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第3回

ダイナーⅡ(第3回)

「巧く頭蓋に当てろよな。俺はこいつの脳味噌が見てみたいんだ」
「任せとけ。ホールインワンを狙ってやる!」
 ピースバッジが杵(きね)を振り上げ、シュッと音をさせた。
 わたしは目を閉じた。が、ほんの一瞬、ボンベロの顔がフラッシュした。『生きろ』とその目が云っていた。

 後ろに身を投げ出すように突進すると、ピースバッジがわずかによろけた。でもわたしの抵抗を予想していたらしく、先程のように無様な転倒はしなかった。足を踏んばって態勢を整えると、鼻息荒く杵の持ち手を何度も握り返しながら近づいてきた。

「やれ! ジョー! そんな女に負けるな!」猟銃が笑った。
 リーダーも被っていた麻袋をおでこの辺りまで引き剥がし、満足そうに煙草を燻(くゆ)らせている。肖像画にあるような髭をしていた。
「上手く仕留めたら、女の車はおまえにやる」
 その言葉にピースバッジは振り返った。「ほんとかい、キャフテン!」
 キャフテンと呼ばれたリーダーは、返事の代わりに煙を吐いた。

 ピースバッジは杵を横にスイングした。ハンマーのような先端がぎりぎりのところで脇腹に当たった。鈍い痛みが走ったが、シャツの下に仕込んでおいた雑誌のおかげで膝を着くほどではない。次のモーションに入ろうとするピースバッジの目に、床のほこりを押し込んでやった。
 弱々しい悲鳴が湧き、ピースバッジは振りかぶった杵を思いきり床に叩きつけた。板が抜け、杵の頭が沈んだ。目から涙を溢れさせながら引き抜こうとしている隙に、わたしは壊れた窓枠に埋まっているナイフへと駆け寄った。が、あと一歩というところで不意に床が抜け、右足がピースバッジの杵同様、付け根まで穴に嵌(はま)ってしまった。

「おい」リーダーの言葉に猟銃を持った麻袋が振り向いた。
「もういい……時間の無駄だ」
 猟銃は大股でわたしに近づき、間違いなく射殺できる距離で止まった。もう少しで手の届く絶妙な範囲を保つのを見て──こいつはこういうことをするのが初めてじゃないとわたしは思った。
 銃口がまっすぐ胸を狙っていた。
『よせ! その人は無関係だろ!』
 実際にはそうは聞こえなかったが、椅子の男はボロボロになった口で叫んでくれた。
「駄目だ! 俺がやる! 車が! 車が!」なおも抜けぬ杵と格闘しているピースバッジが云う。「俺の車!」
 わたしはなんとか足を引き抜こうとしてみたが、割れた板の先端がいくつもパンツの生地を縫い込んでいて、とても簡単に外せそうになかった。

「安心しろ。車はおまえのもんだよ」猟銃が一度、ピースバッジを振り返り、そしてまたわたしを見た。「あんた、名前は」
「関係ある?」
「俺は真面目でね。ずっと狩猟日記をつけてる。人でもなんでもな。四番目の年増なんて書くのは、読み返すと味気ない」
「おふくろさんの名前にしたら」
 奴は床に唾を吐くと構え直した。銃爪(ひきがね)に指が掛かった。

 わたしは相手から目を逸らさないようにしようと思った。こんな風に終わるのは信じられないぐらい不本意だけど、受け入れるしかないのなら、死というものを存分に味わうのがせめてもの権利だ。

〈……カウント3でくる〉
 わたしは勝手にそう覚悟した。
 銃口が天井を向いた。銃声もなく、ただ猟銃男が横倒しになった。
 全員が呆気に取られた瞬間、ピースバッジが短い悲鳴と派手な音をさせて首を叩き、そのまま倒れて痙攣を始めた。
 リーダーが猟銃に駆け寄ろうとしたが、顔に大きな穴が開くと声を上げて倒れ込んだ。
 わたしは無理やり、足を引っこ抜くと立ち上がった。猟銃男は口か鼻、もしくは両方から噴き出しているらしい血で袋の前面を真っ赤に染め、木枯らしのような音を立てていた。

「ビンゴ!」ドスンと音がすると、暗がりから少年が現れた。パチンコでまだ袋男どもを狙っている。「あんたが巧いこと注意を引いてくれたんで助かったよ。あ、こいつらはもう駄目だ。よかったよかった」
 少年は男たちの袋を次々に剥ぎ取った。

 予想通り猟銃男は口と鼻、それに耳の付け根に大きな穴が開き、そこから噴血し、声を掛けても震えるばかりだった。ピースバッジは左のこめかみにプラスドライバーで抉(えぐ)ったような穴が開き、耳と鼻から出血していた。声を掛けても反応がないのは同じだが、不思議なことに彼はニヤニヤ嘲笑(わら)って床をゆっくりと撫でまわしている。

