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第10回

人に歴史ありというけれど

十三 人に歴史ありというけれど

 私のコーチをしてくれていた仁太さんは〈花咲小路商店街〉の名物男でした。
 世界を放浪した後に商店街に帰ってきて、おじいさんがやっていた〈喫茶ナイト〉を受け継いで商売をやってきて。
 商店街で生まれた人なのでほとんどの人は仁太さんのことを知っているのに、でも仁太さんが世界で、特にニューヨークにいたときに何をしてきたのかは、誰も知らなかったんです。商店街の人間ではない、うちの父以外は。
『その人には、その人だけの、歩いてきた歴史がある。誰の人生にでも、一冊や二冊の小説を書けるほどのドラマがある』って仁太さんは言っていました。『俺はそのドラマを見通すことができる。だから〈ナイト〉で夜の相談なんかを受けていたんだ』とも。今は仁太さんは〈喫茶ナイト〉にはいないし、お店も変わってしまったんですけど。
 私はまだ二十数年しか生きていない若者の一人ですけれど、誰でも経験できるというわけではないオリンピックを舞台に戦った日々があるので、それは確かにドラマチックだったかな、と思います。
 でも、野々宮真紀さんの場合は、ドラマチックなどと表現してしまっては本当に失礼なほどの過去が。
 お店を禄朗さん一人にさせておくのはちょっと可哀想ですけれど、真紀さんの話を聞けるというのはものすごくタイムリーなことなので、もう少しこのまま。
 いざとなれば、たいやきを渡したりするのを、お客さんに手伝ってもらうから大丈夫だって禄朗さんも言ってましたし。
「夫の両親が離婚したのは、彼がまだ幼稚園の頃だったそうです」
 幼稚園の頃。私の場合は小学生でしたけど、それよりも幼い頃だったんですね。
「その理由なんかは知ってるの? 真紀さん」
 こくり、と頷きます。
「夫の実の父親をそういうふうに言うのはちょっとあれですけど、かなり女癖が悪い人だったそうですね」
「あ、じゃあ旦那の浮気とかそういうもので」
「そうみたいです」
 真紀さんの夫である太一さんのお母さん、野々宮尚子さんの方から離婚を切り出して、別れたそうです。そして、そんな男に子供を渡せないと、太一さんの親権は尚子さんがきちんと持つことができた。
 それから、尚子さんは女手ひとつで、一人息子の太一さんを育ててきたそうです。
 少し、私の家と似てはいます。
 私の場合は、仕事人間で家庭を一切顧みない父に愛想を尽かして母が離婚してもらったんですけれど。もちろん、親権は母が持って。
「太一さんは、父親には今までに数回しか会ったことがなかったって言っていました。大人になってからも一度か二度かは会ったらしいんですけど、同じ男として気が合いそうもないとも言ってました。反りがあわないというか、そもそも母親を泣かせて苦労させた男だからと嫌っているんですね。だから、私も太一さんと付き合い出して、結婚してからも一度も会ったことなかったんです」
「まぁねぇ。そういうことならね」
 親子といっても、気が合う合わないは絶対にあると思います。一緒に暮らしていたとしても、そもそもが違う人間なんですからそういうのはあってあたりまえです。
 ましてや、幼い頃に離婚してほとんど会ったことがないのなら、そして離婚の原因が女性関係というのならイメージも悪すぎますし。
「でも、お義母さんが、突然に」
「そうだったのよね」
 若年性認知症だったそうです。
 母親の尚子さんは、まだ五十代のうちにそれを発症してしまい、年々ひどくなっていって、今では息子である太一さんのこともはっきりとわからないぐらいになってしまっているんだそうです。
「施設に入ってね」
「はい、そのときに初めて私は、お義父さんにお会いしたんです。お義母さんが施設に入るお金とかは全部お義父さんが出してくれたんです。今も継続して費用を全額負担してくれています」
「あら、そうだったの?」
 そうなんです、と、真紀さんが頷きます。
「それは、太一さんが頼んだ、とかなんですか?」
 私が訊くと、ぶんぶん、と真紀さんは首を横に振りました。
「お義父さんが、どこからか聞きつけたらしいんです。離婚して三十年近くも経っている赤の他人とはいえ、元妻。そして自分と血の繋がった息子もいるんだから、苦労させたくない。手助けしたいって」
「いい人じゃないの。ねぇ」
 凄いことだと思います。
「あの、その方は、お父さんは今はご家族はいらっしゃるんですか?」
 訊いてみました。もしも太一さんのお父さんにも新しいご家族がいるのなら、とても大変な決断をされているなと思ったので。
 真紀さんが軽く首を横に振りました。
「離婚した後はずっと独身だったそうです。自分は家庭を持たない方がいい人間だっていうのがそのときによくわかったからと言っていました。だから、誰にも遠慮することはないって」
「そうだったのね」
 入居させるのにもけっこうな金額がかかるはずです。その方はどんなお仕事をしているんでしょうか。
「じゃあ、太一さんも仲が悪いとはいえ、その好意に甘えたのね」
 そうです、って真紀さんが言って続けました。
「でも、太一さんはあくまでお金を借りるんだって言っていたんです。今の自分ではお母さんに充分なことはしてあげられないから、助けてもらう。でも、全部自分の力でお金を稼いで、必ず全額お義父さんに返すって。もちろんお義父さんはそんなことしなくていいって言ってたらしいんですけど」
 うーん、って五月さん唸ります。
「まぁ気持ちはわかるわね。それなのに、事故がね」
 真紀さんが、顔を顰めます。
 そう。太一さんは、交通事故に遭ってしまったんです。
 それが一年半前のことだったそうです。車には優紀くんも一緒に乗っていたし、もちろん真紀さんも。
