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近松よろず始末処

 
 
 雨がまない。
 ずぶ濡れの体は冷えて、脇腹から流れる血だけが生ぬるい。
 立ち上がる力は、とらひこには、もうなかった。板塀に預けた背中も、地面に投げ出した足も、感覚がない。
 あかん……とつぶやこうとしたが、すでに声も出なかった。
 いや、耳のほうが先にいかれてしまったのかもしれない。さっきから、わんわんと耳鳴りがひどい。
 目の前が暗いのも、やみのせいではなく、終わりが近いせいか。
 夢を見ているようだと、虎彦は思った。
 昨夜ゆうべはいつもと変わらず、兄貴たちと屋台で安酒を飲んでいた。
 今夜もそうなるだろうと、のんに信じていた。
 終わるときは、あっというまだ。ほんの、一瞬──。
 耳鳴りが、さらに酷くなった。
 わんわん、わんわんと、耳元で鳴り続けるそれは、不思議と不快ではなかった。
 まるで、誰かに呼ばれているかのような……。
 ──どうした、おにおうまる。何を見つけたのだね。
 頭の上から声が降ってきたような気がするが、これも耳鳴りだろうか。
 ──おや。行き倒れか。厄介だな。こんなところで死なれると。……いや、まだ息があるようだ。
 声が近づいてくる。
 もしや、誰か近くにいるのだろうか。
 目を開けようとしたが、まぶたが重くて開かない。
 ─ふむ。これは……おもしろい拾いものだ。役に立つかもしれんぞ、鬼王丸。
 声の主が笑ったような気がした。
 わろてる場合と違うやろ──そう言おうとして、ぷつんと意識が途切れた。
 それきり、闇のなか。


 第一章 お犬さま

  1

 たけもとは、今日も客の入りが悪い。
 おおさかの町人は移り気で、去年あれだけ流行はやったにんぎょうじょうよりも、今はのほうがいいらしい。
 しばやぐらや絵看板がにぎやかに並び、みなが浮かれて歩くどうとんぼりばただというのに、竹本座の前は誰もが素通りだ。たまに立ち止まり、ゆうや人形遣いの名を札で確かめるだんがいても、すぐに肩をすくめて去っていく。
 演目が当たれば、途中からでも入る客は多いものだが、今はさっぱりで、往来に響いてくるしゃせんの音も、どこかさびしげだった。
「暇や……」
 小屋の木戸前に腰を下ろした虎彦は、ぽつりとつぶやきをもらした。
 桑染めのはんてんに黒い腹掛け姿で、目の前には大きな籠かごが二つ。
 あふれんばかりに籠に盛られた純白のは、辺りに甘ったるい香を放っているが、朝、仕入れてきたときから、数がまったく減っていない。
しょうのころは良かった)
 ほんの十日前までは、竹本座の入りに関係なく、次から次に花を買う客が来ていた。売り切れて、昼過ぎに慌てて村方まで仕入れに戻ったこともあったほどだ。
 季節が変わると、ぱたりと客足が途絶えた。
「百合? そんなもん、そのへんの野っぱらにいくらでも咲いとんで」
 目の前で笑われたこともある。
 こうなると、小屋の入りが悪いのが、どうにも痛い。
 浄瑠璃を聴いて上機嫌の旦那ならば、ありふれた花でも手に取ってくれることがあるが、小屋の前で足を止める者がいないとあっては、話にならないのだ。
 日銭稼ぎの身であるから、一日の売り上げはそのまま、飯の中身につながる。昨夜から虎彦が口にしたものといえば、向かいの屋台の汁掛け飯一杯だけ。十九歳の若者には、とても足りる量ではない。さっきから、腹はくうくうと鳴きっぱなしだ。
 クソッ……と、虎彦は舌打ちをした。
(あのじいさん、何もかも計算ずくで……ずる賢い浄瑠璃作者め)

