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Ⅶ 蕎麦

「なにやってんですか、ミドリさんっ」

 いきなり背後から呼ばれ、ミドリは驚きのあまり、危うくスケッチブックを落としかけた。

「ごめんなさい」らんくんだ。前にまわってミドリの顔を覗きこみ、詫びてきた。「おどかすつもりはなかったんです」

「だいじょうぶよ」

「絵、描いていたんですか」

「あ、うん」

 ここはキラキラヶ丘団地の中にある公園だ。やや広めでブランコやジャングルジム、滑り台など遊具が豊富だからか、子どもで溢れている。

 町中で絵を描きだして四ヶ月半、スケッチブックは三十三冊目だ。自分の住む町や鯨沼くじらぬま駅周辺では飽き足らず、商店街の先にあるキラキラヶ丘団地まで足を延ばすようになった。今日も昼過ぎに訪れ、団地の中をあちこち歩きまわった。平日の昼間なので女性や子ども、それにある程度の年齢を重ねたひと達が多い。郵便局や運送会社の配達員もよく見かける。今日は棟の前に停めたトラックから荷物を運びだす引っ越し業者に出会でくわし、その様子を何枚にもわたって描いた。

 いわゆるマンモス団地に比べたら、ダンボ程度ではあるにせよ、それでもじゅうぶん広い。二時間近く歩いたあと、この公園の片隅にあるベンチに腰かけ、遊びまわる子ども達をクロッキーで描くのが、パターンになりつつあった。どの子も一瞬たりともじっとしておらず、動きっ放しで描くのは大変だが楽しくもあった。

「いまからバイトですか」

「うん」

 九月末日の月曜、今日は遅番なのだ。四時入りだが、十分前には店にでて早番との引き継ぎをおこなっていた。三時半にでればじゅうぶん間に合う。この公園には時計塔があるので、わざわざスマホで確認しなくてもよかった。

「ぼくも今日、手伝いにいこうと思っていたんです」

 蘭くんは幼稚園の頃から川原崎かわらざき花店の常連だ。小学校にあがってからは三日にあげず川原崎花店にきてはだいたい小一時間、ときには二時間近く手伝うこともあった。客を相手に花の知識を披露するのだが、商売っ気ゼロで押し付けがましさはない。愛らしいのはもちろんだが、彼の正確さと熱心さに心を動かされ、花を買っていくひとも多い。

「となり、すわっていいですか」

「どうぞ」

 ミドリと少し距離を置いて蘭くんが座った。白黒ボーダーの長袖シャツをカーキ色のカーゴパンツにインしている。小学四年生の割にはセンスがよくて、オシャレな着こなしだ。母親の影響だろう。三十代なかばの彼女はスーパーへいくときでさえ、こぎれいな恰好かっこうをしていた。

「蘭くんはどうしてここに?」

 彼の住まいはキラキラヶ丘団地ではなく、鯨沼の新興住宅街だった。

「団地の中にある図書館で本をかりてきたんです。鯨沼のよりも、こっちのほうが近いんで。ミドリさんはこの本、読んだことあります?」

 左肩にかけたシンプルだけどシャレたデザインのトートバッグから取りだしたのは『赤毛のアン』だった。

「あるけど内容はあんまり覚えてないな」

 ミドリはちょっと嘘をつく。本は読んでいなかった。大昔にテレビで放映されていたアニメが三十年の歳月を経て劇場版として公開されたのを母といっしょに見にいっただけなのだ。それこそミドリがいまの蘭くんと変わらぬ歳の頃である。あんまり覚えていないのはほんとで、ただしアンみたいな子とはうまくやっていけそうにないと思ったのはかすかに記憶にあった。

「なんで読もうと思ったの? 光代みつよさんにでもすすめられた?」

「いえ、すすめてきたのは芳賀はがさんです」

「え?」

 芳賀泰斗たいとは川原崎花店の元アルバイトだ。

 十数年前、亡くなった祖父母の跡を継ぎ、李多りたが川原崎花店を再開したとき、はじめて雇ったアルバイトは、ミドリの兄、深作誠ふかさくまことだった。芳賀は誠とおなじ農大のおなじ学年で、学部はちがうがクライミング部でいっしょだった。誠が就職する際、大学院へ進んだ芳賀に川原崎花店のバイトを勧めたのである。

