「え? あっ」
パピは椅子を蹴って立ち上がると辺りを見回し、壁際の柱に飾ってあるネイティブアメリカン風の飾りがついた小さな鏡をしげしげと覗き込んだ。
わたしとトトは思わず顔を見合わせた。
「なんだこれ……」
パピの声が響く。
背中越しに近づいたトトが呆れたように云った。
「なみだでしょ」
その言葉にパピは勢いよく振り返った。唇を噛みしめていた。
「なんだと」
「なみだ。わかんないの? あんた。泣いてるんだよ」
止める間もなくパピの躯(からだ)が矢のようにトトに突進した。
不意を突かれたトトはパピを抱え込んだまま仰向けに倒れた。重い音が響き、馬乗りになったパピがトトを殴りつけ、トトは薪のような腕でそれを防ごうと顔の前で交差させた。
「よしなさい!」
パピの脇に手を入れて引き剥がすと、彼はひらりと身を翻し、間を取った。
目が怒りに燃えていた。
「なにをしてるの!」
トトがゆっくりと立ち上がる。
パピは今にも怒りで破裂しそうな顔をしていた。
「理由を云いなさい!」
「そいつが俺を莫迦にしたからだ」
「ボク、莫迦にしてない。莫迦はおまえた」
「俺は泣いてなんかない」
「泣いた。なみだがあるでしょ。それは泣きでしょ」
「違う!」
トトの言葉にパピはナイフを取り出し、構えた。
「俺は泣かない。そんな弱虫じゃない」
「あんた、本気で云ってるの?」
振り向いたパピの目に、わたしは動揺を見た。
「俺は泣かない! 泣くなんてしないんだ!」
「泣いたよ」
「うるさい!」
「ナイフをしまいなさい」
入り口のベルが派手に鳴る──サトミが立っていた。
「なにしてんの? これ」
ホールの真ん中でナイフを構えるパピを見て、彼女は目を丸くした。
三方を囲まれたパピが、手負いの獣のように小腰を屈めながら攻撃態勢に入った。
「よしなさい!」
「泣き虫」
パピが声に反応し、ナイフを向ける。
その時、ソファから大きな泣き声が始まった、ダフだった。
「パピー、だめだよ~」
ナイフを持つ手が一瞬下がった。
〈どっ〉
暖炉用の薪をフルスイングしたサトミが、倒れたパピを見下ろしていた。
*
「説明して」
サトミがラムの入ったカップを両手で持って口をつける。
わたしとトトもテーブルに着き、それぞれに好きな飲み物を置いていた。窓際のソファにはダフと、頭に絆創膏を貼ったパピがいる。
「そうね。どこから話せばいいかしら……」
わたしは話の糸口を探りながら煙草を咥えた。
サトミがライターで火を点けてくれる。
「あの包み紙ね」
「当たりよ」
「嘘をついた」
「ええ。ほんとのことは云わなかったわね」
街道を行く常連に営業中だと報せる『OPEN』と胴に描いた樽は引っ込めてあった。ドアの下げ札も『CLOSE』にしたままだ。
「教えてはもらえないのね……ほんとのことは」
わたしはサトミを見つめた。
サトミは溜め息をついた。
「さとみ、ままさん嘘ついてないよ。あいつ、悪いやつなんだよ」
「わかってるよ、トト。黙ってて」
「あい」
テーブルの上にはパピが隠していたナイフが二本置いてあった。他に武器はなかった。ダフの前で彼を縛ったりはしたくなかった。サトミがトトに命じたのをわたしが止めると、彼女は嬉しそうに笑った。いま、彼はダフに髪を撫でられながら死んだように寝入っていた。
「話せることと話せないことがあるの」
「うん。わかるよ。だったら話せることだけ教えて」
「そうね」
わたしは煙草を吸い込み、ゆっくりと吐いた。
「昔、泥の中から引き上げてもらったことがあったの。その時の恩人がわたしに逢いたがってると、あの子は云うの」
「簡単には逢えない人なのね」
「半分当たっているけれど、半分は違うわ」
「どういうこと」
「彼はそんなことを云う人ではないの」
「じゃあ、あの子がデタラメを云ってるとか」
わたしはジョーが見せた写真を思い出した。
「そうとも云えない……証拠を見たわ」
