『火を点けて燃やしてやる』
アパートの一室にいたその女性が、重さんのお祖父様、一成さんに向かってそう言っていた。
それを、重さんのお父様、今はまだ中学生の成重さんが聞いていた。
「それは」
重さんが躊躇いながら訊いた。
「セイさんが、父から聞いた話なんですか?」
そう、と、セイさんが小さく顎を動かした。
「成重くんから、私が聞いた話だ。あの当時にね」
そう言って、お茶を一口飲んだ。
「火事の前日だから、既に私はイギリスに戻っていた。この間も言ったが戻ってきたのは火事の二日後だった。したがって、これから成重くんから聞いた話をするがそれに関しては事実かどうかは何も確かめようがなかった。が、成重くんはそんな嘘をつくような子供ではなかった。それは断言しよう。だから本当の話なのだ」
重さんも頷いた。
私は会ったことのない重さんのお父様。
「この成重くんの話を含めて、何が起こったかをこれから順を追って話そう。もちろん、火事に関しては後から志津や商店街の皆に聞いた話や、私自身が調べたことなども入っている。いいね?」
「はい」
二人で揃って返事した。
☆
成重くんは、その場で聞き取れたのはその言葉ぐらいだった。
あとはまた二人で何かを言い合っていたがよくはわからなかった。
怒っていたのは、女性の方だったようだ。
一成さんは、多少同じように怒気を含んだ声音だったようだが、ほとんどは女性をなだめるような感じだった、と成重くんは感じていた。
そして、思わず一枚写真を撮ったはいいが、何せ相手は、被写体はカメラマンである自分の父親だ。少し離れているとはいえ、シャッター音がしていると、遠くからでも聞き取ってしまうかもしれない。
見つかっては拙いと感じていた。
だから、それ以上写真は撮れなかった。そのまま、二人に見つからないようにして、そこを後にしたそうだ。
その後にどんな話し合いがあったのかなかったのか、そもそもどうして一成さんが、自分の父親があそこにいたのかも、何故言い合っていたのかも、成重くんにはまったくわからなかった。
そうだろうな。
何せまだ中学生だったのだ。父親の交友関係など、もちろん商店街の知っている人たちは除いて何も知らないだろう。
しかし、その古いアパートの存在はもちろん知っていた。
そこに住んでいるということは、きっと〈花咲小路商店街〉か、あるいはこの近くの店や会社で働いている女の人じゃないかと考えた。その頃は、商店街がある町内のアパートの住民はほぼそんな感じだったからね。
しかし、顔を思い出してみても、誰かはまったくわからなかった。
少なくとも、自分が知っている店で働いてる人ではないことだけは確かだった。
そして、写真の現像もできなかった。
そう、まだ当時の成重くんは、自分一人では現像ができなかったのだよ。ましてや、あんな写真を撮ってしまって、当の父親に現像してくれとは言えない。
家に戻ってきた一成さんに、変わったところはなかったそうだ。
いつも通りの父親だった。
それで、成重くんも安心した。
たぶん、ただの口喧嘩だったのだろうと。
ひょっとしたら浮気相手とかそういうのも考えたが、こんな近くに住んでいる人と浮気だなんて、さすがにそれはないのではないかと考えたと。まぁそもそも一成さんもそういう男ではなかったからね。
中学生だったのだからな。まぁそんな感じで思ったのだろう。
そして、翌日の夜だ。
あの火事が起きた。
最初に気づいたのは、誰かはわからない。
一一九番に通報が立て続けにあった。おそらくはほぼ全員が商店街の人間だったことだろう。あるいは近隣の住人だ。
時刻は夜の九時半過ぎだ。
正確には、最初の一一九番への通報時間は九時三十二分だった。そのときには既に火の手が上がっていたのだから、まさしく九時三十分に火が点いたのかもしれないね。
むろん、私が調べたのだよ。直接消防署に訊いてね。
何せ私は火事で家が全焼してしまった関係者だ。しかもかつての地主の婿養子で、帰化したとはいえ外国人だったのでね。いろいろ訊き回っても皆が気の毒がりながらきちんと答えてくれたよ。
知っての通り、死傷者はまったく出ていなかった。