 芳賀は大学院を修了後も、母校に残って研究助手をしていたが、その稼ぎだけでは食べていけず、川原崎花店でアルバイトをつづけていた。ただし本人曰く、研究者としての能力よりも、クライミング部で鍛えた体力を買われ、国内外の極地の植物調査に引っ張りダコ、短くても半月、長いと九ヶ月以上いない場合もあったらしい。八年あまりいたけど、ウチに出勤してきたのはその半分だったんじゃないかなと李多は言う。三年半前に辞めたのは北極のほうへ長期の植物調査にいくことになったからだ。そして彼の後釜に入ったのがミドリだった。

 芳賀が働いていた頃、すでに蘭くんは常連で、花についていろいろ教わっていた。いまもふたりは連絡を取りあっている。蘭くんはまだスマホさえ持っておらず、父親のお古のパソコンでメールやビデオ通話などでやりとりしているらしい。

〈北極のほう〉とはカナダのツンドラ地域にある小さな村で、芳賀は現地で撮った写真をメールに添付して蘭くんによく送ってきた。トナカイやアザラシの群れやオーロラなどもあったが、なによりも多かったのはやはり花だった。とくに夏だ。永久凍土の表面が融け、植物が一斉に芽吹いて花も咲くという。蘭くんは自分宛の写真を自宅でプリントアウトして、川原崎花店へ持ってきた。そしてみんなに見せて、これはムラサキユキノシタ、こっちのクリーム色のはチャボクモマグサ、ピンク色のはコケマンテマ、ワタみたいなのがワタスゲ、一面に咲いているのはヤナギランと花の名前や特徴を教えてもくれた。

「芳賀さんとは三日前にビデオ通話で話したんですけど、先月末には調査をおえ、その村をでて」

「日本に戻ってくるの?」

「いえ」蘭くんはあっさり否定する。「おなじ村でいっしょだった調査員にさそわれ、カナダの大学にある気候変動について研究する機関で働くことになったそうです。なので帰国はもう少し先になったと言っていました」

「そうなんだ」

 ミドリは肩を落とす。芳賀は初恋のひとだった。自分の思いがぜったい通じないのはわかっている。それでもひさしぶりに会ってみたいという気持ちはあった。

「おなじカナダとはいっても、調査をしていた村は北緯六十二度、引っ越した先は四十六度とだいぶ南です。とはいえ日本の最北端とほぼおなじでして」

 北緯で言われてもピンとはこなかったものの、芳賀の新たな職場もけっこう寒い地域だとは把握できた。そこまで聞いて、ミドリは思いだしたことがあった。

「『赤毛のアン』ってカナダの話だったよね」

「そうなんです」蘭くんは我が意を得たりとばかりに頷く。「芳賀さんはいま、『赤毛のアン』の舞台となった島にいるんです。島といっても東京都の三倍の広さで、ひとつの州だとかで」

「それで蘭くんに『赤毛のアン』を勧めてきたってわけ?」

「はい。でも芳賀さん、引っ越すまでその島が『赤毛のアン』の舞台だとは知らなかったみたいですよ。つい先日、現地で日本語に訳した本がたまたま手に入ったので、芳賀さんも読むのはこれからなんだそうです」

「私も読んでみようかなぁ」

「ぜひ。読みおわったら感想を言いあおうと、芳賀さんと約束したので、よかったらミドリさんも参加してください」

「あ、うん」

 蘭くんの勢いに乗せられ、自分でも気づかぬうちにミドリは頷いていた。『赤毛のアン』ならば素直書店にあるかもしれない。いまから寄っていくには時間がないので、休憩時間にでもいこうと考える。

「ちょうどよかった」蘭くんはバッグに本をしまうとこう言った。「じつはミドリさんにききたいことがあって。いいですか」

「いいけどなぁに?」

「ミドリさんは画家になるんですか」

 あまりに直球な質問にミドリは面食らった。

「うん、まあ、そのつもりではいる」

「自分が好きなことを仕事にしたいんですよね」

「うん、まあ。思うようにはいってないけど」

「あきらめてべつの道へ進もうと思ったりしません?」

「しないよ。私には絵しかないからさ」

 そう答えると、蘭くんはまん丸な目を大きく見開き、ミドリの顔をマジマジと見た。

 え、なになに?