「ままさあん。あいつ、うちゅうじんだよ。きっと。これがしょーこだよ」
掌に載せたパピのシャツのボタンをトトが見せた。
「トト。あの子にジュースのお替わりをあげて」
わたしの言葉にトトはキッチンに入って行った。
「でも行く気なんでしょ」
「ううん」
「どうして? 恩人なんでしょ」
わたしは煙草を灰皿で揉み消した。
「行けばきっと戻ってこれない気がするから……。それに、せっかく造り上げたここの生活をわたしは気に入ってるの。あなたや、トトも含めてね」
サトミは黙って見返すだけだった。
トトが突っ立っていた。
ダフの手にはマグカップがあった。
隣でパピが身を起こし、トトを睨んでいた。が、その目に先ほどの怒りはない。
わたしが見ていることに気づくと、パピは近寄ってきた。
「騒いで悪かったよ。そのネエチャン、容赦ないな。あんた、良い戦士になるぜ」
「それはどうも」
パピはわたしに軽く頭を下げるとダフのもとに戻った。そして彼女がジュースを呑み終わるのを待って、立ち上がらせた。
「行くの?」
「ああ。あまりグズグズしていられないからな。今から二週間ほどですべてが終わるんだ。世話になった。でも金がない。礼ができない」
「いいわよ、そんなこと」
「来ないんだろ」
「そうね」
「そう云っとく」
「ええ」
わたしは用意した札を一枚、パピの手に押し込んだ。驚くパピにわたしは云った。
「要らなけりゃ捨てていいから」
「元気でな」
「あなたもね」
パピはフッと嗤い、トトとサトミに軽く手を上げた。
ダフは深々とお辞儀をし、パピに手を引かれて出て行った。
パピは街道の端をとぼとぼと北に進んで行った。
小さな影が見えなくなると、詰めていた息が漏れた。
「いいの?」
「ええ。云ったでしょ」
サトミがテーブルに戻り、トトはキッチンで探した具材で作った凸凹したサンドイッチをソファに座って頬張っていた。
わたしはもう一度、コーヒーを淹れた。
「ちょっとシャワーを浴びるわ」
家(トレーラー)に戻り、シャワーを浴びようとタオルをしまったクローゼットの奥に手を入れた時、鋭い痛みが走った。思わず手を引っ込めると、指先に血がにじんでいた。
見ると、小さな半球形の硬質ガラスがまっぷたつになっており、破片の切っ先が上を向いている。
普段はきちんと袋に収めていたはずのもの──ボンベロの義眼だった。
あの時、あの最後の瞬間、彼から手渡された眼(もの)。
『面白かったぜ! オオバカナコ』
そう叫ぶ壮絶な彼の貌(かお)が脳裏に甦る。
シャワーを冷水のまま浴びていることにも気づかなかった。
店に戻ると、トトとサトミがエプロンを着けていた。
「どうしたの? 今日は休みよ。云ったでしょ」
「ままさあん、りょうりおしえてください」
「料理? どうして?」
「まだ教えてもらっていない看板料理」
サトミが怒ったような顔で云う。
「いくでしょ、ままさん」
トトの目が決壊した。飛び散るように涙がぼとぼとと零れた。
「どうしたのよ。いったい?」
「アタシ、縁起とかお化けとかぜんぜん、信じないけど。今日は違った。胸騒ぎがしたんだ。そしたら当たってた。当たってたよ、ママ」
「わたしは何処にも行かないわよ」
「違う! 違うの!」
サトミの目元も真っ赤になっていた。
「もう行ってる。ママは行っちゃった。ワタシにはわかる。トトにもわかってる」
サトミの言葉に、袖(そで)で涙を横殴りに拭くトトも頷いた。
「でも止められない。止めたくない。だから……ふたりで相談したんだ。ママが帰ってくるまで、ちゃんと店を守ろうって。ワタシたちは仲間だよ。ママに抜け殻でいて欲しくない!」
サトミはそう叫ぶと、トトの分厚い胸に顔を埋め、泣いた。
こんな彼女を見るのは初めてだった。
カップボードの薄い硝子にわたしの顔が映っていた。それなりの経験を積み、何かに挑戦するには最後になるかもしれない齢(とし)の女がいた。
