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第5回

もしも〈怪盗セイント〉なら

七 もしも〈怪盗セイント〉なら

 文字を並べ替えて、別の言葉を作ることをアナグラムと言うのは知っています。

 ミステリの中のトリックとかだけじゃなくて、小説家にはペンネームを作るときにそうしている人もいるって聞いたことあります。

「それは、この〈せとまるいくや〉という名前のひらがなを並べ替えると、誰か他の人の名前になるってことですか?」

 禄朗さんが、ゆっくり頷きました。

「瀬戸丸郁哉。〈せとまるいくや〉。珍しい名字ではあるけれど、名前としてはごく自然だ。でも、〈珍しい名字〉の人が〈ボランティアで突然現れた〉という点がどうしても気になった。それでふと思いついてこれを並べ替えてみると、こうなったんだ」

 言いながらホワイトボードに書いた文字は。

〈やくるませいと〉

 やくるませいと?

「やくるませいと。あ、」

 矢車聖人。

「セイさん!」

〈マンション矢車〉のオーナーであり、〈花咲小路商店街〉の名物男の一人。イギリス人としての名前は、ドネィタス・ウィリアム・スティヴンソンさん。

「まぁ〈ぐ〉の濁点を取る形にはなるけれど、それはアナグラムにおいては許容範囲だと思う。だから、〈瀬戸丸郁哉〉はぴったり〈矢車聖人〉になるんだ」

「なりますね」

 びっくりです。

「ただの偶然だと思うかい?」

「思えません、ね」

 そんな偶然があるなんて。

「でも、それってどういうことになるんですか?」

 どこの誰かわからないボランティアの調律師さんの名前が、入れ替えるとセイさんの名前になったからって。

「本当に単なるすごい偶然だってなったらそれまでですよね? まさか同一人物なんてことはないですよね」

 セイさんは、正確なお年は知りませんけれど、たぶん七十代後半ってとこです。もうすぐ八十歳ぐらいになるはずです。

 山田先生は、調律師さんはお年寄りだとは言っていましたけれど、六十代か七十代だと。

「全然年齢が違いますし、山田先生もきっとセイさんのことは、お顔と名前ぐらいは知っているはずですけれど」

 たぶん知っています。見たことあるはずです。

 小学校に勤務する先生たちもよく〈花咲小路商店街〉で買い物をしています。セイさんはほぼ毎日商店街を歩き、買い物をして、あちこちのお店の人たちやお客さんたちと話をしています。以前に会ったときにも言ってましたが、それは健康のためとボケないためだと。人は、人とコミュニケーションを取っていないと体の機能が低下していくものなのだよ、と。だから、セイさんの姿を商店街で見るときにはいつも歩いているか、誰かしらと話しています。

 禄朗さんが、うん、と頷きながら少し唇を歪めました。

「ユイちゃんはもちろん、うちの商店街にあの石像が出現したときの騒ぎは知っているよね?」

「知ってます」

 まだ中学生でしたけれど、新聞にも載ったのでわかります。

「〈怪盗セイント〉のことも知ってるね」

「少しですけれど」

 あの石像を盗んだイギリスの怪盗セイント。

 石像をあそこに置いたのも、そのセイントだって話ですけれど、国際的な事件になりそうだったのに、結局は何かいろんなことがうやむやになって石像はずっとここにあって〈花咲小路商店街〉の名物になっています。これを観に海外からの観光客がやってくるぐらいです。

「商店街が寂れずにずっと活気があるのも、結局はあの石像騒ぎがあったからですよね。本物でも偽物でも、どっちにしても本当に〈怪盗セイント〉がやったことなら感謝状でも贈りたいぐらいだって」

 商店街の人たちが皆そう言ってるのも知っています。

「セイさんが、実はその〈怪盗セイント〉じゃないかって疑われたのも」

「はい」

 帰化はしていますけれども同じイギリス人で、おそらくは年齢も同じぐらいだということで、セイさんが本当に疑われたそうですけれど、イギリスの元警察官の人の証言で、結局は別人だってことが証明されたとか。

