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楽園の代わりのカッサータ(著/島本理生)

 
 キングサイズのベッドでうとうとしていたら、先にホテルを出たよしさんから着信があった。
 スマートフォンを見ると、午前八時三十八分だった。彼にしては珍しく、切羽詰まった声だった。
「ホテルの駐車場に運転手が座ったまま動かない車が停まっていて、記者かもしれない。あかさんは外に出ないで、もう一泊してもらえませんか。かかった宿泊代や飲食代は後で渡すから」
 私は、うん、大丈夫、とあいづちを打った。そして電話を切った。
 仰ぎ見ると、枕元の壁に掛けられた絵はプリントではなく原画だった。クレーを日本画にしたような、細やかで華やかな油彩でさんが描かれていた。
 起き上がると、白いナイトウェアは胸元がはだけていたものの、腰ひもの結び目は緩んでいなかった。もう三好さんの目を気にしなくていいので、私は心置きなくだらしのない恰好で冷蔵庫を開けた。
 窓辺のソファに腰掛けて、ペットボトルのフタを開ける。ミネラルウォーターを飲むとのどが鳴った。体に馴染む軟水だった。
 テラスへと通じる窓の向こうには、透明度の高い青空が広がっている。プライベートプールの水面も同じ色を映していた。
 秋深くなった木立が色鮮やかで、音もなく降る銀杏いちょうの葉は、わずかに緑を含んだ黄金色に輝いていた。
 きれいだな、と思わずつぶやく。地元の北海道の秋はそろそろ終わる頃だろうか。
 少し冷えを感じて、自分の左肩やふとももに触れてみる。十月中旬の気温は暖房こそ必要ないものの、油断すると風邪をひきそうだ。真夏だったらプールに飛び込んでいたのに、と残念に思った。
 昨晩、ベッドの上で覆いかぶさって来た三好さんが
「すごく、似合いますね。上下分かれたパジャマより、僕はそういうバスローブタイプの室内着が好きです」
ほほんだので、体が離れた後も、私は薄手のナイトウェアを羽織った。一方の彼は上下分かれたパジャマを着て、すぐに寝息を立て始めた。今週は三好さんが党を代表して国会質問をする番だったから、気持ちよく疲れていたのだろう。
 私はナイトウェアを脱いで、ガラス張りのシャワールームから明るい屋外へと出た。足の裏のウッドデッキが冷たくて、軽くつま先立ちになる。
 湯気のたつ露天風呂に肩まで浸かると、あー、と素の声が漏れ出た。吸い込んだ空気は、乾いた土と澄んだ風の匂いがした。
 本来ならこんなところに泊まれない庶民の私に税金が使われているのは、正しくないようでいて、意外と正しい循環なのかもしれない。だけどの山奥まで本当に週刊誌記者が来ていたのなら、今日で最後にしたほうがいいだろう。
 湯船の中で、三好さんの笑った顔を思い出していた。何度会っても丁寧な言葉遣いも。

 一年前、会ったこともない衆議院議員に突然Instagram でフォローされた。それが三好さんだった。
 国会議員という肩書が物珍しくてフォローし返したら、朱莉さんの表現活動に感銘を受けたのでお話ししてみたいです、とつづられたDMが届いた。
 いつでも大丈夫です、と返してから、彼のプロフィールを調べた。地元は愛知県で、大学の経済学部の同期生だった女性と卒業後に結婚して、今は子供が三人いることを知った。
〈お食事でもいいですか?〉
かれたので
〈大丈夫ですよ〉
と返したら
〈僕は平日は議員宿舎にいますが、週末は地元に帰るので、都内の店があまり分からなくて恐縮です。よかったら人目につかないお店を朱莉さんに選んでもらえたらうれしいです。ジャンルはなんでも大丈夫です。〉
という返事が来た。
 普段、私は広告代理店の子会社でイベントスタッフをしながら絵を描いている。その会社の取締役に飲みに連れ回されていたおかげで、都内の個室があるレストランや会員制のバーには詳しくなっていた。さっそく何軒かピックアップして送った。
〈僕は本当になんでも大丈夫です! 朱莉さんの行きたいお店を予約してもらえますか? 都内なら十九時半には着けると思います。〉
という返信を読んだときには、予約まで丸投げなら行くのやめようかな、と少しあきれたものの、この言い方だったらさすがに会計は全部持ってくれるだろうと思い直して、二名で個室の取れるよつの高級寿司を予約した。
 北海道の実家を離れて早十年、今ではお正月に帰省したときしか食べられない美味おいしい海鮮が恋しかった。
 十九時半きっかりに個室席の引き戸を開けて、彼は入って来た。すごくセンスがいいとは言えない柄物のスーツが、二世議員でもなければ東京出身でもない彼の経歴を思い出させて、軽く親近感を覚えた。細身で40歳にしては若々しかった。
