
「悪いなアキ。やっといてくれた? 今度さあ、お礼に……あ。なんだこれ」
「死体だよ、リト」
*
名前は榛原理斗。十四歳。中学二年生。です。
あのさ、オレ死体を見るのは初めてだった。
本物のっていう意味だよ、もちろん。架空の死体ならゴロゴロとまでは言わないまでも、しょっちゅうお目にかかってる。
マンガ読んだってゲームや映画見たって、いろんな死が出てくるよね。
いちおう、こっちは中学生。大人の決めたルールによれば、まだ「おこちゃま」だから、見られるのもおこちゃま仕様の死だけどね。がんばって目を見開いたまま死んだふりしてる役者さんの「死体」レベル。前にタクヤに借りたゾンビドラマは、はらわたぶちまけ脳みそ落っこち系のめっちゃえぐい死体であふれかえってたけど、あれだってしょせんはシリコンと血糊。そもそもゾンビって段階でフィクションだし。
本物の死体を目にするチャンスがなかったわけじゃない。もうちょっとで見るとこだったことなら……えーと、そうだ。ミステリ作家になりたいひとのためのサイトに本物の解剖シーンが出てきたんだっけ。
けど、なんかスルーしちゃった。本物の死体なんか見てなくたって、ミステリ作家にくらいなれるって思って。自分、アキと違って繊細なんで。
子どものころから動物と生活してるアキにとって、死は日常茶飯事なんだよね。やれ、飼い犬が老衰で死んだ、ツバメのヒナが蛇に襲われた、モルモットがカラスにさらわれた、でもって落としてった、聞いてもないのに報告してくる。
こういう話、例えば同じクラスの北野だったら微に入り細にわたってしゃべりまくるとこ。自分はおまえらとは違って闇にあふれてんだぜって言いたいんだろうけど、ただの目立ちたがりだ。
けど、アキはそういうんじゃない。「昨日は牛丼だった」「親がインフルにかかった」「イオンモールで三中のやつらと出くわした」くらいの熱量で、普通に話す。
悲しんでんだかショックを受けてんだか、まさか面白がってんのか。
さっぱりわかんない。
そんなだから、アキってちょっと頭の回転遅くな? って思われてる。すでに学年、いや学校でいちばんデカくて、目つきも悪くて、顔も腕も農作業だの飼ってる動物にやられたりして傷だらけだから、いじめられることはないけど、幼なじみのオレだってそう思うときがある。
だってさ。死体だよ。本物の。なに普通に見せてんだよ。
「……どうしたんだよ、これ」
自分でもびっくりするくらい声がかすれて裏返ってた。やっとのことで声が出た、そんな感じ。
アキは頰っぺたの傷のかさぶたをはがしながら、のんびり答えた。
「暴れたんだよねえ」
え、話は最初から?
どこが最初なんだろ。
オレが生まれる前から、いろいろ始まってる気がすんだよね。
うちの親たちは結婚が決まってすぐ、アキのオヤジさんから土地買って今の家を建てた。正確に言うと、ばあばに建ててもらったんだけどね。
都心まで特急と地下鉄乗り継いで二十分。なのに近くに農園。いい環境だよね。
これだけ環境が良ければ、孫も優秀に育つはず。ってばあばは思ったらしいけど、残念でした。結婚してもなかなか子どもができなくて、やっとオレが生まれたと思ったら、幼稚園、小学校、中学校とお受験全滅だった。苦手なんだよ面接って。
ばあばに言わせると、パパは超の付く優秀な人間なんだって。その息子が中学まで地元の公立に通うなんて、
「ねえ希美さん。いったいどなたのせいかしら」
ばあばは家にやってきては、ママにあてこするわけ。
それでママは、ばあばを避けるためにいろんな委員を買って出た。幼稚園や小学校の保護者会の役員とか、運動会だの地神様のお祭りの幹事とか町内会の委員とか。ありあまってる精力フル活用して働いて、なおご町内のこと聞き込んできてさ。特にアキんちの情報はきめ細かく拾ってくる。
アキんちは農家だ。このあたりの地主のひとりで、土地を切り売りするだけでアキちゃん一生安楽に暮らせるわねって、前にママがちょっと悔しそうに言ってたっけ。
いまでもまあまあ広い畑があって、アキのオヤジさんが季節の野菜を作ってる。キウイ棚の下で烏骨鶏たくさん飼ってて、採れたて卵を求めて遠方からも客がやってくる。アキの家に遊びに行くと、たまにオヤジさんが土産にもってけって卵をくれる。小ぶりなんだけど、目玉焼きにして飯にのっけて醬油かけまわして食うと、びっくりするほどうまい……って、いまはそんな話してる場合じゃなかった。
アキんちっていろいろフクザツなんだ。
うちの親が結婚した頃っていうから、二十年くらい前かな。町内がまだこんな住宅密集地になる前、アキのオヤジさんの最初の奥さんが出ていった。でも数年後にはオヤジさんけろっと再婚して、しばらくすると二度目の奥さんとの間にアキが生まれた。
でも、幼稚園の年少さんのとき、アキの母ちゃんはアキを置いて出ていった。理由は知らない。オヤジさんが不倫してたとか、奥さんに盗癖があったとか、いろんな説があるんだけどね。
それで、アキはオヤジさんに育てられた。酔っぱらってないときのオヤジさんは楽しいひとで、冗談言うし料理もうまい。うちのママ、幼稚園のママ友もみんな、お裁縫を手伝ったりアキの面倒みてやったりしてたよ。
そのお礼だってオヤジさん、師走には杵と臼ともち米持ってきて園庭で餅つきしてくれた。あんときの大根からみ餅はうまかった。粘りがほどよくて、米の香りがぷんとして、こういうの毎日食いたいって言って母親に𠮟られて……って、そんなこと話してる場合でもなかったっけ。
背が高くてがっちりしてて、目が細くて鼻筋が通ってる。よく働いて日に焼けてる。実は資産家で料理上手。
モテるんだよね、オヤジさん。アキの「新しい母ちゃん候補」をオレ五人は知ってるからな。
六人目がやって来たのは、夏休みが始まってすぐだった。アキから電話がかかってきて、さんざん話を聞かされたよ。こっちは休みに入ると同時に「毎年恒例ばあばんちのお泊り」に行かされたんで、本人を見たわけじゃないんだけどね。
いやもう、ばあばんちの居心地ってサイアクでさ。
湾岸にあるリバーサイドのマンションのペントハウスに住んでるのがご自慢で、まあ、五階建てのわりにいい眺めではあるんだけど。
ペット絶対禁止で、その代わり敷地内はちょっとした林くらい樹が植えられて、手入れされてる。
でもって庭が見えるでっかいソファに座らされて、同じマンションに住んでるばあばの娘の娘「瑤子さん」は有名私立学園に通ってて優秀なんだ、って説教と自慢を練り合わせたごたくを聞かされんだよね。毎年毎日その繰り返し。よく飽きないと思うよ。