「俺は、ちょうど石像騒ぎが落ち着いた頃に、セイさんと真夜中にバッタリ会って話したことがあるんだ」

 深夜の二時頃だったそうです。

 電車もとっくに止まっていますから。その時間の商店街は人っ子一人通りません。

 でも、石像騒ぎがあってからしばらくの間、不審な人物がうろついていたり、石像のケースを破壊しようとした跡があったりしたので、夜の見回りを商店会の人たちが交代でやっていたのです。

「俺が夜中に見回っていたときにね、セイさんがちょうど〈グージョンの五つの翼〉のところに立っているのを見つけてさ。セイさんはお年寄りだし商店会のメンバーでもないから見回りチームには入れていなかったんだけれど、個人的にできるときにはやってくれていたんだ」

 そのとき、禄朗さんは久しぶりにセイさんと会ったので、ベンチに座ってあれこれ話したんだそうです。

 今回の騒ぎの顛末や商店街のこれからの話や、その他にも人生についてなどいろいろと。

 禄朗さんは、訊いたそうです。

『セイさんは実は本当に〈怪盗セイント〉なんでしょう?』って。それは、元警察官としての勘の部分もあったそうです。

 そもそも、こんな石像展示を仕掛けるというのは、ここに長くいなきゃできるはずがないことだからと。

「セイさんは、さすが元警察官だねって笑ってさ。『実はそうなのだよ禄朗くん。私が本物の怪盗セイントなのだが、皆には内緒にしておいてくれたまえ』って悪戯っぽく微笑みながら言って、ウインクをしてみせたんだ」

 そのセイさんの仕草も言葉も自分に言われたように目に浮かんできます。

 渋くて、カッコよくて、そしてチャーミングなセイさん。

 もちろん、冗談で言ったのだとはわかりましたけれども。

「禄朗さんは、そのセイさんの冗談の言葉に」

「そうだ」

 禄朗さんは、大きく息を吐いて、言います。

「その言葉のどこにも嘘はなかった。冗談だろうとジョークだろうと、嘘の言葉か本当の言葉かは俺にはわかる。セイさんは、本当の言葉しか言ってなかったんだ。つまりそれは」

「〈怪盗セイント〉はセイさん」

 そういうことになります。

 もちろん、あくまでも、禄朗さんの嘘の言葉がわかるというのがそのときも当てはまってのことですけれど。

「〈怪盗セイント〉は、変装の名人でもあったという話もあるそうだよ。誰もその本当の姿を見たことがない。だから、実際の年齢よりも十や二十ばかり若い人物になりすますことなんか、朝飯前なんじゃないかと思うんだが」

 変装の名人。

「では、セイさんが、まったく別人の扮装をして、調律師さんになって学校のピアノを調律していったってことですか?」

「そう考えても、全然不自然じゃない。〈怪盗セイント〉がセイさんだと知っている俺の中ではね」

 確かにそれなら不自然ではないんでしょうけれど。

「それは、セイさんが本当に〈怪盗セイント〉だってわかったってことは、今まで誰にも言ってなかったんですよね。嘘がわかるって誰にも言っていないんですから」

 もちろん、って禄朗さんは頷きます。

「言ってないし、この先も言うつもりはないさ。たとえイギリスにいた頃に〈怪盗セイント〉であったとしても、セイさんは、セイさんだ。俺が生まれる前からずっとここに住んでいる、優しくて楽しいおじさんだ」

