第二話 まぶしさ
1
「すいませんね、こんな雑務手伝わせちゃって。先月来たばかりなのに」
本当に申し訳なさそうに百瀬室長がそう言ったので、私はブンブンと顔の前で手を振った。
「全然です、むしろ先月来た私がやれって話です」
「助かります、ありがとうございます」
白衣の三上さんも微笑んで礼を言ってくれたので、テンションが上がる。感じいいなあ、この人。医療福祉系のポスターにそのまま採用されそうな笑顔だ。黙っていると四方田さんと同じ知的端正系だが、笑ったとたん、いい意味で隙ができる。白衣を作業時の上っぱりにしているのは謎だが。
私、一ノ瀬美羽は今、北海道新墾血液医療研究センターの地下、資料庫にいる。窓のない白壁に背の高いキャビネットが整然と並ぶ資料庫は、図書館や博物館のそれというよりは、近未来の地下墓といったイメージだ。
資料庫内のB6からE7のキャビネットが、調査鑑別室に割り当てられた区画だった。秘書の三上さんが過去の資料のデジタルアーカイブ化を進めており、そのために資料庫にある紙データを分別中なのである。資料はブルーの分厚い二穴ファイルでファイリングされているものがほとんどだが、日付シールが貼られた段ボールに突っ込まれたままのものもある。
こういう作業は、実は嫌いじゃない。それに部局にいても、新人の私はほとんど何もすることがない。居候、ただ飯ぐらい、そんな言葉が浮かんでくる。明るく軽妙に、こんなことなんてことないと自分に言い聞かせて過ごしているけれど、居心地が微妙に悪いのはいかんともしがたい。対して、資料庫内の作業はやることが明確だ。
「資料って意外にたくさんあるんですね」
HBD──抗体誘発型体内雷撃死は、近年になって研究が進んだ分野かと思いきや、古い資料もそこそこあった。例えば私の足元の段ボールに貼られた日付は、一九九七年だったりする。前世紀だ。私は生まれてない。
「ZPウイルスの存在とともに、現象としてのHBDも存在していたはずなんです。ただ、名前がなかった。だから可視化されることもなかったのです。戦後『亜光青星社』という思想団体がありましたが、聞いたことはありますか? 昭和三十年の田原稲荷集団死事件は?」
日本史の近代の授業は寝ていた。「すみません、どちらもないです」
「田原稲荷集団死事件は、『亜光青星社』がHBDを利用した組織犯罪である、という説が、今は主流なんです」
「今は、ということは、当時はスルーだったんですね」
「『亜光青星社』自体は、当時の警察庁警備局特別警察課──『警察庁特異犯罪捜査局』の前身ですが、その働きかけで解散しました。私自身生まれていないほど昔の話です。その後、HBDによる死亡事例の論文が初めて世に出たのが一九八〇年。新墾医大の大濱教授によるものでした。このニュースを知って、私は新墾医大を目指したんです。大濱教授は私の恩師なんですよ。麻雀が強くてね。ここの初代室長でもあります」
百瀬室長が懐かしそうな顔をする。私は間抜けにも「はえー」などと感嘆してしまった。だって他に言いようがない。HBDって地元の教授が研究していたのか。それより、百瀬室長って医大卒だったのか。
新墾医大とは、正式名称『私立北海道新墾医科大学』という、戦前に札幌市内で開学した医大だ。
北海道新墾血液医療研究センターという名称から、新墾医大とも関係が深いのだろうと想像していたが、まったくそのとおりで、センター内の研究員のほとんどは新墾医大卒である。
「大濱教授なくしてHBDは語れません。昔、まだここが『HBD研究室』という名称だった時代は、人員も足りなかったので、新墾医大の教員や学生も調査に協力してきました。解散したとはいえ、『亜光青星社』の流れを汲む団体は今もありますからね。『真宇宙界』や『緑と自然と神の子の会』なんてのが……」
「もしかして、四方田さんや二木さんも、新墾医大出身なんですか?」
言ってしまってから己の不躾さを恥じたが、百瀬室長は流してくれた。「違いますよ。訊けば皆さん、教えてくれると思います」
「ちなみに僕は中退です」三上さんだった。「実家が傾いて、医大の学費が出せなくなったんです。それで、百瀬室長の紹介でここに。当時室長は、研究室の准教授でした」
「死因がHBDだとして、人の悪意が絡んでいた場合、どのような罪になるのかという議論は、海外から活発になりました。後れをとった日本がようやく法改正に向けて動き出し、こちらが『HBD調査鑑別室』となったタイミングで、大濱教授も他界してしまった。そこで私が後任としてやってきたのです」
「そうだったんですか」
調査鑑別室は理系の匂いがしない。死因を究明するとはいっても、HBD限定であるし、私が初めて携わった案件を思い返しても、法医学的な要素にはタッチしていない。私たちが追究したのは、もっと情緒的なそれだった。
この人は何に絶望したのか、という。
調査鑑別室は、あれから一件案件をこなした。私はその聞き取りに出向くことはなく、補助的なデスクワークを担当した。彼らの調査報告を聞き、ディスカッションを聞いた。意見を出し合い、推測と検証を繰り返す彼らの横で、私は『矛盾』を考えた。
亡くなった方の気持ちが本当に分かるのは、亡くなった本人だけだ。自分の価値観による安易な決めつけや先入観を何より否定しつつも、最終的には何に絶望したのかを判断し、事件性の有無について結論を出さなければならないのがここの仕事だ。
調査鑑別室は矛盾に満ちた部署だ。
「とまれ、一ノ瀬さんが調査鑑別室に慣れてきているのなら、よいのですが」
「大丈夫です。ありがとうございます」
「四方田主任もね、キツそうだけど、悪い人じゃないんですよ」
「なんかそんな感じのことを、二木さんも言っていました」
「そろそろ腰が痛くなってきたね。三上くん、あとはどのファイルを運べばいいのかな?」
「台車にいくぶん余裕があるので、一九八六年から九〇年まで運んでしまいます。室長はB11をお願いします。左手に二つ段ボールがあるはずです。一ノ瀬さんはB13を。下から二段目に青のファイルが一つあります」
どの資料がどこにあるのかを記憶しているような指示だ。
まさかな、と思いつつB 13 に行ってみれば、本当に下から二段目に該当のファイルがあった。それを台車の荷台の一角に差し入れた時、唐突に携帯電話が鳴った。三上さんのものだった。出て「はい、はい、分かりました」とすぐに会話を終わらせ、彼は私と百瀬室長にこう伝達した。
「戻りましょう。案件です」
2
CASE135
氏名:堀田正
性別:男性
年齢:六十九
住所:札幌市A区**町*棟二〇三号室
職業:無職
顔写真は携帯していた運転経歴証明書から取られていた。青を背景に、目力に乏しい老人がこちらを見ている。額、目と眉の間、人中、顎の下、どれもが少しずつ長めだ。髪の毛や眉毛には、かなり白が交じっている。大人しくくたびれた感じだ。
死亡日時は五月最終週の月曜日、午後四時十分ごろ。今から八日前になる。
死亡場所は札幌市A区内の大型ショッピングモール一階『緑の広場』。
ショッピングモールは地下鉄駅、JR駅、バスターミナルに接続しており、市の中でも開けた区域だ。
堀田さんはモールに程近い市営住宅に一人で暮らしていた。当日も一人で食料品や日用品の買い物に訪れていたようだ。その出先で倒れ、そのまま亡くなった。所持品は運転経歴証明書のほか、シニア向け携帯に財布、ハンカチ、ティッシュなど。所持金は二万円ほど。
