
破裂音を上げて、何千本もの銀色のテープが飛び出し、光を反射させながら静かに舞い落ちていく。
客席にいるファンは、ステージに立つ泉水たちのことなんて忘れてしまったかのように、銀色のテープを見上げて手を伸ばす。摑み取れた喜び、手の届かなかった悔しさ、アリーナと呼ばれる会場を埋める一万五千人が歓声を上げ、溜め息をつく。三階席でも、前列であれば、摑み取れる可能性はある。だが、後列になると、ただの一本でさえ飛んでくるはずもなくて、傍観者になるしかない。
幅三センチ弱、長さは一メートルから二メートルくらい、「銀テ」か「金テ」と呼ばれることが多いが、銀や金の他にも青やピンクなど様々な色のものがある。そこには、コンサートツアーのタイトルやグループ名やメンバーからのコメントがプリントされている。百円ショップなどで買えるケースに入れて、キレイに飾るファンもいるらしい。だが、持って帰ったものの、どうすることもせずに引き出しの奥に入れたままにしたり、ゴミとして捨ててしまったりする人も少なくはないだろう。
それでも、どうしても欲しいと願い、手を伸ばす。
泉水も、去年までは見上げる側だった。
先輩グループのコンサートの見学に行き、必死になって手を伸ばすファンと一緒に、客席から見上げていた。銀色のテープは、音もなくゆっくりと落ちてきて、その数秒間だけスローモーションになったように感じられる。泉水は「アンパッサンのコンサートでも、いつか飛ばしてみたい」と夢見ていた。
事務所のルールがあり、キャパが二千人から三千人のホールのコンサートで、銀テを飛ばしてもらうことはできない。先輩グループのバックダンサーとして出演したアリーナやドームでのコンサートであれば、泉水も舞い落ちていく銀や金のテープをステージから見ていたことはある。けれど、自分たちだけでは、遠い夢のようにしか感じられなくて「いつか、いつか」と願いつづけた。
去年の夏、泉水の所属するグループのアンパッサンが初の全国ホールツアーを走りきったオーラスの東京公演、アンコールの一曲目と二曲目の間にスタッフからのサプライズで、銀テが飛んだ。驚き以上の喜びで、泣いているメンバーもいる中、最後まで歌って踊り切った。その日、その公演限り、何も書いていないまっさらな銀色のテープだった。
今年は、念願のアリーナツアーで、打ち合わせの段階で当たり前のように、テープを飛ばすタイミングを相談された。デザインも自分たちの希望を聞いてもらえて、色は銀色のままでツアータイトルとグループ名を入れ、最後の曲が終わるのと同時に飛ばすことになった。
「本日は、お越しいただき、ありがとうございました」客席が落ち着くまで待ち、リーダーでMC担当でもある泉水が締めの挨拶をする。「アンパッサン初のアリーナツアー、喜びと期待と共に不安なこともありましたが、観にきてくれるみなさんや支えてくれるスタッフさんたちのおかげで、残すは宮城の三公演のみとなりました。最後まで無事に終わらせるため、まだまだ気は抜けません。そして、ツアーが終わっても、それで終わりではありません。来年、また六人で、ここ横浜に戻ってこられるように、僕たちは走りつづけます」
そこまで話し、泉水は隣に立つ大地を見る。
大地は、愛しい者に向ける目で客席を見ていたが、視線に気が付いたのか、泉水の方を向く。二人で顔を見合わせ、なぜか笑ってしまう。その後に、泉水はそれぞれの表情を確認するようにして、横に並んで立つメンバー全員を見る。
六人で「ありがとうございました!」と声を揃え、ファンに手を振りながら、ステージの袖へはけていく。
拍手で迎えてくれるスタッフにも「ありがとうございました」と何度もお礼を伝え、衣装替え用の鏡の前に置かれたそれぞれの荷物の入ったカゴを持ち、奥の扉から通路に出て、楽屋に戻る。
舞台の華やかさに対して、裏側は地味だ。
デビューしているグループのコンサートでは、豪華なケータリングが用意されたり、少しでも和めるように季節に合わせて装飾されたりしている。しかし、アンパッサンは、まだデビュー前の研修生という立場でしかない。アリーナでコンサートができても、CDデビューしているグループとは、予算が違う。ごはんやおやつは用意されているし、差し入れもたくさん積まれている。充分と思えるものが揃っているけれど、何かが足りないのだと感じさせられる。
シャワーを浴びたりスマホのチェックをしたりするメンバーがいる中、泉水は楽屋にカゴを置いただけですぐにケータリング室へ行く。残っていたチョコレートをもらい、冷蔵庫から甘いレモンティーのペットボトルを出して紙コップに注ぐ。
もともと身体が細くて、たくさん食べられる方ではない。二時間のコンサートで、ステージ上や客席を囲む花道を駆け回ると、体重が三キロ近く減ってしまう。終わったらすぐに、甘いものやスナック菓子を食べてソフトドリンクを飲むことは、泉水のコンサート後のルーティンだった。
椅子に座り、チョコレートを食べながら、泉水はぼんやりと「嘘をついてしまった」と、考える。
ツアー中、地方公演の時にはホテルに泊まるが、関東の会場の場合は、それぞれの自宅へ帰る。
泉水の地元は神奈川県で、高校を卒業するまでは実家から仕事やレッスンに行き、芸能活動が許可されている都内の高校まで通っていた。研修生のうちは電車移動が基本で、テレビ局やコンサート会場まで自分たちで行かなくてはいけない。小学校五年生になったばかりのころに事務所に入り、陽が昇るより前に家を出なくてはいけない日も、学校の友達が部活やゲームをしている日も、泉水は一時間以上かけて都内へ向かった。最初のころは、家の近い先輩が待ち合わせの駅を決めて、一緒に連れていってくれた。そのうちに、泉水が後輩を連れていく側になった。
まだ研修生とはいえ、泉水の所属する芸能事務所では、デビュー前から多くの仕事ができる。
アイドル雑誌の取材を受け、先輩たちのコンサートのバックで踊り、バラエティ番組やドラマに出る。グループを組めれば、自分たちのオリジナル曲をもらえて、コンサートもできる。
