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第1回

ぼくらは祈ることにした 

      Prologue

 モニターには、夕闇に呑まれ、暗くなり始めた空が映し出されていた。
 オレンジと深い青が混じり合った空の色は、筋のように走る雲も相まって、幻想的な光景を映し出していた。
 ぼうぼうとマイクが吹き抜ける風の音を拾っている。
 しばらくして、ブレザーの学生服を着た少年が、画角に映り込んできた。
 色白で、まだあどけなさの残る顔立ちをしているのだが、切れ長の目だけは、理知的で達観した大人の雰囲気を宿していた。
「聞こえていますか?」
 少年が、カメラに向かって呼びかけてくる。
 まだ、幼さの抜けきらない中性的な声だった。何処か危ういのだけど、それでいて、人を惹きつける引力を持っている。
 彼は、少し迷ったように視線を揺らしたあと、大きく息を吸い込んでから話を続ける。
「ぼくは、ずっと自分がどうして生きているのかが分からなかった。今、生きているこの瞬間に意味を見出せなかったんだ。囲いの中で、死を待つだけの子羊のようなものだ。未来に希望なんてない。いっそ死んだ方が、楽になるんじゃないかって、何度も希死念慮に駆られた」
 そこまで言ったところで、少年はふと視線を上げた。
 空は、既に赤みを失っていた。代わりに、小さな星が瞬き始めている。
 風が止んでいた。
 やがて、少年は改めてカメラに目を向けた。
 その目は、何かに怒っているようでもあり、悲しみに満ちているようでもあった。それでいて、全てを諦めたように空虚にも見えた。
「でも、ぼくはようやく自分の役割を見つけたんだ。ぼくは、アニュス・デイになるために、この世に生を受けたんだと思う」
 少年の頬から、涙が一粒零れ落ちた。
 表情が動かないので、それがどういう感情に紐付けされた涙なのか分からなかった。
「最後に、ぼくを信じてくれてありがとう。ぼくの行動が、世界の浄化に繋がることを願っています」
 言い終わるのと同時に、少年は画面に向かって手を伸ばした。それと同時に、モニターは完全な黒に染まった。

