志津さんの腹違いの姉妹?
それはつまり。
「志津さんのお父様、セイさんの義理のお父様になられた方が、奥様以外の女性と浮気して作った子供ってことですか?」
ひょっとしたら人生で初めてこんな人前では言い難い言葉を喋ったかもしれない。二度とないことを祈るけど。
うむ、ってセイさんは頷いた。
「そうなのだが、実は、本当のところはわからないのだよ」
「わからないとは」
「あくまでも、噂だったのだ」
噂。
「私がそれを聞いたのも、酒の上の話でね」
「酒の上の話」
まるで信用できない話のひとつですね。
「じゃあ、そのときには確認しなかった、もしくはできなかったということですか?」
重さんが訊いた。
「しなかったね。単なる酒の上の話で、しかも根拠になるものは、志津と美礼さんがそれこそ姉妹のようによく似ているから、というものでしかなかった」
「似ていたんですか」
志津さんは確かにこの時代にしては個性的な顔立ちだった。お父様がイギリス人なんだからだろうけど。
美礼さんもそんなふうに個性的な顔立ちを。
「セイさんはその美礼さんにはお会いしたことはあるんですか?」
「直接会ったことも話したこともなかった。しかし何度か見かけたことはあってね。外国人の血が入っていると言われればそうかなと頷けるような顔立ちではあったね。志津と姉妹だと言われても、なるほど確かに似ているかもしれない、と。だが、日本人離れした個性的な顔立ちの人もいるし、他人の空似というのもよくある話だ」
「そうですよね」
私の友達にだっている。先祖をどう遡っても日本人なのに、素でめっちゃアン・ハサウェイに似ている静江ちゃん。
「もちろん、志津さんにも訊いていないんですね?」
「いや、訊いたよ」
「訊いたんですか」
「そういう話を耳にしたんだが、とね。志津は苦笑していた。『小さい頃からずっと似ているって言われているんだ』と。でも単純に親戚っていうだけなのよ、とね」
「親戚なんですか」
年齢でいうと、美礼さんが二つ上だってセイさんは続けた。
「遠い親戚の子供で、早くに両親を亡くしてしまったらしいね。それもあって当時は裕福でもあった〈矢車家〉で金銭的な面倒を見ていたらしい。それも噂の種のひとつになったらしいし、小さい頃は〈矢車家〉で過ごしていたことがあったとか」
そういう状況か。
「親戚なら、まぁ似ていても不思議ではない、ということですね」
「親戚だから似ているということもあまりないだろうが、少なくとも親戚ならば似ていてもおかしくはないか、と皆が思うだろう」
「じゃあ、小さい頃は一緒に暮らしていたっていうことは、奥様、志津さんと美礼さんはそれなりに」
そうだね、ってセイさんは言った。
「仲が良かったようだね。長じて家を離れてからはあまり行き来はなかったらしいが、紆余曲折があって、その辺の話も私はまるで聞いていないのだが、〈花咲長屋〉に店を出してからは普通に親戚としての付き合いはあったと言っていた」
そういう関係で、〈矢車家〉の目と鼻の先で飲み屋を開くというのはけっこうな人生いろいろがあったとは思うんだけど。
「その美礼さんのお店も、ひょっとしたら〈矢車家〉がお金を出したとかでしょうか」
重さんが言った。
「確かめてはいない。だが、そういう話になっているようだったね。あくまでも私も噂話でしか聞いていない。何せその当時は、つまり火事になる前ということだが、さほど重要なことでもないと思っていたのだ。酒の上でそんな話が出ても、妻本人が苦笑いで否定しているのだ。追及などしなかったし、私が訊くようなことでもないと思っていたね」
そうでしょうね、って重さんと二人で頷いてしまった。
親戚関係で何か問題があったり起こったりしたのなら、いろいろ訊いたり話したりするだろうけど、その当時は何も起こってはいなかったんだろうから。