社長の趣味で、事務所に所属するグループには、チェスや将棋に関する名前が付けられている。研修生は、チェスの駒の名前から「ポーン」と呼ばれる。まだポーンのうちから追いかけ、成長する姿を見ることは、ファンにとってひとつの喜びなのだろう。
子供のころ、泉水はよく女の子に間違えられた。目のクリッとしたかわいらしい顔をしている。恥ずかしがり屋で「かわいい」と言われると、母親に抱きついて泣いてしまった。その性格がいつから変わったのか、小学生になるころには、かわいらしい顔はそのままで、やんちゃになった。よく動き、走り回り、高いところに上りたがる。
ありあまる体力をどうにかしようと考えた両親に、泉水は体操教室に入れられた。軽々とバク転やバク宙ができるようになっていったけれど、競い合うことが苦手なのか、大会はあまり楽しそうではなかった。友達のお母さんや教室の先生から「泉水くんだったら、アイドルになれるんじゃない」と言われた。泉水の母親も、それは考えたことがあった。アイドルであれば、体操教室で習ったことも活かせるかもしれない。まだ子供なのだから、先のことなんて考えず、挑戦させてもいいだろう。そう思い、泉水の履歴書をアイドルが多く所属する芸能事務所に送った。数ヵ月後にオーディションの知らせが届き、見事に合格した。
中学生や高校生が多い中で、まだ小学生だった泉水はかわいがられた。一緒にオーディションに合格した同期の中には、同い年の子もいた。アイドルになりたいわけではなかったし、芸能活動に興味があったわけでもなかったが、年上のお兄ちゃんたちとダンスや歌のレッスンを受けたり、同期とレッスン後に遊んだりすることは楽しかった。そのうちに、ひとつふたつと仕事が決まっていき、ポーンの中でも目立つ存在になっていった。ファンレターをもらい、ポーンの出演するイベントやコンサートで「泉水」と書いたうちわを持つファンを見つけると嬉しくて、もっとがんばろうと思えた。
春夏冬の長期の休みは、自分たちのコンサートに出るか先輩のバックにつくため、学校の友達とは遊べない。電車移動の時に、ファンからつけられたり隠し撮りされたりしたこともある。はっきり恋愛禁止とは言われていないが、たとえ学校の友達であっても、女の子とふたりで歩くことはできない。嫌なことがひとつもないわけではなかったけれど、それ以上の喜びがあった。中学校や高校を卒業するタイミングで、やめてしまうポーンもいる中、泉水はデビューを目指すことに決めた。
もともと仕事で一緒になることが多くて、よく遊びにもいっていた六人で、アンパッサンというグループ名をもらえたのは、四年前の高校三年生の夏休み前だ。
グループに入れたからといって、それでデビューできるわけではなかった。あくまでも、研修生であることに変わりはなくて、他のポーンたちと一緒にレッスンを受けつづけるし、先のことはひとつも約束されていない。
十歳のころから働いてきたので、高校を卒業する時には同世代とは比較にならない額の貯金があった。ポーンという立場でも、泉水の所属する事務所では、しっかりギャラが支払われる。両親と相談して、泉水はそのお金を不必要に使わないようにした。みんなの憧れるようなハイブランドの服やスニーカーや腕時計を買いたい気持ちはあった。しかし、母親から「生意気に見えて、人気が落ちる」と言われた。堅実に使うようにと言ったところで伝わらないと考えた母親なりの作戦だったのだ。
高校を卒業して、実家を出て都内でひとり暮らしをする時には、その貯金が家探しと家具や家電製品を購入する資金になった。
初めてのひとり暮らしであり、初めての引っ越しでもあった。
事務所の人や先輩にアドバイスをもらい、内見には両親にも来てもらい、セキュリティのしっかりした1LDKのマンションに決めた。十代が住むには家賃も高くて広さもある部屋だ。それまで、実家の二階にある六畳間だったため、完全に持て余した。
暮らしはじめて三年と二ヵ月が経つが、今も持て余している。
コンサートのように多くの人が集まる仕事から帰ってくると、いつも以上に広く感じた。
家事は、実家にいた時は全て母親にやってもらっていた。得意ではないし、指を切ったり火傷したりしたら仕事に影響すると考え、料理は早い段階で諦めた。洗濯は、クリーニングに出す。Tシャツや下着は家で洗うけれど、色も素材も気にせずまとめて洗濯機に入れてしまう。掃除は、たまに母親に来てもらうことはあるが、できるだけ自分でするようにしている。汚さないため、物を増やさないことにした。
物が少ないから、余計に広く見えるのだろう。
寝室にカバンを置いたら、リビングのソファに座る。
ケータリング室からもらってきた、黒酢酢豚の弁当とチョコバナナクレープを食べる。
八月の終わりに誕生日が来たら、二十二歳になる。
まだ若いとわかっているけれど、十代のころほど動けなくなった。
ホールやアリーナ規模のコンサートだと、昼と夜で一日二公演の日もある。ミュージカルや演劇であれば、マチネとソワレがあるのは普通かもしれないが、コンサートの昼夜公演は珍しいことだ。泉水の所属する事務所では、その珍しいことが普通で、かつては朝昼夜の三公演という日もあった。ポーンの中でも、まだグループに所属できていないメンバーでのコンサートだ。中学生や高校生のころは、その三公演でさえも、平然とできていた。体操をやっていたから、アクロバットを披露することが多かった。身体が軽くて、いくらでも跳べると思っていた。会場が広くなり、出番も増えたというのもあるけれど、疲れを感じるようになってきた。筋トレしたり食事の管理をしたり、鍛えていく必要がある。
まずは、好きなものでいいからしっかり食べて、食べる量を増やしていくようにする。
そう考えながら、泉水はチョコバナナクレープを食べる。筒状になっていて、半分に切ったバナナと生クリームとチョコレートソースが包まれている。生地からこぼれ落ちた生クリームをティッシュで拭こうとしていたら、テーブルに置いてあるスマホが鳴った。
大地からで、ビデオ通話だった。
