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罪びとたちのティータイム

 その人とは、一度だけ会ったことがある。
 幼稚園児のすいが、ほかの子どもたちと一緒に公園かどこかで遊んでいたとき、お気に入りだったふわふわのゴムボールを落としてしまい、それが道路へ続く出口のほうへ転がった。ボールの転がる先に、彼は立っていた。
 翡翠のほうを見ていたようだったのに、翡翠が顔を向けると、慌ててきびすを返し、立ち去ろうとする。
 けれど、転がってくるボールに気づいて足を止めた。少し迷うようなそぶりを見せてから拾いあげ、数歩分の距離を歩いて近づいて、腰をかがめ、翡翠に渡してくれた。
「ありがとう」
 翡翠が言うのに、彼は何と答えたのだったか。何も言わなかったかもしれない。
 顔は覚えていないが、なんだかいい香りがした。
 あれは自分の父親だったのではないかと、翡翠が思い至ったのは、ずいぶん後になってからだ。

  ***

 きっかけは、三年と少し前、翡翠が小学六年生だったときのことだ。
 学校から帰ったら、郵便受けからレターパックがはみ出していた。品目は「菓子」、宛名は母のみどりになっている。
 翠子が何か通販で購入したのだろうと、翡翠がそれをダイニングのテーブルに置き、手を洗っていたら、玄関のチャイムが鳴った。
「はい」
 誰かはわかっていたので、洗面所から返事をして、手をいてから廊下に出る。玄関のかぎを開けると、思ったとおり、片手にクリーニング店の袋を、もう片方の手にエコバッグを提げた叔母おばあおが立っていた。
「あーひぃちゃんのほうが早かったか。郵便受け空だったから、そうかなって思った」
「私もたった今帰ってきたところ」
 蒼子は、姉である翠子の経営する会計事務所で働いている。翠子の帰りが遅くなる日は、こうして家に来て、食事の支度をしたり、掃除や洗濯をしたりしてくれる。
「宿題したりテレビ観たりしてていいよ。今夜はチキンソテー、トマトクリームソース」
「おいしそう」
 蒼子はクリーニング店の袋から翠子のスーツを取り出し、ハンガーをコート掛けに引っかけてるした。それから、エコバッグから出した鶏肉や野菜を、ダイニングと続きになっているキッチンの調理台の上にてきぱきと並べる。流しで手を洗い、冷蔵庫の脇に掛けてあるエプロンをつけた。
「そんなすぐ働き始めなくても、座ってお茶くらい飲んだらいいのに」
「チキンに下味つけて、しばらくなじませておきたいから。お給料もらってるしね」
 蒼子は、テーブルに置かれたレターパックに目をとめ、ひょいとチェストの上のペン立てからハサミを手に取った。
 封をしてある部分を慣れた手つきで切り取った後で、あ、と声をあげる。
「ついくせで開けちゃった。事務所宛の郵便物はいつも、封だけ切ってデスクに置いてるから」
 蒼子は、事務所では、翠子の秘書のような仕事をしているらしい。
「別に開けてもいいと思う。たぶんお母さんが通販したお菓子」
「あ、じゃあおやつに食べる? お茶淹れる?」
「んー、一応お母さんにいてからにする」
 翡翠はレターパックを受け取って、中からお菓子の箱を取り出した。見覚えのあるパッケージだ。前にも食べたことがある。
 と、レターパックに、まだ何か入っているのに気がついた。細長い封筒だ。手紙だろうか。何気なく手にとったら、思った以上に厚みがあった。
 手ざわりで、もしかして、と思った。この大きさ。形。
(お金?)
 お菓子と一緒に札束が送られてきた。
 蒼子に知られていいことなのかわからなくて、そっと封筒をレターパックに戻す。お菓子の箱をその上から押し込んだ。
「これ、お母さんの部屋に置いてくる」
「ちゃんとしてるなあ」
 何でもない風を装って、レターパックを手にダイニングを出た。翠子の部屋に入って、封筒を取り出してみる。光に透かしてみても中身は見えなかったけれど、やはり、お札が入っているようだった。ふくらみの部分が、縦も横も、ちょうどお札と同じくらいの大きさだ。
 レターパックで現金を送ることはできない――「レターパックで現金送れ」はすべてです――とレターパック自体に書いてあるのに。
 こんな風に送ってくるということは、秘密のお金なんだろうか。翠子が誰かにお金を借りているとか……お菓子が同封されているということは、貸してあげていたお金が返ってきたのかもしれない。
 とりあえずレターパックを翠子の部屋のベッドの上に置いて、まるで中なんて見ていませんよ、というような顔をしてダイニングに戻った。蒼子には話さないことにする。翠子のプライバシーだ。
 翠子が帰ってきたら訊いてみようと思っていたが、宿題をしたり、蒼子と夕食を食べたりしているうちに忘れてしまった。思い出したのは、
「翡翠、このレターパックのことだけど」
 蒼子と入れ違いに帰宅した翠子が、スーツを着替えて部屋から出てきて、そう言ったときだった。
「あ、郵便受けに届いてて……蒼子ちゃんが事務所のときの癖で開けちゃったって言ってた」
「中、見た?」
 翠子の表情が真剣だった。それで、あのお金は、ただ貸したお金が返ってきただけとか、そういうわけではないらしいと察した。
「ちらっと。お菓子でしょ?」
 何故、知らないふりをしてしまったのか、自分でもわからない。
 しかし、翡翠の返事を聞いて、翠子はほっとしたようだった。つまり、翡翠には、あのお金のことは知られたくないのだ。
「そう。……食べようか、お茶淹れて」
「うん」
 夕食の後だったけれど、お茶を淹れて、二人でお菓子を食べた。箱の中身は、むとぱきっと割れるハーブのクッキーと、しっとりとしたチョコチップ入りのドロップクッキーと、粉砂糖をまぶした、ほろほろ崩れるような食感の丸いクッキーの詰め合わせだった。三つとも、味が全然違う。
 翠子は普段あまり甘いものを食べないけれど、このときはハーブのクッキーを珍しく二枚も食べていた。
 これを送ってきた人は、きっと、翠子の好みを知っているのだ。
 翡翠は、丸いクッキーが気に入った。
 やっぱり、前にもこの店のお菓子を食べたことがあると、パッケージに描かれた葉っぱの絵を見て確信する。
 あのときのお菓子も、同じ人から送られてきたのだろうか。

 風呂に入ろうと服を脱ぎかけたところで、新しい洗顔料を買ってきていたのを思い出した。クラスの女子に教えてもらった、泡立ちがいいというチューブ入りのものだ。
 風呂場に置いている洗顔せっけんはもう残り少なくなっていた。持ってきておこうと、自分の部屋へとりにいき、チューブを手にとったところで、壁ごしに、お金、クッキー、という言葉が聞こえてはっとする。
 隣の部屋で、翠子が誰かと話している。
「何あの額。何ヵ月分? は? 中学入学にそんなにいらないから。これだからボンボンは」
 壁に耳をつけると、声ははっきりと聞こえるようになった。翠子の声しかしないから、電話だろう。きっと、相手はあのレターパックの送り主だ。
「お金はいらないって、何度言ったらわかるの? 全部翡翠の名義の口座に入れてあるけど。どのタイミングであの子に言ったらいいのか……え? そういうわけにもいかないでしょ」
 翠子は怒っているような、あきれているような、困っているような声で言った。
「責任なんてありません。そういう約束で協力してもらったんだから」
 まるで、子ども相手に言って聞かせるような口調だ。
「翡翠は私の子、私だけの子なんだから。言ってるでしょ、認知もしてないのに責任なんて……」
 どきりとした。
 翡翠は、そっと壁から離れて、音を立てないように気をつけて脱衣所へ戻る。
 電話が終わったら、翠子が様子を見にくるかもしれない。そのとき怪しまれないように、そろそろと服を脱いで風呂場へ入った。
 湯船に入り、手で水面をたたき、わざとらしくぱちゃぱちゃと水音をたてる。こんな音では廊下まで届かないと気づいて、シャワーを出した。
 肩までお湯につかって、シャワーの水がタイルを叩くのをぼんやりと眺める。
 母が話していた相手は、あのお金を送ってきたのは、もしかしたら――いや、きっと、自分の父親だ。

 物心ついたときには、翡翠は母親と二人暮らしだった。父親の記憶はまったくない。写真のたぐいも一枚も残っていなかったから、父親の顔も名前も知らない。
 きっかけは覚えていないが、確か幼稚園児のとき、自分の家庭環境に疑問を抱いて、何故なぜ自分には父親がいないのかと翠子に尋ねたら、「最初からいないの」と言われた。そのときは、最初からいないなら仕方がないな、と思って追及しなかった。その答えがおかしいとも思わなかった。誰かに同じ質問をされたときは、母と同じように「最初からいない」と答えるようにした。そうすると、相手は、納得はしないが、それ以上訊いてこなくなった。何か事情があるんだな、と察してくれたのだろう。たまたま、周りにいる人たちがデリカシーのある人ばかりだったから、「最初からいないってどういうこと?」「お母さんに教えてもらわなかったの?」などと、突っ込んだことを訊かれることはなかった。
 翡翠自身も、何度か翠子に同じ質問をして、答えてもらえないことがわかると、もう訊かなくなった。翠子は、娘が父親のことを訊いても理不尽に怒ったりはしなかったけれど、意味のある答えをくれることはなかった。母親の性格上、言わないと決めたことは言わないと、翡翠は理解していた。だから、無駄なことはやめた。
 死んでしまったのか、生きているとしても、知らないほうがいいほどのろくでなしなのか、言えない事情があるか。どちらにしても、自分の人生に父親がかかわってくることはなさそうだ。今までもこれからも、父親はいない。それでいい。
 まったく気にならないわけではないが、我が家は問題なく生活できていて、母娘仲も悪くない。いないもののことを気にすることもないか、と思っていた。
 思っていたのだけれど。
 どうやら、翡翠の父親は死んだわけでも、行方ゆくえ不明なわけでもなく、それどころか、母と連絡をとりあっていて、翡翠のためにお金を送り続けているらしい。だとしたら、少なくとも、どうしようもないろくでなしというわけではないのではないだろうか。
 その後、翠子の入浴中にスマホの履歴を盗み見ようとしたけれど、しっかりロックがかかっていて開けなかった。仕方なく、ゴミ箱に捨ててあったレターパックを拾って確認する。差出人の欄に住所の記載はなく、ただ、右肩上がりの、癖のある字で「たか」とだけ書いてあった。
 レターパックをゴミ箱へ戻し、翠子が風呂から出てくる前に、部屋を出た。