「なんでそんな質問するの?」

「ぼくも好きなことを仕事にするつもりで」

「花屋さんをしながら、花の学者になるんだよね」

「はい。だけど自分が好きなことは趣味にすればいい、これからの時代はなにが起こるかわからない、安定した収入を得るには公務員がいい、できればカンリョーになりなさいと言われちゃいまして」

「だれに?」

「お父さんです」蘭くんは大きなため息をつく。「それだけではありません。そのためにはイイ中学に進学すべきだ、バグパイプも花屋の手伝いもやめて、塾に通って受験勉強をしなさいとまで」

「蘭くんのお父さん、公務員なの?」

「いえ。建設会社で働いています。最近、仕事がウマくいっていないみたいで、夜おそくにヨッパラって帰ってくると、オレは負け組だ、オレの人生はこんなはずじゃなかったって、ぼくの部屋にまで聞こえる声で言うときがあるんです」

 にわかには信じ難かった。蘭くんの父親は川原崎花店をときどき訪れるし、町中でも見かけた。歳は食っているが、温厚そうな好青年といった感じだからだ。

「カッコイイです、ミドリさん」

「私が?」

 冷やかしやからかいではない。ミドリの顔を覗きこむように見る蘭くんの目は真剣そのものだった。

「ぼく、ミドリさんを見習います」

 なに言いだすんだ、この子は。

「絵しかないとはつまり、ひとつのことに自分のすべてをかけているわけですよね」

「いや、そうじゃなくて」

 要領が悪くてブキッチョなだけだ。カッコイイはずがない。

「ぼくも花しかないんで」

 蘭くんはきっぱり言い切る。まるで決意表明だ。そしてすっくと立ちあがった。

「ミドリさん、そろそろ時間ですよ」

 時計塔はちょうど三時半を指していた。

「いいの、花屋の手伝いをして?」

「だいじょうぶです。お母さんはぼくの好きにさせたほうがいいと言ってくれているので」蘭くんはにっこり笑う。無理しているように見えなくもない。「今日は李多さんが、アトランティックジャイアントを仕入れてきているはずですよね」

 そうだった。三日前の金曜、李多にこう言われたのをミドリは思いだす。

 今年もでっかいかぼちゃを仕入れてくるからさ、ミドリちゃん、またランタンにしてくんない?

 蘭くんが言ったアトランティックジャイアントとは、でっかいかぼちゃの品種名だ。去年はじめて入荷し、ミドリがSNSや動画を参考に、ランタンをつくったのである。いわゆるジャック・オ・ランタンだ。お手の物とまではいかないが、ノウハウは覚えていたので二つ返事で引き受けた。

「あれつくんの、けっこう面倒なんだけどね」

 去年のかぼちゃは高さ約二十五センチ、直径約三十センチで、中身をくり抜くだけでも一苦労だった。

「ぼく、手伝いますよ。さ、いきましょ」

「マジですか」

 作業台の上にあったアトランティックジャイアントを見て、ミドリは愕然がくぜんとし、思わず声を洩らした。

「ほんとよねぇ」光代さんが同意する。早番の彼女はレジで中締めの最中だった。「いくらでっかいって言ったって限度があるわよねぇ」

「去年のよりでっかくありません?」  

 蘭くんの言うとおりだ。去年のでもじゅうぶんでかいと思ったが、今年のかぼちゃはさらに二回りはでかかったのである。

「すみません」と詫びてきたのは、光代さんとおなじく早番のいかづちだった。「親父が面白がって李多さんに勧めたんです。そんなでかいかぼちゃ、ランタンにするのは大変だからやめたほうがいいって、俺は止めたんですが」

 平気、平気。ミドリちゃんだったらできるって。

 李多はそう言ったらしい。

「そりゃあね、引き受けたからにはやりますよ」

「怒ってますか、ミドリさん」雷が心配そうに訊ねてくる。

「怒ってません」あきらかに怒った口調だと自分でもわかる。

「怒っても店長はいないわよ」と光代さん。

「だから怒ってませんって」ミドリは念を押すように言う。でも口調は変わらない。「っていうか李多さん、どっかいってるんですか」

「長野です」雷が答えた。「赤い蕎麦そばの花を仕入れに」

 それって今日だったんだ。

 鯨沼商店街の素直すなお書店で東三条ひがしさんじょうという、ミドリと同世代の男性が働いていた。趣味は蕎麦打ちで、土日になると書店奥のカフェで、ランチのみ一日三十食限定の九一蕎麦を提供していた。そんな彼にはネットで知りあった蕎麦仲間がいた。ちょくちょくオフ会を開き、揃って遠出をすることもあるという。

 蕎麦の花は白い。ところが赤い花を咲かせる高嶺たかねルビーという品種の畑が長野の村にあり、いまがちょうど花の見頃なので、東三条が蕎麦仲間数人と日帰りでいくことになった。その話を素直書店の店長経由で聞きつけると、李多は東三条に頼みこんで同行したのである。なんでも赤い蕎麦の花を切り花にして川原崎花店で売るつもりらしい。