その優秀な瑤子さんは、ばあばにそっくり。チビでみっともなくて底意地が悪くて。
オレらが小さい頃なんかさ。瑤子さんはばあばが見てないとこでこっちをつねったり殴ったりして、すました顔で離れてくんだ。
泣きながら言いつけても、そんなことしてません、ってばあばの目を見て答えるもんだから、こっちが噓つきにされる。優秀な従姉の足を引っ張る根性悪とか言われるんだぜ、あのチビのクソばばあに。違った、クソばあばに。
だけど中学に入るころには、頑張って鍛えたおかげで我ながら体格もがっちりしてきたんで、黙ってやられてることないかって思って、去年の夏……ってまあ、そんなことも、いまはどうでもいいか。
なんの話だっけ。──そうそう。今年の夏休みもいつも通り、ばあばんちにお泊りすることになったんだ。さすがに中止かなって期待してたんだけどね。
お泊りはいつも二週間くらい。これが長いのなんの。
最初の三日間が特に長い。テレビもゲームもなし。やっていいのは読書とばあばの説教を聞くこと。高級レストランにエスコートすること。それだけ。あんまりヒマすぎて夏休みの宿題に没頭しちゃう。おかげではかどるけどね。
それでも今年はいつもとは違ってた。
なんだかんだ言ったって、ばあばもオレをかわいがってないわけじゃない。説教のあとには小遣いもくれたし、服も買ってくれたし。シェ・ラボールのシュー・ア・ラ・クレームを冷蔵庫にいれといてくれるし。あれ一個千二百円すんだぜ。うちじゃ食べられない。
でも今年はそんなのなにもなし。ばあば、ソファに座り込んで、ステッキに顎乗せたまま動かなくて。前より痩せたし、死ぬに死ねないミイラみたい。ディナーだってお出かけせず、ウーバーだぜ。勉強するふりしてスマホゲームしてたって気づきもしない。どう相手したらいいかもわかんない。
地獄みたいな五日目に、アキから電話がかかってきた。
スマホ持ってベランダに出た。風はあるけど太陽が出て、今日もまた気温はうなぎのぼり。ベランダから手を伸ばせば届きそうなほど近くに茂ってるヤマモモの木のすきまから川と、向こう岸の埋め立て地に作られた公園と、猛暑日に遊歩道を走るクレージーなジョガー連中がよく見える。
「聞いてくれよリト。今度の母ちゃん、猫つれてきたんだよ」
なんの用かと思ったら、アキのやつ、のんびり話し始めた。
「全体が暗いグレーでさ。しっぽが長くて目が青くて、〈HANA〉って刻印したブルーの首輪してるんだ。すばしっこくて、木登りが得意で。うちの庭の真ん中、作業小屋の脇に欅の大木があるだろ。スルスル上まで登っていって、そっからしょんべんするんだ」
「へえ」
「目と同じ色の首輪ってオシャレだろ。でも、ただのオシャレじゃないんだって。アキも令和の若者なんだから気づけよって。どういうことかわかんないけど。リトにはわかる?」
「いや」
興味ないし。って言いかけたんだけど、猫連れってとこがちょっと気になった。
アキもアキのオヤジさんも生き物好きなんだよね。実際、すでにアキがこうして電話してきてるくらい、その猫にハマってるわけだろ。
「その新しい母ちゃん候補って、オヤジさんとどこで知り合ったんだ?」
「こないだ湾岸近くの公園で東京農産物祭ってのやったんだよ。そこにうちの農園の卵を出品することになってさ」
あらかじめネットで宣伝してたこともあって、開店したころには行列ができてたって、訊いてもないのにアキはぺらぺら説明した。
あっという間に完売して、帰り支度をしていたら、つっかけはいた女がふらっと現れて、卵はもうないのって聞いてきたんだって。
それから話がはずんで、オヤジさんとその女は仲良くなった。オヤジさん、女に名刺渡して、好きなときに遊びに来いって言ったそうだけど、そんなことより、
「つっかけ? じゃあその湾岸の公園の近所の女なんだ」
「たぶんそうじゃね。なんだよリト、心あたりでもあんの?」
「バーカ。そんなわけないって」
突っぱねたけど、アキは勝手にしゃべり続けた。いつもは邪険にしてやるとしょんぼり引き下がるんだけどさ。よっぽど六人目──ナンバー・シックス──てか、たぶんその猫に、コーフンしてるらしいわ。
夏の間、アキのオヤジさんは夜中過ぎから働いて明け方には収穫を終える。炎天下に収穫すると、葉物野菜なんかしなびちゃうから。
採った野菜はコンテナに入れて、まず母屋の横にある作業小屋に運び込む。セメント練って、コンクリートブロック積み上げて、オヤジさんが自力で作った小屋なんだけどね。
そこで野菜を袋詰めして、値段シール貼って、午前中に地元のJAとか、近所のスーパーの地産野菜コーナーに出荷する。残った形の悪い野菜は門の前の掘立小屋──農産物直売所に出す。形が悪いだけで味はいいんだよ。ナスなんか同じ大きさに切って揚げて、少し辛めのひき肉カレーに入れると、とろっと味が染みて、飯がいくらあっても足りない……って、そんな話をしてる場合でもなかった。
出荷作業が終わると、もう昼で、オヤジさんはぶっ倒れて寝てしまう。手伝ってたアキも一緒に寝るつもりが、猫を肩にのせたナンバー・シックスがスーツケース転がしてやってきたんだって。
それで、アキに「よっ」って手を挙げて、ちょっと預かってって猫渡してさ。
なにを聞いても生返事で、無断で家に上がり込んで、見て回って、昔は客間だった八畳間に座り込んで、
「アタシここにするわ」
そう言って電子タバコくわえてスーツケースの中身広げ始めたんだってさ。
押しかけ女房には慣れてるアキのオヤジさんも、さすがにびっくりしたらしい。目が覚めたら、名刺渡しただけの女がもう十年も住んでるヌシみたいな顔で居座ってんだからね。
そしたらその女、うふふ、と笑ってオヤジさんにスマホを見せた。スマホの画面にはアキの顔がでかでかと映ってたそうだ。
で、ナンバー・シックスは言った。この猫はすばしっこくて好奇心旺盛で外出が好きで甘え上手。いろんなとこにもぐりこんで、いろんな絵や音なんか拾ってくる、面白いでしょって。
「どういう意味かわかるか、リト」
「さあ」
「オレにもさっぱり。でも、オヤジは違ったみたい。オレが抱いてた猫ひったくって高い高いしてやってさ。それから女と一緒にスマホ見て、ゲタゲタ笑ってんだ」
あのね。さあ、とは言ったけど、バカでもわかるよな。ナンバー・シックスが猫の首輪に隠しカメラ仕込んでんだろ。アキのオヤジもそれを知って、面白がってる。
ってそれ、ヤバくない?