「ひぃちゃんのお父さんのことは、私も何も知らないんだよねえ」
 レターパックで送られてきたクッキーの残りを食べながら、蒼子は首をひねった。
 今日も夕食を作りに来てくれ、今、二人でお茶を飲みながら、炊き込みごはんが炊きあがるのを待っているところだ。
「お姉ちゃんが話してないのに私から話すわけにはいかない……とかじゃなくて、本当に知らないの。つきあってた人がいるのも知らなくて、十二年前に突然、子ども産むからって言われて、びっくりしたんだから」
 翠子は、ある日突然子どもを産むと宣言し、予定日を家族――母親と妹――に告げると、仕事の引き継ぎや諸々の手続きを全部自分で終わらせ、準備万端で翡翠を産んだのだという。しっかり体調管理をして、ベビー用品も入念なリサーチの結果を踏まえていいものをそろえ、産後は予定どおりに段階を経て仕事に復帰した。
「結婚はしてなかったんだよね」
「私に聞いたって言わないでよ?」
「言わないけど、最初から父親はいないって言われてたから、そうだろうなとは思ってた」
 蒼子はうなずいて、クッキーをもう一枚手にとった。
 テーブルにひじをつき、当時のことを思い出すかのように視線を上へ向ける。
「誰とも結婚する気はない、私の人生に男なんていらない、みたいなことずっと言ってたから……ほら、うちって母子家庭だったでしょ。知ってるよね? ひぃちゃんのおばあちゃんち」
「うん」
「その影響もあったんじゃないかな。高校生くらいのときから、自分は一人で生きていけるようになるんだ、みたいなこと言ってた気がする」
 翠子はそれを見事に実行している。自分一人どころか、翡翠を育てている。
「大学のときも彼氏はいたけど、結婚する気はないってきっぱり言ってたし。そもそも、一人の人と長く続いたことはなかったかも……なんて、これ本当に私が言ったって言わないでよ」
「言わないってば」
「だから、あのお姉ちゃんが子どもを産んでもいいと思うような相手はどんな男かと思ったら、相手は言えないって。私もお母さんも、当時結構しつこく訊いたんだけど、絶対教えてくれないの」
 その子どもが翡翠なのだが、蒼子はまるで友達に話すように話してくれる。翡翠も、友達に対するようにあいづちを打った。もっと聞きたかった。
「でも、ひぃちゃんがおなかにいるってわかってから、仕事で無理することもなくなって、ちゃんと食べてちゃんと寝て、自分の体を大事にするようになったからよかったな。だから、相手の名前は言えなくても、その人との子どもを産みたいって思うような人と会えたってことだな、と思って……応援することにしたんだ」
 いまだに何一つ教えてくれないんだけどね、と苦笑する。そうやって笑うと、叔母は少しだけ母に似ていた。
 翡翠はクッキーをつまんで、ついでのように、そんなに深刻に聞こえないように言った。
「お母さんの知り合いで、高瀬って名前、聞いたことある?」
「タカセ? さあ……仕事の関係で、そんな人いたかなあ」
 叔母は首を傾げる。
 つきあっている人がいることも知らなかった、と言っていたから、期待はしていなかった。
「そっか」
「何、その人がどうかしたの?」
「ううん、ちょっと気になっただけ」
 翡翠は丸いクッキーを半分かじる。中に細かく刻んだナッツが入っていた。外側はしっかり焼いてあるのに、どうしたら、こんなほろほろの食感になるのだろう。
 すぐにもう半分も口に入れ、指先についた粉砂糖をめた。
 翡翠は赤ちゃんのころから、それほど手のかからない子だったらしいが、それでも、女手一つで育てるのは大変だったはずだ。蒼子や祖母の手助けがあったからにしても、翡翠には、何不自由なく、大事に育ててもらったという自覚がある。
 蒼子にも祖母にも、もちろん翠子にも感謝している。
 母親と二人の生活に満足しているから、父親が欲しいとは思っていない。
 ただ、気にはなった。
 父親が生きていて、それほどろくでなしでもないのなら、どうして母は翡翠にも、蒼子や祖母にも、それを隠しているのだろうか。
 その後もしばらく、気をつけて郵便物を見るようにしていたが、それきり「高瀬」から家に何かが届くことはなかった。

 三年と数か月が過ぎて、翡翠は高校生になった。 
 その日は学校が定期試験の予備日だった。追試のない生徒は休みだったので、家で勉強をしていたら、高校入学と同時に買ってもらったスマホに、母からメッセージが届いた。仕事に必要な書類を忘れてきてしまったから、届けてほしいという。
 翡翠は玄関のチェストの上に置いたままになっていた書類ケースを持って、母の職場へ届けにいった。
 翠子はクライアントと会議中らしく、姿が見えなかったが、蒼子が出迎えてくれる。
 明るくて清潔感のあるオフィスだ。飾り気はほとんどなく、も机も棚もごくシンプルな型だが、かろうじて、蒼子が発注したという大きなパキラの鉢が空気に柔らかさを添えていた。
 翡翠に椅子を勧めて、蒼子は、早速書類を持ってどこかへ行ってしまった。本当に緊急に必要な書類だったようだ。
 用は済んだので帰ってもよかったが、とりあえず勧められたデスクチェアに座った。
 蒼子のものらしいデスクの上に、事務所宛の郵便物がまとめてある。その中に一通だけ、封が切られていないものがあった。緑色の枠の引かれた茶封筒で、何気なく見た宛名は「みや翠子様」となっている。
 その筆跡に見覚えがある気がした。宛名の下に、差出人の住所と名前らしきものも書いてある。「高瀬」という文字が見えて、あ、と思ったとき、蒼子が戻ってきた。
「本当ありがとね、助かったあ」
 翡翠はぱっと顔をあげ、ううん、と首を横に振る。
「蒼子ちゃん、これ何? 変わった封筒」
「ああ、これ、現金書留用の封筒だよ。お金を送るときに使うの」
 蒼子は、デスクにちらっと目をやって答えた。
「普通は銀行振込なんだけど、現金書留で送ってくる人もいるみたい。たまーにだけどね」
 そうなんだ、と何でもないふりで応じながら、翡翠は横目で差出人欄を見ている。
 現金書留ということは、翡翠のためのお金に違いない。養育費というやつだ。
 小学六年生のとき、自宅に届いたレターパックのことを思い出す。「高瀬」は、あれからもずっと、お金を送り続けていたらしい。おそらく、自宅に送ると翡翠が見てしまうかもしれないということで、事務所に送ることにしたのではないか。
 住所をメモしたかったが、ここでスマホを取り出せば怪しまれる。必死に頭に叩き込んだ。郵便番号と、あとは、番地だけわかれば探せるはずだ。
 その後、蒼子に隠れて、スマホのメモ帳に暗記した郵便番号と番地を打ち込んだ。
 高瀬という名前と住所がわかれば、探せる。
 どうしても会いたいと思っていたわけではなかったはずなのに、会えるかもしれないと思ったら、心臓がどきどきしていた。

 メモした住所をネットで検索してみると、住宅ではなく、一軒のカフェがヒットした。
 三年前に送られてきたお菓子の箱に書いてあったのと同じ名前だ。
 店の名前と「高瀬」で検索してみると、彼が店のオーナーであることがわかった。高瀬は自分の店のお菓子、もしかしたら彼が作ったのかもしれないものを、翠子に送ってきたということだ。翠子はそれをおいしそうに食べていた。二人は、少なくとも、いがみあってはいないのではないか。それなら、自分が彼に会ってみたいと思ったとしても、母を悲しませることにはならないのではないか――。
 調べてみたところ、店は、翡翠の家から、電車で三駅の距離だった。営業は十七時までとある。平日の放課後、いったん帰宅して制服を着替えてから家を出た。翠子は十九時ころ帰宅予定と聞いているので、行って帰ってくることはできる算段だった。
 目立たない服装に眼鏡めがねをかけた翡翠が高瀬の経営するカフェの前に到着したとき、時刻は十七時を回っていた。ガラスのドアには、「CLOSED」のプレートがかかっていて、店内を隠すように布のブラインドが下りている。うっすらと明かりが漏れていて、まだ中に人がいるのがわかった。
 中はのぞけないので、翡翠は少し離れたところで、高瀬が出てくるのを待った。
 やがて、ブラインドから漏れていた明かりがふっと消えた。ガラスドアが開き、中からせた、背の高い男が出てくる。
 ちゃり、と鍵の音がした。ほかのスタッフは先に帰ったのか、一人のようだ。
 男は細長い身体からだを折り畳むようにして、低い位置にある鍵をかけている。
 彼がこちらを向いて歩き出したので、翡翠は、視線を手の中のスマホへ落とした。暗いし、マスクをしているから、うつむいてしまえば、翡翠の顔は相手からはほとんど見えないはずだ。
 スマホをいじっているふりをしている翡翠の横を、男が通り過ぎる。その瞬間、翡翠はこっそり目をあげて男の顔を見た。男が翡翠に気づいた様子はない。
 自分にはあまり似ていない、と思った。
 彼からは、スパイスとかんきつのまざったようないい香りがした。
 翡翠は、小さいころボールを拾ってくれた人のことを思い出した。

