赤、ピンク、白、紫、オレンジ、黄色、青。
さまざまな色が並び、目にも鮮やかだった。これならば鯨沼駅からでてきたひと達の目を引くだろう。
いずれもスイートピーだ。花の中でもとりわけカラーバリエーションが豊富で、色別に花桶に入れてミドリが店の前に並べおえたところだった。
新しい年を迎えて十日が過ぎ、二日前には成人式もおわり、世の中はすっかり平常運転だ。ミドリは卒業制作に追われ、クリスマスや正月どころではなかった。アトリエでいまもF一〇〇号キャンバスと格闘中で、マンションに帰るのは着替えと風呂に入るために二日か三日にいっぺん、川原崎花店でのバイトは週四から週二にしてもらった。水土の早番で、年が明けて一月第二水曜の今日が、二度目の出勤だった。
F一〇〇号のキャンバスには等身大で、ユニフォーム姿の千尋がいた。腰を捻って、バットを振り、飛んできたボールを捉えようとしている。彼女を卒業制作の素材として描こうと決めたのは、二ヶ月前に行われた入鹿女子高校硬式野球部と、川崎にある大学の女子硬式野球部の試合の最中だった。六回裏まで一対〇と大学チームにリードを許しながらも、最終回の七回表にノーアウトランナー三塁で、千尋がホームランを放った。そして迎えた七回裏、大学チームに点を取られぬままにおわり、一対二で勝利できた。
決定打の瞬間を目に焼きつけ、F一〇〇号キャンバスに筆と絵具で甦らせたとは言いにくい。と言うのも実際は試合の二日後、千尋に無理を言って、入鹿女子高校まででむき、バッティング練習をおこなう彼女を写真と動画で撮影し、なおかつその場で描いたスケッチを元にしているからだ。私なんかがモデルでいいんですかと照れ笑いを浮かべながら、千尋は快く協力してくれた。
二ヶ月近くかけて、どうにかこうにか四分の三まで描けたものの、数日前から筆の動きが鈍っていた。完成が近づくにつれ、いつもぼんやりとした不安にかられる。今回はそれが早めに訪れてしまったのだ。〆切まで三週間、順調に進めてもギリギリなのにと考えると、よりいっそう筆が重くなってしまう。それでもバイトをしているのは、週に二回でも外界に接して気持ちを入れ替えないと、なおさら先に進めそうにないからだ。
曇り空で肌寒い。しかし花桶を運んだせいで身体はポカポカに火照って、じんわりと汗が滲んでもいた。世田谷の花卉市場で、李多ができるだけ多くの色のスイーピーを仕入れてきたのは一昨日だ。今月の二十一日がスイートピーの日なのだ。全国各地の花農家や生花店、園芸店などで構成された日本スイートピーの会なる団体が制定、一般社団法人の日本記念日協会によって認定および登録されたのが二〇一七年なのでまだまだ日が浅く、世間一般にはあまり認知されていない。ミドリにしても、川原崎花店で働きだして、はじめて知ったくらいである。
どうして一月二十一日なのか。
スイートピーには左右対称な三種類の花びらがある。外側から旗弁、翼弁、舟弁と呼ばれ、それぞれ一枚、二枚、一枚なので、一二一の一月二十一日になったそうだ。もうひとつ、松田聖子の『赤いスイートピー』がリリースされた日が一九八二年一月二十一日だからでもあるらしい。
自分が生まれる遥か昔の歌だが、ミドリは一番ならばソラで唄えた。というのも川原崎花店のスタッフでいきつけのスナック〈つれなのふりや〉へいくと、その場にいるだれかしらが、この歌を熱唱するので、自然と覚えてしまったのである。だれよりもいちばんウマいのは、パートの光代さんだった。この歌が流行っていた頃は中学生で、松田聖子とおなじ髪型をしていたという話は、彼女がこの歌を唄う度に聞かされた。光代さん自身はキョンキョン派だったのに、好きな男の子が聖子ちゃんファンだったからということもだった。
おっと、そうだ。
店内の立て看板を持ってきて、出入口の脇に置く。
〈木瓜咲くや漱石拙を守るべく 夏目漱石〉
昨夜のうちに光代さんが書いていったものだ。
「拙を守るってどういう意味です?」
店に入ってから、レジ前に立つ李多に訊ねる。
「私も昨日、光代さんにおんなじ質問したんだ」じゃらじゃらじゃらと小銭の音がした。李多がお釣り用の小銭をレジに入れたのだ。「そしたら夏目漱石の本を渡されてさ。付箋が付いたところを読めばわかるって。でも三階のキッチンに置きっ放しで、目を通してないんだ。昼休みにでも読んでみたらどう?」
そこへまさに木瓜が運ばれてきた。新人のバイトがバックヤードから台車に載せてきたのだ。木瓜の他にも切り花が入った花桶が七、八個ある。
「痛っ」
「どうした、ミドリちゃん。棘?」
「はい」
木瓜が入った花桶を両手で抱え持った拍子に、傾いた枝を支えるなり、右手の中指にちくりと棘が刺さったのだ。指紋のど真ん中で、少し血が滲んでもいる。
「これ」目の前に絆創膏があらわれた。新人バイトが差しだしてきたのだ。「使ってください」
「あ、ありがと」突然のことにミドリは面食らいながらも礼を言う。
「優しいじゃないの、イカズチくん」
李多が冷やかすように言っても、イカズチの反応は薄い。無言で表情も変えずに、作業のつづきをはじめる。台車から花桶を並べていく。花だけでなく、水もたっぷり入っているため、ひとつひとつがとても重たい。ミドリなどは両手でないと無理だが、イカズチは片手でひょいひょい運んでいた。
イカズチは彼の名字で雷と書く。名前も一文字で翔という。相撲取りあるいは漫画かアニメの主人公みたいだが、雷翔自身は至ってふつうの高校三年生の男子だった。
「器量よけれどわしゃ木瓜の花、神や仏に嫌われる」
李多が唄うように言う。
「なんです、それ?」傷口に絆創膏を貼りながら、ミドリは訊ねる。「光代さんにでも教わったんですか」