まぁ避難の最中にどこかにぶつけたり転んだり、消火活動の最中に軽い火傷をしたり、そういうのは除いて、だ。
まだ夜の早い時間で、ほとんどの人間が起きていたのが幸いだったのだろう。
不幸中の幸いは他にもあって、その日の夜は風はそんなにも強くなかった。四丁目以外に類焼しなかったのはそれもあったし、そもそも〈花咲小路商店街〉そのものが大きな通りに挟まれた形で存在していたのも良かった。道路の向こうには、火がまったく届かなかったのだから。
妻の話だ。
志津は、私のいない家の中で読書をしていた。彼女は読書好きでね。夜はいつもそうやって本を読んでいたよ。
ふいに、何か変な臭いに気づいた。
明らかに何か異質な物が燃えているような臭い。火事ではないかと慌てて家中を回っている途中で、窓から見えた外に、妙な明るさがあるのに気づいた。
それで、家ではなく近くのどこかで火事だとわかった。
外に飛び出したときには、もう他にも気づいている人たちがいて、皆が騒いでいた。
燃えていたのは、四丁目のアーケードの天井だとすぐにわかった。
そうなのだよ。
ジュウくんは聞いていなかったのか。
そう、はっきりした火元はわからなかった、ということになっているが、それはどこかの建物が火元ではないことはわかっている、ということなのだ。
目撃証言や、後の火災現場の調査から、最初からアーケードが燃えていたのは明白だった。建物からアーケードに燃え移ったということではなかったのだよ。
しかし、そもそもアーケードそのものに火の気など、まったくない。
今は照明設備も付いているが、当時はまだなかった。したがって、電源周りの設備なども付いてはいない。
ただの屋根なのだ。
自然発火などという不可思議な現象が起きていないのならば、誰かがアーケードの上に登って、何らかの形で火を点けたということになる。
残念ながら消防署の検証においても、どうやって火を点けたのかは明らかにはならなかったが、強燃性の燃料、すなわちガソリンか何かを撒いてマッチやライターで火を点けた可能性は否定できないだろう、ということだった。
そう、はっきりはしていないのだ。
何故はっきりしなかったのかは、当時の検証技術の限界もあったのかもしれない。
ただ、ガソリンを撒いて火を点けたにしても、火の回りから見てそれがとてつもなく危険な作業であることはわかっていた。
だろうね。仮にガソリンをアーケードの屋根に撒いたとして、そこでマッチを擦った段階で一瞬で燃え広がるだろう。
マッチを擦った人間も、ただでは済まないであろうことは想像できる。
何せ、アーケードの上なのだ。飛び降りれば、まぁ相当な運動神経の持ち主でもない限り、どこか痛めたりすることは必至だろう。
だが、火事での死傷者は見つかっていない。
火を点けたとして、それが、誰だったのかはわかっていない。そもそも誰かがそうやって火を点けたかどうかもわかっていない。
むろん、勝手にガソリンか何かが撒かれて勝手に火が点くなどという不可思議な現象はあり得ないだろうから、誰かがやったのだろうがね。
高度な発火装置というものも、見つからなかったと消防署は言っているね。見つからないように燃えつきてしまうような発火装置を作っていたのならば別なのだが。
できるとも。
当時でもそれは可能だよ。当時どころかもっと前でも、現場検証で見つかることのない発火装置を作ることなどは、少しでも知識がありかつアイデアのある人間ならばわりと簡単なことだ。
要は見つかる前にしっかりと燃えつきてしまえばいいのだからね。燃えたものも、そこにあって然るべきもので作ればまったく疑われないだろう。たとえば、木材とかだね。
そう、アーケードの上に登る、というのもなかなか難しい作業だ。
面している住居や店舗の屋根から飛び移ることは比較的簡単だが、そのためには住居や店舗の屋根に登らなければならない。
四丁目の全員が、そんなことはなかったと証言している。少なくとも自分の店舗や住居で不審な物音などはしなかった、とね。
点検用の梯子はついていたが、そもそも夜の九時半だ。人っ子一人通らないという時間帯ではない。
そんな時間に、ガソリンを入れた容器を持って梯子を登っていこうなどとする人間がいるだろうか?
