六 名も無き調律師は何者なのか
小学校にあるグランドピアノをボランティアで調律してくれたその人の名は、〈瀬戸丸郁哉〉さん。
名刺などは貰ってなくて、連絡先だけメモしてあったそうです。禄朗さんがその名前をメモしながら頷きます。
「〈瀬戸丸郁哉〉。字面はそれほど変わってはいないが、少し珍しい名字かな」
(そう思いますね)
瀬戸さんなら、たまたまですけれど高校の同級生に瀬戸あやかちゃんがいました。確かに瀬戸丸さんというのはちょっと珍しいかもしれません。
「そもそもボランティアとはいえ、何故調律をしてもらうことになったのか経緯はわかったのかな」
北斗さんに禄朗さんが訊きました。
(さすがにそこまで詳しく調べるのには、こっそりとはいきませんのでわかりません。でも、最終的には校長先生の許可でやったことは間違いないでしょうね)
「だろうな。案外、校長先生の知人辺りかな」
(その可能性は高いんじゃないでしょうか。他の誰かの、それが他の先生だとしても、紹介となると、ボランティアとはいえ何か危ない詐欺にでも遭うんじゃないかって思ってしまいますよ)
「そうだな。公立の学校としてはそんなの簡単には許可できないな」
そうだと思います。
確か、小学校の校長先生は榊原郁恵先生。昔はアイドルだったというあの芸能人の方とまったく同姓同名だって聞きました。私も校長先生を見かけたことはありますし、皆が話しているのも聞いていますけど、本当に雰囲気も似ているんです。小柄でちょっとぽっちゃりしていて笑顔が可愛らしくて。
(校長先生に探りを入れてみますか?)
「いや、さすがに北斗にそんなことはさせられないな。小学生の子供がいるわけでもないからそれこそ何か怪しまれても困る」
北斗さんは、新婚さん。つい半年前に〈バークレー〉の奈緒さんと結婚したばかりです。子供はたくさん欲しいって言っていた奈緒さんですけれど、まだおめでたの話は聞いていません。もしも将来子供が生まれたのなら、そこの小学校に入るのは間違いないでしょうけれども。
そうだ。
「禄朗さん、たいやきを、学童の教室に差し入れしてきましょうか」
(あ、それいいんじゃないですか)
「いつもやっていることですし、それで学童の担当の先生にちょっと聞いてみるとか。あそこの教室にもアップライトピアノは置いてありました。前に差し入れに行ったときにも子供たちが弾いているのを聴きましたけど、調律は狂ってましたから」
(そういえばピアノの調律したって聞きましたけど、ここのもしたんですか? とか訊けば何かわかるかもですね)
「そうだな。その手はいいな。ありがとうやってみる。くれぐれも内緒に。またちょっと頼むことがあるかもしれないけど」
(わかりました。いつでもどうぞ。ところで、お二人の結婚式ってやっぱり禄朗さんの足が完全に治ってからですか?)
別に言いふらしているわけではないんですけれど、私たちが結婚の約束をしたことは、もう商店街の皆さんが全員知っているみたいです。禄朗さんがちょっと苦笑いみたいな笑みを浮かべて、首を傾げました。
「新郎が松葉杖ついてやるわけにもいかないだろうからな。治ってそれから準備してだから、早くても二、三ヶ月後ぐらいになってしまうんじゃないかな」
(了解です。やるならまた三丁目の〈海の将軍〉で人前結婚式がいいんじゃないですかね。皆がお祝いに駆けつけられますから。何せ〈愛の審判者〉ですからね。禄朗さんにもピッタリですよ)
「考えておく」
三丁目にある石像〈海の将軍〉は、マルイーズ・ブルメルさんという人が作ったものらしいですけれど、これはその昔には〈愛の審判者〉という呼び名もあり、この像の前で永遠の愛を誓うということも行われていたそうです。
それもあって〈花咲小路商店街〉を盛り上げるイベントのひとつとして、商店街で人前結婚式を執り行っているんですよね。三丁目の〈白銀皮革店〉の白銀さんと亜弥さんが最初に結婚式を挙げたのを、まだ学生だった私も見ていました。
禄朗さんが電話を切って、壁に貼ってあるカレンダーを見ます。
「今日は木曜日。事前に言わなきゃならないから、明日なら学童に差し入れできるな」
「できます。今日ももう始まっていますから、学校に電話してみましょうか」
「うん、頼む」