 虎彦が花売りを始めたのは、去年の秋だ。
 竹本座前で二十数年、花を売り続けてきた老婆が隠居することになり、その縄張りを譲り受けたのだ。
 老婆との仲介をしてくれたのも、道具一式を買い取る金を都合してくれたのも、竹本座とえんの深い、とある浄瑠璃作者だ。
 名を、ちかまつもんもんという。
 虎彦の、命の恩人である。
 浄瑠璃なんぞに縁のない暮らしをしていた虎彦はまったく知らなかったが、実はかなりの有名人らしい。『しゅっかげきよ』や『つぎ』といった時代物浄瑠璃の大当たりで名を広めた人物だとは、後に竹本座の者たちから聞いた。
 その近松から花売りの話を持ちかけられたとき、虎彦はうろたえ、とんでもないと首を振った。
「おれに花売りなんぞ無理や。できるわけがない」
 八つで親と家を失い、道ばたで飢え死にしかけていたところをやくざ者に拾われ、盗みとけんに明け暮れながらで育ったろくでなし──それが虎彦だ。
 ささいなめ事で賭場の兄貴分たちの不興を買い、袋だたきにされて竹本座の前で行き倒れていた一年前の晩、そのままのたれ死にしていれば、よくある哀れな破落戸ごろつきの一生だった。しかばねは野ざらしで、とむらってくれる者さえなく、消えていく。
 しかし、神仏の気まぐれか、前世の因縁か、通りすがりの浄瑠璃作者が虎彦を見つけ、助けてくれ、九死に一生を得たのだ。
 これまでの生活のすべてを失ってしまったが、せっかく拾った命だ、今後は精一杯、大事にしよう。死んだ気になれば、なんだってできるはず──。
 竹本座にそうろうをさせてもらい、傷ついた体を癒しながら、虎彦はそんな望みを支えに日を過ごしていた。
 ──が、いくらなんでも花売りはない。
 風流とは縁のない育ちの虎彦は、梅と桜の区別どころか、菜の花と菖蒲の違いさえ判らない。
「そもそも、おれに客商売なんぞ無理や。この見た目では、客が逃げてまうわ」
 自分の外見が人に好かれないことは、昔から知っていた。
 見るからに生意気そうなガキ、みつきそうな目で睨にらむな。──使いっ走り兼用心棒をやっていた賭場でも、そう言われ続けてきた。小柄でせぎすなため、年より若く見られるのも悪かったようだ。ガキのくせに、と、自分より年下のガキに毒づかれる。
 そのうえ、今は額に生々しい傷痕ができてしまった。死にかけたときの名残なごりだ。人前での仕事など、無理に決まっている。
 しかし、近松は首を振った。
「いや、そういうお前さんだから良いのだ。考えてもごらん、道頓堀に匂い立つような色男の物売りがいたところで目立つものか。芝居小屋に入れば、当代一流の美男たちが流し目を送ってくれるのだ。生半可な男前ではおとりするだけだ。毛色の変わったお前さんのほうが、新鮮でいいに決まっている」
 真顔で言われ、虎彦は一瞬、答えに詰まった。面と向かって見た目をけなされたように思ったが、腹を立てるべきだろうか。
 近松は構わず、ぐっと顔を近づけ、虎彦の肩に手を置いた。
「なあ、虎よ。お前はまだ若い。人生はこれからだ。なんでもやってみればいいのだ。私も同じだった。生まれは武家だが、親が浪人し、十二で故郷のえちぜんを離れ、京で奉公を始めた。運が無く、この人と思えるあるじには出会えず、あちこちの公家屋敷を転々として、落ち着きのない奉公暮らしを続けたよ。浄瑠璃を書き始めたのは二十代も半ばになってから。このままでは何をやっても中途半端だと思い、好きな浄瑠璃にけてみようと、人生をやり直したのだ。虎、お前だって同じだ。まだこれからだ。なんだって始められる」
 今は京で歌舞伎のみやこつき作者として暮らしつつ、竹本座にも新作を書いている売れっ子の近松だが、浄瑠璃を書き始めてからも、名が広まるまでしばらくは、町で講釈を聞かせたりして日銭を稼ぎ、なんとかこうをしのいでいたという。苦労知らずのぼんぼん育ちでは、決して、ない。
 そんな男の言うことであれば、重みがあった。
「それにな、虎。毎日、花を見つめて暮らすのはいいものだよ。花はな、すぐに枯れる運命を知りながら、懸命に日の光を見上げて咲く。健気で愛らしい。私はお前さんにも、そういう生き方を見つけて欲しいのだ。あの雨の日、泥だらけ、血だらけで竹本座の前に倒れていたお前さんを見つけたときから、この若者に、お天道さんの下を歩かせてやりたい、空を見上げて胸を張って生きて欲しい──そう思ってきた。竹本座に来る度に、お前さんが一生懸命に商売に精を出している姿を見られたら、私は幸せだと思うよ」
「……爺さん、そこまでおれのことを……」
 虎彦の心が揺れた。
 身内でもない近松が、ただの通りすがりの行き倒れだったおれに、これほど親身になってくれている。今まで喧嘩しか知らずに生きてきたろくでなしのおれを、この爺さんは本気でまっとうな人間にしようとしてくれている。
 この真心を信じられないほど、腐った男にはなりたくない。
「……爺さん。よろしゅう頼む」
 虎彦は震え声で応え、近松に頭を下げながら、花売りとして真っ正直な人生を始めることを誓った。
 ──つまるところ、虎彦はまんまとだまされたのだ。二枚舌の浄瑠璃作者に。
 その後の虎彦は、真っ正直な花売りになど、なれはしなかったのだから。