「それで……勝ったつもりか……ふふ」
 倒れたままリーダーが云った。
 少年はパチンコを構えたまま、覗き込んだ。
「おっさん、クランの名を云え。あんたらの他に誰がハコブネを狙ってるんだ」
 右の眼球のあった辺りに穴の開いたリーダーの顔は、深海に沈んだ空き缶のように歪み、顔の大半は血に染まっていた。彼は血まみれの歯を剥き出して嗤(わら)った。歯石チェックの検査薬を試したみたいだった。
「おまえらは終わりだ。ブックは共有され、拡がってしまった。群がるハンターは想像もつかん」
 少年の顔が青ざめた。
 リーダーは満足気に鼻を鳴らした。
「儂(わし)らは半業半殺の雑魚に過ぎん。いわゆるプロではない……パピ、おまえならわかるだろう。彼らは、おまえらをできるだけ生け捕りにするぞ。そのほうが高く売れるからな。おまえらが受ける仕打ちに比べれば、儂の鉋(かんな)が如何に慈悲深いものだったかわかるだろう。人間の腸は引き伸ばすとテニスコートほどに広がるそうだ。それを生きたまま本人に見物させた奴がいる……〈彼〉も来る」
 少年の唇が震え、なにか呟いた。
「そうだ、ジェロニモだ。奴の軍団(クラン)が先日、始動した」
 少年は何かを訴えるように椅子の男を見た。
「残念だったなあ。せっかく、楽に死ねるチャンスだったのに、自分で台無しにするとはな……あっはははは」

 少年がリーダーの顔にパチンコを撃ち込んだ。悲鳴が上がり、さらにその上から滅茶苦茶に蹴り始めた。みるみるうちに顔が海鞘(ほや)を貼りつけたように腫れ上がり、血反吐と歯が散らかる。
「やめて!」
 取り押さえようとしたが野獣のような力で弾き飛ばされてしまった。
 すると怒声がし、少年の動きが止まった。
 椅子の男が睨み、首を振っていた。
「やめろ……パピ」
「これぐらいじゃ、まだまだお釣りがくる」
「よせ……頼む」
 パピと呼ばれた少年は気を失っているリーダーを一瞥し、椅子に近づいた。
 わたしは男と少女の縄を解いた。
 立ち上がった少女は少年にくっつくと何度も腹の辺りに顔を擦りつけた。
「どっか痛くない?」
「パピーにあったら、なおったのん」
「よかった」

 しかし、男の方はやはり重傷だった。
 横にしようとしたが、彼は座ったままでそれを拒否した。
「医者に行かないと」
「それはない」
 わたしの言葉に男は手を振り、シャツを捲(めく)った。臍の脇に管(ホース)が差し込まれており、それは後ろにある〈消毒薬〉とラベルのある大きなプラスチック製の容器につながっていた。
「鉋で削ったりする間も痛みで失神させないためだそうだ。おかげで俺の腸(はらわた)はドロドロだ。もう原型も残っちゃいないだろう。よくこんなことを考えつくもんだよ、はは。俺はもう終わりさ。赤ん坊だってわかる」
 ホースを引き抜くと白い薬液と血の混じった桃色の体液が椅子から床に滴り拡がった。
 わたしと男の目が合った。
 そのまま男がパピに訊ねた。
「やっぱり、この人だったんだな」
「ああ。そうだよ。ボンベロの云っていたオオバカナコさ」
「あんた、オオバカナコか?」
「ええ。そうよ」
 男はじっとわたしを見、何かを読み取ったかのように溜め息を吐いた。
「パピ、この人を家に届けたらダフを連れてハコブネに戻れ」
「ジョーは? 一緒に帰ろう」
「俺はもうお役御免だ。ここで奴らと一緒に掃除屋を待つことにするさ」
 パピの目に涙が溜まっていた。男はそれを見て頷いた。皮がちゃんとしていれば、微笑んだのがもっとハッキリわかっただろう。
「あんた、俺たちはご覧のように訳アリでね」
「わかるわ。この子は挨拶する代わりにナイフを投げつけてきたし」
「すまない」男はポケットから紙を差し出した。「ところで、こいつの名を云えるか?」
 それはふたつに折られた紙焼き写真だった。
「あんたが本当にオオバカナコ本人なのか確認したい……本物のカナコなら、誰なのかわかるはずだ……」
 森のなかで撮られたもので、木立に革らしい黒の上下の男がひとり。
 腰から上は写っていない。〈彼〉はその足元にいた。
「そいつの名前は?」
 今日、それまでのジェットコースターのような体験と、ああ無事だったのだという安堵が押し寄せ、思わずわたしは手で口元を押さえていた。
 三人がわたしの答えを待っていた。
「菊千代よ……」
 男がホッと溜め息を吐いた。
「ボンベロと一緒にやってきたんだ。最初はどうにも怖ろしくて、近づくこともできなかったが……今ではそこのダフの良い遊び相手になってる」
 少女が笑って頷いた。
「じゃあ、決まりだね。カナコも一緒に」
「それは駄目だ」男がキッパリと告げた。
「どうして? ジョーはその為にここまで来たんだろ?」
「それは違う。ここに来たのはダフを助け出すためだ。それに……そもそもハコブネを勝手に飛び出したおまえを捕まえるためだった」
「あんたら、みんな腰抜けだからだ」
 男はわたしを見て云った。そこにパピを責めるトーンはなかった。
「こいつはまだまだ子ども(ガキ)なんだ。反抗ばかりしている。俺はこんな子どもに人を殺させたりしたくないんだ」
「まだ半分も呑み込めていないんだけど。彼はボンベロがわたしを呼んでると云ってたわ。それはあなたたちと合流すると云うことなのね?」
「ああ」
「あなたたちは一体何なの? なぜこんな目に遭ったり、こんなことをするの?」
 男は目を逸らした。
「申し訳ないが、それは話せない。あんたは部外者だ」
「だから仲間にしようよ。ボンベロも待ってる」
「そうはいかん。この人にはこの人の生活がある。無関係な人を戦地に送り込むようなわけにはいかない」