「志津さんのお父さん、セイさんの義理のお父さんという方はどういう人だったんですか? 僕はその代の話はまったく知らないんですけど」
そうだろうねって、セイさんも頷いた。
「まず、志津の母親は矢車見里という女性だ。美しい人だったよ。そしてその夫が、私と同じように日本人になった、イギリス人のポールだ」
「ポールさん」
割とわかりやすい名前だったんですね。
「そのまま漢字を当てて、歩くに雄雌の雄、そして流れると書いて、ポールだね。元々の名前はポール・ムーアさんだ」
「セイさんのお父さんのご友人って前に言っていましたね」
「そうだね。軍人だよ。細かい経歴とか何故日本に来て入り婿になったかは、まぁ情報過多になってしまうからこの場ではいいだろう。とにかく日本にやってきて見里さんと恋に落ち、この国に骨をうずめる覚悟をした男性だ」
セイさんと同じように。
「ポールさんは、自分に対するその噂を知っていたんですかね」
「直接訊いたことはないが、知っていただろうね。そして義父が浮気をするような男だったのか、と問われれば」
苦笑いみたいな表情をセイさんはした。
「こう言うと怒られてしまうかもしれないが、果たして世の男性が浮気など絶対にするはずがない、と断言できる根拠がどこにあるだろうか? とね」
まぁ、そうですよね、と頷くしかないかも。
重さんも、顔を顰めながらも頷いている。
「しかし、少なくとも私が知っている義父は、妻である見里さんを愛し、そして家族を愛する善良で誠実な男性だったと思う。それは断言できる」
「妻以外の女性に眼を向けないかどうかはともかく、ですね」
「その通り」
それでも、そういう噂はあったという事実があるんだ。
「じゃあ、少なくともって言うか可能性と言うか、その美礼さんには、本当かどうかはわからないけれども」
「そうだね」
セイさんが小さく息を吐いた。
「火を点ける、などというとんでもないことをしでかすような要因が、ひょっとしたらあったかもしれないのだ。あくまでも彼女が、美礼さんが本当に腹違いの姉であるのならばね」
「何か、その出生にまつわる恨みとか、何かそういうものを抱えていたかもしれない、ですね」
うむ、ってセイさんは頷く。
「じゃあ、当時もそう考えて、セイさんはその美礼さんを捜したんですね?」
「捜したとも。少なくともあの部屋で話していた女性は美礼さんの可能性が多いにあるのだ。しかし、もうわかっているだろうが、結局、あの当時に彼女は見つけられなかった」
「セイさんにもですか」
〈怪盗セイント〉にも。
「私は人捜しのプロではないからね」
それは、そうかって思わず頷いてしまった。あくまでもセイさんは〈怪盗〉なんだ。決して探偵とかじゃない。
「しかも、この時代だ」
セイさんが腕を広げた。
「どこかに自分の意志で行ってしまった人を捜すのは、文字通り砂浜に落とした針を探すようなものだ。私たちのいる時代の十倍も百倍も難しい時代だよ。余程の強運に恵まれなければ」
「そうですよね」
まだネットもスマホもパソコンすらないし、いろんなSNS、TwitterもFacebookもないんだ。
「警察が公開捜査でもしない限り、無理ですよね」
「何年も、捜してみたのだがね」
結局、美礼さんは見つからず。
そして何十年も経ったんだ。
火事の謎を残して。
「なるほど」
重さんは、少し首を傾けた。
「大きな謎を残したままの火事のことはわかりました。そして美礼さんという、ひょっとしたらセイさんの奥さんの腹違いのお姉さんが、何らかに関係していたのかもしれない可能性はなきにしもあらずってことも」
そう言って、手のひらを広げた。
「それで、何故、セイさんはこの時代に呼ばれたんでしょうか? 古い映画のセリフじゃないですけど、歴史はセイさんに何をさせようとしているんでしょう? 何を解決すればいいんでしょうか?」
私も、疑問に思った。