花卉かき市場から店に戻ってきて、私達と開店準備をしたあと、素直書店の子が仲間といっしょにバンで迎えにきたのよ」光代さんはレジのお金を数えながら言った。「その村まで片道二時間半なんだって。四十になるのにタフよねぇ。まだ自分が二十代だと勘違いしてんじゃないのかな、あのひと」

 年齢についてはともかく、李多がタフなのは間違いない。花屋はタフでなければ生きていけないのだ。

「そういえば」光代さんの話にはつづきがあった。「昼間に折敷出おりしきでさんがきてたのよ。鯨沼に用事があったんで、寄ってみましたって言ってたけど、李多さんに会うつもりだったのよ、ぜったい。でもなんでいつも李多さんがいないときにくるんだろ。間が悪いなんてもんじゃない、神様がふたりを会わせないようにしているとしか思えないわ」

 ジャック・オ・ランタンをつくるためには、底に穴を開けねばならず、ミドリは雷に手伝ってもらい、かぼちゃをひっくり返した。大きさに比例してけっこうな重さだった。つぎに動かないよう、まわりにタオルを詰めて固定していると、早番の帰る時間になった。今日は紀久子も遅番なのだが、ミドリが出勤する前に、電気三輪自動車のラヴィアンローズで配達にでかけており、光代さんが言うには、二軒だけなので三十分もしないうちに戻ってくるだろうとのことだった。

「うりゃっ」

 力んだ勢いでうっかり妙な声をだしてしまった。数人いた客が一斉に自分のほうをむく。それだけではない。

「どうかしました、ミドリさん?」

 蘭くんが心配そうに店内を覗きこんでくる。自宅に飾る花をいっしょに選んでほしいという年配の女性に、店頭に並べたリンドウを勧めている最中だった。

「いや、あの、かぼちゃの皮が思った以上に厚かったんでノコギリが刺さんなかったんだ」ノコギリは枝物の剪定せんてい用で、二十センチほどの細長い刃だった。「あ、でももう刺さったんでだいじょうぶ」

「気をつけてくださいね」と言い残し、蘭くんは顔を引っこめる。

 かぼちゃの底に直径十センチほどの円を描き、その線に沿って、ノコギリを上下に動かし切っていく。やがて円を一周し、最初に刺したところまでなんとか辿り着けた。そして切った部分をそっと引き抜いた途端。

「お見事っ」

 男性の声とともに拍手が聞こえてきた。ミドリは顔をあげ、我が目を疑う。ここにいるはずのないひとがいる。滅多に見たことがないスーツ姿だが間違いない。

 兄の誠だった。

「よぉ」と軽く右手をあげる仕草は、昔とまったく変わらない。

 どうしてここに? アメリカにいるんじゃないの?

「ひさしぶりだな」作業台に近寄ってくるなり兄が言った。

「あ、うん」似たようなシチュエーションの夢をいままで何度か見ているせいで、この状況が現実だと受け入れ難かった。こういう場合、ドラマや小説だと自分の頬をつねったりするが、現実にあんな真似をするひとはいるのかと思っていると、「李多さんは?」と兄が訊ねてきた。

「長野」

「なにしに?」

「赤い蕎麦の花を採りにいってる」

「赤い蕎麦の花って、高嶺ルビーか」

「うん、それ。兄さん、知ってるの?」

「ああ。たしかネパールの標高四千メートル近い村で育っていたのを、長野の会社と大学が共同で研究して、日本でも栽培できるように改良したんじゃなかったかな」

 兄の誠の勤務先は種苗メーカーだ。知っていて当然の知識なのかもしれない。

 いや、そんなことより、どうしてここにいるんだ? 

 兄の誠はミドリより十歳年上で、今年三十三歳になる。農大を卒業したのち、大手種苗メーカーに就職すると海外営業部に配属、一年後にはアメリカのアリゾナ州にある支社に駐在となり、十年以上が経つ。そのあいだ日本に戻ってきたのは片手で数える程度しかない。本来ならば三年前の夏に帰国して、現地で知りあった女性との結婚式をごく身内だけでおこなう予定だったのだが、コロナで中止になってしまった。実際に会うのは五、六年ぶりではないか。電話やメールなどでお互いの近況を報告していたが、それもここ何年かは途絶え気味だった。