「これ、何なんですか?」
 神原かんばら瑠生るいはタブレット端末から顔を上げながら、応接室の向かいのソファーに座った宇佐美うさみ則章のりあきに訊ねた。
 宇佐美は、瑠生が勤務する『宇佐美法律事務所』の所長だ。
 五十代後半だが、ジム通いで身体を鍛えているお陰で、引き締まった身体つきをしている上に、清潔感もあり、実年齢よりもはるかに若く見える。
 弁護士として優秀なのはもちろんだが、神奈川県弁護士会で、数々の役職を歴任し、発言力と影響力を持った弁護士だ。
「見て分からないか?」
 宇佐美が、低くよく通る声で聞き返してきた。
 質問に質問で返すのは頂けないと思うが、それを指摘したところで、理屈を捏ねて論破されそうなのでやめておいた。
「分かりません」
「その映像に映っている少年は、北見きたみ敬斗けいと君。十四歳。川崎市立春山中学校に通う生徒だ」
 宇佐美はそこで言葉を止め、もう分かっただろという風に、瑠生を見返してきた。
 そんな顔をされても、分からないものは分からない。そのことを伝えると、宇佐美は聞こえよがしにため息を吐いた。
「前から言っているが、神原も弁護士なら、もっとニュースに気を配った方がいい」
「そうしているつもりですが……」
「お前が見ているのは、ネットニュースだろ」
「まあ、そうですけど……」
「新聞を読め。ネットニュースは、検索履歴やターゲット層で、表示される記事が選別されてしまうから、入ってくる情報に偏りが生まれる」
「すみません」
 反論するのも面倒なので、取り敢えずの謝罪をする。
「まあいい。現在は、削除されているが、この映像は北見敬斗君のアカウントからSNSに投稿され、瞬く間に拡散されて、軽く炎上した」
「炎上――ですか?」
「そうだ。学校側に相当数のクレームの電話がかかってきているらしい」
「これって炎上する要素はないですよね?」
 昨今は、飲食店などで迷惑行為を行っている動画を投稿し、炎上するようなケースもある。だが、敬斗が投稿したというこの動画は、ポエムのような話の内容は、少し痛いとも感じるが、誰かに迷惑をかけているわけでもないし、わざわざ学校側にクレームを入れるほど目くじらを立てることではない。
「動画だけならな」
「どういうことですか?」
「北見敬斗君は、この動画を投稿した直後、撮影場所の校舎の屋上から飛び降り自殺をした――」
 宇佐美の鋭い眼光に射竦められ、瑠生は固まってしまった。
 嫌なことを思い出し、額にじわっと脂汗が浮かんだ。喉に張り付くような感覚があり、すぐに言葉を発することができなかった。
「死んだんですか?」
 数秒の沈黙の後、どうにか質問を絞り出した。
「ああ。即死だったそうだ」
「そうですか……」
「北見敬斗君の話の内容は抽象的だったが、SNSで彼の親御さんが、学校でいじめを受けていたにもかかわらず、学校側が対応を怠ったという趣旨の発言をしたことで、炎上する事態になってしまったというわけだ」
 ここまで聞けば、宇佐美が何を求めて自分をここに呼び出したかは、だいたい想像がついた。
「調査委員会が立ち上がるということですか?」
 瑠生が訊ねると、宇佐美は顎を引いて頷いた。
「親御さんの強い要望もあって、教育委員会は苛め問題の調査委員会を設置して、事実関係の確認をすることを決めた」
 いじめなどの事案が発生し、親から強い要望などがあった場合、教育委員会は、事実関係を明らかにするために、学校とは関係のない第三者によって構成される、いじめ問題調査委員会を設置することがある。
 世間一般的に第三者委員会として知られているものだ。
「宇佐美さんが、また、第三者委員会に参加するということですね」
 弁護士は通常、各地の弁護士会に所属していて、その中にある、刑事弁護委員会や消費者問題対策委員会など、様々な委員会に所属している。
 宇佐美は、子どもの権利委員会の委員長を務めていて、いじめなどによる調査事案が発生した場合、教育委員会から真っ先に声がかかる。