 土曜日の午前十一時、翡翠は、高瀬りゅういちの経営するカフェの前にいる。
 店先には、すでに数人が並んでいたが、万が一顔を知られていたときのため、列には加わらず、離れたところから店が開くのを待った。
 レターパックのお菓子、現金書留の封筒、ビターオレンジの香水と三つの証拠がそろった。彼が父親であることは、もはや間違いないだろう。
 高瀬に対して、名乗るつもりはなかった。少なくとも今日のところは、顔を見にきただけだ。
 会って何がしたいというわけでもない。単純に、自分の父親がどんな人間か知りたい。それから、何故母が自分に父親の存在を隠すのかを。
 高瀬に直接探りを入れるかどうかは、いずれ、様子を見て考えるつもりだった。
 しばらくすると高瀬が出てきて、ドアのプレートをひっくり返し「OPEN」にする。並んでいた客たちが店の中に入ったのを確認して、翡翠は店の前へ行った。
 誰が見ているわけでもないのに、たまたま通りかかった風を装って看板の前で足を止め、ガラス越しに見える店内を覗いてみる。出入り口の近くにケーキや焼き菓子のショウケースとレジがあり、女性二人が買うものを選んでいる。その奥に二人掛けと四人掛けのテーブル席が並んでいるのが見えた。高瀬は客に商品の説明をしているのか、ショウケースのそばに立っている。
 まだ席には空きがあるようだが、ネットで調べた限り、ランチプレートは高校生が気軽に払える値段ではないので、お菓子を買って帰ることにした。
 店内に入ると、いらっしゃいませ、と声をかけられた。接客業にしては控えめな声だ。翡翠は高瀬に小さく会釈をして、視線をショウケースへ向ける。
 マスクをして帽子をかぶっているから、相手が写真か何かで翡翠の顔を見たことがあるとしても、ぱっと見にはわからないだろう。
 先にお菓子を選んでいる二人客に隠れるようにして、翡翠は高瀬を盗み見た。
 グルメサイトのカフェ特集のページに、店の紹介記事が載っていて、オーナーの高瀬も写真つきで紹介されていたが、写真より実物のほうがいい。写真では、表情が硬くて、いかにも無理をして笑顔を作っていますという感じの笑い方だった。
 二人連れの女性客に商品の説明を求められ、高瀬は一つ一つ丁寧に答えている。 
「どれもおいしそうすぎる!」
「説明聞いたらますます全部食べたくなって選べないんだけど!」 
 女性二人は、困るー、と言いながらも楽しそうだ。
 ゆっくり選んでください、と二人に言った後、高瀬が翡翠のほうを見た。女性二人も翡翠に気づき、「よかったら先に」と言ってくれたが、手を振って断る。
「大丈夫です。私もまだ決められないので」
 むしろありがたい。前の客が迷ってくれているおかげで、こちらもゆっくり高瀬を観察できる。
 髪を一つに束ね、エプロンをつけた若い女性店員が、テーブル席の一つに料理を運んだ後、すっと近づいてきて高瀬に言った。
「あちらのお客様が、写真を撮りたいそうです」
「あ、えーと、ほかのお客様が写り込まないようになら」
「高瀬さんと一緒に撮りたいとのことで……」
「え、あ……ハイ……」
 ちら、と高瀬がショウケースに張りつくようにしている二人を見る。女性たちはすぐに気づいて、笑顔で「どうぞ」と手のひらを上向けた。
「大丈夫ですよ、私たちまだ時間かかるんで……じっくり選んでますから、行ってきてください」
 すみません、と小さく頭を下げて、高瀬は女性店員が示したテーブル席へと移動する。
 テーブル席についているのは、高瀬より年上に見える女性二人だった。そういえば、店内の客は全員女性だ。
「あの店員さん、店長さん? 人気あるんだね。確かにちょっといい感じかも」
 お菓子を選んでいた二人連れの一人が、小声で言うのが聞こえる。もう一人が、「背高いしね」と応じた。
「ていうか、あの人、高瀬隆一でしょ。あのお客さんはもともとファンなんじゃないの」
「え、誰?」
「元・山の魔術師! はこ駅伝の」
 高瀬をいい感じと言ったほうの女性は、知らない、と言った。山の魔術師という呼び名は翡翠も聞いたことがないが、どうやら、高瀬は駅伝の走者だったらしい。
 翡翠も走るのは速いほうで、校内のマラソン大会でも上位だったので、もしかして遺伝かな、と思った。
「へー、アスリートなんだ。元アスリートか。でもちょっとシャイな感じでいいよね」
 高瀬は、二人の女性に挟まれる形で、女性店員の向けるスマホに笑顔を向けている。
 笑ってはいるものの、若干口元が引きつっていた。カメラが苦手なのかもしれない。
 その様子を見ていたショウケースの前の二人が、「固まってる」「可愛かわいい」と笑った。
「連絡先渡してみようかなー」
 一人が言い、
「ばか、あれはだめだよ。知らないの?」
 声を潜めてもう一人がたしなめる。
「何を?」
「ほら、ブレスつけてるでしょ」
「え? あ、ほんとだ」
 どういう意味かわからず、翡翠が高瀬のほうを見ようとしたとき、撮影を終えた高瀬が戻ってきた。
 お決まりですかと訊かれて、女性客二人はショウケースのお菓子をそれぞれ指さした。
「米粉のコーンブレッドと、キャロットケーキと……あと、野菜のマフィンください」
「私もコーンブレッドと、りんごのマフィンお願いします」
「はい。ありがとうございます」
 高瀬は慣れた手つきで焼き菓子を箱に入れる。彼の左手首、時計のバンドに重なるように、マルチカラーというのか、虹色の紐で編んだブレスレットが巻かれているのが見えた。
 支払いを終えた二人と入れ違いに翡翠がレジの前に立つと、高瀬が「お待たせしました」と声をかけてくれる。
 ショウケースのケーキや焼き菓子はどれもおいしそうだったが、そういうものを買って帰ったら、箱を捨てても、翠子に見つかるリスクがあった。
「あの、白い、丸いクッキー……ありますか。中にナッツが入ってる」
「白い……あ、これかな。米粉のブールドネージュ」
 高瀬はショウケースの上の棚の、透明な筒に入ったクッキーを翡翠に示す。三年前に送られてきたクッキーと同じものだ。
「それをください」
「ありがとうございます。袋にお入れしますか?」
「袋はいりません」
 店名入りの袋を持って帰るわけにはいかない。
 持ってきたかばんにクッキーを入れて、値札の金額を渡した。
「ありがとうございました」
 高瀬からレシートを受け取る。カメラを向けられていないときの笑顔は自然で、なかなか悪くなかった。
 とはいえ、これだけのやりとりでは人となりまでわからない。何度か通ってみる必要がある。
 レシートを駅のゴミ箱に捨てる。
 このクッキーは一人でこっそり食べて、証拠隠滅しなければならない。

 帰宅してから、改めてネットで調べてみた。
 高瀬隆一は高校、大学と長距離走の選手で、箱根駅伝への出場経験があった。若く見えたが、現在三十六歳。そして、翠子と同じ大学の出身だった。
 翠子は学生時代陸上部のマネージャーをしていたと聞いたことがある。翠子は四十四歳で、高瀬とは八つ年が離れているから、在学期間は被っていないはずだが、OGとして卒業後も交流があったとか、卒業後にどこかで会って、同じ大学出身という縁で仲良くなったのかもしれない。
 ネット上の情報を掘り返していると、十代、二十代のころの高瀬が、女性に人気のアイドルランナーとして取りあげられている記事が見つかった。今もたまにテレビで見かけるスポーツコメンテーター(当時は山の王子様と呼ばれて大人気だったらしい)と並んで写ったグラビア写真まである。そこでも、キラキラした笑顔で写る隣の男と対照的に、高瀬はぎこちない笑みを浮かべている。このころからカメラは苦手だったようだ。二人の選手はチームメイトで、実力も人気も伯仲していると記事に書いてあったが、こういうところが、引退後にテレビに出る選手とそうでない選手の違いなのだろう。
 高瀬が店で写真撮影を求められていたのを思い出した。引退後でも、まだ一緒に写真を撮りたいファンがいるということだ。グラビアつきの記事が残っていることを考えても、当時は相当人気のある選手だったのだろう。
 そういえば、と女性客たちが話していたことを思い出し、「マルチカラー ブレス」で検索してみる。高瀬のブレスに似たものはヒットしなかった。「レインボーカラー ブレス」で検索すると、いくつか似たデザインのものが表示される。見た感じが近いものの画像をクリックすると、商品の紹介ページに飛んだ。「LGBTプライド レインボーカラーブレス」と書いてある。
 学校で習ったから、なんとなく意味はわかったが、念のためその用語も検索してみる。
 LGBTプライドは、同性愛者などのセクシャルマイノリティの人々が、自分らしく生きるための運動や、そういった概念を示す言葉である。レインボーカラーは多様性の象徴で、レインボーのものを身に着けることは、マイノリティの人たちが自分を恥じずに堂々と生きることや、それに賛同することの意思表示である、と書いてあった。
 翡翠は、検索サイトの画面を閉じ、高瀬があのブレスをつけていた意味を考える。