堀田さんには、前田みどりさんという前妻と吉井美園さんという娘がいた。堀田さんとみどりさんは二十年前に離婚し、以降一度も会っていないという。離婚の原因は堀田さんのギャンブル依存だ。家族と職を失う底つき体験を経てようやく立ち直ったが、みどりさんと美園さんは戻らなかった。現在二人はみどりさんの実家がある秋田県におり、堀田さんの遺体の引き取りを断った。美園さんは三十八歳。今年、地元の農家に嫁ぎ、今さら縁を切った父親に煩わされたくない、相続も放棄する旨宣言した、とある。
堀田さんの孤独な生活が窺えた。
ZPウイルスには十三年前に感染している。クリニックを受診した履歴があった。
検査の過程でHBDと判明し、道警を通じて調査依頼が来たようだ。
『直接死因:致死性不整脈(HBDによる)』
死体検案書を見る限り、年相応に衰えており糖尿病の診断もついていたが、現状、死に直結するほどではないという所見だ。
「堀田さんは、緑の広場のベンチソファに座っている時にHBDを引き起こして倒れ、そのまま亡くなられた。その場に居合わせた人たちの証言も複数あることから、死亡時刻と場所に疑いようはないわけだけど」
だが、その明確さにも拘わらず、四方田さんは難しい顔だ。
いや、四方田さんだけじゃない。私は気づいた。二木さんも八反さんも三上さんも、百瀬室長まで考え込んでいる。四方田さんが言った。
「ただ、堀田さんはその時、一人だった」
*
「事件性はないってことですかね?」
隣の二木さんに確認したら、四方田さんから速攻で突っ込まれた。
「先入観は持たない」
しまった、こういうの、四方田さん嫌いなんだった。
死亡現場となった大型ショッピングモールへ向かうミニバンの中である。運転は四方田さん、助手席に八反さん。後部座席に二木さんと私。前の案件は留守番部隊だったから、正直張り切る気持ちはある。
だが実際、調査鑑別室が出張る必要はあるのか? 私を含めて調査員総出だ。HBDのトリガーになった悲しみ、絶望を調べる理由は、それが誰かによって引き起こされたものなのかを探る必要があるからだ。故意はもちろん、未必の故意だとしても、悲しみを惹起させた誰かの存在があるのかないのか、そこが大事だ。
一人だったのなら、その誰かがいなかったということだ。
「確かに、可能性は低いと思う」二木さんは美声で言う。「ただ実際にHBDは起こっているわけで、こうして案件化した以上、トリガーを特定するのが俺たちの使命だよ。もしかしたら直前までは誰かと一緒にいたのかもしれないし、悲しい出来事を思い出していたのかもしれない。思い出しているうちに悲しみが強まることもあるよね」
時間差でHBDが起こるケースもあるのか。
「悲しみって時間が経つにつれて、悲しみそのものより、あの時は悲しかったな、みたいに、なんとなく俯瞰で見る感じになりませんか? 私はそうなんですが」
「そうだね。悲しみに限らず、感情ってそんなものかもしれない。だから、あまりに昔の出来事というのは考えにくいけれど、個人差もあるし、考えているうちに相手の真意に気づいて絶望を招いたのでは、と推測される事例は実際過去にもあった」
「気づかなかった何かに気づいてしまった、みたいなことですね」
「俺が調査に参加した中では、四日前の出来事がトリガー、というケースがあった。もちろんそういったケースでも、思い出すきっかけは死亡時付近にあったわけで……」
「事件性はともかく、法改正に向けて、何がなんでもケース数を積み上げたいんだろうよ、国はさ。これだけの該当事件がありますって胸張れないと、改正する意味ないし」
助手席で八反さんが軽く言い、さらに四方田さんが後を継ぐ。
「もちろん、最大限に尽力しても事件性まで突き止められない例もあるけれどね。そもそもHBDではなく、単なる急性心不全等で処理されるケースだって、現状おそらくゼロではない。残念ながらね。人の死の数だけ、その場の事情もあるわけだから」
事件に喩えるなら、前者は迷宮入り、後者は事件にもカウントされず、ということか。
「鑑定不能の報告書を出すと、警察庁の特異犯罪捜査局から確認電話が来るのよね」
「なんでですか?」
「ちゃんと鑑定しろ、分からないのは怠慢だというお𠮟り。さて、今回はどうなるかな」
四方田さんの運転はスムーズで静かで、タイヤが地に接していないみたいだ。加えて道もよく知っていた。ナビにもアプリにも頼らず幹線道路を走り、時々裏道も行き、気づけば信号にもほとんど引っかからない。
六月上旬の空は薄曇りだった。この時期の薄曇りは明るい。空全体が白く発光しているみたいで、極めて雲が薄くなった箇所からのみ青みが透ける。下ろしたウィンドウから入り込む風は少しだけ蒸していて、私はそのぬるい湿度に夏の匂いを嗅ぎ取る。過ぎる住宅地の庭先で、遅咲きのライラックが紫の花を咲かせていた。
出発から流していた七〇年代の洋楽を五曲聞いたころ、ショッピングモールの駐車場に入った。
まず直行した死亡現場は、死の概念がそぐわぬ明るい空間だった。五階建ての商業施設のほぼ中心部分に位置する『緑の広場』は、全階吹き抜けの構造だ。広さはバスケットコートほどだろうか。見上げれば天井は天窓で、空を鳩が横切っていった。大型ビジョンや焦茶の座面のベンチソファ、観葉植物などが配置され、買い物途中で一休みできる憩いの場である。イベントをこなせるような小さなステージまである。
北側中央部のインフォメーションセンターには、制服を着たスタッフが二名いた。
四方田さんが該当のベンチソファの前で足を止め、束の間目をつぶった。二木さんと八反さんもそうしたので、私も続く。そこには今、誰も座っていなかった。
平日午後三時前という時間帯のせいもあるのか、ベンチソファには若者より老人が多い。広場に接したカフェの席は、七割程度埋まっていた。
上層階は吹き抜け部分に面してぐるりと回廊になっており、広場を見下ろせる仕組みだ。各階手すりに沿ってベンチと緑が設置されていて、イベント開催時にはあそこにも人が集まるのだろう。施設案内やコマーシャルを繰り返す大型ビジョンの奥には、シースルーエレベーターが一基あった。天窓の反射で分かりづらいが、箱の動きはひどくゆっくりのようだ。年代物なのだろう、この施設は四十年前くらいにできたと聞く。
「死亡時刻の前に何があったのかを知りたい。その中にトリガー、もしくはトリガーを想起するような刺激があったはずだから」四方田さんは目標を提示した。「何を見ていて何を聞いていたのか。どんな匂いを嗅いでいたのか。堀田さんの世界を追体験する情報が欲しい」
私たちは三手に分かれて調査することとなった。四方田さんが道警と合流し堀田さんの住居へ、八反さんはショッピングモールの総務へ、二木さんと私は現地での聞き込みである。
聞き込みという任務にいささか気後れしていると、
「頑張ろうね、一ノ瀬さん」
二木さんがにっこりするものだから、つい「はい!」と答えてしまった。
足の指が一部ないらしい二木さんの足取りは、やっぱりわずかに癖があるけれど、注意しなければほぼ分からない。先天的なものなのか、何らかの事故で失ったのか、今もって知る機会はなかった。
私たちはタブレットの顔写真を見せながら、広場にいる客に声をかけた。
成果は想像以上だった。堀田さんの顔を知る人は、意外にも多かったのだ。