 帰ってくるなら帰ってくるで、連絡くれればよかったのに。サプライズのつもりならば、もっと劇的に登場してくれなきゃ驚きようがないよ。

「ミドリちゃん、いい?」

 声をかけてきたのは〈つれなのふりや〉の斜向はすむかいにある〈ラッキーストライク〉のママだった。肉づきのいい身体の彼女はこれから出勤だからだろう、ばっちり化粧をしてキレイに着飾り、キラキラと輝くスパンコールのバッグを肘にかけていた。

 マルグレーテと名付けられたカーゴバイクで川原崎花店周辺、主に飲屋街へ花を配達するようになって半年、おかげで〈つれなのふりや〉のひとみママ以外にも水商売の方々とおおぜい顔なじみになった。ガールズバーやキャバクラにも花を届けにいき、その度にウチの店で働かない? と支配人に言われ、最初のうちこそビビったものだが、いまではすっかり慣れっこだ。

「ウチの常連さんに誕生日プレゼントで、花束をあげたいのよ。いっしょに花、選んでくれない?」

「は、はい」

 ミドリが作業台をでると、入れ替わりに兄が入っていく。まったく違和感がない、あまりに自然なふるまいだった。

「つづき、やってやるよ。中身のワタと種を取りだして、目と鼻と口をくり抜けばいいんだろ。むこうで毎年つくってたんでお手の物さ。任せておけって」

 兄は上着を脱ぎ、丸めて作業台の下に置いた。ワイシャツの裾をめくって、左右どちらも腕まくりをする。そしてスプーンを右手に持ち、底をくり抜いた穴に突っこんだ。さすがにここまでの夢は見たことがない。

 なにはともあれ、いまは接客だ。ミドリは〈ラッキーストライク〉のママに花を贈る相手について訊ねた。

「常連さんってどんな方です?」

「八十歳過ぎのオジイチャンで、今日が誕生日なのよ。なにか欲しいものはないか、このあいだ訊いたら、じきにお迎えがくるのにいまさら欲しいものなんかねぇやなんて言ってたけど、なにもあげないと、それはそれでねちゃうからさ。食べ物は好き嫌いあるし、食べたら一瞬でなくなっちゃうでしょ。花だったらしばらく家に飾っておけるんでいいかなと思って」

 予算は税込みで五千円だという。

「男性でそれだけお年を召した方へのプレゼントとなると、やっぱりシックな色合いがいいですかね」

「逆、逆」と〈ラッキーストライク〉のママは大きく口を開いて言う。「ミドリちゃんさ、アフリカのコンゴ共和国で、休みの日になると、ハイブランドの派手なスーツを着て町を闊歩かっぽするオジサン達がいるのって知らない?」

「なんか写真で見た覚えはあります」

「そのひと達をサプールといって、フランス語で〈オシャレで優雅な紳士協会〉の略らしいんだけど、常連のオジイチャンも似たような恰好で店にくるから、サプールさんってあだ名がついたくらい」

「だったらこの花はいかがでしょうか」

 小さなピンク色の花が群れて、ほぼ円錐形えんすいけいになっており、花筒に挿したネームプレートには〈秋色ミナヅキ〉と書いてある。

「アジサイみたいね」

「みたいではなくてアジサイなんですよ。他のアジサイだとたくさんの花がこんもりと丸みを帯びたカタチになりますが、ミナヅキはこういう先っちょが尖ったカタチになるので、ピラミッドアジサイとも呼ばれています」

「だけどアジサイが咲くのってふつう、梅雨の時期でしょ?」

「ミナヅキを漢字で書くと水の無い月、つまり六月の意味で、その名のとおり旧暦の六月、現在だと七月に花が咲きます。つぼみは緑色ですが、開花とともにクリーム色に変わり、秋が深まるにつれ、ピンク色に染まっていき、このように秋色ミナヅキという名前で、切り花が花屋に並ぶんです」

「三ヶ月以上も花が咲いているなんてありうるの?」

〈ラッキーストライク〉のママが不思議そうに訊ねてきた。

「じつはこの花、ピンク色に染まっているのは花びらではなくて、花のいちばん外側のがくと呼ばれる部分なんです。ふつうの花ならば葉っぱとおなじ緑色なのですが、アジサイの花は花びらの代わりとばかりに、こうして大きく広がるだけでなく色づきもします。こういうのを装飾花と言いまして、だから花びらとちがい、すぐにはしおれないんですよ」