「これは木瓜の花を仕入れたときに、イカヅチくんのお父さんに教えてもらったの。木瓜の花はきれいだけど、棘があるんで、神様や仏様のお供え物にはむいていないんですよって。キレイだけど棘があるのは、ミドリちゃんとおんなじね」
キレイと褒められながらも、棘があると言われたのは不本意だった。棘なんかありませんと言い返そうとしたときだ。
「たしかに」
雷がぼそりと言うのが聞こえた。ミドリをからかうつもりで言ったのではなく、つい口からこぼれでてしまったらしい。ミドリの視線に気づくと、彼は空の台車を押して、バックヤードへそそくさと消えていった。
川原崎花店では十一月上旬からバイトの募集をおこなっていた。店長の李多がチラシをつくり、店頭に一枚貼って、レジ横に置いていた。SNSでも告知をおこない、一週間で二十人ほどの応募があった。
そして二十歳のフリーターの女性を採用した。しかし三回きただけで辞めてしまった。理由はわからない。働いている最中は、ニコニコと笑顔を絶やさず元気溌剌でよく働く子だった。しかし五回目の出勤日の前夜、〈自分がやりたいことが見つかったので、やめさせていただきます。短いあいだですが、お世話になりました〉と李多宛にLINEを送ってきたのだ。短すぎるだろと、さすがの李多もブチ切れた。
やむなく応募したひとの中で、つぎに選んだのは三十五歳の主婦だった。生真面目そうに見えたが、四回どころか四時間でやめてしまった。早番で昼休みのあいだに、姿をくらましたのである。LINEや電話で連絡をしても返事がないどころか、何度目かには着信拒否になっていた。
男を見る目はなくても、人を見る目はあったはずなんだけどなぁ。
李多はすっかり意気消沈してしまい、慎重にもなって、ふたたび募集をかけながらも、なかなか雇おうとはしなかった。
辞めたふたりの気持ちがわからないでもない。冬が間近なこの時期に、それも朝早くにいきなり冷たい水で花桶を洗うとなったら、ミドリも逃げだしていたかもしれないからだ。
そうこうしているうちに十二月になり、クリスマスを迎えるにあたって、店は忙しさを増していく。しかしミドリはいよいよ卒業制作に取りかかり、紀久子も本業であるデザイナーの仕事が年末進行で忙しくなり、ふたりともバイトに時間を割くのが厳しくなってきた。ヘルプとして、〈つれなのふりや〉のひとみママに入ってもらうことはあるが、それでも限界があった。
すると思わぬところから救いの手が伸びてきた。
李多はミニバンで週に三日、朝四時に世田谷にある花卉市場へ仕入れにいく。切り花は月金、鉢物は土曜だ。市場でおこなう花のセリは百本単位なので、川原崎花店のような個人店舗は参加できない。では李多はどこで仕入れるかと言えば、市場内に店舗を構える仲卸だ。セリで購入した花を小分けにして販売しており、李多には馴染みの店がいくつかあった。そのうちの一軒、切り花が専門の『フルール・ド・トネール』で、アルバイトが見つからなくて困っていると、李多が店主兼社長に愚痴ったところだ。
だったらウチの息子、雇ってくんねぇか。
三代目くんをですか。
『フルール・ド・トネール』は昭和のおわりに店主兼社長の母親が離婚を機に創業、女手ひとつで息子を育てながら、店を切り盛りしていたそうだ。そして平成のなかばに世田谷市場で花き部が業務がはじまった際、場内仲卸として入場、息子に店を任せながらも、数年前に亡くなる寸前まで働いていたという。
二代目が店主兼社長、そして三代目になる彼の息子を李多は知っていた。小学校の高学年の頃から春夏冬の長期の休みには必ず、父親の手伝いで『フルール・ド・トネール』にきており、従業員だけでなく客にも三代目と呼ばれていた。いまは高校三年生で、この春に卒業したら父親の会社に就職する。いよいよほんとに三代目になるわけだ。
花屋で働くのは勉強になるだろうからな。花についての知識は多少あるし、扱い方も慣れてるんで、即戦力になると思うんだ。それにこの夏には合宿で車の免許取ってるから配達もできるよ。なんなら一、二年コキ使ってもらってもかまわねぇ。
李多はその必要もないのに、わざわざ『フルール・ド・トネール』の店主兼社長の真似をしながら教えてくれた。彼はその口調にぴったりなイカつい強面のオジサンだそうで、しかし十二月アタマに川原崎花店に訪れた三代目くんは、まん丸で大きな目に鼻筋が通った顔立ちだった。本人によれば母親似らしい。ミドリはミドリでなにかに似ていると思い、二度目にバイトがいっしょになったとき、ビーグル犬だと気づいた。
定休日の木曜以外、雷は毎日、川原崎花店で働いていた。土日は早番、平日は高校がおわってから午後六時に店に入り、閉店後の片付けまでだった。それが冬休みになると月金は早番、火水は遅番となった。
雷の自宅は世田谷区の隣の市なのだが、月金は朝五時に『フルール・デ・トネール』で李多を待ち構え、彼女の代わりに仕入れた花をミニバンまで運び、ふたりで川原崎花店に訪れた。ときには雷が運転する場合もあるという。三学期がはじまってもおなじシフトだった。高校は自由登校で、雷は受験生ではないため、時間に余裕があるらしいのだ。
そこまで働かなくてもいいのにと思う。でもおかげでミドリは週四日のシフトが水土の早番だけとなり、そのぶん卒業制作に専念できるようになったのは、大いに助かった。
川原崎花店ではバラの花が咲き乱れたラッピングを車ぜんたいに施した電気三輪自動車、その名もラヴィアンローズで花の配達をおこなっていた。店を中心に半径五キロ以内ならばどこへでもいく。紀久子の役目ではあるが、彼女がいない日には、雷がおこなうようになった。
「啓翁桜はこの角でいいですよね」