 彼は目が合うと、真剣な顔で言った。
「今日はお時間をいただいて、本当にありがとうございます。嬉しいです。しかも素敵なお店まで予約していただいて。僕は見た通り、なんの地盤もないところから体一つで議員になった田舎いなかものなので」
 腰低く熱心に語る口ぶりに、私を下に見るようなところはなかった。
 魚だったら地元が一番だと思っていたけれど、天然塩や上品な甘いタレや特製の出汁だししょうをネタに合わせて使い分けた握り寿司はすごく美味しかった。
 香ばしくあぶって塩とだちを添えたノドグロの握りを、日本酒で流し込むと、幸せが口の中にあふれた。
「美味しいですね」
「うん、本当に美味うまいです。朱莉さんはまだお若いのに、いいお店を知っていてすごいですね」
「仕事で店の予約もよく任されるので。それこそ議員の方ってたしか必ず秘書がいますよね」
 私が言うと、三好さんは軽く苦笑した。
「ええ。ただ、政治家の秘書はぎんのクラブからお気に入りの女性が引き抜かれてるパターンがけっこうあるんですよ。だから実務能力は人によるかな」
 彼の口から語られるトリビアはちょっと面白かった。どこの世界もやっていることは一緒だよね、と思う。
「三好さんは銀座のクラブに行かれたりはしないんですか?」
 私が質問したら、彼は自慢するどころか、険しい顔を作った。
「僕は行きません。政治家の多い場所は、大概、週刊誌記者も張っていて、機会をうかがっているんですよ」
「撮られたらまずいようなことをしてるんですか?」
「逆です」
 三好さんはきっぱり言った。
「注目されたらマズいときの与党が、野党の口封じのために事実ではない情報やうわさを流すんです。僕は最近、国会質問で改憲の問題点を積極的に詰めていたので、与党からすれば目障りなんですよ。自分にやましいところがなくても、心から信用できる相手をシビアに見極めなければならないのが、この仕事のつらいところです。僕は人間が好きなので」
 彼は私の顔を数秒ほどじっくり眺めると、恐縮したように謝った。
「すみません。自分の話ばかりしてしまって」
「面白いですよ」
と私は笑った。
 彼はふいに熱っぽい視線を込めて
「笑顔が、すごく可愛かわいいですね」
と呟いた。私はきょとんとした。つねに記者相手に気を張っているわりにはかつではないか。
 帰りのタクシーの中で、彼は私の手をそっと握って
「初めて会った気がしなかったです」
と口説き文句にしては実感のこもった言い方をした。あるいは何にでも実感を込めるからこそ選挙に勝つ演説ができるのかもしれない。ただ困ったのは、私も同じことを思っていたことだった。
 月に一度、食事に行くようになった。国会の会期中は特に頻繁に連絡が来た。彼はいつもご馳走してくれた。
 そんな交流が半年ほど続いて、私はさすがにお礼をさせてほしいと頼んだ。
「それなら、今度、昼間にピクニックでもしましょう」
 私はフォークを動かす手を止めて、訊き返した。
「いいですけど、どうしてピクニック?」
「学生時代にデートで愛知万博の記念公園によく行ったんですよ。正直に言えば今でも豪華な会食より、ああいう屋外で食べる弁当のほうが美味いと思うんです」
 彼は腕組みして、しみじみ言った。節のない、細く長い指だった。豪華な食事のお礼に、私がお弁当を作る約束をした。
 有休を使って、翌週の平日の昼下がりに公園で会った。
 外食続きで野菜が足りないという三好さんのために、私は新鮮なトマトやルッコラやスライスオニオンをたっぷり挟んだツナのサンドウィッチを作った。百円ショップでレジャーシートを買い、公園内の売店でホットコーヒーを買った。
 快晴の日だったけど、ダウンジャケットを着込むほど寒かった。遠目に桜の花びらが音もなく散っていた。コーヒーで胃を温めた。サンドウィッチは塩気がちょうどよかった。三好さんは美味い美味いと言って、たくさん食べた。
 秘書からの電話がかかってくるたびに
「ごめんね。ピクニック中に」
と三好さんは申し訳なさそうに言った。
 私がからかうように
「そうですよ。ピクニックよりも大事なことなんてないでしょう」
と返したら、彼は真ん中分けの黒髪の下から感じのいい笑顔をのぞかせた。
「そうだよね。新しい法案よりも」
「そう。明日の国会中継よりも」
「党の会議よりも」
「ピクニックのほうが大事ですよ」
 私が手をくためのウェットシートを差し出すと、三好さんはその手を優しく握った。人目も気にせずに。
