ダフとパピの前に、ニンニクをたっぷり使ったツナ入りアーリオオーリオを出した。湯気が顔を覆うのもかまわず、パピはフォークを入れてパスタを巻くと、口のなかにしまっていく。ダフは女の子らしくゆっくり食べているが、パピはまるで早くしないと消えてしまうと思っているかのように、次から次へとフォークでパスタの団子を作っては呑み込んでいく。
「もうちょっとゆっくり食べなさいよ」
「冷める。温かいものは久しぶりだ。もったいない」
唇をオリーブオイルでてかてかにさせたパピが、皿とパスタに目を釘づけにしたまま云う。腹が減っているはずだと踏んで600グラムを茹で、パピには450以上をよそったのに、すでに半分近くになっていた。
テーブルについているのは明らかにふたりの子どもなのだが、その正体を知ってしまった今は酷く違和感があった。
「はあああ」
突然、パピがフォークを置いて溜息を吐く。
「どうしたの」
わたしの問いかけには答えず、皿に目を落としたまま動かない。
「パピーは、なくなると思って悲しんでるんだよ」
口から一本、パスタを垂らしてダフが云った。
「え?」
パピがわたしを見た。
「気がついたら、こんなに食べてしまった。もうなくなっちまう。嗚呼」
本当に情けない顔をしたので、わたしは思わず吹き出しそうになった。
「莫迦ね。また作ってあげるわよ」
そう云った途端、パピが椅子の上で勢いよく身を起こした。
「え? ほんとか? ほんとか、カナコ。お替わりしていいのか? なくならないのか?」
「うちは食堂だからね。あなたたちが食べきれない程度には食材はあるのよ」
「これがいい。これを食いたい! こんな麺は初めてだ」
「ディチェコの№12よ。ほぼ2ミリあるわ。わたしが太麺が好きだから使っているの」
「まだあるのか」
わたしは頷いた。「10ケースあるわ」
「ほんとだな? ほんとだな、オオバカナコ」
「本当よ」
「じゃあ喰うぞ」フォークを握り直してパピが云う。「バカスカ喰う、いいな」
「どうぞ」
パピは歯を剥き出して笑みを浮かべると、猛然とフォークをパスタに突き刺し、くるくると回転させて糸巻きを作ると頬張る。そして頬張る先からパスタを巻く。
「味が濃いな、オオバカナコ。熱くて味が濃いのは大好きだ」
「ソースを作る時にコツがあるのよ」
パピがもう食べ終わりそうなので、わたしはもう一度作ることにした。
「まだ食べられそうね」
パピはピースサインを出した。
「どのくらい? いまの半分?」
「同じのを。まったく同じものを」
「そんなに食べられないでしょう」
「喰う。パスタ(こいつ)で腹を爆破させたい」
パピはそう宣言した。目が笑っていない。
「わかったわよ」
わたしは厨房に戻ると鍋を洗って水を張り、火にかけた。それからニンニクをふた玉剥いてスライスし、鷹の爪を裂き、湯が湧くとそこに塩をひと掴み入れ、ディチェコをひと袋──これで500グラムある。
パスタが茹で上がると笊(ざる)に開け、先ほどの材料を温めていた大ぶりのフライパンに入れる。大事なのは茹で汁を足すこと。そうすると溶け出した小麦のデンプンがオリーブオイルを乳化させて塩っぱいソースが生まれ、パスタによく絡まって濃い味が作れる。もともとは汗だくで働く運転手や営業マンの舌を満足させるためのレシピだ。高級住宅街では決して好まれない。
皿の縁から溢れそうになった山盛りのそれを運ぶと、パピが〈おー〉と感嘆の声を上げた。
皿に半分ほど残したまま、ダフは重ねた腕を枕に寝入っていた。
わたしは彼女を壁際のソファに寝かすと自分用にブラックコーヒーを作り、それを啜りながらパピの食べっぷりを見学した。
ふた皿めだと云うのにパピは驚くべきスピードでパスタを消費していく。脇目を振らず、口に詰め込んでいく姿はいっそ清々しい。
パピの背後の窓から道路の向こうに立つ標識がハッキリと見えるほど明るくなってきた。そろそろ五時になる──。
「ねえ。ひとつ訊きたいことがあるのよ」
パピは口を動かしながら頷いた。
「なぜ、ボンベロは自分で此処に来ないのかしら」
「さあ。照れてるんだろ」
「そんな人じゃないわ」
「ふ~ん」
わたしはダフを指さした。
「彼女はあなたの妹ではないようね。それに親戚でもない」
パピは頷く。