 そうですよね。

「きっと商店街の皆が、そう思ってるよ。セイさんが〈怪盗セイント〉じゃないかって疑われたときからね。そうであろうとも、セイさんはセイさんだって」

 仮に警察とかに追われたとしても、全力で味方をする。匿ったり、逃亡を手助けしたり。あるいは何か訊かれたとしても、とことん素っとぼけてセイさんを守る、と。

 そうなんだろうなと思います。私みたいな生まれながらの商店街の一員ではない新参者でさえ、セイさんのことは好きです。

 しかし、そのセイさんが〈怪盗セイント〉が、調律師になりすましていたのだとしたなら。

「その技能も身につけているんでしょうね。少なくとも学童保育の教室のピアノは本当にきちんと調律されていたんですから」

 たぶんな、と、禄朗さんは言います。

「随分昔だけど、商店街のお祭りのイベントでキーボードを弾いている姿は見たことある。本当にプロ並みの演奏をね。だから当然ピアノも弾けるはずだ。確か、セイさんの家にはピアノもあって、一人娘の亜弥ちゃんもずっとピアノをやっていたはずだ。芸術関係には何でも相当詳しい人だから、ピアノの調律も実はできるのだよ、と言われても俺は納得してしまうな」

〈怪盗セイント〉ならそうなのかもしれません。

 どんな不可能なことも可能にしてしまう、だから文字通りの怪盗なんだと、誰かが言っていました。

「でも、もしも本当にセイさんが調律師になっていたんだとしたら、なんでそんなことをしたんでしょう」

 それはもちろん、と、ピアノを弾くような手つきをしました。

「ピアノをきちんと弾かせるためなんだろうと想像する」

「きちんと」

「今までのキーワードを全部足して考えてみると、【大賀は、日曜の小学校で、大人たちには内緒で。麻衣ちゃんにきちんと調律されたピアノを弾かせる】ということになる。何故そこまでしてピアノを弾かせるのか、最終的な目的はまったくわからないが」

 調律が狂っているピアノを弾くこと自体、ピアノをやっている子にとっては本当にイヤなものです。

 それは、よくわかります。

「麻衣ちゃんに、きちんと調律したピアノを学校で弾かせるために、大賀くんが大人たちには内緒でセイさんに頼んだってことになるんでしょうか」

「あくまでも、想像で、キーワードを繋ぎ合わせたらそういう話になるってことだ。大賀はもちろんセイさんを知っているし、セイさんは、どう言えばいいかな、商店街の子供たちにとっては昔から優しくて頼りになる味方なんだ」

「味方」

「俺たちの親の世代だって地主だった矢車家の当主であるセイさんのことを何かと頼りにしていたし、そういうのを肌で感じてきた子供たちにとっては、近所に住んでいる大ボスって感じだ。ゴッドファーザーみたいなね。昔の話だけど、親と喧嘩して家出してセイさんのところに転がり込んだ子供だっていたよ」

「え、そんなことが。誰ですか」

「内緒だぞ。韮山の柾だ」

〈花の店にらやま〉の柾さん。双子のお兄さんの方。

「そんなことあったんですか。柾さんって今おいくつでしたっけ」

「確か、五歳ぐらい下だったかな。俺が小学校六年生のときに一年生だったはずだから」

 双子の柾さんと柊さん。とにかくイケメンの二人で、お店にいると文字通り花を背負ってキラキラと輝くようで凄いんです。二人を目当てにしてお花を買いに来る若い女の子たちだってたくさんいるぐらい。

「もしもセイさんに頼んだのだとしたら、セイさんもその大賀くんの目的に賛同してやったってことですよね。つまり、良い事なんですよねきっと」

「そうだと思う。そして決して危険なことでもないんだろうな」

「仮にそうだとしたら、じゃあどうしてセイさんは名前のアナグラムなんて、言ってみれば証拠みたいなものを残したんでしょうか。〈怪盗セイント〉は何ひとつ証拠を残さない、完璧な怪盗なんですよね」

「そこなんだ」

 禄朗さんが、ホワイトボードに書いた〈矢車聖人〉の名前をくるっと丸で囲みます。

「瀬戸丸郁哉が矢車聖人のアナグラムじゃないかって気づいたときに、もしも本当にそうなら、これはひょっとしたら大賀の企みに繋がっていて、そして放っておいていいことなんじゃないかって」