もちろん、目撃証言なども一切なかった。
結局、放火の可能性は非常に高いのだが、犯人も動機も手段も目的も何もかもわからないままになってしまっているのだよ。
皆が、必死になって避難、そして救助、消火活動を行っていた。
成重くんも、ホースを持って四丁目のアーケードや建物に水をかけるのをやっていたそうだ。
たぶんだが、当時商店街にいたほぼ全員がその活動を行っていた。
四丁目に住んでいた人たちが避難するのを助け、荷物を運んだり自分の住居に避難させたりしていた。
消防車は何台も駆けつけたが、木造の家が多かったし、何よりも火の回りが本当に速かったらしい。
アーケードはほぼ焼け落ち、ほとんどの店舗が類焼したし、しなかった家ももちろん水浸しになった。
結果として、四丁目のアーケードは再建不可能になり、四丁目の風景もがらりと変わってしまった。当時から商店街とはいえ、店の数自体は少ないところだったからね。
何もかもが新しくなり、ここで火事が起こったと誰もわからないぐらいに元通りになるまでには、一年か二年ほどかかったかな。
☆
そんな火事だったんだ。
セイさんの話で、ものすごくリアルに状況がわかってしまった。
「謎になってしまっているんですね。何もかも」
「そうだね。〈花咲小路商店街〉の唯一の大事件であり、大きな謎として残ってしまっているね」
「そこまで謎の部分が多いものだったとは思ってなかったというか、知らなかったですね」
重さんが、唸りながら言った。
「単純に、大きな火事が起こったんだとしか、僕らの世代は認識していなかったかな」
「若い人たちにしてみればそうだろうね。悪い意味ではなく、結果としては死傷者もない火事で、商店街としては火災保険などはきちんとしてあった。そして一丁目から三丁目まではまるで被害がなかったのだからね」
そうなのかもしれない。
「二日後に帰ってきた私は、文字通り焼け野原のようになっていた四丁目を見て、呆然としたよ」
「それは、わかります」
重さんが言った。
「写真がたくさん残っています。うちに」
そうだろう、と、セイさんが頷いた。
「撮っていたんですね?」
「まだ見せていなかったけれど、火がようやく治まった明け方の火事の現場の臨場感溢れる写真から、それから少しずつ工事が始まっていって、新しい四丁目が出来上がっていく様子の写真がね」
見てないけれど、それらの写真のすべてが眼に浮かぶようだった。
「本当にたくさん残っているんだ」
「彼らは、毎日のように撮っていたね。一成さんも、それから成重くんも」
「カメラマンとしては当たり前だと思っていたんですけど、ひょっとしたら二人とも、この火事についての何かしらの思いがあったんですね。今までの話からしても」
セイさんはもう一度大きく頷いた。
「むろん、記録という意味でもね。写真館の使命みたいなものも含めてだ。私も少し見せてもらったことがあるが、〈久坂寫眞館〉に残る〈花咲小路商店街〉を撮った写真を年代順に並べれば、もうそれだけで映画にしてもいいぐらいの、時代の移り変わりというものを堪能できることだろう」
私も、まだ少しだけど、商店街の様子を写した写真は見ている。
「その後、アーケードが再建されなかったのは、お店が少なくなったからですか?」
その通り、と、セイさんは言った。
「予算がなかったし、元々少なかった四丁目の店がほとんどなくなってしまった。総意の上で、再建はしないということになった。そこでは何も問題はなかったようだね」
問題はなかった。
「でも、ですか」
「火事から、正確に言うなら九ヶ月ほど経った日だ。矢車家の跡地に〈マンション矢車〉が完成していた。まったく見違えるようになってしまった景色の中、マンションの裏手の方に少年が一人いるのを私は見つけた。成重くんだった」
ちょうど、古いアパートがあった付近。
「そこも、矢車家の土地だったのだよ。何か普段と違う様子だったのでね。どうかしたのかと声を掛けた」
「それで、先程の話になるんですか」
うむ、と、セイさんは頷いた。
「アパートに住んでいた人たちはその後どうしたのか、という成重くんの問いから始まってね」
「どうしたんですか? 住んでいた人たちは」
「皆、その九ヶ月のうちに違うところへ引っ越していたはずだよ。土地は矢車家のものだったがアパート自体は矢車家とは関係のない人の持ち物だったからね。詳しくは把握していなかったが、そのアパートの持ち主からはそう聞いていた。なので、素直に成重くんにもそう教えてあげた。何か深刻なものを感じたので何かあったのかと訊いたら、話してくれたのだ」