「僕は朱莉さんのことがとても好きです。東京に来て、初めて、安らげる場所ができた」
 三好さんのひんやりとした指先の細さを感じた。
 次に会ったアンダーズ東京のバーでも、三好さんは私に財布を出させなかった。宿泊代とルームサービスの分も。
 私は帰宅してから、百号の大型キャンバスを注文して、美大時代の友人たちと共同で借りているアトリエに運び込んだ。
 夜通し余白を埋めるように、地上よりも少しだけ天国に近い開放的なルーフトップバーに集う人々を描き続けたのは、名前の知られた既婚者の男性と関係してしまったことに、深く動揺していたからかもしれない。

 私の母は片付けられない人だった。
 祖父の代から水産加工会社をやっている実家はけっして貧しくはなかったし、白いモルタル外壁の平屋の一軒家は家族四人で暮らすには十分な広さだったけど、子供の頃から家に友達は呼べないと思っていた。
 家の中には、びた傘とか、壊れた家電とか、空の調味料の小瓶とか、破れて着られなくなった服がいたるところに放置されていた。古くても上質な物なら分かるけど、そうじゃなくて母は本当に要らない物を溜め込んでいた。父が会社の従業員を呼んで飲み会をするときには、私と妹のたまきが片付けた。
 現実的な環は早々に割り切って
「もうゴミ捨ての日さえ守れればいいよね」
と自分も散らかした部屋で言い切ったが、私は嫌だった。
 幸い一部屋ずつ与えられていたので、私の部屋だけはいつも入居前の空き部屋くらい片付いていた。
 ある晩、物の積まれたダイニングテーブルを見て、思いついた。花を飾ろう。そうしたら母も喜んでくれて美しい部屋の良さに目覚めるかもしれない。
 さっそくシンクで皿を洗っていた母に話してみた。けれど母はまるで響かなかったように一蹴した。
「花なんてそのへんに咲いてるでしょう。それに切り花なんてすぐに腐るよ」
 私は絶句した。美しさを素通りして腐ることを想像する人とはけっして相容れないと思った。
 すごすご自分の部屋に戻りながら、学校へ行っている間にいたんでいく花を想像したら、思いつきも萎しおれていくようだった。
 翌週の美術の時間、中学校の校庭に咲いた植物を描いてみよう、という課題が出た。
 私たちは画用紙と鉛筆を手にして校庭に出た。風の強い日で砂煙が立っていた。揺れ動く草木は日差しと遊んでいるようだった。
 そのときに気付いた。部屋に飾れる絵を描けばいいんだ、と。
 熟考した末に、濃い紫色のビオラを三輪、描いた。色が増えすぎると室内に馴染まない気がして、メインに紫色と緑色の絵の具だけを選び、白や黒を混ぜて少しずつトーンを変えて塗った。背景はあえて白のまま残した。
 絵を提出しに行くと、髪に白髪の目立つ美術教師は
「これ、なんの相談?」
と絵を見ながら、訊き返した。私は質問の意味が分からなくて黙った。
「手抜きしないで、白い部分も塗りなさい」
 彼は言うと、素っ気なく絵を突っ返した。びっくりして、受け取りかけた。だけど、これ以上なにかを足すことは絶対にしたくなかった。そんな強い意志が自分の中にあったことに気付いた。
「ちゃんと白い絵の具を塗りました」
「え、ああ、そう」
 彼は絵を確かめると、じゃあいいか、と棚に絵をおさめた。
 秋の文化祭でそのときの絵がクラスごとに飾られた。皆の注目を集めたのは、写実的に風景を細かく描き込んだ絵だった。実際、私よりもずっと上手うまかった。
 環も両親も無邪気にその子の絵を褒めて、私の絵に対しては
「ずいぶん単純だけど、時間なかった?」
と真顔で問うた。
 褒められたかったわけじゃない。でも、自分の意図さえも伝わらなかったことで、もう絵筆など握りたくないと思ってしまった。
 ただでさえ私はいつも家族の中でズレていた。一人だけ大事に思うものが違っていて、変なところでこだわって、協調性がないと言われてきた。
 家族と別れて一人で廊下を歩いていたら、太い黒縁の眼鏡めがねを掛けた国語の先生と目が合った。
 彼女は大きな笑みを浮かべて、ふかがわさん、と私を呼び止めた。
「良かったですよ! あなたの校庭の絵」
 え、と私は驚いて訊き返した。
「他の子と間違ってないですか? 私、ビオラだけの絵」
「そうです、ビオラがまるで生きているみたいだった。深川さんはセンスがあるから、これからもたくさん描いてくださいね」
 まるでプロ志望の子に向けたような褒め言葉を浴びて、ほおが熱くなった。調子に乗った私は口を開いた。
「先生にあげます」
 彼女は一瞬黙ってから
「私に、あの絵を?」
と訊いた。私は、はい、とうなずいた。そのときには不思議と描いた時点で自分の役割は終えたように感じた。それなら喜んでくれる人の手元にあったほうがいい。