この分岐点で踏み出す道が決して甘くないことは、これまでのことで身に沁みていた。しかも、自分は呆れるほど無力だ。でも、彼が呼んでいる──たったそれだけ。それだけのことで、すべてを放り出して向かおうとする自分と、それをしろと推す仲間がいた。大切な仲間が。
「……わかったわ」
わたしは、彼らと出会ってからは作ったことのない料理を伝えることにした。
──三十分後。
「これで下ごしらえは終わり。あとはオーブンで三十分ゆっくり焼いて、さっき作っておいたソースをかけて。付け合せは旬のものを使ってもらえばいいから」
気を取り直したふたりはわたしの手元を食い入るように見つめ、サトミはスマホで要所要所を録画した。
「焼き上がりのタイミングは、今まで手伝っていたから大丈夫だと思うわ。それより早くしないと追いつかないわよ」
「そうね」
サトミに促されたわたしは、家に戻ると荷造りを始めた。
終わって戻ると、キッチンには肉の焼ける良い匂いが充満していた。
「これでどうかな?」
オーブンから取り出した食材をチェックする。焼き色も肉汁も完璧だった。
「問題ないわ。これで完成よ」
わたしはふたりに一番、美味しい部分を切り分けて味見をさせた。
目を丸くしたふたりが互いに顔を見合わせるのを確認すると、わたしもホッとした。
「……ボンベロの背中(ボンベロズ・バック)」
「それがこの料理の名前ね」
「ええ」
「ままさあん、それはいいね。いい名だね」
「ボンベロズ・バック。わかった」
そう云い終えると、サトミは車を取りに出た。
サトミのジープで街道を十五分ほど飛ばしたところで、パピとダフが歩いているのが見えた。エンジンの音に振り返ったパピは緊張した面持ちでいたが、助手席のわたしを見ると歯を見せた。
「金を取りに来たのかと思ったぜ」
「莫迦ね。もっと大事なものよ」
わたしを見ると、ダフは腰の辺りにしがみついた。
「誘っといてこんなことを云うのもなんだが、思ってる以上に先はキツイぜ。覚悟はあるのか」
「愚問よ」
サトミが車の鍵を手渡した。
「この車は元カレが誰かから譲ってもらったやつだから、適当に捨てても足はつかないわ」
「助かるよ、ネーチャン。もう足が棒だったんだ」
パピはダフを連れて車に乗り込んだ。トトがダフを手伝う。
「どうやって戻るのよ」
「足があるもの。ダイエットにはちょうどいいわ」
「すまないわね。店の通帳とカード、書類の一切は家の机の引き出しにあるから。必要なら使って」
「わかった」
運転席に乗り込むと、サトミが顔を寄せてきた。
「戻ってね。約束よ」
「うん」
「戻ったら家族だから」
サトミは笑っていた。
「公衆電話のあるところまでぶっ飛ばしてくれ」
「了解」
「ほんとだよ、ママ。戻ったら家族だよ!」
車を出すとトトが駆け出してきた。
「ままさあん! ままさあん! まーまさあん! ありがと! ありがと!」
窓から手を伸ばし、親指を上げた。
バックミラーに大きかったトトがぐんぐんと小さくなるのが滲んで見えた。
ダフが寝、パピも腰をずらして目を閉じた。
道の彼方には季節はずれの暗雲が低く垂れ込め、時折、稲妻が光った。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * *
平山夢明
1961年、神奈川県川崎市生まれ。1994年にノンフィクション『異常快楽殺人』を発表、注目を集め、1996年に『SINKER──沈むもの』で小説家としてもデビュー。2006年には短篇「独白するユニバーサル横メルカトル」で日本推理作家協会賞を受賞。2007年、同タイトルを冠した短編集が「このミステリーがすごい!」第1位に選ばれた。2010年『ダイナー』で第28回日本冒険小説協会大賞と第13回大藪春彦賞をダブル受賞。2017年より「週刊ヤングジャンプ」にてコミック化され、大人気連載中。