  2

 過去を悔やんでため息をついていたからといって、銭になるわけではない。
(少し、近場を売り歩いてみるか……)
 そう思い、籠を担ぐためのてんびんぼうを手に取ろうとし──そこで虎彦は気づいた。
「鬼王丸……? どこ行った?」
 いつも隣におとなしく座り、店の看板よろしく客に愛想を振りまいてくれている鬼王丸が、いつのまにかいなくなっている。
 どこに行ったのだろう。
 慌てて辺りを見回したが、いない。断りもなく姿を消すことなんぞ、まずないのに。
「おい、虎彦、どないかしたか。……お、鬼王丸がおらんな」
 きょろきょろしている虎彦の様子に、木戸に座る札売りのおやも気づいたようだ。
「気がついたらおらんかったんや。どっかに食べ物でも探しに行ったんか……」
 虎彦は慌てて立ち上がり、さらに辺りに目を向けながら答えた。
「へえ。おおかた、盗み食いでもしに行きよったんと違うか。近頃、しつけのなっとらんのが増えて、どこの屋台もカンカンや」
か、鬼王はそんな行儀の悪いことはせんわ」
 親爺の軽口に反論はしてみたが、内心ではそうかもしれないと思った。このところ、ろくなものを食べさせていないから……。
 往来の人波から、ひときわ大きな声が聞こえたのは、そのときだ。
「え、ってしもたんかいな、よりにもよってお犬様を」
 どきりとして目を向ければ、はすかいのの前で、見覚えのある近所の女房が二人、立ち話をしている。
「しーっ、静かに。大声出したらあかんて」
「いや、そやけど、大事件やで、それ」
 かいわいには芝居客をあてこんだ弁当屋が多く、夜明け前から煮炊きしている女房衆は、昼時を過ぎて暇になると、よくこうやって、往来で喋しやべりこむ。
「まあな。三日前の話らしいで。お役人連中は必死に隠そうとしてるみたいやけど」
 ──と続いた言葉を聞いて、虎彦はひとまず、胸をなで下ろした。三日前なら、鬼王丸は関係ない。
「隠し通せるもんと違うやろ。なにすずめの耳と口をなめたらあかん。けども、なんでまた、町方のお役人が、そんな恐ろしいことを……」
「探索中に野良犬に襲われて、近くにいた年寄を守るためにしかたなく──っちゅうことらしいわ」
「へえ、そらお気の毒に。けど、どんな阿呆犬でも、殺してしもたらはっ破り。一巻の終わりや」
「島流しか、下手したら切腹。人の命よりお犬様が大事。それがかみのお考え。──あーあ、いつまで続くんやろ、こんな世の中。たちの悪い野良犬が町中にあふれて、食べ物うた帰り道なんか、昼間の往来でもびくびくもんやで」
「本当や。うちの亭主なんか、近頃は犬の声聞くだけでいらいらしてしもてなあ」
 はああと二人そろってため息をつく。
 生き物すべてを慈しむべしとのお触れ──いわゆるしょうるいあわれみの令を、とくがわ五代将軍つなよし公が出してから、すでに十数年。
 特に犬を手厚く保護すべしと定められていることもあって、町には野良犬が増え続けていた。群れになって食べ物屋を襲う犬までおり、女子供や年寄はもちろん、大の男でも身の危険を感じることがある。
 それゆえ、犬がらみの揉め事は日常茶飯事ではあるのだ。
「鬼王……」
 再び不安がこみ上げてきて、虎彦は声に出して呼んでみた。
 近くにいるなら、これで戻ってくるはずだ。
 しかし、来ない。
 もう一度、呼んだ。
 やはり来ない。
 なんだか、嫌な予感がする。
