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Ⅴ 芍薬

「ミドリさんって、いかづち先輩がベースを弾いてて、ライブにもでてるのって知ってます?」

 千尋ちひろの唐突な質問にミドリはいささか面食らいながらも、「知ってるよ」と答えた。

 雷くん本人にも先輩って呼んでいるのかな。

 宇田川におなじように呼ばれ、雷は嫌がっていたのをミドリは思いだす。宇田川の言い方はちょっとからかい気味だったが、千尋のはそうは聞こえなかった。

「実際、ライブを見にいったことはあります?」

「ないな」

「ライブに誘われたりは?」

「それもない。もしかして千尋ちゃん、雷くんに誘われたの?」

「いえ」

 千尋は力強く否定する。彼女の左手には数本の芍薬しゃくやくがあった。花器のどこに挿せばいいのか、迷っているのだろう。

〈その花は媚びた唇のやうな紫がかつた赤い色をしてゐた。〉

 今朝、光代みつよさんが店頭に飾る看板に書いた言葉だ。もう少し先まであったが、ぜんぶは思いだせなかった。〈『小町の芍薬』岡本かの子〉からの引用らしいので、〈その花〉は芍薬にちがいない。

 千尋の持つ芍薬は、まさにそんな色だった。八重咲やえざきのビクトールデラマンという品種である。牡丹ぼたんと芍薬の交配種らしい。美人の代名詞同士を掛け合わせたんだから、そりゃあキレイよねぇと店長の李多が言っていたのだ。牡丹は樹木、芍薬は多年草ではあるものの、どちらもボタン科ボタン属と近縁の植物で、牡丹の繁殖のために、芍薬を台木にして接ぎ木することもあるらしい。これは川原崎かわらざき花店の常連、小学四年生の蘭くんに教えてもらった。

 今日は五月の第三土曜、千尋とミドリがいるのは、鯨沼くじらぬまのイタリアレストラン〈みふね〉のエントランスホールだ。ここへは十重が月に二回訪れ、生け込みをおこなう。ところが一昨日から風邪を引いてしまい、その役目を孫の千尋に任せた。子どもの頃から十重を手伝っていた彼女は、高校三年生ながら、弟子を取ってもいい免状の持ち主で、これまでも何度か祖母のピンチヒッターを務めたほどの腕前である。〈みふね〉にはこれまでも十重の付き添いとしてきており、オーナーシェフの三船も千尋ちゃんならばと了承してくれたそうだ。

〈みふね〉は午前十一時三十分に店を開くので、生け込みは三十分前には完成させねばならない。一時間もあればできるが、千尋は余裕を持って、九時からはじめるとのことだった。

 花材はいつもどおり川原崎花店からのお買い上げで、店長の李多から昨日、〈みふね〉まで運ぶ役目をミドリは仰せつかった。今日の早番は光代さんとふたりだったが、ミドリは出勤して早々、車庫にあるカーゴバイクに生け込みに使う花材を積まなければならず、代わりに李多が開店準備をおこなった。

 そろそろ出発しようかという矢先、川原崎花店に、千尋から電話があった。ひとりでは心許ない、できればミドリさんには配達だけではなく生け込みを手伝ってもほしいとのことだった。李多は外せない用事があって、十時半にはでかけなければならない。しかし土曜日は開店と同時に強力な助っ人が訪れる。蘭くんだ。なので問題ないと、送りだされてきた。

 約束の九時よりも十分早く〈みふね〉に到着すると、千尋はすでにいた。驚いたことに彼女はユニフォーム姿だった。自分が通う入鹿いるか女子高校に野球部があることを、世間に知らしめたいとの理由で、この恰好で高校へ通っている。野球と華道の二刀流を目指しているんですと、常々口にしており、生け込みがおわったら、速攻で野球部の練習をしに高校へいくのだという。服装のせいなのか、生け込みをおこなう彼女の真剣な表情は、試合でバッターボックスに立つときとおなじに見えた。

 生け込みに使う花器は花材にあうものを千尋が持参してきていた。祖母がいつもそうしているのに倣ったのだろう。品格が漂い、かつ重厚感のある自然釉しぜんゆうの陶器の中で、生け花は三十分ほどでカタチを成してきた。床に敷いたレジャーシートに並べた花材は残り四分の一程度だ。

 手伝ってほしいと言われたものの、とりわけなにをするでもなく、ミドリは千尋の近くで、ぼんやり突っ立っていた。ときおり色の配置やぜんたいのバランスを千尋に訊かれるので、率直に意見を述べはする。だがはたしてそれが役立っているのかどうか、いまいちさだかではなかった。

「雷先輩がベースはじめたのって、年上のイトコとバンドをするためだそうで」

 ふたたび千尋が言う。とはいえ作業の手は止めない。芍薬につづいて、彼女が花器に挿しているのはリアトリスだ。二十センチ以上はある花茎に小さな花が隙間なく咲いているさまは、花器から槍が突きでているようにさえ見えた。実際、槍先といわれるタイプの品種なのだ。色は紫と白、ピンクの三色で、千尋は色が重ならないように挿していく。

「みたいだね。でもそのバンド、去年の春に解散しちゃってからはいろいろなバンドに助っ人として駆りだされているって雷くん言ってたな」

「それが今度、〈ティタティタ〉っていうバンドに加入が決まったみたいなんです」

「そうだったんだ。雷くんから聞いたの?」

 ふたりはミドリの知らぬ間にLINE交換をしていたのだ。

「いえあの、雷先輩のことを試しにちょっとネットで検索したら、〈ティタティタ〉のリーダーのSNSがあって、そこに書いてあったんです」

 千尋は動揺を隠しきれず、弁解じみた言い方で、顔が少し赤らんでもいた。

「雷先輩のベースの腕前って、けっこう凄いらしくって、イトコのバンドが解散したあと、引く手数多だったみたいなんです。でも雷先輩自身も、今年の春に卒業して、親の跡を継ぐために働きだしたので、バンド活動は難しいと渋っていたのをリーダーがどうにか口説き落としたそうで」

