
昨日、ふるさとの母から電話が来た。郵便局の口座に今月分の仕送りを振り込んだことと、不登校をしている高校のクラスの担任から連絡があったという。留年するにも退学するにも、年末までに一度、学校に顔を出してほしいそうだ。
どうする? と聞かれて、前川美也は「もう少し考えてみる」と応えた。
いつまで、と問われて、「わからない」と正直に言うと、ため息をつかれた。
「お母さんはどう思ってるの」と聞くと、「高校は卒業したほうがいいけど、美也のしたいようにすればいいと思ってる」と言った。
オーブンの加熱終了の音が聞こえた……気がする。
身体の向きを変えると、それははっきりと耳に届いた。
こんがりと焼けたパウンドケーキをオーブンから出し、美也は型から外す。ケーキクーラーに載せると、小さなため息が出た。
自分は生まれつき左耳の聴力が弱い。幼い頃は身体が弱くて寝込むことも多かった。祖母から聞いた話では、父親はそれを母のせいだと言ってひどく責めていたという。まったくの言いがかりだ。でも別れた父はそういう人だった。
大阪にいた幼い頃、父は酔っ払ってばかりいて、母を罵ることが多かった。自分の耳でもはっきりと聴き取れたということは、毎回かなりの大声を出していたのだ。小学一年生になったとき両親が離婚して、母の郷里、南アルプスの山間の集落に移り住んだときはほっとした。
さらには母がスーパーで一緒に働いていた「常夏荘のおあんさん」と、惣菜と菓子の会社を興し、やがて社宅として常夏荘の敷地にある長屋に引っ越したときは飛び上がるほど嬉しかった。
常夏荘には遠藤家の一人娘「本家のこあんちゃん」こと、美也にとって一つ年上の親友、瀬里がいる。
常夏荘とは、昭和の時代に「山林王」として、広く世の人々に知られていた遠藤一族の本家の邸宅の総称だ。この場所を取り仕切る代々の女主人は「おあんさん」と呼ばれている。峰生の小高い丘の上にある広大なその敷地には、遠藤家の私邸のほかに、昔は遠藤林業の本社や従業員用の保養施設などが併設されていた。
平成に入り、それらの施設は古びていくばかりだった。そこに一九九八年に母たちが興した会社「なでしこ屋」が入り、二〇〇八年の今、かつての保養施設は社宅や託児所、倉庫になっている。
過去を振り返ると、自分にとって両親の離婚は決して悪いことではなかった。しかし、家庭がうまくいかなかったのも、娘の身体が弱かったのも、すべて自分のせいだと母は思っている節がある。
だから母は娘の進路について強いことを言わない。
それがわかっているから、母には言えないことがある。
住まいを出ると、秋の澄んだ空気に香ばしいバターの匂いが溶け込んでいた。
さきほど焼き上げたばかりのパウンドケーキの香りだ。
キッチンの窓から流れてくる香りを楽しみながら、女性たち四人で暮らしている建物の庭を美也はゆっくりと歩く。
十一月に入り、芝生は黄色くなりはじめていた。乾いた芝生の色が、桜や楓の紅葉の色をいっそう鮮やかに見せている。
郷里の峰生では、朝晩はもう暖房をつけているそうだ。でも東京はいつまでも暖かく、先週からようやく銀杏や桜の葉が明るい色に染まってきた。
庭の隅にある木戸を開け、美也は振り返る。庭のウッドデッキに置かれた白いパラソルとテーブルセットの向こうに、やはり白に塗られた木造の二階建てがある。
通っていた農林高校でいじめを受けたのを機に、今年の春以来、家にひきこもっていた。
そんなとき、夏に帰省してきた瀬里に東京に出てこないかと誘われた。そして瀬里が東京に戻るとき一緒に上京し、彼女が友人の関口千夏と借りているこの家に住み着いた。
この家は一階に広いリビングと風呂などの水回り、キッチンと食料庫がある。二階にはそれぞれに専用のバスルームが付いた広い二部屋と、六畳の部屋が二つ、合計で四部屋がある。ホテルにも転用できそうな造りだが、来年には取り壊して隣接している撮影スタジオの駐車場にするらしい。
瀬里と千夏はバスルーム付きの部屋に入居しており、美也は六畳の部屋で暮らしている。
残りの一部屋は、美也が入居したあと、「ネコ」こと瀬里の祖母の友人、神島寧子が暮らすようになった。彼女は週末になると、南青山にある自宅に戻っていくが、平日は二階の部屋でのんびりと過ごしている。
この家の持ち主は「上屋敷」と呼ばれる遠藤家の分家で、仲介してくれたのは瀬里の大伯父だ。「親戚」という縁故の強い力と、来年三月までの契約なので、渋谷に近いのに家賃は格安。そのうえ撮影スタジオの敷地内にあるので、セキュリティも万全だ。
「ハウススタジオ」と呼ばれる形態のこの撮影施設は昔、上屋敷の迎賓の場を兼ねた豪華な邸宅だったという。しかし現在は映画やCM撮影、パーティやウェディングの用途にレンタルされている。瀬里たちと、ネコの言葉を借りれば「ハウスシェア」をしている物件は、その邸宅の「離れ」と呼ばれていた建物だ。
スタジオの事務所に行き、給湯室で美也は空になった弁当箱を五つ、バスケットに詰める。
千夏はこのスタジオで受付や撮影助手のアルバイトをしている。彼女に月、水、金、と届けていた昼の弁当が美味しそうだと評判になり、最近ほかのスタッフの昼の食事も請け負っている。
高校の食品科学科にいた身としては、弁当などを売って収入を得るには保健所などでの手続きが必要だとわかっている。その手続きをするための資格は、十七歳以上であれば講習会に参加すれば取得できる。ところが、原則として高校生の間はその講習に参加できない。だから弁当代を受け取るたびに、無許可で営業しているうしろめたさを感じてしまう。しかし、営業ではなく、材料費と手間賃をもらって友人に食事を振る舞っていると思えば、ぎりぎり許されるのではないかと考えたりもする。
男性の声で、名前を呼ばれた気がした。
どこから声がしているのかわからず、美也は注意深くあたりを見る。
スタジオマンと呼ばれる撮影助手の青年、尾形が手を挙げている。
尾形の唇が動き、「おいしかった」という声が聞こえる。ほめられているのだと推測し、美也は丁寧に頭を下げる。
