<久坂寫眞館>で働く樹里と、店主の重。
ひょんなことから過去の花咲小路商店街にタイムスリップした二人(とセイさん)は、セイさんの自宅に忍び込むことにするのだが――
※※※
午前十時。
〈花咲小路商店街〉の四丁目にある〈矢車家〉が道路の向こうに見える。
私と重さんの感覚で言えば〈かつてここにあった矢車家〉なんだ。
私たちの時代にはここに矢車家のマンションが建っていて、最上階にはセイさんが住んでいる。ついこの間、お邪魔したばかり。
「想像以上にすごく立派な日本家屋ですよね」
「うん」
重さんが頷いた。
「写真では見たことあったけど、実物はいいね。歴史の重みが感じられる」
道路を挟んで向かい側にあった〈喫茶マインド〉。
セイさんも奥様とよく来たっていうお店。入口の壁はレンガで組まれていて、中に入るとどこか山小屋風な内装で細長く奥行きのあるお店。小さなお店で、たぶん十五坪とかそんな感じだと思う。この時代にはきっとこんなような喫茶店もたくさんあったんじゃないかな。
ちょうど正面の大きな窓のところの席が空いていて、しかもカウンターからも離れたひとつだけのテーブル席なので普通にいろいろ話せるね、って重さんと座ってみた。二人ともカメラマンの設定、じゃなくて一応二人ともカメラマンではあるんだけど、この時代のプロカメラマンっていう形なので、大きな荷物を脇に置いて。
〈矢車家〉にお邪魔する時間まで、あと一時間はある。のんびりとコーヒーを飲める。
「なくなっちゃうんだな」
重さんが、お店の人に聞こえないとは思うけど、慎重に言葉を選んで言った。そう、六日後にはこのお店も火事でなくなってしまう。
「知ってるって、不思議な気持ちになりますね」
「そうだね」
私たち二人は、この後〈花咲小路商店街〉に何が起こるか知っている。
そしてこの一九七六年から四十四年後の商店街が、世界がどうなっているかを知っている。知っているから何かが違うってこともないんだけど、やっぱり何かよそよそしいみたいな、そんな空気みたいなものを感じてしまう。
「深く考えると哲学とか学びたくなってきますね」
「あるいは物理学とかね」
「でもゼッタイにムリですよね。ちょっと考えただけで頭が痛くなってきそうです」
重さんが笑って頷いて、コーヒーを一口飲んだ。コーヒーの味は、何十年も違っても変わらない。苦くて、美味しい。
「でも、あの人の<モナ・リザ>の話で、僕は何となく納得したよ。〈あの絵には五百年の時間が積み重なっている〉って、何だか目からウロコが落ちたような気がした」
「うん」
私もスゴイ納得できた。
私たちは、何十億年もの地球の、もっと大きくいえば宇宙の時間の積重ねの世界に生きている。私が今何気なく見ている外の道路ひとつ取っても、あそこにはそれだけの時間が、つまりは過去が横たわっている。今という時間は存在しない。過ぎていくんじゃなくて、ただただ積み重なっていく。
私と重さんとセイさんは、その積み重なった時間の隙間を通り抜けて、ここに立って、いや座っているだけなんだ。
セイさんはもちろん来ていない。あの隠れ家のバーの二階で、私たちが首尾良く薩摩焼の皿を持ち帰ってくるのを待っている。リハーサルは完璧にやった。もう私たちは何が起ころうともあの仕掛けを自在に操って、薩摩焼の皿を手に入れることができる。
「セ、いや、あの人がね」
「はい」
セイさんって呼んじゃいそうになりましたね。危険です。この時代ではまだ皆はセイさんのことを〈セイさん〉と親しみを込めて呼んではいなくて、矢車さん、とか聖人さんとか呼ばれていたらしいけど、それでも危ない。
「今日のこの件だけどさ、あの人ならこんな工夫をしなくても、簡単にできると思うんだよ。僕たちに任せなくても」
重さんがカメラバッグを指差しながら言う。
「そう、ですよね」
監視カメラも警報装置も何もないただの一軒家。そこからお皿を一枚盗んでくるなんてことは、〈怪盗セイント〉にしてみれば散歩程度のものだと思う。
「でも、ほら、奥様もあれだからって」
〈怪盗セイント〉も舌を巻くほどの手練れの泥棒さんだっていう話だった。だから、気配で悟られてしまうとか言っていたけど。