「ありがとう。じゃあ文化祭が終わったら、職員室に持って来てもらえる? 大事に部屋に飾るから」
「はい!」
と私はたぶん耳まで赤くして言った。
 家に帰ってから、その話をすると、家族はびっくりしたようだった。
 酔った父は無邪気に
「国語の先生がそんなことを言うなら、意外と才能があるのかもしれないな」
と簡単にひるがえって言った。
 環は
「でも美術じゃなくて国語だよ」
と冷静に指摘した。母はなぜか困惑したような笑みを浮かべているだけだった。
 食後に部屋でごろごろしていたら、ドアをノックする音がした。振り返ったら、母がドアのすきから顔をのぞかせた。
「朱莉、ちょっと話があるんだけど」
 私はなにかと思って駆け寄った。もしかしたら今になって褒めてもらえるんじゃないかとほんのり期待していた。
 母はできるだけ優しい表情を作るように目を細めると、諭した。
「あんまり、文系の先生が言うことに影響されないようにね」
 意味が分からず、首を傾げた。
「朱莉は地に足がつかないところがあるから、絵とか小説とか、そういう実用性のないものに夢中になって、勉強しなくなるんじゃないかって心配になったの。それに私は正直、上手いとは思わなかった」
 へえ、と上の空で呟いていた。どうしてそんなことを言うのか分からなかった。実用性というものが母にとってはそこまで意味があることも初めて知った。
「それなら、なんでお母さんは使えないものをたくさん取っておくの?」
母は驚いたように声を強くした。
「取っておけば、いつか、また使えるからでしょう。また買い直すなんて面倒だし、捨てるものを選別するのがどれだけ大変だか分かってる? 環は何も言わなくても手伝ってくれるけど、朱莉はこの部屋しかれいにしないし」
 多少は引っ掛かったものの、母の言い分の正しさに打ちのめされた。それ以来、家の中で自分からは絵の話をしなくなった。
 その代わりに図書館で借りた本を読んで、絵の描き方の基礎を学んだ。お小遣いで画材を買いそろえていた私は部屋にうちかぎを掛けて、勉強しているふりをして毎日のように描いた。
 気が付けば、進学した高校の美術部では朱莉が一番上手だと言われるようになっていた。道内の美術展で入賞もした。それでも母は理解してくれないとあきらめていたので、私に甘い父親に頼んで東京の美大を受験させてもらった。
 美大に入学して上京した私は、毎日のようにどこかのギャラリーで絵画が展示されていることにびっくりした。絵を描いて見て学び、居酒屋でバイトして、課題が終わると同期生と夜通し飲む日々は刺激的で楽しかったけど、時々、北海道の風が恋しくなった。羊も豚も牛も地元にいたときには生きた味がしたけれど、東京で食べるともっと薄く淡かった。そして少女とけものと内面と世界との境界線というテーマを思いついた。
 思春期以前の、性別の自認さえも曖昧な状態で世界と接続していた自分を様々な動物とかけ合わせて、次々と描いた。周囲の評価が思いの外ほか、高かったこともあって、作品をSNSで発表するようになった。
 そのInstagram がとある広告代理店の子会社の取締役の目に留まり、いずれ仕事を頼みたい、という理由で飲みに連れて行かれるようになった。色んな業界の人を紹介してもらったり、ギャラリーでの初めての合同展示でもアイデアを出してもらったりした。
 取締役の彼は仕事では完璧主義だけど、プライベートでは隙だらけで遊び好きな人だった。そのうちに付き合っていないけれど付き合っていると言えなくもない関係になって、画家の活動は続けていいという条件で、彼の会社のイベントスタッフとして働くようになった。
 数年おきに流行を意識して買い替えるおしゃ眼鏡を掛けた取締役は、私をずいぶん可愛がってくれたけど、彼の秘書が粘って子供ができて結婚したらさすがに特別扱いはなくなった。周囲は私と取締役と秘書との関係を知っていたはずなのに、誰も表立って何か言ったりはしなかった。そんな関係ごとあいまいに受け入れてしまうのが東京という街なのだと悟った。
 自分もここにとどまり続けることで、塗り重ねすぎた色に染まっていくのだろうか、とふいに不安を覚えた。
 ある朝、絵筆を握る感触に既視感を覚えた。まだ二十代なのに自己模倣に走っていることに気付いた。Instagram に作品を載せ始めた頃の、うそみたいに注目を浴びたときの嬉しさを手放せない自分がそこにいた。
 第三者として聞いたら、注目されたくて絵を描くなんて馬鹿みたい、とけいべつしたと思う。けれど振り返ってみれば、私は他人の評価で描こうとしたり諦めたりする人間だった。