学童保育で学校に残る児童の数はわかっていますから、持っていく個数を決められます。余ってしまうと食中毒とかの問題になりますから、いつも児童の分と先生の分だけ持っていくようにしています。何か事情があって余ってしまったら、職員室に残っている先生たちですぐに食べてもらうようにも。
これも、禄朗さんのお父さんの時代からやっていることなんだそうです。学校が終わっても家に帰れないで、おやつを食べられない子供たちにって。
私のスマホではなく、お店の電話を使います。
「お世話になっています。〈花咲小路商店街〉の〈たいやき波平〉です。はい、こちらこそありがとうございます。明日なんですけれど、学童保育にたいやきのおやつ差し入れをしたいんですが、児童さんは何人になりますか。はい、はい、十人ですね。アレルギーのある子は。あ、いないですねわかりました。先生は二名ですよね。ありがとうございます。それでは開始した頃に差し入れしますので。はい、よろしくお願いします」
たぶん会ったことはあるけれど、名前は覚えていない女性の先生が応対してくれました。
「子供たちが十人と先生が二人ですね」
「じゃあ、予備も入れて十四個でいいか」
「そうですね」
四時ぐらいに持っていけばいいでしょう。〈きぼうの森保育園〉と合わせて三十四個が明日の差し入れの分です。
それだけでも、こんな小さな店にとって決して少なくない出費になるのですけれど、子供たちの喜ぶ顔は何ものにも替え難いものだと思います。
「それはいいとして、大賀の、いつも遊んでいる仲の良い友達って、ユイちゃんはさすがにわからないよな」
「そうですね」
そこまでは、わかりません。
「商店街の子で、大賀くんの同級生は?」
禄朗さんが首を傾げます。
「さっきから考えているんだけど、同級生はいなかったと思うんだよな」
いとこになる宇部家の他のお姉さんたちの子供は、もう皆が大賀くんより大きいです。その他の商店街のお店の子供たちも、思いつく限りではいません。皆が大賀くんより大きいか、小さいか。
「日曜日に、何がある、か」
禄朗さんが、その頭をフル回転させているのがわかります。禄朗さんは頑固だとか堅物だとかくそ真面目だとか言われていますけれど、最も凄いところはその頭脳だって私は思っています。
キャッチャーでした。それも高校に入って一年生でレギュラーを獲るほど能力の高いキャッチャーだったんです。
ダイヤモンドの中の監督と言われるほど、キャッチャーには試合を読む能力が求められます。相手の打者の心理を読み、仲間の投手の状態を把握し、同じく野手たちにも指示を出す。それは、いついかなる場合でもありとあらゆる方向から状況を見つめ、どうしたらいちばん良いかを掴み取り、実行させる能力です。
プロの世界でも名捕手だった監督に名監督が多いというのも頷ける話です。そして禄朗さんは屈指のクラッチヒッターだったそうです。塁上にランナーがいれば、確実にそのランナーをホームに帰すヒットを打っていたんです。幅広い視野と柔軟な思考に、ここという直感力。
それらが優れていたからこそ、良い野球選手だったんです。仁太さんが言っていましたけれど、肩を壊さなければ、あるいはもっと優れた指導者のいる高校だったのなら、きっとプロのスカウトも注目する選手になっていたはずだって。
その禄朗さんが、直感力と頭脳をフル回転させて考えています。
「ユイちゃん」
「はい」
「今日の晩ご飯はハンバーグにしようか」
ハンバーグ。
「いいですよ」
付け合わせにする野菜は冷蔵庫にあるから大丈夫です。肉は鶏肉しかないので買ってこないとならないですけれど。
「〈向田商店〉で、手ごねハンバーグを買ってきてくれるかな。ついでに姉貴と井戸端会議でもしてきてほしいんだけど」
四穂さんと。
「何かを訊いてくるんですね? 学校のことですか?」
「そう。悟られないように、さりげなく。近頃、大賀のクラスメイトの家庭に何か普通ではない出来事がなかったかどうか。そういう噂話みたいなものが聞ければベスト」
普通ではない出来事。
「それが、大賀くんの〈嘘〉に繋がるって思うんですか?」
禄朗さんが頷きます。