「それは確かにあるのかもしれないけど、でも、たぶんあの人は、奥さんの、その、元気なところを見たくないからなんじゃないかなと思ってね」
「あ」
そうか。
セイさんの奥様、志津さんはもう何十年も前に病でお亡くなりになっている。
「本当に仲の良いおしどり夫婦だったって聞いたよ。親父たちが話していた。二人が一緒にいるところを見ると誰もが幸せな気持ちになっていたっていうぐらいに」
「そうなんですか」
セイさんと、奥様の志津さん。私はもちろん志津さんの姿も写真すらも見たことなかったけど、なんだか想像できる。
「ここに来れば、まだ結婚したばかりの頃の奥さんに会える。それはとても嬉しいかもしれないけれど、同時にとても辛いことなのかもしれないなって思ってさ」
「そうですね」
会えるのは嬉しい。
でも同時に辛く淋しい。
「きっと、心が動きますよね。だからうまくできないかもしれない」
「そうだね」
それだから、私たちに任せたというのもあるだろうし、セイさんはここにまったく近づいていない。誰かに会ったらマズイっていうのもあるんだろうけど。
「でも、何があったんでしょうね。えーと、あの件。寫眞館の」
「あの件ね」
セイさんがタイムトラベルしてしまった理由になったであろう〈久坂寫眞館〉との因縁が、火事に関係しているという。そうでなければ、セイさんと私たちはこの時代に来なかった。
重さんが確認しても、その話をするのは薩摩焼を手に入れてからにしようってセイさんは言っただけ。
それこそ、心が動いて失敗しても困るからって。
「まさか、原因が重さんのお父様ってことはないですよね」
重さんが顔を顰めて頷いた。
「さすがにそれはないと思うんだ。そんな大変なことだったら、親父だってそれからの人生、のほほんと生きていけなかったんじゃないかな」
ですよね。
「まったくそんな話は知らないんですよね重さんは」
「全然。あの話は今までの人生で何度となく親父やおふくろから聞いたけど、そんな感じはまったくなかった。でも、親父がそれに気づかなかっただけで、あの人だけが気づいたって場合もあるかなって」
「気づいたときには後の祭りで、あの人だけがそれを抱え込んでいた、って感じでしょうか」
重さんが頷いた。
「それなら、何となく話の筋は通るけれど、でも結局あれを僕らが防ぐことはないんだから、それなら、ここに来てしまった理由は何になるんだろうなってずっと考えている」
「そうですよね」
たとえば火事の原因が〈久坂寫眞館〉の主たる重さんのお父様にあって、そしてそれに後から気づいたセイさんが火事を防ぎにこの時代に来て、重さんのお父様を何らかの形で救う、なんていうのならとても納得できるけれど。
火事は起こってしまうんだ。人が死んだわけでもないし過去を変えるのは危険だろうから、私たちが止めることはない。セイさんはそう言っていたし、納得できる話だった。
「もし止めたら、どうなっちゃうんでしょうね、って話をしてもムダですよね」
「そうだね。小説とかそういうのでは、修正力がある、なんて言うよね」
「修正力?」
「過去を大きく変えても、歴史は結局変わらず別の形でその出来事は起こってしまうっていう話。だからもしあれを止めても、別の形であれが起こってしまう。そうなったときに今度はもっと悲惨なことになるのかもしれない」
「それは、マズイですよね」
何が変わるのか、何が変わらないのかなんてわかるはずもない。時の旅人である私たちはなるべくここに痕跡を残さないようにして、そしてセイさんの言う何かを成し遂げてさっさと帰るしかない。
「よし、そろそろ行こうか」
「はい」
セイさんの代わりに、泥棒さんをしてくる時間。
「お待ちしておりました」
予想はしていたんだけど、何もかもが外れてしまった。
セイさんの奥様、矢車志津さん。あの上品でまるで貴族のような気品溢れるセイさんが結婚した良家のお嬢さんなんだから、きっと上品で清楚な感じなんだろうなって思っていたんだけど。
大きくうねるパーマがかかったような髪の毛、大きくよく動く眼と口。細く伸びやかな身体と腕と足。そして白い大きなシャツ一枚と、ジーンズのパンタロン。いやこの時代ならジーパンって言う。
まるで、私からすると二昔前のハリウッド女優のような明るくしなやかな色気溢れる美人。