「何?」
『おつかれ』大地も自分のマンションに帰っていて、洗濯しすぎてヨレヨレになったTシャツを着ている。
お互いに髪をセットしていなくて、メイクも落としている。
アンパッサンは、恋愛をテーマにした曲をメインに歌う「キラキラ系」と言われるタイプのグループだ。ファーやビーズを使った白い衣装を着ることが多くて、清潔感を大事にしている。中でも、大地はアイドル雑誌の企画の「付き合いたいランキング」で三年連続で一位になったこともあり、本気で恋をしているようなファンもいた。泉水も泉水で「リスみたいで、かわいい」とよく言われる。
だが、髭は伸びるし、ニキビもできる。ステージを降りれば、二十代前半の男性らしさがにじみ出た。
「おつかれ、どうした?」
『スイーツ、考えた?』
「ああ、考えてない」
『明日、収録じゃん』
毎年夏に、テレビ局の主催するイベントがある。
去年まで、テレビ局の近くにあるライブハウスでのコンサートに出ることが夏の一番の仕事だった。そのコンサートに、今年は後輩たちが出る。アンパッサンのメンバーは、レギュラー出演するバラエティ番組でスイーツを考え、テレビ局の前に特設されるイベント会場限定で販売することになった。メンバー六人が二人ずつの三チームに分かれ、売上を競う。イベント期間中にはその会場のステージで、番組収録もする。
こういう企画は、メンバーが考えたことにして、実際はテレビ局の人やプロが考えている。そう思う視聴者は少なくないだろう。そういうこともあるのかもしれないが、泉水たちは「自分たちで考える」となっていることは、本当に自分たちで考えるという仕事を当たり前としてきた。今回の場合、売物にする段階ではプロのパティシエが監修してくれることになっているけれど、ベースのアイデアは泉水と大地のふたりで考えなくてはいけない。
「明日は、まだ決めなくていいんじゃなかった?」話しながら、泉水はチョコバナナクレープを食べつづける。
『何、食ってんの?』
「クレープ。ケータリング室からもらってきた」
『そんなんあった?』
「あったよ。ドリンク入ってる冷蔵庫の下の段に」
『そんなところ、見てねえよ』
「マネージャーさんが教えてくれた」
『贔屓だ』
「いやいや、違うから」
『泉水の方が甘いもの好きなんだから、考えろよ』
「好きだからって、考えられるもんじゃないんだよ」
『明日の収録前、ちょっと相談しよう』
「わかった」
それだけ話し、電話を切る。
明日の収録では、監修をしてくれる人に、お菓子作りについて学ぶことになっている。その後で、考えればいいと言われていた。けれど、イベントは七月の終わりからだから、あと二ヵ月くらいしかない。試作することを考えると、できるだけ早く決めた方がいいようだ。
楽屋には、弁当とペットボトルのお茶や水が用意されている。それ以外にも、廊下や前室と呼ばれるスタジオの入口前のスペースに差し入れのお菓子や果物やパンなどが置かれていることがある。泉水は前室に寄って、スタッフからのお土産のサブレとロケに行った人気店のメロンパンをもらってから、楽屋に入る。
収録まで時間があるので、メロンパンを食べながらスマホでスケジュールの確認をする。
バラエティ番組の収録は、一日に二本か三本は撮る。
スケジュールの都合などで、まとめて撮らなくてはいけない時には、四本撮りすることもあった。
午前中にテレビ局に入って、メイクやヘアセットをして衣装に着替え、段取りの確認や打ち合わせをして収録をして、終わりは深夜になる。
今日はスタジオでは二本撮りだが、その後でお菓子作りの勉強をするロケに出る。自分たちでお菓子を作る様子を撮るため、時間がかかるだろう。家では料理をしない泉水だが、バラエティ番組では年に何回か、弁当やキャンプ飯を作る機会があった。ただ作るだけではなくて、その間にバラエティとしてのやり取りもあり、どうしたって撮影は長くなる。使われるのは、ほんの数分であっても、そのために何時間もかける。
「おはようございます」扉が開き、大地が入ってくる。
「おはよう」
「また、甘いもん食ってる」リュックを下ろし、大地は泉水の正面に座る。
「朝ごはん」泉水は、水のペットボトルを取り、大地に渡す。
キャップを開け、大地はそのペットボトルを泉水に返す。泉水は水を飲み、メロンパンの残りを食べていく。大地は、テーブルに積まれている弁当のおかずが肉と魚の二種類あることを確かめ、お茶のペットボトルを開けて、一気に半分まで飲む。
いくら細くても、泉水はペットボトルのキャップを開けられないほど、力がないわけではない。こうすることが泉水と大地の何年も前からの習慣だった。
「うまい?」
「うまい」
メロンパンは泉水の顔くらい大きい。外側の生地はサクサクしていて食べ応えがあるが、中はふわりと柔らかいため、軽く食べられる。
「スイーツ、どうしようか?」
「どうする?」メロンパンを食べ終え、泉水は鳩の形をしたサブレの袋を開ける。
「よく食うな」
「ちまちま食わないと、もたないから」
「ちまちま食うから、メシ食えないんじゃないの?」
「いやいや、大食い番組でのオレの醜態を見ただろ」
泉水が言うと、大地は手を叩いてバカにしたように笑う。
デビューするためには、とにかくテレビやラジオに出て、雑誌に載り、知名度を上げていかなくてはいけない。どんな仕事も、断らないようにしている。
今年のはじめ、出演する深夜ドラマの宣伝のために、泉水は何本かのバラエティ番組に出た。そのうちの一本が五キロの天丼を食べるという企画だった。天ぷらは海老やさつまいもや玉ねぎとコーンのかき揚げなど何種類か載っていて、甘すぎないタレも米も、おいしかった。しかし、一人前食べればお腹いっぱいになる泉水に、食べきれるはずがない。半分も食べられず、惜しいということもなくて、ほとんど映らなかった。
マネージャーからは「やっぱり、無理だったね」と言われ、番組を見たメンバーからは「無理な仕事をよくがんばった」と慰められながらも、爆笑された。
「スイーツだし、スナック菓子みたいなもんじゃなくて、甘いものだよな」
