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第5回

思いを込められたものを継ぐ

5 思いを込められたものを継ぐ

 四丁目にあるセイさんの〈マンション矢車〉に住んでいる篠原郁子さん。どんな人かっていうのは、きっとセイさんなら把握しているはず。
「あそこは分譲だから、きっとほとんどの人が、長い付き合いの人ばかりよね?」
 千弥さんが訊くので頷いた。
「そのはずです。私の同級生もいますから」
 こずえちゃん。私もすばるちゃんも同級生だからよく知ってる。お父さんは離婚しちゃって離れ離れだけど、お母さんとあのマンションでずっと暮らしているから、ひょっとしたら篠原郁子さんのことも知ってるかも。
「今、行ってこようか? ボク」
「あ、でもセイさん、散歩から帰ってくる頃じゃないですかね?」
 ちょっと待ってくださいって、パッと外に出てみた。
 セイさんの散歩はいっつも同じ時間ってわけじゃないけれど、これぐらいの時間にも歩いていることはよくあるから。
(いた!)
 ナイスタイミング!
 ちょうど〈海の将軍〉のすぐ横を通り過ぎようとしている、スーツを着たセイさんの後ろ姿。マンションに帰ろうとしているところだったんだ。
 走っちゃった。
「セイさん!」
 振り返ったセイさんの青い眼が私を見て、微笑んでくれた。
「ルカちゃん。どうしたね?」
「すみません。ちょっとお訊きしたいことが」

 申し訳ないけど〈おもちゃのチヤチエチャ〉までちょっと来てもらって、〈マンション矢車〉の篠原郁子さんが持ち込んできたマグカップの修理について説明した。
 智依さんが、このマグカップを郁子さんが大事に大事にしてきたという話にどうしても違和感を感じるというのも。そして旦那さんに内緒で直すというのも。
 何か犯罪とか事故とか、そういう困ったものではない依頼というのを確認したいのだけど、郁子さんはどんな人なのかって。
 セイさんが、うむ、って感じで頷いた。
「なるほど」
 そういうことかね、って。そしてマグカップの破片にそっと手を伸ばして、取り上げてじっと見つめた。 
「随分と派手に割れてしまったようだ。かなり以前の話だが、篠原さんのお宅にお邪魔したことはある。確かにキッチンの床に大理石のボードを敷いていたように記憶しているね」
「そうなんですね」
 本人もそう言っていましたよね。
「したがって、落として割ってしまったという部分に関しては間違いないだろうね。陶器を大理石の床に落とすと、まさしくこんな感じに割れてしまう」
「篠原さんは、ご主人と二人暮らしなんですか?」
 千弥さんが訊いた。
「そうだね。お子さんは、お嬢さんが一人いた。お名前は麻弥さんだったかな? もう既に成人して家を出て、確かご結婚もしたはずだ。夫婦二人暮らしになって、何年経ったかな。まだ十年も経っていないと思ったが」
 マグカップを割ったので金継ぎか、ってセイさんが呟いた。
「確かにこのマグカップを見るに、女性が使うより、男性が使っていた方が似合う、また男性が好む色合いのマグカップではあるだろうね。智依さんが、郁子さんが若い頃に買ってずっと使っていたものなんだ、という話に違和感を感じたというのも、わかる」
 仮に、ってセイさんが続けた。
「自分のではなく、ご主人の篠原弘一さんのマグカップだったとしよう。そう言われたら素直にあぁそうかと頷ける代物だ。誤って割ってしまったので、内緒で修理しようとしている? しかし、篠原夫妻の仲が悪いとかは私は聞いたことがない。むしろ仲の良いご夫婦のはずだ。それなのにたかがマグカップの修理を内緒にするというのは」
「ちょっと、どうしてかな、って思っちゃいますよね」
 千弥さんが言うと、セイさんも頷いた。
「独身の頃に買ってずっと大切にしていた、というエピソードが、実はご主人のものだった、という可能性もある。しかしそれも内緒にしたところで、どうせ日常で使うのなら割れたことはすぐにバレてしまうだろう」
「よく知っているんですか? セイさんは篠原さんを」
 桔平さんが訊いた。
