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第7回

娘の相手は元警察官でたいやき屋でアンパイア

九 娘の相手は元警察官でたいやき屋でアンパイア

 離婚したって、娘は娘だ。
 俺の血を分けた子供だ。たとえ離婚して離れ離れになってからもう十五年が経ったとしても、娘は娘だ。
 って言ってもだ。
 自分ではそう思っていても、世間様的にはあんまりというか、そうそう通用しねぇってのはわかってる。いや娘であることは間違いないんだろうけれど、離婚して離れて暮らすようになってもう十五年経っているのに、って言われちまうよな。
 そして離婚した後もぐだぐだ元妻といろいろ揉めちまって、娘の顔も見られないで何年もまともに顔を合わせてもいなくてさ。養育費なんかは一応は支払っていたものの、刑事の安月給じゃあ、本当にすずめの涙ってもんだった。
 そうなんだよな。離婚して十五年だ。
 別れたときに小学生だった娘も二十三歳にもなっちまっている。いやまだ二十二だったか? あ、二十四だったか?
 とにかく、もう大人の女性になっちまっている。
 どうして俺の娘にこんな才能が、って思っていたぐらいに才能に溢れた娘だった。勉強もできたし歌も上手いし絵も上手かった。将来は歌手か画家かってぐらいに。
 そう思っていたのに気がついたら身体まで鍛え上げてライフル射撃なんてもんを始めてしまっていた。あれよあれよという間になんとオリンピック代表にまで選ばれて、オリンピックに出ちまった。
 びっくりだ。
 残念ながら金メダルは取れなかったけれども銀メダルは取った。本当に大したもんだと思うよ。
 まぁ、射撃ってのは集中力だ。そういう意味では、小さい頃から絵を描いていてそういうものは凄かったってのは、わかる。真剣に絵を描き出すと、いくら声を掛けても気づかないぐらいだったからな。
 一応、俺は警察官で射撃訓練なんかもしているからな。銃を撃つってのは、どういうことかってのは、わかる。
 技術とか体力以上に、一瞬の集中力が大事なんだ。
 まぁ、スポーツはほとんどがそうかもな。野球なんかもそうだと思うぞ。ボールを投げるときも、バットで打つときも、いちばん大事なのはその一瞬の集中力だ。
 もちろんピッチャーもバッターも、やってるときは集中している。気なんか散らさないし逸らさない。しかし勝負を分けるのは、ピッチャーならボールを手放すその一瞬。バッターならボールをとらえるその一瞬。
 そこの、集中力。
 そこが勝負の分かれ目なんだ。
 射撃で言えば、引き金を引くその一瞬だ。
 そこさえピッタリと合えば、ボールは唸りをあげるしバットは快音を残すし、弾は的に向かって一直線だ。
 仁太の野郎がとんでもない射撃能力を持っているってのは、その一瞬の集中力がハンパ無いからなんだ。あいつは撃つ前にどんなにヘラヘラしていてもその引き金を引く一瞬の集中力が、たぶん常人の百倍ぐらいになる。
 話を聞いたら、撃つ瞬間にあいつは見ている世界が全部スローモーションになるように感じるそうだぜ。
 全部が、まるで十分の一ぐらいのスピードになっているって感じるそうだ。つまり、一秒間が十秒間ぐらいになるってことだな。そりゃあもう、どんな撃ち方したって的に全部当たるさ。その凄さを目の当たりにした俺にはよくわかる。
 娘も、ユイもそういう集中力を持って生まれたんだな。仁太には及ばねぇとしても。
 その娘が、ユイが、結婚を決めたって。
 大人になったとはいえまだ二十三、四の若さで。
 いやその前に別れた嫁が、亜由子が再婚するっていう。
 それは、いい。お目出度めでたいことだ。そして嬉しいことだ。ずっとさっさと俺なんかよりもいい男と再婚してくれればいいって思っていたんだが、なかなかそんな話は聞こえてこないで、一人でユイを育てていて。
 まぁ看護師という手に職があったから暮らしはなんとかなってきたんだろうがな。そしてユイが学校も卒業して一人立ちするってところで、どうやら幸せを見つけたらしくて、それは本当に良かった。盛大にお祝いしたいところだったが、元夫にそんなにお祝いされても亜由子もそして新しい旦那も困るだろうから、一言電話するだけにとどめておいたが。
 それは、いい。