「ああ、この人。よく見かけます。え、亡くなったんですか? どうりで今週見ないと思った」
「ちょっと前に救急車来たのって、あのおじさんのためだったんですね」
「ここを通るたびに見かけました」
インフォメーションセンターに詰めていた二人の女性スタッフも、堀田さんを知っていた。本来の業務の邪魔をしないよう注意を払いつつ聞き込む。荒又さんというチーフが代表で答えた。
「当日、堀田さんは午前中からいらしていたと思います」
隣の楢崎さんという私と同年代の人も「はい。ほぼ毎日お見かけしていました」と頷く。
連日来店するのみならず、夏冬は営業時間中ずっといたと、荒又さんは語った。
「光熱費をかけたくなかったんでしょう。あと夏場に関しては、自宅にエアコンがないんだと思います」
「最近、北海道も暑いですからね」
「近くの図書館がクーリングシェルターに指定されていますが、ここで暑さをしのぐ方は少なくないんです。お昼時に地下で購入されたおにぎりやパンを召し上がっていることもありますよ。帰ってくれとも言えないです。ご自宅で熱中症になったら大変ですから」
「でも荒又さん。あの亡くなった方、最近ここでおにぎり食べなくなってましたよ」
「そう言われればそうかも」
二木さんはタブレット片手にメモをとりながら進めていく。相変わらず片手で打ち込んでいるとは思えないほど、速くて正確だ。
「堀田さんはここでどなたかと親しくされていましたか? お話を聞くと、日常的にここで休まれている方が他にもいらしたようです。顔見知りになって、挨拶したりお喋りしたりといった交流はされていましたか?」
荒又さんが答えた。「常連同士で会釈するくらいはされていたかもしれませんが、基本的にお一人でした」
「倒れた日もずっとお一人だったんでしょうか。その日に限って誰かとお話しされていたとかは?」
「ここでは誰ともお話ししてなかったです。本当にお知り合いはいないようでした。広場にいない時は分からないですが」
「あなたはどうですか? ここで一番顔を合わせているのは、あなたたちだと言えます」
「お客さまと個人的な会話はしたことがありません」
「倒れた時はどのような感じでしたか?」
「いつもの席に座っていました」
荒又さんは先ほど私たちが黙禱をしたベンチソファに右手をやった。
「いつもということは、毎日同じ席にいたんですか?」
「はい。空いていればあそこにお掛けでしたし、どなたかが先に座っていても、空けば必ず移動していました。ね、楢崎さん」
「はい、間違いありません。習慣みたいなものだと思います。他の常連さんも、そんな感じですから」
堀田さんの指定席は、同じようなベンチソファが並ぶエリアの最前、もしくは一番後ろ。というのも、ベンチソファには背もたれがなく、どちらを向いて座ってもよいのだ。
多くの客は大型ビジョン側を向いて座っていたが、人によっては反対の書店側を向いている。
堀田さんの席からも大型ビジョンは見えるだろう。だが、流れているのが施設案内では、トリガーになりようもない……。
と、大型ビジョンに映し出されていたのは、人気ドラマの再放送だった。気づいてみれば、雑踏に紛れて微かにセリフが聞こえる。
さっきは施設案内だったのに。
「あの、すみません。私からもちょっといいですか?」
二木さんと荒又さんが頷いてくれたので、私は気になったことを確認した。
「当時、堀田さんはどちらを向いていました?」
「あちら側です」
荒又さんが示したのは、やはり大型ビジョンがある側だ。
「あの大型ビジョンは、館内情報を流すだけじゃないんですか?」
「あれは、時間帯によって変えているんです。今は衛星放送を流しています」
「堀田さんが亡くなられた当日の放送タイムテーブルって、調べることはできますか?」
荒又さんはどうしてそんなことを? という顔をした。「ええ、総務に確認を取れば、分かるはずですが……」
二木さんの指が素早く動き、タブレット画面にコメントが生まれた。
『いい質問!』
認められた嬉しさに、ついにやけてしまう。
スタッフへの質問が一段落した。楢崎さんが内線電話でタイムテーブルの件を問い合わせている。私はその間にトイレに行かせてもらう。実は尿意を催していたのだ。
カフェの角を曲がって、少し進んだ階段の手前にトイレはあった。トイレは広く明るく、清潔感があった。パウダールームもある。先客はいなかった。
個室に入ってほっとした矢先、誰かがやってきたようだ。
「ねえ、もうやめようよ、こういうの」
すがるような声だった。はすっぱな声と冷静な声がそれを糾弾する。
「だからさあ、こないだからなんなの? 冷めるんだけど」
「うちら別に悪いことしてないよね。モネは悪いことだと言いたいの?」
三人の声は若い。中学生か高校生か。
あー、こういうの嫌だなあ。これって万引きか何かの相談じゃない? 悪いことしてないって言っているけど、悪いからそれ……。
別の誰かが入ってきてくれと念じていたら、私の願いを天が聞き届けたのか、慌ただしい親子連れの声が乱入した。
「ねー、パパは明日晩ご飯、五回食べる?」
「五回は食べないなあ。晩ご飯は一回だよ」
ドアの開閉音。
「じゃあママは五回食べる?」
「だからさあ、ある意味ボランティアなんだって。あのお婆ちゃんだって内心嬉しいんだよ」
「うちら逃げないで一緒にいてあげてるしさ。だから前みたいにあんまりダサいのは勘弁。臭いし」
用を足して出ると、併設のパウダールームでは、制服姿の女子高校生が三人並んで、リップを塗り直していた。濃紺のセーラーカラーに白いVのラインが入ったタイを、ネクタイのように結んでいる。N女子高校の制服だ。親友の赤坂茉莉絵の母校だから間違いない。市内の私立女子高校の中では最も歴史がある、俗に言うお嬢さま学校だ。
緑の広場に戻る。二木さんは隅の方で電話をしていた。私に気づき、通話相手が四方田さんだというような口の動きをした。私は指でOKマークを作り、堀田さんの指定席を見る。
もういない常連客を悼むかのように、そこはやはり空いていた。
初めて携わった先月の案件の時も、私は一人で甘野さんが亡くなった居酒屋に行った。甘野さんのキャラクターを自分に降ろそうとした。
まだ堀田さんのことはほとんど分からないけれど、最後に見た景色はここからなのだ。
私はそこのベンチソファに腰を下ろした。
座り心地は、良くも悪くも普通だ。
一度目を閉じ、堀田正さんという一個人になったつもりになる。私はお年寄り。毎日ここに通っている。家に帰っても家族はいない。ここにも親しい人や話す相手はいない。
寂しさが胸を切る。
毎日この席で、何を思って過ごしたのか。ただ座っているだけだとしたら、きっと退屈だった。
瞼を開くと、真っ正面に大型ビジョンがあった。
前方には席がない。そのかわりに人の動線になっているため、通行人が絶えず横切る。しかし、ビジョン自体がやや高めに設置されていることもあり、下部の字幕テロップまではっきり読めた。大型ビジョンの向こうには、シースルーエレベーター。広場の一角で、最上階までを貫いているそれは、シースルー部分が天窓からの光を反射し、エレベーターというより、そそり立つ輝く柱だ。
エレベーターの箱の中に目を凝らす。トリガーに結びつく誰かが乗っていたのかもしれないからだ。だが、その仮定を私は冷静に潰した。無理だ。反射で箱の中までは見えない。
横の観葉植物はイミテーションだったが、葉の上にはほこりひとつない。