 ネット記事だけでなく、駅伝マニアのサイトや、高瀬のファンのブログやSNSまでさかのぼって、高瀬に関する情報を集めた。
 そのうえで、高瀬が翡翠に会いにこないことや、翠子が父親のことを隠し、「最初からいない」と言った理由について考えた。しかし、こういうことかもしれない、と思っても、翡翠の勝手な想像に過ぎない。本当のところを知るためには、本人に訊くしかなかった。
 一日に一つずつクッキーを食べ、容器が空になった次の週末に、翡翠は再び、高瀬のカフェを訪れた。
 閉店時間の一時間前だ。ランチメニューのオーダーはストップし、ケーキも残りが少なくなったこの時間なら、客が少なくてゆっくりできるのではないかと思った。予想通り、店内には、二組の客しかいなかった。一組は翡翠が入店したタイミングでちょうど席を立つところで、あとはコーヒーを飲んでいる女性客が一人いるだけだ。
 翡翠は帽子もマスクも外して、高瀬に「一人です」と伝えた。
 高瀬は、一目翡翠を見て、はっとしたような表情になる。
 翡翠は名乗らなかったが、彼が自分を認識したことがわかった。顔がわかるのだ。ということは、翠子が写真を送るなりしていたのだろうか。それとも、翡翠が店の外から店先の高瀬を覗き見たように、彼もこっそり、翡翠を見ていたことがあるのだろうか――ボールを拾ってくれたあのとき以降にも。
 高瀬は翡翠を、壁際の、カーテンで仕切られた四人席に案内した。
 カーテンを閉めれば個室のようになる、たぶん、デートや仕事の打ち合わせをする客のための席だ。今はカーテンは開いているが、それでも、店の入り口やほかの席からは翡翠が見えにくくなっている。
 翡翠が話をするつもりで来たのかもしれないと、高瀬は察したのだろう。
 ほかにも一人店員がいたが、高瀬が水とお手拭きを持ってきて、席に用意してあるメニューを手渡してくれた。飲食店だからか、仕事中の彼からは、あのビターオレンジの香りはしない。
「お決まりになりましたら、お声掛けください」
 高瀬は、翡翠がえりにつけた、レインボー柄のハートのピンバッジに気づいたようだった。視線がそこに縫い留められ、しかし、すぐに離れる。
 バッジは、考えた末にネットショッピングで購入したものだ。欧米のアスリートがユニフォームにつけていて話題になった、LGBTプライドへの賛同を示すアイテムだった。
 高瀬と話ができたときのため、翡翠が同じ考えでいることがわかったほうがいいのではないかと思ってつけてきた。そのほうが話しやすいこともあるかもしれないと思ったのだ。
 LGBTと関係なく、レインボーのアイテムを身につけることもあるだろうし、自身がLGBTでなくても、LGBTプライドの理念に賛同する意図でつけることもある。しかし、高瀬がブレスをつけていることを指摘した女性の口ぶりから、高瀬の場合は当事者として身につけているのではないか、彼女はそれを知っていたのではないかと感じた。
 それを念頭に置いてネット上の情報を探すと、わかったことがあった。
 高瀬は自分をゲイだと公言していないものの、LGBTプライドのアイテムを身につけ、同性のパートナーがいることも隠していないらしい。サポーターたちは彼のプライバシーを尊重して、SNS上にはっきりしたことを書いてはいなかったが、どうやらパートナーも元選手のようだった。
 翡翠は高瀬に渡されたメニューを開いた。
 メニューは左右のページが色分けされていて、右半分はヴィーガンメニューと書いてある。ラテ(牛乳)とラテ(豆乳)、ココア(牛乳)とココア(豆乳)というように、同じ名前でヴィーガン用とそうでない人用があるメニューもあれば、左側にしかないメニュー、右側にしかないメニューもあった。
「高瀬さんは、ヴィーガンなんですか」
 こちらの様子をうかがっていた高瀬と目が合ったので、声をかける。高瀬は近づいてきて、いえ、と首を横に振った。名前を呼ばれたことに驚いている様子はなかった。
「私は若いころは運動をしていて、特に現役時代は卵とか肉とか、動物性たんぱく質たっぷりの食事をしていました。でも、選択肢は多いほうがいいと思って」
 翡翠が開いたメニューの、ラテ(牛乳)とラテ(豆乳)の文字を見比べて言う。
「牛乳の代用品としてじゃなくて、豆乳のほうが好きな人もいるし、牛乳のラテが好きな人でも、今日は豆乳のラテが飲みたいなというときもあると思うので」
 翡翠はラテ(豆乳)の文字を指でなぞり、そうですね、と答えた。
「私は、どちらも好きです。……じゃあ、今日は、豆乳ラテにしようかな」
「はい」
 本を読んでいた女性客が立ちあがり、キッチンに入ろうとした高瀬に「お会計お願いします」と声をかける。テーブルを拭いていた女性店員がさっとレジに入り、女性客から伝票を受け取った。
 女性客が出ていくと、店内に、客は翡翠一人になった。
 静かなので、キッチンの物音が聞こえてくる。
 テーブルを拭き終えた女性店員が、キッチンの高瀬に何か言い、高瀬がそれに答える声も聞こえてきたが、何を話しているのかは聞き取れなかった。
 高瀬と話ができるだろうか。私のお父さんですかと尋ねて、肯定されたら、何を言えばいいだろう。否定されたら?
 大きめのカップに注がれた豆乳ラテが運ばれてくる。女性店員ではなく、高瀬が持ってきた。
 ソーサーの上に小さなクッキーが二枚添えてあった。
「ローズマリーのクッキーと、オレンジのクッキーです」
 一枚は、以前レターパックで送られてきたクッキーと同じものだ。
 甘さ控えめで薄くてぱりっとして、翠子の好みの味だった。たまたまかもしれないが、高瀬のほうも覚えていて自分に同じクッキーを出したのかもしれないと思ったら、背中を押された気がした。
「あの」
 テーブルから離れようとした高瀬を呼びとめる。
 はい、と振り向いた高瀬に訊いた。
「私のこと、わかりますか」
 高瀬は一瞬息をのんで、それから、何か言おうとしてやめる。もともと下がり気味の眉尻が、ますます下がって、目が泳いだ。
 何も言わないのが、答えのようなものだった。
 高瀬はわかっている。
 この人は、困った表情が似合うな、と思った。
 なんだか少しおかしくなった。
「答えなくていいです。お仕事中なのにすみません。ちょっとだけ、話を聞いてもらえますか」
 高瀬は一瞬店内を見回し、女性店員が離れたところにいるのを確認すると、小さく頷いた。その場に立ったままでいるので、翡翠は「どうぞ」と向かいの席を示す。
 高瀬は、そっと腰を下ろした。長い脚を揃え、両手を膝に置いてカーテンの陰に隠れるように座っている。これから𠮟しかられるのがわかっている子どものようだ。
 そんなに緊張しなくても、と笑いそうになりながら、翡翠は話し始めた。
「私の……友達の話なんですけど」
 物心ついたころから、母親と二人暮らしだったこと。父親のことを訊いても教えてもらえなかったこと。小学六年生のとき、自宅に届いたレターパックをたまたま開けてしまい、お菓子と一緒にお金が入っているのを見つけたこと、その晩母が電話で誰かと話しているのを聞いたこと。数年後に、たまたま母の職場で、同じ筆跡の郵便物を見つけたこと。あくまで「友達の話」として、かいつまんで話す。
 翡翠としては、高瀬に逃げ道を用意したつもりだった。誰かほかの人の話ということにすれば、高瀬も話しやすいと思ったのだ。
 高瀬は、じっと翡翠を見て、ときどき頷きながら聞いている。
「父には、会えなくてもいいと思っていました。今幸せだし、母が会わないでほしいなら会わないほうがいいんだろうなって。会っても会わなくても母親と暮らすし、何も変わらないから。でもやっぱり、どんな人か知りたい気持ちはあって」
 これまでの経緯について話し終わり、今度は「気持ち」について話すフェーズになった。言語化するのは初めてで、話しながら言葉を探す。
「さっぱりした性格の母が、私に父親のことを話したがらないのも気になっていました。私が聞こうとしても、はぐらかされてばかりで」
 よほどの理由があるのだろうと思ったから、無理に聞き出すのはあきらめた。あきらめて、何年も経った。
 父親が思い出したくもないひどい男だったのか、娘に近づけることをちゅうちょするような危険な人間だったのかとも思っていたが、どうやらそうではないらしいとわかった。それなら何故、翠子が隠すのか、気になった。
「どんな理由でも別にいいんです。でも、母が何故隠したかには興味があります。どうしても知りたいってほどじゃないし、もし知っても、知ったことを母に伝えないほうがいいと思ったら伝えません。これからも知らないふりをします」
 翡翠は顔をあげて高瀬を見る。
「でも母は、私が自力で父のことを知って、詳しいことを聞きたがったら、あきらめて話してくれるんじゃないかと思うんです」
 これまで隠してきたのだから、翠子がこの件について話したくないと思っているのは間違いない。しかし、翡翠が知ってしまったことまで、なかったことにしようとはしないはずだった。
 過去に何があったとしても、それを知っても、母娘の関係は変わらない。最終的には翠子も、そう信じてくれると思う。 
 友達の話だと言っていたのに、途中から「私」と言っていたことに気づき、
「……って、友達が言ってました」
 とつけ足した。いまさら無意味だろうとは思ったが、そういうていで始めたので、一応取り繕っておく。
 高瀬は、きっとそうだね、と答えた。客に対するにしては親しげな口調で、翡翠としてはそちらのほうがいい。
 カップを持ちあげ、豆乳ラテを一口飲んだ。
 まろやかで、豆乳の風味もあって悪くないけれど、少し甘みがあったほうがおいしい気がする。添えられていた茶色い砂糖を入れてスプーンでかきまぜた。
 もう一口飲んでみると、やっぱり、甘いほうがおいしい。それから、クッキーを一枚かじった。オレンジのいい香りがする。甘みと、酸味と、ほんの少しの苦みが絶妙なバランスだった。
 おいしいです、と高瀬に感想を伝えようとしたとき、
「これは、俺の、友達の話なんです、けど」
 高瀬が言った。
 翡翠がカップから顔をあげると、彼は膝の上に両手を置いたままうつむいている。さっきまで穴が開くほど翡翠を見つめていたのに、まったく視線が合わなくなっていた。