今日は補聴器をつけていないので、相手が立つ場所によって、言葉が聞き取りづらい。
ああ、と言って尾形が微笑み、美也の右側に移動した。
「ごめん、つい忘れて。聞こえづらいの左だっけ」
で、お願いできる? と尾形が聞き、手を合わせた。
「引き受けてくれるとありがたい! 毎回気難しい人でさ」
「えっ、あの、なんでしたっけ。……すみません」
尾形がわずかに顔をくもらせた。
「美也ちゃん、聞こえなかったらちゃんと言ってよ。遠慮せずに」
それを言うタイミングがつかめなくて、いつも困ってしまう。迷っているうちに話はどんどん先へ進み、気持ちが萎縮して身動きが取れなくなる。補聴器を付けてくればよかったのだが、ここにいると安心してときおり忘れてしまう。
尾形が再び説明をした。先日、スタジオの事務所におやつに差し入れたパウンドケーキをたまたま食べた女優が、その味を気に入ったらしい。どこで売っているのかと昨日連絡があり、スタジオの敷地内で作っているものだと聞くと、知人への贈り物にまとまった数を購入したいという。
自分はプロではないからと美也が断ると、尾形は残念そうな顔をしている。
「でも、すごく気に入ってたよ。どこの店で売ってるのかって聞いてきたぐらいだから、プロ並みなんじゃない?」
「まだ売るほどのものではないんです。とても、そんな……すみません」
上手に断るのが苦手で、逃げるように事務所をあとにして、離れに戻った。キッチンの椅子に座って、ため息をつく。
こしらえたものをほめられるのは嬉しい。でもそのたびに悩む。
峰生農林高校を退学するのか、それとも来年、復学するのか。
迷っていると、再び気持ちが縮こまってきた。
でも、あの学校にはもう戻りたくない。
退学すれば「食品衛生責任者」の講習に参加できる。自作の弁当や菓子の販売も可能だ。しかし、高校中退で社会に出て大丈夫なのだろうか。
ただいま、と澄んだ声がして、瀬里がキッチンに入ってきた。
「いい香り。おっ! ケーキだ」
「おかえり、こあんちゃん。お茶飲む?」
飲む飲む、と言って、瀬里がカウンターの前の椅子に腰掛けた。
色白で可憐な顔立ちだが、瀬里の眼差しには力がある。カラーコンタクトを入れなくても黒目が際立つ瞳は、東京のきれいな人たちのなかに入ってもひけをとらない。ところが本人は自分の美しさに無頓着で着飾らない。今日もカーキ色のカーゴパンツに黒の長袖Tシャツを着て、腰にはグレーのパーカーを巻いている。一七五センチの長身にその服装は似合っていたが、遠目には長髪を一結びした男の子のようだ。
紅茶の缶を並べた前に立ち、美也はたずねる。
「ミルクティーにする? それともストレート?」
「迷うなあ……お菓子はスポンジケーキ?」
「スポンジケーキの型で焼いたから丸いけど、材料はパウンドケーキ。輪切りにしてジャムを挟むよ。ヴィクトリア・ケーキみたいにする予定」
「素敵! じゃあミルクティー」
「ちょっと待ってね。仕上げをするから」
粗熱をとっていたパウンドケーキを横に二つに切り、美也は切り口に丁寧にジャムとバタークリームを塗る。
スライスしたケーキを元の形に戻すと、おしゃれなスタンドに載せたくなった。
白い陶器のケーキスタンドが戸棚にあることを思い出し、背伸びをして扉を開ける。スタンドに手が届かなかったので、踏み台を取りにいこうと思ったとき、瀬里が立ち上がった。
隣に並ぶとひょいと手を伸ばし、スタンドを取って渡してくれた。
瀬里は幼い頃から背が高く、高いところの荷物を取ったり、かさばる荷物の運搬を手伝ってくれたり、気配りが細やかで優しい。
本当は常夏荘のお姫様なのに。実際のところ、お姫様扱いを受けているのは、昔から瀬里の周りにいる小柄な女子たちだ。
「どうしたの、美也ちゃん」
「なんか、こあんちゃんが恰好良くてドキドキしてた」
「美也ちゃん、それは疲れてるんだよ。座ってて。お茶は私が淹れたげる」
「ますますイケメンっぽい。ねえ、こあんちゃん、恰好良く何か言って!」
「えー、どう言えばいいの?」
「お芝居みたいに! 宝塚の素敵な人みたいに!」
峰生から浜松方面にしばらく進むと「春野」という町がある。母の従姉が住むその町は「すみれの花咲く頃」の作詞をした、宝塚歌劇団の有名な演出家の故郷だ。その縁で母の従姉も歌劇が好きで、幼い頃、宝塚大劇場に連れていってもらったことがある。
瀬里が笑ったあと、不意に真面目な顔になって「ミルクティー」と低い声で言った。
「いい! ミルクティー! お茶が沸騰する! 恰好良すぎて!」
「沸騰させちゃダメだって。じゃあ、えーとね……ヴィクトリア、ケーキ!」
すっかり乗り気になった瀬里が芝居っけたっぷりに言う。まるでヴィクトリア・ケーキ姫を呼ぶ騎士のようだ。
ああ、びっくりした、と低い声がした。
黒革のライダースジャケットに黒いパンツ。ロッカーのような服装をした女性がバスケットを持って、キッチンに入ってきた。豊かな白髪はきれいに結い上げられ、朱塗りのスティックで留めてある。
四人目の同居人、瀬里の祖母の親友、「ネコ」だ。
「思わず『はーい』って、返事しそうになっちまった。あたし、ヴィクトリアじゃないのにさ」
「ネコばあちゃまー!」
ふざけた瀬里が再び芝居っけたっぷりに言う。
あいよ〜、と張りのある声でネコが応える。気が付くと、笑っていた。
この家にいると、ふざけたり笑ったりすることがとてもたやすい。
「ちょうどよかった。ガールズに貢ぎ物を持ってきたよ。長野に住んでるダチからハンパーが届いてね」
ネコが蓋がついた大きな籘のカゴをカウンターに置く。
ネコの名刺には「漂泊者」という肩書きに「さすらいもの」とルビが振ってある。人を煙に巻く肩書きだが、本業は有名なジャズピアニスト&シンガーだ。
瀬里が不思議そうにたずねた。
「ハンパーって何、ネコばあちゃま」
「籘のカゴって意味だけどね、開けてごらん、ジョー&エイミー」