 そしてユイが結婚を決めたってのも、まだ若いと思うがそれは人それぞれだからいいとしても。
 相手が一回りも上ってのはどうなんだ、と。
 三十七にもなったおっさんってのは。
〈たいやき波平〉はもちろん知っていた。そういう店があるってのは。
 生憎と甘いものはあんまり得意じゃないんで、もう十何年も〈花咲小路商店街〉に通っていて一度も入ったことがないし、食べたこともなかったんだが。
 そこを継いだ宇部の禄朗。
 しかも、元警察官だったっていうのは。

 電話は、貰っていたんだ。ユイから直接。
〈お父さん、結婚しようと決めた人がいるの〉って。
 びっくりしたよ。いやいつかはそんな日が来るとは思っていたが、まさか馴染みの〈花咲小路商店街〉の店の人間だとは。そして、〈ちゃんと紹介したいから、会える日を教えて〉ってさ。
 会える日たって、店はほとんど休み無く営業している。そしてこちらもほとんど休みはあってないような感じで仕事を、捜査をしている。非番や休日の日がたまたま〈たいやき波平〉の定休日に重なった、なんてことはそうそうない。
 そのうちにユイは、怪我をしちまった禄朗のために宇部家に泊まり込みで店を手伝うなんてことになっちまって。
〈ずっと店に、宇部の家にいるから〉ってさ。
 結婚前の娘が、いくら婚約したからって男の家に泊まり込みで働くなんていうのは。
 なんてことは言えないんだよな。
 娘とはいえ、離婚して離れて暮らしていた身だ。しかも、母親である元妻も同意の上だ。
 その母親ももう新しい夫と一緒に住んでいて、そこには一応ユイの部屋もあるが、ユイも継父と一緒に母親の新婚家庭に住む気はないようだし、何よりもユイはもう成人した立派な大人の女性だ。
 何をしようが、本人の自由だ。
 それで、たまたまだ。
 たまたま今夜は手が空いた。抱えている案件も夜中まで駆けずり回るようなものはない。そしてユイが宇部家に泊まり込むようになって数日経っている。
〈たいやき波平〉の営業は午後七時まで。それから向こうは晩飯だろう。そこに顔を出せば、じゃあ一緒に晩ご飯でもってなるだろう。
 晩飯は誰が作るのか。たぶんユイなんだろう。あの子は料理も得意、のはずだ。そう聞いている。ユイの手料理なんて、食べたこともない。とにかく器用な子だったからな。なんでも一度覚えれば器用にこなしてしまえるんだ。
 飯を食いながらなら、少しは間が持つんじゃないか。一回り以上も上の、ユイの夫になる男との会話も。
 だから、店が閉まる直前に電話したんだ。〈向田商店〉の旨いトンカツでも買って持っていくから、飯を食いながら話を聞かせてくれって。
 何がどうしてどうなって、結婚を決めたのかって。別に文句とかそんなものは言わないからってさ。言える立場でもないし。
 それに、どうしても気になることがあったから。
 訊きたいことが、確認したいことがあった。
 元警察官としての、宇部禄朗くんに。

 初めて中に入ったが、〈たいやき波平〉は良い店だ。
 昭和の時代からまるで改装もしていないように見えるクラシカルな家なのに、清潔感が漂っている。レトロ風味とかそんなのじゃなく、きちんと毎日手入れをしているから何もかもが、変な表現だが生きている家って感じだ。
 事件なんか追っていろんな家に入るが、そう感じることは多いんだ。死んだ家と、生きている家ってな。人気ひとけがない家と、ある家だ。人気がないってのは、誰も住んでいないって意味じゃなく、住んでいるんだろうけど、家が死んでいるんだ。
 そういう家には、犯罪が伴うことが多い。まぁそもそも犯罪が起きたから俺たちが足を踏み入れてるんだが、そういうふうに感じるんだ。
 宇部家は、生きている。人がきちんと生活をしている家だ。まぁそれだけで、宇部禄朗くんはちゃんとした男だってのは、なんとなくわかる。
 店の奥の家の中もそうだ。これはマジで建てた当時のものに一切手を入れていないのだろうに、どこもへたってはいない。しっかりしている。建てたのはよほど腕のいい大工で、しかもきっちり金を掛けたのに違いない。豪華なものを使ったのじゃなく、しっかりした材料をきちんと使ったんだ。
 そして、今どきちゃぶ台で飯を食うなんざ久しぶりというか、ひょっとしたら初めてじゃないか。
「古いちゃぶ台だな」
「いつのものかはわからないんですが、父の生まれる前からあったそうです」