「その……友達、には、年上の女の人との間に、娘がいて。でも、ずっと会ってないんです。ちゃんと会ったことは一度もない」
 翡翠はそっとカップを置く。
 うそをつくのが苦手なのか、「友達」と言うとき、高瀬は若干口ごもったが、翡翠が聞いているのがわかったのだろう、意を決したように続けた。 
「相手の女の人とは、恋人ってわけじゃなくて。OGとして、部活に来てたんだったか何かで知り合って……」
 そこで言葉をにごし、また視線をさまよわせる。高校生の翡翠には話しにくいことだろう。それも、翡翠の両親の話なのだ。
 割り切った関係が何度か続いたのか、流れや勢いで一度だけ関係を持ってしまったのかわからないが、そこはどちらでもいい。
 大丈夫、理解している、というように翡翠は頷いてみせた。高瀬は一瞬翡翠を見て、またすぐに視線をテーブルの上へ落とした。
「……子どもができたってわかったとき、そいつはまだ学生だった。相手の女の人は、仕事をしていて、お金もあって、自分は一人で娘を育てられるから、あんたは何もしなくていい、って言いました。というか、何もしないで、って。自分の権利と責任で産む、あんたには何も責任はないけど、権利もないと思って、って」
「言いそう」
 思わず翡翠が口を挟むと、高瀬は視線をあげて翡翠を見て、少し笑った。だよね、というように。
「それで……二人は、お互いにもう会わない、子どものことは口外しない、今後は無関係ってことにしようと合意して……お金のやりとりは一切なしでって言われてたけど、出産費用だけ、無理やり折半して、先に渡して。全額出すって言ったら断固拒否されて、最初で最後だからって説き伏せても全然だめで、最終的に折半ってことで双方妥協した感じだったんだけど」
 それも想像できる。翠子は変なところが頑固なのだ。しかも、無愛想で言葉が強いので、突っぱねるときは取りつく島がないくらいはっきり突っぱねる。高瀬にも、「いらないって言ってるでしょ。何度も言わせないでくれる」くらいのことは言ったに違いない。そこで食い下がったというだけで、一定の評価に値する。
 翡翠が相槌がわりに頷くと、高瀬は神妙な表情で、「彼女のほうが年上で、大人だったから」と、申し訳なさそうに続けた。
「そいつは、高校、大学と長距離走をやっていて、色んな大会に出て、学生時代から割と注目されて、取材されたり、スポンサーがついたりしてて。ファンだって言ってくれる人も結構いて、だから、彼女は、相手のキャリアに影響しないようにって気を遣ったところもあったかもしれない」
 そうだろうか。翡翠は首を傾げる。
 高瀬が翠子や翡翠に対して罪悪感を抱いているからそう思うだけで、翠子はそういうタイプではない気がする。
 それを気にするくらいなら、初めから、そんな相手の子どもは産まないだろう。
 翡翠がそう思っているのを察したのか、高瀬は自分の左手首に巻いた虹色のブレスレットに目をやり、
「そいつがバイだったことも無関係じゃないと思う」
 とつけ足した。
「バイって、つまり、男性も女性も恋愛対象ってことなんだけど……」
 わかります、と翡翠が言うと、高瀬は頷いて続ける。
「彼女の妊娠がわかったとき、そいつには同性の恋人がいたんだ。だから彼女は、その恋人にも気を遣ったのかもしれない」
 おっと、と翡翠は思ったが、かろうじて声や表情に出すのは踏みとどまった。
 その恋人が同性だったということはこの際どうでもいい。ただ、翠子が高瀬と関係を持ったとき、高瀬はすでにその恋人とつきあっていたのか、翠子はそれを知っていたのか、それによってかなり話が変わってくる。
 浮気の結果として翡翠が生まれたのだとしたら、翠子が後ろめたさから高瀬との関係を伏せていた理由も説明できてしまう。十六年近く前のことで今さら二人を責めても仕方ないとは思うが、もしそうだとしたら気分はよくなかった。
「高瀬さんのお友達は、どうして、その女性と子どもができるようなことをしたんですか?」
 恋人がいるのに母と寝たんですか? だと責めているように聞こえると思ったので、なるべくニュートラルな訊き方を心がけた。
 翡翠の質問に、高瀬はまた困った表情になったが、少しのしゅんじゅんの後で答える。
「……そいつの恋人が、そうしたほうがいいって言ったから」
 その意味を理解するためには時間を要した。
 と、いうことは、翡翠が生まれる前、翠子と関係した時点で、高瀬にはすでに恋人がいたのだ。翡翠は数秒の沈黙の後、口を開く。
「私には理解できない特殊な性癖とかそういう話ですか?」
「違うし、高校生にそんなこと言わせてることに対する罪悪感がひどすぎるから勘弁して……」
 ものすごく翠子さんの血を感じるな……と高瀬は独り言のようにつぶやいた。
 これは高瀬の友達の話で、相手の女性も翡翠の知らない誰かという設定だったはずが、翠子の名前を出してしまっている。翡翠も指摘はしなかった。どうせ二人ともわかっているのだ。
「前提から説明すると……そいつは、女の子とつきあったこともあったけど、しばらくして自分のセクシャリティに気がついて、同性の恋人とつきあい出した。まわりには隠してた。有名人だったし、ファンやスポンサーの反応も気になったし……当時はまだ、今ほどオープンな感じじゃなかったのもあって」
 翡翠は自分の襟元に留めたバッジを見下ろした。今だって、こういったアイテムを身に着けることで連帯や共感を示さなければ、当事者たちは気軽に自分のことを話せないのが現状だろう。バッジをつけた相手にだって、誰もが話せるわけでもない。
 高瀬も今、決して気軽に話しているわけではないのはわかっている。しかし、当時はもっと、ずっと、話しにくい環境だったのだ。
「何年かつきあいが続いて、そいつは恋人との関係を公表してもいいって思ってたけど、恋人のほうが隠したがった。そいつのキャリアのことを心配してた。そいつの家は、どちらかというと厳しい家だったし、将来にも家族との関係にも影響が出るんじゃないかって」
 翡翠は頷いて先を促す。
「恋人には、相手の将来の選択肢を狭めてる、って意識もあった。コーチの息子が中学で長距離始めたみたいな話題が出て、ランナーの遺伝子がどうの、父から子へ受け継がれる志がどうの、って皆が話してるの聞いた後、二人きりになって、恋人は、自分とずっと一緒にいたら、おまえは遺伝子を次の世代に残せないんだな、って言い出した。そのころから、ちょっと、変な雰囲気になることが多くなった」
 高瀬はきゅっと眉根を寄せ、また少しうつむく。
「関係を隠してたから、誰にも相談できなかったっていうのがよくなかった。悩み始めると、どんどん深みにはまっちゃうんだよ。それで……自分といるのが相手にとって本当に幸せなのかとか……そういうことまでわからなくなって」
 両手の指を膝の上で組み、親指の爪を見つめるようにして話した。
「共通の先輩の結婚式に出た帰りだったな。恋人が、そいつに言ったんだ。自分とじゃなくて、女の人と結婚して、子どもを育てて、そういう人生もあるんだって。自分とじゃ絶対手に入らない種類の幸せもあるんだぞって、おまえだったら絶対いい父親になれるのに、自分と一生二人でいいのかって」
 十何年も前のことなのに、淀みなく話す。そう言われたことが、よほど強く印象に残っているのだとわかった。
「お友達は、何て答えたんですか」
「自分が選んだ相手と生きていくのが幸せじゃないはずないだろって」
 返しとしては悪くないように思ったが、それで相手が納得していたら、高瀬が翠子と関係を持つには至らなかっただろうし、翡翠もここにはいない。
「お友達の恋人は、それでも引き下がらなかった?」
 高瀬は、小さく息を吐いて頭を振った。
「今はよくても、何十年も経った後で後悔しても遅いんだって。今なら選べる、おまえはいくらでも、幸せな人生を歩めるんだからって……もう何言っても届かないみたいになってたな」
 結婚して、家庭を持って、皆に祝福される。それは、誰からもわかりやすい、絵に描いたような幸せだ。欲しがる人はたくさんいるし、欲しがっても手に入れられない人もたくさんいる。高瀬は、欲しがりさえすれば手に入れられる立場だったのに、やすやすとそれを捨てさせていいのかと、恋人は不安になったのだろう。
 果たして自分との人生は、彼に確実な幸せ――そんなものが存在するかは別として――を捨てさせるに足るものなのか。
 相手を大事に思うからこその不安なのはわかるが、そもそも、お互い、同性であることをわかったうえで好きになったのだろうにと、翡翠は十数年前の高瀬に同情した。
「それで、けんになったんですか?」
「喧嘩かな……どうだろう。言い合いはした。おまえ子ども好きなくせに、父親になれなくていいのか、いや子どもが欲しくて誰かを好きになるわけじゃないだろ、でもおまえから子どもを持つ選択肢を奪ってるのが耐えられない……みたいな」
 うわあ、と思ったら、うわあ、と声が出ていた。しゅだ。
「そこから、別れ話に?」
「いや、別れなかったけど」
 別れなかったのか。ということは、SNSでファンが言及していたパートナーが、その、当時からの恋人ということか。
 恋人と喧嘩をして、あてつけに翠子と関係を持ったなら同情の余地はないと思ったのだが、どうやらそうではないらしい。
「一度女性とちゃんとつきあってみて、それから考えてもいいんじゃないかとか、自分とじゃつかめない幸せもあるとか、色々言われて、そいつもどうしたらいいかわからなくなって……そんなときに、……彼女に、声をかけられた」
 そこで翠子が登場するのか。ようやくだ。
「大学のOB、OGを囲んでの飲み会の席だった。元々知り合いではあったけど、お互い恋愛感情はなくて、それまでは二人で会ったこともなかった。でも何故か、飲んだ流れで相談するみたいな感じになって」
 バイセクシャルであることも、同性の恋人がいることも、その恋人に、「普通の幸せ」をあきらめていいのか、女性とつきあってみたほうがいいんじゃないかととんちんかんなことを言われているということも、翠子に話したのだという。
 そして話を聞いた翠子は、それならちょうどいい、自分はどうだ、と言った。
「それで、一度女性とつきあってみる、を実践したんですか」