セイさんに話したんだ。
「まだ私も若かった。しかも外国人だからね。何よりも〈矢車家〉の婿養子だったのだ。今はそんな肩書きは何の関係もないが、成重くん辺りの世代だと、親から聞かされる〈矢車家は元々はここの地主〉というのが一種偉い人、みたいな感覚が残っていたのだろうね」
「あぁ、そうかもしれません」
重さんも頷いた。
「さすがに僕はそんな感覚はないですけれど、親父たちからはよく聞かされていました。〈矢車さん〉はそもそも地主さんなんだからと」
「そうだろうね」
「そのときに、つまり火事から九ヶ月も経って、セイさんは話を聞いたんですね」
お茶を飲んでセイさんが続けた。
「何せ、大火事だったのだ。煙の臭いが完全に抜け切るまでにも何ヶ月も掛かっていた。皆が落ち着かなかったのだ。ましてや四丁目の住人たちは皆がバラバラになってしまっていた」
「親父も、誰にも話せずにいたんですね?」
「そういうことだ」
「お父様、お祖父様にも」
うむ、と、セイさんは頷いた。
「火事の前日に、『火を点けて燃やしてやる』という言葉を聞いたのだ。成重くんはずっと心穏やかではなかっただろう。ましてや放火の可能性ありという話だけで結局犯人も何もわからないまま、時が過ぎていたのだ」
「親父は、祖父ちゃんにも訊けなかった」
セイさんは頷いた。
「そうだ。さもあらんと思ったよ」
もしも私が同じ立場になってしまったら、怖くて訊けないと思う。
「しかしだね。火事の後に私はたくさんの商店街の人たちと会って話をしていた。何せ全焼してしまった矢車家の婿養子だからね。一成さんとも何度もいろんな話をしたが、おかしな様子は何もなかったのだよ」
「火事を気にしていたとか、落ち込んでいたとか、ですね?」
重さんが訊いた。
「その通り。それまでにも何度か会っていた一成さんのままだった。何よりも、もしも、一成さんがその謎の女性と会っていて『火を点けて燃やしてやる』などという言葉を本当に聞いていたのなら、心中穏やかではなかっただろうし、警察や消防に話していたはずだ」
「そうですよね?」
ずっとそれを考えていた。
「そんな話はなかったんですね?」
「なかったよ。私は成重くんから話を聞く前に、九ヶ月も経つ前に実に色んな人と話をしたし、警察や消防とも話をしたが、そんな話の欠けらもなかった」
しかし、ってセイさんが続けた。
「成重くんが嘘を言っているとは思えなかったし、『火を点けて燃やしてやる』という言葉を何かの言葉と聞き間違えるとも思えない。そこで、調べてみることにしたのだよ」
「その女性が誰か、ですね?」
重さんが言った。
「その通り。まずは一成さんには内緒で、だ」
「どうだったんですか?」
「結論から言うと、わからなかった」
セイさんが顔を顰めた。
「わからなかった?」
「位置関係を確かめた。その古アパートもそして〈矢車家〉ももう既になくなってしまった建物だったが、成重くんの話から考えて、部屋の位置を割り出し、そしてそのアパート、あぁ、名前は〈葛城荘〉という名前だったのだ。大家さんが葛城さんでね。その葛城さんに、改めてそれとなくアパートの住民は皆無事で暮らしているのかと確かめてみた」
ひとつ、溜息をついた。
「その部屋は、空き部屋だったのだ」
「空き部屋」
誰も住んでいなかった。
「ちなみに〈葛城荘〉に住んでいた人たちは皆が無事で過ごしていたよ。そこは安心したが、振り出しに戻ってしまった。となれば、成重くんが撮ったという写真はどうだ、と思った」
「そうですよね。写真を撮っているんですよね」
「それも、駄目だった」
「ダメとは?」
「成重くんは、火事の最中、大人に交じって消火活動や避難の手伝いをしているときにもそのカメラを肩から提げていた。何か写真を撮ろうと思っていたのだね。しかし、気づくとどこかにぶつけたのかどうかしたのか、蓋が少し開いていた」
あぁ、と、思わず重さんと二人で声を出してしまった。
「フィルムが感光してしまったんですね?」
「その通り。預かって私の方でこっそりと現像してみた。確かに見覚えのある〈葛城荘〉の窓の様子が写ってはいたが、とても誰と判断できるようなものではなかった」
「また振り出しですか」