 話しているあいだに、千尋の手からリアトリスがなくなっていた。つぎはカンガルーポーというオーストラリア産の花だ。ポーは英語で動物の足のことである。細長くぜんたいに細かい毛が密生した筒状の花は、先っちょが六つに裂けている。これが指っぽく見えて、カンガルーの前脚に似ているところから、この名前が付いたらしい。念のため、ミドリはネットでカンガルーの前足を確認したが、似てなくもない。

 今日の花材はこの他にも、葉っぱに綿毛が生えていて、羊の耳みたいなラムズイヤー、小さくて真っ赤な花が群れて咲いてふわふわモコモコして猫のしっぽに似ているキャットテール、アザミに似た花が咲きながらもアザミではない、キツネに化かされたようだと名付けられたキツネアザミ、花のカタチが雀に見えるので群雀蘭むれすずめらんと和名があるオンシジュームと、動物の名前が付いているのが多いと気づいたのは、〈みふね〉に着いてからだった。

 その話を千尋にしたところ、芍薬以外はすべてそうなんですよと笑った。五日前に祖母が花材を注文しに川原崎花店を訪れた際、蘭くんがいてリアトリスについて、細長い花穂のさまからキリン菊ともいうんですよと、お客さんに説明するのを聞き、動物の名前で揃えようと思いついたそうだ。

 カンガルーポーを花器に挿しおえると、千尋は床に広げたレジャーシートの脇に立て膝をついた。そして半透明の手袋を両手に填め、カッターを取りだす。最後に残ったスモークツリーになにか手を加えるのだろう。

「手伝うよ」ミドリは千尋の前にしゃがみ、もう一本あったスモークツリーを指差す。「こっちのやるけど、どうすればいい?」

「水を吸いやすくするために、まずは枝の表面の皮を削いで、切り口を斜めにカットしてから、その断面を十字にカットしてください。あ、ミドリさん、スモークツリーを触ってだいじょうぶなひとですか」

「だいじょうぶってなにが?」

「かぶれません?」

「かぶれるの?」ミドリは聞き返す。

「スモークツリーってウルシ科でしてね。肌が弱かったりアレルギー体質だったりするひとは、枝に触れただけでかぶれちゃうことがあるんです。とくに切り口からでるヤニは要注意で、これまでかぶれたことは一度もないんですが、念のために手袋しているんです。ミドリさんもどうぞ」

 千尋から受け取った手袋を填め、自前のカッターで作業をはじめた。

 スモークツリーとはその名のとおり、遠くから見ると煙が燻っているように見える。この正体は花柄だ。〈はながら〉ではない。〈かへい〉と読む。茎と花を繋ぐこの部分が、花が咲きおわったあとに長く伸びて綿毛のようにふわふわになり、遠目だと煙に見えるのだ。花のあとにできた種がこの先っちょについており、遠くへ飛ばすための役割をしている。これもまた蘭くんに教わったことだ。

 こんなふうに進化するのって、すごくないですか。

 蘭くんに同意を求められ、ミドリは何度も頷いた。スモークツリーはイチョウとおなじく、雌雄異株で、雌木と雄木があり、花柄が伸びるのは雌木のみだとも教えてもらった。女のほうが努力したってことだねと言ったところ、そういうことではありませんと蘭くんに妙な顔をされてしまった。

 ちなみにスモークツリーも別名を白熊の木と言い、動物の名前だ。白熊は〈シロクマ〉ではなく〈ハグマ〉と読む。僧侶が持つ払子ほっすの先についている毛のことで、ヤクという動物の尾っぽの毛だと、さきほど千尋に聞いた。祖母からの受け売りらしい。

「ミドリさんは明日、早番ですか、それとも遅番?」

 スモークツリーを一本ずつ花器に挿しこみながら、千尋が訊ねてきた。

「早番だよ」

「そのあとなにか予定は?」

「なんにもない」

 カレシもいなければ友達もいない人生だと日曜の夜に予定が入ることはほぼなかった。

「さっき話した〈ティタティタ〉なんですけど、明日の夜、国分寺のライブハウスに出演するんですよ。それがあの、雷先輩が加入後の初お目見えだそうで」

 ベースを弾きに国分寺へいくと雷が言っていたのを、ミドリは聞いたことがあった。国分寺は地理的には東京のちょうど真ん中あたりで、鯨沼からだと乗り換えが面倒だが、三十分もあれば辿り着く。人気の吉祥寺よりも西寄りで、ファミリー層むけのベッドダウンである。そんなところにライブハウスがあるとは思いもしなかった。

「私、ライブハウスっていったことなくて、ひとりでいくのがちょっと怖いんです。もしよければなんですけど、ミドリさん、いっしょにいっていただけませんか」

 これが言いたかったんだな。

 ミドリは合点がいった。そのために花材を運ぶだけではなく、生け込みの手伝いをしてほしいと頼んできたのだろう。そう考えると雷についてネットで検索したのが〈試しにちょっと〉どころか、どうしても知りたくてしたのだろう。しかしそれを指摘するほど、ミドリは野暮ではない。

「いいわよ」

「ほんとですか」千尋の顔はぱっと明るくなる。そして深々と頭を下げた。「ありがとうございます」

 千尋がモデルになってくれたおかげで、卒業制作は無事に完成し、優秀賞を得て、美大を卒業できた。

 これくらいお安い御用だよ。

〽立てばぁぁああ芍薬ぅぅぅ

 座ればぁぁあ牡丹

 カゴが空っぽになったカーゴバイクを車庫に置き、玄関口を通り過ぎて、バッグヤードに入り、出掛けに外して置いていったうぐいす色のエプロンをつけているときだ。店から聞き慣れた歌声が聞こえてきた。

 ん? この声はまさか。

 店にでると、そのまさかだった。アトリエの大家の大屋さんがいたのである。白い長袖のコットンシャツに紺色のミドル丈のジレを重ね、ピンクのパンツと後期高齢者の割には攻めた服装を、じょうずに着こなしていた。店内にはお客さんが数人いたが、だれもが彼女の美声に耳を傾けている。