「つきあってはいないけど……おおむね、そんな感じ」
 ここまで色々と話しておいて今さらそこを濁すのか、と思ったが、その実践の結果、翡翠が生まれたわけなので、詳細については言いにくい気持ちはわかる。
 つまり彼は、恋人に言われたとおり、女性とつきあい、子どもを作ったうえで、それを手放して恋人の手をとった。そうすることで、恋人に覚悟を示した。形だけ自分の遺伝子を残し、家庭も子どもも手に入れることは簡単だが、それでもあなたがいいのだと――手放してみせるために子どもを作ったわけだ。
 翡翠は冷めかけた豆乳ラテをもう一口飲んだ。
 高瀬が、気遣うように翡翠を見ている。
「大丈夫?」
「何がですか?」
 強がりではなく、本当に何を気遣われているのかわからずに聞き返した。高瀬が困った表情をしているので、少し考えて、ああそうか、と思い当たる。
「平気です。むしろ、父親が極悪人だったとかドクズだったとかじゃないとわかってよかったです」
 自分は、両親が愛し合って生まれた子とは言えないが、別にそこにショックはなかった。憎み合っていなかっただけでも御の字だ。 
「両親が愛し合っていなくても、母が私を愛してくれているのはわかっているので、それで充分です」
 翡翠が豆乳ラテのカップを持ちあげながら言うと、高瀬はまぶしそうに翡翠を見た。
 ゆっくりまばたきをすると、まつげが長いのがわかる。そこだけは翡翠と同じで、ほかはまったく似ていなかった。高瀬はいわゆる塩顔で、ほおぼねが高くて、翡翠より、むしろ翠子のほうに近い系統の顔だちだ。だから翡翠も、親しみを感じているのだろうか。
「でも……だからこそ、母が、ずっと私に父親のことを隠しているのが不思議です。私は平気なのに。母だって、私の性格はわかっているはずなのに」
 両親が恋愛関係になかったとか、父親には当時から別の恋人がいたとか、そんなことでショックを受けて落ち込むようなタイプではないと、翠子は知っているはずだ。それなのに何故、何年もの間、ああまでして隠し続けているのか、わからない。高瀬の話を聞いても、に落ちなかった。
 高瀬が言うように、彼の恋人に気を遣ったとか、当時の高瀬は有名人だったから、子どもがいることが活動の妨げになるかもしれないと、そちらを気にしたのかとも思ったが、翠子の性格上それは考えにくい。そんなことを気にする人間は、最初から、恋人持ちの人気アスリートとの間に子どもなんて作らない。
 それよりは、やはり自分のためなのだろう、と翡翠は思う。
 有名人であるだけでなく、公認の同性パートナーがいる高瀬が父親であると知られれば、子どもが奇異の目にさらされることになるとしたのではないか。万に一つも秘密が漏れることがないように、家族である蒼子や、翡翠本人にすら隠していた。それなら、少しは納得できた。
 それだって、自分はきっと乗り越えられたと思うけれど。
「よく知ってるつもりでも、不安になることはあるんだよ。この人なら大丈夫、自分との関係も揺るがないってわかりそうなものなのに、怖くなるんだ。その人が傷つかないように、幸せでいられるようにって、頼まれてもいないのにそればかり考えて」
 高瀬が言った。
「大事だから」
 翡翠はカップを置いて頷く。
 ちゃんと言葉を交わすのはこれが初めてなのに、案外父娘らしい会話をしているなと思った。
 まだ高瀬を父親だとは思えないし、これから思えるかどうかもわからないが、人間としては好感が持てる。ファンの動向を気にしなければならないほどの人気アスリートだったにしては控えめな印象で、若気の至りにしても、恋人を納得させるために別の相手と子どもを作るなどという非常識なことをしたとは到底思えなかった。
 当時の高瀬の行いはさておき、少なくとも今の高瀬とは、話していて落ち着いた。
 母親の顔を思い出し、やっぱり自分たちは母娘だなと感じる。
 彼を翡翠の父親に選んだ翠子は、趣味がいい。
「それで……ええと、話を戻すと」
 照れ臭くなったのか、ぱっと一度目を逸らして、高瀬が声のトーンを少しあげる。
「出産費用だけ、押しつけるみたいにして、どうにか半分受け取ってもらって……それを最後に、会わなくなりました。彼女からは、いつ産まれるとか、産まれたとか、そういう連絡も一切なしで。友達のほうも約束を守って、連絡はしないつもりだったけど……金はいらない、そのかわり一切かかわるなって言われて約束したとはいえ、生物学上は父親なわけで……責任がないってことにはならないから」
 母親が一人で子どもを育てる場合、父親には養育費を支払う義務がある、というようなことは、翡翠も知っていた。支払わずに逃げる男は少なくないと聞いたことがあるし、そういう男は最低だという言説も耳に入ってくるので、また、とりあえず頷いておく。
「養育費を振り込みたいから口座だけ教えてほしいって連絡したんだけど、無視されて、メッセージアプリもブロックされて、人づてに聞いた電話番号にかけてもだめで、どうにか話せても教えてもらえなくて。約束は約束だから、って突っぱねられちゃって。何の権利も主張しないし約束どおり会わないからって言っても、いらないって……あんまりしつこく電話したりつきまとったりしたら、ストーカー扱いされそうだったから、いったん連絡とるのはあきらめて」
 これは珍しいケースなのではないだろうか。養育費をどうしても払いたい男と、絶対に受け取らない女。そうまでして、翠子は高瀬と縁を切りたかったのか。本人は子どもに対して、何の権利も主張しないとまで言っていたのに? 
 翠子も意地になっていたのだろうか。それとも、今目の前にいる高瀬は無害に見えるが、当時はよほどとがっていて、子どもに近づけることに抵抗を感じるほど危険な男だったのだろうか。想像がつかない。
「住所はわかったから現金書留でお金を送ったけど、受け取り拒否されました。だから、レターパックで送るようにして……カモフラージュにお菓子とかお茶とかも入れて」
「ああ」
 普通郵便ならポストに配達されておしまいだから、受け取り拒否ができないというわけだ。厳密に言えば、そのまま送り返すということはできるはずだが、翠子もそこまではしなかったらしい。
「でも、何年目かで電話がかかってきて、レターパックにお金が入ってるのを、子どもに見られるかもしれないからやめてくれって言われて。それからは、勤務先に現金書留を送るようにしました。今は彼女もあきらめて、受け取ってくれてるみたいです。たぶん、事務所の人に見られたときは、個人の依頼者からの報酬だってことにしてるんじゃないかな」
 事務所宛なら、郵便物を受け取るのは翠子とは限らない。受け取り拒否もされないと踏んだのだろう。
 よくめげずに続けたものだと感心してしまった。こちらはこちらでなかなか頑固だ。そのしつこさに、よく言えば誠意に、結局翠子のほうが折れたわけだ。
 二人は全然タイプが違うように見えて、しんの部分では、似たところがあるのだろうか。
「あの、記憶違いかもしれないんですけど……すごく小さい頃、会ったことありませんか」
 思い切って訊いてみる。高瀬は勢いよく顔をあげて、え、と声を漏らした。
「幼稚園の庭か公園かどこかで、ボールを拾ってもらったような……」
「え、覚えて? る? あんな小さいころのこと?」
 その反応で、高瀬のほうも覚えているとわかる。
 本当は、顔までは思い出せず、なんとなくの香りの記憶だけでかまをかけた形だったが、当たりだったらしい。
 翡翠が頷いてみせると、高瀬はぼうぜんといった様子で顔を手で覆い、深く息を吐いた。
「まじか……」
 どう見ても、覚えていてもらえて嬉しい、という感じではない。
「俺、だめすぎるな……」
「だめですか?」
「だめでしょ。大分だめ、かなりだめ度が高い」
 高瀬は相当ショックだったようだ。もはや店員と客という建前も気にしていられなくなったのか、完全に敬語は消えてなくなっている。
「小さい女の子をこっそり見てるだけでも不審者なのに、しかもそれを本人に気づかれて記憶されてるとか……」
「ボール拾ってもらっただけで、全然悪い思い出じゃないですけど」
「かかわらないって約束破って、こっそり見にいってたってだけでだめだよ。出産とか育児とか、大変なところは任せっきりにして、その子の顔だけは見たいなんて、勝手すぎるでしょ」
 翡翠のフォローに甘えることなく、高瀬は首を横に振った。
「でも、その一回きりだよ。本当に」
 翡翠の記憶でも、その後高瀬らしい男を見かけたことはないはずだ。
 友達の話という体だったのに、いつのまにか、仕送りを断られたのも翡翠に会いにきたのも自分だと白状してしまっている。指摘はしないでおいた。
 翡翠を前にして緊張していることが丸わかりの、ぎこちない仕草も、話しにくい過去を話すときのたどたどしさも、笑うのが下手なところも、スマートとは言いがたいが、なんだか可愛く思える。
 やはり父親という感じはしないが、叔父さんとか、近所のお兄さんだったら楽しかっただろうなと思う。
 翡翠は父親が欲しいと思ったことはなく、それはこれからも変わらない。高瀬に、父親になってほしい――父親をやってほしいとも思わない。翠子が嫌がるなら、あるいは高瀬が困るなら、もう会いには来ないつもりだったが、それでも、こうして話せてよかった。
 出入り口のドアが開く音がした。誰かが入ってきたようだ。女性店員が駆け寄って、「すみません、もうラストオーダーで」と申し訳なさそうに声をかける。
「すみません、客じゃないんです。高瀬の携帯に連絡はしたんですが」
 客が言うのに重なるように、女性店員が、あっと声をあげた。
もりかわ選手! ……ですよね」
「もう選手ではないですが」
 やりとりを聞いて、高瀬が立ちあがる。
 それで相手も高瀬に気づいたのか、片手を挙げてこちらへ近づいてきた。
 カーテンの陰の翡翠には気づかない様子で、「近くまで来たから」と高瀬に笑顔を向けた。
 高瀬は一瞬翡翠を見て、それから視線を男へと戻し、何か言いかける。
「森川、今」
「あ。ああ――失礼しました、気づかなくて……」
 翡翠に気づいて謝罪しようとして、彼は動きを止めた。
 目が合う。
 翡翠も、相手を一目見て、その理由に気がついた。
 男の顔は自分にそっくりだった。

