第一話
しゅわしゅわのソーダと、しゃりっとほどけるミルクのジェラート、丸いライチの月を浮かべたソーダフロート
「しばらくお世話になります」
うっとりするような美声を響かせ、語部九十九は早起きして仕上げたという引っ越し蕎麦を神妙な手つきで差し出した。
え? カタリベさんが、こねて、延ばして、切ったお蕎麦?
どんな顔で作ったのかと、麦はつい、語部の整った顔面を見返してしまう。
今日は前髪をおろし、涼しげな半袖シャツにラフなパンツという装いだ。私服でもなお気品ただよう彼は、姉の糖花がオーナーパティシエを務める洋菓子店『月と私』で働く名物ストーリーテラーだ。
お店では燕尾服を着て前髪をあげ、執事のようにうやうやしくお客さまを迎え、棚やケースに並ぶ焼き菓子やケーキについて、それは流麗に語る。
ちなみに麦の隣で「あ、ありがとうございます。いただきます」と緊張しながら、平べったい木の箱に入ったお蕎麦を受け取っているのが、姉の糖花だ。
こちらも普段着で、おろした髪を首の横でひとつに結び、もう何年も着ている夏ものの半袖のワンピースに眼鏡という、ちょっと地味な格好だ。
今日から語部は、お店の上階にある麦たちの自宅で暮らすのだ。
なぜ、そんなことになったのか。
それは、お隣のマンションの工事のためだった。
老朽化した小さなマンションの建て替えが決まるまで、大家のさとこさんと孫の千恵理さんのあいだには、いくつかの行き違いがあった。
それもすっかり解消し、来週から解体工事がはじまる。
一年後に完成予定の新しいマンションの一階には、『月と私』のイートイン専用の二号店が入る。数日前のミーティングで、語部から計画を聞いたパートさんたちは、みんなうきうきしていた。
「まぁ、広々とした席で、できたてのデセールを、ゆっくりいただけるんですね。きっとお客さまも喜びます」
「わたし、オフの日に絶対食べにきちゃいますよ〜」
「でも建て替えが終わるまで、わたしたちのロッカーと、お店の事務所はどうするんですか?」
今までお隣のマンションの二部屋を、お店のロッカールームと事務所として借りていたのだ。
これに対して、すでにあれこれ手配を済ませていた語部は、抜かりなく答えた。
「実は、絢辻さんと充さんが、当店から徒歩二分ほどのご近所におうちを購入されました。お二人で住まれるそうです」
元ソムリエで、ふわふわの白い髪とやわらかな声が素敵な絢辻さんは、パートさんたちに人気の常連さんだった。充さんは絢辻さんの恋人で、長年建築事務所を営んできたキリッとした女性だ。七十歳を迎え仕事を引退した二人は、地元の金沢で一緒に暮らしていた。
が、充さんがお隣のマンションの建て替えに、設計士として関わることになり、金沢のマンションを売却して引っ越してくることになったのだ。
先日、麦たちの自宅に挨拶に来た二人は、役所に婚姻届も出し、左手の薬指におそろいのマリッジリングをはめていた。
絢辻さんがそれはもう嬉しそうに、にこにこにこにこして、
──定番のハリー・ウィンストンやブルガリも捨てがたかったのですが、日本の老舗ブランドの落ち着きが好ましく思えて、そちらで作っていただきました。
プラチナのリングを見せて何時間でも話したそうなのを、充さんにしかめっ面でたしなめられていた。
「お二人が、ご自宅の空いているお部屋を、事務所とロッカールームとして貸してくださることになりました。マンションの工事が終わるまで、お二人にも、みなさんにも、ご不便をおかけすることになりますが、そのつど対応しながら進めてまいりましょう」
語部の言葉に、パートさんたちはまた笑顔でうなずいた。
みんな不安などないようだ。むしろ絢辻さんと充さんの新居へうかがうのが、楽しみな様子さえある。
絢辻さんに懐いている新米パティシエの郁斗も、
「やった! 絢辻さんとこでワイン飲ませてもらお」
と、金髪に染めた髪をさらさら揺らして喜び、語部に、
「お酒は二十歳になってからですよ。星住くんは十七歳でしょう? 絢辻さんにも、星住くんにワインを飲ませないよう伝えてありますので」
と釘をさされ「えーっ」と眉を下げていた。
ここで、背が高くてひょろりとしたパートの寧々さんが、わざわざ手をあげて尋ねた。
「語部さんはどこに住むんですか? 今までお隣のマンションにお住まいでしたよね。語部さんも、絢辻さんちに下宿するんですか?」
このとき語部がゆったりと微笑むのを、麦はしっかり見ていた。
「新婚家庭に居候させていただくのは、さすがにご迷惑でしょう。近隣で部屋を探しております」
絢辻さんが麦たちの家に挨拶に来たとき、語部も同席していて、そのとき絢辻さんから、
──いっそ、うちに住んだらどうですか?