「大家だからね。とはいえ、日常的によく会って話をするなどの接点はないので、一通りのことは知っているという程度の知人かな。それでも、郁子さんがマグカップを割ってしまったぐらいでそんなにお金を掛けて修理する、というのは確かに不思議に思う」
「そうなんです」
 セイさんが右手の平で顎を包むようにして考えた。
「郁子さんは、独身の頃に煙草を吸っていた、と」
「そう言ってました。この染みはその頃の煙草のヤニかもしれないって」
 セイさんの唇が歪んだ。
「篠原夫妻がマンションを購入して引っ越してきた頃からもちろん知っているが、その時点で二人が喫煙者ではなかったのは、そして今も喫煙者じゃないのは間違いない。さすがに二人が独身の頃のことまでは把握はしていないのだがね」
 大きな欠片を手にして、セイさんはじっくりと見てる。
「黒色の大きめのマグカップ、か。日頃からコーヒーをたっぷり飲む人ならばさぞかし使うだろうが、郁子さんがコーヒーを好んで飲んでいるという話は、知らない。温かい飲み物ならお茶か紅茶か、だったはずだね。まぁコーヒー以外の飲み物に、たとえばホットミルクとかカップスープなどに使っていたのかもしれないが、何よりも似合わない」
 確かに、って智依さんを見た。
「智依さんのその感覚には同意だ。きっと郁子さんは、この破損したマグカップに関しては何かを隠しているのだろう。しかし、私にはそれ以上のことはわからないね。どうするかね? 私が直接篠原さん夫妻に確認してみること自体は何でもない。二人とも善き人だよ。訊けばなんてことないことかもしれないのだが、それでは角が立つというか、商売のやり方としても多少拙いものになってしまうだろう」
「そうですね」
 千弥さんが頷いた。
「とりあえず、篠原郁子さんが〈マンション矢車〉の住人で、セイさんもご存じのちゃんとした方だというのは確認できましたので。やはりこちらで修繕方法をきちんと提示するというふうに進めます」
 うん、ってセイさんも言う。
「疑問点は多々あるが、まずはそうするのがいちばんだろう。この先に何か新事実がわかって、その段階で私が何か力になれることがあったのならいつでも言ってきなさい。キッペイくんが私の連絡先をわかっているから」
 セイさんは日本語ペラペラだけど、人の名前を呼ぶときにはカタカナの発音に聞こえるんだ。私をルカちゃんって呼ぶときもそうでリュカちゃんって聞こえるときもあるし、桔平さんもキッペェイ! って聞こえる。
 セイさんがずっと持っていた欠片を戻そうとして、ピクッ! ってその動きが止まった。
 そして、すっ、と上を向いて何かを思い出そうとするように、顔を顰めた。
「マグカップか」
 小さく呟く。
「どうしましたか?」
 セイさんが、もう一度マグカップの欠片を手にした。取っ手の部分。
「智依さん、このマグカップをCGで再現することは、今すぐできるかね」
 CGで? 智依さんが頷いた。
「簡単です。大きさは正確に把握できますから」
「いや、わざわざCGで再現しなくてもいいか。おおよそでいいのだが、これと同じ大きさのマグカップは、ここにあるかね」
 マグカップ。
 千弥智依さんが顔を見合わせた。
「ある、ね?」
「あるある。色は全然違いますけど、クリーム色っぽいものが。大きさは、たぶんほぼ同じです」
 セイさんが頷いた。
「そして、そうだな、千弥さん。どなたかの葬儀に行くときに持つフォーマルな小さなバッグ、手提げのついていないクラッチバッグのようなものは、持っているかね?」
 千弥さん、きょとん、って顔をしたけど頷いた。
「ありますよ?」
「その二つを、ここに持ってきてくれるかね」
 何がどうしたのか、何をするのかさっぱりわからないけれど、すぐに千弥智依さんが奥に引っ込んでいって、マグカップと黒いクラッチバッグを持ってきた。
「こういうのですけれど」
 セイさんがクラッチバッグを手に取った。
「うん、間違いなく、これぐらいの大きさだった」
 バッグを広げてマグカップを入れようとしたけれど、それはムリだと思う。
「やはり、入らないな」
「入りませんよ?」
 このタイプのバッグは、本当にお財布とハンカチとあとはお数珠とかお香典の袋とか、そういうものぐらいしか入らないと思う。まだ使ったことないけど、もう持っていた方がいいよってお母さんが揃えてくれた。