ネコは夏の終わりに、瀬里の祖母と二人でこの家に現れた。その折に共同生活をしている三人を「若草物語」の登場人物になぞらえ、おしゃれな千夏を「メグ」、元気な瀬里を「ジョー」、一番年下の美也を「エイミー」のようだと言った。そしてあと数年若ければ自分がピアノを好む「ベス」になって住んでみたいと言ったのがきっかけで、最後の空き部屋に入居した人だ。
なんだか怖いなあ、と言いながら、瀬里がカゴの蓋を開ける。
その瞬間、二人で歓声をあげてしまった。
紙箱のなかに横に四個、縦に六個、粒のそろったイチゴが整然と並んでいた。実の上には透明なカバーがかかっている。その下には同じイチゴの箱がもう一つ。それを取り出すと、今度は同じ仕様の箱が二つ現れた。そこにはイチゴの代わりにキイチゴが入っている。赤い宝石をずらりと並べたかのようだ。
キイチゴのケースを外に出すと、下にはビスケットの箱とハーブティー、ワインの小瓶が入っている。
ネコの説明によると、イギリスではこのハンパーにとっておきの食料品や飲み物を詰めて旅に出たり、遊びに出かけたりする習慣があったそうだ。年末にはクリスマス・ハンパーと呼ばれる食材の詰め合わせが作られ、日本のお歳暮のように贈り物をするならわしもあるらしい。
クリスマスにはまだ早いが、これはネコの友人が地元の美味をカゴに詰めた贈り物だ。
「たしかに、このカゴだけでピクニックに行ける」
瀬里のつぶやきに、美也はうなずく。
「こあんちゃんと昔、そんな本を読んだっけ。食べ物を詰めたバスケットを持った子が、屋根裏部屋にいる主人公に会いに来るの」
あった、と瀬里がカゴを撫でた。
「たしか、なんたらガードって名前の子だった。本の名前は覚えてないけど」
リトル・プリンセス、とネコがきれいな英語の発音で言った。
「『小公女』だよ。その子はアーメンガード。主人公はセーラさ」
「そうだ! それだ。ネコばあちゃま、よく覚えてるね」
「あたしは筋金入りの少女小説好きでね。自慢じゃないが、小公女は菊池寛の訳の頃から読んでる。その場面を英語で読めば『ハンパー』って単語が出てくるよ、つまりこれさ」
ネコがカゴを指差すと、瀬里が「読んでみる」と言った。そのあといたずらっぽい口調で続けた。
「こんな素敵な贈り物。ネコばあちゃまは私たちの『腹心の友』だね」
「おやおや、あたしは試されてるのかい? 『腹心の友』。そいつはアン・オブ・グリーンゲイブルズ。『赤毛のアン』に出てくる言葉だね」
ネコがイチゴが入ったケースを手にした。
「じゃああたしからもお返しだ。『赤毛のアン』シリーズに、たしか『はしりのいちごでお茶にしましょうよ』って言葉があったはず」
二巻です! と思わず美也は手を挙げる。瀬里がクリスマスプレゼントにサンタから贈られたそのシリーズは、常夏荘の庭で貪るようにして二人で読んだものだ。
「それは『アンの青春』で、アンがミス・ラベンダーの家に遊びにいったときの話です」
瀬里が隣でなつかしそうな表情になった。
「そうだよ。たしかクリームをかけてイチゴを食べるんだよね」
ネコが身体をゆするようにして笑った。
「あたしはここに来るのがほんと楽しいよ。若草物語、小公女、赤毛のアン、秘密の花園、あしながおじさん……野郎どもはこういう話を読まないからね。さて」
ネコがケースに手を伸ばし、一粒のイチゴを口に放りこむ。
「このイチゴは酸味がやや強いんだ。シャンパンとは絶妙のコンビだが、アルコール抜きで食べるなら、ミス・ラベンダー方式がいい。生クリームはあるかい?」
ポタージュスープに入れようと思い、特売のときに買った生クリームがある。泡立てるかとたずねると、ネコが首を横に振った。
「泡立てなくていい。イチゴにすこうし砂糖をかけて、上からクリームをかけて食べよう。でも、その前にあたしはこれと一緒につまんでみたいな」
ネコがカゴに入っている酒の小瓶を指差した。二百ミリサイズのワインかと思ったが、この瓶はシャンパンのようだ。
こんな小さなサイズの瓶があるのかと感心して美也は手に取る。ふと、さきほど見た、庭の見事な紅葉を思い出した。
「ねえ、ネコさん、外で食べませんか。今日は紅葉がきれいです」
「いいね、庭でピクニックとしゃれこもう」
「それなら私、外のテーブルをセッティングしてくる」
瀬里が楽しげにキッチンを出ていった。
酒の小瓶を手にしたまま、美也はキッチンを見回す。ネコはこの家でシャンパンや「プロセッコ」と呼ばれるスパークリングワインを好んで飲む。シャンパンクーラーはすぐに取り出せる場所にあるが、小瓶を浸けるのには大きすぎる。
そこで銀色のトレイに、ステンレスのボウルを置いた。酒の小瓶をボウルのふちに立てかけ、ぎっしりと氷で埋める。その上から少し塩を振った。そうすると氷の温度がさらに下がって、速やかに瓶の中身が冷えるらしい。
「なでしこ屋」の託児所で行われたクリスマス会を母と一緒に手伝ったことがある。その折、会社から子どもたちに差し入れされたシャンメリーを急いで冷やしながら、母がこの技を教えてくれた。
濡れた瓶が拭けるように、リネンのキッチンタオルを丁寧に畳んで添える。続いてイチゴを数粒取り出して洗い、カットガラスの器に盛り付けた。
手際がいいね、とネコが満足そうに言った。
「やっぱりよかった。ここに持ってくると、エイミーが何かしらいい按配にしてくれると思ったのさ」
調理は好きだがプロではない。そうかといって今の自分は高校生とも言いがたい。どこにも所属していない中途半端な存在だ。
それでもネコの言葉を聞いて、少し自信がついてきた。
瀬里がカトラリー類をセッティングしたテーブルには、赤いギンガムチェックの布が敷いてあった。
イチゴに生クリームをかけた小鉢を運んだあと、美也はキュウリのサンドウィッチを盛り付けた皿を運んだ。続いて、瀬里が紅茶を淹れている間に、ヴィクトリア・ケーキの表面に真っ白な粉砂糖をかけ、もらったばかりのキイチゴを飾る。
飾り付けたケーキをテーブルに運ぶと、ネコはイチゴをつまみながら、シャンパンのグラスを傾けていた。