 真紀さんと優紀くんは運良くかすり傷で済んだそうなんですけれど、太一さんは、頭を強く打って一ヶ月以上もの間、眼を覚まさなかった。一時は一生このまま寝たきりか、あるいは衰弱して死んでしまうのではと思われたそうです。
 でも、一ヶ月半後に、太一さんは意識を回復しました。
 回復はしたものの、太一さんの怪我は外傷性脳損傷というもので、それによって引き起こされたのが記憶障害と認知障害、そして身体的な麻痺による運動障害でした。とにかく頭を打ったことでありとあらゆるものが引き起こされてしまったんです。
 今は、これもまた奇跡的にいろんなものが回復してきました。
 寝たきりではなく自分の足で歩ける程度には、家の中でなら普段の生活ができるぐらいには回復したそうです。本当に奇跡だとお医者さんも言っていたとか。
 記憶障害と認知障害もかなり改善されました。眼を覚ましたときには自分が何故病院にいるのかもわからず、そもそも病院ってなんだったろう、などという状態でもあったそうです。自分がどういう人間かもおぼろげな感じになっていたとか。
 それが今では、多少過去の記憶や思い出が曖昧になっていたり、知り合いのことを忘れていたりはするそうですけれど、ほぼ、回復しています。
 けれども、ほとんど仕事らしい仕事ができません。
 元々はプログラマー、SEという仕事をしていて、家でもできるそうなので少しずつやりはじめてはいるそうですけどなかなか難しいそうです。プログラマーとしての知識などは幸いにもそれほど忘れたり失われたりはしていなかったんですけれど、麻痺した手の指の動きなどの回復が遅れていて、いまだによく動かずにキーボードを打つこともままならないとか。
 それで、真紀さんが一人で頑張って働いていたんです。昼も夜も。そこまでは、五月さんも知っていたようなんですけれど。
「その、お父さん? 元妻を施設に入れてくれたんだけど、その後も全然太一さんとは会ってなかったのね?」
 真紀さん、頷きました。
「本当に、反りが合わないというか。感謝はしていましたけれど太一さんも毎月少しずつお金を返すのに銀行振り込みをするだけで、まったく連絡は取っていなかったんです。でも、毎月の返済の振り込みがどうしてもできなくなってしまって」
 真紀さんが懸命に働いていましたけれど、厳しくなってしまって振り込みも遅れたりできなくなったりしてしまいました。
 それに、最近になってお父さんが気づいたんだそうです。いらないと言ってはいたけれども、きちんと気にして毎月確認していた振り込みが遅れたりなかったりしていると。
「それで、連絡してきたのね?」
「そうなんです」
 何かがあったのかと連絡してみたら、息子が事故に遭って身体が不自由になっていた。妻の真紀さんが必死で働いている、という状況。
「ちょうどその頃になんですけど、お義父さんのご両親、つまり夫にとっての祖父祖母になるんですが」
「そうよね」
「詳しい事情は聞いていないんですけど、随分長い間別々に暮らしていたらしいです。それはまぁ普通のことだと思うんですけど」
 そうですね。子供が家を離れて、親と別々に暮らすのはごくあたりまえのことです。
「最近になって、お義父さんが新しく家を建ててそちらで一緒に住む話が出ていたんだそうです。それで、ちょうどいいというのも少し変な言い方ですけど、太一さんと私たちもそこに一緒に住もうとお義父さんが」
 そういう話になったのですか。
「それは、太一さんも納得したの? 反りが合わない別れたお父さんなのに」
「はい。これは、私の想像なんですけれど、記憶障害や認知障害のせいじゃないかと思うんですけど、その父親に対する嫌悪というか、そういうような感情が薄れているのか、あるいは失ってしまっているみたいで。素直に受け入れてくれて」
 それは、良かったのか悪かったのかはわかりませんけれど。
「少なくとも、私はホッとしました。何もお返しはできないのにお世話になるのは少し心苦しいんですけれど、太一さんの実の父親であることは間違いないですし、何よりも一緒に住むのが太一さんの」
「実のお祖父ちゃんお祖母ちゃんですものね? たぶんほとんど会っていなかったんだろうけど。ましてや曽孫の優紀くんもいるんだもの。それはお祖父ちゃんお祖母ちゃんも喜ぶわ」
 真紀さんが、少し笑みを見せて頷きます。
「そう言っていました。まだ私も会ったばかりなのでしっかりとお話しできていませんけれど、本当に喜んでくれていました」
「あれよね、お祖父ちゃんお祖母ちゃんはバカな息子が浮気して離婚しちゃったので、可愛い孫にも曽孫にもずっと会えずにいたのよね。それはもうねぇ、たまんないわよ。ようやく会えて一緒に暮らせるなんて! って感じよねぇ」
 私も、そう思います。
「いつかまた太一さんが、回復というとまたおかしな表現ですけれど」
「あれね? お父さんへの負の感情みたいなものね? 全部回復したら、そういうのもまた出てくるかもしれないわよね」
「そうです。父親へのそういう感情を取り戻して世話にはならないとか言い出すかもしれませんけれど、優紀のこともあるし、今はお世話になって生活の基盤をきちんとさせようと思ってます」
「そうよ。それは本当に良かったわ。あ、でもうちの仕事を辞めたりはしないのよね?」
 真紀さんは、もちろんです、と強く言いました。
「太一さんが回復してくれて元のように仕事ができるようになればいちばんいいんですけれど、それまでお義父さんにおんぶにだっこというわけにはいきません。優紀の世話をお祖父ちゃんお祖母ちゃんがしてくれますから、私は今まで以上にしっかり働けるので」
 そういうことになりますね。五月さんが言ってましたけれど、今までは優紀くんの面倒を見るために仕事時間を減らさなきゃならなかったって話ですから。