 セイさんが私たちを見る。
「三日、いや四日前か。たまたまなのだが、郁子さんが喪服を、黒のワンピースを着てこういうバッグを手にして出かけるときにエレベーターでバッタリ会ったのだよ」
 マンションの。
「それ自体は、まぁ長く暮らしていればたまにあることだ。どなたかお亡くなりになりましたか、はい親戚が、などと住民の皆さんと話をしたのは今までに何回となくあった。だから、そのときも訊いたのだよ。『どなたのご葬儀ですか』と」
「郁子さんに」
「昔からの友人なんです、と郁子さんは淋しそうな顔をして答えていた。そのときに持っていたのはまさしくこれと同じ形、大きさのバッグだった」
 こういうのはどれでも大体同じ大きさですよね。
「そして、これもたまたまなのだが、葬儀から帰ってきた郁子さんを見かけた。私が散歩から帰ってきたときにだ。そのときには、このバッグの他にもうひとつ、風呂敷包み、いやあれは袱紗だったのだろう。少し大きめの袱紗ふくさで何かを包んだものを持っていた」
 袱紗の包み。
 セイさんが、マグカップを持ち上げた。
「何か、包む布はあるかね?」
「あります」
 カウンターの下から千弥さんが出したのは、それこそ大きめのバンダナぐらいの、袱紗ぐらいの大きな布。
 それでマグカップを包んだ。
「まさしく、この形だ。マグカップを袱紗程度の布で包むのならこの形にしかならないだろう。あのとき、郁子さんが葬儀から帰ってきたときに持っていたのはマグカップではなかったのだろうか」
 葬儀から。
「バッグには入らないから、持っていた袱紗か何かで包んで」
「そういうことだ。そのときには何の疑問にも思わなかった。葬儀から帰ってきた人が袱紗の包みを持っていても何らおかしなことではないからね。しかし、形は確かにこれだった。覚えているよ。小さな骨壷のようにも一瞬思ってしまったからね」
 骨壷。
 現物を見たことあります。うちの質草の中にもそういうものがあって、確かに大きさはいろんなものがあって、大きめのマグカップぐらいのものもあるはず。
「じゃあ、セイさん」
 智依さんが言うと、セイさんは大きく頷いた。
「果たしてそうだったのかは確かめようもないが、あの日に郁子さんが葬儀から帰ってきたときに持っていたものは、このマグカップとほぼ同じ大きさほぼ同じ形のものだったことは、この私の名にかけて保証しよう」
「葬儀からってことは、このマグカップってひょっとしたら形見分けとか、そういう類いのものだったっていう可能性もあるってことなんじゃないかしら」
 桔平さんです。
「もしも本当に葬儀から持ち帰ってきたマグカップというのであれば、その可能性は大いにあるかもしれない。普通は、あり得ないことだからね。葬儀の帰りにマグカップだけを袱紗に包んで持ち帰るなどというのは」
「形見分けにしても、たぶんほとんどないことですよね。葬儀のその日に持ち帰ってくるなんて。しかもマグカップを」
 うむ、って感じでセイさん。
「普通のお通夜や葬儀ではなく、少し特殊というか、たとえば故人の友人知人だけが故人の家に集まり、形見分けのものを皆で分けながら、しめやかに送ったというような会だったとかならば、あり得るのだろう」
 何らかの、特殊な事情があったんだ。きっと。

 セイさんが、何かあったのならばすぐに連絡をくれたまえ、って帰っていきました。本当にきちんと確かめなくてはならなくなったのなら、セイさんが直接郁子さんに訊いてあげるからって。
 桔平さんも残っていて、四人でうーん、って欠片を眺めながら唸ってしまいます。
「本当に、特別の事情があるのは間違いないのよね」
 桔平さんです。
「そうでしょうねー。でもそこをどうしても確かめなきゃならないかって言われたら、考えちゃうね」
「まぁ、なるべくお金の掛からないように、きっちり元の形に戻してやるしかないのかな。これ以上突っ込んで調べるっていうのも、無理だし」
 千弥さんです。
「そうねー。間違いなく男の人の持ち物だったっていうのは、私確信してるから、たぶん、そのお亡くなりになった古い友人というのが男の人で」
「このマグカップの持ち主だったんでしょうね」
 私が言うと、皆も頷きました。