「魔法のように午後のおやつが現れた。ケーキにサンドウィッチに果物に」
ポットに入った紅茶とミルクピッチャーを瀬里が運んできた。
「ネコばあちゃま、ミルクティーもありますよ。お酒でお腹が冷えたら、これであっためて」
細かな泡が立っているシャンパンのグラスに、ネコがイチゴを沈めた。
席についた瀬里が、そのイチゴを不思議そうに眺めている。
「考えてみると、今の時期にイチゴって珍しいね」
「これは新しい品種のイチゴでね。夏から秋にかけて実るんだ。若いダチが試験的に栽培を始めたもの。……ジョーもエイミーもどうぞ、先に食べとくれ」
さっそく「イチゴの生クリームがけ」を一匙口に含む。生クリームのまろやかな舌触りが心地よい。イチゴを嚙むと、瑞々しい香りと酸味が口のなかで弾けた。砂糖がその刺激に甘さを添え、華やかな味わいが広がっていく。
おいしい、という声が瀬里と重なった。瀬里が口に手を当てている。
「びっくりした。すごくフレッシュ! 野性味というか、酸味があって」
感想を言いたいが、瀬里のように言葉が出ない。うなずきながら、美也は二匙目を口に運ぶ。瀬里が楽しげに言葉を続けた。
「ネコばあちゃまも食べてよ。クリームがひんやりして気持ちいいよ」
ネコが酒のグラスを置いて、匙を手にした。
なつかしい、とつぶやく声がした。
「『ストロベリーズ&クリーム』。このイチゴの味は昔、海外で食べたものに似ている」
「どこにいたとき? アメリカ? カナダ? ヨーロッパ?」
瀬里の問いに、イギリス、とネコが答えた。
「ウインブルドンで食べた。貴族のぼうやとテニスの試合を見ながら」
このイチゴの食べ方はイギリス風なのか。
それなら今日のこのテーブルはヴィクトリア・ケーキにキュウリのサンドウィッチと、英国の食尽くしだ。
ネコにそう言うと、空になった酒のグラスを軽く振った。
「そう言いたいが、これがフランスのお酒だ。どれどれ、フランボワーズでもいただこうかね」
ネコがひょいと手を伸ばし、ケーキの上のキイチゴをつまむ。瀬里が再び不思議そうにたずねた。
「フランボワーズって、ラズベリーのこと?」
「そうだよ、フランス語と英語。どっちも同じキイチゴのことさ」
「ネコばあちゃまはどうやって外国語を覚えたの?」
大学の英語学科を目指して浪人中の瀬里が興味深そうに身を乗り出した。
「ペンフレンドとボーイフレンドから」
そっちか、と瀬里が笑っている。
「それはなかなか難しいなあ」
「当時はメールなんてないから、せっせと手紙を書いたし。好きな人とはたくさん話をしたいから、どんどん語彙が増えたよ」
ただ、そうだね、とネコが酒をグラスに注いだ。
「真面目なことを言えば、単語の成り立ちを知っていると語彙が増える。知らない言葉もなんとなく見当がつく」
キイチゴを食べたネコが「いい香り」とつぶやいた。
「たとえばフランボワーズ。一説には、この単語はフランス語のイチゴ『fraise』と、ギリシャ神話の神の食べ物『ambrosia』が合体したって話さ」
「『神々のイチゴ』って意味?」
「まあ、そんなところ。ピロートークで聞いた話だから定かじゃないが」
ピロートーク、とつぶやき、瀬里が恥ずかしそうに目を伏せた。
二人の言葉は高尚で、自分にとって神々の会話のようだ。
切り分けてあるケーキを皿に盛り付け、美也はそれぞれの前に置く。ネコが今度は、自分の皿のケーキのキイチゴをつまんだ。
「そして英語の『ambrosial』は『いい香り』や『神々しい』という意味がある」
話の輪に入れず、美也もケーキの飾りからキイチゴをつまんで食べてみる。バラの花のような芳しさを一瞬感じた。
キイチゴと聞くと、ふるさとの森の藪のなかで輝く実を思う。しかし、ネコの言葉を聞いた今は、高貴な木の実に思えてきた。
瀬里がイチゴを匙ですくった。
「それならストロベリーはstrawとberryで『藁のイチゴ』? 『藁のベリー』? どうして藁? ラズベリーと違って、地面に生えてる草の実だから?」
草の実という言葉が妙に心に沁みた。
瀬里が木に実る「神々のイチゴ」なら、自分はきっと地面で実る「藁のイチゴ」だ。
ネコの声が聞こえてきた。
「ストロベリーは繊細でね。実が土につくと傷む。だから藁を敷いて育てるからって覚えた。でも「地を這う」って意味の古い言葉からという説もあったね」
今度はイチゴを口に運んでみた。『ストロベリーズ&クリーム』という言葉を覚えたとたん、英国の貴婦人になって、イチゴを食べている気分だ。
しかし、藁のイチゴは繊細で、育てるのに手間がかかるのか。
左耳に手を当てると、ふるさとの母のことを思った。
高校生になって、身体は昔より丈夫になった。でも心は昔と変わらず強くない。そして、母にたいした説明もせずに、東京に出てきた。
母は、育てるのに手間がかかる娘をどう思っているだろう。
二つ目の藁のイチゴを噛む。今度は酸っぱい。
瀬里が紅茶のポットにかぶせていたティーコジーを外し、ネコにお茶を淹れた。続けて美也の前のカップに手を伸ばす。
「いいよ、こあんちゃん、自分でやる」
「今日は私がお茶係」
銀のフォークを手にして、ネコがうまそうにバター色のケーキを口に運んだ。
「いいねえ、このケーキ。フルーツのあとにどっしりしたものを食べると、おなかが落ち着く」
英語の話は終わり、二人が楽しげにケーキを食べ出した。
会話に入れなかった自分に、気を使ってくれた気がする。ありがたいけれど、今度はそれが申し訳なく思えてきた。
一人でいると寂しい。でも誰かといると、いつも自分はこの場にいてもいいのか不安になってくる。
ネコが二切れ目のケーキを皿に取った。
「スポンジケーキやシフォンケーキのフワフワっぷりもいいんだが、パウンドケーキのこの安定感。いいね、バターケーキの面目躍如だ」
瀬里が首をかしげている。
「パウンドケーキとバターケーキって同じ?」
同じ、と美也はうなずき、言葉を続ける。
「パウンドケーキってバターケーキの一種なの」
「じゃあ、スポンジケーキとパウンドケーキはどう違うの、美也ちゃん」
