十五 アンパイアを殴った理由は
こんな偶然が起こるなんて。
野々宮真紀さんと優紀くんが一緒に暮らし始めた、真紀さんにとっては義理の祖父に当たる人が、禄朗さんが殴ってしまったアンパイアだったなんて。
荒垣球審その人だったなんて。
でも、起こり得る偶然だったのかもしれません。
高校野球の地方大会のアンパイアは、主にその地区で登録されている審判員の人たちから選ばれて大会に出ています。だから、荒垣さんがこの地区に、もしくはその近辺に住んでいて当然なんです。
しかも、真紀さんもなんです。
たぶん間違いなく〈嘘〉の名前で暮らしている野々宮真紀さん。そこにどんな理由があるのかを、お父さんの力を借りて本格的に調べ始めた矢先に、こんな事実が出てくるなんて。
禄朗さんは、考えています。
どうするのか。
一磨さんは、気づいていたんですね。あの禄朗さんの一球に何かがあったのだと。それで、禄朗さんは荒垣球審を殴ってしまったんだって。
でも、まさか禄朗さんが〈嘘〉がわかるなんて知りません。それを、禄朗さんが話すのかどうか。
今まで誰にも言わずに来たのに。私と結婚するために私には話して、そして真紀さんのことがどうしても気になって、そこに何か深い事情があってそのために悲しい辛い出来事が起こったりしないように確かめようと思ってお父さんにも教えて。
一磨さんにも話すことになるんでしょうか。でもそうすると五月さんにも教えて、結局家族全員に知られてしまうのですけれども。
「一磨さん」
「うん」
「教えてもらって助かりました。ばったり会ったりしたら、かなり動揺したかもしれません」
「だろうね。僕はあの試合のとき、あの人の顔は遠くからしか見ていなかったけれど、全体の雰囲気は変わっていなかった、禄朗くんならすぐにわかったかも」
「いくつになられたんでしょうね?」
「七十八になったって言ってた」
二十年経っているんですから、試合のときには五十八歳だったんですね。禄朗さんが、少し息を吐きました。
「一磨さんが感じたように、何かはあったんですよ。いくら高校生だったとはいえ、あの一球のせいで負けたって言っていきなり殴るような乱暴者じゃないです僕は」
「だよね」
五月さんも渋い顔をして頷いています。
「いくら訊いても、何も言わなかったのよこの子。大変だったわよ。二葉とか三香とか学校に怒鳴り込むしさ」
「怒鳴り込んだんですか?」
それは知りません。
「そうなのよ。理由も聞かずにいきなり留年させるなんて何の権利があるんだ! ってね。でも肝心の禄朗が本当に殴った理由を言わないし、言わないどころか一言も喋らないで黙って受け入れたものだからさ」
そうだったんですね。
「そうです。何があったのかは、今も言えません。荒垣さんに、僕のことを教えてはいないんですよね?」
「もちろん! 話しちゃいないよ」
「そのまま内緒にしておいてください。もしも向こうが何かのきっかけで僕に気づいて、そして僕のことを一磨さんに訊いてきたのなら、実は義弟なんだと普通に教えてもいいです。たぶん、向こうも会いたくはないでしょうから、近づいてくることもないでしょう」
一磨さんが、少し顔を顰めました。
「それでいいなら、そうするけど」
「向こうだってもうなんとも思っちゃいないかもよ。二十年も前のことなんだから殺人だって時効になるわよ」
「いや殺人に時効はなくなったよ」
確かそのはずですけれど、そんな物騒な話じゃありません。
「でも、そういうことなら、ひとつだけはっきりさせてよ禄朗」
五月さんです。
「何を?」
「この先も、真紀さんはうちの社員としてバリバリ働いてもらうのよ。お家ができて、今まで優紀くんの世話で働けなかった分ももっとね。だから、〈ゲームパンチ〉としては、義父である荒垣、なんだっけお名前」
「荒垣秀一さん。〈ARGホームラン〉の社長さんだよ」
「そう、その荒垣秀一さんや、あんたが殴った真紀さんの義理のお祖父様である荒垣、えーと」
「荒垣隆司さん。〈ARGホームラン〉の前身であるスポーツジム〈ホームラン〉を作った人で、現会長さんね」