 勘は良いほうだと、虎彦は自負している。虫の知らせは馬鹿にしてはならない。ここはいったん店じまいをし、捜しに行くべきか……。
 そう思ったところで、うぉんと聞き慣れた声が、耳に届いた。
 はっと目を向ければ、視界のはしに小さな茶色いかたまりが映る。往来の人混みを器用にすり抜け、その塊はあっというまに駆けよってきた。
「鬼王、戻ったか」
 うぉんうぉんときながら身をすり寄せてきた鬼王丸の頭を、虎彦はぐりぐりとでてやった。
 虎彦の膝あたりの高さにあるぴんと立った耳。くるりと巻き上がったしっ 。ふかふかと暖かなやまぶき色の毛並み。とがった鼻先を虎彦の手に寄せる、あいきょうのある仕草。
 思わず口元がゆるみそうになり、いかんいかんと、虎彦は慌てて仏頂面を作る。甘やかし過ぎは良くない。お犬様に甘い世の中だからこそ、ぴしりと締める者がいなくては。
「あかんやろ、勝手にふらふらしとったら。商売の間はおとなしゅう座っとれて、いつも言うてるやないか」
 むっとしたような声を作り、鬼王丸を正面から見据えて𠮟しかる。鬼王丸はぶんぶんと楽しげに尻尾を振っている。本気で怒っていないことを見抜いているのだ。賢い犬だ。
 鬼王丸は、もともと、近くに棲む野良犬だったそうだ。
 体が小さく、群れのなかでいじめられて弱っていたところを、近松が助け、それ以来、近松の飼い犬という扱いで、鬼王丸という名ももらって竹本座に出入りし、小屋の者にも可愛がられていたという。
 一年前、虎彦が竹本座の前で行き倒れていた晩、最初に見つけてくれたのも鬼王丸だった。鬼王丸がえたて、いぶかった近松が様子を見に来てくれたから、虎彦は一命を取り留めたのだ。
 傷が癒えず、竹本座で療養していた折には、見守るように常に寄り添ってくれた。
 後から小屋の者に聞いたところによれば、近松が鬼王丸に言ったのだそうだ。
 ──鬼王丸よ、この男はお前と似たような縁で私と出会った。いわば、お前の兄弟分だ。仲良くしてやっておくれ。そばについていてやっておくれ。
 それまでの鬼王丸は、近松が京都に帰ってしまうと、どうにもしょんぼりとして、元気のない様子だったが、そう言われた後は、常に虎彦のそばにいて、水差しが空になれば他の者に知らせ、熱で苦しんでいれば吼えて人を呼び、それはもうはりきりはじめた──とは、小屋の者に言われたことだ。
 快復した虎彦が、商売を始めると同時に竹本座の居候をやめ、きくちょうに長屋を借りて暮らすようになると、鬼王丸は当然と言わんばかりについてきた。
 ──おいおい、鬼王、お前は近松の爺さんの飼い犬で、すみは竹本座やろ。ずっとそうやって暮らしてきたんやろが。犬っちゅうのは、縄張りを変えると大変なんと違うんか。
 虎彦はそう言って追い返そうとしたのだが、まるで言うことをきかない。機嫌良く尻尾を振りながら、黒くつぶらな目で虎彦を見上げるだけ。
 ──おれには犬を飼う余裕なんぞ、あらへん。爺さん、なんとか言い聞かせて、竹本座に戻らせてくれ。
 近松に、そう頼みもしたのだが、
 ──なに、鬼王丸はお前の世話になろうなどと考えてはおらんよ。むしろ、お前の世話をしてやろうと思っているのだ。……なあ、鬼王丸、そうだろう? 虎彦を頼むぞ。いろいろと心配なところがあるからな。兄弟分のお前が、ちゃんと面倒を見てやってくれ。
 そんなふうに言われ、鬼王丸をさらにはりきらせるだけに終わった。