いや、だって。相手が猫なら誰も──猫嫌いは別として──警戒しない。窓からのぞかれたって部屋に入り込まれたって、なんだ猫か、ですんじゃうよね。
かわいくって甘え上手。猫ってある意味、最強のスパイじゃね?
それが町内をうろうろするんだよ。
町内会の役員の息子だからってわけじゃないけど、すっげえ気になる。
「あ、あのさ、アキ。それじゃナンバー・シックス……新しい母ちゃん候補はいまも家にいるんだ」
「うん。好きなだけいていいってオヤジが言ったら、ホントに住むみたい。ずっと猫に住みやすいとこ探してたんだって。この農園なら猫もハッピーって喜んでた」
「なんだそれ」
「それがさあ」
アキは深刻そうに言った。
「あのひと、湾岸の部屋でタローって名前の猫も飼ってたんだって。おとなしくて賢い猫で、外に出ないと気が済まないもう一匹と違って基本は部屋にいたんだけどね。すごくたまに、外に出せって聞かないときがあって。窓開けてやると出て行って、ちょっとだけ外をお散歩して戻ってくる。けど、ある日帰ってこなくなって、必死に捜したら、川岸近くに浮いてたんだって。杖振り上げたばあさんが猫を追いかけまわしてるの見た人がいたっていうから、そのばあさんに殴り殺されたのかもな」
「へえ」
喉に物が詰まったみたいな気分になった。どこにも逃げ場がないような、息苦しい感じ。
たまにやってくるんだよな、これ。
話を変えよう。
「あのさ、その母ちゃん候補、そもそもなにやってる女なんだよ。湾岸のマンションに住んでたんなら金は持ってんだろうけど、なんで食ってんの?」
「さあ。自由業だって言ってたけど、なにやってるかまでは知らない。働いてる感じはまったくないけど。あのひとさあ、これまでの母ちゃん候補と違って、掃除も洗濯も料理もしない。髪もぼっさぼさですっぴんのまんま。スマホいじって、たまに作業小屋でオヤジの手伝いして、タバコ吸ってさ。あ、猫の面倒はみてるけど」
「それでオヤジさんは平気なのか」
いろんな意味をこめて聞いたんだけど、アキは笑った。
「オヤジ? 張り切って飯作ってる。リトはオヤジのぬか漬けチャーハン食ったことないだろ。古漬けを刻んで炒めて、自分で塩して自分で焼いて自分でそぼろにしたサバや刻みネギとチャーハンにするんだ。見た目地味だけどすっげえうまいんだぜ。みんなで絶賛してお代わりして、けさなんか飯が三合半消えたよ」
反射的に喉が鳴っちまった。ばあばの作る朝食はおトーストと、お紅茶と、ゆで卵だもんな。足りないっての。
「なんかその女と猫、寄生虫みたいだな。いまに農園丸まる食いつくされちまうんじゃね」
嫌みを並べてから、うわ、オレばあばみたいなこと言ってるって思ったんだけど、アキは気にしなかった。
「それはないよ。ハナちゃんもシイさんも食べるに困ってない。ケチでもないよ。ふたり分の家賃と生活費おさめるよって、すっごい分厚い財布出してきたんだけど、オヤジが断ったんだ」
あらら。いよいよやばくないか。
働いてもないのに金を、それもいまどき現金をたんまり持ってる。それって猫を使って集めた情報を金に換えてるってことなんじゃ?