      *

「いやー、なんか良い話を聞いちゃったわね。最近では禄朗の結婚話に次ぐぐらいの良い話だったわ」
「そうですね。確かに良い話でしたよね」
 真紀さんは、たいやきを食べ終えて仕事に戻っていきました。五月さんが、真紀さんの住所変更をパソコンで打ち込みしながら、ニコニコして言います。
 真紀さんが苦労しているんだというのは、禄朗さんも私もなんとなくは五月さんから聞いて知ってはいたのですが、これほどのことがあったとは知りませんでした。
 でも、真紀さんが〈名前の嘘〉をついている件はまだ何も全然わからないので、それはともかくとして、お家賃の心配もないそして優紀くんの面倒も見てくれる、いわば〈実家〉と同じような環境に住めるようになったというのは本当に良いことだったと思います。
 でも、なんでしょう。
 話を聞いていても、どことなく、何かがしっくり来ないような感じがありました。真紀さんの〈名前の嘘〉が心のどこかに引っ掛かっているせいでしょうか。五月さんのように心から良い話だと思えないような感覚があります。
 そろそろ帰って、今の話を禄朗さんにも聞かせなきゃ、と思って立ち上がろうとすると、事務所のドアが開きました。
「あら、お帰りなさい」
 一磨さんが帰ってきました。