「バターの量が全然違う。母から教わったレシピだと」
気を使われていることを感じながらも、こうした話をすると声が弾む。
「スポンジケーキはね、卵を泡立てて作るんだけど、パウンドケーキはバターを練って作る感じ」
「そんなにこのケーキ、バターが入ってるの?」
「ヴィクトリア・ケーキの土台のパウンドケーキは、卵、砂糖、小麦粉、バター、それぞれおんなじ量が入ってるよ」
ネコが言葉の由来の話をしていたのを思い出し、美也は言い添える。
「それがパウンドケーキの由来って母から聞いた。昔はそれぞれの材料が一パウンドの量を使っていたからだって。……一パウンドって何グラムか知らないけど」
「450グラム前後さ」
ネコの言葉に「えー」と瀬里が小さな声をもらした。
「四つの材料で二キロ近く? 昔の分量で作ると、ずいぶん大きなサイズになるね」
日持ちするからいいんだよ、とネコが笑った。
「でっかくたって、それだけアブラと糖分が入っていれば長く持つ。冬場なら常温で持ち歩くこともできるし、遠方の人に贈ることだってできる……そうだ、エイミー、残ったイチゴでジャムを作ってくれないかな?」
そのつもりでいたと応えると、ネコがほれぼれとした顔でヴィクトリア・ケーキを見た。
「さすがだ、そうしたら、そのジャムを挟んだこのケーキを作っておくれよ。お礼も材料費も奮発するよ。イチゴのダチに贈りたい」
「お礼は……いいです。というかもらえません」
尾形に頼まれたケーキのことを思い出した。友人に振る舞う範囲ならいいが、やはりケーキを売って報酬を得るのは良くない。
「私は作った食べ物を売る資格を持ってないんです。保健所の審査とか……受けてなくて。だから、お友だちに食べてもらう分にはいいんですけど、プロじゃないから販売はできないというか」
「エイミー、もういっそ、プロになっちまえばいいのに」
やはり、高校を中退して、東京で働き出したほうがいいのだろうか。
「あのう、ネコさん……学校って、行ったほうがいいんでしょうか」
行かなくてもいい、という即答をわずかに期待していた。しかし、ネコは腕を組んでいる。
「それは難しい質問だね。親御さんはなんて言ってる?」
「親は……高校を中退も留年も、私がしたいようにすればいいって。でも、決められなくて。逆に迷ってしまう」
ネコのような人なら、心を決められるアドバイスをくれそうだ。
すがるような思いでたずねた。
「ネコさんはどう思われますか?」
「エイミー、それはあたしより先に、親御さんの考えを聞いたほうがいい」
「母とは、うまく、話せなくて」
喧嘩になるよね、と瀬里がしみじみと言った。
「なんでだろう。素直にものが言えない、というか。正直な気持ちを言うのが恥ずかしい」
わからんでもない、とネコがうなずく。
「あたしだって若い頃に身に覚えがある。だけどさ、親が援助してくれる間は親がスポンサーだからね。スポンサーの意向はある程度聞いて、自分の方向性とすりあわせていかなくちゃ」
その方向性が決められない。そんなことを人に言ったら、馬鹿にされそうだ。
つくづく自分の性格がいやだ、優柔不断で。
ケーキに飾ったキイチゴを食べる。この実も酸味が利いていた。
余ったイチゴとキイチゴをジャムに煮た日の夜、携帯電話を持った瀬里が部屋にやってきた。瀬里の母、「おあんさん」が、美也に電話を替わってほしいと言っているという。
電話に出ると、いつもは温かな「おあんさん」の声が暗い。二日前、美也の母が勤務中に激しい腹痛を訴え、救急車で運ばれたという。
痛みの原因は尿路結石だったそうだ。幸いなことに病院に運ばれた日に体外に出て、翌日には常夏荘にある社宅に帰ってきたという。しかし血圧も高めだし、有給休暇もたまっているので、おあんさんが説得して、一週間、自宅で静養することになったらしい。
その話を母から聞いているかと、おあんさんが遠慮がちにたずねた。何も聞いていないと応えると、「やっぱりそうなのね」と言った。
娘に心配をかけたくないから言わないでいると思うが、一緒に働いている立場として、なによりも長年の友人として心配だと、おあんさんは言葉を重ねた。だから美也の耳に入れておこうと思ったそうだ。
翌朝、急ぎの用を片付けた足で、高速バスで浜松駅に向かった。十三時過ぎに駅に到着したので、そこから再びバスで峰生に向かう。
天竜川の奥にある峰生の集落浜松駅からバスで一時間半。山道に入ると川の浅瀬は透き通り、淵は森の木々を映して深い緑に染まる。
峰生の子どもたちのうち普通科の高校を選んだ生徒はバスで長い時間をかけて遠い町へ通う。早い時期から大学進学を見据えている生徒は浜松市に下宿をして進学校で学ぶ。
集落に子どもが少なかったこともあるが、地元の農林高校に進学した生徒はごくわずか。ほとんどが他の地域から来た生徒ばかりだ。
バスが峰生に近づくと、息苦しくなってきた。母には言えなかった、不登校になった理由が心によみがえる。
食品科学科の二年生だったとき、町おこしをかねて「なでしこ屋」と農林高校で新製品を共同開発するコンテストが行われた。
優勝したのは学内でも素行が悪いことで知られる男子生徒の集団で、峰生周辺の集落を開発して「食のテーマパーク」を造るという壮大なものだった。
新商品というコンテストの趣旨から少し外れているし、本当に彼らが練り上げたアイディアなのかも怪しい。それでも「ヤンチャ」な生徒たちがコンピュータを使って、真面目に発表した姿は人々の感動を誘った。教育的見地から高い評価が集まり、優勝が決まったらしい。
ただ、土木工事を伴う企画の実現は食品会社には難しい。「なでしこ屋」が商品化に採用したのは、次点の「夏色蜜柑」。美也が一人で発表した「夏蜜柑、金柑、蜜柑」の三つの柑橘類から作ったマーマレードだ。
ところが母が「なでしこ屋」の創業メンバーでもあることから、素行の悪い男子生徒や彼らの取り巻きの女子生徒から「出来レース」だという中傷をされた。やがてそれがエスカレートして、机やロッカーに落書きをされたり、裏山にカバンを捨てられたりするようになった。