考えすぎかなあ。
「その、シイさんだっけ。アキは気に入ってるみたいだな」
「そうでもないよ」
アキは急に浮かない口調になった。
「すっかり落ち着いちゃってさ。家中が自分たちのもんだと思ってるみたいで、どこにでも顔を出すんだ。いつも見られてるみたいで落ち着かないよ。けさだって、目が覚めたら目の前に顔があるんだ、心臓止まるかと思った」
思春期の中学生男子の部屋に入ってきて、それ? やっぱかなりヤバい女だよな。
「なあ、早く戻って来いよリト。ハナちゃんもシイさんも紹介するから」
「オレだって早く帰りたいけど」
言いかけて気づいたら、家の中からばあばがこっちを見ていた。
杖を握りしめて、じいっと。
アキとの電話のあと、ママにメッセージを送った。アキの家に新しい母ちゃん候補が来たってことだけ。猫の首輪のことまで伝えると大騒ぎになりそうだからやめといた。
二日後、ばあばの家のダイニングテーブルで夏休みの課題を片づけてると、返信がきた。
ママ、アキの家に行ってきたそうだ。「下品な女が縁側にいた」だって。
つまりシイさんって、若くてセクシーな女なんだな。
ホント言うとうちのママも、けっこういけてると思う。いつも髪をきれいに染めて、ちゃんとメイクもして、どこに出してもおかしくないキレイ目な格好してる。町内会では会議を仕切って、用事をばんばん片づけて、頼りにされてるし。アキのオヤジさんも、うちのママを奥さんにすれば……あ。
やだな。ひとりごとだよ、ひとりごと。
しばらくしてアキからまた電話があった。
「リトのママがうちに来たよ」
アキは相変わらずのんびり言った。
「町内会のSNSに変な噂が書き込まれたんだよ。うちの新しい母ちゃんがロマンス詐欺師だとかなんとか。その件でオヤジとしゃべってった」
若くてセクシーで分厚い財布持ってる女がうろうろしてれば、いずれ誰かがなんか言い出すだろうとは思ってたけど。書き込み? 珍しい。そもそもあのSNS見てるヤツなんて町内会の役員くらい……まさか。
いやいや、そんなわけないって。
「へえ。ナンバー・シックスってロマンス詐欺やってんだ。すげえな」
「違う。やってないって」
アキはむきになった。
「あのひと、そんなことしないよ。昔、役者だったって言ってたけど、我ながらてんで大根で芽が出なかったって笑ってたよ。ロマンス詐欺を成功させられるくらいの演技力があったら役者やめてないってさ。オヤジも言ってた。ふてぶてしい女だけど、人をだませるほど頭よくないって。リトママ、それ聞いて吹き出してた」
オレも思わず笑っちまった。アキも一緒になって笑い出したんだけど、急にまじめになった。
「リトママから聞いたよ。従姉がもう長いこと入院してんだって? それであんまりおばあちゃんをひとりにしておきたくないから、休みの間はリトが泊りに行ってるんだって。その、ご愁傷さまです」
「……死んでないけど」
「うん知ってる。今日はお見舞いに行くんだってね。なんか悪かったな」
「あ? なにがだよ」
自然と口調がつっけんどんになった。忘れてた。今日は父親が来るんだった。
うわ、サイアク。
「従姉がそんな重態なのに、リトはいつ帰ってくるんだ、なんてリトママに聞いたりして。大丈夫なのか」
「なにが」
「だから従姉。事故だって?」
その話はしたくないって突っぱねようと思ったのに、父親が来ることで頭がいっぱいになって、気づいたらするっと説明してた。
「ちょうど一年前、ばあばんちのマンションのベランダから落ちたんだ。その……なんかに気を取られて手すりから身を乗り出して。暑い日だったからめまいを起こしたのかも。よくわかんないけど」
「よくわかんないって、事故のときリトもいたんだろ」
「うん、まあ。ばあばは入れ歯が欠けて歯医者に行ってた。そのあと瑤子さん……従姉がばあばの部屋に来てさ。でもオレ、事故の瞬間は見てないんだ。なんかベランダで声がしたなと思って顔あげたら、いたはずの瑤子さんがいなくなってて」
あんときのこと思い出すと吐き気がする。
だって、手すりから身を乗り出して下見たら、瑤子さんの体が木の上にあって、そんでもぞもぞ動いてんだぜ? あれで、もし瑤子さんが死んでたら、オレ本物の死体を見ちゃうとこだった。
ベランダのすぐ近くまで枝を伸ばしてたヤマモモ以外にも、きんもくせいだの椿だのトベラだのって、このマンション意外とショクサイが豊かだなって消防のひとが言ってたっけ。瑤子さんの体はその木のどれかの上に落ち、おかげで生き延びた。
「通りかかった人が救急車呼んでくれて、すぐ病院に運ばれて一命はとりとめたけど、頭打ってて、それきり意識が戻ってないんだ。これから先も戻ってくる保証はないって医者に言われたんだって。ここだけの話、大変みたいだよ」
「そりゃ大変だよな。家族も気が休まる暇なくて」
アキは気の毒そうに言ったけど、そういうこっちゃなくて、
「てか金な。入院費とか転院費とか差額ベッド代とかあわせて、この一年で二千万くらいかかってるんだって」
「にせんま……すげえ。ホントに大変だ」
「うん」
ばあばは金持ちだけど、じいじの遺した貯金が何億かあるだけで、アキんとこみたいに切り売りできる土地があるわけじゃないんだよね。
だから事故が起きたときは、ばあば、
「瑤子のためならなんでもする、全財産使い切ってもかまわない」
って言ってたけど、瑤子さんを一泊五万円の特別室に入れたのは後悔してるんじゃないかな。啓子叔母さん──瑤子さんの母親に言われて瑤子さんを房総の病院に転院させたのも、その病院の近所に叔母さんの拠点になるリゾートマンション買ってやったのも、桂叔父さんに──瑤子さんパパのことだけど、ねだられて新車に買い換えてやったのもさ。娘の見舞いに必要なんだって叔父さん言ってたそうだけど、高級スポーツカーが必要かぁ?
最近ばあばがあんまり金を使わないのは、貯金がものすごい勢いでがた減りしてるからかもしれない。
この先何年、瑤子さんが入院するのかわかんないし。
あ、そうか。
「それでばあば、ストレスたまって猫を追いまわしたのかな」
口にしてからしまったと思ったけど、遅かった。アキにはちゃんと聞こえてたんだ。
「え、猫って?」
「いや、かんけーない」
「だっていまリト、猫を追いまわしたって言ったじゃん」
「そうだっけ」
「言ったよ」
アキはしつこかった。逃げきれなくて、しゃべっちゃった。こういうの「うたった」って言うんだろ。刑事ドラマの再放送で見たけど……へえ。昔のスラングなんだ。
「たいしたことじゃないよ。瑤子さんがベランダから落ちたとき、ベランダの前の木に猫がいたらしいんだ。瑤子さんが手すりから身を乗り出したのは、その猫を見たかったからなんじゃないかって」
「それじゃリトのばあちゃんは孫が大怪我したのが猫のせいだと思って、それで杖で猫殴って川に捨てたのか」
はあ……。
だから言いたくなかったんだよ。瑤子さんが事故直前に気を取られたのが猫だって。
アキみたいな単細胞は、湾岸のマンションで起きた瑤子さんの事故と、そのマンションに杖ついたばあばがいることと、湾岸に住んでたシイさんの猫が杖振りかざした年寄りに追いかけられてたことと、最後は川に浮いてたこと、全部を結びつけるんじゃないかと思ったんだ。
思った通りじゃないか。
湾岸たって広いよな。たまたまうちのばあばが住んでたマンションの近くに住んでた女が、たまたまオレの地元のダチんちに転がり込んだ、なんて偶然がすぎるだろ。
自分とこに集まった情報を、ミソもクソも一緒くたにすんなっての。
え? オレもそうしてたって? ばあばが猫を追いまわした、そう言ったって。
……言われてみれば。
でもオレはさ、頭の中で考えてみただけだよ。つい口にだしちゃったけど。
身内がちょっと考えてみるのと、第三者が思い込むのとは次元が違うだろ。
「あのさアキ。今の話、今度の母ちゃん候補にするなよ」
とにかくアキを黙らせとかなきゃならない。オレはアキを説得した。
「なんで?」
「今度の母ちゃん候補の猫を殺したのが、うちのばあばだって証拠はない。だろ? なのにばあばに猫殺しの汚名を着せるのか。それってひどくないか」
「猫を殺すほうがひどいよ」
「そうだけど。それはうちのばあばが猫殺しだったらの話だろ」
「だって、リトの従姉は猫のせいで大怪我したんだろ。リトのばあちゃんが恨むのは当然じゃないか。つまり、リトのばあちゃんには動機がある」
ほら。アキのバカ、どこまでも先走るんだよ。
そもそも瑤子さんの事故が猫のせいって言えると思う?