 じいさんばあさんの時代からか。となるとやっぱり昭和初期のものがそのまま使われているんだろう。
 宇部禄朗くんは、なるほど生真面目を絵に描いたような男だ。
 そして、元甲子園球児で、それからもずっと身体を鍛えているんだろう。ガタイがいいんじゃなくて、全身の筋肉がしっかりついている。細マッチョってやつだな。
 アンパイアっていうのは、特に野球の審判は、サッカーの審判と違ってまるで動かないから身体を鍛えなくてもいいだろう、っていうのは間違いなんだな。
 プロであろうとアマであろうと、野球の試合は三時間も四時間も続く。その間、アンパイアは立ちっ放しだ。そして、常に集中力を保たなきゃならない。頭も身体も両方限界まで毎試合使うのが、アンパイアだ。ある意味、試合をやっている選手たちよりも過酷な商売なんだ。
 鍛えているんだろう。心と身体の両方を。
 前に聞いたことがあるが、野球のアンパイアの、特に高校野球の審判の規則っていうのは厳しいことが書いてあるそうだ。
 いわく〈高校野球は教育の一環であり、野球を通じて将来日本の社会に役立つ立派な人間を育て上げることを大きな目的としています。我々審判に携わる者は、優秀な審判技術の持ち主であると同時に、高校野球らしさを正しく教える指導者でなければなりません〉
 そんな感じにな。
 禄朗くんは、いかにもそんな感じの青年に見える。商店街の皆から、堅物って言われているのもわかる。
 トンカツを買っていくと言って持ってきたら、当然のように細切りキャベツを山のように用意してあった。そして豆腐と葱のシンプルな味噌汁に、ポテトサラダもたくさん。
「これ、うちのじゃなくて宇部家のポテサラよ」
「宇部家の?」
 家庭でポテトサラダを作ると、その家独特のものはよくあるよな。
 我が家で、かつての権藤家で昔出ていたポテサラは亜由子の実家、つまりお義母さんが作られていたもので、リンゴのスライスが入っていた。初めて亜由子の手料理でそのポテサラを食べたときには、リンゴか、とちょっと驚いた。
「うちのは、母親が作っていたもので、マカロニがたくさん入っているんですよ」
「マカロニか」
 そりゃ珍しいな。いやマカロニサラダも旨いよな。
「たくさん食べるとお腹一杯になるから気をつけてね」
 確かにな。むしろこのマカロニ入りポテトサラダとトンカツだけでももう白いご飯はいらないぐらいだが。
「あの、権藤さん。改めまして」
 治っていないから足を伸ばしたままの禄朗くんが、すみませんと言いながら姿勢を正そうとする。
「あぁいい、いい」
 そんなのは、いらない。
「父親っていってもずっと離れて暮らしていた父親だ。そんな義理は果たさないでいいから。結婚でも何でも好きにやってくれ」
「いえ、それでも」
 真面目だな。
 本当に真面目な男なんだな禄朗くん。
「ユイさんと、お付き合いして、結婚を約束しました。どうぞ、よろしくお願いいたします」
 娘さんをください、とは言わなかったってのもまた真面目だな。離れて暮らすようになって十五年も経つ父親にはそんなセリフはかえって申し訳ないだろうってことだろうさ。短くていい。飯が冷めなくて助かる。
「こちらこそ。まずはよろしくお願いします」
 幸せにしてやってください、なんて言える立場じゃない。親が離婚した子供という境遇を与えてしまったろくでもない男だ。
「それで、だ」
 まだ背筋を伸ばしている。
「いやもう楽にして飯を食おう。腹が減った。そして、まずは、と言ったのは訊きたいことが山ほどあるからなんだが、食べながら話してくれよ。そう思ってこんな時間に来たんだ」
 いただきますを、揃って言う。
「まずはユイ」
「はい?」
「禄朗くんと知り合ったのはいつで、どうして付き合って結婚を約束することになったんだ。つまり、なれそめを聞かせてくれよ」
 俺は、まったく知らなかった。
 聞けば、商店街の連中はユイと禄朗くんが付き合い出した頃から知っていたっていうじゃないか。どうして足しげく、と言っても主に〈和食処あかさか〉に飯を食いにしか来ていないんだが、商店街に通っていた俺が知らなかったのか。
 ユイが、箸を持ちながらちょっと恥ずかしそうな表情を見せて、小首を傾げる。そういう顔は子供のときのままだな。