息を吸い込む。雑踏の匂い。耳を澄ませる。雑踏の音と、小さく誰かの歌声。一昔前のポップスだ。
ビジョンに目を戻す。一昔前のポップスは、ビジョンに流れていたドラマのエンディングだった。
当日は何が流れていたんだろう? それに悲しみを喚起する何かが映ったんじゃないか。あるいは思い出の曲が流れたのかも。
私が立つのを待っていたかのように、入れ替わりで通話を終えた二木さんも座った。
「なるほど。こういう視界なんだね」
「私、なんとなくですが」言おうか言うまいか迷ったけれど、言うだけならタダだ、話すことにする。「堀田さん、あの大型ビジョンを見ていたんじゃないかと思うんです」
まだ仮説だし、話すのは二木さんにだけだ。間違っていたとしても、二木さんならきっと怒らない。
「こっち向きに座ったら、思った以上に真正面です。絶対目に入ります」
「奥にエレベーターもあるよ」
「でも、光の反射で箱の中までは見えません」
「なるほど。天窓も含めて、それを狙ったデザインなのかもね」腕時計も確認する。「そろそろ四時だ。太陽光の具合も今と似たようなものだろうね」
いったん会話を切ったところで、荒又さんが何か言いたげにこちらを見ているのに気づいた。私は駆け寄る。
「何でしょう?」
「総務に確認しました、どうぞ」
渡されたのは、当日大型ビジョンに流れた映像のタイムテーブルだった。
15:00〜15:47 ドラマ再放送(BS)
15:47〜15:50 施設情報
15:50〜16:00 自然番組(BS)
16:00〜16:10 ニュース(BS)
16:10〜16:15 施設情報
3
翌日午前、ミーティングで情報を共有する。
聞き込み結果の報告は二木さんが受け持ったが、大型ビジョンのくだりは、私が担当した。二木さんならいいか、と話した『堀田さんは大型ビジョンを見ていた説』は、結局部局のみんなに大公開となった。
「ビジョンの奥にエレベーターもあるよね」
八反さんに突っ込まれたが、二木さんが助け舟を出してくれた。
「見えないよ。正確には、シースルーの部分に光が反射して、箱の中が見えない。当日の天気も晴れだ。確認した」
「ああ、あそこ天窓あるからね」八反さんは目頭を揉みながら首を回した。「うーん、目線かあ」
「当日のタイムテーブルももらいました。倒れた時間はニュースです。もしかしたらニュースに何か映ったのかも」
「OK。じゃあ二人はそのニュース映像を調べてみて。タイムテーブルは資料に集約しましょう」四方田さんは一定の評価をくれた。「次、八反は?」
「俺の疲れ目の理由が分かると思う」
施設担当者に聞き取りを行った八反さんは、施設内防犯カメラのチェックまで終えていた。
「堀田さんが緑の広場に現れたのは、午後一時十二分。すぐ死亡した席に座った。午後二時三十一分から四十分までトイレで席を外した以外は、ずっと所定の席に座っていた」八反さんは眉間のツボを押した。「別角度からの録画も複数見たけれど、ずっと一人だった。誰かに話しかけた様子も、話しかけられた様子もなく、本当に一人でいて、四時八分に突然倒れた。館内放送は一時間に一回流れてて、直近だと四時に外壁工事に関するお詫びと新装開店のクレープ店の案内をしていた。あーめちゃ眼精疲労だ、一晩寝てもまだ辛いよ。俺ってほら、目がでかいからさ」
目の大きさと眼精疲労は関係あるのか。
自宅に行った四方田さんは、道警経由で得た情報も交えて淡々と話した。
「堀田さんは市内の運送会社を退職した後、ほぼ年金だけで暮らしていた。所持金の二万円で、今月の年金支給日まで持たせるつもりだったんでしょう。蓄えは銀行口座に百万円ほど。家財は見てのとおり必要最低限のものだけ。誰かと私的な交流をしていた形跡はなかった。ご近所づきあい、交友関係、趣味などの活動も特になし。例のショッピングモールに歩いて通うのが、ウォーキングを兼ねた趣味だったのかもしれない」
四方田さんは堀田さんの自宅の内部も画像に撮ってきていた。テレビは所有しておらず、荒又さんの推測どおり、エアコンも取り付けられていない。洗濯物や食べ終わった食器などが床やローテーブルに出たままで、所有物は多くないのに雑然としていた。
「シニア向けスマートフォンもお持ちだったけれど、契約している通信量は最低ラインだった。緑の広場はWi-Fiが飛んでいるから、不便はなかったみたい。携帯番号自体は、離婚前から使っているものを継続していて、連絡先に前妻や娘さんの番号もそのまま残っていたけれど、彼女たちの方が番号を変更していた。つまり実際は繫がらない番号がデータに残されていた。他の私的な交友関係の登録はなかった。スマホは主に、日払いのアルバイトに応募するのに使っていたみたいね。今年に入ってからも、三月、四月と廃品の分別のバイトをしている」
「切り詰めた生活だったんですね」
しんみりとなった百瀬室長に、四方田さんは「そのようです」と頷いた。
「二月から家計簿をつけ始めていました。無駄を極力省こうとする意識が見えます」
そういえば、インフォメーションセンターの二人が、おにぎりを食べなくなっていた、と言っていた。お昼を抜いて節約していたのか。
「何か欲しいものでもできたのかな? 夏に備えてエアコンとか? 三上、市営住宅にもエアコンって取り付けられたっけ?」
八反さんの無茶振りに、三上さんは即答した。「はい。現状札幌市の場合、模様替等許可申請が必要になります。配線工事などが別途必要になる場合や、建物の構造等の問題で不許可になる場合もあります。退去時は原状回復が必要です」
「今なんかSiriみたいじゃん」
「学生時代、取り付け工事のバイトをしたことがあるので」
二木さんが疑問を出した。「エアコンなら貯蓄を切り崩してもいいんじゃないか。一応百万円はあったわけで、年金だけでは切り詰めるといっても限度がある。エアコン代が貯まるまで何年もかかってしまうよ」
「あー、確かに。じゃあ大きな買い物が目的ではなく、単に少し余裕を持ちたかったとか? 四方田さん、実際どのくらい節約できてたんです?」
「三月、四月は約二千円減だった」
「年金支給額は変わらないのに、ものの値段は上がっていますからね、二千円でも十分頑張っていたと思います」
百瀬室長が堀田さんを擁護した。
月二千円を倹約して、私ならどうするだろう? 気の置けない友達、例えば茉莉絵と観劇に行きたいかも。一年も続けたら良い席が買えるくらいは貯まる。そうそう、九月にミュージカルが来るじゃん、超豪華キャストの。あれ行きたいなあ。そのあとで、美味しいビールとお刺身とお肉を食べるんだ……。
「たまに美味しいものを食べたいとか、ちょっとした贅沢がしたかったとか。自分へのご褒美的な」
呟いてみる。ありきたりすぎてスルーされるかと思いきや、四方田さんがこんな問いかけに発展させた。
「堀田さんの年代の自分へのご褒美ってなんだろう? ちょっとした贅沢で美味しいものを食べるとして、みんなはどんなものを想像する?」
「いやー、寿司とかじゃないすか? 俺、その世代の人間あんまり知らんけど」
そう八反さんが言えば二木さんは、
「俺は鰻一択だね、鹿児島で鰻食べたい」
一番年齢が近い百瀬室長はというと、
「上等なお店で食べる天ぷらは別物ですよ。三上くんなら何がいいですか?」
「僕はショー的要素も含めて鉄板焼きに行きたいです」
みんな、自分の好みを言ってないか?