重さんが少し考えてから続けた。
「仮に、その酒井美礼さんが火事の犯人だと仮定しても、火事の前から捕まえておいたとしても、もしも本当に犯人なら火事自体がなくなってしまいます。火事にはならないですみますけど、そうしたら、この町の歴史がものすごく変わってしまいますよね?」
〈マンション矢車〉もなくなってしまうかもしれない。違う理由で建てることになるかもしれないけど。
「セイさんが言っていたように、火事を防ぐことはしない、って決めたからには火事は起こってしまうんです。美礼さんが犯人かどうかは別にして」
「その通りだね」
「すると、この時代にやってきた僕たちが美礼さんを見つけることにはまったく意味はなくなってしまうんです。それが目的だとしたら、ですけど」
「じゃあ」
今、思いついたことだけど言ってみた。
「火事の謎、でしょうか? 結局火事の謎だけが現在も残ってしまったんです。そして、その謎の一端を、美礼さんを通して、セイさんと〈久坂寫眞館〉は共有しているんです。だから、タイムトラベルしてしまったんだって考えたら」
「でも樹里さん、仮にだよ? その火事の謎を僕らが解き明かしたとしても、僕らの住む現在の世界には何の影響もないと思うんだけど」
「そうか」
「そうなんだよ。今現在、僕たちが生きている世界に、火事の謎は、〈久坂寫眞館〉に何の影響も与えていない。仮に僕の知らないところで与えていたとしても、ひょっとしたらその影響を受けたかもしれない、祖父ちゃんも祖母ちゃんも、そして父さんも、既にこの世にはいないんだ。謎を解決してもそれを報告する人はいない」
そうか。
「火事の謎を解決しても、それはセイさんが知るっていうだけで、他に教えるべき人もいないんですよね」
セイさんの奥さんである志津さんも、もちろん志津さんのお父様、お母様もとっくにこの世にはいない人になっている。
何のために?
「一人、忘れているね」
セイさんが言った。
「一人?」
「可能性としての話だが、謎を解決したら教えるべき人は、もう一人いるかもしれないでのはないかな?」
「あ」
重さんが口を開けた。
「そうか、美礼さんか」
美礼さん!
「もしもご存命なら、セイさんと同じぐらい」
「その通りだ。正確に言えば八十二歳になられているはずだ。そしてその年齢でもお元気なお年寄りはこの世に大勢いる」
「そうですよね」
セイさんみたいに。
「もしも、だ。美礼さんがまだ私のようにお元気で、そして何らかの計り知れない理由と動機によって、私たちが暮らす現在の〈花咲小路商店街〉に現れ、火事にまつわる何らかの問題を持ち込んできたとしたら、それを解決できるのは?」
「私たちですか!」
セイさんが、唇を引き締めてから言った。
「私が、火事が起こる前にここにやってきたのは、しかもこの時代には存在しない君たち二人と一緒に来たのは、その問題に対処するための手段を得るためにやってきたとしか思えないのだよ」
手段を得る。
私たち二人と。
「だとしたら、そうですよね」
重さんが大きく頷いた。
「セイさんが一人で来ても、無理というかダメなんだ。セイさんが、この時代のセイさんに会ってしまったら、何が起こるかわからない。事実上、セイさんが表立ってこの世界で動き回って調べたり誰かに会ったりは、まったくできないんですよね」
「何せ、全員が〈花咲小路商店街〉の人ばかりですものね。でも、私たち二人なら」
セイさんもその通りって大きく頷いた。
「君たちならば、この時代で仮に顔を覚えられたとしても、四十四年後に再び会ったとしてもそれが同一人物だなどと思うはずがない。思うはずもないどころか、出会った人々はほとんどが鬼籍に入っているであろうな。まだ若い人たちを除いては」
その若い人たちだって、言い方は悪いけどもうすっかりお年寄りになってしまっているんだから。
私たちが、セイさんの代わりに火事の謎を解く。手段を得る。