「放っておいていいこと?」

「たぶん、何かあったとしても、セイさんが何もかも後始末してくれるんじゃないかな。そうじゃなきゃ、こんなアナグラムのような〈証拠〉を〈怪盗セイント〉が残すはずがないって、俺も思ったんだ」

 じゃあ。

「わざと、ですか? 誰かが瀬戸丸郁哉は矢車聖人のアナグラムだってことに気づいてもいい。気づかなくても、本当に何かあったら自分からバラせばいい、私が係わっていたんだと言う、そのための証拠って感じでしょうか?」

「そうだと思うんだ。俺が気づくぐらいだから、きっと他にもこれに気づく人はいる。もしも危ないことをしているんならそんなことするはずがない。だから、バレてもいい、良いことをしているんじゃないかって」

「むしろ、バレることを前提に考えているんでしょうか」

 言うと、なるほど、と禄朗さんが少し考えます。

「そうだな。バレることを前提にして、実は私が手を貸したんだ、その証拠に名前のアナグラムみたいなものを残した、とセイさんが名乗りを上げる。か。確かにその方がスッキリするね」

 バレることを前提にした、行動。

「え、でもそんなことをすると〈怪盗セイント〉がセイさんだと皆にわかってしまうんじゃ」

「そこまではバラさないんだろう。大騒ぎになってしまう。あくまでも〈瀬戸丸郁哉〉が〈矢車聖人〉のアナグラムを使った偽名であり、あの人物は私の知人なんだとセイさんが言えばそれで済むこと」

 そうか。

「そうですね。〈怪盗セイント〉のことまでバラす必要はないんですものね」

「セイさんの変装だ、なんて俺は想像したが、ひょっとしたら本当にただのセイさんの知人かもしれない。その可能性の方が高いっちゃあ高いかもしれない」

 大賀くんの目的に、セイさんが手を貸した。

 麻衣ちゃんに、学校でピアノを弾かせるために。

「大賀くんは何をしようとしているんでしょうか」

「そうだな」

 禄朗さん、うーん、と唸って、下を向きます。

「セイさんに訊けば、全部話してくれるかもしれない。今の想像が全部勘違いでもなかなか面白かったよと笑って済ませてくれるだろうけどな。どっちにしても日曜まで待つしかないかな。作戦の終了を」

 作戦。

 まさしく作戦なのかもしれません。

「それが本当に無事に終われば、全部話してくれそうですね」

「話してくれるし、ユイちゃんが言ったようにバレることが前提の作戦なら、日曜にでもすぐに耳に入るんじゃないかな」

 日曜日まで、悶々としそうですけれども。

「確かに、ここまで考えておいて何も確かめないというのも気になってしょうがないが、それこそ大賀のためにはしょうがない」

 本当に、その計画か作戦が、無事に終わってくれるのを祈るのみ、でしょうか。

       ☆

 何事もなく土曜日が過ぎていき、日曜日が来ました。

 禄朗さんの入院中は休業していて、再開して最初の日曜日。

 あまり凝った中身ではありませんけれど〈たいやき波平〉のサイトもありますから、店主が戻ってきて通常営業になりますと告知はしてありました。

 そのせいもあったのかどうか、それまでの日曜と同じように、午前中から近所ではない遠くからやってきてくれるお客様が大勢いました。

 歩けない禄朗さんはスツールに座ったままひたすらたいやきを焼くことに専念して、私がお客様をさばいていきます。小さな店ですから、本当に二人でちょうどなんです。三人もいると狭くなって余計に動けなくなってしまうから。

 町の外からやってくるお客様はほとんど〈たいやき〉を買って帰る人で、店の中に入って座ってたいやきやあんみつを食べていくのは、ほぼ近所の人たちです。

 座って食べていく方にお冷はもちろん無料ですけれど、お茶はちょっと良いものを常に使っているので十円プラスになります。

 たまにお茶だけ飲んで帰っていく商店街の人たちもいますけれど、そういうときには裏メニューとしてあんこをディッシャーで取った〈あんこ玉〉を一緒に出して、二十円いただきます。