四方田さんが「一ノ瀬さんは?」と締めを求めてきた。
「だいたい言われちゃいましたけど、堀田さんの好みって日本食じゃないかもしれませんし、お料理ではなくお酒の方かも……」
私の両親はワインを嗜む人なのである。そして私もお酒が好きだ。先日の茉莉絵との居酒屋でも、本当は飲みたかった。我慢した。次の日もここで仕事だから。
「イメージ的にはそんな感じかもしれない」四方田さんが腕を組む。「でも堀田さんがやたら検索していたのは、カフェメニューだった。ホワイトキャラメルラテとか、パッションストロベリークリームシェイクとか。そのくせ、家計簿を見る限り飲んだ形跡はない。二千円は浮かせているのにね。なぜ? 糖尿病だから? 病気で飲めないのなら、なぜ検索してるの?」
退勤時間が来た。私は挨拶をして先に失礼する。残業する部局員がいてもそれはそれ、調査鑑別室に不要な連帯を求める空気がないのは、気に入っていた。
八反さんも帰るようだ。
「ラッキー、一ノ瀬さんと一緒だ」
どこまで本気か分からないが、八反さんはそのコミュ力で、私をいい気分にさせる一言を挨拶みたいにくれる。
「調査鑑別室には慣れた?」
「はい、おおむねですが」
「四方田さん、怖いでしょ」
「時々は」
「四方田さんに言いたいことがあったら、遠慮なく言いなよ。彼女キツいけど、意見を聞かない人じゃない。俺も言ってるしさ」
心の正解は当人じゃないと分からない。でも我々は、彼らが何に悲しんだのか、絶望したのかを鑑別しなければならない。その矛盾を四方田さんに指摘していたのが八反さんだった。
「二木は有能で優しいから、頼って大丈夫。もちろん俺も頼ってね」
「八反さんの目から見ても、二木さんって有能なんですね」
「俺には及ばないけどね」
八反さんは顔を崩してウィンクしたが、
「それにしても、大型ビジョンなのかな」
一転、崩した顔が真面目になる。八反さんはミーティングでの疑問を繰り返した。
「俺は第一感、エレベーターかなと思ったんだよね。でも反射があるんだよな。うーん、もう一度カメラ映像見せてもらいに行くか……目が……目があ」
八反さんが某悪役キャラのモノマネをしているうちに私たちはエントランスに着き、別れた。
ふと気づくと、茉莉絵からメッセージが来ていた。
『今度また飲みに行こう。仕事どう? 慣れた? 主任さんは相変わらずキツい? もし話したいことがあるならなんでも聞くからね』
仕事には慣れたのか……答えようがない。この調査で私も何か役に立てたら、居場所というか、落ち着ける感覚が得られるのか。
今はなんとなく、サドルのない自転車を漕いでいるような感じだ。
4
調査を始めて三日後。
私と二木さんは某放送局を訪れていた。当日、堀田さんが最後に目にしたであろう、ニュース内容を確認するためである。
事前に放送局に問い合わせしていたおかげか、あるいは道警の特異犯罪対策課が根回ししてくれたのか、受付で事情を話すと、すんなりと別室に通された。テレビと椅子、テーブルだけのこぢんまりとした部屋だ。
私はさりげなくポケットの中からハンカチを取り出し、右手の中に握りしめた。手のひらが汗で少しベタついていた。これから堀田さんが最後に目にしただろう世界を見る。きっと何かがあるはずだ。
「こちらがご指定のニュースになります」
応対の若手社員がテーブルにノートパソコンを置き、再生させた。部屋のテレビは使わないようだ。
日経平均株価の年初来高値更新を伝えるニュースから始まり、岐阜県の工場火災のニュース、西日本の高温のニュースが続く。ニュースを読むのは歳のころ三十代の女性アナウンサーだ。私は彼女の顔を穴が開くほど見つめた。
「このアナウンサーが娘さんでしょうか?」
日常的に目にしていただろうニュースの担当アナが生き別れの娘だったと知った衝撃、みたいなストーリーを思い描いたのだが、二木さんにあっさりと流される。
「地元の農家に嫁いだそうだから、違うんじゃないかな」
そうだった。一応悪あがきでアナウンサーの名前をネット検索してみたが、娘のフルネーム『吉井美園』とは似ても似つかなかった。アナウンサーで芸名を使用する方もいるにはいるだろうが、ほとんど聞かない。
十分のスポットニュースはあっという間に終盤だ。最後のニュースは娘さんが現在お住まいの秋田県の祭りについてだった。
華やかな花嫁衣装を着た女性たちが映し出された。嫁見まつりというらしい。良縁に感謝し末永い幸福を願う祭りだとのナレーションが流れた。
一人の女性がインタビューされる。
「先月結婚しました。参加できて嬉しいです。家族で末永く幸せになれたらと思います」
女性の面差しは、大人しく温厚そうで、優しげで、堀田さんに似ているようにも思える。
いや、間違いなく似ている!
「この女性の方のお名前って分かります?」
手応えを感じるままに、私は応対の社員に尋ねていた。社員は「このニュースが調査に関係あるんですね、なんとかなるはずです」と協力姿勢である。これは間違いなく、特異犯罪対策課の根回しがあった。
「ニュースで流す場合、必ず映ったご本人に許諾をとっているんです。制作した地方局に問い合わせてみます」
いったん社員が席を外す。私は興奮して二木さんに言った。
「調べてみるものですね。こんなにピッタリくるなんて」
私の見立てはこうだ。
ニュースを眺めていた堀田さんは、たまたま街録で出て来た女性に目を留める。生き別れた娘、美園さんの面影を見出したのだ。その女性は、最近結婚したとインタビューで答えた。だが堀田さんは美園さんが結婚したことを知らなかった。離婚後、何一つ連絡がなかったのだから。愛娘の結婚式にすら呼んでもらえなかった事実が、この時堀田さんに突きつけられたのだ。
縁を切ったとはいえ、冠婚葬祭くらい知らせがもらえるのでは、という期待を堀田さんがしていたかどうかは知らないけれど、していたならショックだろう。このニュースはそのはかない期待を打ち砕いた。問答無用の孤独を自覚して、悲しくなったのではないか?
八反さんにこの成果を教えたら何と言うだろう? ファーストインプレッションでエレベーターだったとそれでも言うだろうか? 八反さんはあれから連日商業施設に通い、防犯カメラ映像やら当日の館内放送やらをチェックしている。
「なるほどなあ」二木さんはやりきれないという口ぶりだ。「堀田さんの携帯番号は離婚前のものから変わっていなかったからね。前妻のみどりさんや美園さんからは、連絡しようと思えばできたのか」
「そうなんです。仮に式には呼ばなかったとしても、結婚したんだよ、くらいの連絡は、しようと思えばできたはずなんです」
「たまたま目にしたニュースで知ってしまったのなら、結構ショックかもしれないな」
二木さんと話していると、自分の仮説がどんどん正しいように思えてくる。大きな手応えに、逸る気を抑えられない。
「これ、早く報告しましょう」
ちょうどその時ノックがあり、席を外していた社員が戻ってきた。
「お待たせしました。お名前とご連絡先が分かりましたよ」
「なんてお名前でした?」
「西和佳奈さんという方です」
全然違う名前だ。
失意とともに、私はびっくりもしていた。ホームランを確信して振り抜いたバットが、ものの見事に空を切ったこの感じ。え、噓でしょ?
「お役に立てましたか?」そう訊きつつ、私たちの反応で社員も空振りを確信したようだ。「立てませんでしたね……」
それでも諦めきれず、私は粘った。「すいません。もう一度見ていいですか?」
「構いませんが……」
堀田さんが目にしたニュース映像に、悲しみを喚起する何かが映っていた、という仮説は、とても収まりがよいものに思えた。だって、大型ビジョンの方を向いて座っていたのだ。だから納得できなかった。インタビューされた女性が娘の美園さんじゃないなら、他に映っている人たちはどう? 後ろを歩いている人は? ここで整列している二十人くらいの女性たちの中にいるんじゃない?
