歴史の本などを読んでいると、しばしば「憂憤によって死んだ」とか「憤死」といった表現を見かける。昔からこれが謎だと感じていた。憂憤という感情そのもので人間が直接死ぬわけではないだろうから、それが原因で病が急速に悪化したとか、あるいは自殺したといった意味合いだろうか。
だが、乾ルカの新刊『神の代役 HBD調査鑑別室』では、絶望という感情が実際に人間を死に至らしめるのである。
作中の世界は、現実の日本社会と同じに見える。しかし、その世界では、過度な悲痛が原因で人が急死する「HBD(抗体誘発型体内雷撃死)」という現象が頻繁に起きているのだ。現在は、他人に対し、悪意を持って故意にHBDを引き起こすような行為を罰するための「HBD悪用傷害罪」の制定の準備が進められている。
主人公の一ノ瀬美羽は、新卒で北海道新懇血液医療研究センターに採用されて早々、三日間の基礎研修を経ただけでHBD調査鑑別室に配属される。そこは、国の委託を受け、HBDによる死の引き金になった絶望を調査特定し、絶望に至った要因から犯罪性の有無を鑑別する部署だった。メンバーは、室長の百瀬、主任調査員の四方田、調査員の二木と八反、百瀬の秘書の三上という顔ぶれだ。
第一話「神の代役」では、美羽が初めて担当した案件が描かれる。甘野咲良という三十代の女性が居酒屋で飲み会の最中に急死したが、彼女は病で余命宣告を受けており、また交際相手から別れを告げられていた。いかにも絶望による典型的なHBD死の原因になりそうだと想像される。しかし、「すぐ解決しそうですね」と口にした美羽に対し、上司の四方田は厳しい視線を向け、「室長。この案件、彼女にも同行してもらいましょう」と言い出す。
美羽と四方田は、関係者たちから聞き取り調査をする。飲み会の同席者の証言によると、彼らは趣味のオタ活のために集まっており、甘野咲良の死の直前には嬉しいニュースが発表されていたという。死を目前に控えた咲良の思いとはどんなものだったのか。調査の結果、浮かび上がってきた彼女の絶望とは、美羽の当初の思い込みからはかけ離れたものだった。
HBD調査鑑別室の面々は、第二話「まぶしさ」ではショッピングモールでの高齢男性の突然死、第三話「僕はいい子」ではいじめを受けていた中学生の少年の死……といった具合に、さまざまな案件を担当し、その過程で美羽も経験を積んでゆく。一つ一つの案件には、表面的な状況からは見えてこないような意外な事実が潜んでいる。
しかし、それらを調査するという行為には割り切れない部分も存在する。死者から話を聞くことが不可能である以上、彼または彼女の絶望の原因は、実際には誰にも断定できない。だから、調査鑑別して結論づける行為は、故人の価値観を尊重することと決定的に矛盾してしまう。そのことを痛感しつつ、HBD調査鑑別室は結論を出さなければならない。「矛盾が分かってて、なんで調査鑑別室はあるんですかね?」という美羽の問いに、室長の百瀬は「そりゃあ、神様がいないからでしょう」と答えを返す。
数多くの遺体を検死してきた法医学者の上野正彦は、退官後、それまでの経験をもとに執筆した著書に『死体は語る』というタイトルをつけた。もの言わぬ遺体も、僅かな違和感も見逃さず真摯に観察することで、その死の真相を雄弁に語り出す――といった意味合いだ。しかし、法医学による死因の究明とは異なり、HBD調査鑑別室の仕事は、生前の言動を手掛かりに死者の心理にまで踏み込まなければならない。神のみぞ知る領域だからこそ、限界ある人間の身で誠実に向き合わなければならないのだ。
本書の終盤は、HBD調査鑑別室の面々の過去が絡んでくる。主人公の美羽は、もとは俳優志望だったが、そこで深く心を傷つけられるような経験をしていた。そして二木は、かつて起きたある事件の関係者だった。彼は、友人の真の死因を知りたがっていたが、今となってはその手立てもない。そんな二木を見かねて、美羽が、そして他の面々が動き出す展開には胸が熱くなる。
新川帆立の『令和その他のレイワにおける健全な反逆に関する架空六法』(文庫化の際に『令和反逆六法』と改題)や小林由香の『ジャッジメント』など、架空の法律が制定された近未来やパラレルワールドを舞台にした思考実験的ミステリ小説は幾つかあるが、本書もその系譜に連なる作品である。何が人間を絶望させるのかを、ミステリとしての意外性とともに掘り下げたユニークな試みとして注目したい。
■ 書籍情報
『神の代役』
■ 評者プロフィール
千街晶之(せんがい・あきゆき)