「そう思ったのだが、窓の桟に掛かっている指ははっきりと写っていた」
「指?」
「指?」
また同時に声をあげてしまった。何かセイさんの話を聞いているとこうやって同時に声を出してしまうことが多いような気がする。
「女性の指だった。それは確かだ。すなわち、成重くんは嘘をついていないという証拠だった。そして、その指に指輪があった」
指輪。
「特徴のある指輪だったんですね?」
「はっきりとはしなかったが、おそらくはアンティークのシルバーリング。それもたぶんシルバースプーンを加工したものらしかった」
「銀製のスプーンを、ですか」
うむ、って感じでセイさんが頷いた。美術品なら、まさしく〈怪盗セイント〉の独壇場だ。
「今でこそスプーンを加工してシルバーリングにするものは珍しくもないが、当時はまだそんなにもなかったのだよ。これはしらみつぶしに捜していけば、どこかでこの指輪を売った人間か、作った人間に当たるのではないかと確信した」
そうして、セイさんは捜したんだ。
「見つかったんですよね?」
セイさんは、唇を歪めた。
「かなり苦労はしたがね。時間も掛かってしまった。何せ私もまだ日本で結婚して住み始めたばかりだ。新婚さんでもあり、かつ、焼けた家をマンションにしたばかりだった。マンションの管理人としての立場もあったからね」
「誰だったのですか?」
重さんが言った。
「ジュウくんは、かつて〈花咲小路商店街〉の四丁目にあった長屋の話を聞いたことはないかね?」
「長屋?」
重さんが首を傾げた。
「ないですね。長屋って、人が住む長屋ですか?」
「長屋と呼ばれていたが、むしろ横丁と呼んだ方がしっくり来るだろう。かつて四丁目には飲み屋街があったと言ったね?」
言いました。
「それは、〈矢車家〉のすぐ隣に入口があったのだよ。〈花咲長屋〉という看板も掛かっていた」
「〈花咲長屋〉」
「飲み屋街ですね? 狭い道の両側に小さな店が並んでいるような」
「そうだ。合計で八つの店があった。スナックに、居酒屋に、ラーメン屋、それからバー、当時はまだカラオケは少なかったがね。歌声スナックのような店。とにかく小さな店がひしめいていた。そこに〈スナック美酒〉という店があった」
スナックびしゅ。
「びしゅは、美しい酒、ですか」
「そうだ。ママの名前から取った店名だ。ママの名前は酒井美礼。美しい礼と書いて〈みれい〉という名前だ」
良い名前。何というか、スナックのママって言われたら大きく頷いてしまうぐらい雰囲気のある名前だ。
「当時で、三十八歳だと聞いた。この美礼さんは、その〈花咲長屋〉のリーダーとして存在していた」
「リーダー」
「主、という話も聞いたね。もちろん私もそこでは新参者だったからまったく詳しくはなかった。全部聞いた話だ」
「その人が、そのシルバーリングの持ち主だったんですか?」
「おそらく。推定でしかないのだが、そうだろうと思って差し支えないところに至った。しかし」
顔を顰めた。
「彼女は、行方不明になっていた」
「行方不明?」
残念ながら、ってセイさんは続けた。
「〈花咲長屋〉は全部の店が燃えてしまって、再建は不可能になっていた。そもそも土地も矢車家のものだった。店を経営していた人たちはバラバラになってしまっていた。私は丹念に彼らを捜して訪ね歩いてみたのだが、違う場所で店をやったり引退したりしていた。しかし、その中で、リーダーと言われていた彼女だけが、酒井美礼さんだけが行方不明だった」
「え、でも」
火事では。
「死傷者はいなかったという結論になっていましたよね?」
「その通り。死傷者はいなかった。彼女にも火事直後は連絡が取れたし、そもそも店はあったものの、近くに住んではいなかったからね」
近くに住んではいなかった。
「じゃあ、火事からしばらく経って、どこにいるかもわからなくなっていたってことですか」
「そういうことだ。そしてだね。これが非常に私も驚いたことだったんだが、何故彼女がまだ三十八と充分に若い女性だったのに、そこのリーダーや主と呼ばれていたのかと言えば」
言葉を切った。
思わず乗り出してしまった。
「何でですか?」
「彼女は、私の妻である矢車志津の腹違いの姉妹であるという噂があったのだ」
「えっ!?」
腹違いの、姉妹?
小路幸也
1961年北海道生まれ。「東京バンドワゴン」「花咲小路」シリーズのほか、『三兄弟の僕らは』『マイ・ディア・ポリスマン』など著作多数。