 美大時代、フェミニズムをテーマにしたインスタレーション作家の先生が私のところへやって来て言った。
「あなたは目の前の相手にびた顔を見せるときがあって、それが作品の成長をあと一歩というところで止めてしまっている原因のように感じます。ひと皮けたいなら、こびを手放すか、そんな自分まで受け入れるか、どちらかに振り切りなさい」
 彼女がその場を離れた後、私は途方に暮れて、白い壁の前に立ち尽くしていた。切り捨てるのではなく受け入れるという選択肢も与えてくれた彼女は公平な人だと思った。同時にそれが最も難しいことも分かっていた。無意識に求められることを考えてしまうから。
 才能のある人はいくらでもいる。後ろを振り返って変われない自分は絵を諦めて、まだ間に合ううちに転職しようか。
 そんなことを考えていたときに知り合ったのが三好さんだったのだ。私はもしかしたらひと皮剝ける最後のチャンスかもしれないと思って、その誘いに乗った。

 高校生の頃、環に恋人ができた。その彼は近所に住んでいたこともあって、散らかった我が家にしょっちゅう遊びに来ていた。
 そういう細かいことを気にしないところが、環の好みに合ったらしく
「卒業したら結婚しちゃおうかな。どうせ私は進学しないで実家の手伝いするって思ってるし」
 普段、冷静な彼女にしては珍しく浮かれた口調で言うので、私は微笑ましく思っていた。
 あれは、道内に大雪警報が出ていた休日だった。両親は祖父母の家の雪かきをするために出掛けていた。すでに親公認の仲だった環と彼はリビングでゲームをしていた。私は部屋で受験勉強をしていた。
 喉が渇いてリビングに行くと、環の姿はなく、彼が一人でゲームをしていた。
「環は?」
 私がカウンターキッチンの中に入りながら尋ねると、彼は苦笑した。
「腹痛いって言って、トイレです」
 そういうのを臆面もなく打ち明けるのが環らしい、と私は笑った。
 そのとき彼がなにげなく言った。
「お姉さんって美術館とか好きなんですよね。年明けから道立美術館でマティス展をやるから行きませんか?」
「へえ。マティスなんて、よく知ってるね」
と私は感心して答えた。彼は、父親が意外と美術館に行くから、と説明した。
「でも環は興味ないと思うな」
「なんで、二人で行きたくて。お姉さん可愛いし」
 私は、え、と反射的に訊いた。彼は無言で私の目をじっと見た。困って、笑い返していた。
「駄目ですか?」
 私が答えずにいると、彼は畳みかけるように
「もしかして彼氏います?」
と質問した。それでようやく
「うん。いる」
という噓をつくことができた。彼は、すみません、と一言だけ謝った。
 トイレに籠城していた環が戻って来ると、彼らはなにごともなくしゃべり始めた。私はココアをれたカップを手にして部屋へと戻った。持ち手を握る指が動揺で少しふるえていた。
 実際は大して意味のないひいを、男の人からされている。そんなことはちっとも大事に思っていないのに、心の奥底ではたぶん少しすがっている。
 彼と別れた後、実家の会社の経理を任された環は、あっさり十歳年上の社員と結婚した。
 今年のお正月に帰省したとき、環が子供を寝かしつけた後に久々に二人で飲んだ。
 私は酔って三好さんの話をした。そのときには体の関係がなかったとはいえ、赤の他人にできる話ではないからだ。
 環は缶ビール片手に呆れたように笑った。
「自分とは関係のない世界の話だから面白いけど、家族とはいえ、だんにも一対一で会わせたくないよ。朱莉ちゃんのことは」
「妹の夫に手なんて出さないよ。それこそ人間性を疑われる話だよ」
 そうかなあ、と環は意地悪く笑った。彼女の安定感と強さを象徴しているような濃い眉を軽く上げて。
 もしかしたら環はなにもかも知っていたのではないか、と疑った。
 噓をついて断ったとはいえ「妹に失礼なことをしないで」と怒りはしなかった私のことも。
「朱莉ちゃんから手を出すほどのやる気がないのは、分かってるよ。でも好きじゃないくせに受け入れるでしょう。そういうのが一番怖いよ。された側からすれば、理不尽なもらい事故にあった気分だもん」
 環の言っていることは理解できたから、それ以上は言い返さなかった。だけど本当は心から誰かを受け入れたことなんてなかった。
 そう思っていたのに、夏になって、私は三好さんの絵を描いたのだ。一度だけ。

 深夜に自宅マンションのカメラ付きインターホンに映った三好さんは、左手にさんかくきんをしていた。
 いそいでドアを開けると、彼は情けなさそうに笑って