「気持ちは分かる、一ノ瀬さん」二木さんが慰めた。「でもこうなったら、部局に戻って美園さんご本人に直接尋ねた方が早い」
社員も頷く。「お力になれず、残念です」
確かにテレビ局側からすれば、背景の一部として映ってしまった人々全員の連絡先を訊かれても、困るだろう。
私は二木さんの言葉を受け入れた。
*
調査鑑別室に戻ると、四方田さんが応接コーナーで来客の相手をしていた。
ちょうど話が終わったようで、その人は立ち上がって生真面目な一礼をする。
「突然来たのに、話を聞いてくれてありがとうございます」
「こちらこそ、話してくれてありがとう。すごく助かった」
「自意識過剰だって自覚はあるんです。家族じゃあるまいし、私なんかがって。でもずっと苦しくて。思い切って四方田さんに話してスッキリしました。部活のこととかも」
「なら良かった。また、いつでも連絡をちょうだい。三上、エントランスまで送っていってあげて」
濃紺のセーラーカラーに、白いVのラインが入ったタイ。長い髪の大人しそうな少女。N女子高校の制服を着た少女は、私と二木さんにも黙礼をして帰っていった。
あの子って確か……。
気にはなったが、美園さんへの確認が先だ。二木さんが部局の固定電話をプッシュした。三上さんに後を任せた四方田さんも、スマホを耳に当てた。どうやら四方田さんの相手は八反さんのようだ。
美園さんが着信をとってくれるといい。
防犯意識の高い人間なら、見知らぬ番号からの着信は取らないだろうが、調査鑑別室の固定回線番号は、ネットで検索すれば情報がヒットする。最初は取ってもらえなくても、二度目、三度目は取ってもらえるかもしれない。
美園さんは最初の電話に出てくれた。
「初めまして。私は北海道新墾血液医療研究センター、HBD調査鑑別室の二木と申します」
二木さんは和やかに話し始めた。特に怪しまれることもなかったようだ。これも道警の特異犯罪対策課から事前にアテンションがあったのかもしれない。HBD調査鑑別室から聞き取りを求められるかもしれない、とか。あるいは、怪しみながら電話を取ったとしても、聞こえてきたのが二木さんの声だったら、つい話を続けてしまうのは大いにあり得る。
とはいえ横で聞いていても、空振りが確定したのが窺える。二木さんは「そうですか、違いますか」「その日はお出かけではない」「なるほど、田植えは五月末の作業なんですね」と、明らかに否定された人のトーンだ。
ふと気づく。なにやら四方田さんの挙動が変だ。
変だというか、八反さんと通話しながら、こちらに何かを訴えている。四方田さんはタブレットにテキストを打ち込み、画面を見せた。
『そちらが終わったら代わって。私も話したい』
二木さんは軽く手を上げ、了承を伝えた。
五分弱ほど話した後、二木さんはすでに通話を終えて待機していた四方田さんに代わった。
私は隣の二木さんに確かめた。
「お祭りには行かれていないんですね?」
「その日は田植えをしていたって。そもそもあの神社の地域ではないそうだ」
「そうですか」
私はうなだれた。我ながらいい視点だと思ったのになあ。せっかく調査に参加できたのに。
「役に立てなくてすみません」
「え、何言ってんの? 一ノ瀬さん」
「なんか、私の考えめちゃくちゃ空振りで、全然ダメだなって。まあ、私なんかが役に立とうとか、何か少しでも役立てるんじゃないかとか思うのが、すでに勘違いなのかもですけど。いてもいなくても関係ないというか」
「そんなにがっかりしないで。偉い人も言っている、上手くいかない一万通りのやり方を見つけただけだ、とかなんとか」
「エジソンでしたっけ」
「お、知ってた?」
「昔読んだ台本の中に、そんなセリフがありました」
「へえ、すごいね」二木さんはきっちり感心してくれてから、四方田さんの方を視線で示した。
「代わってくれと言うくらいだから、四方田さんは何か考えがあるんだろう。上手くいくやり方を見つけてくれるかも」
何を訊いているのかは分からないが、四方田さんに意識を向けてみれば、思いの外話が弾んでいた。
「そうなんですか、お茶系限定なんですね。カフェには行かれます? 季節のフレーバーのイチジクとパッションフルーツのセイロンティー、美味しかったですよ。お薦めです」
話脱線してない?
四方田さんの語り口は普段とそう変わらずクールだ。でも、なぜかトークは盛り上がっている。美園さんの明るい笑い声がこちらまで漏れ聞こえてきた。
「遅くなったけれど、休憩入ろうか」
二木さんが切り出した。四方田さんはまだ美園さんと通話中だ。
仮説が空振ってがっかりしたこの気持ちは、お弁当で回復させよう。隣のロッカー室にこぢんまりとした休憩スペースがあるのだ。今ならきっと空いている。
私は素直に「はい」と席を立った。
そして、早起きして作ったお弁当に、コンビニで買ったプリンまで食べてエナジーチャージし、部局に戻ってみれば。
「一ノ瀬さん、美園さんと話すきっかけをくれてありがとう。おかげで大体見えた」
事態は一気に進展していたのだった。
5
四方田さんには何がどう見えているのか。
ほどなく八反さんがショッピングモールから戻り、ミーティングとなった。八反さんはまたも目頭を揉みながら切り出した。
「最初に大型ビジョンを見ていたんじゃないか、という説が出たけど、俺はビジョンの向こうのエレベーターを見ていたんじゃないかと思ったんだ。で俺自身、どうしてそういう印象を持ったのか、もう一度映像を見直しながら考えた。動画を送ったから、みんなもその時の堀田さんを確認してほしい」
八反さんは数秒ではあるが、映像の一部をデータ化して持ち帰っていた。もちろん、ショッピングモールの許可を取ってのことだ。
動画ファイルのアイコンをタップすると、緑の広場のほぼ全景の映像が現れた。ネイビーのジャンパーを着ている堀田さんの姿は、すぐに分かった。三メートル程の高さ、かつほぼ正面から捉えられているところを見ると、大型ビジョンの奥、シースルーエレベーターのサイドに防犯カメラはあるようだ。
顔をこちらに向けている堀田さん。その顔が少しずつ動き、彼は床に崩れ落ちる。思わず顔を背けてしまった。人が亡くなる瞬間だ、これは。
二木さんが囁く。「無理しなくて大丈夫だよ」
「ああ、なるほどね」
四方田さんが言った。映像を見て何かを理解したらしい。私は分からなかった。二木さんの気遣いだけありがたく受け取り、私は根性でタイムスライダーを戻す。正面を見ている堀田さん。少しずつ顎が上向きになって、喉をそらせて倒れる。隣の人が驚いたように床を見る……。
「顔の角度が変わる」
指摘したのは二木さんだった。
「そう、倒れる前に顎が上がってる。俺はこの動きで、上昇するエレベーターを見ていたと刷り込まれたんだ。だから今日、エレベーターの稼働データを調べてもらった。当日のこの時間帯、一階から四階に上昇していた」
「八反のことだから、エレベーター内が映ってる監視カメラ映像も確認してきたんでしょう?」
四方田さんに、八反さんがサムズアップで応える。「もちろん」
「女子高校生三人が乗っていたでしょう?」
言い当てられて八反さんが「なんで知ってるんすか」と驚く。私もすでに置いて行かれている。なんで分かるの? いや、もしかして。
「もしかして、さっきの女子高校生ですか?」
四方田さんは大きく首肯した。
「先ほどいらしていたのは、N女子高校ボランティア部三年の伊達百音さん。堀田さんの一件を聞いて、わざわざ連絡をくれたの。あなたたち、調査開始した日にここの所属を名乗って聞き込みしてくれたでしょ」
「私と二木さん、彼女らには声をかけませんでした」
「聞き込みがあったという事実を耳にして、堀田さんとHBDを結びつけたようです」
二木さんが感嘆した。「はあ。すごいですね、今時の高校生の情報網は」
「で、話を戻すけど、彼女たちは堀田さんがHBDを発症した時、上昇するエレベーターの箱の中にいたと話してくれた」
「でも最初に確認しましたが、エレベーターの箱の中は見えないんです。天窓から……」
二木さんの言葉が終わらぬうちに、八反さんが一人で納得する。
「ああ、だから四方田さん電話くれたのか」
「電話って?」
「あの日に、なんらかの施設工事が入っていなかったか確認しろって、電話がかかってきたんですよ。やってました。当日、老朽化に伴う外壁補修工事をやってたそうです」
施設の開業は四十年も前だ。
「中は関係ないから通常営業していた。でも天窓には保護のカバーがかかっていたそうです。工事の進捗資料ももらってきました」
鈍色のごわついた覆いがかけられた天窓の写真が、タブレットに送られてきた。
私は二木さんと顔を見合わせた。カバーがかかっていたなら、もしかして。
「百音さんの話を聞いて、確かめる価値はあると思ったの。確かめて良かった。屋内の照明はあったにせよ、反射は相当程度軽減されたでしょう。あの日に限りおそらく、箱の中まで見えた」四方田さんは黒いシャツの胸の前で、緩く腕組みをした。「百音さんね、自分たちに責任があるんじゃないかと思い詰めてここに来たの。最後に目が合ったのは、きっと私だからと」
訊かずにはいられなかった。「どういうことですか?」
「彼女、というか、彼女たちのグループは、今年の一月末に堀田さんと一度だけお茶をしたことがあるんだそう。ゲームでね」
そこからの四方田さんの話しぶりは、いつにもなく苦々しげだった。
「百音さんの言葉を借りれば『暇そうで寂しそうなお年寄り』がターゲットのゲーム。彼女たちは高齢者に声をかけて、言葉巧みに一緒にお茶をしようと誘い、自分たちの飲み物代を奢ってもらえるように仕向けるという設定で遊んでいた」
暇そうで寂しそうなお年寄りとは、あの緑の広場で時間を潰していた堀田さんらのことなのだろう。光熱費を節約するため、厳しい暑さ寒さをしのぐため、あそこを利用している人たちがいると、荒又さんは言っていた。
そして百音さんは。
──うちら別に悪いことしてないよね。モネは悪いことだと言いたいの?