「なれそめと言われても、初めて〈波平〉に来たのは中学生のときだったから、初めて禄朗さんと知り合ったのはそのときになっちゃうし」
「そうなのか」
 そうか、学校の帰り道に商店街に寄るのは全然普通だったか。
「じゃあ、たいやきとかもう食べていたのか」
「食べていたよ。普通に。禄朗さんとも、お店の中で食べるときにお話しとかしてもらっていたから」
 そうだね、というふうに禄朗くんも頷く。
 まぁ、そうか。お客さんと店主か。
「恥ずかしいけれど、言ってしまうと、その頃から私はもう禄朗さんのことが好きだったから」
「え、そうだったのか」
 そんなに早くからなのか。幼い恋というか、中学生の頃に恋をしたのが禄朗くんだったってことなのか。
「まさかよぉ、禄朗くん。お前さんもその頃からユイを、ってことは」
「いいえ」
 思いっきり首を横に振ったな。
「いえ、こうなってしまってこうやって否定するのもなんですが、そのときユイさんは中学生。僕は二十半ばも過ぎたおじさんですよ。そんなこと、欠片かけらも思っていませんでした」
「良い子だな、ぐらいには思っていたんだよな?」
「それは、もちろんです」
 力強く頷いた。
「何度も来てくれて、そして話すようになればその人のことはわかってきますよね。ユイさんのことを悪く思う人間などいないでしょう。その頃からずっと正直で、真っぐな心根の女性です」
 うん。その通りだ。
 本当にユイはそんな女の子なんだ。まぁ真っ直ぐ過ぎて、思いが強過ぎて少し暴走気味になっちまうようなところはあるようなんだが。
 あ、すると。
「アプローチっていうか、そういう気持ちを伝えたのはユイの方だってことか?」
 ユイが、また恥ずかしそうに頷いた。
「高校卒業したときには、もう」
 好きです、なんて伝えたのか。告白したのか。そうだ、大人しそうな顔はしてるんだがそういうところ、ハートが強いよな。そういう子だよな。
 そうか。
「それで、まぁ短大も卒業して自分の母校でコーチとして働き出してから、大人同士として付き合い出したってことか。まさか未成年のうちに手を出したなんてことは、ないな」
 この禄朗くんに限っては。
「ありません」
 堅物で女嫌い、なんて話も出てきた。この年になるまで浮いた噂のひとつもなくて、ユイと付き合い出したときには周りの連中が本当に驚いたって話も聞いた。
 そんな男がな。
 まぁ、見たらわかる。二人は、似合っている。並んで座っているが、そこに違和感みたいなものは何も、ない。そういうのは、大事なんだ。
 二人と顔を突き合わせて食べる飯が旨い。そう感じるってことは、良いってことだ。何も心配することはないってな。
 だが、もうひとつだけ。
「これだけは訊きたかったということがあるんだが、禄朗くん」
「はい」
 驚いた。そして、疑問に思った。疑問なんてもんじゃない。人生で最大に驚いたことかもしれなかった。
「全然知らなかったんだが、君は、元警察官だった。警察学校を出て交番勤務になった」
「はい」
 何を訊かれるか、もうわかったという顔をしているな。
「けれど、二年で辞めてしまった。辞めて〈たいやき波平〉を継いだ。しかし、警察官を辞めるまでの二年間で、二百二十八件もの検挙をしていた」
 ユイが、少し眼を丸くした。驚いたように。
「知らなかったのか?」
「たくさん犯人を捕まえたのは聞いてた。でも、そんな数までは知らなくて」
 そうか。
「単純計算で、三日に一件は犯人を検挙していたことになっちまう。これは、とんでもないことだ。そんな統計は取っていないが、間違いなく日本の警察が始まって以来最高の数字だろう。今までも、そしてこれからも、そんな数字を挙げる奴は出てこないに違いない」
 間違いなくそうだ。化け物みたいな数字だ。
「伝説の警察官、なんて言ってるやつの気持ちがわかる。俺もそう思ってしまうよきっと。そしてその伝説の警察官が眼の前にいるわけだが」
 どうしたって、訊きたくなる。
「細かく調べることなんかできなかったんだが、その数字は職務質問して捕まえたってのがほとんどなのか? 片っ端から職務質問でもしていかなきゃ、それだけの数の検挙ができるはずがないんだが」
 禄朗くんが、迷うように、表情を変える。
「正式、というか、職務質問に正式も裏もありませんが、きちんとした職務質問はほとんどしたことないです」
 ない?