 今回も宇佐美に声がかかったに違いない。そうなると、宇佐美の仕事が回らなくなるので、担当している案件の幾つかが、他の弁護士に割り振られることになる。今回もそのパターンだろう。
 今、瑠生も多くの案件を抱えていて、仕事が逼迫しているが、こういう状況では仕方ない。
「いや。今回は、私は第三者委員会には参加しない」
 宇佐美から意外な返答があった。
「え? 参加しないんですか?」
「ああ。うちの事務所から、別の弁護士を出すことで先方に納得してもらった」
梅田うめださんとかですか?」
 弁護士事務所で、実質ナンバー2の名前を出した。無表情で何を考えているのか分からないところがあるが、堅実に仕事をこなすタイプなので、第三者委員にはうってつけだと思う。
「いや。梅田は来月独立することになっている」
「え?」
 梅田が独立するというのは初耳だった。
「知らなかったのか。まあ、ギリギリまで言わないところは梅田らしいな」
 宇佐美が楽しそうに笑う。
「梅田さんじゃないとするなら、誰なんですか?」
「神原。お前だよ」
「え? おれが――ですか?」
 まったくの不意打ちに、思わず声が裏返る。
「お前が――だ」
「いや。待って下さいよ。おれは、第三者委員会なんて経験がないですよ」
 瑠生は慌てて口を挟んだ。
「経験なら、もう積んでいるだろ。前に、一緒にやったじゃないか」
 確かに、三ヶ月ほど前に、別の案件で宇佐美と共に第三者委員会に名を連ねたことがあるが、それはあくまで宇佐美のサポートとして、会議に参加したり、書類作成を手伝ったりした程度だ。
「あれを経験と言われても困ります。他の人にして下さい」
「何を言っているんだ。神原も、子どもの権利委員会のメンバーなんだ。いつかは役割が回ってくる。それが、今だったというだけのことだ」
 瑠生が弁護士会の<子どもの権利委員会>に名を連ねたのは、宇佐美の強い勧めがあったからだった。
 宇佐美と同じ委員会に所属していれば、分からないことを教えてもらえるし、楽だろうと安易に考えていたが、こんな形で仕事を振られるとは思っていなかった。
「おれには、まだ無理です」
 悪あがきだと分かっていても、承諾の返事ができなかった。
「どうして無理なんだ?」
「自信がないです」
「子どもではないんだ。自信がないとか言っていられないだろ」
「いや、しかし……」
 自信がないというのもある。だが、それ以上に、自分には、いじめが疑われる案件の第三者委員会に名を連ねる資格はない。
 だが、ここで宇佐美に本心を語ることは躊躇われた。多分、宇佐美は瑠生に期待してくれている。だからこそ、余計に喋ってはいけない気がした。
「悪いが、もう教育委員会には、神原の名前を伝えてある。ついでに、第三者委員会の委員長も、お前にやってもらうことになる」
「そんな。勘弁して下さい。それこそ荷が重いです。今、抱えている案件もありますし、そこまで余裕がありません」
「他の人間にやらせたら、余計に手間がかかるだろ」
 残念ながら、宇佐美の言う通りではある。
 学校のいじめ問題事案の第三者委員会で招集されるのは、弁護士、学識者、医師、カウンセラーといった面々だ。
 調査の段取りや報告書の作成、教育委員会への報告など各種業務に長けているのが、弁護士であることは事実だ。
「しかし……」
「神原が抱えきれない仕事については、私の方で他の人間に割り振るから安心しろ」
「そう言われましても……」
「いい加減、腹を括れ」
 宇佐美にしては珍しく、叱責するような強い口調だった。
 はっきりしない瑠生の態度に、業を煮やしたのかもしれない。こうなってしまうと、瑠生は「分かりました」と頷くことしかできなかった。
「詳細については、メールしてあるから、それを見て確認しておいてくれ。じゃあ、後は任せたぞ」
 宇佐美は、一方的に告げると早々に応接室を出て行ってしまった。
「勘弁してくれよ」
 音を立てて閉まるドアを見つめながら、瑠生は思わずぼやいた。
 こんなことなら、子どもの権利委員会になど入らなければよかった。いじめ事案の第三者委員会の委員長など、自分がやっていい仕事ではない。