〽歩くぅぅぅ姿はぁああ 

 百合の花あぁぁぁ

 唄いおえると、自然と拍手が沸き起こった。大屋さんは丁寧にお辞儀をしてから、ミドリがいるのに気づく。

「ミドリちゃん、お帰りなさい」

「大屋さん、どうしてここに?」

「花屋には花を買いにくるものでしょ」

「でも花屋は小唄を唄うところではないですよ」

「ちがうわ」カウンターの中にいる光代さんが訂正する。「七七七五の四句を重ねる定型詩だから、小唄じゃなくて都々逸どどいつよ」

 元教師だからか、つぎの試験にでるわよとでも言いそうである。だが実際に光代さんがつづけて言ったのは、大屋さんはほんの十分ほど前に、ここを訪れ、自らの素性を明かしてからミドリがいるか訊ねてきたそうだ。

「配達にいってて、もうすぐ戻ってくるからってお待ちいただいたのよ」

「ミドリちゃんにはいつもお花をもらってばかりじゃない?」売れ残って廃棄寸前の花を、大屋さんに持って帰ることがあるのだ。「だからたまにはきちんと自腹を切って買わなきゃと思ってきたの」

「私がこうして美人セットをつくっていたものだからさ。自然とその都々逸の話になった流れで、唄ってくださったの」

 光代さんの前にある作業台には、芍薬と牡丹と百合が寝かせて並んでいた。この三つの花を花束にしたのが、美人セットである。百合は通年、牡丹は二季咲きのものもあるので、春だけでなく秋にも出回る。しかし芍薬は春から初夏のみだ。なので美人セットはいまの季節の限定発売で、税込み三千三百円とちょっとお高めではあるが、川原崎花店の人気商品なのだ。

「それにしても素敵なお声でした」

 光代さんの褒め言葉に、大屋さんは満更でもない顔つきで答える。

「昔取った杵柄です」

「昔になにを?」と光代さん。

「渋谷の円山町で芸者をしていたんですよ。昔も昔、七十年以上も昔です。雑誌に写真が載って、円山小町と紹介されたこともあるんですよ」

 大屋さんは高らかに笑う。彼女の話は嘘ではない。ミドリはその雑誌の記事を見せてもらったことがあるのだ。芸者姿の大屋さんは色香がダダ洩れで、自分にカレシがいたら、ぜったい近づけたくないタイプの女性だった。

「渋谷に芸者がいたんですか」光代さんが興味深げに、なおも訊ねる。

「昔の話です。私は東京オリンピックの翌年に結婚を機にやめましたけど、昭和五十年代にはまだ数十軒の料亭が円山町にありました。あれが最後の全盛期だったんでしょうねぇ。昭和のおわり、バブルのせいであのへんは地上げにあって、料亭がほぼほぼなくなってしまって。平成を乗り越え、令和までどうにか一軒だけ残って、芸者はいても片手で数えられる程度みたいで。時代の流れと言えばそれまでですけどね。自分が青春を捧げてきた町が、まるで様変わりしてしまったのはやはり寂しいかぎりです。長生きするのも考えものかと」

 ため息をひとつついてから、大屋さんは我に返ったかのような表情になる。

「ごめんなさいね、店先でこんな身の上話なんかしちゃって。いけない、いけない。花屋にきたんだから花、買わなくちゃ。爲田ためだくん、選んでくれたかしら」

「爲田さんもきてるんですか」

「あそこにいるわ」

 大屋さんがガラス窓のむこうに視線をむける。ミドリもおなじほうを見てぎょっとした。店頭に並んだ花々の前で蘭くんと並んで立つ爲田は、頬がけて顔色も悪かったのだ。

 どうしちゃったんだ、アイツ。

「ミドリちゃん、よかったらランチ、いっしょに食べにいかない?」

 大屋さんの誘いに応じたい。でも昼休みは光代さんが先で、ミドリは一時からだった。

「私はあとでいいわよ」ふたたび美人セットをつくりはじめた光代さんが言った。「正午になったらいってらっしゃいな。その代わりに今日のおかず、私の番なんだけど買ってきてくれない?」

「わかりました」ミドリが返事をしたときだ。

「どうぞこちらに」と蘭くんに案内され、爲田が店に入ってきた。その手には淡い青色のアジサイが数本握られている。店頭に飾ってあったものだ。ふたりは各種のバラが並んだコーナーへむかう。

「このバラです」蘭くんが言うバラは赤みがかった濃いピンクだった。

「これもダンスパーティー?」

「はい」

 爲田が〈これも〉と言った理由を、ミドリはすぐにわかった。彼が持つアジサイもダンスパーティーと名付けられた品種なのだ。名前が被ったのは偶々らしいのだが、面白がって李多が仕入れてきたのである。

「それともうひとつ」

「まだダンスパーティーっていう花があるのか」

「いえ。でもこちらの黄色い花、よぉくごらんください。なにに見えますか」

 爲田は蘭くんの言葉におとなしく従い、黄色い花に顔を寄せていく。〈みふね〉の生け込みにも使ったオンシジュームだ。

「ちょうちょっぽいな」

「まちがいではありません」爲田の答えに、蘭くんは深々と頷く。「海外ではバタフライオーキッド、ちょうちょの蘭と呼ばれることもあります。他には?」

「他に?」とふたたび爲田はオンシジュームに視線をむける。

「ひとのカタチに見えませんか」

「言われればちょうちょだったら羽にあたる部分が、裾の広がったスカートに見えなくもない」

「そうです。ドレスをきた女のひとが踊っているように見えることから、ダンシングレディオーキッドとも呼ばれています」

 どちらにせよスズメには見えないようだ。

「アジサイとバラのダンスパーティーにダンシングレディオーキッドの三品でブーケをつくると、色合いも青、赤、黄色とはなやかで、初夏にふさわしいと思うのですがいかがでしょう?」

「いいわね」と言ったのは大屋さんだ。ふたりの様子をじっと見つめていたのだ。「それ、いただくわ」

 鯨沼駅周辺は飲食店が多い。しかし丼モノか、ファーストフードのチェーン店が目立つ。ラーメン屋も何軒かある。大屋さん自身はどこでもいいし、なんでも食べられるというが、できればもう少し落ち着いたところが望ましい。ファミレスと回転ずしは平日の昼でも満席で、土曜とあらば尚更だろう。