やっぱり、あの日トイレにいた子の一人だ。
「お年寄りや弱者を、自分たちの道楽に使うとは」
百瀬室長は自分まで傷ついた顔である。
「でも、彼女らのゲームについて、インフォメーションセンターのスタッフは何も言っていなかったですよ」
二木さんの疑問にも、答えは用意されていた。
「施設サイドには見つからないように気をつけていたんだって。緑の広場内では声をかけず、トイレなどでいったん席を外した時を狙っていたと。その方が悪目立ちしないから」
八反さんが呆れる。「なんのためにそんなことを? 若い子の気持ちは分かんねえ。ホームレスの人に、欲しいものを買ってあげると騙してレジに置き去りにして、笑いものにするというのが前にあったけど、その亜種かな」
「あの、私」
私は思い切って発言した。
「緑の広場で聞き込みをした日に、彼女を見かけたんです。トイレで」
パウダールームにいたN女子高校生らの会話を私は話した。
「ある意味ボランティアだって……あのお婆ちゃんも内心嬉しいんだって、言っていたんです。あの時は何のことか分からなくて、忘れていたけれど……」
今、四方田さんの話を聞いて理解できた。不穏な気配に、万引きの相談か何かかとも思ったが、彼女たちはこのゲームのことを話していたのだ。
「一人だけ、止めようとしていた子がいたんです」
「そう。思い出してくれて良かった。百音さんの証言に信憑性が増すから」
四方田さんは軽く頭を振り、続ける。
「寂しい高齢者と一緒にいてあげてるんだから、カフェ代はその報酬というスタンスだった。でも百音さん自身は、お年寄りを弄んでいるようで内心罪悪感があったと打ち明けてくれた。一緒にいてあげると言っても、百音さんは罪悪感を覚えていたのだから、お年寄りをよそに自分たちで盛り上がっていたことは想像に難くない」
「ということはですよ。彼女たちの遊びで傷ついた堀田さんは、たまたまエレベーターの中の百音さんたちを見てしまい、弄ばれたトラウマが蘇ったんですかね?」
情報を整理するように百瀬室長が言ったが、それに四方田さんは「いえ室長」と短く否定する。
「それが、堀田さんは彼女たちとまたお茶をしたかったようなんです。百音さんの自宅は、**町で、堀田さんが住む市営住宅から百メートルほどの距離なんですが」
二月、百音さんは自宅付近で堀田さんとバッタリ出くわした。堀田さんも驚いた顔をしていたというから、本当に偶然なのだろう。その際、百音さんは罪悪感ときまり悪さに苛まれ、堀田さんに金銭を負担させたことを詫びた。すると。
「堀田さんは笑ってこう言ったのだそう。そんなこと言わないで、また誘ってよ。おじさん待ってるから。また奢るから……と」
「本当ですかね、それ。その子一人だけの証言だから、信じていいものかどうか」
八反さんの否定的意見に、二木さんはこう反論する。
「確かに彼女一人の証言だけど、仮に噓だったとして、噓をつく理由ってなんだろう?」
「罪悪感を覚えていたわけだから、自分たちには罪はない、喜んでもらっていたというアピールかな? でもだったら思い詰めてここに来ることもないか」
「私は噓をついている可能性は低いと思う」四方田さんが言い切る。「堀田さんはカフェメニューを検索していた。糖質たっぷりのドリンクばかりをね。この時点でかなり前向きじゃない? 仮にゲームで弄ばれたことに深く傷ついていたのなら、わざわざそんな品を検索なんてしない」
私は一つ思い出した。「そういえば、二月から倹約を始めてたって」
「そのとおり」四方田さんが力強く頷いてくれた。「また誘ってほしいという言葉は、噓でも方便でもなかったと思う。あの倹約は、女の子たちとのカフェ代を捻出するため。堀田さんはいつ誘われてもいいようにしていた。だから自分一人では来店した形跡がなかった」
八反さんが先を促す。「だとして、それがどう繫がるんです? さっき、一度だけお茶したことがあると言っていましたよね。つまり二度目はなかったんでしょ?」
「ゲームの主導権を握っていた彼女の仲間は、堀田さんを嫌がったの」
──だから前みたいにあんまりダサいのは勘弁。臭いし。
嫌がったのは、ああいう理由かもしれない。
情報は詳らかにした方がいい。だから、このこともみんなに教えるべきかもしれない。でも私は、どうしても言えなかった。言えば、もういない堀田さんを傷つけてしまう気がした。
「あの日の前日も、百音さんは堀田さんと近所で顔を合わせて同じことを言われた。百音さんは断れず、次は誘うと約束してしまった。でも当日、百音さんたちはゲームをしなかった。四階で新装オープンしたクレープ店に行ったから。上昇中の箱の中で、視線を感じていたたまれなかった、約束を破ったことを責められている気がしたと、百音さんは言っていた」
「今日こそ百音さんたちに誘ってもらえると期待して待っていたのに、スルーされた。だから、悲しかった……」
呟きながら、私は腑に落ちる感覚を待つ。
でも、その感覚は来なかった。どうしても、こんなことで? と思ってしまう。これで絶望する?
もっと辛いことが、それまでの人生の中であったんじゃないの? 離婚とか、美園さんとの別れとかの方がずっと。
百音さんたちって、言ってしまえば他人でしょ?