 わたしは……と口を開きかけた途端、パピに激しいタックルを仕掛けられ、わたしはふっ飛んだ。棍棒で頭を殴られるような激痛と背中の痛みに悲鳴を上げると、既にパピは取り上げた銃でリーダーの顔面を殴りつけていた。
 銃口と、椅子の男の胸の両方から煙が上がっていた。
「大丈夫!?」
 胸に大穴の開いた男に取りつくと、既に彼はいなくなるところだった。キャンティーンで何度も見た、命が沈むように溶けていく瞬間を男の目に感じた。
 口が動いていた──耳を寄せると、言葉が流れ込んできた。
『あれをとめろ。もう……たくさんだ』
 顔を上げると、男はもう消えていた。
 パピはリーダーをまだ殴り続けていた。肩から上はもう潰した肉塊にしか見えない。
「やめなさい!」わたしは少年に飛びかかった。
「何で止めるんだ!」必死に振り払おうとパピはわたしの腕の中で暴れ回った。
「ジョーがそう云ったの!」
 わたしの声でパピの動きが止まった。
 見ると少女が男の頭を静かに撫でていた。
 パピは猟銃を捨て、男にふらふらと近づいた。
「死んだ」
 彼はピースバッジの上着を剥ぎ取ると、ジョーの上半身を隠すように被せた。
「いい人だった。みなのことを大切に考えてくれて……。俺を助けたのもこの人だったんだ。でも、もういない」
「彼をどうすればいいのかしら。警察を呼ぶというわけにもいかなそうだし」
「ケンメーだ。放っておけばいい。こいつらの仲間が片づける。すべて巧くやる。今までもそうだったよ」
 見ると袋男達は死んでいるわけではなかった。それぞれが半死半生の態で咳き込んだり、苦痛の呻きを上げていた。
「本当は生きたまま焼き殺してやりたいけど。そんな派手なことはしたくない」
「賢明だわ」
「あんたはどうする? 来るのか、来ないのか?」
 パピの手を掴んでいた少女がわたしの手も握った。
 柔らかな優しい手だった。
「カナコ、おなかへった」ダフはわたしを見上げた。
「そうね。今はそれをすることね」

                 *

 店に戻ると、既に夜が明けようとしてた。
「はい」
 タオルと家の鍵を渡すと、パピが顔を顰(しか)めた。
「なに?」
「云っちゃなんだけど、あんたは堆肥から出てきた山犬みたいな臭いがするわ。裏にわたしの家があるからシャワーを使いなさい」
 パピはぶつぶつ文句を云いながら、裏に消えた。
 わたしはダフに思いっきり甘いホットココアを出した。彼女は椅子に座っても床に足がつかない。
「カナコ、おいしい」

 彼女がひとりで飲めることを確認すると、わたしはキッチンに入り、大鍋に湯を沸かした。大ぶりのニンニクを二玉取り出し、皮を剥く。窓から地平線が見える。その先がぐんぐん明るくなるのを感じながら、沸騰した鍋にパスタを投入する。フライパンでオリーブオイルを温め、そのなかに大量のスライスしたニンニクと少々の鷹の爪を投げ込んでからも、まだ頭の整理はつかなかった。
 ……考えろ、カナコ。考えるんだ。
 久しぶりにボンベロの生々しい怒気を含んだ声が甦ってきた。
 空が見るたびにぐんぐん光度を増していた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * 


『ダイナーⅡ』をより楽しむために、未読の方はぜひ『ダイナー』から!
〈主演〉藤原竜也×〈監督〉蜷川実花のタッグが話題の映画『Diner ダイナー』(2019年公開)の原作本はこちらです↓


 
 

Profile

平山夢明

1961年、神奈川県川崎市生まれ。1994年にノンフィクション『異常快楽殺人』を発表、注目を集め、1996年に『SINKER──沈むもの』で小説家としてもデビュー。2006年には短篇「独白するユニバーサル横メルカトル」で日本推理作家協会賞を受賞。2007年、同タイトルを冠した短編集が「このミステリーがすごい!」第1位に選ばれた。2010年『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞をダブル受賞。2017年より「週刊ヤングジャンプ」にてコミック化され、大人気連載中。

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