大地は、リュックのポケットからスマホを出し、流行りのスイーツを検索していく。
「夏だし、甘すぎるものより、爽やかなものがいいと思う」泉水も、テーブルに置いていたスマホを手に取る。
夏休み中、イベント会場には各番組とコラボしたスイーツや軽食を売る屋台とゲームコーナーが並ぶ。屋外なので、腐りやすいものは避けた方がいい。ファンの子たちは買ったものと一緒に、アクスタや泉水たちをモデルにした手のひらサイズのぬいぐるみを並べて写真を撮るため、すぐに溶けてしまうアイスクリームやかき氷も難しいようだ。去年や一昨年は、すでにデビューしている先輩グループがこの企画を担当していて、それぞれのメンバーカラーのシロップを使ったソーダとトッピングを考えていた。今年もソーダでいいじゃないかと思うが、もう少し凝ったものにしたいということになった。
「今、流行りのスイーツって、特にないのかな」大地は、スマホの画面に指を滑らせていく。
「前は、わかりやすい流行りがあったけど、最近はないかも」
スマホをテーブルに戻し、泉水は考えてみるが、何も思い浮かばなかった。
中学生のころは、レッスンや仕事の後に、みんなでファストフードやファミレスに寄ったりしていた。
パンケーキやタピオカ、流行りのものを食べることもあった。
仕事はあっても、先輩グループのバックで数曲踊るくらいで、顔はほとんど知られていなかった。ただの中学生の集団にしか見えなかっただろう。みんなで飲み食いしながら話すことは、ゲームや学校のことばかりだった。知られていないとしても、どこで誰に聞かれるかわからないから、仕事や恋愛については外で話せない。誰かに注意されたわけではないが、そういうことに対する意識は常にあった。彼女との写真や十代のうちに酒を飲んだり煙草を喫ったりしている動画が流出して、やめていく先輩もたくさん見てきた。
地元の友達といる時は、周りなんて気にしないで、恋愛や性の話が出ることがあった。泉水は「そういうことは、話せない」とは言い出せず、愛想笑いをすることで静かに離れていった。事務所の友達とは、わざわざ言葉にしなくても伝わるように思えて、気が楽だった。ダンスや歌のレッスンでは、毎回のように誰かが先生から怒鳴られる。先輩のバックで踊る時には、数日で振り付けやフォーメーションを憶えなくてはいけない。ついていけなければ、立ち位置が後ろや端になっていき、コンサートに出演するメンバーから外される。辛いことも多いからこそ、レッスンの後にみんなで話題のスイーツや季節限定のドリンクがある店に行くことを楽しみにしていた。
アンパッサンの結成が決まった時、メンバー全員がまだ十代だったから、六人でファミレスでお祝いした。暑い日で、マンゴーの載ったパンケーキをみんなで食べた。
「グループ名にちなんだスイーツっていうのも、難しいんだよな」スマホを置き、大地はペットボトルのお茶を飲む。
「スイーツっぽい名前ではあるけどな」
「フランス語だし」
スイーツには、共通のテーマがある。
それがグループ名の「アンパッサン」だ。
アンパッサンはフランス語で「通過しながら」や「通過の途中」という意味だ。
チェスで、すれ違いざまにポーンが相手のポーンを取る打ち方の名前だ。ただ単にポーンがポーンを取るのとは違い、条件がいくつか必要になる。ポーンは基本的に一マスずつ正面にしか進めないのだけれど、初手だけは二マス進めて、相手の駒を取る時には斜めに一マス進む。初手で相手がポーンを二マス進め、自分のポーンの隣に来た場合、そのポーンを取ることができる。この打ち方をアンパッサンという。
隣り合う状況を作り、その機会を摑まなければ、使えない打ち方だ。
事務所のレッスン場には、チェスや将棋の盤と駒のセットがいくつかあり、休憩時間にはみんなで遊んでいる。泉水も大地も、チェスができるのだが、アンパッサンという打ち方をしたことはない。お互いにその打ち方を知っているため、使える状況になることもなかった。
また、泉水も大地も、グループ名だからって、詳しく理解する必要もないと考えていた。
キングやナイトやルーク、駒の名前はすでにデビューしているグループが使いきってしまった。以前から、ステイルメイトやサクリファイスのように、チェスのルールや打ち方の名前がグループに付くことはあった。アンパッサンは、そのひとつというだけで、特に意味があるようには思えなかった。駒の名前のグループは、期待されていると言われていた。だから、事務所に入った時期がそれほど変わらないメンバーでルークが結成された時には、お祝いする気持ち以上に悔しさがあった。もう駒の名前がなくなった中で決まったグループ名には、なかなか愛着が持てなかった。
けれど、今年に入ってから、その言葉の意味を泉水は考えるようになった。
「流行りがないっていうのは、どうしたらいいか、わかりにくいよな。でも、どうすることも、できるっていうことか」大地が泉水に言う。
「まあ、そうだな」
「甘いもの、色々食べてる中で、何が一番好き?」
「うーん、クレープ」
「高校生の時、クレープ屋やりたいって言ってたよな」
「今も、ちょっとそう思ってる」
いつだったかは憶えていないけれど、そんな話をしたことは確かにあった。泉水と大地は帰る方向が一緒だったのもあり、同じグループになる前から仲が良かった。仕事やレッスンの後に、たくさんのものを一緒に食べてきた。高校生のころ、事務所の近くにあるクレープ屋によく行っていた。他にも誰かいる場合は、ファミレスやファストフードやラーメン屋の中からどこに行くか相談した。だが、ふたりだけの時は、クレープ屋に寄ることが決まりのようになっていた。泉水が定番のものにするか季節限定のものにするかトッピングをどうするか悩む横で、大地は「どれでもいい」と言って泉水と同じものを注文した。暑さも寒さも気にせず、店先のベンチに座り、ふたりで喋りつづけた。その時、アイドルになる以外だったら、何がしたいか話した。
「クレープいいかもな。でも、生地を焼くのが大変か」