「大賀は頭の良い優しい子だ。そして、素直だし真面目な子でもある。その子がお父さんお母さんにも、たぶんだけれども、内緒の〈嘘〉を隠しているということは、どう考えてもクラスメイトの友達の何かだと思うんだ。極端な話をしちゃうと、友達が親に虐待をされているのに誰も気づいてやれていないとか」
虐待。
考えただけでも胸が痛みます。
「まぁそんな大変なことではない、とは思うけれども」
「お母さんたちの間でそういう話は出るものですよねきっと」
「出るんだ」
禄朗さんが頷きます。
「ユイちゃんは知らないだろうけど、何年前だったかな、三香のところの薫が小学生のときだよ」
薫ちゃん。〈佐東薬局〉の三香さんの一人娘ですね。
「そのときの、ある先生と誰かさんの親が浮気をしていたらしい」
「浮気ですか」
「親たちの間で噂が流れてね。結局はっきりとしたトラブルが表面化することはなかったみたいだけど、そのある先生は変な時期に転任していったらしいよ」
そんなことがあったんですね。でも、わかります。私の通った高校でもその手の話が出たことありました。
「そんなような話が聞ければいいな、と。それが大賀の嘘に何か繋がるかもしれない。聞けなくても、大賀が日曜に友達とどこかで遊ぶのを既に知っているか知らないかがわかるだけでも充分。ひょっとしたら大賀の嘘は一磨さんにだけついた嘘かもしれない」
「それがわかったなら、一磨さんに嘘をついた理由を探せばいいんですものね」
「その通り」
絞り込めれば、わかりやすくなります。
「わかりました」
スパイみたいですね。
〈向田商店〉は基本的には肉屋さんですけれど、魚とお野菜以外の食品もたくさん扱っています。〈花咲小路商店街〉でも古株のお店で、その昔にはお総菜も魚や野菜もたくさん扱っていて手作りもしてして、店先で相当たくさん並べて売っていたそうです。
でも、時代の流れもあり、お総菜は肉を中心にしたコロッケなどの揚物だけに絞り込んで、その代わりに缶詰やインスタント食品、冷凍食品などを扱うようになりました。
私も、商店街で毎日のご飯の買い物をするときにはお肉は〈向田商店〉、お野菜は〈八百平〉、お魚は〈うおまさ〉で買います。毎日の買い物は全部〈花咲小路商店街〉で済んでしまうんです。本当に便利なんですよね。
オレンジ色の店先のテントが目立つ〈向田商店〉。実はこのテントは濃い紅色だったそうですけど、長い年月で色褪せてしまってオレンジ色に見えるんですよね。ガラスケースの中のコロッケや肉団子が本当に美味しそうです。
「あらー、ユイちゃん」
禄朗さんの上から三番目のお姉さん、四穂さん。四姉妹の中ではいちばん明るく陽気でお喋りなお姉さんです。いつも笑顔で、私も大好きなお姉さん。
「こんにちは」
夕方の四時です。いつもこのぐらいの時間の挨拶は〈こんにちは〉でいいのか〈こんばんは〉にした方がいいのか、迷います。
「ありがとうね、禄朗のこと全部任せちゃって。どう? 二人でやってけそう? できそう?」
「大丈夫です。もうたいやきも焼いてみました」
「そうよね。大賀も言ってた。まぁ後でちょっと顔出してみるけれど。何か持ってく? 晩ご飯のおかず」
「あ、ハンバーグを買いに来ました。晩ご飯はハンバーグがいいって禄朗さんが」
四穂さんが笑います。
「舌が子供なのよねあの子いつまで経っても。気をつけてね、禄朗に何食べる? って訊いても大体ハンバーグとカレーと、せいぜい餃子しか言わないから」
笑います。確かにそうかもしれません。今までどこかで食事をしたときにも、大体そんなような感じでした。
お店は、混んではいません。あと三十分や一時間もすると晩ご飯の支度にお客さんが大勢来るかもしれません。井戸端会議をするのにはちょうどいい時間です。
「大賀くんがお店に来たときに、ちょうど一磨さんも来ていて話していました」
「あらそう。一磨さん元気? あの人見ないときにはほんっとうにずっと見ないから。ずっと家の中にいるんだものね」
「元気でした。今度の日曜に何かゲームの大会やるけど大賀くんは参加しないって話していましたね」
四穂さん、ちょっと顎を動かします。
「ああぁゲーム大会ね。そういえば行かないって言ってたわね。カイルくんの家で皆で遊ぶとか言ってたっけ」
お母さんにもう日曜の予定を言っていたんですね。
そして、カイルくん?