「うん」と雷に答えながらも、李多は腕組みをして、眉間に皺を寄せていた。「あ、ちょっと待って。ミドリちゃん」
「はい?」ミドリは漱石の俳句が書かれた立て看板を店の前に置き、戻ってきたところだった。あと十分足らずで開店なのだ。
「啓翁桜、あそこでいいと思う?」
李多が指差す先に目をむけながら、ミドリは首を捻った。
「奥過ぎません? せっかくなんで表から見えたほうがいいですよ。一月なのにどうして桜が? と思って足を止めるひともいるでしょうし」
桜と言えば春だが、一足早く冬に花を咲かせるのが啓翁桜だ。とは言え勝手に咲くわけではない。休眠状態の枝を温室に入れて加温すると、春がきたと勘違いして花が咲く。つまり花農家さんの尽力があってこそである。少し開花した状態で花屋に並び、購入したあとは涼しい場所に置いておけば、ひと月は花を楽しめる。
「だとしたら窓際か。啓翁桜だけじゃなくて、今日は花木推しで、木瓜とかユキヤナギとか梅とかも並べてみようか。レンギョウもあったよね。ごめん、雷くん、そうしてくんない? それができたら表にでて、スマホで写真を撮ってきて」
「はい」と李多の命令どおりに雷は動く。こういうところもビーグル犬に似ている。身長は百七十センチあるかないかと、十八歳男子としては平均よりやや小さめ、体重は五十キロもなさそうだ。そんな細身な身体つきで、腕も細いのに力はあった。いまも花木が入った桶をひょいひょい運んでいる。
仕事の最中は無駄口を叩かない。少なくともふたりきりで店番をしているあいだ、交わす会話は仕事絡みに限られていた。そもそもミドリ自身、他人にあまり興味がないので、あれこれ訊くような真似はしないし、自分の話を自ら進んでしようとも思わなかった。
雷の住まいが世田谷の隣の市とか、三学期は自由登校とかいった話は、李多や光代さん、紀久子を経由して知った。中高ともに帰宅部だが、十年近く太極拳をつづけていることもだ。幼い時分、祖母に連れられ、教室に通うようになったらしい。華奢なのに力持ちなのは、そのせいかなのかはわからない。
「ミドリちゃん、これだったらどう?」
雷のスマホを覗きこみながら李多が言った。店を表から撮ってきたばかりの写真だ。狙いどおり窓から啓翁桜がばっちり見えている。屋外に飾った手前のスイートピーと相俟って、川原崎花店だけ一足早い春を迎えたようだった。
「とってもいいと思います」
「じゃあさ、雷くん。店内からも並べた花木の写真撮って、SNSにあげといて」
川原崎花店のXとインスタグラムは紀久子か、彼女がいなければミドリが代わりに更新していたが、ふたりともいない場合が多くなり、いつしか雷の役目になっていた。
「そうだ。今日は花木ぜんぶ十パーオフのセールにしよう。それもSNSに書いてくんない?」
「はい」短く答えながら、雷はスマホを忙しくいじくっていた。
「私、十パーオフってポップ書きましょうか」
「それは私がやるから、ミドリちゃんはこれお願い」
李多が差しだす一枚の紙を受け取る。まず目に入ったのは花冠を被った天使、フランちゃんだ。生花の宅配会社〈花天使〉のキャラクターである。
花天使には全国三千だか四千の生花店が加盟しており、最寄りの加盟店、あるいはネットや電話、ファクシミリで注文すれば、送り先に近い加盟店が花を届ける。受け取った紙は花天使本社からメールで送られてきた注文伝票を、プリントアウトしたものだった。
ご依頼主は鳥取県在住の貝塚芙美子、お届け先は鯨沼のマンションに住む越澤叶恵とどちらも女性のようだ。用途は引っ越し祝い、商品はスタンディングブーケ、金額は税込みの五千五百円、配達日は今日の日付で午前中に○がしてあった。「お色味のご希望はありますか」「含めたい花あるいはNGの花はございますか」といった質問にはいずれも「とくになし」に○、ただし「なにかご要望があればご記入ください」という欄には「新たな門出にふさわしい、元気がでてハッピーになれる花束をぜひお願いします!」と書いてあった。
「花はミドリちゃんが選んでね」
元気がなくてハッピーじゃない私には無理ですとは言えない。李多はレジの下から黒の厚紙とピンク色のマーカーをだして、作業台でポップを書きはじめた。ミドリはふたたび注文伝票に視線を落とす。
新たな門出か。
相応しい花を思いつく。スイートピーだ。まさに〈門出〉が花言葉だった。店のSNSに一昨日、雷が書きこんでいたのだ。
ミドリは表にでて、さきほど自分が並べたスイートピーの前に立つ。そして赤、ピンク、白と数本ずつ抜き取って、その場で束ねてみた。ぜんたいに明るくて華やかではある。悪くない。だがスイートピーの花びらはヒラヒラと宙を舞う蝶に似て、儚くて頼りなげなせいか、あまり元気な感じがしなかった。ガツンとインパクトがある花を組み合わせてみよう。
スイートピーの束を持ったまま店内に戻る。チューリップやバラはありきたりだ。トルコキキョウはどうだろう。ダリアかな。
「ガーベラはどうですか」
雷の声が背後で聞こえ、ミドリは振りむいた。ポップスタンドに挟んだ黒い紙を持ち、木瓜の前で突っ立っている。紙にはピンクのマーカーで〈花木全品一〇%引セール実施中! 気になる木をこの機にぜひお求めを!〉と書いてあった。どこに置こうか、考えているらしい。李多に命じられたのだろう。彼女は電話にでていた。受話器を顔と肩で挟んでメモっている。
「石化柳に梅。それと南天ですね」
生け花の師匠である馬淵先生からの注文のようだ。
「私に言った?」
「はい」ミドリの問いに答えながらも、雷は顔をむけずに話をつづけた。「八重咲きのピンクや赤のを数本加えてみてはどうかと」