 お客様のためにキャッシュレス決済にも対応したいのですけれど、まだ検討中でお支払いは現金のみ。それでも特に不自由はありません。

 クルチェがお店に入ってきたりしないようにゲートを一応は置きました。でも、特に悪戯をすることもなく、お店と居間の間のゲートのところでこっちをじっと見ながら大人しくしていたり、そのまま眠ったり、ときどき家の中を走り回ったり。

 猫の毛が入ってきたりしないように、空気清浄機を置いたり、仕込みするところにカーテンを吊るすなどの工夫ももう少ししようと話していました。

 昨日の土曜日もそうでしたけれど、商店街の人たちが、禄朗さんの退院祝いだと顔を出してくれます。それにお礼を言って、禄朗さんがたいやきを焼きながら、会話をします。

 本当に何気ない、普通の会話です。

 どれぐらいで歩けるようになるの?

 結婚式はいつになりそうなんだい。

 アンパイアができないのは残念だけどなぁ。まぁまた来年だよ。

 もし手が足りなくて困ることがあったらいつでも言ってきてね。

 何か足りないものはない? 買ってくるから言ってね。

 などなどなど。

 お礼を言ったり、返事をしたり。それから最近の景気の話をしたり、商店街のイベントについての話をしたり。

 私が聞いている分には、ごくごく普通の会話です。でも、禄朗さんはもう三十年以上も、その中に〈嘘の言葉〉を聞いてきてしまっていた。

 それを知って、どんなにか辛いことだったんだろうと痛感しました。本当に何でもない会話なのに、そこに嘘を感じてしまったら。

 私だったら、本当に誰とも会いたくなくなるでしょう。一生誰とも話したくなくなる。

 禄朗さんは、私の言葉には嘘がまったくないと言いました。自分ではまったく意識はしていませんでしたけれど、改めて思いました。

 これから一生、禄朗さんに対しては正直でいようと。今までもそのつもりでしたけれども、どんなささいなことでも隠したりしないようにしようと。

 日曜日は、お昼時がいちばん暇になります。

 やはり、お昼ご飯に甘いものを食べようという人はあまりいないからでしょう。

 ですから、飲食店としては珍しいでしょうけれど〈たいやき波平〉のお昼ご飯は普通に十二時過ぎぐらいに済ませるのです。

 お客様も途切れて、お昼の支度をしようと思った十一時五十分です。

 のれんをくぐって、セイさんがやって来ました。

「やぁ、ロキュロウくん、ユイちゃん」

 いつものように三つ揃いのスーツを着て、ステッキを持ち、もう片方の手には何か袋を提げています。セイさんは日本語は完璧にペラペラなのですけれど、言葉によっては英語訛りのような発音になるものがあります。

 カ行の言葉がそうらしく、〈ろくろう〉が〈ロキュロウ〉と聞こえます。私の〈ユイ〉は日本語の〈ユイ〉ではなく、完全にアルファベットの発音で〈Yui〉と。

「セイさん、いらっしゃい」

 ちょっとだけ、驚いてしまいました。

 この間からセイさんの話ばかりしていたせいです。いつも冷静な禄朗さんの表情にも少し動揺が見えたような気がしました。もちろん、ホワイトボードに書いた〈せとまるいくや〉の文字などのあれこれはちゃんと消してあります。