「地元の草野球チームに交ざって試合しているときに、しちゃいました」
と言った。
 私がアイスティーを作る間、彼は小さなダイニングテーブルのに腰掛けて
「手伝えなくて申し訳ない」
と恐縮したように謝り、右の利き手でハンカチを出して汗をぬぐった。そして私が目の前に置いたコップを持った。せめて怪我したのが左手でよかったですね、と私は言った。
「無理しないで議員宿舎で休んでたらいいのに」
と諭したら、彼は静かな声で、会いたかったから、と言った。
 彼は立ち上がると、白い衝立で仕切られた部屋の奥を見つめた。古い賃貸マンションの縦長の十畳ワンルームを衝立で区切ることで、私は制作場所を確保していた。ベッドやダイニングテーブルや棚などの家具はぎりぎりまで小さいものを選んでいた。
「道具にも特別な思い入れがあったりするのかな」
 三好さんは机の上の画筆や鉛筆に目線をやった。
「私は、どちらかといえば画材は実用品だと思ってるから」
 彼はダウンライトに照らされた数枚の絵に近付くと、順番に眺めた。首の後ろで結んだ三角巾が白く光っていた。どちらかといえば性欲の薄い自分が、そのときにはやけに目を奪われた。私から覆いかぶさって脱がすようなセックスを初めてした。大人しく身を任せる三好さんは年下の青年みたいだった。
 起き上がって彼に部屋着を着せている最中に、言われた。
「僕はいつか朱莉さんに、自分の絵を描いてもらうのが夢なんだ」
 私はびっくりして、いつだって描くのに、と返した。
 振り返った彼はなんだかとがめるような目をしていた。
「アーティストにそんなことを気軽に頼むのは図々しいよ」
「べつに私だって空想上の生物しか描かないわけじゃないし」
 彼は狭いベッドに横たわると、続けて質問した。
「朱莉さんが生き物を描くのは、北海道出身だからですか?」
「それは、正直、あると思う。母方の祖父母が畜産農家をやってて、子供の頃、そこで飼育されている生き物たちが大好きだったから」
「畜産って、牛?」
「ううん。豚。可愛がってた子豚がある日突然出荷されたりして」
 子豚たちは寒がりで、私の体にも平気で乗っかって、スカートの中で暖を取ろうとした。
 近所の牧場にもよく出掛けた。羊の毛は大して柔らかくなくて、干し草が絡んでごわごわしていたけど、両手で抱きしめて汚れるのが好きだった。命のかたまりだと思った。思えば境界線などというテーマは後付けで、私は大好きだった生き物たちを最後には食うことの実感をキャンバスに残したかったのかもしれない。
 翌朝、私は三好さんを描いた。
 三角巾のシンプルな曲線を活かしたかったので、デッサンではなくドローイングを選び、あまり描き込まずに輪郭線と数本の髪の毛先だけで彼を表現した。あの朝は体のコンディションが良くて、腕の動きに滞ったところがなく、思い通りの線を引けた。
 完成した似顔絵はその場で三好さんにあげた。自分がアートポスターになったようだと言って「宿舎の部屋に飾ります」と絵を持ち帰っていった。
 テレビでごくたまに議員宿舎の話題が出ると、その一室の壁に飾られた自分の絵を想像して、不思議な気持ちになった。

 秋の風を浴びてだらだら入浴していたら、すっかりのぼせていた。
 った顔を向けると、プライベートプールの水面が小さく波打っていた。
 今なら泳げそう、と思った瞬間に湯から出て、ウッドデッキから芝生へと降り立っていた。熱を溜め込んだ体に、外気温の寒暖差は数秒間だけ最高に気持ちよかった。
 プールサイドの縁に腰掛けると、私はつま先を水に浸した。裸のお尻に滑り止めシートの凹凸を感じて、ぞわっとした。心臓を刺されたように痺れた。それでも行ける気がして、冷え切ってしまう前に体を沈める。水着を身に着けていないからか、入っているのに入られているような錯覚を抱いた。
 冷たさに呼吸が止まり、頭の中が真っ白になった。
 気付いたら、プールの中に立って、青空を仰いでいた。
 よく考えたら温泉に慣れているのだから、裸で水に入るのも大して変わらないのだ。
 もうろうとした視界に映る木々を見て、ふとマティスの絵を思い出した。
 環の彼に誘われたマティス展を、私は大学入試センター試験の翌日に一人で見に行った。
 あんなことがあったので、入館するまでは多少、気が重かった。
 静かな展示室に入ったら、そんなおりは消えていた。私は他の来館者に交ざって画家のプロフィールを読んだ。
 マティスは絵画に出会って「楽園のようなもの」を発見した、という一文が目に留まった。
 その瞬間、体が痺れて、なぜか涙が出た。
 子供だった私が、母のためにひとつくらい家に美しいものを、と願った。それもまた小さな楽園を願っていたのだと気付いた。