早速、試してみた。いい。ガーベラはインパクトがあっても押付けがましくないので、スイートピーと調和が取れている。客の注文どおり、〈元気がでてハッピー〉になれそうだ。
「ありがと」
礼を言っても雷は会釈するだけで、なにも言わなかった。
「ミドリちゃんはさ。雷くん、どう思う?」
作業台の前にふたり並び、SDGsブーケをつくっていると、李多が訊ねてきた。
なにを突然言いだすんだ、このひとは。
とうの雷はいない。スイートピーにガーベラ、それにかすみ草と赤い実のヒペリカムを加え、ミドリがつくったスタンディングブーケを、ほんのいましがた配達にでかけたばかりだ。ちなみにガーベラの花言葉は〈希望〉、〈前向き〉、〈常に前進〉だ。スイートピーと同様、引っ越し祝いにピッタリである。先週のSNSに書いてあったので、雷はこれも踏まえ、ミドリに勧めてきたのだろう。
「どうって言われても、私、年下は興味がないので」
兄の友人で、十歳年上の男性がミドリの脳裏によぎっていく。芳賀泰斗だ。初恋のひとだったが、思いを伝える前に失恋してしまった。いまもまだその傷を引きずっているせいで、男性とつきあう気にはなれない。
「ちゃう、ちゃう」エセ関西弁で否定しながら、李多はクスクス笑っている。「そういう意味のじゃなくて、ここのスタッフとしてどうかを訊きたいの」
だったら先にそう言ってくれ。
ミドリは微かに顔を赤らめながら答えた。
「定休日以外毎日働いて、言われたことはすべてきちんとできて、完璧と言っていいんじゃないですか」
「だよねぇ」と言いながらも、李多は釈然としない表情だった。
「なにか問題でも?」
「まったくない。でもミドリちゃん、あの子が声だして笑ってるとこ、見たことある?」
言われてみれば。
「ありません」
「でしょ? いつも浮かない顔して、全然楽しそうじゃないし」
「高校生の男子なんて、みんな、あんなもんですよ。まだバイトをはじめて一ヶ月、しかもここだとまわりはみんな女のひとで、年上ですからね。猫を被っているというか、萎縮してるだけかと」
「そういう見方もあるか」
「李多さんはどういう見方なんです?」
「他にやりたいことはあるのに、仕方がなくここで働いているって気がするんだ。考えてみれば父親に言われてやらされているわけだし」
「いずれはその父親の店を継ぐんでしょう? だったら納得ずくじゃないんですか」
「そっかなぁ」
話をそこで中断した。客が店に入ってきたのだ。
ウマい。
聞きしに勝るウマさだ。
昼前に突然、客がつづけざまに訪れ、李多とミドリ、そして配達から戻った雷の三人で応対に追われた。午後一時前にはその忙しさも収まり、雷、ミドリ、李多の順で、ランチタイムを取ることにした。
このビルの三階は李多の自宅で、川原崎花店のスタッフはそのキッチンで昼夜の食事を摂る。ご飯は食べ放題、おかずは五人の持ち回りで、雷は母親のお手製料理だった。これがけっこう豪勢で、少なくとも二十品目はあって、三段の重箱に詰まっていた。
雷のおかず持参の日に、ミドリはシフトに入っておらず、今日はじめてありつけたのだ。光代さんも手づくりのおかずを持参する。いつもおいしくいただいているものの、揚物や煮物など、色がほぼ茶色の場合が多い。比べるのもなんだが、雷の母のおかずは色とりどりだ。しかも素材を吟味し、手間ヒマかけてつくったであろう本格的な味だった。
たとえばタマゴ焼きは噛む毎にじゅわっと溢れでる白だしの味がたまらない。唐揚げの衣にコーンが混じっていたり、焼売の肉ダネに赤いパプリカを加えて色あいを鮮やかにしたり、チャーシューもなにかしら香辛料に一晩つけたであろうスパイスが効いた味だったりと、枚挙に暇がなかった。この重箱であれば、銀座や日本橋のデパートの食品売場で、一万円くらいで売っていても、おかしくない出来だった。
ヤバイ、ヤバイ。このへんで止めとこ。
先月末に紀久子がおいしさのあまり、昼間に食べ過ぎてしまい、夕飯のぶんがなくなったことがあった。その話を李多から聞いたときは、あのひとらしいなと思ったが、危うく二の舞を踏むところだった。
目に入ると食べてしまいそうなので、重箱を重ねて蓋をした。自分が使った食器を洗い、やかんでお湯を沸かす。そしてテーブルを布巾で拭いていると、卓上の左端にある文庫本が目に入った。雷の母の手料理に夢中だったせいで、いまのいままで気づかなかったのだ。
マグカップにインスタントコーヒーを入れ、沸かしたばかりのお湯を注ぐ。そして文庫本を手に取り、腰を下ろした。間違いなく夏目漱石の小説で、タイトルは『草枕』だった。早速、付箋が付いたページを開く。さらにご丁寧に、鉛筆で線を引いた部分があった。
〈木瓜は面白い花である。〉からはじまり、木瓜の描写がつづいた。〈世間には拙を守ると云う人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい〉
〈拙を守る〉についての注釈はこうだ。
〈小手先の技巧を弄することなく、愚かな生き方を頑に貫くこと〉
漱石先生には木瓜が、そうやって生きているように見えたらしい。そしてまたミドリは、要領が悪くてブキッチョな自分にも思えた。ただしその生き方を頑に貫いているのではない。自然とそうなってしまうのだ。
これがほんとの天然ボケってか。
もうひとつ気になることがあった。木瓜の枝振りや花の色、葉の柔らかさに言及しながら、棘について一言も触れていなかったのである。
〈拙を守る〉には棘はいらないということですかね、漱石先生。
お札にまでなった文豪に文句を垂れていると、キッチンの端にある固定電話が鳴った。コール音で内線だとわかる。一階の店からかかってきたのだ。
なんかやらかしたか、私?