 登戸のぼりと駅でJR南武線に乗り換えたのだが、幸いにして混雑していなかった。
 座席に座った瑠生は、鞄から資料を取り出し目を通す。
 本当は、昨晩のうちに確認しておきたかったのだが、時間が取れず、移動しながら目を通す羽目になった。
 北見敬斗。十四歳。中学二年生。入学式のときに撮影された写真が貼り付けられている。
 色白で顔の凹凸が少なく、のっぺりとした印象を受けるが、顔立ちはかなり整っている。切れ長で涼しげな目をしていて、知的な印象があった。
 事実、学校での成績はよく、常に学年の上位に位置していたようだ。華奢な身体つきもあって、体育の成績だけはあまりよくない。身体が弱かったのか、学校は休みがちで、週一回は欠席していたようだ。
 もし、いじめ事案が起きていたのだとしたら、学校を休んでいたのは体調の問題ではなかったかもしれない。
 敬斗は、シングルマザーの家庭で、学校近くのマンションに住んでいる。兄弟姉妹はいない。
 母親が負った喪失感は、相当なものだろう。
 喪服姿の中年女性が、背中を丸めて泣きじゃくっている光景が脳裏に浮かぶ。
 同情的な気持ちになったものの、瑠生は慌ててそれを引き戻した。
「そんな資格はないだろ」
 呟いたところで、中学生くらいの男女四人が、電車に乗り込んできた。
 その一団は、扉の脇のスペースに陣取り、我先にと何てことない日常の出来事を楽しげに話している。
 電車が動き出したことで、一人がバランスを崩した。たったそれだけのことで、何が楽しいのか、みんなで笑い合っている。
 瑠生は改めて資料にある、敬斗の写真を見た。
 黒い目がじっと正面に向けられている。マジックで塗り潰したように、光がない。
 写真を撮影したときの光の加減とか、そういうことではない。彼の目には、電車の中で騒ぐ中学生たちと違って、未来が映っていない。感覚的なものだが、瑠生にはそう思えてならなかった。
 瑠生は耳にワイヤレスイヤホンを挿し、周囲の音を遮断してから、さらに資料を捲り始める。
 警察の報告によると、敬斗の死因は屋上から転落したことによる脳挫傷。即死だった。
 ただ、検死の中で、敬斗の腕や足、腹や背中など、露出しない箇所に、転落したのとは別の痣が複数あったことが確認されたことで、日常的に暴行を受けていた可能性が示唆された。
 このことは、学校側にも伝達された。だが、学校側は、いじめ事案は発生しておらず、自殺の原因は家庭環境にあるという見解を示した。
 このことに納得のいかなかった敬斗の母親の愛美まなみは、息子が最後に残したSNSの投稿を引用するかたちで、【息子は学校に殺された】と発信した。
 それだけでなく、暴露系の配信者の動画に出演し、息子はいじめを受けていて、学校側に何度もそのことを伝えたが、聞き入れてもらえなかった――と涙ながらに訴えた。
 この動画がきっかけで、炎上騒ぎになり、学校側のSNSに誹謗中傷コメントが殺到することになった。
 これを受けて、学校側は保護者説明会を開いたのだが、その際、校長の岸本きしもとが亡くなった敬斗の名前を何度も間違え、それを笑って誤魔化すという暴挙に出てしまった。説明会は紛糾し、収拾がつかない事態に発展してしまった。
 ここでようやく、教育委員会は第三者委員会の設置を決定したというのが、これまでの流れだ。
 全てにおいて後手に回った結果、事態は最悪の方向に動いているというのが、瑠生の印象だ。
 検死報告の段階で、いじめ事案である可能性はあった。その段階で生徒にアンケートを取るなり、保護者説明会を開くなり、何らかの対応をしていれば、ここまで大事にはならなかった。
 保護者説明会の態度からも分かるように、校長の岸本に相当な問題があるのだろう。
 何れにしても、一筋縄ではいかない厄介な案件なのは間違いない。しかも、炎上したことで注目度も上がっている。
 中途半端な報告書を上げれば、新たな火種になりかねない。
 その渦中に自分が放り込まれると思うと、より一層、気分が重くなった。何とか、担当を降りる方法はないかと真剣に考えている間に、電車は川崎駅に到着した。
 電車を降りた瑠生は、北口のエスカレーターを降りて、真っ直ぐ市役所通りを進む。
 南側は、ショッピングモールが建ち、ビジネス街として生まれ変わっているが、北側は昔ながらの繁華街があり、雑多な印象がある。
 五分ほど歩いたところで、教育委員会の入っている川崎市役所の南庁舎が見えてくる。
 受付で入館の手続きを済ませて、エレベーターで七階に上がる。
「神原先生」
 エレベーターを降りたところで、五十がらみの中年の男性に声をかけられた。
 顎の下に黒子があり、角張った顔立ちに見覚えがある。教育委員会の職員だったはずだが、名前が思い出せない。
 それでも、瑠生は知ったふりをして「先日は、どうも」と当たり障りのない挨拶をする。
「例の件でいらっしゃったんですよね」
「はい」
「何にせよ、神原先生がいて下さるのは、本当に心強いです」
 前回、サポートで参加しただけなのに、こういう持ち上げられ方をすると、どう反応していいのか分からず、「あ、まあ……」と曖昧に返した。
「どうぞ。こちらです」
 そう言って、職員は瑠生を会議室に通してくれた。
 一番乗りだったらしく、まだ、誰も来ていなかった。椅子が三脚ずつ並ぶ長テーブル二台が、向かい合わせになっている。