最初は我慢した。「なでしこ屋」は峰生の女性たちが働く場所を求めて作った会社だ。それが近年大きく成長したことで、さまざまなところから妬みを買い、悪く言われるようになっている。田舎のオバチャン集団に何ができるかと笑っていた人たちが、今度は田舎のオバチャンのくせに生意気だと叩いているのだ。それを思うと、いじめのことを母には言いたくない。
しかし、ある日、トイレにいるとき、個室の扉の上からバケツの水を何杯も浴びせかけられた。そのはずみで、左耳の補聴器が濡れた。
補聴器を外したとたん、世界が静まった。そして、すべてがどうでもよくなった。
個室のドアを開けると、外には赤や黄色に染めた髪の男子生徒が薄ら笑いを浮かべてバケツを持っていた。女子トイレに男子がいることに驚き、身体が強張った。彼らの背後には取り巻きの女子生徒たちが、やはり笑いながら何かを言っている。
彼女らが男子を手引きしたのだ。そして、おそらくほかの生徒がこの場に近づかないようにしている──。
そう感じた瞬間、のどから叫びが漏れた。
音を立てないと。
誰も無視できないほどの音をたてないと、殺られる──そう思った。
個室の壁のパネルをこぶしで叩いた。自分が出している声の大きさがわからない。だから力を振り絞って叫び、闇雲に腕を振り回して泣いた。
突然、奇声をあげて暴れ出したのが怖かったようだ。彼らはあとずさり、誰かが呼んだのか、女性の教師が現れた。
それからあとのことは思い出したくない。
バスが集落に入った。左の耳の補聴器にそっと触れる。いじめについて、一応、学校は調査をした。しかし、いじめた生徒のなかの一人が、山を越えた集落の有力者の息子だったことが影響したらしく、結局うやむやにされた。
バスが常夏荘の坂の前に停まった。ゆっくりと坂をあがると、撫子の家紋が入った瓦を載せた白壁が目に入ってきた。
「なでしこ屋」の看板商品のロールケーキが焼き上がる匂いが流れてきた。
門をくぐって敷地に入り、工房の脇を通って社宅がある庭園の一画に向かう。
母は庭に干している布団を取り込んでいた。どうやら元気そうだ。それが美也の布団であることに気付いたとき、帰ってきてよかったと思った。
なでしこ屋の社宅は、「長屋」と呼ばれる平屋の集合住宅で、昔は常夏荘の邸宅で働く使用人の住まいだった。
娘の自分に連絡をしたことを、おあんさんは母に話したそうだ。そこで母は今朝、布団を干し、美也の好物のクリームシチューを作ってくれたらしい。
本当は母に食事を作るつもりだった。血圧が高くなっていた母は、医師から減塩の食事を勧められたそうだ。そこで、栄養や塩分について調べて、母のために一週間分の減塩の献立を考えてきた。
出来上がった献立を見たとき、夢中になっていた自分に気が付いた。思えば、ハウススタジオのスタッフへの弁当作りは調理以上に、毎週の献立を考えるのも楽しみだった。
それを感じたとき、栄養について、もっと知りたくなってきた。思えば農林高校に進学したのは食品科学に関心があったからだ。
結局、その夜は母が準備してくれた食卓を二人で囲んだ。
明日から自分が食事を作るというと、母がおどけた。
「じゃあ、東京仕込みの味をいただこうかね」
「そんなにたいしたものじゃないけど」
でも、減塩でもおいしく食べられる工夫はたくさん盛り込んできた。
夕食を終えると、お茶を淹れながら、母が弁当の仕事は順調かとたずねた。
別に、と応えたが、素っ気ない気がして言い添えた。
「……仕事っていうほどのものでも。利益とか原価とか考えてないし」
母がゆっくりとお茶を飲み、気まずそうに口を開いた。
「それなら学校は……どうする? 東京の家は三月までの契約でしょ。春から復学する?」
同級生たちは来年の春に高校を卒業していく。下の学年の生徒と勉強するのは安心できるかもしれない。ただ、あの校舎にはもう行きたくない。
「ねえ、美也……黙ってないで。何か言ってよ」
追い詰められた気分になり、美也はうつむく。
あのね、と母が明るい声を出した。
「お金のことはそんなに心配しなくていいんだよ。学資保険を積み立ててある。だから大学にだって……最初の二年ぐらいはなんとかいける。あとは、アルバイトが必要かもしれないけど」
「高校も卒業していないのに」
「卒業したらの話。お母さんは調べたんだ」
母が立ち上がり、茶箪笥から書類を出した。
「ほら、峰農がいやなら、東京の通信制の学校に転校するって手もある」
「農林高校から普通科に転校は……」
できる、と母が熱っぽく言った。
「転校できるよ。お母さんはこのパンフレットを持って、峰農まで聞きにいった。全部ではないけど、これまでに取った単位が認められるって。だからね、一回、学校へ相談に」
「行きたくない」
思わず立ち上がった。しかし、立ち上がった自分に驚き、美也はのろのろと座り直す。
「怖いの……もう行きたくない、校舎がいやだ」
「美也はあの日、一体何をされたの? 水をかけられただけ?」
「たかがそれぐらいで……そう思ってる? 悪ふざけに過剰に反応しすぎって、お母さんもそう思ってる?」
思ってない! と母が大きな声で言った。
美也に水をかけた生徒たちの親は、学校から呼び出された際にそう言ったらしい。そして、自分は神経質で、心のバランスが不安定な生徒と思われている。
思ってないけど、と母の声が今度は小さくなった。
「ほかにも何かされていたら、お母さんは許せない」
「されてたこと? あるよ。制服を隠されたり、カバンを捨てられたり、机に落書きされたり。馬鹿にされたり、無視されたり、ほかにもいっぱい。言わせないでよ、こんなこと」
「ごめん、美也……」
「あやまらないで!」
通信制の高校のパンフレットを取り寄せ、それを持って高校に行った母の姿が目に浮かぶ。
いじめた連中はその姿を見てどう思っただろうか。きっと笑っていただろう。そして教師たちは、母にどう対応したのだろう?