 だけど今は楽園が上手く想像できない。私の白いキャンバスもいずれは実家のように不要なものに塗まみれていくのかもしれない。
 ふるえながらプールから上がった私は風呂に入り直して、服を着た。さすがに空腹を覚えて、ホテル内のレストランへと向かった。
 平日のチェックアウトとチェックインの隙間時間だったこともあり、店内に客の姿はまばらだった。
 出迎えてくれた女性スタッフに一人だと告げたら、窓辺の二人掛けの席に案内された。窓ガラスに映る銀杏の木の枝にはリスや小鳥がいた。ボートネックのワンピースから出た首筋に降り注ぐ窓越しの光は白く柔らかかった。
 秋刀魚さんまとマッシュルームのパスタを食べ終えたら、急に血糖値が上がって、ぼうっとした。
 そのとき初めて体がずっと緊張していたことに気付いた。
 週刊誌に不倫相手として自分の名前が載り、全国に知れ渡る。そのせいで地元にいる両親や環にも迷惑がかかる。再就職も難しくなるかもしれない。そのことがすごく怖くて逃避していたのだ。たった今まで。
「こちら食後の紅茶とデザートです」
という声に意識を引き戻された。
 目の前の皿を見た私は、あ、と思った。以前にもデートでコース料理を食べたときに出てきたスイーツだった。
 ドライフルーツやナッツを練り込んだ真っ白なアイスクリームは、彩られたキャンバスのようだった。
「これ、なんていうお菓子ですか?」
 私は顔を上げて尋ねた。
「こちらはカッサータといって、シチリアの伝統的なスイーツです。アイスには生クリームの他にマスカルポーネチーズとホワイトチョコが使われています。苦手な食材はなかったですか?」
「はい。ありがとうございます」
 彼女は微笑んで、厨房へと引き返していった。黒いパンツスーツの小柄な後ろ姿は背筋が伸びていてしかった。
 アイスをケーキのように切り分けて口に運ぶ。冷たい舌の上で香ばしいナッツや、甘酸っぱい苺いちごや、ほろ苦いオレンジピールが、マスカルポーネチーズの爽やかな甘さと重なって溶けた。
 美味しい、と呟いたら、自分のしていたことを理解した。
 このデザートがシチリアで生まれたことも、カッサータという名前だということも、私は三好さんといたときには知り得なかった。一皿いくらで食べられるかということも。たくさん積み重ねて初めて手にできるご褒美を、私は前借りという形で受け取ってしまっていた。
 ひと皮剥けるどころか、また成長を止めかけていたことにようやく気付いた。
 ホテルは結局、日が暮れる前にチェックアウトした。念のためタクシーを呼んでもらって、ホテルの入り口前に着けてもらった。
 東京の自宅に帰る特急列車の中で、私は気軽に飾れる五号のキャンバスをまとめて注文した。
 東京駅についた頃、三好さんから電話がかかってきた。
 互いに記者の直撃は受けなかったことを確認すると、よかった、と彼は心底ほっとしたように言った。
「あなたに迷惑がかかるから。今回は切り抜けることができてよかった」
「そうですね。ただ、また、こういうことはあると思います」
 ホームのけんそうに紛れて、私は言った。別れ話がしやすいように。すると三好さんが思いがけない台詞せりふを口にした。
「うん。だけど僕と朱莉さんだったら、きっとこれからも上手く隠し通せると思う」
 運命共同体のように説き伏せられて、私は理解した。三好さんはこれも含めて楽しんでいたんだ、と。
 都内のデート、名の知れたホテルでの宿泊、たまには私の部屋にも遊びに来た。常に背後の車に注意を向けながらタクシーを飛ばして、離婚と失職のリスクを背負って。どうしてそこまでするんだろうと思っていた。今の台詞を聞くまでは。
 国会議員になって、国民のために与党と闘い、年下の愛人に会うために週刊誌の目をかいくぐる。バレたら一巻の終わり。それでも隠し通せているかぎりは、彼が大好きな映画『007』シリーズのジェームズ・ボンド並みのスリルと特別感を味わえる。
 この一年間、彼の脇役だったんだ。私は。
 そう悟ったら、あっけなく冷めていた。
 翌日の朝から昼にかけて、白いキャンバスに白いカッサータを描いた。繊細な陰影をつけていくうちに心が静かになっていた。スマートフォンの電源は切っておいた。
 完成した絵は、試しに写真に撮って、あえて環に送信してみた。感想も欲しいというメッセージと一緒にえて。
 数分後には、仕事中のはずの環から返事が届いた。
〈お洒落なだけのはずのアイスケーキをドキッとするように描けるんだね。なんか朱莉ちゃんのことを本当にプロなんだと思った〉