「その方たちと、頻繁に会うようなことになる、かもしれないのよ。真紀さんはすっごくいい子なんだから。ずっとうちで働いてもらいたいのよ。だから、はっきりさせてほしい」
「だから、何を」
五月さんは、目を細めました。
「あなたは、自分が正しいと思って荒垣隆司さんを殴ったのね? そのときはそう思ったじゃなくて、今も間違っていなかったと思ってるの?」
禄朗さんが、口元を引き締めました。
「暴力はいけなかったと、そのときも今も思ってる。そこだけは後悔しているし申し訳なかったと思っている。けれども、殴ってしまった理由に関しては、僕は正しいと思っている。あのときも、今も変わらず」
「逆に言うと、荒垣隆司さんは殴られて当然のことをした、って今も思っているんだね? いや暴力は駄目だとしても、だけど」
禄朗さんは、ゆっくり頷きました。
「今も、そう思っています。暴力を振るったのは間違いなく僕に非がありました。でも、決してやってはいけないことを彼は、荒垣球審はやったんです」
言わないんですね。
「わかったわ。そういうことにしましょう。もしも荒垣さんと親しくなって、禄朗のことを知ったとして殴った云々の話が出たとしたら、そういうふうに言うからね? うちの弟は間違っていませんでしたからって」
話も終わって、晩ご飯も済んで、お二人は家に戻っていきました。
「禄朗さん」
「うん?」
「どうして荒垣球審は〈嘘〉をついたのか、禄朗さんも今となってはわからないって以前に言いましたよね」
「言った」
「でも、今お二人に話したニュアンスでは、何となくその理由を知っているような雰囲気だったんですけど」
あぁ、って禄朗さんは頷きます。
「ユイちゃんにはそういうふうに聞こえちゃうよなって思っていた。違うんだ。殴る前にもちろん僕は荒垣球審に訊いたんだよ『何故、嘘をついたのか』って。ストライクだとわかっていたのに、何故ボールとしたのかって」
「答えたんですか? 荒垣球審」
「こう言ったんだ。『嘘などつくものか。あれはボールだった』って。でも『嘘などつくものか』っていうその言葉も〈嘘〉だったんだよ」
嘘に、嘘を重ねた。
「つまり、嘘をついた理由があるのに、それを嘘で隠した」
「そう。だから、思わず殴ってしまったんだ。もしも何か、何でもいいさ、俺が気にくわなかったとかでも良かった。そういう〈本当の理由〉を話してくれれば、殴らないで済んだのになって今でも思うよ」
そういうことだったんですね。
でも、間違いなく何らかの〈理由〉はあったんですね荒垣球審に。嘘をついて結果的に禄朗さんたちを甲子園に行かせなかった理由が。
*
「入れ違いだったのか」
偶然ですけれど、一磨さんと五月さんが家に帰っていってすぐに、お父さんが来ました。本当に入れ違いで、お父さんは二人がここを出て〈ゲームパンチ〉に向かって歩く後ろ姿を見たそうです。
「鉢合わせしたら、またちょっと誤魔化さなきゃならなかったな。今夜は何で来たのかって」
「いや、父親が娘に会いに来るのに理由なんかいらないですよ。誤魔化さなくても大丈夫でしたでしょうけど」
「何の話があったんだ? まだ営業中に二人揃ってここに来るなんてことは、あまりないんじゃないのか?」
そう言われて、禄朗さんと顔を見合わせました。
真紀さんのことを調べてもらっているんです。今日聞いた話も、全部真紀さんのことですから。
「今日は、真紀さんのことですか?」
禄朗さんが訊くと、お父さんは頷きました。
「ちょっとしたことがわかったんでな。それを教えようと思ったんだが、話すか? その前に聞いた方がいい話があるのか?」
「実は」
禄朗さんがお父さんに今日偶然にわかった真紀さんの家の話をしました。
私が五月さんと一緒に真紀さんから聞いた話、そして一磨さんが荒垣球審に偶然出会って新居まで行ってきて聞いた話。
その前に、荒垣球審を禄朗さんが殴った話も。
お父さんは殴ってしまったことまでは知りませんでしたが、その試合のことは仁太さんに聞いていたそうです。一年生のときにレギュラーでもう少しで甲子園に行ける試合だったので。