そうか。
「写真を撮るんですね!」
「その通りだ」
「僕たちが写真を撮る。この火事の謎を解き、そして現場や関係者全員の記録を撮っていく。それで、たとえば彼らには何の落ち度もないっていう証拠を積み重ねていく。その写真を、〈久坂寫眞館〉に残しておくんだ」
「そうすることによって、今の〈久坂寫眞館〉が守られるのではないか。ひいては、〈花咲小路商店街〉全部が、だ」
一体どんな問題が立ち上がってくるのかは、まだまったくわからないけれども。
「私たちは求められてここに来たのだ。何かを修復するために。ならばその役目を果たすまでだ」
重さんと二人で顔を見合わせた。
「撮りましょう。写真をバンバン撮りまくりましょう」
「うん」
「写真はもちろん、片っ端から現像していくんですね?」
「そのためにここに暗室を作ったのだからね。きちんと撮った年月日もその写真の裏にでも書いていこう」
そして、その写真は全部〈久坂寫眞館〉に残していくんだ。
「僕の家に忍び込んで、写真を整理するのは」
「むろん、私の役目だな。写真を整理してあるアルバムなりファイルなりの在りかは当然わかっているね?」
わかってます、って重さんが言う。
「全部、スタジオに置いてあります」
「ならば夜中に忍び込むのは簡単過ぎるほどだ。私が一緒にいれば君たちも忍び込むのは造作もないし、誰にも知られる心配はない」
「あ、でも」
いくらなんでも、自分で整理していない、ましてや撮っていない写真がこの時代に見つかってしまったら。
「重さんのお父様やお祖父様が不審がりませんか?」
「隠しておけばいいんだよ」
重さんが言った。
「スタジオに隠しておく場所はいくらでもあるよ」
「隠すという手もあるが、無理して隠し場所を作らなくてもいいのだよ。たとえば、今でもキャビネットはあるね? アルバムなどを整理してある」
「あります」
セイさんはニヤッと笑った。
「そのキャビネットの裏などに落ちてしまって気づかないものは、けっこうあるのではないかな?」
ポン、と、重さんが手を打った。
「あります。どうしてこんなところに落ちていたんだってものが出てきたりしていました」
「そういうものだ。そこから、そうだな、十枚分ぐらいの未整理の写真ファイルが出てきたところで、誰も変には思わない。キャビネットの裏など、下手したら何十年も掃除しないだろう」
「しませんね。実際していませんよ」
「現代に戻った私たちが見つければ、今も生きるお母様も納得できますね!」
そうだね、って重さんが頷いた。
「君たちは既にカメラマンとカメラマン助手として、志津に会っている。再び現れて、この辺りの写真を撮っていても、予めまた志津に会って家や周囲の写真を撮らせてほしいと話しておけば、不審には思われないだろう。名前は何だったかな?」
「朝倉と助手の篠塚です」
重さんは、朝倉敬治、私は篠塚吉子。
「その名前でそのまま活動できる」
確かに。
作戦を練った。
何よりもまず、火事になる前に重要人物の可能性がある、〈スナック美酒〉の酒井美礼さんと親しくなること。
写真を撮れるぐらいに。
「知り合いになるのは比較的簡単ですよね。お店にお客さんとして飲みに行けばいいんだから」
重さんが言った。
「そうだろう。その前にまた〈矢車家〉を訪れて、改めて家の写真を撮り志津とも親しくなることだ。その中で、個人的なライフワークとして街の写真を撮っていることを知ってもらう。それもいわゆる飲み屋街をね」
「それで、今回は〈矢車家〉も撮るけれど、一緒に〈花咲長屋〉も撮りたいと、志津さんにお願いするんですね」
「そうだ。それなら〈スナック美酒〉の美礼さんの店にまず行くといい、と志津は言うだろう。そして自分の方から連絡しておくから、早速店に行けばいい、とね。ひょっとしたら一緒に行こうと言うかもしれない」
一緒にですか。