「じゃあどうやって犯罪者を見つけたんだ」
 まだ、何かを迷っている。それこそ何か裏があるのか。
 あるなら、そしてその裏ってものがとんでもないものなら、そんな権利はないが、娘との結婚など許せるはずもないんだが。
「ただ、カンです。そもそも職務質問の要件も〈異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者〉〈既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知っていると認められる者〉と定められてはいますが、現場ではほとんどカンですよね」
 そういうふうに決まっているが。
「まぁ、そうなんだがな」
「やっぱりカンなの?」
 俺に向かってユイが言う。
「大きな声でそうだとは言えんが、そうだ」
 言ってるがな。
「警察官ってのは、ある種のカンが働く奴ってのがいるんだ。もしくは警察官になってからそういうカンが鋭くなる奴がいる。やってるだろテレビでよく〈警察二十四時〉とかさ。パトロール中にすれ違っただけで『あいつ、なんかやってるな』って見抜いて職務質問するのがさ」
「やってる」
 ああいうの、たまたま観るとついつい見入っちゃうよな。
「カンだよ。長年のというか、そもそもそういうのに鋭い人間がそうなっていく」
 俺自身もそういうのが働くときがあるが。
「もしも禄朗くんがそもそもそういうカンが鋭かったとしても、だ。検挙に至るまでにはただのカンだけで行けるはずもない。しかもド新人の交番勤務の警察官が、だ」
「そうですね」
「何があった? いや、どんな方法で引きずり出した? そいつの犯した罪を」
 自白が、いちばんだ。正直、証拠はその後の二番目でもいい。自白をさせて証拠を見つければ、逮捕ができる。それがいちばんの近道だ。
 禄朗くんが、大きく息を吐いた。
 それから、ユイを見た。
 ユイが、頷いた。
 ってことは、ユイはその理由を知ってるってことだな。
「ついこの間、ユイさんにも初めて伝えました。今まで、誰にも、親にも姉にも話したことはありません。知っているのは、今、ユイさんだけです」
 ユイだけ?
「それを、話します。できれば、秘密のままにしてほしいです」

       *

 嘘が、わかる。
 その言葉の裏にある嘘を感じ取れる。しかも百パーセントの確率で。
 信じ難いが、ニュアンスはわかる。俺たち警察官はそうだ。尋問したり職質したりして、こいつは嘘を言ってるな、ってのを感じることはよくある。
 しかし、禄朗くんは発した言葉がピンポイントで嘘かどうかがわかるってか。
 そういうことか。
「それで、二百二十八件の検挙か」
 警察官を辞めてしまったのも、それが原因だ、と。
 気持ちは、わかる。人を疑うというか、まず疑問を感じ取るのは警察官の資質のひとつだが、禄朗くんは疑問どころか嘘がわかってしまう、か。
 人付き合いが悪いとか、堅物だとか、そう言われているのも、それで理解できた。キツイ人生を送ってきたなこいつも。そうか。
 そしてユイと付き合う、結婚を決めたのも、それだと。十年以上見てきたユイの話す言葉に、ただのひとつも嘘がなかったからだと。
 なるほど。
「わかった」
 それなら、わかる。
 安心したように、ユイが微笑む。禄朗くんも、小さく息を吐いた。
 そして、思いついたように顔を上げた。
「権藤さん」
「うん」
「話してしまったので、そして信じていただけたので、ご相談したいことがあるんですが」
 相談?