 このへんの知識はすべて蘭くんからの受け売りである。

「なるほど、わかったわ」〈ラッキーストライク〉のママが感心した顔つきになる。「歳を取るにつれ、派手になっていく様はサプールさんにはピッタリってことね」

「そのとおりです」とミドリは頷く。

「ではこの花をいただきましょう。他の花もできるだけ派手めのをお願い」

 つぎにいまが旬のピンクッションを勧める。裁縫に使う針刺しに針が無数に刺さったカタチに似ているところからついた名前らしい。色はオレンジ色だ。

「私もそれ、イイと思った。刺々とげとげしい見た目が、憎まれ口ばっか叩いているサプールさんっぽいわ」

〈ラッキーストライク〉のママが話している途中、すぐそばで軽快な着信音が鳴った。

「はい、私。なぁに? やだ、忘れてた。いますぐ戻るから待っててもらって」

 スパンコールのバッグからだしたスマホを耳に当てて、しゃべったあと、〈ラッキーストライク〉のママはミドリのほうをむいた。

「ウチの店、キャッシュレス対応のレジが調子悪くって、修理のひとを呼んでいたの忘れてたんだ。あとでまた取りにくるんで、サプールさんにあげる花束、つくっといてくんない? ごめんなさいね」

 そそくさと去っていく〈ラッキーストライク〉のママを見送ると、表に蘭くんがいないのに気づいた。

「ミドリさんのお兄さんだったんですか。言われてみれば、目のあたりがミドリさんにそっくりですね」

 背後で蘭くんの声がする。ふりむくと誠の隣にいた。かぼちゃに作業台のスペースをだいぶ取られているため、端っこに花を並べ、余分な茎や葉を切ってカタチを整えている。誠はかぼちゃの中身をまだぜんぶだし切っていなかった。

「だけどミドリさんのお兄さんがどうしてここに?」

 ミドリの気持ちを代弁するかのように、蘭くんが訊ねる。

「妹に用があってきたんだけど、なりゆきでかぼちゃのランタンを代わりにつくってやることになったんだ」

 なんだろ、私に用って。肝心なところがわからず、ミドリはモヤモヤするばかりだった。

「きみ、名前は?」

 誠の問いに蘭くんはフルネームを名乗る。

「小学何年生?」

「四年です」

「そんなに若いのに、ここでバイトしているんだ」

「ちがいます。労働キジュン法五十六ジョーにより、十五才になってからはじめての三月三十一日までの児童をやとったり労働させることは原則禁止とされています。なので十才のぼくはここでバイトをしているのではなく、オトナになったとき、花屋さんをしながら花の学者になるための勉強をさせてもらっているのです」

 法律まで持ちだして、きっちり間違いを正す小学四年生のほうをむき、誠は目をぱちくりさせてこう言った。

「きみって見た目は子ども、頭脳はオトナなのかい? それとも人生を何回か繰り返しているとか」

「そんなはずないでしょう」

 蘭くんは怪訝けげんな顔つきをしつつも手を休めない。左手に青いリンドウを一本持つと、他の花を一本ずつ添えるように足していく。白のコスモス、黄色のケイトウ、さらにはススキと秋が旬の品のいいチョイスだ。すべての草花を束ねたら輪ゴムで留め、不揃いな茎をハサミでばっさり平行に切った。その断面にあらかじめ紙コップの中で水に浸してあったキッチンペーパーをぴったりくっつけ、小さめのポリ袋を下から被せる。さらに水が洩れないよう、ポリ袋の上に粘着テープを二、三周しっかり巻きつけ、透明フィルムにラッピングペーパーの順番で花束を包み、結束部分をリボンで結んだ。

「いつもながら見事なものねぇ。テキパキと素早くて動きに無駄がないわ。見てて気持ちがいいくらい」

 さきほどまで表で蘭くんが接客していた年配の女性が褒め讃える。常連さんで蘭くん贔屓びいきなのだ。

「ありがとうございます」蘭くんは礼を言う。「ミドリさん、お会計お願いします」

「あ、はい」

 ミドリは選んでいた花を一旦、作業台に置き、レジへとむかう。いくら仕事ができるとはいえ、さすがに小学生にレジを打たせることはできない。

「花束は手提げの袋にお入れしますか」

「そのままでいいわ」

 女性はスマホ決済で会計を済ませ、蘭くんから花束を受け取ると上機嫌で店を去っていった。そのうしろ姿を見送る蘭くんもうれしそうに笑っている。この笑顔を蘭くんの父親は見たことがないのかもしれない。あれば官僚になれなんてヒドいことは言わないはずだ。