ベランダに立ってた瑤子さんが、(たぶん)「猫が」と言った、直後に(たぶん)手すりから身を乗り出して、(たぶん)バランス崩して、転落した。
あのね、「猫が」と言ったかどうかも確かじゃないんだよ。室内にいたオレにそう聞こえただけ。猫がホントにいたのかどうかもわかんないし、ホントだとしても、猫にしてみればたんに敷地内の木にいただけじゃん。
え。
いたの猫? ヤマモモの木に。マジで?
なんで知ってんの。事故の報告書?
消防の人が、ヤマモモで猫の毛とかしょんべんとかの痕跡を見つけたって?
そうなんだ……。
いや別に。オレは事情を聴かれて話したけど。そうか。いたんだ猫。ホントに。
え、顔色? うん、ちょっと疲れたかな……。
いやもう、大丈夫。話の続き、できるから。
どこまで話したっけ。ああ、瑤子さんの事故と猫の話ね。
アキしつこかったよ。うちのばあばの猫殺し説。
ばあばの神経痛を少しおおげさにしたうえで、後期高齢者が猫を追いまわすなんてありえないって言ってやったんだけどさ。
だって猫だぜ? 逃げまわるのを追っかけて殴り殺すなんて、オレにもできない。
そしたらアキが、オレはできるけど、だってさ。
付き合いきれないから、父親が来るんでやることあって、と通話を終えた。ちょっと不安だったけど。
なんで不安だったかって? アキを説得しきれたかわかんなかったから。ナンバー・シックスにばあばのことしゃべっちまいそうだと思って。
まあそれは、確かに。しゃべられたっていいけど。それでナンバー・シックスが腹立ててばあばんとこに怒鳴り込んだとしたって、オレもママも痛くもかゆくもない。ばあばが猫殺しなら怒鳴られて当然だし、違うんなら逆に訴えることだってできる。
でもそのときは面倒だった。猫の話がまたクローズアップされるのは……。
落ち着かず部屋の中うろうろしてたら、父親がリムジンに乗ってやってきた。黒塗りのヤツ。
言っちゃなんだけど、ああいう車の後部座席にふんぞり返ってると、余計チビに見えるよな。父親もばあばも。
父親、オレの顔見るなり「勉強してるか」だって。
もう何年も父親の口からはそれ以外の言葉なんか、聞いたことない。
こっちも期待するのやめたから、いいんだけど。
助手席に座ったオレとの会話はそれで終わり。あとはばあばのマンションを出発して、アクアライン通って館山自動車道を南下していく間中、父親はオレには見向きもせずに、ずーっとばあばと話してた。
あ、ちょっと違うな。しゃべってたのはほとんど父親で、ばあばはあんまり口をきかなかった。
なにを話してたかって? 金だよ。
今の世界経済の潮流がどうしたの、地政学リスクがどうのって、日経新聞の要約みたいなことを混ぜ込んでもったいつけてたけど、要約すると、ばあばが瑤子さんに金をつぎ込みすぎてるって話なんだよな。
それと、桂叔父さんに言われてずいぶん投資してるみたいだけど、オレに相談してくれればいいのに、だって。
「そんなこと言ったって、佑斗。おまえにも話すなって桂さんが言うもんだから」
ばあばがぼそぼそ答えると、父親がまた瑤子さんの治療費に話を戻す。ばあばが答えて、父親が桂叔父さんの投資の話に戻る。
オレ外の景色を見ながらこの金の話、いつ終わるか待ってたんだけど、結局リムジンが目的地に到着するまでこの調子だった。
この病院に来るのは初めてだった。
海と富士山が見える崖の上にあって、潮騒っていうの? ずっと波の音が聞こえてる。
車止めんとこに啓子叔母さんが迎えに来てた。
叔母さん、ばあばにあいさつすると父親と話し出し、ふたりはオレらおいてけぼりにして、さっさと行っちゃった。
長いこと車に乗って疲れたのか、ばあばは左手で杖ついて、右手でオレの肩つかんで、ゆっくり病室に行った。
広い病室だった。大きな窓があって、風がカーテンをはためかせてた。この部屋のコーディネートは啓子叔母さんがやった。瑤子さんが自分の部屋にいる気分になるように、ベッドカバーもカーテンもラグもソファも新しく作らせたんだって。
病室では桂叔父さんが待ってた。ハデな青い麻のジャケット着て、シミ一つない白いパンツはいて、いつもみたいにニヤニヤ笑ってた。
ベッドの上の瑤子さんは今は酸素マスクもしてなくて、頭に包帯も巻いてなくて、ただ寝てるだけみたいだった。ばあばは桂叔父さんがベッド脇に引いた椅子に座って、瑤子さんの手を握って、さすり始めた。
なんかさあ、見てらんないよ。
「瑤子の治療費だのなんだの、このうえまだおふくろに払わせる気か」
瑤子さんから気をそらしたら、今度は父親の声が耳に飛び込んできた。桂叔父さんと部屋の隅に行って、また金の話してるんだ。
「お義母さんが出すって言うんですよ。止めたって聞かないんだから」
桂叔父さんがへらへら言った。父親の口調が厳しくなった。
「止めた? 逆だろう。瑤子の治療費を口実に投資を勧めたそうじゃないか」
「勧めましたよ。儲かると思ったんでね」
「儲かったのか」
「投資にはリスクがつきものなんですよ、お義兄さん」
「リスク? アンタが勧めた株の専門家とやらとはこのところ連絡がつかないそうじゃないか」
桂叔父さんの顔がこわばった。
「なんだ、お義母さんしゃべっちゃったんですか。マズいな。先生からは高度な情報を駆使しての新しい投資形態だから、選ばれた人以外には口外無用と念押しされてるはずなんですが」
「バカか。典型的な詐欺師の口上じゃないか」
父親が桂叔父さんに詰め寄った。叔父さんは父親の手を払いのけて、
