないかとか、ゴミ出し手伝ってくれないかって言われて、孫のふりをして、手伝ったんです」
「そう」
「そうしたらその日は泊めてくれて、翌朝、あずかりやさんにこの箱を届けてくれないかと頼まれて、五年分のあずけ賃として二十万と、この箱をあずかって、ここにお届けしたんです。一ヶ月前に」
「箱には何が入っていたんですか?」
「靴下とTシャツ。綺麗な、使ってないような。そして手紙が入っていて。あの……これ……ひとりで受け止めきれなくて……聞いてもらってもいいですか?」
「うかがいます」
マサトは鼻をぐずぐずとさせながら読み始めた。
ケサブローが好きな君へ
たった一日だけど、マサトのふりをしてくれてありがとう。
君にはわからないだろうけど、ジジイにとっては夢のような時間だった。
これは夢のお礼です。封筒の二十万は盗んだお金じゃない。
もらったお金だから堂々と使って、ケサブローと旅をしてきなさい。
そして気が済んだら、ケサブローをガレージに戻してください。
じゃあな。茂三より
追伸 今履いている靴下は捨ててこれに履き替えなさい。
これは死んだ息子のために毎年買っていた靴下とTシャツだ。
読みながらも涙が溢れ、何度もつっかえた。でも、読み終わる頃には優しい顔になって、「ひどい字」とクスリと笑った。
店主は言った。
「あなたはこの箱をあずかって、勝手に開けたり封筒のお金を貰ったりせずに、あずかりやに来てあずけて、お金を払い、シゲさんの元に戻ったんですね」
マサトは頷き、「はい」と答えた。
「あなたが正直な人だとわかって、シゲさん、嬉しかったと思います。そして今日、箱を開けるようにおっしゃったということは、このまま旅に出ていいってことではないでしょうか」
マサトは店主が差し出す清潔なタオルで顔を拭いてから、お茶を飲んだ。ゆっくりと考えて、やがて落ち着いた声で言った。
「ぼく、シゲさんのところに戻ります」
「そうですか」
「マサトっていう名前だって、話します」
「はい」
「今はぼく村で働いているんです。便利屋をやっていて、畑も手伝っています」
「そう」
「シロネコマサトという便利屋さんです。シゲさんちって、白い猫が代々いついて、家の守り神だそうです」
店主は遠慮がちに言った。
「社長は……お渡しできませんが」
マサトはうなずいた。
「居場所は自分で決めるんですね、猫も人も。この子を見てて、そう思いました」
マサトはそう言ってわたしに微笑み、「今までありがとな、シラタマ」と呟いた。
そして帰って行った。最後の最後にこう言い残して。
「ぼくが……白猫の代わりになれたらいいな」
わたしは見送らなかった。
店主の膝の上でケサブローのエンジン音を聞きながら、うとうとしていた。
さよなら、ケサブロー、シゲさん、マサト。
みんなのこと、たぶん明日には忘れちゃう。
それが猫ってものだから。
今日も明日もわたしはあずかりやさんにいて、大好きな店主と同じ空気を吸い続ける。
ここがわたしのおうち。居場所なのだから。
*
本作は、2月4日発売の『猫さえいれば、たいていのことはうまくいく。肉球の巻』(ポプラ文庫)に収録されます。
■ 書籍情報
『猫さえいれば、 たいていのことはうまくいく。肉球の巻』

君さえいれば今日もしあわせ――
猫を愛する作家陣がすべての猫好きに贈る、
猫まみれの大好評アンソロジー第2弾!
■ 著者プロフィール
大山淳子(おおやま・じゅんこ)
東京都生まれ。2006年『三日月夜話』で城戸賞入選。08年『通夜女』で函館港イルミナシオン映画祭シナリオ大賞グランプリ。11年『猫弁 死体の身代金』で第3回TBS・講談社ドラマ原作大賞を受賞し、デビュー。著書に、「猫弁」シリーズのほか、『雪猫』『イーヨくんの結婚生活』『猫は抱くもの』『赤い靴』『通夜女』『犬小屋アットホーム!』など多数。本作は、「あずかりやさん」シリーズのスピンオフ。