「でも引っ掛かるわー。どうしてそれをご主人にも内緒にしなきゃならないのか。内緒にするならするで、どうやって直せばいいか、にも繋がってくると思うんだよねー」
 智依さんです。
 それは、確かに。
「まったく目立たないように直すか、あるいはきちんと、その、思い出のものならそれらしくってことですよね」
「そう」
 うん、って智依さんが頷きます。
「でも、確かにこれ以上は調べようもないしねー」
 ふと、思いつきました。
「あの、このマグカップの欠片、今晩一晩預かっていいですか?」
 預かる? って千弥智依さんが少し眼を大きくさせて。
「どうするの? 預かって」
 ちょっとこれは言えない。ゼッタイに誰にも言えないので、ごまかそう。
「実は、うちのお祖母ちゃん。〈田沼質店〉の田沼サエは、あ、これゼッタイに内緒で誰にも話したりしてほしくないんですけど、霊感強いんですよね」
「霊感!」
 智依さんが何故かちょっと嬉しそうにした。
「なので、このマグカップから何か伝わってくるものがないかどうか、一晩一緒に過ごしてみて探ってもらいます。もしも本当に形見の品だったら、その持ち主のことが何かわかるかもしれないので」
 嘘です。お祖母ちゃんそんな霊感はないです。もちろん、ものすごい目利きなので質草のいろんなことはわかっちゃいますけれど。

       *

「えー、それで持ってきたの? 謎のマグカップ?」
 すばるちゃんの家。赤いシトロエンのバン。
 晩ご飯はうちの晩ご飯だったカレーハンバーグを持ってきて、車の中で一緒に食べて、そしてマグカップの話をした。
「サエ祖母ちゃん怒らない?」
「大丈夫。黙っていればバレないから」
 千弥智依さんも桔平さんもゼッタイに内緒って言ったらちゃんと守ってくれる人たち。
「だって、ひょっとしたらお義父さんが何かわかるかもしれないでしょ? いつも言ってるじゃない。〈魂の手を伸ばせる〉って」
 すばるちゃんのお父さん、司さん。駐車場に停まっている車にだったら、〈魂の手を伸ばして〉いろんなことがわかるって。全然違う場合にでも、その〈魂の手〉を伸ばしたこともあった。
「前だって、事故車だってことがわかったでしょ。しかも運転手さんが亡くなっていたって。それってお義父さん、死者のことを感じたってことですよね?」
 ラジオがチカチカッって光る。
『まぁ、そういうことになるんだろうね。自覚はないんだけれど、私もたぶん幽霊みたいなものなんだろうから、同類はわかるのかな』
「じゃあ、そのマグカップが本当に形見分けの品だったら、元の持ち主のことだったり、そのえーと〈マンション矢車〉の篠原郁子さんがどうしてそんなに修理したいのかってことも、わかるかもしれないって?」
「わかんないけど」
 そんなふうに思って、持ってきてしまったんだけど。
『まぁ、話はわかるよ瑠夏ちゃん。確かにちょっと不思議な話でもあるし、実はその篠原さん、確か昔に会ったことあるはずだ』
「あ、そうなの?」
『七夕祭りだったよ。昔は町内会でも参加してやっていたんだ。今も町内会でも参加しているよね?』
「やってます!」
 それぞれの店で大きな張り子を作って、アーケードに吊り下げたりするんです。すっごく楽しいの。
『そのときにね、商店会ではなく町内会の方で一緒に張り子を作ったことがあるよ。もう二十年も前の話になるが』
 そうだったんですね。
『顔も何となく覚えているかな。奥さんの郁子さんも、旦那さんも。とにかく瑠夏ちゃん、やってみよう。そのマグカップの欠片を、そうだな、崩れ落ちたりしない程度にまとめて置いてくれるかい』
「はい」
「あ、待ってよ。誰か来て見られても困るから、カーテンを全部閉めよう」
 シトロエンの窓につけてあるカーテンを全部閉めて、そしてゼッタイに欠片をまた割ったりしないように慎重に出して、まとめてテーブルの上に置いて。
「こんな感じでいいですか?」
『うん。じゃあやってみるよ』
 やってみると言われても、私もすばるちゃんもお義父さんが何をしているのかさっぱりわからないので、ただじーっと欠片の山を見ているだけ。
 ラジオのところがずっとチカチカしている。