 四時半を回ったところで、ミドリのスマホに紀久子のLINEが届いた。光代さんが話していたとおり、たった二軒の配達ではあった。しかし配達エリア内の最北端と最南端だったうえに、どちらも新規だったので、道に迷ってしまい、いまようやく帰路に就くという。

〈蘭くんが手伝いにきているのでだいじょうぶです。慌てず事故らないよう注意して戻ってきてください〉

 ミドリはそう返信した。実際、客足は途絶えなかったが、オリジナルのフラワーアレンジメントの注文などはなく、蘭くんの協力もあって、スムーズに店を回しつつ、サプールさんのための花を選ぶこともできた。

 秋色ミナヅキとピンクッションの他に、直径が十センチ以上もある大輪のガーベラで、花びらがくるんとして、赤みがかったオレンジのパスタロサート、ころんとした丸いカタチでオレンジと黄色のグラデーションのような色合いのピンポンマム、白にピンクのドットが入ったモカラなどを、蘭くんがチョイスしたのとおなじ、秋が旬ではあるものの、鮮やかでカラフルな色合いの花ばかりだ。束ねていくと目がチカチカするほどで、パンチが利いている。

 枝物も派手なのがいいよな。葉っぱが赤く染まった紅葉ヒペリカムか、赤くて小さな実がなったノイバラはどうだろう。おっと、これもいいか。

 ミドリは作業台近くに置いてあるフォックスフェイスに手を伸ばす。その名前どおり、キツネの顔に似た黄色い実をつけた枝物だ。すると誠と蘭くんの会話が耳に入ってきた。

「ミドリさんのお兄さんは昔、ここでバイトをしていたんですよね」

 蘭くんはかぼちゃの側面に三角形の目と鼻、そしてニンマリ笑う口を黒ペンで描いていた。

「昔も昔、まだ大学生だった頃だよ」誠はかぼちゃの奥まで右手を入れている。中身はほとんど取り出したようだ。「ミドリに聞いたの?」

「芳賀さんです」

「きみは芳賀を知っているのか」

「バイトをしていた芳賀さんに、花のことをいろいろ教えてもらいました。ぼくにとってはシショーです。つい先日もリモートで話をしました」

「芳賀はまだ北極のほうの村なのかな」

「いえ」

「それじゃ日本に?」誠はミドリとほぼおなじことを言う。

「ちがいます。カナダの大学にある気候変動を研究する機関で働くことになったそうです」

「カナダのなんてとこ?」

「プリンス・エドワード島です」

「そこって『赤毛のアン』の舞台じゃなかった?」

 兄さん、『赤毛のアン』を読んだことあるのかな。

 そう思ったときだ。

「やだ、嘘でしょ」

 光代さんが店に飛びこんできた。ぱんぱんになったエコバッグを肩にかけているのは、隣の巨大スーパーで買い物をしてきたからだろう。

「誠くんよね?」

「おひさしぶりです、光代さん」

「また会えるとは思ってもいなかったわ。信じられない」

 そう言ったかと思うと、光代さんは自分の頬をギュッとつねった。

 現実にもいたんだ、あれ、するひと。

「いただきます」「いただきます」

 兄妹の声が自然と揃う。子どもの頃、両親が畑仕事で忙しく、こうしてふたりきりで食事をしたのをミドリは思いだす。いまここは李多の自宅のキッチンだ。スタッフの休憩所でもあったが、それに加えて紀久子の仕事場と化してもいる。その仕事道具が半分以上占拠しているテーブルを挟んで、兄妹は紀久子がつくったカレーを食べはじめた。

「いつ帰ってきたの?」兄に訊きたいことは山ほどあるが、まずはこれからだろう。

「今朝、成田に着いた」

「奥さんは?」

「今回は仕事なんで俺ひとり」

「実家には帰った?」

「いや。成田から横浜の本社に直行だ。社内を挨拶してまわったあと、仮眠室で一眠りして、ここにきた。このあとまた横浜に戻る」

「仕事?」

「今夜は本社近くのホテルに泊まるんだけど、そこのイベント会場で明日、アメリカ支社の研究成果の報告会があってな。社員やクライアントのみならず農林水産省、農協、取引銀行、農大などからもひとが訪れ、総勢約千人を前にアメリカ支社の代表として、報告および質疑応答を俺ひとりでやるんで、その最終チェックをしなきゃならないんだ」