これは、目立つ。この時代からすると、かなりの個性的な美人さん。そうか、そういえばイギリスの血が志津さんにも流れているんだった。それもあって、この個性的な美なんだ。
「どうも、初めまして。カメラマンの朝倉と申します」
「助手の篠塚です」
名刺を渡す。名前は、セイさんが用意してくれた名刺に印刷されていたもの。
「さ、どうぞどうぞ。お皿はもう部屋に用意してありますので」
「恐れ入ります。失礼します」
荷物を抱えて、三和土から上がった。この玄関がもう既にすごく雰囲気が良い。三和土に敷き詰められた小石自体が色合いまで選び抜かれて配置まで気を遣っている感じ。廊下や壁の木は黒く塗られてしかも長い年月の間きっちり磨かれ渋く黒光りしている。
掛けられている絵は、誰の絵なんだろう。洋画だと思うんだけど、どこか海外を思わせる港から海を見ている構図の絵が、ものすごく爽やかでかつ力強い。
ここが〈矢車家〉なんだ。かつては〈花咲小路商店街〉を含むこの辺りのほぼすべての土地の地主さん。
「こちらです」
廊下をかなり歩いて通されたのは、二十畳はあるんじゃないかっていうお庭に面した座敷。すごい。こんな広い和室に入るなんて、修学旅行で行った京都のなんとかっていうお寺以来じゃないだろうか。
「お話は伺っていたんですが、素晴らしいお宅ですね」
重さんが心底そう思うって感じで言うと、志津さんはちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「私もそうは思うんですが、住んでいるとただもう広いだけで面倒くさくてしょうがないんですよ」
「面倒くさいですか」
「どこへ行くのにもいちいち何枚も襖や扉を開けなきゃならないし、急にもよおしたら廊下を走らなきゃならないし。私の憧れは手を伸ばせば何にでも届くって部屋なんですよ」
「四畳半の世界ですね」
「そうなんですよ! コタツに入って手を伸ばせばそれでいい、っていう生活をしたくてしょうがないんです」
笑った。ものすごく贅沢な悩みで言う人が言ったらものすごく嫌みだけど、志津さんからそんな感じは受けない。素直で、飾り気のない人なんだ。とても、好きな感じ。そうか、こんな人がセイさんの奥様だったんだ。
何かもう、素敵過ぎるカップルでこっちも幸せな気持ちになってくる。
でも、この人はもう、私たちの世界では故人なんだ。
「こちらに、ご用意しました」
小さな机、これはたぶん文机っていうものだと思う。たぶん漆塗りの小さな机の上に、やっぱり黒塗りの箱が置いてある。これがセイさんが言っていた座りが悪い箱ですね。
「失礼します」
重さんが正面に座って、そっと蓋を開けた。中に入っているのは、華やかな文様の薩摩焼の大皿。
重さんとそっと顔を見合わせて、うん、って頷いてしまった。私たちが持ってきたすり替える皿とそっくりだ。きっと並べて比べたら素人でもあれ違うぞ? って判ってしまうだろうけど。
「それじゃあ、撮影の準備をしますね。この縁側の前でさせていただきます」
「はい、どうぞどうぞ」
重さんがバッグを開ける。私も、持ってきた仕掛けのある作業台を出して設置を始める。今のところ、志津さんに不審がる様子はまったくない。セイさんの言っていた通りだ。
「こちらは、古くはこの辺りの地主だったと聞きました」
重さんが、世間話って感じで志津さんに話しかけた。撮影準備は、無言でするようなものじゃないし、空気が重たくなってしまう。どんな話題がいいかは、予めセイさんと打ち合わせ済み。
「そうなんです。もちろん私もそんな時代は知りませんけれど」
「このお宅は、いつごろ建てられたものなんですか?」
私も手を動かしながら話に乗っかる。
「最初は、それこそ江戸時代だったそうですね」
「江戸ですか」
「もちろんそのまま残っているわけじゃなくて、明治とか大正とか、昭和に入ってからも建て直しやら改修やらをしていますね。江戸時代のまま残っているのは向こうの庭の奥にある蔵ぐらいだって聞いています」
江戸時代からの蔵があるんですね。どれだけのお宝が眠っているんだろう。ちょっとそう思ったら、志津さんがちょっと苦笑いを浮かべた。