 そう考えを巡らせ、ミドリは商店街にある珈琲へ大屋さんと爲田を連れていくことにした。チェーン店のようだが、鯨沼以外で見たことはないコーヒーショップで、パスタやサンドウィッチ、カレーなどフードメニューが充実している。店内は少しせせこましいが、この際やむを得ない。商店街にはお惣菜屋があるので、帰りがけに光代さんに頼まれたおかずも買える。

「ここはどう?」

 琉珈琲にむかう途中、大屋さんが足を止めたのは、オープンしてひと月あまりの素直書店の前だった。新刊と店長のオススメの本が並ぶショーウインドウの端にある、〈美味しい手打ちそばのランチやってます〉という手書きのボードに、大屋さんは気づいたのだ。奥にカフェがあるのをミドリは知っていた。早番の仕事おわりに何度か足を運んでいたのだ。でもランチをやっているのは、いまはじめて知った。それも手打ちそばだなんてカフェっぽくない。

 ミドリが店内をのぞくと、レジに立つ大柄でイカツいオジサンと目があった。この店の店長、鈴本寿奈男すずもとすなおだ。名前がスナオなので店名を素直書店にしたらしい。本人の口から聞いたのではない。川原崎花店と相互フォローしているSNSの自己紹介に書いてあったのだ。

「ランチですか」寿奈男のほうから訊ねてきた。

「はい。席、空いてますか」

「だいじょうぶですよ。ささ、どうぞ」

 鯨沼商店街の店の大半は、間口こそ広くないものの、奥行きのある店内だった。素直書店もその例に漏れない。カフェはテーブルが六、七卓あるのだが、いずれも天板が動物のカタチをしていた。素直書店のSNSによれば、本来は保育園や幼稚園で使用するもので、紀伊半島にあるヒヨコ家具という会社から仕入れたらしい。

 ミドリ達三人は、横から見た象の全身像のテーブルに腰を下ろす。そこへモジャモジャ頭の青年がお冷やを運んできた。東三条ひがしさんじょうだ。この名前も素直書店のSNSで知った。

「ご注文が決まりましたら、お呼びください」

 メニューを差しだし、そう言って下がっていく。言葉は丁寧だが、態度はぶっきらぼうで仏頂面だった。オープン前日、花を届けにきたミドリにも、彼はおなじような態度を取った。こうしてカフェでウェイターをすることもあれば、書店のレジに立つこともある。いずれにせよ接客業にむいているとは思えない。しかしSNSでは〈クールでかっこいい〉〈無駄に愛嬌を振りまかないで、仕事に徹しているのが魅力的〉などと褒められていた。おなじ花でもちょうちょや雀、踊っている女性に見えるのだから、ひとそれぞれなわけだ。

 メニューは蕎麦粉九、小麦粉一の九一そばのみだが、せいろとかけの二種類が大中小とあり、きつねや揚げ玉、大根おろし、トロロなどがトッピングできた。

「私、決まった」「俺も」

 三十秒足らずで大屋さんと爲田が言った。ミドリはゆっくりと時間をかけて選ぶタイプなのだが、急かされた気分になり、「私も決まりました」と東三条を呼び戻し、注文をしたあとだ。

「こちらのブーケ、お預かりしておきましょうか」

 東三条が訊ねてきた。蘭くんの見事なセールストークにより、大屋さんが購入したブーケである。紀久子がデザインした川原崎花店のロゴ入りで、しゃれたデザインが施された紙袋に入れ、爲田が持ち歩いていたのを、テーブルの端、象のお尻の上に置いてあったのだ。

「お願いするわ」と大屋さんが答える。

「ではレジに置いておきます」

 仏頂面でぶっきらぼうなのとは裏腹に、東三条は花が傷まないようブーケを丁重に扱い、レジまで運んでいった。

「ミドリちゃん、爲田くんと会うのはいつ以来?」

 平屋のアトリエでは爲田の部屋から、キャンバスに筆を走らせている音が途切れることなく聞こえてきた。美大を卒業後、まったく絵を描けずにいるミドリは、どんどん差を引き離されている気がして、焦りを感じるほどである。だがこうして顔を見るのはひさしぶりだった。

「たぶんゴールデンウィーク前に、アトリエの玄関ですれちがったのが最後じゃなかったかな」

「そうだったっけ」爲田は首を傾げる。「全然覚えてねぇや」

 それはそうだろう。ミドリが挨拶しても、「ああ」だか「うう」だか、呻き声みたいな生返事をするだけだった。

「昼夜問わず、ずっとアトリエに引きこもってて、半月以上も姿を見ていなかったもんだからさ。さすがに心配になって昨日の夜、部屋にいって覗いてみたら、爲田くん、キャンバスに寄りかかって、立ったまま眠っていたのよ。信じられる?」

 その姿を、ミドリは頭の中に思い描いてみる。

「信じられません」

「でしょう? 八十年以上生きてきて、あんなのはじめて見たわ。だからどうしていいんだかわからなくて、爲田くんって何度か呼びかけてみたの。すると身体がビクリと反応したんだけど、瞼は閉じたまんまでね。恐る恐る近づいて、もう一度名前を呼んでみて、肩を揺さぶってみたの。そしたらそのまま私がいるのと反対側にばたんって横に倒れちゃったんで、年甲斐もなく悲鳴をあげちゃったわ」

 大屋さんの悲鳴を聞きつけ、アトリエにいた現役の美大生ふたりが駆けつけたそうだ。倒れた爲田は安否をたしかめるまでもなく、ごぉごぉとイビキをかいていた。それにしてもこのままにはしておけない。いくら揺さぶっても、起きる気配がなかったので、美大生のひとりが加減せずに思い切り、頬を何度か引っ叩くと、ようやく目覚めた。

「そしたら蚊の鳴くような声でこう言ったのよ。腹減った、なんか食わせてくれって」

「どうやら俺は、それまで三日三晩寝ずに、モノを食ってもいなかったらしいんだ」

「どうやらって自分でもわかんないの?」怪訝に思い、ミドリは訊ねた。

「絵を描くのに集中してたんでね。ゾーンに入りっ放しっていうより、抜けられなくなっちゃうんだ。この二ヶ月くらいはその繰り返しで、マンションには三日にいっぺん、ときには一週間も帰っていなかったこともあった。風呂どころかシャワーもろくに浴びない状態で」