 きっとお義父さん、司さんはその〈魂の手〉を伸ばして欠片に触っていると思うんだけど。
 一分とか、二分とか。時間が過ぎて行って。
『あぁ、なるほど』
 ラジオが一段と忙しくチカチカ光って、お義父さん、司さんが急に言った。
『そういうことか。わかったよ瑠夏ちゃん』
「何がですか? 話せたんですか? その、マグカップと」
 お義父さんが、笑った。
『マグカップは話したりしないな。それに他の死者と話せたことも今までないからね。でも、いろんなことが見えたよ。見えたというか、感じたと言った方がいいのかな』
「どんなこと?」
 すばるちゃんが訊いた。
『まず、そのマグカップの持ち主は、やはり篠原郁子さんではなかった』
「やっぱりですか」
『セイさんが話してくれたように、郁子さんが葬儀に行ったその相手だね。つまり亡くなってしまったという古い友人。名前は逢沢真あいざわまことさんという男性だ』
 逢沢真さん。
『そして、どうやらその逢沢真さんと篠原郁子さんはたぶん同級生。中学生ぐらいの姿を感じたからその頃からの同級生で、友人だったんだろう。そうだなぁ、もっともわかりやすく言うと不倫の関係にあったみたいだ』
「不倫!」
 わお、ってすばるちゃんも声を出して。
「え、そんなことまでわかったの父さん」
『愛し合っていた、というのを感じたからね。だから不倫という少々イメージの悪い言葉を使うのはどうかと思ったが、郁子さんには夫がいるんだし、亡くなった逢沢さんにもたぶん奥さんがいた』
 つまり、そういう関係だった。
『細かなことまではまったくわからないよ。とにかく郁子さんは愛する、長い間ずっと愛してきた人を失ってしまったわけだ。そして葬儀に行って、これもセイさんが予想したように葬儀場とかじゃなかったね。普通の一軒家みたいなものを感じたから、逢沢さんの家に弔問に行ったんだろう』
「それで、そのマグカップを持ってきたんだ。まさか黙って持ってきたとかじゃないよね?」
 すばるちゃんが言うけど。
「黙って? 盗んだってこと?」
「だって、そんなことでもしなきゃ、マグカップのことを今の旦那さんに内緒にする意味がわからないよね」
 そうか。そうなってしまうのか。
 ラジオがチカチカ光る。
『そこまではわからないけれども、何もかも了承のもとに持ってきた、とは感じられなかったね。むしろ、すばるの言うように黙ってこっそり持ってきてしまったというのが近いんじゃないかな。愛した人がその昔からずっと大事に使ってきたというのを、郁子さんは知っていたんだ。これは私の勝手な想像だけど、中学の頃からとなると、それぞれお互いの夫や妻よりも長い年月の付き合いだったんだろうからね』
 中学のときの同級生。
 ひょっとしたらその頃からずっとお互いに好きだったんだけど、いろいろあってそれぞれ違う人と結婚して家庭を持ってずっと別々に生きてきたのかもしれない。
「そういうことなんでしょうか」
『たぶん、ね。伝わってきたものからすると間違いではないと思うな。せめて、その人の形見にと、こっそり持ってきてしまったのかもしれない』
「ある意味、凄いね」
 すばるちゃん。
「そんなに長い間さ、お互いの家庭をちゃんと守ってそれでいて二人の間のその感情をずっと持ち続けてきたってことだよね。それは、けっこう凄いことだよね。良い悪いはまったく抜きにしてさ」
「そうだね」
 愛し合ってきた。長い長い間。
 その人がいなくなってしまった。自分にはその人を偲ぶものが何もない。
「持ってきちゃったんだね。知っていたんだ郁子さんは。このマグカップはその逢沢さんが独身の頃に買って、他の人と結婚してもずっと今まで大事にしてきたっていうのを」
『そういうことだろうね。これもひょっとしたらだけれども、そのマグカップを買ったときに、隣にいたのは郁子さんじゃなかったんだろうか。まだお互いに独身の頃に、だよね。煙草に関しても、逢沢さんが喫煙者だったというのは間違いないね』
 そうか。煙草を吸っていたのは、逢沢さん。郁子さんが煙草を吸っていたっていうのは全然似合わないから、それで納得。
「それを、割っちゃったんだもんね。そりゃあ、内緒にしなきゃマズイよね。でも今の旦那さんに見つかってそのマグカップは何? って言われたらどうするつもりだったんだろうね」