「なるほどな。そういう顛末があったのか」
「そうなんです」
「しかし、奇縁というか何というか、その荒垣球審と例の野々宮真紀さんが、家族になっていたとはな。びっくりだな」
禄朗さんは、頷きます。
「確かに驚きました。いや、荒垣球審が近くに住んでいるかもしれない、っていうのはわかっていたんですけどね。同じ地区で登録されている審判員でしたから」
「そりゃそうだわな。しかし確かにその一球で甲子園に行けたのに、嘘でボールにされちゃあ、怒るわな。俺でもぶん殴っていたかもしれないな」
「殴ったのは、本当に若気の至りってやつで。反省はしていました」
だから留年も素直に受け入れたんですよねきっと。
「で? 何で殴ったんだ? つまり、試合が終わった後に確かめに行ったんだよな? どうして嘘をついたのかって。だから思わず殴っちまったんだろ? 俺はもう禄朗くんが嘘がわかるのを知ってしまったんだから話せるんじゃないのか?」
「それは」
さっき私も初めて聞いた話をしました。
「なるほど、〈嘘〉をまた〈嘘〉で隠したから、思わずぶん殴っちまった、か。そういうことか。しかし〈嘘〉で隠したからには、荒垣球審には何らかの理由があったんだよな。それはつまり禄朗くんたち〈代嶋第一高校〉を甲子園には行かせたくない、っていう理由だってことだよな?」
確かに、そういうことになると私も思っていました。
「そいつはどんな理由か、か。それを調べるのも面白そうだが、警察の仕事じゃねぇしな」
「違いますね。そもそも荒垣球審にしかわからないことでしょう。取り調べするわけにもいきませんし、今更それがわかったところでどうにもならないことですから」
だから、荒垣球審がすぐそこにいるとわかっても、会う必要もないって禄朗さんは思っているんですね。
「ま、そりゃそうだな。ひょっとしたらこの真紀さんに関わる奇縁で何かがわかるかもしれないがな。それで、だ」
お父さんが胸ポケットから手帳を取り出しました。
「その野々宮真紀さんのちょっとしたことってのは、ひょっとしたらちょっとしたどころか大したことかもしれないんだこれが」
「大したこと、ですか」
手帳を開きます。
「実は、今聞いた引っ越し、野々宮真紀さんが新居に引っ越ししたのも掴んでいた。その家は荒垣秀一さんが建てた家だってこともな」
「そうなの?」
「そりゃそうだ。野々宮真紀さんのことを調べ始めたんだ。誰にも知られないように調べるには、住所から辿っていくのがいちばんの近道だ。だから俺はお前たちがさっき聞いた話を、二日前に掴んでいたんだよ」
禄朗さんは驚いていないので、元警察官としては、それはそうなるだろうってわかっていたんですね。
「家族構成だ。もうわかっていることだが、野々宮太一、野々宮真紀、そして一人息子の優紀くん。野々宮太一の母親の尚子さんは認知症で施設に入っている。離婚した父親は荒垣秀一さんで、尚子さんの施設入居関係は全部この秀一さんが手配した、ってところまで、全部調べた。誰の人生にもいろいろあるんだが、なかなか野々宮さんのところにもいろいろあるってもんだ」
そうなんだと思います。
「まぁ良かったよな。この離婚した荒川秀一さんは大したもんだ。俺なんか爪の垢を煎じて飲めってもんだな。もう三十年も前に離婚しているのに、元妻を施設に入れてしかも息子のために自分の新居を拡張して迎え入れてやってるんだ。やり手の社長さんでな。居酒屋には俺もよく行っていたよ」
「僕もそこは驚きました。本当によく知っているチェーン店だったので」
私もです。
「で、お前たちが知らないことだ。たぶんこれは〈ゲームパンチ〉のお二人も知らないんじゃないか? 野々宮真紀さん、旧姓は浅川だ。浅川家は、父親が浅川敬伍さん。もう定年退職しているが、大手機械メーカーの技術者だったようだな。そして母親の浅川萌子さんは二十年前にガンで死去している。真紀さんがまだ小学生の頃だろう。それから浅川敬伍さんは、娘を男手ひとつで育て上げているな」
「そうだったんですね」
お父さんは、何かしんみりしたふうに頷きます。