「そんなわけないでしょ。こっちだってバカにならない額投資してるんですからね。先生にはあらかじめ、情報処理に時間がかかるから連絡が取れないこともあるって説明を受けてますから。お年寄りはせっかちですからね、待てないんでしょうけど」
「おふくろの話だと二週間とれてないそうだ」
「そんなはずは……」
桂叔父さんはスマホを出していろいろ調べ始めたんだけど、だんだん顔色が悪くなってきた。それはもう、面白いくらいに。父親が言った。
「明日にでもおふくろのメインバンクの担当者と話をするがね。これ以上の投資はやめさせるつもりだ。それにもし詐欺だった場合、きみに責任をとってもらうからな。全額返せとは言わないが、今後、ここでの瑤子の滞在費は自分たちで払うようにはからってもらう」
「佑斗兄さん」
啓子叔母さんが声をあげた。父親は叔母さんを冷たく見て、
「しかたないだろ。おふくろの老後の資金だって担保しなきゃならないんだから」
「待ってくださいよ、お義兄さん。お義母さんも瑤子のことで心痛がひどくて、参ってるみたいですからね。ささいな遅延を騒いでるだけですよ。だいたい」
桂叔父さんの視線が、急にオレに向けられた。
「そもそも瑤子がこんな目にあわされなけりゃ、こっちだってお義母さんに治療費の援助などしてもらわずにすんだんですけどね」
「……なんだって?」
「だからさぁ」
叔父さんは急にバカ丁寧だった口調をあらためた。
「瑤子がベランダから落ちたのは、ホントに事故だったのかって話だよ。あのとき近くにいたのはリトだけ。なにが起きたのか他に見てたヤツはいないんだ。なあリト。おまえ、うちの瑤子嫌ってたろ」
桂叔父さんの目がオレに突き刺さった。喉の奥に塊ができた。息が苦しい。
「ムリもないよなあ。瑤子は幼稚園から有名私立学園で、一方おまえはずーっとお受験全滅のできそこないだもんな。瑤子、陰でおまえのことイジメてたんだろ。知ってるよ。おまえが泣きべそかいてたって瑤子笑ってた。あの日おまえ、仕返しのチャンスが来たと思ったんじゃないのか」
なにか言わなくちゃ。違う、そうじゃない。
でも声が出ない。
「ばあばは出かけてる。ベランダに瑤子が立ってて誰も見てない。小柄な瑤子の脚を抱えて手すりから放り出すなんて簡単なことだ。放り出して、すぐに身を伏せて、ソファの陰にでも隠れて、それからいま気がつきましたって顔でベランダに出てきて、地上を見下ろして、瑤子を見た──ふりをする。それで、あとから『猫が』と瑤子が言ったように聞こえましたなんて、瑤子が手すりから身を乗り出してもおかしくない状況になるような話もしたわけだ。ペット絶対禁止のマンションの敷地内に猫がいた? 笑わせんじゃないよ」
みんながオレを見てる。でも声が出ない。
「残念だったなリト。瑤子が死ななくて。おかげでおまえが受け継ぐはずの財産が瑤子に吸い取られてんだもんな。でも、安心するなよ。これですむと思うな人殺し」
心臓がバクバク音を立てた。目の前が暗くなってきた。
「やめろ」
父親が桂叔父さんの胸倉をつかんだ。叔父さん、首だけ捻じ曲げてオレから目を離さずに笑った。
「前から思ってたんですけど、リトってホントにお義兄さんの息子なんですかね。それにしちゃできが悪すぎやしませんか。お義兄さんとこ、結婚してからもなかなか子どもができなかったんでしょ。もしかしてお義姉さん……」
父親が桂叔父さんを殴った。叔父さんは鼻血をまき散らしながら床に尻もちをついた。啓子叔母さんが悲鳴をあげた。
「兄さんやめて。桂も変なこと言わないでよ。リトは佑斗兄さんの息子だわ。中学生のときの兄さんにそっくりよ。あの頃は兄さんも勉強できなくて、高校だってレベルより上の私立に入れるのにお父さんもお母さんもずいぶんお金使ったんだから」
父親の顔が真っ赤になった。叔父さんは手で鼻をおさえて、面白そうに笑った。
「なんだ。お義母さん、お義兄さんは超優秀だって自慢してたのに、なに裏口? ヤバいんじゃないですかそれ。表ざたになったら」
義兄さんも、こっちの金の使い道や投資について、とやかく言わないほうが身のためかもしれませんね、と桂叔父さんは続けた。ホントに嬉しそうに。
だけど、そのときばあばが瑤子さんの手をベッドに戻して言ったんだ。
「瑤子もだけどね」
「はい?」
まだニヤニヤしながら叔父さんが聞き返した。ばあばは言った。
「瑤子もだって言ったんだよ。あの幼稚園に入れるのにも、小学校や中学校に進学するときも、ずいぶんかかったよ。リトにもしようって言ったんだけど、佑斗にも希美さんにも毎回断られた。そういうのリトの人生の重荷になるからって」
ばあばんちに戻ったときには、もう夜だった。
届けられたディナーをばあばと、父親と、オレと三人で食べて、それぞれの部屋に戻った。
ひとりになって、やっと息ができるようになった。いろいろフクザツな気分でさ。なにをどう考えていいんだか脳みそ爆発しそうだった。
怖かった。瑤子さんを投げ落としたと責められたこと。
怖くて怖くて、でもなんだかちょっとホッとしたんだ。
だって。桂叔父さんが言ったこと……ホントだから。
いや、違うよ。オレやってない。瑤子さんを投げ落としたりしてない。
たぶん。
でも一年前、あの事故の直前そんなこと考えた。こいつ、ベランダから放り出してやろうかなって。いまのオレなら簡単にできる、瑤子さんは相変わらずチビだし……オレも背は伸びないけど、鍛えたんで。