十四 かつてのアンパイアと、現役のアンパイア

 これは、どうしたものかなぁ、ってずっとそれをぐるぐるぐるぐる考えてしまって、そしてただただそれを考えているうちに店に戻ってきてしまった。
 何にも結論が出ていない。
 いや、そもそも僕が結論を出すような話じゃないよなぁ、っていうのもまた真実だと思うんだけれども。
「お帰りなさい」
 事務所の扉を開けて、その声がいつもと違ってユニゾンで聞こえてきたと思ったら、ユイちゃん。
「あぁ、ユイちゃんいたんだ」
 きりりとした中にまだ少女っぽさが残る笑顔のユイちゃん。
「あなたがどこかに行っちゃったから、ユイちゃんたいやき持ってきてくれたのよ」
「あ、そうだったか。ごめんごめん」
 それをすっかり忘れていた。
「どこに行ってたのよ」
 いや、それがね、って話そうと思って、でもいきなりユイちゃんに禄朗くんが殴ったあのアンパイアを見つけたって話もどうなんだって。
「ねぇそれよりね、真紀さん」
「え?」
「引っ越ししたんだって。さっきおやつ休憩に来たときに報告してくれて」
「え!」
 話したのか。そうか、このタイミングか。荒垣さんも言ってたもんな。近々ご報告するはずですが、って。なんだか五月がすっごく嬉しそうにしているけれど、理由がわかった。真紀さんの引っ越しの件だったのか。
 自分の家ができて家賃を払わなくて済むようになって、生活がものすごく楽になるって話だものな。五月、もうずっと真紀さんの心配していたからな。どうにかしてあげたいけれど、給料をとんでもなく上げるわけにもいかないし、他にできることもないしって。
「でね?」
「いや、言わずともわかる」
 右手を広げてみせる。
「わかる、って何がよ」
「真紀さんの家のことだろう? どこへ行ってきたかっていうとね、その真紀さんの新居に行ってきたんだよ」
 五月、そしてユイちゃんも眼を丸くした。
「どうして?」
「話せば長くなるけどね」
 自分の席に座った。
 さっきユイちゃんは帰ろうとしたのか腰を浮かせかけたけど、また座った。スマホを取り出してたぶんLINEしてる。禄朗くんにかな。もうちょっと帰るの遅くなりますとかしてるんだろう。まぁ走ればユイちゃんの足なら二十秒も掛からないで、下手したら十秒で着くんだから大丈夫だよ。
 そして、どうやって話そうか。
「まずね。〈きぼうの森保育園〉にお届けものに行ったんだよ」
「そうね」
「それでね」
 五月が待って待ってって手を振った。
「何をそんなにもったいつけて話し始めるの? 何かとんでもなく重要というか、重大な何かが起こったとでも言うの?」
 うん、だよね。そう思うよね。
 どうしようかな。
「重大なことだと思うんだよね。ユイちゃん」
「はい?」
「禄朗くんはさ、高校のときの、野球の話を君に話している? どうして自分が一年ダブったかとか、どこで負けてどこで勝ったとか」
 一瞬、考えるような表情をしてから、頷いた。
「しています。聞きました。いろいろ」
「そっか」
 じゃあ、やっぱり禄朗くんにも一緒に教えた方がいいよな。黙っているのもおかしいし、何よりも真紀さんがあの人と一緒に住むようになったんだから、どこかで会うかもしれないよな。
「よし、〈波平〉が閉店したら、お店に行くよ」
「何をしに?」
「話をしに。あ、そうだご飯時だから晩ご飯を一緒に食べよう。五月、ユイちゃん今晩のおかずはもう何か準備していた? 予定していた?」
 五月とユイちゃんが顔を見合わせた。
「うちはまだ何にも。豚肉があるから生姜焼きでもしようかなーって思っていたけれど」
「あ、うちにも豚肉あります。生姜焼きできます」
「じゃあ生姜焼きで決定にしよう。今日は児玉さんいるからその間二人で出ても問題ないよね」
「大丈夫だけど」
 何かあれば走ればすぐ着くんだから大丈夫。
「あの、話って、つまり禄朗さんに関することなんですか?」
「そうなんだ」
「どういうことなの? 全然わかんないんだけど、禄朗のことと真紀さんの引っ越しに何の関係があるの?」
 そう思うよね。
「あったんだ。まぁとにかく保育園に行ったときに、僕はある人に会って、そこで真紀さんが引っ越ししたことを知らされたんだ」
 そこから先は、禄朗くんも一緒に。