「でも、蔵の中にあるのはがらくたばかりです。そんなに大層なものは何もないんですよ」
「いやいや、江戸時代から残っているっていうだけで、その蔵自体が大層なものですよ。売るわけにはいかないのが残念ですけど」
「本当にです」
コロコロッ、って感じで志津さんが笑う。
「撮影の邪魔になってもいけませんから、お茶もお出ししていませんが、終わったらお出ししますので、何がよろしいですか? コーヒーでも日本茶でも紅茶でも何でも」
「どうぞお構いなく」
でも、あんまり断るのも失礼なので。
「では、二人ともコーヒーで。ブラックで結構ですので」
「はい、ではちょっと失礼します。どうぞ、撮影を進めてください。すぐ終わるようでしたら、庭でもどこでも好きなようにご覧になっていてください」
志津さんが出て行って、ほとんどしない足音が遠ざかったのを二人して息を止めて確認してから、急いですり替える皿を取り出した。
「簡単でしたね」
「仕掛けを使うまでもなかったけど、良かった」
このパターンがベストだったから、全然オッケー。皿をすり替えて、慎重に段ボールの奥にしまう。そして代わりの皿を、さも大事そうに扱って撮影する。
「物撮りは久しぶりだ」
「あ、私がやりましょうか?」
「いいね」
撮影は、それがどんなものであろうと楽しい。私たちカメラマンになるような人間は、きっとシャッターボタンを切ってその瞬間を残すことが、楽しくてしょうがないような人間なんだ。
そうか。
私たちが撮っている写真というものは、瞬間を、時間を切り取っているんじゃなくて、そのものの積み重なった時の一瞬を切り取っているんだ。
「お庭も素敵ですよね」
「うん、終わったら見せてもらおう」
そうしましょう。そして写真も撮りましょう。こんなに絵になる個人邸宅の庭なんか滅多にないです。
☆
〈矢車家〉から、隠れ家に戻ってきたのは十二時少し前。念のために、周りに人がいないことを、周辺のビルや家の窓から誰かが見ていないかも確認してから、裏口から入っていく。
「戻りました」
「お帰り」
セイさんがカウンターの中で、焦げ茶色のエプロンをして立っていた。いい匂いがしているけれど。
「お昼ご飯ですか?」
うむ、って頷いた。
「ちょうどこの時間に帰ってくるだろうと思ってね。作っておいた。親子丼にしたがよもや食べられないことはないだろうね?」
「大好きです」
「私も」
「では、二階に持って行くから荷物を片づけてきたまえ」
「あ、私運ぶの手伝います」
「じゃあ、荷物は全部僕が片づけるから」
カウンターに朱塗りのお盆が三つ並んでいる。確か、半月盆っていうものだ。
「味噌汁も作ったので、お椀によそってくれたまえ。私は親子丼をよそう」
「はい」
何だか、楽しい。自分のおじいちゃんと一緒にご飯を作るみたいだ。セイさんは料理もできるんだ。本当に何でもできちゃうんですね。
「あ、それで、無事終わりました」
セイさんに言うと、笑顔で大きく頷いた。
「もちろん、そうだろうとも。助かったよ。ありがとう」
奥様のことを話そうかと思ったけど、セイさんは何も訊いてこないから、黙っていた。何も言わない方がいいんだろうな。
「さて、運ぼう。お昼ご飯だ」
二階に運んで、小さな卓袱台を囲んで、皆でいただきます。これからしばらくこういう生活が続くんだろうな。
「セイさん。これがお皿です」
重さんが出しておいた桐箱を示した。
「ありがとう。何も問題はなかっただろう?」
「はい。スムーズに進みました。仕掛けを使うこともなかったですね」
やっぱり重さんも、志津さんの名前は出さなかった。セイさんも、ただ微笑んだだけ。
「ありがとう。写真も撮ってきたんだろうね?」
「もちろんです」
「隣りの部屋を暗室に使えるようにした。暗幕を張れるようにしてあるから、いつでも使えるよ」
「えっ、そうなんですか」
私たちが向こうに行っている間にやったんだ。暗室は確かに嬉しいけど。
「お皿の写真は必要なんですか?」
セイさんが一口親子丼を口に運んで、それから小さく首を横に振った。
「必要はないね。現像してもらっても一向に構わないが、暗室を作ったのは、これから必要になると思われるからだよ」
これから。
セイさんが私たちを見た。