ビビりながら電話に近寄り、受話器を取って、耳に当てる。
「ミドリちゃん、いまいい?」李多だ。聞き取りにくいほど、声を潜めている。「あなたに会いたいっていうひとがきてるんだけど」
「私に? だれです?」
「タンテーだっていう女性なの」
「タンテーって金田一とかコナンとかの探偵ですか」
「そうそう。用件は本人にしか言えないって。どうする?」
〈哲学堂公園前探偵事務所 額賀千穂〉
あとは事務所の住所と電話番号、メアドと携帯電話の番号が記されただけの簡素で地味な名刺だった。年齢は三十代なかばか、ショートボブで薄めのメイク、パンツのスーツとこざっぱりした身なりの女性である。ミドリには探偵というより銀行の窓口で働いていそうなタイプに見えた。
「お昼休みのところを申し訳ありません」
「だいじょうぶです」
額賀には三階まであがってもらい、いまはテーブルを挟んで、むかいあわせに座っていた。お茶かコーヒーでもとすすめても、手短かに済ませますので、どうぞおかまいなくと断られた。
「それであの、私に用件というのは」
「この男性をご存じですよね」
探偵はテーブルにシステム手帳を広げ、そこに挟まっていた写真を差しだしてきた。
「爲田さんです」
なにかの酒席らしく、真っ赤な顔の爲田淳平が上半身裸で、両腕を挙げ、なにやら叫んでいるところだった。莫迦まるだしである。
「彼とはどういう関係ですか」
「おなじ美大のおなじ学年、学科もおなじ油絵で、おなじ平屋の一軒家をアトリエとしてシェアしているだけです」〈だけ〉を強めて言う。アイツが、とミドリは危うく言いかけた。「彼がなにか事件を起こしたんですか」
「ちがいます」探偵はやんわりと否定する。「先週の水曜から一週間前、行方不明なんですよ」
「そうだったんですか」
「ここを訪れる前に、アトリエに伺っているのですが、深作さんは爲田さんと廊下を挟んで、向かいあわせの部屋ですよね。なのに彼が一週間いなかったのをお気づきにならなかった?」
「すみません」
ミドリは思わず詫びていた。探偵の口調は見た目どおり、窓口の銀行員のように、生真面目で穏やかなのに、えらく威圧感があったのだ。
「でもあの、爲田さんだけじゃなくて、シェアしているひと達とは個人的な交流はほとんどないんですよ、私。アトリエにいったらただひたすら絵を描くだけなんです。その最中は耳にイヤホンつけて、音楽を聞きっ放しで、とくにこの二ヶ月間は卒業制作に没頭してたもので」
なにか悪いことをしたわけでもないのに、言い訳めいた言い方になってしまう。
「最後に会ったのはいつか、思いだせますか」
いつだったろう。この二ヶ月、アトリエで何度かすれ違ってはいる。だが挨拶を交わす程度で、立ち話さえしていなかった。
「あっ」
「思いだしました?」
川原崎花店の年末最後の営業日が十二月二十九日で、ミドリは遅番で入った。バイトのあとはアパートには帰らず、アトリエに直行し、三日三晩こもりっきりで、絵を描きつづけていた。
「私がアパートに戻ろうと、アトリエの玄関で靴を履いていたら、爲田さんがやってきたんです。そのときおはようって言ったら、おめでとうだろうがって、言い返されました」
玄関をでてしばらく歩いて、今日は元日かとミドリは気づいた。
「他にはなにか話しましたか」
「いえ。それだけです」
「そのとき彼の様子はどうだったでしょう?」
「ヒドく酔っ払っていて、吐く息が酒臭くて、全身からも臭っていました」
探偵はシステム手帳に、ミドリの発言をメモっている。
「爲田さんがこちらの花屋さんにきていますか」
「一度だけ」と答えてすぐ、ミドリは聞き返した。「探偵さんはどうして私がここでバイトをしているってわかったんですか」
「なにか手がかりがないものかと、大家さんの立ち合いのもと、爲田さんのアトリエにあがらせていただきまして、こちらの店のショップカードが、壁にピンで止めてあるのを見つけたんです。シェア仲間に訊ねると、あなたがバイトをしている花屋さんだとわかりまして」
いまここに探偵がいるわけか。
「爲田さんがきたのは一度だけとおっしゃいましたが、正確な日付はおわかりになりませんか」
「わかりますよ」スマホでバイトのスケジュールを確認する。「十一月の第二土曜の昼前でした」
「彼はなにしにきたのでしょう?」
答えるのを少しだけためらう。だが行方をくらました爲田が悪いのだと思い、正直に話した。
「アトリエ以外で使うのを禁じられているのに、アイツ、いえ、爲田さんはときどき異性を連れこんでいました。その日の朝、彼の部屋から若い女性がでてきたところにばったり出会して、それを大家さんに告げ口しないよう頼みにきたんです」
ちょっとちがうが、まったくの嘘でもない。
「出会した女性をあなたは知っていました?」
「いえ。まったく見知らないひとでした」
「彼女の容姿は覚えていますか」
「ほんの一瞬だったので顔はまったく。際どい下着しか付けていなかったので、そちらに目がいってしまったもので」