「ほんとヒドかったのよ」大屋さんは眉間に皺を寄せて言う。「そんなんだから髪の毛がごわごわで、ヒゲはぼうぼう、なによりも全身からヒドい悪臭が漂っていたし、顔には絵の具がついていたもんだから、ひとまずウチのお風呂に入ってもらったの。そのあいだにつくったお粥をお風呂あがりにだしてあげたの。でも眠気のほうが勝っていたみたいで、茶碗一杯食べたあと、少し横になりますってまた眠ってて、そのまま今朝の十時過ぎまで起きなかったのよ。起きたら起きたで、アトリエに戻ろうとするから、今日一日だけでも絵を描くのをやめなさいって慌てて引き止めたのよ。だからってウチにいられても邪魔だし、少しは陽に当てなきゃと思って、ここまで連れだしてきたってわけ」

「こうして無事、俺が生還できたのは大屋さんのおかげだと感謝していますよ。ありがとうございます」

「これからもときどき見にいきますからね。どんだけイイ絵を描いたって死んじゃっちゃあ元も子もないでしょ」

 爲田はへらへら笑っている。いまいち反省の色が見られない。あるいは反省している自分が恥ずかしくて、照れ隠しに笑っているように見えなくもなかった。

「親御さんは心配しなかったの?」

 前に息子と連絡がつかず、心配した爲田の両親が探偵を雇って捜させたことがあったのだ。

「あれ以来、親にはGPSアプリで俺の居場所がわかるようになっているんだ。たぶんどこへもいかずアトリエに籠って絵を描いている感心な息子だと思ってたんじゃねぇのかな」

「カノジョさんは?」

 爲田には交際して三年以上になるカノジョがいて、行方不明になったときは、いっしょに都内の温泉へいっていた。そのあと調子を崩した彼は、その子のアパートで介抱してもらっていたのだ。

「いろいろあって、いまは距離を置いているんだ」

 それ以上は訊かないでくれと爲田が目で訴えかけてきた。べつにあんたの恋路なんか興味はないわよとは言えない。

 そこへ東三条が注文の品を持って訪れた。せいろが自分の前に置かれた途端、「あら、素敵な匂い」と大屋さんは右手を振って、香りを鼻に引き寄せた。たしかに香ばしいそばの香りが漂っている。

「まずはつゆに浸けずに二、三本そのままお食べください」

 東三条が促してくる。そんな気取った食べ方をいままでしたことはない。だが大屋さんと爲田がおとなしく従うので、ミドリもそうする。そばはやや黒みがかって、太さに多少ばらつきがあった。口に含むと、歯ごたえがしっかりしており、噛めば噛むほど、そばの甘味が口の中に広がり、香りが鼻に抜けていく。

「おいしい」

「ほんとねぇ」ミドリの呟きに大屋さんが同意する。

「ありがとうございます」と東三条はにこりともせずに礼を言い、そそくさと去っていく。

 つゆは甘さを控えているぶん、かつお節の風味が効いており、そばとの相性がよかった。なんにせよ、いままで食べてきたそばがぜんぶ偽物に思えるほどの味わいに、三人とも無言で瞬く間に食べおえてしまった。頃合いを見計らって、東三条がそば湯を持ってくる。

「本屋のカフェでだすにしちゃあ、本格的過ぎやしねぇか」

 爲田が言った。まるでいちゃもんだが、彼にすれば最大限の褒め言葉だ。

「どんな方がつくっていらっしゃるの?」大屋さんが興味深そうに訊ねる。

「私です」

 マジで? ミドリは危うく言いかける。

「どこかの店で修業していたのかしら」と大屋さん。

「いえ。ずっと独学です。親父が趣味でつくっていたのを、見よう見真似でやっていたらハマってしまって」

 高校生の頃には自前で石臼を購入し、そばの実を挽くところからつくるようになったらしい。

「店長に勧められて、ここで提供することにしたのですが、ぜんぶひとりでやらねばならないので、土日のランチのみ、一日三十食限定なんです。気に入っていただけたのであれば、またいらしてください」

 お願いをしているのに、無愛想で面倒くさそうなのはいかがなものかとミドリは思う。だが大屋さんは「ぜひそうさせてもらうわ」とにこやかに微笑む。その笑顔は後光が射しているのかと思えるほど神々しかった。

「すみませぇん。注文お願いしまぁす」

 べつのテーブルで呼ぶ客のほうへ東三条はむかう。その背中を見ながら爲田が言った。

「変わったヤツだな」

「ひとのこと言えないでしょ」

 すかさず大屋さんがツッコむ。まったくだ。

「俺は至って常識人ですよ」

 爲田はぬけぬけと言う。本気でそう思っているにちがいない。ミドリはスマホで時刻をたしかめる。午後一時まであと二十分はあった。総菜屋さんでおかずを買っていかねばならず、ここにいられるのも長くて十分だ。

「深作はどうなんだ?」不意に爲田が訊ねてきた。

「どうってなにが?」

「絵、描いてんの?」

「いまはちょっと」

「ちょっとなんだよ」

「充電中」

 美大をでてひと月半、油絵は一枚も描いていない。平屋のアトリエにいっても、なにするでもなく過ごし、ときどき隣の家に暮らす大家の大屋さんに呼ばれ、お茶をしながらよもやま話をするだけだった。充電どころか漏電しているような生活だ。

「でもミドリちゃん、このあいだ、フラワーブックの絵を描いたってパソコンで見せてくれたじゃないの」

 大屋さんが言った。正しくはパソコンではない。タブレットだ。

「あれは絵というかイラストなので」

「でも絵は絵でしょ。私、あの絵、好きよ」

「フラワーブックってなに?」

 爲田が当然の質問を投げかけてくる。

 先月二十三日のサン・ジョルディの日に数量限定で予約販売をした川原崎花店のオリジナル商品だ。バラを主とした花を詰めこんだ箱で、本のカタチを模している。その説明をいちいちするのは面倒だなとミドリが思っていると、フラワーブックが目の前にあらわれた。