「そんなにアグレッシブな方ですか志津さんは」
出会ったばかりのカメラマンと一緒に飲みに行くなんて。
「賑やかなことが好きだし、ジュリさんが一緒であればまったく問題ないと思うだろう。志津はまったくの下戸であるから酒は飲まないし、〈矢車家〉の娘だ。皆がお嬢様が店に来たと歓迎してくれるし、喜んでくれる」
お嬢様。確かにそうかも。あんな家に住んでいる地主なんだから。
「じゃあ、志津さんは〈スナック美酒〉にもときどき行っていたんですか? 飲まないまでも」
もちろんってセイさんが頷いた。
「たまにだがね。その他の店にも顔を出したりしていた。そもそもが土地を貸している大家みたいなものだから、お店にお金を落とすことも必要なことなのだ。義父や義母も顔を出していたよ」
もちろん私もね、ってセイさんが少し笑った。
「火事になって〈花咲長屋〉が失われたときには、淋しく思ったよ。もうあのような賑やかな夜を過ごすことはできないのかと」
わかるような気がする。常連になった居心地の良いお店って本当に大切な空間になるんだ。
「その中で、美礼さんのプライベートまで知ることができればいいんですよね。噂はまったくでたらめなのか、それともどこかに真実があるのか」
「そうなのだよ。そこが肝心だ」
セイさんが少し顔を顰めた。
「ただ〈矢車家〉の皆や美礼さんや〈花咲長屋〉の皆の写真を撮ればいいわけではない。もちろんそれは重要だが、果たして美礼さんと〈矢車家〉の間に隠された真実があるのであれば、そこには今までまったく話に出てこなかった、私も知らないであろう人物が浮かび上がってくるはずなのだ」
そういうことだと思う。
「たとえば、本当に腹違いの姉妹であるのなら、美礼さんを産んだ女性。つまりポールさんと関係を持った女性」
「そうだ。その女性の写真を撮らなければ、その女性が一体誰なのかを掴まなければならない」
美礼さんの母親は誰なのか。
「心当たりは、セイさんはないんですよね? 思い当たる人なんて」
まったくないのだよって顔を顰めた。
「当時の〈花咲小路商店街〉は、今よりも多くの人がいたはずだ。いろんな人がいた。その中に候補者はいるのかもしれないが、見当もつかない。話を聞き出すしかないのだよ。美礼さんから」
「もしくは、ポールさんですか。あくまでも、美礼さんがポールさんの娘だと仮定するなら、ですけど」
「そうなるね」
「すごく、難しそうですよね」
「難しいなー」
重さんが少し考え込んだ。
「とりあえず美礼さんと知り合いになった後は、女性は、つまり志津さんと美礼さん、それに見里さんの写真や、そこにある事実を探るのは、樹里さんに任せた方がいいですよね。男は、ポールさんやあるいは長屋の男主人たちは僕の方が親しくなって」
「そうですよね」
女は女同士。
男は男同士。
「ポールさんは酒を飲むんですよね」
「飲むとも。ポールとはすぐに親しくなれるだろう。イギリスにも詳しくなっておいた方がいい。たとえばイギリスに写真を撮りに行ったことがある、と」
それはいいかも。
「もちろん、その辺の話のポイントは、これからセイさんが教えてくれるんですね?」
「無論だ。ポールの出身地の話題など、私が覚えている範囲で教えられる部分は全て教えておこう。それにつけても、いちばん理想的なのは、君たち二人が火事になるまで〈矢車家〉に泊まっていけることなんだが」
泊まる。
「確かにそうですよね。写真を撮りまくるんだからその方が絶対にいい」
重さんもその通りって感じで指を鳴らした。
「でも、あれですよね。私たちは東京から来ていることになっているから、当然自分たちの住居は東京っていう流れですよね。ここまで電車で一時間ぐらいなのはこの時代もそんなに変わらないだろうから」
それで泊まるというのは。
「どうやってそこに持ち込めばいいでしょうか」
セイさんはちょっと考えた。