       *

 五月の作る生姜焼きは、本当に生姜をたっぷり入れるんだよね。台所でユイちゃんがびっくりしていた。
「あれだね、こうやってユイちゃんと五月、一緒に料理作って食べる日を何度かやった方がいいかな」
 ちゃぶ台の前に座って、禄朗くんに言う。禄朗くんもそれなりに料理はできるはずだけど、足が治るまで当分出番はなし。二人に任せて、男同士でお茶を飲みながら。
「どうしてですか? ユイも料理はそれなりに上手ですけれど」
「うん。いや、ほら五月の作るものは、基本的にお義母さんの味じゃないか。宇部家のさ」
 あぁ、って禄朗くんが微笑む。
「確かにね。おふくろの味ってやつですかね」
「まぁそれがいいってわけでもないけど、伝えていくのもまたいいもんじゃないかなって」
「そうですね。そういうことをしていくのも必要かもしれませんね」
「他のお義姉さんたちのところもさ、たまにこうやって一緒にご飯作って食べるとかさ。あれだよね、実家が遠いところにある兄弟なんかはさ、盆暮れ正月に実家に集まってわいわいやるんじゃない? 僕らは実家がすぐそこだし、もうお義父さんお義母さんもいないから」
 そうですね、って頷く。
「いちいち集まったりしませんからね。何せちょっと走ったらもう着きますから。電話するより早かったりしますからね」
 それがいいところでもあり、つまんなかったりもするんだけど。
「そうしてみます。他の姉にも言っときます。結婚するまでの間、俺は料理は役立たずだから、手伝いに来てユイと一緒に作ってくれって」
「いいね」
 五月からも言ってもらおう。そうやってせっかく親戚になったんだから、鈴木さんも佐東さんも向田さんも、年に一回ぐらいどこかの家に、宇部家でいいけど、集まりましょうって。
 うん、そうしよう。今まで、冠婚葬祭以外で集まったことなんかなかったから。