「出来上がった状態で売ってるものもあるよ。昨日の電話の時にオレが食べてたような、筒状のものとか。あと、大福みたいな形で少し厚めのモチッとした生地に、クリームと果物を包んでるものもある」
「それだったら片手で食べやすそうだし、アイスみたいに溶けないから、いいかもな。腐りやすい?」
「持ち帰る場合、保冷剤を入れてもらえれば、大丈夫だと思う。クリームやフルーツが入ってたら、できるだけ早く食べようって考えるだろうし」
「クレープって、フランス語?」
「多分」泉水はスマホを取り、検索する。
フランス語で「クレープ」は「縮れ」を意味する。生地を焼く時に縮緬模様が出ることが語源のようだ。蕎麦粉を使ったガレットなど、国や地域によって材料や形状に違いがあり、フルーツや生クリームやアイスクリームを包むのは日本独自のものだ。
「今日の収録の時、監修の先生に相談してみよ」
「泉水のクレープ屋になりたいっていう夢が叶うな」
「まず、アイドルとしてデビューする夢を叶えたい」
話の流れに乗って、そう言ってから、泉水は後悔する。
軽く言葉にしていいことではないというだけではない。
アリーナツアーと夏のイベントが終わった後、大地はグループを脱退して、事務所もやめるのだ。
そのことは、まだ発表されていない。
今年のはじめ、事務所でのダンスレッスンの後、泉水はキャラメルとシナモンの香りがするビスケットを食べていた。
事務所のレッスン場のテーブルには、常に大量のお菓子が置いてある。
デビューしている先輩が差し入れしてくれることもあるし、ポーンの誰かが買ってくることもある。少なくなっている場合、事務所の社員やダンスレッスンの先生が買ってきてくれたり、まだ小学生のポーンにお金を渡して買ってくるように言ったりする。仕事をして、ギャラをもらえている子ばかりではない。お金がないことを理由に、レッスン後にお腹がすいたまま家に帰らないようにという考えで、社長がお菓子を置いたことがはじまりらしい。主に小学生や中学生のポーンのために置かれているのだが、子供たちと一緒になってレッスン後にそのお菓子を食べることも、泉水のルーティンのひとつだった。
その日は、他のポーンが帰った後も、アンパッサンのメンバーはレッスン場に残っていた。
夜から雪が降ると予報されていた日で、暖房がついていても、いつもより寒く感じた。
春からのアリーナツアーはまだ発表されていなかったものの、メンバーにはすでに知らされていた。それまでコンサートをしていたホールとは規模が違い、セットや衣装や演出など、早めに相談していかなくてはいけない。コンサートの構成は、事務所の人に相談しつつ、自分たちで考えることに決めていた。その話し合いをする予定だった。しかし、そこに、大地がいなかった。ダンスレッスンにも参加していなかったから、何か仕事だったのだろうか? と五人で話していたら、大地が入ってきた。
レッスン場の真ん中に円になって座り、話し合いをはじめようとしたら、大地から「話したいことがある」と言われた。
「アリーナツアーが終わったら、やめることに決めた。去年の終わりにマネージャーさんには話した。夏のイベントが終わった後に発表して、十月の終わりには事務所をやめる。今受けている仕事は、それまでに全部終わるから、その後で芸能活動をする気はない。もともと二十二歳までにデビューできなかったら、やめるって決めていた。ツアー前に言うか迷ったけれど、言わないままつづけることも違うって思った」
大地の話を聞き、最初は五人とも、何も言えなかった。
泉水としては、考えてもいなかったことだ。突然のことに、驚きなのか悲しみなのか怒りなのかわからない感情が湧いてきて、なぜか急にお腹が痛くなった。他の四人も、似たような気持ちだったと思う。その日は、話し合いをする気になれず、そのまま帰ることになった。
六人でグループを組み、東京や大阪のホールでコンサートをしてイベントに出て、ドラマや映画やバラエティ番組の仕事も増えていき、全国をまわるホールツアーができるようになり、アリーナツアーが決まった。順調に進めているように見えて、そうではないことをメンバー全員が理解していた。アリーナツアーを楽しみにしていて、その先の将来を夢見る気持ちがあるのは、事実だ。だが、同世代のメンバーの多いナイトやルークは、同じような道をたどり、初めてのアリーナツアー中にCDデビューを発表している。アンパッサンも、そうなることを期待されているが、今回のアリーナツアーでその発表ができないことは、先に知らされていた。来年や再来年になるという約束もない。
ポーンでも充分な仕事はあるし、ファンもたくさんいる。CDデビューしている状態と大きな違いはないと思っても、やはり違うのだ。扱いが違う、予算が違うということは、あまり大きな問題ではなかった。一番の差は、見られる夢の大きさだった。大きな夢を見ようと思っても、ポーンのうちは「CDデビュー」という壁にぶつかる。それを叶えた先で開かれる扉がどれだけあるのか、泉水にはまだ想像できなかった。
それまでにも、やめていく先輩や同期や後輩を何人も見てきた。
学校や習い事ではないから、努力が評価されることはないし、みんな平等なんてこともない。結果が全てだ。贔屓される人には、それだけの理由がある。事務所からやめるように言われることはなくても、レッスンを受けつづけるうちに、自分には無理なのだと自覚していく。ポーンのうちから、泉水のように広いマンションで一人暮らしができるほど稼げるのは、数人だけだ。高校卒業時には、進路や金銭的な事情を理由に、多くのポーンがやめていく。
事務所に入ってすぐのころから、大地は人気があった。
ドラマや映画にも出ていて、仕事量はアンパッサンの中でも一番多い。
納得できず、コンサートの準備と並行して、六人で何度も話し合いをした。