  ***

 ちょうどいいと思ったのよ、と翠子は言った。
「森川は、陸上界ではアイドルだったの。だからこそ、逆に安全だと思った。当時は秘密にしてたけど高瀬くんっていう恋人がいるし、有名人だから隠し子がいるなんて知られたくないだろうし、後から親権を主張されたり、面倒なことにはならないはずだって」
 翡翠と翠子は、自宅のダイニングテーブルに、向かい合って座っている。テーブルの上では、翡翠が淹れた紅茶が湯気をたてている。
「父親のこと、翡翠はいつか自分で突き止めそうだなとは思ってた。私に似て行動力があるから。すごく興味を持ってる風でもなかったし、しばらくは大丈夫かなと思ってたけど」
 翡翠は黙ってカップを手にとった。
 店へ入ってきた森川を見て、まず自分に似ていると思い、遅れて、たまにテレビで見かけるスポーツコメンテーターだと気がついた。そして、ネットで見た古いグラビアで高瀬と一緒に写っていたのは若いころの彼だということも思い出した。雑誌やテレビで観るのと実物は印象が違い、これまで彼が自分と似ていると思ったことはなかったが、本人を見ると、明らかに似ていた。
 高瀬が店に入ってきた翡翠を一目見てはっとした表情になったのも、同じ理由だったのだろう。
 どうやらこちらのほうが実父らしいと察したものの、森川とはろくに話もできなかった。高瀬からの連絡を受けた翠子が、すぐに飛んできたからだ。今日は仕事で遅くなると言っていたはずで、だから翡翠も、高瀬の店を訪ねたのに。
「仕事、大丈夫なの?」
「急病ってことにしてリスケしてもらった。明日蒼子にお礼言わなきゃ」
 高瀬は、ショウケースに一切れだけ残っていたケーキと、翠子の好きなクッキーをお土産みやげに持たせてくれた。今、目の前に、紅茶のカップと一緒に並べてある。
 翠子はテーブルに肘をついて、何から話せばいいかと迷うようにしばらく黙って並んだクッキーを眺めていたが、やがてカップに手を伸ばし、翡翠の淹れた紅茶を飲んだ。
 味わうように目を閉じて息を吐いてから、「私はね」と話し出す。
「結婚も恋愛もしなくていいと思ってたけど、子どもは欲しかったの。たぶん、自分が母親に愛してもらったって気持ちが強かったからかな。自分が母親にもらったものを、自分の子にもあげたいって思ってた」 
 翡翠は、自分もカップを手にとって頷いた。
 なんだか今日は、大人の告白を聞く日のようだ。知りたかったことをようやく母親本人の口から聞けるのだから、翡翠としては文句はない。
「仕事のこととか、体力のこととか色々考えて、できれば三十歳までに産みたいって思ってた。一人で産んで育てる覚悟はできてたし、計画もちゃんと立ててね」
 翠子は紅茶をもう一口飲んで、でも、と続ける。
「でも、子どもって、一人では作れないのよね」
「……それはそうだろうね」
「産むのも育てるのも、やろうと思えば一人でできるけど、こればっかりはね。だから協力してくれる人を探してたんだけど、なかなか見つからなかった」
「それは……そうだろうね」
 ほかに言いようがない。
 結婚する気はなく、恋愛関係になるつもりもないが、子どもを作りたいから協力してほしい。生まれた子どもは一人で育てる。そう言われて、喜んで立候補するような男はそうそういないだろう。後からどんなトラブルになるかわからないし、単純に怪しすぎる。
「人工授精とかじゃだめだったの? 精子提供とか精子バンクとか、日本にはないんだっけ」
「独身だと適用外だね。海外に行けばできるけど、自分の子の遺伝的な父親になる男の人間性くらいは自分の目で確かめておきたいでしょ」
 まあそうか、と翡翠は一応納得した。それにしても、自分の子の遺伝的な父親になる男、という呼び方にも、翠子の、求めていた相手に対する意識が表れている。なかなか相手が見つからなかったというのも無理はないと改めて思える言いぐさだった。
「そんなときに、大学のOB飲みで会った森川が、高瀬くんとのことを相談してきたわけ。女性とつきあったり子どもを作ったりすれば気持ちが変わるかもしれない、最初から世界を限定してほしくないとか、あと、父親になるっていう選択肢を奪いたくないとか? そういうことを恋人に言われたって、何かすごくやさぐれてて。どうしろっていうんだ、みたいな……まあ、相談というか、だったかな」
 それで、ちょうどいい、と思ったの――と、翠子はぐいっと紅茶を酒でも飲むかのようにあおる。
「アスリートだから体調管理はしっかりしていて健康、顔も頭もよくて、前科前歴もなくて、おまけに若い。遺伝子としては最高級だった」
 そこまで言って、あ、と慌てたようにつけ足した。
「見た目と頭のいい子が欲しくて、ってわけじゃないからね。健康なこと以外はおまけみたいなもの。でも、どうせなら遺伝子にはプラスの要素が多いほうがいいでしょ」
「何も言ってないよ」
 最初の段階で「遺伝的な父親」役に、森川を選んだことを、打算的だと非難するつもりはない。おかげさまで翡翠は健康に生まれたが、もし自分が生まれつき病弱だったとしても、翠子はきっと変わらず愛してくれただろう。
 翠子は、ならいいけど、というように少し唇を尖らせ、ローズマリーのクッキーを一枚とってかじる。
「私は子どもが欲しい。夫はいらない。うっかり惚れられても困るし、親権を主張されても困る。その点森川なら、面倒なことにはならなそうだった。森川は森川で、女ともつきあってみたけど、おまえのほうがいい、って高瀬くんに言えるから、ニーズは合致してたの。割り切った身体だけの関係をつきあったと言えるかはさておき」
「それに、遺伝子を残す、父親になる、っていう実績も解除できる」
 翡翠の言葉に、翠子は、そう、と頷いた。
「要するに、私はどうしても子どもが欲しくて、森川はどうしても高瀬くんを納得させたくて、そのためにお互い協力したの。二人の間にどういう話し合いがあったかは知らないけど、今も一緒にいるみたいだから、彼の本気が伝わったんでしょうね」
 翡翠は黙って頷いた。
 高瀬は、「友達の話だ」と言っていた。翡翠にならって、一歩引いた視点で語るためにそうしたのかと思っていたが、本当だった――厳密には、友達ではなく、恋人だが――わけだ。
 高瀬が、まるで自分のことのように、森川と翠子について話していたのを思い出す。森川は、細かいことまで包み隠さず高瀬に話したということだ。
「お母さんの行動力もすごいけど、森川さんもなんていうか……すごく割り切った人だね」
「まあね。そういう意味では似た者同士っていうか、同類に出会えてラッキーだったかもね」
 翡翠は翠子に育てられたからか、両親の遺伝子のせいか、二人とものの考え方が似ているようだ。彼らの行動を理解できる。合理的だとも思う。しかし、彼らの、目的を達成できるなら誰に何と言われようとかまわないという腹のくくりかたには、ちょっと引く。
 子どもが欲しいから、自分や子どもに未練を持たなそうな相手を選んで子づくりに協力させ、子どもができたら縁を切ろうとした翠子も、恋人を納得させるために別の相手と子どもを作り、その相手とも子どもともそれきり会わないという森川も、世間一般の目から見れば相当変わっている。二人とも、ただ一人の相手に対してだけ誠実で、そのためなら、ほかのすべてに対して不誠実でもかまわないというスタンスだ。
 本人同士は納得していても、森川の行動を、父親としての責任を果たしていないと非難する人もいるだろう。
 しかし二人とも、そんなことは覚悟の上なのだ。
「でも、高瀬くんは森川ほどドライじゃないっていうか、自分たちだけ幸せならいいって考え方じゃなかったわけよ」
 困ったことだというように息を吐いて、翠子がクッキーの残り半分を口に放り込む。
「翡翠が生まれたことを知った高瀬くんから、養育費を払わせてくれって連絡があって、もちろん断ったんだけど、大学卒業まで、二十歳はたちになるまで、高校卒業までだけでも、ってそりゃもうしつこくて……森川はともかくなんで高瀬くんが払うんだって言ったんだけど、子どもを作れって言ったのは自分だからとか財布は一緒だからとか言われて」
 はじめのうちは拒否していた養育費を、翠子が折れて受け取るようになった経緯についてはすでに高瀬から聞いている。翡翠がそれを伝えると、翠子は「そうそう、何度断ってもあきらめないもんだから」と呆れ半分、感心半分といった調子で頷いた。
「レターパックでお菓子が送られてきて、うっかり開けちゃったらお金が同封されてたりね。そのまま送り返そうかと思ったけど、まあお菓子に罪はないし、賞味期限があってもったいないし、元アスリートが作る健康的なお菓子っていうのにも興味があったし、食べてみたら結構おいしくて」
「おいしいよね。私は丸くてほろほろのが好き」
「私はこのハーブのやつが好きかな」
 知っている。
 翡翠はオレンジのクッキーを一枚とって食べた。豆乳ラテとの相性も悪くなかったが、紅茶と合わせるほうが翡翠の好みだ。
「お菓子を食べて、お金だけ送り返すのもなって思って、そのままなし崩し的に……。あれも策略だよね、高瀬くんの」
 お金は翡翠名義の通帳に貯めてあるという。私立大学でも留学でもどこでも行けるよと言われ、少なくない額だということがわかった。
「いつか父親のことを話したときか、大学入学のときに渡すつもりだったけど、今渡そうか」
「いらない。養育費って子どもを養育するためのお金でしょ。私を養育してるのはお母さんなんだから、お母さんが使えばいい」