「ジョーの話では、まず始めに彼女が連れ去られ、次にあなたが彼女を捜しに出た。ふたりを追ったのがジョーね。なぜ彼女はあんな人達に連れ去られなければならなかったの?」
パピは無言で食べ続ける。
「ハコブネって、何?」
パピが〈チョイ待ち〉という感じで人差し指を立てた。
わたしは煙草に火を点けた。
口の中を片づけたパピがわたしを向く。
「聞かないほうがいい」
「なぜ? あんな目に遭ったんだから、訊く権利ぐらいはあるでしょ」
「あんたのためだ」
「わからないわ」
「あんたは俺たちについてくる気がない」
わたしは返事をしなかった。
「万が一、掃除屋か、もしくはそれに似た奴らがやってきて、あんたに何かを訊ねたとする。その時に話されては困るし、何も知らなければ耐えられる」
「耐えられる? 何に?」
「奴らがすることにさ」
パピはわたしの反応をチラッと見ると、皿に戻る。
「仲間以外には絶対秘密ってわけ」
「ああ」
「これからどうするの?」
「ハコブネに戻る。どこかで連絡すれば適当な場所まで迎えに来てくれるはずだ」
「そこまで無事でいられるの」
パピは返事をする代わりにパスタを猛烈に口へ突っ込み、呑み下すと、わたしを睨んだ。
「だから悔いのないように、こいつを喰ってる」
「他にもバーガーならできるけど」
思ってもない言葉が口をついて出た。
「本当か? 喰う!」
「嘘でしょ」
「喰う。腹を爆破させる」
パピは握ったフォークを振り上げた。
「了解」
わたしは煙草を咥えて立ち上がった。
冷蔵庫で寝かせておいた肉タネ(パティ)を手で叩き起こしていると、眼の前の窓が鳴った。──トトだった。
「どうしたの? 今日は休みにしたって云ったでしょ」
窓を開けて云うと、イタズラを見つけられたように頭をペコペコ下げた。
「ままさぁん、居ましたねえ」
「居るわよ」
「よかったよ。よかったよぉ」
そう云うと、トトは手をひらひら振りながら自転車にまたがって行ってしまった。
振り返ると、ホールの入り口にパピが立っていた。
「だれ?」
「ウチで働いてる子よ」
「子じゃない。あれは大人の男だ」
「中身は子なのよ」
パピはわたしを睨んだままフォークを口に入れた。
「奴は信用できるのかよ」
わたしは流し(シンク)を叩いた。
思った以上に大きな音がし、パピが身構えた。
「此処はわたしの店。あなたは勝手に入ってきてわたしを連れ出し、そして戻ってきてからは、わたしの料理を食べている。おいしいハンバーガーを食べたいのなら、自分の居るのがわたしの店だということを理解しなさい。此処ではわたしが主(あるじ)。客であるあなたの義務は食事を楽しむこと。疑ったり、指図することじゃない」
わたしたちは暫く睨み合っていた。
が、突然、パピの腹が踏まれた人形のような音を立てて鳴った。
「お腹は賛成と云ってるみたいね」
「ふん」
鼻を鳴らしてパピはホールに戻っていった。
わたしはパティの形を整えると、再び両手の中で叩い(パツトし)た。
パンズに焼き目が少しつくほどに温め、レタスを敷き、しっかりと火を通したパティを三枚重ねにして置く。その上からチェダーチーズを溶かしたものを掛け回し、トマトとピクルスを乗せる。バンズで蓋をしてから、揚げたてのボテトフライに塩を振ったものとコーンのソテーを皿に添えた。これだけでも優に十センチは高さのある代物になる。
ホールではパピがダフの横に座って外を眺めている。
「どうしたの」
わたしの問いに、パピは外に向かい顎を突き出すようにした。
トトがいた。反対側の道路に停めた自転車の脇で膝を抱え、時折、こちら側へチラチラと視線を送っている。
「食べなさいな」
わたしはパピにテーブルの上で湯気をあげているハンバーガーを指した。
パピはテーブルに戻り、ハンバーガーのバンズを取り、〈おお!〉と目を輝かせた。
わたしはそれを横目に外に出た。
お預けを食らっていた犬のようにトトが首を起こした。
「トト」手招きすると彼は駆け寄ってきた。
「ままさぁん」
「何してるの」
「わすれもの」
「何を忘れたの?」
トトは困ったような顔になった。
「なかにお入りなさい」
わたしが促すと、トトは嬉しそうに歯を剥き出した。
トトの大きな躯を見ると、パピはバーガーにかぶりつく手を停めて睨んできた。トトもまるで気に入らない転校生でも見るような目をしている。