爲田が川原崎花店を訪れたとき、下着の色とおなじワインレッドのダリアを買っていった話もついでに披露した。
「あのダリアかしら」探偵が独り言のように呟く。
「あのって?」
「彼のアトリエにダリアのドライフラワーがあったんです。知りませんでしたか」
「ええ」ダリアはしばらく平屋の玄関に飾ってあったが、気づいたらなくなっていた。爲田がドライフラワーにしていたなんて思いもしなかった。
さらに探偵には爲田がいきそうな場所や交友関係などを訊かれたものの、ミドリは首を横に振るだけだった。
「すみません、お役に立てなくて」
「そんなことはありません」探偵は窓口の銀行員よりも親しげな笑みを浮かべた。「貴重な時間をわざわざ割いていだたき、ありがとうございました」
李多と交代で店に入ると、遅番の光代さんがすでにいた。きみのお母さんの手料理、マジおいしかったよと感想を告げても、そうですかと雷の反応は薄く、それ以上話はつづかずにおわってしまった。話をしている余裕がなかったというのもあるにはあった。と言うのも、平日の昼間は比較的、暇な時間帯のはずが、ひっきりなしに客が訪れた。どうやら窓に見える啓翁桜の効果らしい。実際、啓翁桜はよく売れた。木瓜やユキヤナギ、レンギョウもである。
ガラス越しに混んだ店内が見えると、何事かと思い、引きつけられて入ってくるひとが増えていく。まさにその状態となったものの、遅めの昼休みの李多を呼びださずとも、光代さんが接客、ミドリがレジ打ち、雷がラッピングと自然に役割分担ができて、これといったトラブルもなく、スムーズに店を回せた。
客の大半は女性で、必要以上に言葉を発さずに作業を進める雷から目が離せなくなるひとも多かった。手早く花束を完成させた途端、拍手が沸き起こる一場面もあり、その理由が自分だとわからず、雷は戸惑いながら、あたりを見回していた。
啓翁桜が売り切れたあとは、次第に客は減っていき、店内がだいぶ落ち着いていた頃には、早番があがる午後四時だった。雷とふたりで三階へあがっていくが、彼はキッチンに一分もいない。階段の途中で外したエプロンをリュックサックに詰めこみ、深緑色のキルティングジャケットを着て、「お先に失礼します」とギリギリ聞こえる程度の声量で言い、さっさとでていってしまう。
理由はわかる。雷のほうが遠いが、帰る方向はおなじで、鯨沼駅から上りの電車を利用していた。いっしょに帰るのが気まずいにちがいない。ミドリにしても、自分の乗換駅までの十五分、雷となにを話していいのかわからない。なのでミドリはキッチンで時間を潰すため、コーヒーを一杯飲むようにしている。ところが今日はちがった。
「深作さん」雷に名前を呼ばれ、ミドリは驚きのあまり、びくりと身体を震わせてしまう。振り返ると、テーブルを挟んだむこうに雷は立っていた。上着を着て、リュックサックを背負い、耳当て付きのニット帽を被っている。
「な、なに?」
「深作さんの実家って、ミモザ農家だと聞いたのですが」ミドリが彼に話した覚えはない。李多に光代さん、紀久子のうちのだれかが言ったのだろう。毎年、二月下旬に川原崎花店のスタッフが揃って、千葉にあるミドリの実家にミモザの収穫に訪れるのが恒例だった。「ゆくゆくは親の跡を継ぐおつもりですか」
「ふへっ?」唐突かつ予想外の質問に、ミドリは変な声がでてしまう。「だれがそんなこと言ったの?」
「だれも言っていません。俺は親父の店を継ぐための勉強として、ここでバイトしてるんで、深作さんもそうなのかと思っただけです」
「私はちがうよ。家を継ぐ気はない」
「ではお兄さんが種苗メーカーをやめて継ぐとか?」
兄についてまで聞いているのか。
「それもないと思うけど」
兄の誠は海外営業の部署で、十年以上アメリカに駐在していた。現地の女性と結婚をする際、彼女を自分の家族に紹介しようと戻ってきたのが、いまのところ直で会った最後だ。コロナのせいもあって、兄はなかなか帰国できずにいた。メールやビデオ通話でときどきやりとりはする。でもミモザ農家を継ぐ継がないなんて話を一度もしたことはなかった。
「父親にそういう話、されません?」
「私はないよ。兄もないんじゃないかな。きみは父親に言われたことあるの?」
「小さい頃からまわりのみんなに三代目と呼ばれていたので、刷りこまれたようなものです」
刷りこまれたとは言い得て妙だ。ミドリは笑いかけながらも、雷が真顔なので、口元を引き締めて堪えた。すると雷がちがう質問を投げかけてきた。
「深作さんは絵が描くのが好きで、美大に入ったんですか」
「それはそうだよ。好きでなければやっていけないし」
好きでもやっていけないひともいるくらいだ。
「大学をでたあとも描きつづけるんですか」
「うん、まあ」
「つまり画家として食べていこうと?」
「そうなれたらいいけど」