「あんたってつくづく私の子ね」
 翠子と森川は、最初に取り決めたとおり、出産費用を折半したらそれきりで、連絡をとりあうこともなかった。森川は翡翠に会わないし、かかわらない。翠子も翡翠のことを森川に知らせない。
 森川は家庭を持って子どもを育てることより、高瀬といることを選び、高瀬も森川の決意を受けとめた。けれど、そのために――覚悟を示すため、自分を納得させるためだけに、森川が子どもを作ったことについては、高瀬は当事者たちのように割り切れなかった。
 自分の都合で子どもを作り、大人同士の合意だけで子どもに対する責任を放棄することは、良識に反すると考えた。
 そして、おそらく、森川だけでなく、森川に子どもを作れと言った自分も、同じだけの責任を負うべきだと思っているのだ。翠子と森川が納得していたとしても関係なく。
 とはいえ、だから森川に翡翠を認知するよう言うとか、養育にかかわることを勧めるとか、そういうことはできなかったのだろう。
 一度は身を引いて、女性と家庭を持つよう勧めたということを考えると、おそらく、高瀬がおもんぱかったのは自分と森川との関係より、森川のキャリアのことだ。
 森川は有名人で、隠し子がいたというだけでも、それなりの騒ぎになるのは間違いない。ましてそれが、同性の恋人と連れ添う覚悟を示すためだけに作った子どもだなんて、知られたら大炎上必至だ。
 高瀬にとっても、正義感より良識より何より、森川が大事だった。
 だから、翡翠のことを気遣いながらも、養育費を送ることしかできなかった。できることがそれしかないと思ったから、何度断られてもやめなかったのだ。
「一生隠すつもりだったわけじゃないのよ。翡翠が大人になったら……高校を卒業するくらいになったら、話してもいいかなって思ってたんだから」
 翠子が、両手をカップに添えたまま、翡翠の顔を覗き込むようにして言った。翡翠が考え込んで黙っていたからか、気遣う表情で「平気?」と訊かれる。
「それ、高瀬さんにも訊かれた。大人って心配症だね」
 翠子がまだ心配そうにしているので、強がりじゃないよと苦笑した。
「森川さんは知らない人だから、私をどう思ってたって関係ないっていうか、何とも思わないよ。お母さんは、そんなに子どもが欲しかったんだ、って――そんなに私に会いたかったんだなって、思っただけ」
 もともと、母親に愛されていることを疑ったことはないけれど、それでも、強く望まれて生まれてきたことがわかって嬉しかった。最初からいないものと思っていた実父が、自分をなんとも思っていなかったとしても、ダメージはなかった。手段として子どもを作ってしまえる行動力は、倫理的な問題を横に置けば、自分の父親らしい気さえする。
「でも、高瀬さんは、私に対して申し訳なさそうだった。ずっと、私に責められるのを覚悟してるみたいな感じだった」
 一番大事なもののために何かを切り捨てることなんて、誰でもやっていることだし、高瀬は切り捨てた本人ですらないというのに、難儀なことだと思った。自分の幸せが誰かの犠牲の上にあることを見て見ぬふりはできないと思っているのだろうが、翡翠には犠牲になったという意識もないのだ。
「そんなに気にすることないのに。私はお母さんと二人暮らしで幸せなんだから」
 こっそり幼稚園に見にくるなどして様子を探っていたなら、それは高瀬にもわかったはずだ。しかし高瀬は、幸せならよかった、と安心して終わりにはしなかった。
 それは彼の善性の表れなのだろうが、何もそこまで、という気がしてしまう。
 翠子は少しの間黙っていたが、
「翡翠が幸せでいてくれるのは、私たちにとっては救いだけど」
 片手でカップを無意味に回し、紅茶を揺らしながら言った。適切な言葉を探しているようだ。
「結果的にはそうでも……そうだとしてもね、やっぱり、私たちが身勝手なことには変わりないのよ」
 翡翠は母親を見た。翠子も、視線をあげて娘を見返した。
「森川は父親としてはクズもいいところで、あいつの目的をわかっていて、ある意味そこにつけこんで協力してもらった私も同罪。森川の行動は高瀬くんの言ったことが発端だし、全部知っても別れなかったことで、高瀬くんも加担したといえる」
「私が罪の子みたいに聞こえるんだけど」
「翡翠が罪なんじゃなくて、翡翠に対する罪の話をしてるの」
 茶化しかけた翡翠に引っ張られることなく、翠子はきっぱりと言う。
「翡翠には私たち全員に対して怒る権利があるし、翡翠が怒っていないからって、私たちがそれに甘えてちゃいけないの。これは、翡翠とのかかわり方には関係なく、私たちの意識の話」
 一番の当事者であっても、翡翠に触れられない部分の話だということだ。翡翠が許すと言えば彼らが楽になるわけではなく、彼ら自身が、楽になってはいけないと思っている。
 身勝手なうえに面倒くさい大人たちだなと思った。しかし、嫌いにはなれない。
「……それでも、またやり直せるとしても同じことをするでしょ?」
 翡翠が訊くと、翠子は苦笑して、「するね」と答えた。翡翠は少し安心する。それは翠子の誠実さだと思った。
「後悔はしてないのよ。一度も。今も。でも、だからって、自分のしたことを正当化はできない」
 それとこれとは別の話、と言って、翠子はすっかり冷めた紅茶の残りを飲み干す。
 わかった、と翡翠が言うと、うん、と応じた。
 翡翠はポットを持ちあげて、まだ中に紅茶が入っているのを確かめる。自分のカップと翠子のカップに紅茶を注ぎ、電気ポットのお湯で薄めた。
 それから、高瀬が持たせてくれた一切れのケーキを、二本のフォークで両端から削り取って、二人で食べた。しっかり焼かれた生地の上に、薄く輪切りにされたオレンジとパイナップルが埋め込まれたケーキだ。
「おいしい、これ。甘酸っぱくて」
「黒板に、本日のケーキ、アップサイドダウンケーキって書いてあったよ。たぶんそれだと思う」
「あー、型の底に果物を敷いて生地を流し込んで、焼きあがってからひっくり返してるんだ。なるほどね」
 翡翠はパイナップルを繊維に沿って切りながら、そっと翠子を盗み見る。翠子の目はケーキに向いていて、翡翠の視線には気づかない。娘に秘密を打ち明けて肩の荷が下りたのか、緊張が解けた、いつもの翠子だった。翡翠は視線をケーキへ戻した。
 お母さん、高瀬さんって素敵な人だね、と口に出そうかどうか迷ってやめる。
 少し話してすぐに、高瀬を好ましく思った。そのときは、彼が自分の父親だと思っていたから、翠子は自分と好みが似ているのだなと思った。やはり母娘なのだなとおかしかった。しかし、好みが似ていたのは、父親のほうだったようだ。
 森川かずは父親としては最低の部類だが、趣味はいい。
「ほかのケーキも食べてみたい。また高瀬さんのお店に行っていい?」
「翡翠が行くぶんには、そりゃ、私はかまわないけど」
「二人が嫌がるかな」
 嫌がっても別にいい、と思いながら、殊勝なふりをして訊いた。
「森川は嫌がるかもしれないけど、いいんじゃない? お互いかかわらないっていうのは私との取り決めで、翡翠は自由なんだから」
 だよね、と翡翠は言ってケーキのかけらをフォークですくいあげる。
 翠子ならそう言うと思っていた。
 森川に、積極的に嫌がらせをしたいという気持ちはない。しかし、結果的に彼が嫌がったとしても、翡翠は別にかまわない。
 父親とそっくりの自分のことを、高瀬は邪険にはしないだろう。
 最初は戸惑うかもしれないが、翡翠に何かを要求される、翡翠のためにできることがあるということを、彼はむしろ喜ぶはずだ。
 高瀬のせいで、翡翠には生まれたときから父親がいなかった。高瀬がいなければ、翡翠はこの世に生まれなかった。高瀬のおかげで、翡翠は今幸せに生きている。
 全部本当のことだと、高瀬もそろそろ理解するべきだ。
 それを、ふくしゅうだと言う人もいるだろうか。もしかしたら、そういう部分もちょっとはあるかもしれない。しかし翡翠としては、恩返しのつもりだ。
 翡翠たち母娘は幸せだし、これからもっと幸せになる予定だ。高瀬にはそれを見て安心してほしい。
 一方で、翡翠たちばかりが幸せで、森川に、手放さなければよかったなんて思われても困る。だから、彼らにも、うんと幸せでいてもらわなくてはならない。
 翡翠は、家族としてではなく、友達として、一つのテーブルについてお茶を飲む自分と、翠子と、高瀬と森川を想像する。自分以外の全員が、居心地悪そうにしているティータイムの様子を。
「何?」
 翡翠が自分を見ていることに気づいて、翠子が訊いた。
 幸せになろうね、なんて言ったら不思議な表情をされてしまうだろう。
 翡翠はそのかわりに、
「おいしいね」
 と言った。

  *

■ プロフィール
織守きょうや(おりがみ・きょうや)
1980年イギリス・ロンドン生まれ。2013年、第14回講談社BOX新人賞Powersを受賞した『霊感検定』でデビュー。2015年、『記憶屋』で第22回日本ホラー小説大賞読者賞を受賞。他の著書に同シリーズのほか、『花束は毒』『キスに煙』『まぼろしの女 蛇目の佐吉捕り物帖』『戦国転生同窓会』『明日もいっしょに帰りたい』『ライアーハウスの殺人』『あーあ。 織守きょうや自業自得短編集』など多数。

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