「お祝い、というには早いだろうがね。まだ足が不自由なのだから」

「いえ、もう大丈夫ですよ」

「〈バークレー〉のカレーを持ってきた。私の分も買ってきたので、お昼を一緒にさせてもらっていいかな」

〈バークレー〉のカレー。禄朗さんは大好きです。毎日晩ご飯はカレーでもいいぐらいの人なんですから。

「なんか済みませんわざわざ」

「なに、久しぶりにロキュロウくんとも話したかったし、ユイちゃんとの婚約の祝いもしていなかったしね。それに」

 セイさんが、店の奥の方を見ます。

「あの黒猫を飼い出したのだろう? 会いたかったしね」

 あぁ、と二人で笑いました。クルチェも何かわかったのか、ゲートの向こうでちょこんと座ってこっちを見ています。

 禄朗さんがクルチェをかばって怪我したときに私は一緒に走っていましたけれど、ちょうど通りの向こうをセイさんも歩いていて、転んだままの禄朗さんの様子がおかしいと助けに来てくれたのです。

 ですから、実はクルチェを最初に抱っこしたのもセイさんなんです。

「名前はどうしたのかね」

「クルチェにしました」

 クルチェ? とセイさんは不思議そうな顔をします。しますよね。意味を説明すると、なるほど、と微笑みます。

「さて、まだ温かいうちに食べよう」

〈バークレー〉のカレーはお持ち帰りができるように容器に入っています。それを受け取って、禄朗さんはカウンターの中でスツールに座ったまま。

 私は、カウンターを出てセイさんの隣に座りました。

「いただきます」

 良い香りのするカレー。たいやき屋にカレーの香りが漂うのもちょっと変ですけれど、すぐに香りは抜けていきます。

「まぁお祝いもあったというのは本当なのだがねロキュロウくん」

「はい」

「説明をしに来たのだよ」

「説明?」

 禄朗さんに向かって、セイさんが微笑みながら頷きます。

「大賀くんの件でね」

 眼を大きく開いてしまいました。

 大賀くんの件って。

「え、それはなんでしょう」

 セイさんが、カレーを食べてまた微笑みます。

「とぼけなくても大丈夫だよ。ある筋から、と言ってもすぐにわかってしまうだろうから言うが、ホキュトから話を聞いてね。ロキュロウくんが不思議な質問をしてきたと」

 ホキュトは北斗さんですね。

「これは、ホキュトが悪いわけではないんだ。たぶん内緒にしておいてと頼んだのだろうが、ホキュトがバラしたわけではない。たまたまなのだが、ロキュロウくんがホキュトに電話をしていたとき、私は〈松宮電子堂〉で買い物をしていたんだ。仕事に使う材料をね」

 セイさんのお仕事は、モデラーです。模型を造る人。その業界では世界的にも名を馳せた人だそうです。

「聞き耳を立てていたわけではないのだが、ロキュロウくんからの電話だというのはすぐにわかった。そして〈小学校〉や〈内緒〉や〈調律〉〈こっそり〉などという単語が聞こえてきたのだよ」

 禄朗さんが、少し驚いた顔をします。

「それで、わかったんですか」

「わかるとも。ロキュロウくんがホキュトに何か調べてほしいと頼んだのだな。そしてそれは〈内緒〉で〈こっそり〉のことで〈小学校〉や〈調律〉に関することだと。そうなれば、もうそれは大賀くんの件でしかあり得ない。君は大賀くんの叔父なのだからね。どこかで事前にバレるとすれば、それはたぶん大賀くんの身内からだろうと思っていたからね」

 事前にバレる。身内から。

 やっぱり。

「じゃあ、大賀が今日、小学校でピアノを使って何かをやると思っていたんですが、それをセイさんが計画して手助けしたのは間違いなかったのですね?」

 ニヤリ、と、セイさんが笑みを見せました。

「やはり何もかもわかっていたのだね。さすがロキュロウくんだ。君が調べ始めたのならあっという間に全部わかってしまうだろうと思っていたのだが」

 私を見ます。

「もちろん、ロキュロウくんが元警察官だというのは知っているね」

「はい」

「とてつもなく優秀な警察官だったというのも」

 頷きます。禄朗さんからしか聞いていませんけれども。

「私も、知っていたのだ。知り合いの警察官から聞いてね。ロキュロウくんが交番勤務の時代に、とんでもない捜査能力を発揮して日本警察史上類を見ないほどの検挙率を誇っていたのだとね」