将来の話をこうまで単刀直入に訊かれたのは、これがはじめてだった。十数社も書類選考で落とされた件はだれにも話していない。それでも卒業したあとも、バイトをつづけたいと言えば、就職活動をしくじったのはバレバレだ。だから李多も光代さんも紀久子もそのへんについて、ぜったいに触れようとしなかった。まるで腫れ物扱いだ。
「君名さんも美大をでて、一般企業で働いていたけど、そこをやめて、個人でデザイン事務所を立ちあげたんですよね。自分の好きを仕事にできるなんてサイコーじゃないですか。いいなぁ」
紀久子にしたって、川原崎花店で働かねば暮らしていけないのが現状である。他のひとが言ったならば皮肉か嘲弄に聞こえただろう。しかし雷はちがった。本気で羨ましがっているのは、表情を見ればわかった。
他にやりたいことはあるのに、仕方がなくここで働いているって気がするんだ。
李多の指摘は正しかったようだ。雷には家業以外にやってみたい、好きなことがあるのだろう。興味深いが、訊けなかった。他人のプライバシーをやたら知りたがる品のない人間だと思われるのが嫌だったのだ。
「どうしたらそんなふうに、自分の信念を曲げずに生きていけるんですか」
「信念だなんて、大層なものはないよ。紀久子さんはどうかわかんないけど、私の場合、自分の限界がどこまでかを知りたくて絵を描きつづけているんだ」
「カッコイイですね」
嘘、嘘。イイように言い過ぎた。ただ単に諦めが悪いだけなんだ。
「深作さんが描いた絵、見たいんですけどインスタとかにアップしてます?」
「そういうのやってないんだ、私」
高校生の頃は私の絵を世界に知らしめるのだと勢いこみ、インスタをこまめに更新していた。しかし美大に入ってひと月もしないうちにやめてしまった。自分よりも絵がうまい人間を山ほど目の当たりにして、こんなヘタッピな絵を世間に晒すのは恥ずかしいと思ったからだ。
「だったら、いつか実物を見せてもらえませんか」
「いま描いている卒業制作の油絵が、大学で一週間展示されるんで、そのときはどう?」
「わかりました。楽しみにしてます」
ワイヤレスイヤホンから重厚かつ激しい縦ノリの曲が延々と流れている。ハラキリズというフィンランドのヘビメタバンドだ。見た目はナマハゲみたいな四人組だが、みんな日本びいきで、大のアニメファンだった。数年前には日本のアニメの主題歌を担当したほどである。ミドリはその曲で彼らを知り、以来ファンとなった。毎年、来日ツアーを敢行していたものの、コロナ禍以降は訪れていない。それが遂に今年、来日するらしいとネットで囁かれている。事実ならば、なにがなんでもいくつもりだ。
川原崎花店からアトリエに直行し、五時前に着くと、上半身はトレーナー、下半身はパジャマのズボンに着替えて、F一〇〇号のキャンバスに取りかかった。大学で描いていたときはスモックやツナギの作業着などを着ていたが、平屋のアトリエでは部屋にひとり、引きこもったままなので、いちばん動きやすくて楽な服装に落ち着くのだ。
これはもういいか。
右手の中指の絆創膏を剥がし、小さく丸めて部屋の角にあるゴミ箱を放り入れた。
楽しみにしてます。
雷の言葉を思いだし、自然と頬が緩む。彼にすればただの社交辞令だったかもしれないが、それでもミドリは無性にうれしかった。
この構図で正しいのか、色遣いは間違っていないか、以前よりも上手く描けているのだろうか、と自分に問いかけてばかりで、気持ちがどんどん内側へのめりこみ、ぼんやりとした不安を抱えるようになってしまった。しかし自分の絵を楽しみにして待つひとがひとりでもいると思うと、気持ちが前向きになれたのだ。我ながら単純すぎると思う。でも悩むことなく自然と筆が進み、高揚感さえあった。
ハラキリズの曲にあわせ、リズムを取りつつ、パレットで色を混ぜていると、目の端に人影が映った。
「うわっ」
驚きのあまり、思わず悲鳴に近い声をあげてしまう。人影は爲田だった。平屋はいずれの部屋も和室で、出入口は襖のため、鍵はかけられない。
「なな、なに」動揺が収まらないまま、ミドリはひとまずワイヤレスイヤホンを外した。「勝手にひとの部屋、入ってこないでよ」
「入ってないだろ。よく見ろ」爲田は自分の足元を指差す。たしかに彼は廊下側に立っていた。「勝手でもないぞ。廊下から名前呼んでも返事がないんで、仕方なく襖を開けたんだ。そのあとも何度も声かけたのに、絵を描きつづけてたんで、わかってシカトしてるのかと思ったけど、いまの驚きようだと、マジで気づいていなかったみたいだな。十分近く待ったぜ」
そんなに? いや、それよりもだ。
「一週間いなかったよね」
「心配してくれてたのか」
「してない」ミドリはきっぱり否定した。そしてバイト先に探偵が訪れた話を手短かにする。
「おふくろが雇ったんだな。去年、兄貴の交際相手の身元調査を依頼してたのとおんなじ探偵じゃないかな。交際相手って言うのが、ヒドイ女でさぁ」
ヒドイ女の話はどうでもいい。
「どこいってたの?」
「滝に打たれてきた」
「はあ?」
この期に及んで、なにツマラナイ冗談を、とは口にださなかったものの顔にでてしまったらしい。