「こちらも大したものだと思う。立派に娘を育て上げたんだからな。そしてだな、実は真紀さんには妹がいる。浅川美紀さんだ」
「え、そうなんですか」
妹さん。美紀さん。
姉妹だから、同じような名前なんですね。
「この浅川真紀さんと美紀さん。姉妹揃ってまぁ当然だが同じ小中学校そして高校を出て、そこから進路は別になっている。真紀さんは美術系の専門学校へ行って、そして美紀さんは教育大に進んで音楽教師の道を選んでいるんだな」
「音楽、ですか」
「ピアノの先生もやったらしいな」
ピアノの先生。これもまたまるで違う件ですけど、偶然の一致です。
「そしてだな、ここからが肝心の話になるんだが、真紀さんの夫である太一くんが奇跡的に回復はしたが、ほとんど植物状態になってしまっていた事故のことだ」
「それも、調べがついたの?」
「ついた。さっきも話に出ていたな? 今日、ユイも話を聞いたっていう旦那さんの太一さんの事故の件」
「はい」
奇跡的に、真紀さんと優紀くんは軽傷で済んだという事故。
「ユイは思ったんだな? 話を聞きながら『どことなく、何かがしっくり来ないような感じがした』って」
「うん」
ずっとそれがしていました。
「案外、それは当たっていたのかもな」
「どういう意味です?」
禄朗さんが、眉を顰めました。
「なんら不審なところはない普通、というと怒られるが俺たち警察官にしてみるとありふれた交通事故だったので、きちんと記録に残っていた。野々宮太一の名前でデータベースを当たったらあっさり出てきたよ。高速道路のSAで起きた事故だったんだ」
「SAですか」
「一年半ほど前だな。まだ太一くんがSEとして働いて、真紀さんは主婦として家を支えていた頃だ。優紀くんは三歳ぐらいか。野々宮一家は、休日に小旅行に出かけた。高速道路に乗っていき、途中のSAに寄ったんだ。ごく普通に駐車場に車を停めた。そこに、だ」
お父さんが顔を険しくさせました。
「後ろから一緒に入ってきた大型トラックが、追突してきた」
「追突? どうして?」
「運転手が、心臓発作で急死だ」
思わず顔を顰めてしまいました。運転手さんが。
「大きいSAだったんでな。目撃者が多数いた。追突される一瞬前に、後部座席にいた真紀さんは気づいたんだな。横でチャイルドシートに座っていた優紀くんを咄嗟に抱きかかえて、後部ドアから飛び出した。それで、二人とも軽傷で済んだんだ」
「けれども、太一さんは頭を打ってしまって大怪我を」
「そうだ。そしてな、この小旅行には妹さんである美紀さんも一緒にいたんだ」
「えっ?!」
思わず声が出てしまいました。お父さんが、頷いて続けました。
「美紀さんは、助手席に座っていた。美紀さんも太一くんと同じように頭部を強く打ち付け、残念ながら死亡してしまっていた。ほぼ即死状態だった」
禄朗さんも、驚いています。
「他にも巻き込まれた車は三台あったが、乗っていた人たちはいずれも軽傷、もしくは骨折程度の怪我で済んでいる。妹さんが亡くなっているなんて、真紀さんは言わなかったんだろう?」
「言ってなかった。聞いてない。じゃあ、私が何かしっくり来ないような感じがしたのは」
「そこかもしれんな。あえて真紀さんは言わなかったのかもな。もったいぶってしまったがな、禄朗くん」
「はい」
お父さんが、目を細めました。
「お前さんならもう察しが付いたろう。真紀と美紀、という似た名前の姉妹。小旅行にも一緒に行っているような仲の良さ。浅川真紀さんと浅川美紀さんは双子の姉妹だった」
双子。
真紀さんは、双子の姉妹。
「それじゃあ、お父さん」
お父さんが、頷きます。
「禄朗くんは、野々宮真紀さんの名前、〈真紀〉が嘘だとわかっていた。どうして嘘の名前で暮らしているのかと、何か悲しく辛いことにならなければいいと心配した。〈真紀〉さんの本当の名前は何なのか」
「美紀」
禄朗さんと二人揃って言ってしまいました。
美紀さん。
真紀さんは、実は、美紀さん、かもしれない。