 何処に座るべきか迷う。職員が促してくれれば良かったのだが、案内してすぐに会議室を出て行ってしまった。
 仕方なく、瑠生はドアに一番近い下座に腰を下ろす。
 もう一度、資料に目を通しておこうかと思ったところで、ドアが開いて五十代くらいの男性二人が連れだって、会議室に入って来た。
 前回、宇佐美のサポートで参加した第三者委員会のときも一緒にいた。はやしもりだ。狙ったわけではないのだろうが、冗談みたいに思えてしまう。
「林さん。森さん。先日は、お世話になりました。宇佐美法律事務所の神原です」
 瑠生は椅子から立ち上がり、二人に頭を下げた。
「ああ。神原君。先日はどうも」
 人懐こい笑みを浮かべながら林が言う。
 林は市内で診療所を開いている内科医だ。背が高く、不摂生を代表するような体型をしているので存在感がある。この体型で生活習慣病について指導しても、説得力はないだろうと余計な心配をしてしまう。
「今回も、よろしくお願いします」
「こちらこそ。宇佐美さんから聞いているよ。今回、委員長をやってくれるんだろ」
 林が嬉しそうに言った。
 あわよくば、他の人に委員長を押し付ける手もあると考えていたが、宇佐美からの根回しはもう終わっているらしい。
「自分一人では、どうにもなりません。どうか、お力添えをお願いします」
「謙遜するなよ。宇佐美さんから、有能だって話は聞いている。期待しているよ」
 林は楽しげに笑いながら、一番奥の椅子に座った。
「森さんも、よろしくお願いします」
 瑠生は、森に向き直って頭を下げた。
 森は、大学の准教授で、教育学部で教鞭を執っている。林とは対照的に身長が低く、心配になるほど痩せた体型をしている。
 外見に無頓着らしく、スーツはよれよれなのだが、それでいて喋り方は神経質そのもので、顔つきから気難しさが滲み出ている。
「あ、そう。最初に言っておくけど、私は大学の方が忙しいんです。子どものいじめ問題なんかに、絡んでいる時間はないんだ。くれぐれも、手間を取らせないようにして欲しいですね」
 森の言いように、瑠生は苦笑いを浮かべながら、「分かりました」と小さく頷いた。
 仮にも教育学部で教鞭を執る人間が、「子どものいじめ問題なんか」などと発言するのは、いかがなものかと思う。
 だが、それを口に出したところで、森のような人物が聞き入れるとは思えない。凝り固まった考えを覆すのは、並大抵のことではない。そもそも、他人を変えることなど不可能だ。
 弁護士になってから、そのことをより一層、痛感するようになった。
 世間では多様化などと叫ばれているが、所詮は幻想に過ぎない。誰しもが、自分の価値観が世界の正義だと思って生きている。異なる価値観を前にすると、それは悪だと決めつけ攻撃する。そうやって、自分の正しさを証明しようとしているのだ。
 いじめの根本は、そういうところにあるのかも知れない。
 森が、林の隣に座ったので、瑠生も椅子に座ろうとしたのだが、そこで再びドアが開き、一人の女性が入って来た。
 会うのは初めてだが、資料に名前があったので、彼女が誰かは知っている。
山岡やまおか水音みおさんですね」
 瑠生が声をかけると、水音は「はい」と笑顔で返事をした。
 水音は、川崎市の教育委員会に所属するスクールカウンセラーだ。年齢は、瑠生の二つ下の二十八歳。経験は浅いが、臨床心理士の資格を持っている。
 ベリーショートの髪に、紺のパンツスーツという出で立ちで、綺麗な立ち姿をしていて、活動的な印象を受ける。
「神原先生ですね。初めまして。スクールカウンセラーの山岡水音です」
 水音が丁寧に名刺を差し出してきた。
「宇佐美法律事務所の神原です」
 瑠生も名刺を差し出し、お互いに交換する。
「宇佐美先生から、いつも噂は伺っています。子どもの権利について、積極的に活動されているそうですね。素晴らしいことです」
 水音が嬉しそうに言った。
 多分、宇佐美が吹聴したのだろう。否定すればよかったのだが、水音の真っ直ぐな視線に呑まれて、上手く言葉が出てこなかった。
「ええ。まあ……」
「出来れば、子どもの人権について、神原先生の考えをお聞かせ下さい」
「えっと、そうですね……」
 正直、子どもの人権についてなど、真剣に考えたことがない。親の庇護下にあり、法的にも守られているのだから、人権云々と主張するのは、義務を果たさず、権利だけ主張しているようなものだ。
 ただ、それを正面から口にすれば、批判を喰うことくらいは分かる。
「そういうのは、後でいいんじゃないですかね?」
 森が持っていたボールペンで、トントンとテーブルを叩いた。
 単純に苛立っただけなのだろうが、瑠生にとっては助け船になった――。

Profile

神永学(かみなが・まなぶ)

1974年、山梨県生まれ。2004年『心霊探偵八雲 赤い瞳は知っている』でプロデビュー。「心霊探偵八雲」シリーズとして人気を集める。他の著書に「天命探偵」「怪盜探偵山猫」「確率搜查官 御子柴岳人」「殺生伝」「革命のリベリオン」「浮雲心霊奇譚」の各シリーズ、『イノセントブルー 記憶の旅人』『ラザロの迷宮』『マガツキ』『青龍中学校 オカルト探偵部』などがある。

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