 それでもしばらくは、虎彦はしつこく抵抗し、長屋についてくる鬼王丸の鼻先でぴしゃりと戸を閉め、無視して過ごしたりもしたのだ。
 しかし、鬼王丸は平気で一晩中、長屋の前で待っている。朝になり、戸を開けて虎彦が出ていくと、待ちかねたように飛びついてくる。
 それだけではなく、チビのくせに気の強いところのある鬼王丸は、長屋をうろつく他の野良犬たちを追い払い、盗み食いに手を焼いていた女房衆に、いつのまにか気に入られていた。
 斜向かいに住む婆さんが庭先で転んで動けなくなっていたのを、いち早く気づいて助けを呼んだのも鬼王丸だったため、年寄連中も味方になった。
 気がつけば虎彦のほうが、鬼王丸の主さんなどと呼ばれる始末で、ついには、もりにまで忠告された。
 ──あんまり鬼王丸を邪険にしたらあかん。お犬様いじめたら、お役人に目ぇつけられんで。うちの長屋、巻き添えにせんどいてや。
 虎彦は観念し、とうとう鬼王丸を土間に引き入れた。を敷いて寝床も作ってやった。飯は以前から与えてやっていたから、変わらない。
 飼い主になったつもりはない。鬼王丸の飼い主はあくまで近松だ。鬼王丸だって、そう思っているだろう。
 ただ、今は少し……一緒にいる。
(おたがい、他に身内もおらんしな)
 今だけの。一時だけの、同居相手だ。──たぶん。
「どっか行くなら、知らせてからにせえ。ええな」
 虎彦は、鬼王丸の背を撫でながら言い聞かせた。
 うぉん、とまた鬼王丸は応える。
 よしよしとうなずき、虎彦は再び茣蓙に腰を下ろそうとした。
 だが、そこで、ふと気になった。
「──で、お前、いったいどこ行っとった。おれに黙って……」
 鬼王丸にたずねかけ、そこで虎彦は言葉を飲み込む。
 嫌なことを思い出したのだ。
 そういえば、鬼王丸が商売の最中にふらりといなくなったことが、これまでにも何度かあった。虎彦のところに客人が来るときだ。なぜか事前に察知し、先回りして客人を迎えに行くのだ。
 虎彦に会いに来る者なんぞ、限られている。
 鬼王丸の本来の飼い主である近松か、そうでなければ、あいつ……。
 わんわん、と鬼王丸がいつもより高めの声で吼えた。顔は虎彦の背後に向けている。何かを虎彦に知らせたいとき、鬼王丸はこういう啼き方をする。ますます嫌な予感が強まり……。
「おお、鬼王丸は今日も元気だな。それに、相変わらず、とらぜんのことが大好きだ。さすが、忠臣、鬼王丸だ」
「──出やがった」
 背後から聞こえてきた柔らかな声に、思わず本音がもれた。
 虫の知らせは、どうやら、これだったらしい。


  *

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■著者プロフィール
築山桂(つきやま・けい)
1969年、京都府生まれ。大阪大学大学院博士後期課程単位取得。専攻は日本近世史。主な著作に、NHK土曜時代劇でドラマ化された「浪花の華~緒方洪庵事件帳~」の原作「緒方洪庵 浪華の事件帳」シリーズのほか、「浪華疾風伝 あかね」「天文御用十一屋」「家請人克次事件帖」「左近 浪華の事件帳」の各シリーズ、『おすすめ文庫王国2016』にて「時代小説部門」第1位に選ばれた『未来記の番人』など多数。『オオカミ神社におねがいっ! 姫巫女さまの大事件』など、児童書にも活躍の場を広げている。

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