 ストレートな表現が環らしくて、今さらだけど、嬉しかった。
 壁にもたれかかると、カロリーを使い切った脳が痺れていた。なにか食べようと考えていたら、環から珍しく電話がかかってきた。
「お母さんが朱莉ちゃんにまた食べ物を送るって言ってるけど、前回送った分って、食べ切った?」
 ううん、と答える。私がお金に困っていた美大時代は知らん顔だったのに、ここ数年、一人暮らしには多すぎる食料が定期的に実家から段ボール箱で届いていた。
「お母さん、昔に比べて優しくなったよね」
と私は環に水を向けてみた。
 彼女は、それは本当にそう、と同意した。
「それって一応は私が就職したからだと思う?」
 内心ではそうだと確信していた。
 だけど環はあっさりと
「安心はしただろうけど、そんなことじゃないよ」
と否定した。
「私にだって数年前までは厳しかったし。優しくなったのは、更年期が落ち着いたからでしょう」
 更年期、と私は繰り返した。初めて耳にした単語のように。
「そうだよ。しかもお母さんって、私を産んだときにもう四十歳近かったでしょう。それから二十年近く二人の娘の子育てだもん。疲れて余裕がなかったのも仕方ないよ。私なんか二十代でまだ一人目だけど、それでもうんざりするときあるから。お父さんは明るいだけが取り柄で、いつも飲み歩いている昭和の男だったし」
 私は、そっか、と頷いた。
 もちろん、それだけじゃなかったのかもしれない。でも、違うと否定する必要もないと思った。
「それよりさっきの絵って買ったりできるの?」
 突然、環に訊かれた。
「ああ、まだ値段はつけてないけど、いずれは。どうして?」
「今日、が熱出したから、保育園は休ませて家にいるんだけど。アイスケーキの絵を見せたら、白いものに白いお菓子が描いてあるのが綺麗だから欲しいって言われて。もっと子供向けの絵も描かないの? 昔は気付かなかったけど、最近、絵本や童話を読み聞かせしていると、朱莉ちゃんの絵のほうが合うし面白いって思うことあるんだよね」
 それなら連作にするから、英玲奈が気に入った一枚をプレゼントすると伝えた。環は、お礼にもう少し寒くなったらかにを贈る、と言って電話を切った。
 私は台所に立って、小鍋に湯を沸かし、ふくろめんをばりっと開けた。
 生卵を落とした醬油味のラーメンを作り、実家から送ってもらった海苔のりを添えてどんぶりに盛った。海苔の味が濃くて美味しかった。
 食べ終えても空腹だったので、戸棚を開けて、大事に取っておいたロイズのチョコがけのポテトチップスを出した。
 淡い檸檬れもんいろの陶器のカップにたっぷりの紅茶を注ぎ、塩気のきいた甘いポテトチップスをざくざく齧かじる。そのうちに満たされていた。小さく息をついた。
 数日間寝かせてから、カッサータの絵を見返した。やっぱりいい出来だった。
 写真を撮って、Instagram に新作として載せた。三好さんは私の作風が変わったことには気付かないだろうな、と思った。彼はまた愛人を作って、国会の合間におうを繰り返すスリルを味わおうとするのだろうか。
 私はそれだけだと、ちょっと楽しいだけで、すごく楽しいわけではないと知った。
 楽園には住めなくても、楽園のようなものはいつか見つけられるはずだ。私の中に。

  *

本作は、3月4日発売の『やるせない昼下がりのご褒美』(ポプラ文庫)に収録されます。

■ 書籍情報
『やるせない昼下がりのご褒美』
大好評アンソロジー第3弾!心とおなかの空腹をあたたかく満たす短編集。
あの人と過ごす「おやつ」の時間が、今日を乗り切る力をくれる。妻子ある相手と夜をともにした伊豆の山奥のホテルで。忘れられない同級生と屋上につづく階段で。さまざまな果樹が茂る瀬戸内海の島の庭で。もうすぐ卒業するメンバーと取り組む最後の仕事で。幼い息子との思い出のドーナツショップで。憧れの女性たちと出かけたいちご尽くしのピクニックで。心とおなかの空腹をあたたかく満たしてくれる珠玉の6篇!

■ 著者プロフィール
島本理生(しまもと・りお)
1983年、東京都生まれ。2001年、高校在学中に『シルエット』で第44回群像新人文学賞優秀作を受賞。03年『リトル・バイ・リトル』で第25回野間文芸新人賞、15年『Red』で第21回島清恋愛文学賞、18年『ファーストラヴ』で第159回直木賞を受賞。他の著書に、『アンダスタンド・メイビー』『わたしたちは銀のフォークと薬を手にして』『天使は見えないから、描かない』『一撃のお姫さま』など多数。

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