「外国人の友達ですか?」
うんうん、って四穂さん頷きます。
「ユイちゃんはまだ知らないか。カイルくん、小学校の英語の先生のマイケルさんの息子さんね。もう何年かな、こっちに来て二年ぐらいかな。カイルくんとはずっと同じクラスなのよ。ほら、知らないかな。小学校のすぐ向かい側にある、大きな赤い三角屋根のちょっと変わったお家」
小学校の向かい側。
「ちょっと山荘みたいな雰囲気の家ですか?」
「そうそう。あそこマイケルさんの家なのよ」
そうだったんですね。小学校には外国人の英語の先生がいたんですね。
「セイさんとも親しいみたいよ」
「そうですか」
セイさん。矢車聖人さん。矢車家はその昔はこの辺りの大地主だったそうです。それで、今でも四丁目の大きなマンションが建っていて、そこに住んでいるセイさんは、イギリスから帰化したんです。
もうそろそろ八十歳ぐらいになるはずですが、今も矍鑠としていて、英国製のスーツをパリッと着こなして散歩したりしています。
「ユイちゃんは、セイさんとは顔見知りだっけ?」
「何度かお話ししたことはあります。セイさんは私がいた学校の先生とも親しかったみたいで、よく校内でもお見かけしていましたから」
外国人同士の繋がりがあるんでしょうね。
「カイルくんは、大賀くんと仲良しなんですね」
「そうみたいね。あ、カイルくんはもう日本語ペラペラよ。大賀が英語喋れるわけじゃないから」
ちょっと、切り込んでみないと話題がもちません。四穂さんがもう手ごねハンバーグを二つ包もうとしています。
「じゃあ、マイケル先生は家族でずっと日本にいるんですね。お母さんも外国人の方ですか?」
「ううん、お母さんはね、ひまわりさん。日本人なのよ」
「ひまわりさん」
「可愛い名前でしょ? 最初はちょっと笑っちゃうけど本人も名前をネタにしてるから大丈夫よ。名前通りに太陽みたいに明るくて楽しい人なのよ」
ちょっと会ってみたくなりました。ひまわりさん。
「子供ができて、小学校に入るとPTAとか、お母さん同士の繋がりとか、いろいろ大変ですよねきっと」
あぁ、って四穂さん笑みを浮かべます。きっと私が早くもそういうことを考えているって思いましたよね。
ちょっと、恥ずかしいけれども話を持っていくために仕方ありません。
「それはもうね、いろいろあるけれども子育てって大変なものはもうそういうものだから。大丈夫、私たちがいるから。いろいろ教えてあげるし助けてあげるから心配しないで。あれよ、子供ができてからの離婚とかね、そういうのは本当に子供が可哀想だから禄朗に愛想つかすなら早めにね」
それはきっとないですけれど、頷いておきます。
「親が離婚や、事故や病気でいなくなってしまったりは、しょうがないのかもしれないですけれど、子供たちにはショックですよね」
ねぇ、って四穂さん顔を顰めました。
「そうなのよ、あ」
ちょっと声を潜めます。
「こないだも、あ、なんか噂話するオバさんみたいでイヤだけど、いやオバさんだけどね、大賀のクラスメイトにね」
「何か、あったんですか」
「離婚ね。それもW不倫とかで、ユイちゃんは知らないだろうけどちょっと騒ぎというかあったのよ。困っちゃった皆に知られちゃったみたいで」
W不倫。
「大賀くんのクラスの子の、親御さんにですか?」
「そう。それがもう子供たちの間にまで知られちゃって、何かもう可哀想というかとんでもないっていうか。女の子なのにね」
「女の子、ですか」
大賀くんのクラスメイトの。
☆
夜の一時までやってる夜間保育園〈きぼうの森保育園〉はうちの店から歩いて十五分ぐらいのところにあります。
三階建てのクリーム色のきれいな園舎は、十年ぐらい前に新しく建て直したもの。周りはぐるりとクリーム色に塗られたコンクリート製の塀に囲まれていて、ゲートのところのインターホンで呼び出して暗証番号を入力しなければ入れません。暗証番号はもちろん子供が入園している保護者にしか教えません。
私たちみたいな外部の人は、事前に電話してインターホンのカメラで確認しないと、ゲートは開けてくれません。