「何だ、その嘘の言葉がわかるってことでか?」
「そうです」
「刑事としての俺にか?」
 ゆっくりと、頷く。ってことは。
「犯罪絡みなのか?」
「まだわかりません」
 少し考えてから、言う。
「偽名を使って暮らしている人がいるんです」
「偽名?」
「いえ、偽名かどうかもわかりません。ただ、その人が名乗っている名前が、〈嘘〉なんです」
 名前が、嘘。
「つまり、偽名ってことじゃないのか?」
 いや、違うか。たとえばペンネームとかは偽名であることには違いないが、ニュアンスが違うか。
「そうだとは思うのですが、でもその人はしっかりと社会生活を営んでいるんです。結婚して子供もいます」
 少し息を吐いて、顔を顰める。
「初めて会ったときに名前を聞いて、それが〈嘘〉だとはっきりわかりました。本当の名前を言っていない。でも、きちんと社会生活をしている。ずっと気になっているんです。果たしてこの人は何者なのか、と」
「嘘の名前を名乗って、きちんと暮らしている人、か」
 そういう人間は、いるだろう。
 本名を隠して暮らしている人間は、たぶん山ほどいるはずだ。
「だが、結婚して子供もいるのに、周囲にいる人には嘘の名前を使っているんだな?」
「そうです」
「そしてそれを気にしてるってのは、禄朗くんの近いところで暮らしている人ってことだな? 近いところで暮らしてはいるが、親しくはない。どんなふうに生きてきたかなんて過去のことはまるっきり知らない、と」
「そうです」
「更にいえば、その人物が何らかの危険なことをするかもしれないっていうカンが働いているってことか?」
 いいえ、と首を横に振った。
「そんなふうには思えませんでした。ただ、悲しい結末にならなければいいんだけど、と心配になっているんです。不安です。子供もいる人なので」
 悲しい結末、か。
 嘘がわかっちまう、か。
 難儀なカンを持って生まれちまったんだなこいつは。
「それを俺に相談したってことは、調べられないか、ってことか。俺がこっそりその人のことを。どうして〈嘘〉の名前で暮らしているか、を」
 禄朗くんが、小さく頷いた。
「放っておこうとは思っていました。ただ、やはり自分の近いところにいる人なので、いざ何かあったとき、もしも正しい理由でそうしているのなら、助けられればいいな、と。こうして刑事である権藤さんにお話ししてしまったので、できるならその理由を」
 そうだな。
 どこまでも生真面目で、そして正しい判断をつけたいんだな。
「いいぜ。やってみよう。市民の安全を守るのも警察官の仕事だ。偽名でかつ真っ当に暮らしているってのは、確かに穏やかじゃあねぇ。犯罪に繋がっているかもしれない、とも判断できる」
 それを調べるのは、正しく警察官の仕事だ。
「ありがとうございます」
「で、どこのどいつなんだ」
「僕の四番目の姉、五月は〈ゲームパンチ〉の宮下一磨と結婚しています」
 それは知ってる。聞いた。
「そこの従業員である、野々宮真紀さんです」
 野々宮真紀さん。
 女性だったか。
「野々宮という名字に嘘はありません。真紀という名前に嘘があります」
 真紀、じゃない、と。
「従業員なら当然履歴書とか提出してもらって、雇っているんだよな?」
「そうだと思いますが、確認はしていません。僕がそんなことを姉に訊くのも、おかしな話なので」
 確かにな。
「子供がいるって言ったな?」
 ユイが頷いた。
「います。優紀くんです。そこの夜間保育園〈きぼうの森保育園〉に預けられているんです」
 夜間保育園。
「シングルマザーなのか? その野々宮真紀さんは」
「何か事情がありそうですが、そこまで詳しく知りません。姉のところで働いているとはいえ、数度顔を合わせた程度なので」
 まぁ、そうか。
 事情のある、若いお母さんが何故か偽名を使って暮らしている、か。

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