「〈矢車家〉をじっくり見てきただろうね。きっと君たちならカメラマンとして興味津々だったと思うのだが」
「それはもう」
「全部写真に収めたかったぐらいです」
食べながら二人して頷いた。素晴らしいお宅でした。それはともかく、この親子丼とても美味しいです。後で作り方教えてください。
「本当に、きっと腕のいい大工さんたちが造ったのに違いないって話していたんです」
たとえば座敷の欄間ひとつ取っても、ものすごく細かい細工の松の彫刻が施されていたり、襖絵だってこのまま美術館に展示できるんじゃないかと思うほどの素晴らしい絵が描かれていた。
「あの絵は、本職の日本画家に描かせたんじゃないですか? とても印刷なんかじゃなかったと思うんですが」
重さんに、セイさんが頷いた。
「さすがのカメラマンの眼だね。あの家の襖絵はどれもこれも手描きだよ。もっとも私も詳しいことはわからない。何せ入り婿だからね。あの家が最初に建てられたのは江戸時代だという話だし、その後明治に入ってから建て直しが入り、今の、と言っても焼ける前という意味だが、最終的に今の形になったのは昭和の初めという話だった」
うん、それは志津さんも言っていた。本当に、すごい歴史を持つ家なんだ。
「だが、何せ私がそれを知ったのは結婚してからだ。あの襖絵を誰が描いたなどの文書は残っていたらしいのだが、当時の私はそれを読めなかった」
あぁ、って二人で頷いてしまった。
「まだセイさんも三十代の若い頃ですもんね。日本語の知識もそんなにはなかったですか?」
「そうなのだよ。喋ることは不自由なかったし、現代の言葉での読み書きに関しても多少はできたが、さすがに江戸時代に書かれたような文書を読むのは無理だったね」
「私たちもできません」
笑ってしまった。江戸時代どころか、以前に明治の頃の人が書いた手紙とか見たことあるけれど、それすら読めなかったことがある。昔の人は本当に皆が達筆だったし、そもそも達筆と言っていいかどうかのくずし字がすごいから。
「まぁ今となってはすべてが失われてしまったものだ。惜しんでもしょうがない」
うん、って何かに納得するようにセイさんは頷いた。
「さて、それで、だ」
ポン、と軽く薩摩焼の入った箱に触れた。
「無事にこれも回収できた。これをあるべきところに戻すのも実は君たちにやってほしいのだが、それは実に簡単なのだ」
「簡単ですか」
「そう、戻す場所は、ジュウくんもよく知っている」
「僕がですか」
セイさんがニコッと微笑む。
「〈花咲小路商店街〉の〈田沼質店〉だよ」
「え、田沼さん?」
重さんが軽く驚いた。〈田沼質店〉。名前だけは知っている。確か、商店街の反対側の国道に面したところにある。何とかっていう駐車場の隣りですよね。
「これは、田沼さんの持ち物なんですか?」
「実は、そうなんだ。まぁその辺の細かい経緯は知らない方がいいだろう。とにかくこの皿を、そのまま〈田沼質店〉に持っていって、こう言えばいい。『代理でお持ちしました』と。二人で行ってくれればなおよい」
二人で。
「男女の二人組で行くのがいちばん都合がいい、と」
「そういうことだ。そして渡すのはサエさんにだ」
「サエさん。おばあちゃんですね? 田沼さんの」
おばあさんがいるんですね。サエさんという。
「この時代ではまだ三十代の奥様だがね。店に行ってサエさんが店先にいればよし、いなかったら呼び出せばいい。サエさんは皿を見ればそれで納得するし、何も訊かない。そのまま君たちは失礼します、と帰ってくればいい。それで何もかも丸く収まる。まぁ念のために軽く変装ぐらいはしよう。ジュウくんはヒゲをつけたりね」
「わかりました」
〈田沼質店〉。行ったことないけど、この時代から今まで店舗は変わっていないんだろうか。
「そして、暗室が必要になると言った件だが」
「例の件ですね?」
重さんが言うと、セイさんが頷いた。
「あ、お茶淹れますね」
もう電気ポットも用意してあるし、お茶の用意もある。電気ポットからまずは湯飲みにお湯を入れて、それからそのお湯を急須へ注ぐ。その方がお茶が美味しくなる。
「〈久坂寫眞館〉と私にまつわる話だ。何故私がこの時代にタイムトラベルしてしまったのか。〈久坂寫眞館〉は、私に何をさせたかったのか、とも言えるかもしれないね」