「俺は、このままではまだ弱いと思います」
私の思いを代弁したのが二木さんだった。そして二木さんはこうも付け加えた。
「でも四方田さんのことだから、もう一押しがあるんでしょ?」
四方田さんはにっこりし、右手の指を三本立てた。
「美園さんと話してみて、分かったことが三つある」
6
四方田さんの運転で、ミニバンは鏡の上を走るように行く。
いい天気だ。研究センターを出発した時から青空だったが、二十分程度のドライブ中も、どんどんと雲は消えていった。
六月も半ばを過ぎようとしていた。
商業施設に着き、緑の広場で待ち合わせの相手を待つ。三時半に待ち合わせたその五分前に、少女は現れた。
百音さんだ。
調査鑑別室が堀田さんの案件の報告書を道警特異犯罪対策課に提出したその日、四方田さんは百音さんにコンタクトを取った。
百音さんは意外にも誘いを喜び、自分も四方田さんに報告したいことがあると言ったそうだ。
カフェに入る。百音さんは決まり悪そうだ。四方田さんが「もちろんこちらの奢りだから」と言うと、アイスティーを頼んだ。
「あの場ではずっとホワイトキャラメルラテだったけど、言うほど好きじゃなかった。でも他の二人はクリームとかカスタマイズしてた。私は仲間外れになるのが怖くて、大して好きじゃないものを一緒に飲んでただけ」
席に着くと百音さんは、ボランティア部をやめたと言った。
「それを四方田さんに伝えたかったんです」
「教えてくれてありがとう」
「黙ってても近々引退だったんですけど、私にもケジメってものがあります。一人ぼっちになったけれど、あの子たちと縁が切れてせいせいしてもいるんです」百音さんはアイスティーに何も入れず、そのままストローを挿した。「……あのおじさん、結局私が原因でしたか?」
四方田さんは微笑した。
「私たちは悪意を持って故意にHBDを引き起こしたかを調べます。そういう意味では、今回はそういう案件ではなかった。通りすがったあなたたちも無関係ではないけれど、あなたたちだけが原因ではない。いろいろと複合していた」
「他に何があったんですか? あ、私に聞く権利ないなら、答えなくていいですけど」
「もちろん権利はある」
四方田さんはタブレットで古い写真を出した。
シースルーエレベーターが写っている。
「これはPホテルのもの。もう廃業したけれど、昔、大通公園の西側に建っていたの。あのおじさんは昔、ここで奥さんと娘さんと別れたんだって」
美園さんが教えてくれたのだそうだ。秋田に発つ前、最後にPホテルの喫茶店に行った。自分はピーチスカッシュティーを、両親はコーヒーを飲んだ。そして母と自分はエレベーターに乗り、堀田さんはそれを見送った。
四方田さんが得た三つの新情報のうち、これが一つ目。
「娘さんは当時高校三年生、あなたと同じ年齢だった。そして、娘さんもカフェに行くのが好きだった。ギャンブルがひどくなる前は、何度か堀田さんとも一緒に行ったことがあったそう。美園さん曰く、全然話が盛り上がりませんでしたけどね、って笑っていらしたけれど」
美園さんも高校生当時からカフェに通っていた、というのが、二つ目。
たった一度、それも相手側には善意も敬意もない、ボランティアとは口先だけのゲーム。それなのにまたの機会を望んだのは、やはり娘の美園さんの面影があったためだった。
「だから、知らず知らずのうちに、娘さんへの想いをあなたたちに重ねてしまっていたのかもしれないとは思う」
この推測が正しいとしても、堀田さんの勝手な想いだ。百音さんのかつての仲間なら、ゲームでしか接していない相手にそんな投影をされても、気持ち悪がるか嘲笑うかだろう。だが百音さんは「そうだったんですか」と逆に納得したようだ。
「あのおじさん、本当に嬉しそうだったんです。女子高校生とお茶したいみたいな下心というより、娘さんのことも思い出していたと言われた方が、ずっと自然に思えます」
私も自然だと思う。そこらの女子高校生だけではなく、生き別れの愛娘への想いや思い出も含めて引き金になった、という方が。
「結局、自意識過剰なんです、私」
百音さんは吹っ切れたように笑った。
「私、本気でボランティア活動に興味があって、ボランティア部に入ったんです。ほんのわずかでも、誰かや何かの役に立ちたい、立てるんじゃないか、なんて思っていたから。バカみたいですよね、そういうの」
百音さんはウィンドウの外を眺める。百音さんたちがゲームで声をかけていたその通路を、私にとっては他人の、でも誰かにとっては大切な人々が行き交う。
「ずっとああいうことをやめたかった。あのおじさんがあの直後に死んで、しかも悲しくて絶望したから死んだみたいだって知って、私のせいかもって」
百音さんの笑いに自嘲が混じった。
「でもこういう考えも、自己中心的というか、自分を過大評価しすぎなんですよね。おまえ何様、みたいな。部をやめるって言った時、あの子たちに言われたんです。バカじゃないのって。百音はあのおじさんのなんなの、家族にでもなったつもり、逆に思い上がってんじゃないのって。確かにそうです。だから自分が役に立てると勘違いしちゃうし、自意識過剰で私のせいかもと考えちゃう。見ず知らずのお年寄りが一度お茶しただけの女子高生なんかを、そこまで気にするはずない。私なんてどうでもいい、ちっぽけな存在なのに」
「でもね。堀田さんは娘さんだけを見ていたわけじゃない。あなたたちのことだって見てたの。娘さんが教えてくれた。自分も堀田さんも、牛乳アレルギーがあると」
そう、これが三つ目の情報だ。
四方田さんは「これからのことは、あなたを責めるために言うわけじゃない」と念を押した。
「堀田さんが何度も検索してたのは、ホワイトキャラメルラテとか、パッションストロベリークリームシェイクとかなの。これはね、堀田さんも堀田さんの娘さんも飲まない。アレルギーで飲めないの。でも、あなたたちは飲む。娘さんのためでも自分のためでもない、あなたたちが好きなドリンクだから検索してた。ちゃんとあなたたちのことだって見てたの。あなたたちと出会わなかったら、あの日エレベーターに乗らずに堀田さんを誘ってたら、彼はきっと今も生きてた。いてもいなくても関係ない? 何の寝言?」
責めているんじゃない、四方田さんは。励ましているのだ。
「関係あるの。ほんのわずかでも、あなたは誰かに影響してる。だから誰かの力にだってなれる。それを忘れないで」
百音さんと、そして私を。
百音さんは、大学でまたボランティア活動をしたいと言って、礼儀正しい一礼をして帰った。
*
「あのゲームを考えついた百音さんの仲間も、本当は寂しがり屋なのかもね」
帰りのミニバンの中で、四方田さんは私にあてるでもなくそう言った。
「一人でいる人を寂しそうって思うのは、その人も一人が寂しい人なんだろうから」
四方田さんがカーステレオを操作する。一昔前の洋楽が流れてくる。
この曲の名を私は知らない。でも四方田さんは好きなのだろう。サビを口ずさみだした。
「四方田さん」
「何?」
「四方田さんてもしかして、右耳と左耳それぞれで会話理解できたりします?」
「私を聖徳太子だと?」
「いえ、いいんですけど」
──いてもいなくても関係ない? 何の寝言?
百音さんはいてもいなくても関係ないというネガティブワードは使わなかった。
使ったのは私だ。仮説が崩れた時の私。あの時四方田さんは、美園さんと通話中だった。なのに聞いて、心に留め置いてくれたのだ。
私は助手席で前方を見つめる。国道を西に向かうミニバンは、黄昏を追いかけている。
四方田さんがサンバイザーを下ろした。
「日が長くなりましたよね」
私は四方田さんに、そっと絡んでみる。この人のことをもう少しだけ知りたいから。
「あの、四方田さんのお好きな料理はなんですか?」
「どうして?」
「自分へのご褒美案を出す時、四方田さんだけ何も言わなかったので」
四方田さんは眠気を払うように一度頭を振った。
「美味しいものはなんでも好きだよ」
「地下鉄駅前にあるパッチーニってイタリアンレストラン、ご存じですか? あそこ美味しいですよ」
「知ってる。たまに行く」
四方田さんの運転は静かで、だから声がすっと耳に入ってくる。
「私、日が長い今時分の季節が好きなんです。もうすぐビアガーデンですしね」
「一ノ瀬さん、ビール好きなの?」
「そんなに強くはないんですけれど。あ、四方田さんは強そうですね」
「さあ、どうかな。想像に任せる」
そういえば、茉莉絵と次に会う日を決めていないことを、私は思い出した。
キツそうな主任さんとはどう? と訊かれたら、なんて答えようか。
「四方田さん」
「何?」
「よかったら今度、ビアガーデン行きませんか?」
四方田さんが視線だけで私を見た。
しつこかったかな、無視されるかな。
視線はすぐに前方に戻る。一瞬、苦笑したように見えた。
「……一杯だけならね」
案外好きかも、なんて言ったら、茉莉絵は驚くだろうか。
*
■ 著者プロフィール
乾ルカ(いぬい・るか)
1970年北海道生まれ。2006年、「夏光」でオール讀物新人賞を受賞。10年『あの日にかえりたい』で第143回直木賞候補、『メグル』で第13回大藪春彦賞候補に。著書に、ドラマ化された『てふてふ荘へようこそ』のほか、『君の波が聞こえる』『向かい風で飛べ!』『森に願いを』『わたしの忘れ物』『コイコワレ』『明日の僕に風が吹く』『おまえなんかに会いたくない』『水底のスピカ』『花ざかりを待たず』『葬式同窓会』『灯』など多数。