「そうだな。そう考えれば、素直に繋がるのさ。その事故で亡くなったのは、浅川美紀さんではなく、野々宮真紀さんだった。そして浅川美紀さんは、どうやったのかは推測するしかないが、その場でお姉さんとすり替わった。そっくりな双子だったらしいぞ真紀さんと美紀さんは。持ち物さえ交換すれば、誰も気づかなかったんじゃないかな」
「でも、何も証拠はないのよね?」
「ない」
はっきりとお父さんが言いました。
「仮にDNA検査をしたとしても、一卵性双生児の場合はほぼ一致するはずだ。つまり、野々宮真紀さんです、と証明できることになるな」
「そうですよね」
「ただ、状況証拠という観点で考えるならば、夫が運転する車で助手席に座るのは普通は妻じゃないか? つまり、野々宮真紀さんだろう。妹である浅川美紀さんは後ろに座るのが普通だろう。まぁ優紀くんが後部座席なので、お母さんである野々宮真紀さんが後部座席に座っていたんだ、という可能性ももちろん充分にあるんだがな」
「それならば」
禄朗さんです。
「本当に野々宮真紀さんが後部座席にいて生き残っていたんなら、僕が野々宮真紀さんの〈真紀〉に〈嘘〉を感じるはずがないですね」
「だな。ただし、禄朗くんのその直感が間違っていなければ、だが」
「どうして」
浅川美紀さんが、双子のお姉さんの野々宮真紀さんになりかわっているとしたら。
「どうしてそんなことをしているのかは、真紀さん、あ、美紀さんに訊くしかないんですね」
「その通りだな」
どうして、お姉さんになったのか。
「いくつか、疑問はありますけれど」
「あるな」
お父さんがまた手帳をめくりました。
「まず、夫である太一くんが気づいていないのか? だ。だがこれは太一くんの外傷性脳損傷。そこからの記憶障害、認知障害などでまったく気づいていない、とは考えられるな。さっきも言ったが、真紀さんと美紀さんは親でも区別がつかないほどに外見はそっくりだったらしい」
それは、一応は納得できます。
禄朗さんが頷いて続けました。
「では、父親である浅川敬伍さんも気づいていないというのはどうか? ですよね。これも、もともと親も区別がつかないほど似ていたのに加えて、娘が死んだんです。そして生き残っている娘が『私は真紀よ』と言えば、それを疑うはずもありませんね」
そういうことだな、とお父さんが続けます。
「むろん、太一くんの母親はわからないだろう。認知症になっているのだから。では優紀くんはどうか、となると、今現在真紀さんを母親としているのだから、なにをかいわんや、だな。本当の母親だと思っているんだろう。そもそも優紀くんは叔母である美紀さんにもしっかり懐いていたらしいからな。その他の友人知人云々は、正直言って誰も気づいていないのかどうかは、わからん」
「時間は、あったんでしょう」
「時間ですか?」
何のことですか。
「言葉は悪いが、なりすますための時間だ。事故で夫が植物状態になってしまったんだ。どんなに親しい友人でも知人でも、何か変だ、と感じても事故のショックのせいだろうと思う。そしてあれこれいろんなものを整理する時間だってたっぷりあっただろう。生活を立て直すためにいろいろやっているんだな、と」
「だな。なりすますという表現は確かに悪いが、仲の良い双子だったのだから、美紀さんは真紀さんの何もかもを知っていたんだろうし、その逆もそうだったんだろう。そのまま姉の真紀として生きることは、まるで難しくなかったんじゃないか」
そういうことになるんでしょう。
野々宮真紀さんは、しっかりと生きてきたんです。今も、夫を支え子供も愛し、ちゃんと生活しているんです。
何も悪いことはしていません。
でも。
「真紀さんは、浅川美紀という自分を捨てて姉である真紀さんとして生きる。それを、その事故のときに決めた、ってことになるんだよね?」
「そうだろうな。想像するに、すぐに浅川美紀さんは太一くんと真紀さんの生死を確かめたんだろう。太一くんは生きていた。しかし野々宮真紀さんは、姉は即死していたんだ。その瞬間に、姉になろうと決めて、おそらく持ち物を交換した。財布とか免許証とか貴重品が入っているバッグとかそういうものだろうな。そしてその時点から、姉として生きてきたんだ」