「ごめんね、美也」
「……あやまらないでよ。別に、お母さんは悪くない。なんにも悪くない」
ただ、自分が「藁のイチゴ」、育てにくい子どもなだけだ。
ゆっくりと立ち上がり、美也は自分の部屋に向かう。お茶は? と母の声がした。
いらない、と応えて、補聴器を外す。
再び「ごめん」と言った母の声がかすかに聞こえてきた。
翌朝、甘くて香ばしい匂いに誘われ、目が覚めた。
ふすまを開けると、台所のテーブルにスコーンが並んでいた。四角いケーキクーラーの上に、こんがりと焼けたスコーンが整然と並んでいる。
おはよう、と母が晴れやかな声で言う。昨日の言い争いを覚えていないかのような顔だ。
「ご飯、食べる?」
「このスコーンは?」
「十時のおやつ。今、焼き上がったとこ。……食べたい?」
食べたい、と素直に声が出た。母が嬉しそうに笑っている。
「じゃあ、顔を洗っといで。紅茶を淹れておくから」
顔を洗ってテーブルにつくと、冷蔵庫から母が見慣れない瓶を二つ取り出した。小さな牛乳瓶のような形で、蓋にはイギリスの国旗が描かれている。瀬里の大伯父、遠藤立海が一昨日、お見舞いにくれたそうだ。
母が瓶の蓋をあけ、バターのような中身をすべて小鉢に移している。二つ目の瓶も同じように小鉢に移すと、美也の席に置いた。
「お母さん、これ、バター? こんなにたくさんいらないよ」
「バターじゃない、クロテッドクリームってものだって。生クリームより濃くて、バターよりあっさりしてるって」
小鉢のクリームを指ですくってみる。口に入れると、ふわりと溶けたが味がわからない。
「あんまり味がない……どうやって食べるの?」
「立坊ちゃんはジャムと一緒に、とにかくビックリするぐらいの量のクリームをスコーンに載せて食べろって言ってた」
焼きたてのスコーンを二つに割り、母がジャムの上にクロテッドクリームを載せた。それを見て、美也もスコーンを割り、同じ量のジャムとクリームを置く。
口に運ぶと、スコーンの熱さと、ひんやりとしたクリームの食感が新鮮だ。
ストレートの紅茶を飲む。クロテッドクリームの味わいか、ミルクの風味がふわりと立ち上った。
「お母さん、スコーン食べながら紅茶を飲んでみて。リッチな味がする」
リッチな味? と聞き返して、母が紅茶を飲んだ。
「あ、本当だ、高級なアイスクリームを食べたあとみたい」
母がたとえた言葉がぴったりと心に添い、美也は小刻みにうなずく。食べ物の話になると、素直になれるのが不思議だ。
「お母さん、うまいこと言うね。その通りだ」
楽しそうに笑ったあと、母が「昨日はごめんね」と言った。
「お母さんは無神経なことを言った」
「そんなことないよ」
母がスコーンの上に、今度は先にクリームを載せている。
「学校の話ばかりしたけど……」
母は少しためらったが、言葉を続けた。
「でも、もし、美也が商売をしたいんだったら高校を辞めて、学資保険のお金を元手にすればいい」
商売? と聞き返すと、母が真顔になった。
「東京でお弁当屋をやってみてもいい。キッチンカーでの移動販売なら、学資保険のお金でなんとかなるよ」
「そこまで……考えてなくて」
「追い詰めてるわけじゃないよ。お母さんは美也を産んだのが遅いから、一緒にいてやれるのはほかのお母さんたちより短い。だから急いでる。気長に見守ってやれる時間がないから」
母が倒れたことの重みが心にのしかかってきた。今回は軽く済んだが、これが重い病気だったら。こんな会話もできなかったかもしれない。
「お母さんはね、美也には思うまま、自由に生きてほしいんだ」
「その自由がわかんない! ……わからなくて」
母が目を伏せ、クリームをさらにスコーンに載せた。返事に困って、手を動かしているような雰囲気だ。
何かを言わなければと思い、口を開いた。
「ただ……学校に行かなくなった頃は人が怖かった……けど、今は前ほどでもない。いろんな人に東京で会って……ものを考える余裕が、出てきたというか」
「東京って怖くない?」
「怖いけど、食べ物を作ると、みんながあったかい顔をしてくれる」
「それはね、美也がこしらえたものが美味しいからだよ」
「お母さんの娘だからね」
母が驚いた顔をして、横を向いて、鼻をすすった。涙ぐんでいるようで、照れくさい。
黙って手を動かしていると、スコーンの上にクリームがたっぷりと積み上がった。母のスコーンにも驚くほどの量のクリームが載っている。
互いのクリームの量を見て、笑みがこぼれた。今度はその上にジャムを載せる。
視線をあわせて、同じタイミングで大きな口を開け、スコーンにかぶりつく。
温かいスコーンとイチゴジャムの風味に再び笑みが浮かぶ。口いっぱいに広がる冷たいクリームの感触を楽しんだあと、熱い紅茶を飲む。
その瞬間、クリームが熱でふわりと溶けていった。ミルクの優しい味とイチゴジャムの甘さが華やかな余韻を残し、スコーンのバターの旨みがくっきりと際立つ。母が驚いた顔で、口に手を当てた。
「わあ、驚いた。たしかにこれ、クリームはケチらないほうがいい」
二つ目のスコーンを割り、今度は先にジャムを塗ってから、クロテッドクリームを惜しみなく載せる。再び母とタイミングをあわせてかぶりつくと、鼻の頭に白いクリームが付いた。
母が手を伸ばし、鼻の頭を優しく指でぬぐってくれた。それから紅茶をじっくりと二人で味わう。満足の吐息がこぼれた。
お母さん、と美也は呼びかける。
言いたい言葉があるが照れくさくなってきた。
「……おいしいね」
「うん、すごくおいしい」
お母さん、と再び呼びかけると、スコーンをほおばりながら、「んん?」と母は応えた。
「お母さん……ありがとう、いろいろ」
「何よ、急に」
紅茶を飲んだ母が横を向いて、涙をぬぐう。それを見たら、自分の目にも同じものが浮かんできた。
それで、とネコがフルートグラスにピンク色の飲み物を注いだ。細かな泡がグラスの底から立ち上っている。
「お母さんは大丈夫だったのかい?」
「もう仕事に復帰して、元気よく働いています」
十一月の終わりの昼下がり。南青山のネコのマンションで、美也は紅茶を飲む。
ネコは仕事が忙しく、しばらく自宅に籠もるという。そこで先日プレゼントしてくれたハンパーに差し入れを詰め、南青山に届けにきた。
彼女の住まいは警備が厳しいマンションで、何度かチェックがあったうえ、エレベーターは住人が許可を出した階にしか停まらない。ようやく通された部屋は、ドアの向かいの壁、全面が鏡張りになっていた。部屋の一角にはワインレッドのグランドピアノがあり、移動式のバレエバーが一本置いてある。
あらためて、高名なアーティストの自宅であることを感じて緊張した。それでもネコはいつもと変わらず、気さくだ。
ハンパーから美也はヴィクトリア・ケーキの包みを取り出した。これはプレゼントにできるように洒落た紙で包装を施してある。続いて、先日もらったベリー類をジャムにした瓶を二つ出した。