将来に対する約束は何もなくて、この先つづけたところでいいことなんて何もないかもしれない。今は、六人でグループを組んで活動できていても、デビュー前である以上、ずっとこの六人でいられるという保証はない。ある日急にメンバーが替わることも、解散して違うグループになることも、過去にはあった。あくまでも、このメンバーだったら、どういう活動ができるのか「試してみる」という状態でしかないのだ。大地を引き留めてはいけないと理解していても、いなくならないでほしかった。
しかし、大地の決意はかたかった。
中学校一年生になったばかりのころ、大地は事務所に入った。その時すでに、十年間はできるだけの努力をして、それでデビューできなかったら、やめると決めていたのだ。
そう考えていることを泉水は高校生の時に何度か聞いていた。けれど、泉水が「クレープ屋になりたい」と言ったのと同じように、冗談みたいに考えて聞き流していた。本気なのかもしれないと思ったこともあったが、それは確かめない方がいい気がしていた。確かめて、ちゃんと話を聞くべきだったと気付いた時には、もう遅かった。
やめるからって、大地が手を抜いたりしないことは、メンバーの五人が誰よりも知っていた。六人でアリーナツアーを成功させ、夏のイベントや他の仕事も全力で臨み、秋には大地を笑顔で送り出すことを決めた。
事務所には、レッスン場や会議室の他に、ポーンでも使える打ち合わせスペースや動画を撮るための部屋がある。そのうちの一室には、料理を作れるようにガスや流しや冷蔵庫が揃っている。オフの日に、その部屋を使わせてもらい、泉水と大地はスイーツの試作をすることにした。
クレープ生地は、スーパーで見て「クレープ用」となっていた粉を使うことにした。卵と牛乳の他に、ホイップクリームやクリームチーズやバナナやいちごやジャムやチョコレートやキャラメルソースなど、クレープに入れられそうなものは、片っ端からカゴに入れて買ってきた。あまったら、冷蔵庫に入れておけば、他の企画の時に使ったり誰かが食べたりするだろう。
泉水と大地は、買ってきたものをテーブルに並べていき、要冷蔵ですぐに使うわけではないものは冷蔵庫に入れていく。
「クレープ、作ったことある?」大地は流しで手を洗いながら、泉水に聞く。
「一応、ある」泉水は返事をしながら、クレープ用の粉の袋に書かれた作り方を読む。
子供のころ、母親がクレープを焼いてくれたことがあった。病院に行った後や体操の大会の後、泉水が苦手なことをがんばった時のおやつに用意してくれた。母親が焼いてくれた生地に、弟と一緒にホイップクリームを塗ったり好きな果物を並べたりしていくのは楽しかった。誕生日やクリスマスに友達を家に呼んで、クレープパーティをしたこともあった。でも、お手伝い程度のことをしていただけで、泉水が自分で生地を焼いたことはない。
「生地、焼ける?」流しの下から、大地は大きめのボウルを出す。
一般家庭の台所のようになっていて、流しの下には鍋やフライパンやボウルなど、一通りの調理器具が並んでいる。食器棚には、百円ショップで売っているような皿やマグカップと一緒に、社長が家から持ってきた何万円もするグラスも入っていた。
「かき混ぜるやつって、あったっけ? なんか、丸くなった針金みたいなの」
「何それ?」
「粉と牛乳と卵を入れて、それでかき混ぜるんじゃない?」
「見たことある気が」大地は、棚や引き出しを開けていく。
「どこかにあったはず」
「これか!」菜箸やフライ返しなどの入った引き出しから、大地は泡立て器を出す。
「それ!」
作り方通りの分量を計り、泉水はボウルに粉を篩い落とし、卵と牛乳と混ぜていく。
「おおっ! それっぽい!」大地は泉水にくっつくようにして立ち、ボウルの中をのぞきこむ。
「これ、結構簡単かもな。できたら、レッスン場に差し入れで持っていこう」
「みんな、喜ぶよ!」
しかし、生地を焼くのは、そんな簡単ではなかった。
丸くならない、厚くなる、穴が開く、焦げる。
途中で、泉水の母親に電話をして、どうやって焼いていたのか聞いてみたものの、「おたまでうまくやりなさい」という答えしか返ってこなかった。神奈川の実家まで帰り、母親に焼いてもらった方が早いかもしれないと迷うくらい時間がかかったが、何枚も焼くうちにコツを摑み、食べられそうな生地を焼けるようになっていった。そのコツを忘れないうちに、先に何枚か焼いて、冷めた生地でクリームや果物を巻いて試作することにした。
ホイップクリームやクリームチーズを冷蔵庫から出し、生地や果物と一緒に、テーブルに並べる。普通はクレープに入れないようなごま煎餅やさきいかも買ってきてみた。レッスン場に寄り、あまっていたお菓子もいくつかもらってきた。ふたりでは食べきれない量を並べ、泉水と大地は並んで座る。
「どうする?」大地が泉水に聞く。
「まずは、チョコバナナ食べていい?」
「腹いっぱいになるなよ」
「大丈夫、気を付けつつ食べるから」
泉水はクレープ生地を取り、ホイップクリームを塗ってから、半分に切ったバナナと板チョコの欠片を載せて、巻いていく。
「オレ、どうしよう。泉水、決めて」
「これとそれとあれ」泉水は、適当に指さしていく。
「最初から、これ?」大地は、さきいかを指さす。
「うまいかもしれないじゃん」
「どうかなあ」クレープ生地を取って、大地はクリームチーズとレモンのジャムを載せ、その上にさきいかをトッピングしてから巻いて、ひと口食べる。
「どう?」
「意外とうまい。レモンジャムとクリームチーズは夏っぽくて、いいかも。さきいかのしょっぱさも、アクセントになる。でも、酒のつまみみたいで、スイーツではない」
「ひと口ちょうだい」大地の食べかけを泉水はもらう。
レモンジャムの黄色は泉水、クリームチーズの白は大地、それぞれのメンバーカラーだ。色合いは企画に合っている。夏の暑さの中では、生クリームよりもクリームチーズの方が爽やかで食べやすそうだ。味も見た目も悪くない。けれど、さきいかの味やにおいが強すぎる。
「どう?」
「さきいか入れたら、なんでも酒のつまみみたいになりそうだな」
「これ、なしだな」大地はさきいかの袋を端によける。
それぞれ、いくつか試作して、食べていく。