『たぶんだが、隠そうとしているうちに、慌てて落としてしまったということじゃないかな。普通のご家庭の旦那さんは、自分の家の食器まで事細かに把握してはいないのがほとんどだろう』
「だから、普段使わないような食器のところに隠そうとしたんだけど、うっかり落として割っちゃったんだね」
『そういうことだろう』
 悲しんだだろうな。黙って、はっきり言って盗んでまで持ってきたのに自分の不注意で割ってしまって。
 いくら掛かってもいいから直したい、って言っていたのも、わかる。
『どうだろうか瑠夏ちゃん。これで、智依さんが感じた男の人のもの、っていう疑問も解消されたし、いろんなことに納得できるってことになるんじゃないかな』
「なります! やっぱり持ってきてよかった。お義父さんに頼んでみてよかった」
 ラジオがチカチカ光る。
『あんまりこういうことをたくさん頼まれても困るけれどもね。でも、まぁ、私にしかできないことだろうから』
「でも、どうするのこれ。全部サエ祖母ちゃんが霊感強くて、感じたってことにするの?」
 すばるちゃん。
「そうする。全部千弥智依さんに話していく」
「それで、どうなるのかな。結局直すことには変わりないんだよね?」
 変わりはないと思う。
 でも。
「智依さんが言っていた。どうやって直すかっていうことは、結局その人がどうしたいのかってことに繋がるんだって。ゼッタイに内緒にするのならするで、その理由も含めての話になっちゃうって」
「それを、きちんと向こうにもわかってもらわなきゃならないってことだね? こうした方がいいってことを提示するためにも」
 そういうこと。

       *

「そんなことまで、わかっちゃったの?」
 千弥智依さんが二人で一緒にまったく同じに眼を真ん丸くして、ユニゾンで言った。まだ開店前。千弥智依さんが店を開けるその前に、預かっていた鍵で店に入って、二人に報告。
「サエお祖母ちゃん、イタコクラスの霊能力があるのかしら」
「いや、そんなんじゃないです。あの本当にこれは内緒にしておいてくださいね。でも本当なんです。サエ祖母ちゃん、わかっちゃうんですよ。その人の魂とか思いがこもったものに関しては、信じられないぐらいにいろんなものが見えてくるんです」
 うん、って智依さんが大きく頷いた。
「わかった。信じる。そしてゼッタイに他の誰にもサエお祖母ちゃんのその力は内緒にしておくから」
「信じられるよね?」
 千弥さんが言って、智依さんももう一度頷いた。
「何もかも、納得できるもの。わたしが感じたものと、今の話はぜーんぶ一致する。男の人のものだっていうのも、いろんな思いがこもっているものだっていうのも、今の話を聞いたら全部納得。信じられる」
 千弥さんもまた頷いて。
「黙って持ってきたっていうのはもうどうでもいいわね。確かに窃盗の類いになっちゃうけど、私たちにしてみたらもうそれはいい。とにかく、これをきちんと修理する。どうする? 智依。今の話を考えると、金継ぎなんかもうどうでもいいわね」
「いい。むしろそんなのしない方がいい」
「いいんですか?」
 元のマグカップに戻したい、っていう注文だったんだけど。
「だって、元の形に戻しても結局郁子さんはそれを隠すわけよね。愛した人の形見の品を台所の棚の奥か茶箪笥の一番下の奥底か、とにかく旦那さんの目にはゼッタイに触れないところに。それって、悲しいでしょう瑠夏ちゃん。もしもすばるちゃんが将来死んじゃって、その形見の品をそんなところに一生隠しておくなんてことになったら」
「悲し過ぎます」
 そんなこと、したくない。
「ちゃんと、毎日見られるところに、いつでも見えるところにきちんと置いておきたいです」
 想像するだけで、いや。
「だからよ。郁子さんに、きちんと提示するの。プレゼンするのよ。こういうふうに、直しましょう。そして、きちんと飾っておきましょうって」
 飾っておく。
「でも、どうやって」
 智依さんが、ニヤリと微笑んだ。
「わたしは、何でも造れるアーティストよ。まかせておいて」

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