「何を忘れたの」
「わすれたので。おもいだしたいです」
トトは真面目な顔をしていた。
「そうね。それじゃあ、思い出せるように何か飲み物を上げるわ」
トトはまた歯を剥いた。
わたしはトトに、大好きなハーシーズを溶かし込んだホットチョコに、マシュマロを軽く炙(あぶ)って柔らかくしたものを入れて出した。
トト用のマグカップはパイナップルの缶詰並みに大きいのだが、彼の手に掴まれるとコーヒーカップほどの大きさにしか感じない。
「彼はパピ、あそこで寝ているのがダフよ。こちらがトト。ウチで働いてくれているの」
トトはパピから離れ、カウンターに座った。
「おっさん、心配すんな。俺たちは飯食ったら出ていくんだからよ」
ハンバーガーにダイブし続け、顎から鼻の下までをケチャップとマヨネーズで汚したパピがからかうような調子でトトに話しかける。
トトは聞こえないふりをしていた。
わたしはダフの服が汗臭いことが気になっていた。
「ダフを風呂に入れてくるわ。その間、仲良くしてて頂戴」
ソファのダフに声を掛けると目を開けたので、わたしは彼女と裏の家へ向かった。
服を脱がせにかかった時、わたしは目を疑った。小さなダフの躯には生傷がいくつも走っていた。
「ダフ、これはどうしたの。誰にされたの?」
「されない。ころんだのやつとぅ。おちたやつとぅ。たおれたやつ」
ダフはキョトンとわたしを見上げていた。
シャワーがちょうど良い温かさになったので、わたしは小さなダフの躯を傷つけないように丁寧に洗った。脇の下や顎の下にふれるとダフは子どもらしくキャッキャッと声を上げて笑った。
清潔なバスタオルで躯を拭くと、ほこりまみれの中から、きれいな輪郭の可愛らしい顔が覗いた。洗濯が終わるまでまだ時間があった。
店に戻り、ソファに座らせ、オレンジジュースを与える。
驚いたことに、パピはバーガーがもうひとつ食べたいと云いだした。
「そんなに無理よ」
「無理じゃない。今、食べなくちゃ。次はない」
「どんなバーガーが良いの」
「同じものでいい。あれがいい」
頑(がん)として云うことを聞こうとはしない顔を見て呆れながらも、わたしは張り切って作ることにした。
同じようにバンズに焼き目を入れ、パティを挟み終え、チーズの代わりにチリをかけたものに、トマトとピクルスを乗せた。
ふと気がつくと、今度はトトが後ろにいた。
「どうしたの?」
トトは何か云いたげだった。
「喧嘩したの?」
「ちがう」
「どうしたのよ」
「いわない。いうと、ほんとになるからいわない」
「何を云わないっていうの……」
バーガーが冷めてしまわないようホールに戻る。
腹を撫でていたパピがそれでも嬉しそうな顔でバーガーにかぶりついた。
「よくそんなに食べられること」
「今だ。今しかないんだ」
トトがわたしとパピを見つめていた。
「いくんでしょ。ままさぁん。いっちゃうんでしょ」
「え」
「そいつとぅ」
トトの言葉にパピを見ると、うまいうまいと云いながら涙が目から溢れていた。
ひと噛み、ひと噛みするごとにパピは頷き、マヨネーズとケチャップの付いた頬の上を涙が零れていた。
そんな泣き方を見るのは初めてだった。
「パピ……」
そう声をかけると、パピは不審そうな顔でこちらを見た。
わたしが目元を指すと、本人が〈えっ〉と驚きの声を上げ、何度も目と頬に触れ、確認していた。まるで泣くなんて長い間、忘れてしまっていたとでも云うような仕草だった。
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平山夢明
1961年、神奈川県川崎市生まれ。1994年にノンフィクション『異常快楽殺人』を発表、注目を集め、1996年に『SINKER──沈むもの』で小説家としてもデビュー。2006年には短篇「独白するユニバーサル横メルカトル」で日本推理作家協会賞を受賞。2007年、同タイトルを冠した短編集が「このミステリーがすごい!」第1位に選ばれた。2010年『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞をダブル受賞。2017年より「週刊ヤングジャンプ」にてコミック化され、大人気連載中。