「こんにちはー〈たいやき波平〉ですー」
「はーい。ご苦労様ですー」
二重になっているゲートを開けると、そこはもう園庭。芝生になっていて、滑り台やいろんな遊具があって、もう来ている子供たちが何人もそこで遊んでいます。
話しかけてくる子供たちの相手をして、玄関に入って先生のいる事務室に入ります。
「いつもありがとうございます」
副園長さんの、小柴さん。園長先生の娘さんがいました。
「いいえ。たいやきです。早い内に食べちゃってくださいね」
「おねえちゃんだ」
巻き毛の可愛らしい男の子。優紀くんです。〈ゲームパンチ〉で働いているシングルマザーの野々宮真紀さんの一人息子。何度か〈ゲームパンチ〉で会ったことありますし、優紀くんはあんこが大好きなので、お店にも食べに来てくれています。
「優紀くん、元気?」
「げんきだよ」
真紀さんは確か自転車で転んで怪我して、少し休んでいたはずです。
「またお母さんとお店に食べに来てね」
「うん」
本当に優紀くんは可愛らしい男の子。
そのまま、小学校に向かいます。
第一小学校は〈花咲小路商店街〉はそのまま全部が校区なので、そこで育った子供がほぼ全員通います。禄朗さんたち姉弟も、その他の皆さんもほぼ全員がOBとOG。私は、違う校区なんですけれど。
小学校には、まだこの時間には人の出入りがありますから、通用口にも鍵は掛かっていません。それでも一応インターホンを鳴らして、職員室に残っている誰かに訪問の理由を告げます。私が来ることはもう伝えてありますから、(どうぞー)と返事が返ってくるので、そのままスリッパをお借りして、学童保育の教室へ向かいます。
「こんにちはー」
教室に入ると、何かしらやっている子供たちが一斉にこちらを見ます。
「たいやきだー!」
「波平だー!」
私は、きっと子供好きです。もっと早くにそれに気づいていたら、スポーツの方には進まずに、保育士とか幼稚園教諭とか、そちらの道を選んでいたかもしれません。
「はーい、手を洗ってきてからねー」
担当の、山田先生です。皆が走って教室を出て手洗い場へ向かいます。
「いつもありがとうございます」
「いいえ」
先生にたいやきの袋を渡します。
「ご主人、退院したんですよね?」
禄朗さんのことです。ご主人というのは私の夫という意味ではなくお店のご主人という意味で。
「はい、しました。もう今日から通常営業していますので」
「良かったですね」
子供たちが戻ってきて、たいやきを配ります。
「ちゃんと座って食べてねー」
アレルギーのある子がいるとちょっと困るのですが、ここのところはずっとたいやきを食べられる子ばかりで良かったです。
ピアノの蓋が開いています。
「そういえば、ピアノを調律したって聞いたんですけれど、ここのもしたんですか? 前に聴いたときにちょっと狂っていたので気になったんですけど」
「あ、ピアノ弾けるんですか?」
「少しですけれど」
山田先生が頷きます。
「ボランティアの人が来てくれて、全部、体育館と音楽室のグランドピアノと、ここのも調律してくれましたね。すごく助かりました」
「ボランティアって、どんな方だったんですか? この街の人ですか?」
これぐらいは普通の質問ですよね。変に怪しまれないとは思いますけど。山田先生、ちょっと首を傾げました。
「どこの人かは知りませんけれどね。校長先生のお知り合いだって話ですよ。背の高い、少しお歳を召した男性の方でしたね。六十代か七十代か」
お年寄りの方。ですか。
「私、いましたけれどほとんど何も喋らずに。無口な、でも優しい笑顔の方でしたよ」
☆
そうか、って禄朗さんが頷きます。
お店の中にお客さんはいません。たいやきは焼き上がりのものが七個あります。
「お年寄りで、校長先生の知り合いだったか」
「六十代か七十代に見えたって言っていましたね」
年配の男性か、って禄朗さんが繰り返して言って、少し考え込みます。
「昨日の、四穂が言ってたW不倫の話だけどね」
「はい」
私が配達に行っている間に、北斗さんが確認してくれたそうです。