おいしいと感じるものは、定番であったり、どこかのクレープ屋のメニューにすでにありそうなものであったり、スイーツよりおかずみたいなものであったりして、なかなか「これ!」というものにならない。バラエティ番組で自分たちが食べるだけであれば、おいしくないものでも笑いになるからいい。だが、売物にしてファンの子たちが食べるものだ。
「甘いだけだと、飽きるんだよ」泉水はよけたさきいかを取り、そのまま食べる。
「苦さやしょっぱさがアクセントに入ってるといいのか」
「苦さ?」
「センブリ茶とか?」
「罰ゲームかよ」
「難しいな」立ち上がり、大地は冷蔵庫からペットボトルのお茶を二本出してくる。
両方開けて、一本を泉水に渡す。
「なんで、開けてもらってるんだっけ?」泉水は大地に聞く。
「なんか、習慣」
「いつから?」
「えっと、あれだよ、中三くらいの時に、泉水が骨折したじゃん」
「ああ、あの時か」
中学校三年生の夏休みが終わるころ、泉水は急にバク転ができなくなった。
夏のコンサートではできていたのに、それが終わった後のレッスンでバランスを崩すようになった。成長期で身長が伸び、体型が変わっていく時期だ。無理しない方がいいとダンスレッスンの先生に言われ、自分でも理解していた。けれど、アクロバットが自分の武器だと考えていたため、焦る気持ちは強くなっていく。休憩時間も練習を繰り返し、疲れていたのもあり、腕に力が入らなかった。身体を支えられずに倒れ込み、右手首を骨折した。しばらくは三角巾で腕を下げた状態で仕事に行き、できる範囲でレッスンに参加した。その時、大地と一緒に情報番組のロケコーナーにレギュラーで出演していた。ロケの合間、できないことを大地が手伝ってくれて、ペットボトルを開けてもらった。今は、最初に開けてもらうだけだが、その時はひと口飲むごとに開け閉めをお願いしていた。
「めっちゃ迷惑かけたよな」泉水は、お茶を飲む。
「泉水には、他にも思い出せないくらい、迷惑かけられてるから」
「それは、お互いさまだろ」
「いやいや、そんなことないから」
「そんなことあるって」
「でも、どれだけ迷惑をかけられても、返せないくらいの恩もある」
「……恩?」
「事務所に入った時、泉水が最初に声を掛けてくれた。オーディションに受かってレッスンに参加するようになったけど、オレはダンス経験もなかったし、どうしていいかわからなかった。全然ついていけなくて、もう嫌だなって思っていた時に、泉水が声を掛けてくれたんだよ」
「そうだった?」
「レッスンの後、お菓子食べながら、これ好きに食べていいんだよって声を掛けてくれた。終わってから、クレープ屋に寄っていこうって声掛けてくれたのも、泉水だった。そのせいか、オレの中では、泉水はアクロバットよりグループのリーダーでMC担当っていうより、いつもお菓子やクレープを食べてる人っていう印象」
「うーん」
考えてみても、泉水は大地に声を掛けたことを思い出せなかった。
だが、大地と初めてレッスンで会った日のことは、憶えている。
泉水と大地は同い年だけれど、事務所に入ったのは二年ほど差のある先輩後輩だ。大地が入ってきた時、泉水は三年目で、すでに事務所のシステムに慣れていた。仕事はあるものの、プロ意識みたいなものは、まだ弱かった。体操の大会のように、明確なルールで順位がつくわけではない。それでも、競い合う感情が必要になる。そう理解しながらも、泉水はみんなと仲良くして、楽しく活動できることを大事にしていた。負けて落ち込む自分も、勝って喜ぶ自分も、苦手だったのだ。
レッスン場に大地が入ってきた時、泉水は同期の友達と喋りながら、ストレッチをしていた。
事務所の先輩には、国民的スターと呼ばれる人もいる。そういう人が近くにいると、その場の空気が変わる。大地を見た瞬間、それを感じた。オーディションに受かった新人が来ることは、事前に聞いていた。子役として活動していたとか歌やダンスがうまいとかだと、先に「すごい奴が来る」と噂がまわった。芸能活動の経験もなければ歌やダンスを習ったこともなかった大地について、そういう噂は一切なかった。けれど、入ってきた瞬間に「スターになる人が来た」と、泉水にはわかった。説明できるような理由はなくて、直観としてそう思った。多分、それを感じ取れるのも、才能のひとつなのだ。
誰も大地に声を掛けなかった中、泉水が声を掛けたのだろう。
しかし、最初の印象が強かったため、その時のことを泉水は忘れてしまった。
仕事をしていく中で、泉水の意識が変わった瞬間は「泉水」と書かれたうちわを持ったファンを見た時以外にも、いくつかある。先輩グループのバックについてドームツアーをまわった時には、もっとがんばらなくてはいけないと感じた。ダンスレッスンの時、いつも厳しい先生に褒められると、嬉しかった。言われるまま仕事をするしかなかったのに、つづけるうちに意見を聞いてもらえるようになり、責任を覚えるようになった。
ドアが開き、レッスン場に大地が入ってきた時も、そういった瞬間のひとつだった。
もっと努力しなければ、篩い落とされることに気が付いた。
先輩たちを見て、努力だけではどうにもならないことも知っていたけれど、努力しないことには先がないこともわかっていた。勝負ごとが苦手なんて言っていられない、厳しい世界にいるのだ。ひとりで、勝ち進むことはできない。先に進むためには、誰と味方になるのかも、重要だった。
まだ話したこともなかったのに、大地を見て「いつか、この人と一緒のグループになり、デビューしたい」と、泉水は夢を見た。
「やめて、何すんだよ?」泉水はペットボトルをテーブルに置く。
「まずは、大学に行く。それから、先のことを決める。年齢的に普通に学生生活っていう感じでもないかもしれないけど、十代のうちにできなかったことをしてみたい」
「……そうか」
その気持ちは、泉水も理解できないわけではない。