そう考えて、それだけでなんかスッキリしてさ。ベランダで瑤子さんが『猫が』って言ったような気がしたけど、たいして気にもしないでリビングでつまんない動画見てたんだ。
そしたらどすんって物音と悲鳴みたいな声がして、振り向いたら瑤子さんの姿がなくて。手すりから身を乗り出して下を見たら……。
あのあと警察の人にも、戻ってきたばあばにも、啓子叔母さんや親たちにも話を聞かれた。みんな優しかった。いちばんショックなのは近くにいたリトだろう、でもあれは事故だ、おまえのせいじゃないから気にするなって言ってくれた。
だけど。
あれ以来、オレずっと心配し続けてた。
ひょっとしてオレ覚えてないだけで、瑤子さんのこと投げ落としちゃったんじゃないのか。みんなにもやったと思われてるんじゃないかって。
これですむと思うな人殺し。
はっきり面と向かってそう言われて、でも、だからなんだかホッとしたんだ。かいちゃいけないけどかゆい場所、刺されたみたいに。
だってさ。オレも思ってた。オレってホントに父親の……榛原佑斗の息子なのかって。
できは悪いし、父親はまともに口きいてくれないし。それにアキのオヤジさんとママ仲いいし。
ふたりはオレが生まれる前からの知り合いだろ。ママはアキのオヤジさんのことずいぶん気にしてる。アキのママが出ていったのも、ことによるとママとオヤジさんの間になにかあったからって考えることもできるよな。今回だってママ、ナンバー・シックスのこと気にしてるみたいだし。
それにさ。オレ、アキのオヤジさんみたいな父親が欲しいって思ってた。背が高くてがっちりしてて、目が細くて鼻筋が通ってる。働き者で日に焼けてる。実は資産家で料理上手。
なによりずっと一緒にいてくれる。ちゃんと話をしてくれる。
でもさ。もしアキのオヤジさんがオレの実の父親だったりしたら、オレってなに。
ニセモノでまがいもの。父親やばあばにとっちゃ寄生虫。ていうかカッコウ。
カッコウだったら、もともとの巣の持ち主のヒナを巣から放り出すの、当たり前だよな。
ときどき夢を見た。ベランダに瑤子さんが立ってる。オレは背をかがめて忍び寄り、瑤子さんの脚をつかんで勢いよく立ち上がる。すうっと体が軽くなって、でも腹のあたりから空気が抜けてくような変な気分で目が覚める。天井クロスを見ながら、ああ夢だった、よかったと思う。
でも、その爽快な気分は続かない。ホントに夢かな。押し殺した記憶が出てきてるだけなんじゃないかな。そんなふうに自分を疑ってしまうんだ。
あの瞬間なにがあったか、誰が知る? 誰も知らないよな。
いや……。
そうだ。いたじゃん。なにがあったか見てた──かもしれない──ヤツが。
猫。
さっき刑事さんに教えてもらうまで、オレ猫がヤマモモの木にいたかどうか知らなかった。
だからそのときは思ったんだ。猫がいたって証明できたらどうかなって。
アキが言ってたじゃないか。ハナちゃんはアキんちの欅の大木に登ってしょんべんしてたって。そういう痕跡があれば、瑤子さんの「猫が」は空耳じゃなかったことになるし、となると、あれはマジで事故だったってことにならない?
もちろん、絶対的な証明にはならない。猫の痕跡があっただけじゃあね。だけど、いまはDNA解析も一件五千円だろ。一年たってるってのが問題だけど、あそこらへんの木によじ登って綿棒であたりをごしごしやってみたら、案外アタリが出るかもしれない。
少なくとも、なんにもしないで押しつぶされそうになってるよりマシだ。
オレはアキに連絡した。そんで眠そうに出たヤツに頼んだんだ。
「ハナちゃんを捕まえといてくれないかな」
「は? なんで」
アキはあくびまじりに言った。
「なんでかっていうのは、捕まえてくれたら説明する。必要なんだよハナちゃんが」
「すごいこと言うなリト」
電話の向こうでアキは仰天してた。オレは唇を舐めた。
「なんでだよ。オレならできるって言ったじゃん」
「えーっ。言ったっけ」
「言ったよ」
「言った?」
「言いました」
「言ったとして……捕まえてどうすんの」
「麻袋にでも入れといて。明日の朝、行くから」
そのまま電話を切った。アキには悪いと思ったけど、説明するとものすごく長くなりそうだったし。アキがハナちゃんを捕まえそこねても別によかった。しばらくいたんだから、DNAはそこらへんにたっぷりあるはず。
てことは、そうか、なにもハナちゃんを捕まえなくたってよかったんだって気づいたけど、そんときにはオレもう半分寝てた。
久しぶりに夢も見ずに眠って、翌朝、参考書をとりに戻るって口実作って、父親と一緒にばあばんちを出た。父親、相変わらずオレにはなんにも言わなかったけど、別れ際に振り向いて、オレの目を見て手を振ってくれた。
なんかそれでちょっと満足した。バカみたいだな、オレって。
家には寄らずにまっすぐアキの家に行った。門のとこに農産物直売所ってのぼりが立ってて、取れたての新鮮野菜が並べられてる。
作業小屋の脇に、アキが立ってた。こっちを見て、変な顔をして作業小屋に入ってった。オレもしゃべりながらあとをついてった。
「悪いなアキ。やっといてくれた? 今度さあ、お礼に」
そう言ったとき作業小屋の光景が目に飛び込んできて、すべてが止まった。
なんだよこれ。
作業小屋の床にひとが倒れてた。上半身は麻袋に入ってたから見えないけど、袋から突き出た脚は女っぽい。スカートがめくれて、太もも、蚊に食われたあとだらけのふくらはぎ、はげかけたブルーのネイル、日焼けジミのある甲。全部丸出しだった。