前からわかっていましたけれど、北斗さん本当に有能というか、調査能力が凄いです。仁太さんも以前に何かわからないことがあったら北斗さんに調べてもらっていたそうです。商店街の情報屋みたいなもんだぞって言っていましたから。
「やっぱり大賀のクラスの、佐々野麻衣ちゃんという女の子だそうだ」
「麻衣ちゃん」
本当にそうだったんですね。
「お母さんは、佐々野乃梨子というんだそうだが、あ、これは今の姓だ。離婚して元の名字に戻っている。ちょっとややこしいんだが、麻衣ちゃんの通っていたピアノの先生の旦那さんと浮気したらしい」
「ピアノですか」
「そして、乃梨子さんの旦那というのが、そのピアノの先生と不倫していたそうだ」
「だから、W不倫ですか」
「そのようだな」
ドラマではよくある話ですけれど、実際にあった話を聞くのは初めてです。
「でも、ピアノって」
禄朗さんの直感が当たっていたことになるんじゃないでしょうか。
「謎の調律師さんもそこに関わっていたってことになるんでしょうか」
「それは、わからない。でも、ピアノは充分にキーワードになるんじゃないか。その麻衣ちゃんと大賀はとても仲良しなのは本当らしいしな」
W不倫。
それがクラスの皆にも知れ渡ってしまっている。
「麻衣ちゃんは、ちゃんと学校に来ているんですよね?」
「らしいな。まだ四年生だ。浮気とか不倫の意味は知っていても、それでどうこうされるというのはないんじゃないのか。ませたガキはまぁいるんだろうが」
大きな問題になっていないということは、いじめとかもないんでしょうか。心配ですけれど。
「ひょっとして、そのピアノ教室には同じ学校の子も通っていたんでしょうか。それで」
「周囲に広まったという可能性は非常に高いだろうな。で、まぁ結局夫婦は二組とも別れてしまって、ピアノ教室は閉鎖になった、と」
「閉鎖ですか」
「引っ越したらしいな。さすがに話が広まってはそのまま子供たちに教えられないだろうし、親も通わせないんじゃないか」
そうかもしれません。
ピアノ教室の先生夫婦のW不倫に、謎のピアノの調律師。確かにピアノがキーワードになっていますけれど。
「まだ、大賀くんの〈嘘〉に結びつくかどうかはわかりませんね。何があるのかも」
「全然わからない。でも、大賀が四穂にも日曜にはカイルくんのところに行くというのは言ってあるのはわかった。そしてもうひとつキーワードになるもの、結びつくものがあったな」
「何ですか?」
禄朗さんが、人差し指を立てて外を示します。
「四穂から聞いてきたろう? そのカイルくんの家は、俺も知ってるけれど〈小学校〉の目の前だ」
あ、そうか。
「〈小学校〉も大賀くんの嘘のキーワードになり得るんですね」
「そういうふうに、思える。つまり、あくまでも俺の直感と推測に頼ったものだけれど、大賀は日曜に〈小学校〉で何かをするんじゃないか。親にも誰にも内緒にだ」
小学校で。
「ピアノ、ですか?」
「そう結びつくかな」
「でも大賀くんはピアノは弾けません。じゃあ、その麻衣ちゃんっていう女の子も絡んでくるってことになりますね」
「そうなる」
小学校で、日曜に、ピアノ。
「何をするんでしょう。ピアノを弾くんでしょうか」
「弾くだけなら、内緒にする必要はないだろうな。音楽室で弾かせてもらえばいいだけの話だ。使っていない放課後にちょっと弾くぐらいはできるんじゃないかな?」
「そうですよね」
それぐらいはなんともないはず。
「さっき、ちょっと考えていたんだ」
「何をですか」
「これだ」
ホワイトボードに貼ってあったメモを取りました。裏側に名前が書いてあります。
〈瀬戸丸郁哉〉
「瀬戸丸さんという名字の人は確かにいる。ググってみたけれどね」
「いるんですね」
「でも、珍しい。ごく少数だ。そんな珍しい名字の人がボランティアで調律をしに来たというのがどうにも気になって考えてみた」
「何をですか」
禄朗さんが、ホワイトボードに書き出します。
〈せとまるいくや〉
ひらがなです。
「偽名じゃないか、と」
「偽名」
「ミステリでよくある、アナグラムというものじゃないかな、とね」
アナグラム。
文字を並べ替えるもの。