と提案があったことも、麦は知っている。
語部が、やっぱり涼しげに微笑んで断ったことも。
でも、お店の近くに、すぐに借りられる部屋なんてあるのかな?
このへんはほとんど戸建てだし、駅から徒歩二十分あるから電車通勤も厳しそうだし……。
パートさんたちはみんな、徒歩か自転車で通える距離に住んでいる主婦ばかりだ。
郁斗は四駅先から自転車で通勤しているけれど、郁斗くんはまだ十代で元気だからなぁ……三十代のカタリベさんにはどうかなぁ……あ、自動車なら有りかも……クリスマスに時彦さんが助っ人に来てくれたとき、駐車場を借りて派手な外車で通勤してたっけ……うん、車通勤が現実的かな……などと、麦は考えていたのだ。
店のオーナーパティシエである姉は、このとき急にお誕生日のケーキの注文が入って、厨房で作業をしていた。
その糖花も、語部の新しい住居のことを気にしていて、夕食のときシソの葉とみょうがを刻んだものをたっぷりかけた冷奴を食べながら、
「語部さんが気に入るお部屋が、近くで見つかるといいんだけど……。語部さんはいつも遅くまでお仕事をしているから。通勤時間が長くなると、ますます負担がかかってしまうわ」
暗い顔で、そう話していた。
もちろん語部が常にオーバーワーク気味なのは、心配なのだろうけど──。
きっとお姉ちゃんは、カタリベさんがお隣のマンションから引っ越しちゃうのが淋しいんだろうなー、と麦は推察していた。
なにしろ語部の部屋の窓と、三階にある姉の部屋のベランダはとても近く、二人は毎晩のように窓とベランダで語り合っていたのだから。
──新しい季節のケーキは、満月、半月、三日月の、どの形にしましょう?