「これのことですよね」

 東三条が持ってきたのだ。予約をしてお買い上げいただいたのは店長の寿奈男だった。当店のショーウインドウに飾ってもよろしいでしょうかと許可を求めてくる彼に、願ったり叶ったりですと李多は二つ返事で承諾した。そして中身の花が枯れたあとも、箱だけをしばらく飾ってくれていたのである。

「サン・ジョルディだから聖ジョージとドラゴンの絵なわけだ」

 東三条からフラワーブックを受け取って、ミドリが描いた表紙を見るなり爲田はそう言った。

「ヒゲなしダリの授業、覚えているんだ」

「もちろん。座学ではあれがいちばん面白かったし、ためにもなった」

 サン・ジョルディはスペイン東部のカタルーニャ語で、英語だと聖ジョージ、古代ギリシア語だと聖ゲオルギオスと呼ばれる、古代ローマ末期の人物で、キリスト教の聖人のひとりだ。竜を退治した伝説で知られており、これを題材にした西洋絵画は数知れない。王女が見守る中、白馬に跨がった聖ゲオルギオスが竜をねじ伏せ、いままさに退治せんとする場面を描くのが基本である。

「これはルーベンスの絵が元だろ」

 爲田の指摘どおりだ。バロック期の画家、パーテル・パウル・ルーベンスが十七世紀アタマに描いたもので、聖ゲオルギオスがキャンバスからはみださんばかりに描かれている。そのため躍動感が溢れて迫力満載なのがミドリのお気に入りだった。

「中もご覧なさいな」

 大屋に言われ、爲田は表紙を開く。するとその裏側と箱の内側にも〈聖ゲオルギオスと竜〉があった。

 表紙の内側の絵はルネサンス期の画家、ティントレットが十六世紀なかばに描いたものなのだが、他の作品と比べてだいぶちがう。対決する聖ゲオルギオスと竜は後方で、王女がこちらにむかって、身にまとう服をなびかせながら逃げているところを描いているのだ。

 箱の内側の絵はさらにユニークだ。時代はずっと下って二十世紀初頭、ロンドンの画家、リヴィエールの描いた絵は対決がおわったあとが描かれている。仰向けに寝転がって空を見上げる聖ゲオルギオスと、倒されて命が尽きたと思しき竜、そして白ではなく黒い馬が横たわっているだけで王女はいない。

 どれも実物の絵を極端に簡略化し、ペンタブレットでイラストっぽく描き、絵柄も統一した。しかし構図はまるきりおなじなので、元を知っているひとが見ればわかる。実際、爲田はどの絵も誰が描いたのかを言い当てたうえで、こうも指摘してきた。

「描いた画家も時代も全然ちがうのに、こうして三枚、順番に見ていくと、〈①聖ゲオルギオスと竜のデスマッチ、②その隙に王女様が逃げる、③聖ゲオルギオスの勝利〉ってウマいこと、話が繋がっているな」

「でしょ? ほんとは表紙の一枚だけでよかったんだけどさ、数多ある〈聖ゲオルギオスと竜〉の絵画を並べて、どれを描こうか考えているうちに思いついたんだ」

 その旨をLINEで紀久子に送ると、いいアイデアだと絶賛してくれた。五日かけて三枚を完成させ、表紙の一枚を川原崎花店のSNSにアップし、予約を開始した。すると一箱税込みで六千六百円と高額にもかかわらず、一日で予定の二十箱に達したため、急遽、五十箱に増やしたものの、二日半で予約はいっぱいになった。箱自体は既存のものを購入するのだが、そこから先は紀久子の手作りなので、日程を考えると、それ以上増やすのは無理だったのである。

「この絵、金になったのか」

 爲田の不躾ぶしつけな問いに、ミドリは戸惑いつつも「店長に払ってもらったよ」とだけ答えた。一枚三千円だった。

「俺より先に絵で稼いだわけだ」

 冗談めかして言うので、からかわれているのかと思った。しかし爲田の目は笑っていなかった。なんか怖いとミドリが思っていると、つづけてこう訊ねてきた。

「充電中って言ってたけど、ほんとに油絵は描いていないのか」

「うん、まあ」

「よく平気だな。俺なんか絵を描いていないと不安でたまらなくなる。じつを言えばいまもちょっとそう思っている」

「駄目よ。今日は一日休まないと」

「わかってますって」大屋さんに言われ、爲田は首をすくめながらも話はつづけた。「俺はね、何者でもないいまの状態が耐えられないんだ。だからさっさと画家として金を稼いで大成したい。じゃなきゃ三年も浪人して美大に入った意味がねぇし、親にだって申し訳がたたないからな」

 素直書店をでたあと、大屋さんと爲田とは別れ、総菜屋さんでおかずを購入し、川原崎花店に戻ったのは午後一時ジャストだった。光代さんはミドリからおかずを受け取ると、三階へあがっていき、蘭くんもバグパイプの練習があるのでと、目の前の鯨沼駅へむかっていった。バグパイプを習う音楽教室が上りの三つ先の駅にあり、小学四年生の彼はひとりで通っているのだ。

 先週の日曜は母の日で、川原崎花店の前に長蛇の列ができるほどの賑わいだった。蘭くんや〈つれなのふりや〉のひとみママ、ボクシングジムの宇田川、紀久子のカレシさんにまで手伝ってもらった。それに比べたら、客はまばらだし、オリジナルの花束やブーケの注文などはなかったので、ミドリひとりでじゅうぶんこなせた。

 そしていま、店頭に飾ったアジサイが足りているかを確認するため、表にでてきた。町中ではそろそろ咲きはじめる頃だが、花屋は一足先に季節を先取りするため、いまが売り時で、十種類ほどのアジサイが並んでいる。蘭くんの勧めで、大屋さんが買っていったダンスパーティーの他にも、青、白、ピンク、紫など色は多種多様で、花のカタチもちがう。いや、花は真ん中にある小さな蕾のような部分で、花に見えるのはじつはがくなのだ。当然、このことも蘭くんに教えてもらった。