そういう表現もできるかもしれない。〈久坂寫眞館〉のスタジオという場がなかったら、私たちがタイムトラベルすることはなかったんだろうから。
「当然、〈矢車家〉の周辺も見ただろうね?」
重さんも私も頷いた。
「ざっとですけど。かなり古い感じの住宅が多かったですね。この時代でもう古く感じたってことは、昭和初期ぐらいの家とかもあったんじゃないですかね?」
その通りだね、ってセイさんが言った。
「四丁目はもともと新しく造られた店とかは少なかった。住宅も数多くあったのだよ。我が家の裏手に空き地があったのは?」
「ありました。けっこう草がぼうぼうの」
小さな空き地だった。
「あそこには、実は井戸の跡があったのだよ」
「井戸の跡?」
「昔、それこそ上水道が完備される前の時代だろうね。共有だったのかどうかもわからないが、井戸があった。潰されたらしいが、まだこの頃にも水が滲み出ていて、いつも水が少し溜まっていたのだ」
なるほど。
「しかも、あそこはちょうどどこからも死角になっていてね。我が家からもその裏にあったアパートのどの窓からもあまり見えないような位置だった」
セイさんが、ニヤッと笑った。
「そういう場所は、よく子供たちが見つけるものではないかね?」
それは。
「秘密基地ですか?」
重さんとほぼ同時に言ってしまった。
「その通りだ。近所の子供たちの秘密基地になったり、あるいは、水があるということは、そこで煙草を吸ってもすぐに火が消せるということになり」
「あー」
重さんが笑って唇に二本指を当てて離した。
「煙草ですか。ガキどもが」
「そうなのだよ。私も何度か掃除したことがあったが、煙草の吸い殻などが多くあったし、ガキではなく、もう少し年を取ったヤンチャな若い子たちがたむろしているのも目撃したことがある」
「やりますよね、そういうの」
今だったらさしずめコンビニの前の駐車場とか。
「そのヤンチャな若い子たちの中に、ジュウくんのお父さん、成重くんもいたのだよ」
「あぁ」
重さんが苦笑いした。
「前にも言ったが、〈白銀皮革店〉の智巳くん、それに〈大学前書店〉の吉尾くん、〈バークレー〉の隆志くんらとね。煙草を吸っていたこともある。それはまぁいいのだが」
「まさか」
重さんの顔色が変わった。
「あそこが火元になったとかですか? うちの親父たちの煙草の不始末で<矢車家>が、四丁目が燃えてしまったんですか?!」
「そうではない」
セイさんが頭を軽く横に振った。
「それならば君が聞いていないはずがないだろう。寫眞館の存続にも関わってしまう重大な事件ではないか。火元の特定には至っていないし、彼らはヤンチャではあったが、根は真面目ないい子たちだ。火の始末も毎回きちんとしていただろう。そもそも水のあるところで吸っていたのだから不始末になりようもない。それはあの当時、きちんと確認できていた。本人から聞いたからね」
セイさんの顔が少し険しくなった。
「あの火事の前日だ。つまり四日後になるか。成重くんは空き地にいた。夕暮れ時だったそうだ。カメラを抱えてあちこち撮影した後に、一人一服していたそうだよ」
私は会ったこともない、重さんのお父様の中学時代。
「声が聞こえてきた。空き地の隣りの古アパートからね。窓が開いていたそうだ。男女が喧嘩しているような声だったそうだ」
男女の。
「痴話喧嘩ですか」
「成重くんもそう思った。カメラマンになるような人間は多かれ少なかれそういうものを持っているだろうが、何かいいものが撮れるかもと思ったらしい。こっそりと隠れて、その窓に向かってカメラを構えファインダーを覗いた。そこに、一成さんがいたそうだ」
「祖父ちゃんですか?」
お祖父様。つまり、一成さんのお父様。
「見知らぬ女性もいた。その女性と喧嘩をしていた。一方的に女性が罵っていたそうだが、そこで、成重くんはこんな言葉を聞いたそうだ。『火を点けて燃やしてやる』と」
「えっ」
重さんと二人で一瞬言葉を失ってしまった。
燃やしてやるって。
小路幸也
1961年北海道生まれ。「東京バンドワゴン」「花咲小路」シリーズのほか、『三兄弟の僕らは』『マイ・ディア・ポリスマン』など著作多数。