「嘘じゃねぇよ。これを見ろ」
コートのポケットから紙をだすと、廊下側に立ったままで腕を伸ばし、ミドリに見せた。領収書だった。日付は一週間前、宛名は爲田様、金額は五千円、但し書きは滝行参加費として、発行者名は神社で、その住所は東京でも鯨沼よりもさらに西の果てだった。
「卒業制作で煮詰まっちまってな。気持ちを切り替えるにはなにがいいか考えた末、滝行にいったんだ。そのあと神社近くの温泉宿に一泊したんだけど、翌朝、底冷えがして熱っぽくてさ。帰り道にどんどん悪化して、電車の中で座っているだけでも辛くて、いっしょにいった友達が心配して、ひとまずウチにこないかと言われて」
「その友達って男? 女?」
一拍置いて爲田は観念した犯人のように「女だ」と答えた。彼女が暮らすアパートに入り浸っているのだという。以前のバイト先であるコーヒーショップでいっしょに働いていた子で、交際して三年以上になるという。まったくの初耳だった。
「コロナやインフルエンザじゃなくて、ただの風邪だったんだけど、なかなか熱が下がらなくて、ずっと彼女に看病してもらっていたんだ」
「彼女って二ヶ月前に私がここであった?」
「あの子はちがう。酔った勢いでつい」
「ちがうならちがうでいいよ。だけどなんで看病してもらっているあいだ、音信不通だったの?」
「旅行の準備をしに自分のマンションに戻ったとき、忘れちゃってさ。ここにくる前に取りいってきたんだけど、充電がすっかり切れてて、だからおまえに充電器を借りようと思って」
廊下から何度、名前を呼んでも返事がなかったので、襖を開いたのか。
「使いおわったら、部屋の前にでも置いといて」
そう言いつつ爲田に充電器を渡す。だが彼はF一〇〇号キャンバスに顔をむけていた。
「おまえ、絵柄、変えたのか」
「意識してやったつもりはないよ。描いてたら自然とこうなった」
「描きたいものを描いているからだろうな。気取りがなくて素直なイイ絵だ」
嫌なヤツでも褒めてくれれば励みになる。だが礼を言うのは癪なので、代わりにこう言った。
「他人のことより自分はどうなの?」
卒業制作に煮詰まって滝行にいったのに、そのせいで風邪を引き、一週間もロスしていれば世話がない。
「いまの世の中、好きなことで悩むのは贅沢だって」爲田は苦笑まじりに言った。「看病してもらっているあいだ、彼女に説教されたよ」
「よくできた彼女さんね」
爲田にはもったいないと思ったが、そこまでは言わなかった。
「気をつけてください」
木瓜が入った花桶に手をかけたとき、雷が声をかけてきた。気をつけるのはもちろん棘だ。
「だいじょうぶ」ミドリは答え、花桶を窓際に置く。
三日前の花木セールが思った以上に好評だったため、李多が昨日の朝、種類と量を増やして花木を入荷し、引きつづきおこなうことにしたのだ。ところが昨日は一日中、雨が降りつづけたせいで客足が伸びなかった。今朝は曇りではあるものの、雲の隙間から陽射しが洩れでており、このまま晴れ間が広がるようだった。土曜日でもあるので、売上げは期待できる。
先日の木瓜の花は淡いピンク色だったが、今回のはちがう。ひとつの木に赤と白、二色の花がある。合戦の際に源氏が白旗、平家が赤旗を用いたのになぞらえ、源平咲きと呼ばれているらしい。昨日の川原崎花店のSNSを読んで、はじめて知った。その説明の他に、木瓜の花言葉も書いてあった。先駆者や指導者、熱情に平凡、妖精の輝き、魅惑的な恋などさまざまだった。
「おはようございます」
千尋だ。開店前だがシャッターは開けてある店内を覗きこんでいる。いつもどおりユニフォーム姿だった。
「すみません、まだオープン前でして」
「その子はいいのよ、雷くん。っていうか、きみ、千尋ちゃんと会ったことなかった?」
「ありません」と答えたのは千尋だった。「でもおばあさんから聞いてました。新しいバイトが高校生の男子だって」
「馬淵先生ってお花の先生がときどきくるでしょ。あのひとのお孫さん」雷にそう言い、李多は千尋に視線を移す。「花材の注文にきたの?」
「いえ。ウチの監督兼コーチが誕生日なんで、サプライズで花束を渡すことにしたんです」
「花は自分で選んだほうがいいわよね」と李多。
「花束も自分でつくります。部員みんなでお金だしあって予算は三千円くらいなんで、それより多くなってたら言ってください」
話のあいだにも、千尋は並んだ花に目をむけていた。
ん?
台車にあった花桶は、すべて店内に並べおえた。まだバックヤードにある花を取りにいくべきなのに、雷は突っ立ったままでいた。
「雷くん」
「あ、はい。すみません」
ミドリの呼びかけに、雷は我に返ったようになり、慌てて台車を押して、バックヤードへむかう。すると李多がミドリのそばにすばやく寄ってきて、耳元でこう囁いた。
「雷くん、千尋ちゃんのこと、見とれてなかった?」
たしかに。そう気づいた途端、木瓜の花言葉のひとつを思いだす。
一目惚れ。