何万人ものファンの前で歌って踊り、他の人には見られない景色を見て、特別な経験をしてきた。けれど、地元の友達が経験するような多くのことは、できなかった。泉水と大地は高校三年生の時にアンパッサンに入ったため、大学進学という選択肢は考えもせず、切り捨てた。大学に通いつつ活動する人だっているが、人生の全てをグループに懸けることを決めたのだ。
それでも、先は見えない。
これ以上、何を失っていくのか考えると怖くなることは、泉水にもある。
人生は一度だけで、それぞれで思いは違う。
グループでのことは、大地にとって過去の思い出になっていくのだろう。
摑むべきチャンスを摑めなかったのではなくて、その状況さえも作れなかった。
全ては、ただただ通り過ぎていくばかりだ。
「泉水が声を掛けてくれて、友達になってくれて、一緒のグループになれたから、がんばれた」
大地はまっすぐに前を向き、泉水の方は向かずに話す。
「オレたちは、これからスターになる。大地がいなくても、必ずデビューする。その時、後悔すんなよ」
「CD買うよ」笑いながら言い、大地は上半身を捻る。
「そのためにも、今回のスイーツ対決は盛り上げたい」泉水も腕を大きく伸ばし、肩に入っていた力を抜く。
「試作、つづけるぞ!」
「……お腹いっぱい」
「気を付けつつ食べるって言ってただろ!」
「気を付けてたけど……」
「レッスン場行って、踊ってこい!」
「その気分じゃない」
テーブルに倒れ込む泉水を見て、大地は笑い声を上げる。
試作したクレープから、泉水と大地がいくつかアイデアを出し、ふたりのメンバーカラーを使ったレモンとチーズのクレープがいいのではないかということになった。監修してくれるプロのパティシエが泉水と大地からアイデアや希望を聞き、クリームチーズとはちみつレモンジャムのクレープを作ってくれた。アクセントに岩塩とレモンピールが入っている。生地には、黄色と白の銀テープを思わせるような模様も付けた。ひとつひとつ包み、持ち帰りもできるようになっている。
「すごっ!」
事務所のミーティングスペースで見本品を見て、泉水も大地も声を上げる。
自分たちで作ったものとは比べものにならないくらい、生地はキレイに焼けているし、模様もかわいく入っている。片手で持ちやすいサイズで、おやつとして軽く食べられそうだ。ファンの子たちも気に入ってくれるだろう。
「食べていいんですか?」泉水は、横にいるマネージャーに確認する。
「いいよ。収録の時には、他のチームの作ったものを食べてもらうことになるから、自分たちのものは先に食べて、味を確かめておいて」
「わかりました」
泉水と大地はひとつずつもらい、向かい合って椅子に座る。スマホが鳴り、マネージャーが出ていき、ふたりきりになる。
「食っちゃっていいかな?」出ていったマネージャーの方を気にしつつ、泉水は包みを開けていく。
「いいだろ」
「いただきます」ふたりは声を合わせ、クレープの半分をひと口で食べる。
甘すぎないクリームチーズとはちみつの甘さの効いたレモンジャムが合っている。岩塩のしょっぱさとレモンピールの苦さがいいアクセントになっていた。暑い日に食べるには、ちょうどいい。
「さきいか入れたやつと全然違うな」大地が言う。
「あれはあれでうまい気がしたけど、プロってすごいな」
「これ、生地と生地が重なった間に岩塩が入ってるのか」
「中に入れると、溶けちゃうんじゃん」
泉水と大地は、クレープの断面を見ながら話す。
春のはじめ、まだ寒いころにはじまったアリーナツアーは、宮城公演で無事に終了した。東京に帰ってきた時には、すでに暑くなっていた。試作した時は、夏休みを先のことのように考えていたけれど、もうすぐというところまで近付いてきている。泉水はツアーの最終日まで「また六人で」と、嘘をつきつづけた。それは嘘だけれど、その気持ちに嘘はない。寒くなるころ、大地はアンパッサンにはいないなんて、信じられなかった。中学校一年生のころから十年間、先輩たちのコンサートのバックや自分たちのコンサートで、泉水と大地は必ず一緒にいた。今年が最後であることを実感するのは、まだ難しい。
「他の二組、何作ってんだろ?」クレープを食べ終え、大地は包みに貼られた番組ロゴのシールをはがしていく。
「ふざけたもの、作ってんじゃないの?」
「どうだろ」
「なんで、シールはがしてんの?」泉水はクリームチーズに混ざったレモンピールを指ですくう。
レモンピールだけでも充分においしいけれど、クリームチーズやジャムと混ざることで、引き立て合うことができる。
「記念」
「なんの?」
「泉水との最後の仕事」
「十月終わりまで働くんだから、まだ最後じゃないだろ」残りのクレープをひと口で食べる。
大地がいないことに慣れるまで、時間はかかるだろう。
慣れる日なんて、来ないのかもしれない。
ファンの子たちは泣いて、アンパッサンから離れていく子もいると思う。
それでも、つづけるしかない。
甘さも苦さもしょっぱさも、まとめて飲みこむ。
*
本作は、3月4日発売の『やるせない昼下がりのご褒美』(ポプラ文庫)に収録されます。

■ 書籍情報
『やるせない昼下がりのご褒美』
大好評アンソロジー第3弾!心とおなかの空腹をあたたかく満たす短編集。
あの人と過ごす「おやつ」の時間が、今日を乗り切る力をくれる。妻子ある相手と夜をともにした伊豆の山奥のホテルで。忘れられない同級生と屋上につづく階段で。さまざまな果樹が茂る瀬戸内海の島の庭で。もうすぐ卒業するメンバーと取り組む最後の仕事で。幼い息子との思い出のドーナツショップで。憧れの女性たちと出かけたいちご尽くしのピクニックで。心とおなかの空腹をあたたかく満たしてくれる珠玉の6篇!
■ 著者プロフィール
畑野智美(はたの・ともみ)
1979年、東京都生まれ。2010年『国道沿いのファミレス』で、第23回小説すばる新人賞を受賞し、デビュー。13年『海の見える街』、14年『南部芸能事務所』で、吉川英治文学新人賞の候補となる。他の著書に、『消えない月』『大人になったら、』『若葉荘の暮らし』『ヨルノヒカリ』『世界のすべて』『アサイラム』『宇宙の片すみで眠る方法』など多数。最新刊『30代後半、独身、ひとり暮らし』を3月25日発売予定。