アキがその脚をつま先で突っついた。脚は物理の法則に従って少し動いた。それだけ。ヘンな言い方だけど、めっちゃ物体って感じ。
「……どうしたんだよ、これ」
自分でもびっくりするくらい声がかすれて裏返ってた。やっとのことで声が出た、そんな感じ。
「死体だよ、リト」
アキは頰の傷をいじりながら、のんびりそう言った。
「おとなしくって言ったんだけど聞かないんだよ。もう大暴れ。リトは麻袋に入れとけって言ったけど、デカすぎて入んないしさ。こっちが殺されるかと思った」
「麻袋って、オレそんなこと……」
「言ったよ。ハナちゃんを麻袋にでも入れといてくれって」
足元をなにか生温かいものが通過していった。飛び上がりそうになって、見たら猫だった。大きな暗いグレーの猫。ブルーの首輪とおそろいの瞳。首輪には〈HANA〉って刻印されていて、だから、
「あのさ。この猫がハナちゃんだよな」
おそるおそる聞いたら、アキはすり寄ってきた猫を抱え上げて笑った。
「まさか。こいつはシイさんだよ」
そっから先の記憶はあんまりない。なんか悲鳴あげてた。誰かが。
その悲鳴が止まらなくて、やまなくて、止められなくて。
そのうち誰かに殴られた気がする。そんでブラックアウトして……気がついたらここで寝てた。
ねえ刑事さん。あれ、アキのせいじゃないから。オレのせいだから。
アキは悪くない。アイツは言われたこと素直に受け入れちまっただけだ。
バカだとは思うよ。フツーは麻袋に入れといて、なんて言われたら、コイツ飼い主と猫の名前間違えてんじゃね? って思うよな。
だけどアキならそういうこともあると思う。素直すぎるんだよ、アイツ。
それにバカっていうなら、そもそも飼い主と猫、取り違えたのオレだもん。
けどさあ。猫の首輪に名前が刻印されてたら、それ猫の名前って思うよな。死んだ猫がタローなら、生き残った猫はハナちゃんだとも思うし。
あ、ごめん。言い訳はしない。
でも、これで全部話した。な、アキは悪くないだろ。悪いのは全部オレ。従姉をベランダから放り投げたかもしれないオレ。そんな重要なことすら思い出せない、バカで不出来な榛原理斗。つまりオレ。
ありがとう刑事さん。オレの話聞いてくれて。なんか話してるうちに覚悟が決まってきた。
殺人罪って重いんだろ。アキは自分の身を守ろうとしただけだから、ヤツは釈放してやってよ。でもって、オレはどこにでもいくよ。親には悪いと思うけど……え、なに?
は?
死んでなかったって、なにが。
ハナちゃん?
ってオレが見た、あの麻袋の死体? 飼い主のほう?
どういうこと? 冗談?
えーと。
つまりアキのヤツ、うちのばあばのことも、湾岸のマンションとか瑤子さんのことも、全部シイさん、じゃなかったハナちゃんにしゃべっちまってたのか。オレにハナちゃんを麻袋に入れとけって頼まれたことも。
そいでハナちゃんはそれ自分じゃなくて猫のことだって気づいて、面白半分に麻袋に頭突っ込んで、死体のふりして、アキにも片棒担がせたって……そういうこと?
うん、じゃねえよ。じゃあアレ、死体じゃなかったってこと?
なんだよそれ。ありえねえ。ふざっけんなよ。
ばあばが猫殺しかもしれないから、それでオレを代わりに脅すことにしたって?
はあ? なんだよそれ。なんでオレがばあばの代わりに脅されなくちゃならないんだよ。
え、ママがアキのおやじさんとこからハナちゃんを追い出そうとしたって?
それ、オレのせいかよ。知らねえってそんなの。
怒るな? 怒るだろ、フツー。
オレは悩んでたんだ、自分が人殺しなんじゃないかって、いやまだ瑤子さん死んでないけど。そしたら今度はホントに目の前に死体が……ホントに殺しの引き金引いたんじゃないかって、アキを人殺しにしちまったんじゃないかって……だって本物の死体なんか見たことない。最初っからそう言ってんじゃねえかよっ。
だいたい刑事さんも刑事さんだよな、ハナちゃんが死体じゃなかったんなら、さっさと教えたらいいだろ。そんな肝心なこと言わずに、あれこれ訊いて。オレ覚悟決めて、素直に正直に、言わなくてもいいことまでぺらぺら……。
うるせえ。黙れ。泣いてねーよ。怖くなんかねーよ、死体なんか。アキのバカ野郎、アイツが死体だって言ったから、オレ信じたんだ。アキの言うことだから。
……だから、泣いてないって。
じゃあ、ホントにあれは死体じゃなかったんだな。生きてたんだな、あのひと。
よかった……。
*
本作は、2月4日発売の『猫さえいれば、たいていのことはうまくいく。肉球の巻』(ポプラ文庫)に収録されます。
■ 書籍情報
『猫さえいれば、 たいていのことはうまくいく。肉球の巻』

君さえいれば今日もしあわせ――
猫を愛する作家陣がすべての猫好きに贈る、
猫まみれの大好評アンソロジー第2弾!
■ 著者プロフィール
若竹七海(わかたけ・ななみ)
1963年、東京都生まれ。立教大学文学部卒業。91年、『ぼくのミステリな日常』で作家デビュー。2013年、「暗い越流」で第66回日本推理作家協会賞「短編部門」、15年、『さよならの手口』でミステリファンクラブ・SRの会によるSRアワード2015国内部門、16年、『静かな炎天』でSRアワード2017国内部門、ファルコン賞を受賞。他の著書に、「葉村晶」「御子柴くん」の各シリーズのほか、『猫島ハウスの騒動』『ポリス猫DCの事件簿』『プラスマイナスゼロ』『みんなのふこう 葉崎は今夜も眠れない』など多数。