 いちばん売れて花筒が空になりかけていたのはホンアジサイの青だった。たくさんの花(じつは萼)が手まりみたいなカタチをなす、アジサイと聞いたら、ほとんどのひとが思い浮かべるアジサイだ。

 これはアジサイだけに限らない。どの花もどれだけ珍しくて目新しい品種を仕入れてきたとしても、売れるのはいちばんスタンダードなものの場合が多かった。レジを閉めるとき、一日の売上げを眺めながら、みんな保守的なんだよねぇと李多が嘆きと諦めをないまぜにしたような声をあげることがときどきあるくらいだ。

 青いホンアジサイの花筒に手をかけようとしたときだ。光代さんの達筆な文字が書かれた立て看板が目に入った。今朝方、千尋の生け込みを手伝っている最中、もう一度、きちんと確認しようと思っていて、すっかり忘れていた。

〈その花は媚びた唇のやうな紫がかつた赤い色をしてゐた。一歩誤れば嫉妬の赤黒い血に溶け滴りさうな濃艶なところで危うく八重咲きの乱れ咲きに咲き止まつてゐた。

(『小町の芍薬』 岡本かの子)〉

 なんかエロい。

〈媚びた唇〉とか〈嫉妬の赤黒い血〉とか〈濃艶〉といった描写がそう思わせるのだろう。

 小町って小野小町のことなのかな。だとしたら芍薬とどう関係があるのだろう。

 岡本かの子は太陽の塔で有名な岡本太郎の母親にちがいない。日本近代美術史の授業で習ったのを思いだしたのだ。小説家で歌人だったらしいが、彼女の作品を読んだことはなかった。

 花筒を抱え持ち、バックヤードへいく。そして青のホンアジサイを補充してふたたび店をでると、立て看板をじっと見つめているひとがいた。

 折敷出おりしきでだ。百七十五センチ以上の長身で、ブランドものと思しきスーツをスマートに着こなしている。オフィス街ならまだしも、鯨沼の土曜の昼下がりにはまるで馴染んでおらず、違和感しかなかった。美大生だった頃、モノクロ映画の中から俳優が飛びだしてきて、現実世界の女性と恋に落ちる洋画をレンタルDVDで見たことがある。折敷出はモノクロではないにせよ、まさにその俳優のようだった。

「こんにちは」

「やあ、どうも」

「すみません」青のホンアジサイの花筒を元の位置に戻してから、ミドリは詫びた。

「え? なにがです?」

「店長、今日もいないんです」

「そうですか。でもだからって、あなたがあやまることはないでしょう」

 笑いながらも落胆の色は隠し切れていない。見ていて痛々しいくらいだ。

 折敷出は自分の法律事務所を開くにあたって、ロゴマークや名刺、パンフレットなどのデザインを一式、紀久子に依頼した。彼女は川原崎花店があるビルの三階、李多の自宅のキッチンで、デザイナーの仕事をするようになり、打ち合わせのために折敷出が週に一、二度は訪れ、帰りがけに花を買うのが恒例だった。

 事務所は先月後半に開業しており、紀久子との打ち合わせはもうない。それでも折敷出が以前とおなじペースで、わざわざ川原崎花店にやってきて事務所に飾るためという名目で、最低でも五千円分、花を買っていくようになった。

 それはいいのだが、折敷出が訪れるのは不定期で、曜日も時間帯もバラバラだった。予告なしにあらわれる。なのになぜか、いつも李多が不在のときだった。つまり折敷出を避けているわけではない。あくまでも偶々なのである。

 折敷出の事務所開きの前日には李多自ら、お祝いのスタンディングブーケをつくり、自分の車で運んだ。ちなみに折敷出の事務所は、蘭くんが通う音楽教室がある駅の、もうひとつ手前の駅で、車だと十分程度で辿り着いたらしい。ところがこれまた間が悪いことに、李多が花を運び入れたとき、折敷出はべつの用事ででかけていたそうだ。

「いらっしゃい、折敷出さん」店から光代さんの声がした。昼休みをおえて、三階からおりてきたのだ。「店長、今日は一日おでかけなのよ。ごめんなさいね」

「あ、いや」

 光代さんにも詫びられ、折敷出は曖昧な笑みを浮かべる。どんな顔をしていいのか、迷っているようだった。そのまま彼は店に入ると、並んだ花を端から丁寧にじっくり見はじめた。まるで美術館で絵画を鑑賞しているかのようだ。こうして花を選ぶのはいつものことなので、邪魔立てしないよう、こちらからは話しかけずにおいた。

 光代さんとミドリは作業台に並び、芍薬と牡丹と百合の美人セットをさらにつくっていた。夕方になると飲屋街のスナックやバーのママやオネーサンへのプレゼントとして、花を買い求めにくる男性客がターゲットなのだ。

〈みふね〉の生け込みにつかった花材は、芍薬以外にも店内で販売している。蘭くんがダンシングレディオーキッドですと言って、爲田に勧めていた群雀蘭ことオンシジューム、キリン菊ことリアトリス、カンガルーポー、ラムズイヤー、キャットテール、キツネアザミ、それに白熊の木ことスモークツリーもあった。これらをお花動物園セットとして花束にしてみてはと光代さんに提案したところ、すぐに同意が得られたので、早速取りかかろうとしたときだ。

「私も」と折敷出が手を挙げた。「お花動物園セットをお願いできませんか」

 ミドリは千円ちょっとの小さめの花束を考えていたのだが、折敷出の希望はいつもとおなじボリュームでとのことだった。ひとまず花材を集め、作業台で花束をつくる前にひとまとめにしてみたところ、いまいちインパクトに欠けていた。折敷出にお伺いをたてると、彼もおなじ意見だった。となれば千尋がつくった生け込みを真似るのがいいだろうと、芍薬を数本交ぜてみた。品種もおなじくビクトールデラマンだ。

「素敵です。ぜひこれでいきましょう」

 折敷出はにこりと微笑み、白い歯がこぼれる。こういうところも往年のスター俳優っぽい。

「表の看板に書いてあった芍薬はこの花でしょうか」

「ちがうんじゃないかな」折敷出の問いに、光代さんは美人セットをつくりながら首を捻った。「岡本かの子が『小町の芍薬』を書いたのは昭和十一年なんです。ビクトールデラマンは西欧の品種ですし、そもそもその頃に存在したかどうか」