ネコがケーキの包みを手にした。
「お洒落なラッピングだね。ダチに贈ってやりたくなる」
「それも考えてラッピングしてきました。でも、今、召し上がっても大丈夫ですよ。また持ってきます」
ネコがピンク色の飲み物を口に運んだ。
「ネコさん、そのお酒は……シャンパン、ですか。とっても綺麗です」
「ロゼ、薔薇色ってカテゴリーの泡物さ。最近、いろいろなメーカーから出てる」
薔薇色のシャンパン。なんて綺麗な響きのお酒だろうか。
「早くエイミーやジョーもお酒が飲める年になるといいな。そうしたら薔薇色の酒でお祝いだ……おっと」
ネコがキイチゴのジャムの瓶を手にした。
「いいこと思いついた。ちょっと待ってて」
ネコが銀色のトレイに二つの瓶と氷を入れた小さなグラス、櫛形に切ったレモンを載せた小皿とマドラーを載せて戻ってきた。
「ジャムをさ、冷たいミネラルウォーターや炭酸水で割ると、洒落た飲み物になるよ。最初は少しの水でよく溶かして」
グラスにたっぷりとイチゴジャムを入れ、ネコが炭酸水をわずかに注ぐ。軽やかな氷の音が心地よく室内に響く。グラスのなかをマドラーでかき回しながら炭酸水の量を増やすと、イチゴ色のソーダが現れた。
レモンを絞ってひとくち飲む。笑みがこぼれた。
「ネコさん、おいしいです。私、このソーダ、すごく好き」
「それは良かった。キイチゴのジャムも割ってみようか」
ネコがキイチゴのジャムをこんもりとグラスに入れ、今度はミネラルウォーターを注いで、静かにかきまわす。
華やかな赤い色の飲み物が現れた。
「こっちも好きだと思うよ。あたしはこれが大好きだ」
グラスからキイチゴが薫り立つ。こちらは柔らかくて、澄んだ味がした。
ルビーみたいだ、と飲み物の色を眺めたとき、幼い頃に読んだ本の一節を思い出した。
「私、『赤毛のアン』に出てくる『いちご水』ってのに憧れてて……」
「おお、それはこれだよ、エイミー」
ネコが楽しそうにグラスを指差した。
「原文では『ラズベリー・コーディアル』。キイチゴのシロップのことを村岡花子先生は『いちご水』って可愛らしく訳されたのさ」
「そうなの? そうなんですか? キイチゴなんですか」
「ラズベリーってのは、今と違って当時の読者には馴染みがなかったからね。アンの作り方とは違うが、これも一種の『いちご水』さ」
憧れの『いちご水』が手のなかにある。飲み干すと、喜びが胸に満ちてきた。
「ネコさん、ものを知るって、楽しい、ですね。勉強……学校の勉強は苦手だったけど、知らないことを知るのって……楽しい、です」
「私も楽しくなってきたよ、聴いておくれ」
ネコがソファから立ち上がり、グランドピアノの蓋を開けた。
心浮き立つメロディが部屋に流れ始めた。
グラスを置き、美也はピアノのそばに近づく。鍵盤の上で、ネコの指が軽やかに動いている。指がダンスをしているようだ。
それを見たとき、身体が自然に揺れていた。
ネコの指のスピードがさらにあがった。ピアノを弾きながら上半身が踊っている。楽しげなその動きに誘われ、身体がさらに動いた。
一曲弾き終えたネコが、万歳をするみたいに両手を挙げた。
「ああー、楽しいねえ! 今日は最高!」
同じ思いで、美也は手を叩く。
「すごく、すごく楽しいです。ネコさんは、おしゃべりするみたいに……どんどん音楽が湧き出てくるんですね」
「エイミーだって、おしゃべりするみたいに軽々、料理やお菓子をこしらえるじゃないか」
ネコがゆったりとした曲を弾き出した。
「みんな、それぞれに自分の音楽を持ってるんだよ。胸に手を当ててごらん」
言われた通りに胸に手を当てる。胸の鼓動が手のひらに響いてきた。
ドラムが鳴ってるだろう、とネコの声がした。
たしかに、胸の鼓動は太鼓の響きに似ている。
「お次は呼吸に集中してごらん、エイミー」
胸に手を当てたまま、呼吸に意識を向けた。胸が規則的にふくらんだり、沈んだりしている。
「それがベースの音さ。心臓がドラムを叩き、呼吸はベースを奏でる。それに乗ってあたしたちは泣いたり笑ったり。自分だけのメロディを歌うのさ」
「私、歌はあんまり、かも、です」
「何を言ってるんだい。エイミーの歌は甘くて美味しい。食べたみんなが幸せになる歌だ」
私の歌。自分の得意なことをそんなふうに思ったことはなかった。
「私……将来の夢が一個見つかったんです」
「なんだい? 教えてくれるの?」
「栄養のこと、もっと勉強したくなって。調理が得意な栄養士に……なれたらいいな、って」
最高だね、とネコが再びピアノを奏で始めた。その音を聞いていると、勇気が湧いてきた。
「通信制の高校に移って、それから、専門の学校に行って。みんなより、ずいぶん遅く……遠回りすることになるかも、ですけど」
ネコがピアノの前から立ち上がり、軽やかな足取りでソファに向かった。
「エイミー、乾杯だ。もう一杯、『いちご水』を飲もう」
飲み物を作りながら、この間のイチゴの味を覚えているかとネコが言った。ネコの向かいに座り、美也はうなずく。
「新鮮で、少し酸っぱい味がしました」
「そう、まだ酸っぱいんだよ。だから今は装飾や加工用。生クリームをかけたり、砂糖で煮たり」
ネコが「いちご水」のグラスを美也の前に置いた。
「もちろん、旬はある。だけど季節が外れたものにも魅力はある。それに、これから研究が進んで、季節外れの秋のイチゴもどんどんおいしくなっていくさ」
いつか、みんなに追いつけるときが来るのだろうか。
エイミー、と微笑み、ネコがシャンパンのグラスを掲げた。
「何かをするのに早いも遅いもない。ただ、始めるだけさ」
心がときめき、鼓動が速くなってきた、胸に手を当て、呼吸が奏でるリズムを感じる。
グラスを掲げて、ルビー色のいちご水をひとくち味わう。
世界に、新しい音が満ちてきた。
*
本作は、3月4日発売の『やるせない昼下がりのご褒美』(ポプラ文庫)に収録されます。

■ 書籍情報
『やるせない昼下がりのご褒美』
大好評アンソロジー第3弾!心とおなかの空腹をあたたかく満たす短編集。
あの人と過ごす「おやつ」の時間が、今日を乗り切る力をくれる。妻子ある相手と夜をともにした伊豆の山奥のホテルで。忘れられない同級生と屋上につづく階段で。さまざまな果樹が茂る瀬戸内海の島の庭で。もうすぐ卒業するメンバーと取り組む最後の仕事で。幼い息子との思い出のドーナツショップで。憧れの女性たちとのイチゴ尽くしのピクニックで。心とおなかの空腹をあたたかく満たしてくれる珠玉の6篇!
■ 著者プロフィール
伊吹有喜(いぶき・ゆき)
三重県出身。2009年、ポプラ社小説大賞特別賞を受賞した『風待ちのひと』でデビュー。著書に、映像化された『四十九日のレシピ』『カンパニー』『ミッドナイト・バス』『今はちょっと、ついてないだけ』のほか、『彼方の友へ』『雲を紡ぐ』『犬がいた季節』『娘が巣立つ朝』『鎌倉茶藝館』など多数。本短編は、「なでし子物語」シリーズのスピンオフ。