「やってみてもいいと思う方法がひとつあるのだ」
「何でしょう」
私たち二人を見つめて、セイさんが微笑んだ。
「君たちは、一緒に住んでいる恋人同士ということにしよう」
恋人同士。
「まぁ確かに一緒に住んでいますから、言葉の端に嘘が交じることはないですけれど」
「そうですね」
二人でいることに馴染んではいるから、きっと違和感はないと思うけど。
「その辺の話は志津とはまったくしていなかっただろうね?」
ちょっと二人して考えたけど。
「していませんよね?」
「してないね。プライベートな話は一切」
「ならばちょうどいい。恋人同士で一緒に住んでいて、同じフォトグラファーだ。どこで出会ったとか、どういうふうにつき合い始めたなどの話は、きちんと設定しよう。無理のないように」
二人して考え込んでしまった。
「七歳の年齢差があるから、僕が働いていた写真スタジオに、樹里さんが新人で入ってきたという、現実に似ている設定が無難かな?」
「それはいいね。東京のどこかのスタジオに設定しておけばいいだろう」
「すぐに仲良くなって、恋人同士になって、重さんの住んでいるところに私が転がり込んだって感じでしょうか。今とほぼ同じ状況で」
ピッタリだってセイさんも頷いた。
「他の細かいところは後で詰めよう。それで、君たちは出版社と契約はしているが、あくまでも仕事がある期間の契約で、しばらくの間は仕事がないので、旅をしながら町の写真を撮ろうとしていると」
「旅」
「車だね。車での旅だ」
車で写真を撮るだけの旅。
「いいですね。本当にやってみたい」
フォトグラファーなら一度はやってみたいことのひとつだと思う。
「したがって、二人で住んでいたところは一度引き払ってきたということにして、フリーな立場で車に荷物を積み込んで〈矢車家〉を訪ねるのだ。これから旅に出るのだ、とね。もちろんスケジュールなどあってないような自由な旅に」
なるほど、って感じで重さんが頷いた。
「その話をしたら、志津さんは『今晩泊まるところはどうするんですか?』などと訊いてくるんですね?」
「そうだ」
「特に決めていないし、何だったら車の中で寝るとでも言えば、それならばここを撮る間、うちに泊まっていきなさい、って志津さんは提案してくれそうなんですね?」
セイさんがにっこり笑った。
「そう上手く行くかどうかは保証できないが、おそらくは、いや間違いなくそう言ってくれるはずだ」
何ていい人なんだろう志津さん。
「車もこれから手配できるんですか?」
「さすがに正規の手段では難しい。何せ君たち二人はこの時代にはいない人間だからね。免許証だって、有効ではない」
「ですね」
免許証出したら偽物だって言われてしまうから。
「車を運転するときには絶対に捕まらないようにしなきゃならないですね」
「そうだな。そして、肝心の車だが、この時代であっても、免許証や身分証明もなしに買うことはさすがに不可能だ」
「じゃあ」
重さんがちょっと頭を前に出した。
「〈怪盗セイント〉の」
セイさんが少し唇を歪めた。
「縁もゆかりもない方々に迷惑を掛けるのは不本意なのだが、迷惑を最小限に留めるような形でどこかから車を融通してくるしかないだろうな。決して盗難にあったなどと警察に届けられないような車を」
そんな車があるんだろうか。
「心当たりはあるんですか? そんな車に」
「蛇の道はヘビだよジュリさん。警察に目をつけられずにかつ不当な手段で車を手に入れることに長けているような連中はいつの世にもどこの国にもいるものだよ」
重さんが、わかった、って感じで頷いた。
「ヤのつく方々のところですか」
ヤ。そうか。
「そういうことだね。文字通り、足のつかない車だよ」
小路幸也
1961年北海道生まれ。「東京バンドワゴン」「花咲小路」シリーズのほか、『三兄弟の僕らは』『マイ・ディア・ポリスマン』など著作多数。