「その小説ですがタイトルからして、もしかしたら小野小町のモモヨガヨイ伝説にまつわる話ですか」

「小野小町についての話で芍薬もでてきますけど、その伝説についてはとくに触れてはいなかったと思いますよ。でもモモヨガヨイ伝説なんてよくご存じで」

「昔、外島さんに聞いたことがありまして」

「店長に?」光代さんは意外そうな顔つきになる。

「はい。外島さんの父方のお母さんが小野小町の生まれ故郷のご出身で」

「秋田の湯沢かしら?」

「そうです。だから私は小野小町の子孫かもしれないと言っていました」

「店長が言いそうなことだわ」と光代さんは笑った。「父方の実家が東北だとは聞いていたけど、湯沢だったとはねぇ。『小町の芍薬』はまさに小野小町の生まれ故郷である湯沢が舞台なんですよ。正しくは横堀町といって、いまは湯沢市の一部になったところなんですけどね」

 小野小町が秋田出身であることさえ、ミドリは初耳だった。だがそういえばお米は〈あきたこまち〉、秋田新幹線は〈こまち〉だと気づく。

「モモヨガヨイ伝説ってどんな伝説なんです?」

 お花動物園featuring(フィーチャリング)芍薬の花束をつくっている最中、作業台のむこうに立つ折敷出に訊ねた。光代さんはベリーダンスの発表会に出演する友達に、どんな花束をあげたらいいのかというお客さんの相談を受けていた。

「京の都から郷里へと戻った小野小町を、積もる思いのあまりに追いかけてきた男性がいたそうです。でも小町は彼に会おうとせず、私の屋敷の庭に芍薬を毎晩一株ずつ植えて百に達したならば、あなたの心に添い遂げてもいいと課題をだしました。男性の名前は深草少将といい、彼はこれを実行します。日々野山を巡り、芍薬を見つけてはその夜、小町の屋敷まででむき、庭に植えつづけていったのです。百の夜に通うと書いて百夜通いなのですが、最後の夜は大雨で、深草少将は芍薬を届ける途中、渡っていた橋もろとも流されて死んでしまったのです」

 深草少将が芍薬を植えた場所は、芍薬塚あるいは小町塚と呼ばれ、いまも残っているのだという。

「この話を外島さんから聞いたとき、小町への一途な思いが叶わず、命を落とした深草少将はかわいそうだと思いました。すると外島さんはそれはちがうと否定してきたんです。体よく断るつもりで芍薬を百本ほしいと小野小町は言ったのに、真に受けた深草少将が悪いと。死んだのはかわいそうだけれど自業自得だって。ヒドくありません?」

「ええ、まあ」

 ミドリは曖昧な受け答えしかできなかった。話をしているうちに、折敷出が憂いに満ちた表情になっていたからだ。もしかしたら自分を深草少将と重ねあわせているのかもしれない。毎日は通っていないし、芍薬も持ってきていない。今日などは逆に買っていこうとしているにせよだ。

「緊張してきちゃいました」

「千尋ちゃんが緊張することないでしょ」

 なだめるように言いながら、ミドリも少し顔を強張らせていた。今回のライブには三組のバンドが出演、すでに二組は演奏をおえ、いよいよ雷が加入したばかりの〈ティタティタ〉の登場を待つだけとなったのである。

 午後七時のスタートで、はじめは客がまばらだったのが、次第にひとが増えていき、いまや会場はぱんぱんになっていた。たぶん百人以上はいるだろう。ミドリと千尋は、あとからきたひと達に押されるカタチで、自然とステージの真ん前を陣取っていた。

 昨日の土曜、早番だったミドリは、遅番の雷と入れ替わりだった。ベースが入ったケースを抱えてあらわれた彼に、ライブにいく話はしなかった。こないでくれと断られたら怖いので、言わないでほしいと千尋に口止めされたのである。雷がそんなことを言うとは思えなかったが約束は守った。

 今日の千尋は入鹿女子高野球部のユニフォームではなく、肩回りがふんわりと丸く膨らんだ袖の白いブラウスに、黒のワイドパンツだった。普段着の彼女を見たのは数える程度だったため、待ち合わせ場所の国分寺駅の改札口で彼女だと気づかなかったほどだった。野球部の練習をおえ、国分寺まで直行だったが、駅ビルの女子トイレの個室で着替えてきたという。

 さすがにライブハウスに野球のユニフォームでいくわけにはいかないと思って。

 他にも理由があるように思えたが、ミドリは敢えて訊かなかった。

 場内に歓声が沸き起こる。ステージに〈ティタティタ〉があらわれたからだ。もちろん雷もいた。他のメンバーはTシャツにジーンズなのに、彼だけ詰襟の学生服だった。きちんと襟を締めているのがわかったのは、ミドリと千尋が手を伸ばせば、雷に触れることができるほど間近だったからだ。当然ながら彼はふたりに気づき、目を見開いた。驚いたにちがいない。だがそれも一瞬だった。すぐさま演奏がはじまったのだ。前の二組ともけっこう激しめのハードロックだったが、〈ティタティタ〉はさらに上回っていた。段違いと言ってもいいだろう。疾走感が半端ではなく、演奏にあわせて身体が自然と縦に揺れ動く。

 雷のベースの腕前はなるほど凄かった。指の動きは素早く縦横無尽だった。少なくともミドリには真似できないことではあった。しかも方々からあがる黄色い声の中には、「イカヅチくぅぅぅん」「イカヅチィィィ」と彼を応援する声も含まれていた。我慢できなくなったのか、負けじとばかりに千尋も叫ぶ。

「イカヅチセンパイッ、ファイトッ」

 やはり本人にむかっても雷先輩なのか。

 それにしてもファイトは余計だし、言い方も野球の応援そのものだった。伏し目がちでベースを弾く雷が、ちらりと千尋を見て微かに笑う。千尋は上気した顔に照れ臭そうな表情を浮かべている。

 それはまさしく芍薬の花言葉。

 恥じらい。

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