「さ、いただきましょう」
「いただきます」
 白いご飯と生姜焼きとたっぷりのキャベツの千切りにトマトも。五月のお得意の出汁巻き玉子に、豆腐のお味噌汁にお漬物。充分。
「キャベツの千切りに何をかけるかで好み出るよね」
 僕はマヨネーズだけど。
「私はソースよ。絶対に。禄朗がけっこうなマヨラーよね」
「え、マヨラーと言われるほどでもないと思うけど、まぁマヨネーズだね」
「私も、ソースです」
 男がマヨネーズで女がソースという組み合わせになったか。
「それで? 早く話してちょうだい。食べ終わったらさっさと店に戻らなきゃならないんだから」
「うん」
 まぁ食べながらの方が、いろいろと間が持ったりしていいかな。消化にはよくないかもしれないけれど。
「まず」
 保育園で、真紀さんちの優紀くんを連れて帰るおじいさんに偶然会った。
「保育園の方でも〈身内のおじいさん〉と認識していたから間違いなくてさ。びっくりしてね。優紀くんにお祖父さんがいるなんて僕は知らなかったからさ。だから、後を追って優紀くんに声を掛けて、そのお祖父さんと話したんだ」
 そうしたら、五月とユイちゃんに真紀さんが話したように。
「その人は、真紀さんの旦那さん、太一さんの祖父だった。優紀くんにとってはひいおじいちゃんだったんだね。そして、新居というのは、太一さんの別れた実の父親が建てたものだった。そこに、真紀さんは太一さんと優紀くん、家族で住むことになったんだ」
 それは、そこまでは、五月とユイちゃんが、真紀さんから聞いた話とまったく同じ。あらかじめ禄朗くんにも話してもらっていた。
「その先に話があるんでしょう? ここまでもったいつけといて。禄朗に関係する話になるってどういうことなの?」
 そう、ここなんだ。
「その人の、一緒に住むことになった祖父祖母の名前までは確認してなかったでしょ」
 五月が、ちょっと考えた。
「太一さんのお父さんの名前は荒垣さんでしょ? 確か、荒垣秀一さん、だったかな? 新居の住所にはそう書いてあったわね。確かに祖父祖母の名前までは確認してなかったけれど」
 そう、荒垣さんなんだ。
「禄朗くん」
「はい」
「荒垣さん、と聞いて思い出す人はいないかい?」
「あらがきさん、ですか?」
 禄朗くん、箸を止めて、少し首を捻った。
「荒野の荒いに生け垣の垣よ」
 五月が言って、禄朗くんがもう一度荒垣さん、と呟いた。
「親しい知り合いには、荒垣さんという人はいないと思うんですが」
「じゃあ、アンパイアの荒垣と聞いたら?」
 禄朗くんの肩が、ぴくりと動いた。
「アンパイアの、荒垣さん」
「そうなんだ」
 アンパイアだったんだ。
「僕は、覚えていたんだよ」
 あの試合、禄朗くんが一年生のときの県代表を決める決勝戦だ。
「禄朗くんのいた〈代嶋第一高校〉が〈翌二高校〉と戦った試合だったね。その試合の球審、アンパイアをしていたのが、荒垣隆司さん。真紀さんの夫の太一さんの祖父にあたる人だったんだ」
 ユイちゃんの眼が大きくなった。
 五月は、へぇ、という表情しかしていない。
 ユイちゃんのこの反応からすると、きっと禄朗くんから何かしらの話を聞いているんだな。
「すごい偶然じゃないの。あなたよく覚えていたわね、禄朗の試合のアンパイアさんなんて」
「覚えていたんだよ。野球が大好きだからね」
「それは知ってるけど、どうしてそこまで覚えていたの?」
 禄朗くんを見る。
「禄朗くん」
「はい」
「君は、あの試合の後に、荒垣球審をぶん殴ってしまって、それを見られて、結局留年処分されたね」
 小さく、頷いた。
「もう二十年も前になるよね。でも、いまだに誰も、五月も他のお義姉さんたちもきっとその理由を知らないんだろう? 話していないよね?」
 禄朗くんが、唇を引き結んだ。五月が、禄朗くんを見る。
「聞いてないわね。あのときにもさんざん問い詰めたけど何も言わなかったし。その後もね。何をどう訊いても、本当に一言も喋らなかったわ。どうして殴ったかを」
「僕としては、あの一球のせいだと思ってるんだ。もちろん、覚えているよね?」
 九回裏。フルカウントからボールになってフォアボールを出してしまって、同点になったあの一球。
 あの一球がストライクだったら、三振で禄朗くんの〈代嶋第一高校〉が勝っていた。そして甲子園に行っていたんだ。禄朗くんも一年生でレギュラーの捕手として堂々と出場するはずだった。
「僕はスタンドで観ていたけど、高さは間違いなくストライクだった。コースもそんなに外れてはいないように見えた。でも球審は、アンパイアの荒垣審判は『ボール!』と告げたんだ」
 今でもはっきりと思い出せるよ。何度も何度も思い出したし、その後のニュースで流れた映像も観たからね。
「そのニュースの映像を観たら、これはもうストライクだったろうと確信したよ僕は。どうしてこれをボールと告げたんだって憤慨したよ。五月も覚えてるだろ? あのときに僕が怒っていたのを」
 五月が頷いた。
「そうだったわね、確かに」
「キャッチャーだった禄朗くんの反応も普通じゃなかったのを僕はスタンドで観ててもわかったんだ。それまでに見たことない反応をしていたからね」
 あのときの禄朗くんは一瞬、動きを止めてゆっくりとアンパイアの方を振り仰ごうとした。でもいけないと気づいてすぐに、ボールをピッチャーに返した。
「禄朗くん。あの一球はストライクだったんだよね? 確信したんだよね? それなのに荒垣球審はボールと言った。それで、負けてしまった」
 禄朗くんは何も言わない。ただ黙って聞いている。
「でも、そのせいで負けたからって荒垣球審を殴るまでいくとはどうしても思えなかったんだよね僕は。あのときには何も言わなかったけどさ。きっと、禄朗くんにしかわからない何かがあったんだ。あるいは、荒垣さん、荒垣隆司球審と禄朗くんの間で何かがあった。誰も知らない何かがね。そうじゃないのかな?」
 ユイちゃんが心配そうに禄朗くんを見ている。
 絶対にこれは、ユイちゃんは何もかも知ってるはずだ。そんな表情をしている。
「たぶん、この先、禄朗くんが荒垣隆司さんと偶然に会うこともあるんじゃないかと思ってさ。隣町とはいっても、ほとんど町内会みたいな距離だからね。だから、教えておかなきゃと思った。そしてできれば、あのときに何かあったのなら、教えておいてもらった方がいいかな、って考えたんだ。僕も五月も、この先に荒垣さんに会うことが何度もあるだろうからさ」

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