──今日は、お店にこんなお客さまがいらして、シェフのバニラのスフレに、いたく感動されておりましたよ。
──お店のホームページにある語部さんのケーキの紹介文が、とても評判がいいんです。すごく美お
い味しそうでお店に行きたくなっちゃうって、わたしも特にウイークエンドの言葉が綺麗で大好きです……。
──甘酸っぱいレモンの砂糖衣をかけた満月のウイークエンドは、シェフの特別なケーキで、『月と私』のスペシャリテですから。私も特に熱をこめたのですよ。
窓を開けていると、隣の麦の部屋にまで聞こえてくる語部の声は、それは甘く、優しく。そのうちだんだん熱を帯びてきたりして……。
麦は顔が熱くなって困ってしまい、そっと窓をしめるのだった。
誰が見ても両想いの二人が、語部の告白によってついに一歩を踏み出したのは五月の母の日のことだ。
六月はマンションの建て替え騒動で、あっというまに過ぎ去り、今は七月になる。
現在、姉と語部の関係は、姉が返事を待ってもらっているようで──といっても姉も語部にどっぷり恋しているのだけど。
だから隣のマンションから一年も語部がいなくなってしまうのが、淋しくてしかたがないのだろう。
「そうだね、カタリベさん、お店の近くに部屋が見つかるといいね」
と麦も姉に言ってあげたのだが。
まさか語部が、麦たちの家で同居することになるとは──。
「申し訳ありません。条件に合う部屋が見つかりませんでした。来週からマンションの解体工事がはじまりますので、部屋が見つかるまでシェフのご自宅に居候させてもらえないでしょうか。確か、三階の東側のお部屋を物置にされておりましたね。そこでかまいません」
非常に弱っている様子で頼んできたのに、姉は目を丸くし声をつまらせて、きょどきょどしていた。
さすがに一緒に暮らすのは……と、ためらっていたのだろう。
語部は今度は、真摯な眼差しで続けた。
「それに最近は物騒ですから、女性二人でお住まいなのは心配です。これまでは私が隣のマンションにいたので、異変があればすぐ駆けつけることができました。けれど離れてしまっては、そういうわけにまいりません。心配で、毎晩見回りに来てしまいそうです」
それはストーカーっぽいよ、カタリベさん……と麦は心の中で突っ込んだ。
だけど糖花は、
「そんな、夜はちゃんと休んでください」
などとおろおろしていて、
「では、私を安心させてくださいますか? 私のことはボディーガードとでも思ってください」
「は、はい。よろしくお願いします」
と、流れるように同居を受け入れていたのだった。
お姉ちゃんは、けっきょくカタリベさんに説得されちゃうんだよなー。てゆーかカタリベさん、使ってない部屋までしっかりチェックしていて、最初からうちに住むつもりだったでしょ。
まぁ、今もうちでよくごはんを食べてるし、調理も後片づけも手伝ってくれるし、お姉ちゃんがいいなら、いいかぁ。
こうして休業日の朝、語部は手製の引っ越し蕎麦を持参し、麦たちの家にやってきたのだった。
麦は高校が夏休み前なので登校し、帰宅したら糖花と語部がキッチンで天ぷらを揚げていた。
二人ともエプロンをしている。
語部は普段と変わらず、ゆったりした様子で。
糖花のほうは語部を意識してか、そわそわもじもじしていて。
お姉ちゃんとカタリベさん、同棲したてのカップルみたい……と、麦はドアの後ろからこっそり眺めながら思った。
語部の部屋は、本人の希望通り三階の四畳半になった。
二階がキッチンとリビング、三階の三部屋が麦と糖花、そして語部の個室という部屋割りで、これから共同生活を送ることになる。
お店の休業日が明け、語部の引越し先を知ったパートさんたちは目を丸くして、
「あらあら」
「そんなことに」
「それってもう新婚さんですよ!」
と口にしていた。
「でもまぁ、語部さんだから」
「そうねぇ、語部さんだし」
「語部さん、さすがです、策士です」
最後はみんな、そんなふうに納得していたりして。
が、姉に恋するもう一人の少年のほうは、怒り心頭だった。
*
続きは4月8日ごろ発売の『ものがたり洋菓子店 月と私 ろくばんめの幸福』で、ぜひお楽しみください!

■ 著者プロフィール
野村美月(のむら・みづき)
福島県出身。『赤城山卓球場に歌声は響く』で、第3回えんため大賞小説部門最優秀賞を受賞。著書に、「文学少女」「ヒカルが地球にいたころ……」「むすぶと本。」「世々と海くんの図書館デート」「紅茶とマドレーヌ」の各シリーズのほか、『ビストロ・ベーテへようこそ 幸せのキッシュロレーヌ』『和カフェこよみ しずさんの春めく推しごはん』など多数。子供のころからスイーツが大好きで、Instagram(ID:harunoasitaha)で情報発信している。

