「糖花さん、私とパリへ行きましょう」
夏のやわらかな月明かりに照らされたベランダで、語部は優しく目を細め、それは幸福そうに言った。
「え、ぱ──パリ、ですか?」
「はい。お店が一週間の夏季休業に入ったら、二人でまいりましょう」
ますます目を細め唇をほころばせる語部に、糖花は(二人でって、わたしたちまだおつきあいしていないのに)──と動揺しながら答えたのだった。
「あの、わたし、パスポートを持ってませんっ」
その半月後──。
急いでパスポートを取得した糖花は、パリに向かう飛行機の中にいた。
機内は照明が落ち、青白い非常灯が通路をぼんやり照らしている。
ブランケットをかけた語部が、隣で静かに目を閉じている。
本当に語部さんとパリへ行くんだわ……。
まるで夢を見ているみたいだ。
糖花は、都内の住宅地にあるパティスリー『月と私』のオーナーパティシエだ。つぶれかけていた小さな店は、ある日ストーリーテラーを名乗る男性──語部九十九が現れ、執事のような黒い燕尾服を着て店頭に立つようになってから、みるみる人気店になり、従業員も増えた。
来年はイートイン専用の二号店を、今の店の隣のビルにオープンする予定だ。
それだけではない。
パリ在住の実業家アルベール・デュボア氏から、パリに新しく出店するスイーツ店の商品監修とコラボを依頼されている。
店はチェーン展開を予定していて、日本にも出店することになっていた。
そのプレゼンのため、パリへ向かっている。
わたしにできるのかしら……。
まだプレゼンに出す商品も決まっていないのに……。
アイデアがないわけではない。でも、どれもなにか足りない気がして、新しい商品を次々考えて、かえってどれがいいのかわからなくなっている状態だ。それでまた新しい商品をぐるぐる考えてしまう。
語部さんは『糖花さんのお菓子はどれも素晴らしいので、納得がいくまで作ってみてください』と言ってくれたけれど。
──あとは私が引き受けます。『月と私』のストーリーテラーである私が、糖花さんのお菓子の魅力をパリのみなさんに伝えます。どうぞお任せください。
これまで何度も、彼が語るあざやかなストーリーに助けられた。なので、もちろん語部のことは信頼している。
それでもプレゼンのことを考えると、気持ちがざわめく。
語部さんは失敗しないだろうけど、わたしのほうは大丈夫なのかしら? アルベールさんたちをがっかりさせないお菓子を作れるのかしら?
また堂々巡りしてしまう。
ああ、わたしってどうしてこう心配性なのかしら。
糖花はため息をついたらしい。
隣から、ささやくような声が語りかけてきた。
「……眠れないのですか、糖花さん」
深みのある美しい声が耳のすぐ近くで聞こえて、心臓がはね上がった。
糖花の耳たぶには、語部から贈られたシルキーピンクの三日月のピアスがある。その周辺が、かぁっと熱くなる。
「すみません」
消え入りそうな声で返すと、ふいに清楚な香りがただよって、横から長い手がすっと伸びてきた。
手のひらに、小さな丸い缶。
ふたが開いていて、優しい香りから、すみれの砂糖漬けだとわかった。ふたの半分が昼の空をイメージした水色、半分がすみれ色の月をイメージした缶は、お店のオリジナルだ。
『月と私』では、すべての商品が、満月、半月、三日月の形をしている。
きらきらしたお砂糖をまぶしたすみれの花は、花びらの形が半分欠けた月のようだから、半月だ。
「よかったらひとつ、お口に含んでみてください」
ささやきかけてくる声に、あたたかさが混じる。
「私の母が就寝前に、毎晩ひとつ食べていたんです」
「お母さまが?」
語部の母親は、彼がまだ二歳のころに亡くなったと聞いている。
物心ついたとき父親はおらず、アパートに二人で暮らしていたと。
──部屋には一冊の本もありませんでしたが……。代わりに母が、たくさんの物語を聞かせてくれました。
子供向けのおとぎ話の他にも、空のことや星のこと、太陽や月のこと、植物のこと、地球に暮らす生き物のこと……あらゆることを、落ち着いた静かな声で自在に語ってくれたのだと─それは幸せそうに、大切そうに、糖花に話していた。
まだ小さかったので母の顔はよく覚えていないけれど、おだやかな声と優しい手をした人だったと。
「春になると母はすみれの花を摘み、花びらに絵筆で卵白を塗って、砂糖をまぶして乾かしていました。私も食べてみたかったのですが……二歳の子供には甘いお菓子はまだ早いと考えたのでしょう。小さい子が食べると体からすみれの花が生えてくるからダメよと言われたのを、信じておりましたよ……」
語部の微笑みが、小さな吐息になって糖花の耳たぶにかかる。
普段は朗々とした声を響かせる彼の、密やかなささやきに耳をほてらせながら、糖花は聞いている。
それはまるで子守唄代わりにお母さんが語ってくれる、お話のようでもあって。
「……夜、薄い布団にくるまって私を抱き寄せる母の吐息は、すみれの花の香りがして、子供だった私はその香りに安心して、眠りに誘われたのです。なので眠れない夜にこれをいただくと、今でも心が安まるのです」
すすめられるまま口に含んだすみれの砂糖漬けが、清楚な香りをただよわせて、とけてゆく。
表面にまぶしたグラニュー糖に、すみれの香りが移っていて。
そっと歯を立てると、しゃり……と音がして崩れる。
語部のささやく声と、すみれの花の香りに包まれて、糖花はいつのまにかシートにもたれて眠りに落ちていた。
*
続きは10月1日ごろ発売の『ものがたり洋菓子店 月と私 なのかの休日』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
野村美月(のむら・みづき)
福島県出身。『赤城山卓球場に歌声は響く』で、第3回えんため大賞小説部門最優秀賞を受賞。著書に、「文学少女」「ヒカルが地球にいたころ……」「むすぶと本。」「世々と海くんの図書館デート」「紅茶とマドレーヌ」「和カフェこよみ」の各シリーズのほか、『ビストロ・ベーテへようこそ 幸せのキッシュロレーヌ』『団地の恋人 きみを待つ優しい時間』など多数。子供のころからスイーツが大好きで、Instagram(ID:harunoasitaha)で情報発信している。