 そんなに、だったのですか。そこまでは聞いていませんでした。

「何故そんなにも凄かったのか、どうして辞めたのかなどは私は知らないし、訊こうとはしないが、大賀くんの計画が漏れるとしたら、そんなロキュロウくんにだろうな、とは思っていたのだよ」

 大賀くんの計画。

 セイさんが、壁に掛けてある丸時計を見ました。十二時を過ぎました。

「もう皆も撤収した頃だろう」

 撤収。

「大賀ですか?」

 そうだ、と、セイさんが頷きます。

「今頃はもう小学校から、すぐ向かいのカイルくんの家に戻っているだろう。そしてお昼ご飯はカイルくんの家で食べることになっているそうだよ。ちなみにカイルくんの家は今日はご両親が用事があって出かけていて、子供たちのために」

 ひょいと、スプーンを持ち上げます。

「カレーライスを作って置いてあるそうだ。皆で食べているだろう」

「皆ということは、大賀の他にピアノを弾いたのであろう麻衣ちゃんとカイルくん?」

「他にも翔平くんと美奈ちゃんがいるらしいね。皆仲良しの仲間たちだそうだ」

 仲良しの、五人、ですか。

「その五人が、セイさんの立てた作戦通りに、今日何かをしたんですね?」

 いいや、と、セイさんは首を横に振りました。

「私は、フォローしただけだよ。ほぼ全ての作戦を立案したのは、大賀くんだ。ロキュロウくん、君の甥っ子は天才かもしれない。実に将来が楽しみだ。彼が何かで成功するときを私が見られないかもしれないのは残念だがね」

 天才、ですか。

 確かに、プログラミングなんかもこなしてその片鱗は見せているとは思いますけれど。

「何をしたんですか大賀は一体。セイさんがフォローしているということは、いけないことではないとはわかっているんですが」

 うむ、って感じでセイさんは頷きます。

「全ては、麻衣ちゃんのためだ」

「麻衣ちゃんの」

「おそらくもうわかっているだろうが、麻衣ちゃんの境遇については知っているね?」

「聞きました。不倫と、離婚の件ですね?」

 そうだ、と、頷きます。

「私も大賀くんから聞かされて、後から調べてわかったことだが、麻衣ちゃんはピアノの才を持っていたようだ。将来かなり有望だと、その不倫と離婚でどこかへ行ってしまったピアノの先生は思っていたようだ。実際、凄かったらしいね」

「そうなのですか」

 ピアノを習い始めた子供たちの中には、光るものを持った子はけっこうたくさんいるそうです。それは私も聞いたことがあります。

 けれども、その光るものがさらに大きく輝きを放つためには、環境がもっとも影響するのだと。すなわち、習う先生や家庭環境。何かが足りないと、その光るものはただ光を見せただけで終わってしまうことがほとんどなのだとか。

「麻衣ちゃんには確かに光るものがあった。それは本人もわかっていた。しかし、環境は失われた。離婚したお母さんと暮らし始めた麻衣ちゃんには、ピアノもなくなってしまった。習う環境も失われた。そしてまた、新しい環境すら用意できない。お母さんは、決して裕福ではないのだよ。シングルマザーとして、つつましい生活しかできないのだ」

 思わず、溜息が出ます。悲しくなります。親の勝手で、どれだけたくさんの子供たちがその光るものを失ってしまうものか。

 私もそうだとは言いませんけれども、親が離婚したことの影響がどれだけあるかは、よくわかります。

「大賀くんも、麻衣ちゃんのピアノの才能をよくわかっていた一人だったのだな。絶対に彼女に再びピアノを与えたい。環境を整えたい。そのためにはどうしたらいいか」

 セイさんが、人差し指をピンと立てました。

「大賀くんは、ひとつの方法を思いついたのだよ。そのために用意したのは、ハトと調律師だ」

 ハトと、調律師?

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