どうすれば、そんなことを決めることができたんでしょうか。
「想像するしかないけれど」
禄朗さんです。
「本当に下衆な想像になってしまうけれど、浅川美紀さんはそれ以前から、義兄である太一さんのことが好きだったんじゃないか。家族になった者同士の家族愛とかいうものじゃなく」
「男女としての、愛ですか」
「それを隠して、義兄義妹として過ごしていた。仲良くやっていた。少なくともそういう気持ちがどこかにないと、その一瞬ですり替わろうなんていう決断ができるとは思えない。妹として生きても、義兄や愛する甥っ子を守ることはできたはずだ。それ以上の、妻と母になるなんていう決断は」
「相当な気持ちがなきゃ、できねぇな。俺も似たようなことを考えたよ。もっと下衆っぽい想像もしちまったが、それは言わないでおく」
私も、たぶんお父さんがした想像をたった今、してしまいました。もっと深いところで繋がっていたのかもしれない。
いずれにしても。
「禄朗さんの嘘がわかる力を百パーセント信じる限りは、今の野々宮真紀さんは浅川美紀さんで間違いないんでしょうね」
「そう思わざるを得ないな。そっくりな双子の姉妹ってのがわかっちまったら、誰でもその結論に辿り着くだろう」
禄朗さんが、息を吐きました。
「納得はできますが、これはもうこれ以上調べることも、そして誰かに訊けるはずもないですね」
お父さんも、頷きます。
「訊けないだろうな。俺も捜査じゃなければこれ以上は何もできんし、あまりしたくもない。ここまでは誰にも知られずに調べられた。ここから先は、誰かに訊かなきゃ何もわかってこないが、訊いて回るわけにもいかんし、そんなことをする権利もない。もちろん、禄朗くんにも、ユイにもないな」
ありません。
「でも、お父さん。これは、犯罪にはならないの?」
お父さんが、顔を顰めました。
「別に、追いつめようとかそんなつもりじゃなくて、もしも他の誰かにバレた場合、その辺は」
「まぁ、詐欺行為に繋がるものになるんだろうが、実はただなりすましているだけなら、犯罪じゃない。自称なんとか、ってやつと同じだな。ただ、もしも浅川真紀さんが姉になりすまして何らかの莫大な利益を得ているのなら、それを狙ってやったことなら犯罪だ。しかし、この場合は、な」
「利益なんて得ていないでしょうね。むしろ彼女は苦しい道を歩んでいる。自分を捨ててまで」
そうですよね。
「まぁ真紀さんの生命保険とかいろいろ調べれば違法性にぶつかるかもしれんのだが、これに関しては俺は知りたくもないし、やりたくもない。これが真実だとしても、俺はこのまま墓まで持っていくつもりだよ」
私も、そう思います。
「考えてはいたんですよ。〈嘘〉の名前を名乗って普通に暮らしているという時点で、ひょっとしたら双子かな、と」
「だろうな。俺もそれは考えた」
「まさか、本当にそうだったとは」
「でも、これで心配事がなくなったってことにはならないわよね? もしも、私たち以外の人がこれに気づいて、何か困った事態になってしまう可能性は充分にありますよね?」
お父さんも禄朗さんも、頷きます。
「あるんだが、少なくとも俺にはどうしようもない。まさか本人に訊けないしな。平和な暮らしに波風どころか、台風を巻き起こしちまう。さっきも言ったがそんな権利もない」
「権利という意味合いでは、訊けるというか、堂々と確認できる人物はいますね」
権利、ですか?
「誰だ?」
「一磨さんと、姉の五月です」
そうか、ってお父さんが頷きました。
「雇用者だからな。雇用する際にその人物が虚偽の申告をしていたのなら、か。確かに野々宮真紀さんは嘘をついていることになるからな」
「そういうことです。でも、そんなことしても誰も幸せにはなりません。見守っていくしかないです」
その嘘にたった一人気づいている、禄朗さんの、判断。
でも。
「見守らせてください、と言える方法はないでしょうか」
「方法?」
「誰にも気づかれないように、このまま平和に野々宮さんが暮らしていけるために、私たち真実を知った者ができることはないでしょうか?」