「アメリカ支社の代表だなんて、すごいじゃん、兄さん」

「全然すごかねえよ。便利に使われているだけさ」

 誠は笑う。言葉遣いが荒っぽくなったのは、兄妹ふたりきりだからだろう。それだけリラックスしている証拠でもあった。

「報告会自体は年に一度、開催されていたんだ。でもここ何年かはコロナ禍だったんで、わざわざ帰国せずともアメリカの自宅からリモートでの参加で気楽にできたのにさ。しかも報告会のあとは社長と会食、明後日には北海道の研究農場で二日にわたって研究員とのディスカッションまでしなくちゃならない。実家に顔だせるのはその翌日で、だけど夜には成田を発ってアメリカへいかなきゃならないんでね。三時間いられるかどうかってとこなんだ。親父はともかく、おふくろも光代さんくらいよろこんでくれればいいけど」

 感激もひとしおだったらしく、光代さんは人目も憚らず、その場でおいおい泣きだしてしまった。自分のスマホで誠とツーショットを撮ると、どうにか気が収まったらしく帰っていった。

 そのあとほどなくして誠はかぼちゃのランタンを完成させた。円形に切り取った底にライトを取り付け、店頭に運びだし、橙色だいだいいろの灯りをともした。すでに陽は沈んでおり、バスターミナルを挟んだ駅前からもはっきり見え、なかなか不気味だった。

 そうこうしているあいだ、蘭くんは迎えにきた母親と帰っていき、紀久子が配達をおえて戻ってきて、〈ラッキーストライク〉のママもサプールさんへの花束を取りにきた。

 今日、カレーつくったんだ。よかったら兄妹で食べてきて。私、ワンオペで平気だからさ。

 紀久子の言葉に甘え、三階にあがったのは六時半だった。

「超ウマいな、これ」

 誠の言葉に嘘はないようだ。話をしつつも彼のスプーンは止まることなく、皿に盛られたカレーとご飯は見る見るうちになくなっていった。

 兄さん、なにを食べるのも速かったし。

 もっとよく噛んで食べなさいと、母がしょっちゅう怒っていたのをミドリは思いだす。

「このカレー、前は芳賀さんがつくっていたんだよ。そのスパイス一式とレシピを、紀久子さんが譲り受けてつくるようになったんだ」

 今日も紀久子は遅番なのに、朝からやってきて、デザイナーの仕事をしつつ、カレーをつくっていたのだ。

「それでか。どっかで食った気がしたんだ。大学の頃も芳賀はちょくちょくカレーつくって、クライミング部のみんなに振る舞っていたよ」

 誠は懐かしそうに言う。すでに皿は空になっていた。

「お代わりすれば?」

「他にまだ食べるひとがいるんだろ」

「紀久子さんだけだし、あと一杯くらい平気だよ」

「それじゃ、いただこうかな」

 誠が二杯目をよそっていると、ミドリのスマホが震えた。

「李多さん?」

「うん」誠の問いにミドリは頷く。

 かぼちゃのランタンを店頭に設置したあとだ。誠はその隣にしゃがむと、ミドリに写真を撮らせた。それだけではなく、李多にLINEで送るようにも命じた。

 俺のことは一言も書かなくていいぞ。その写真を見て、どんな反応が返ってくるか楽しみに待とう。

 兄の言うとおりにしたのが四十五分前だ。いまのいままで既読にさえならなかったのに、李多はいきなりLINEのビデオ通話をかけてきた。

「兄さん、でる?」

 二杯目の皿をテーブルに置き、ミドリが差しだすスマホを誠は立ったまま受け取る。

「やだ、嘘、ほんとに誠くん?」李多の驚く声が聞こえてきた。「そこ、ウチの三階だよね?」

「そうですよ。おひさしぶりです、李多さん」

「いきなりどうしたの?」

「妹がちゃんと働いているか、心配でたまらなくなって見にきたんです」もちろん冗談だろう。「ついさっきまで店で見てて、いまはミドリと三階のキッチンでカレーを食べていました」

「どうだった? ミドリちゃんの働きっぷり」

 李多が訊ねる。誠の冗談を真に受けたのではなく、ノったのだろう。

「高校の頃まではひとと話すのが苦手で、友達もろくにできなかったヤツが、接客していたんで驚きましたよ。しかもきちんと相手の要望を聞いて、それにあった花を勧めていたのだから大したもんです」

 どうやらかぼちゃの中身をくり抜きながら〈ラッキーストライク〉のママとミドリとの会話を、聞き耳を立てていたらしい。

「愛想がないのが気になりますが」

「クールなのよ。それがミドリちゃんの魅力なんだからあのままでいいの」

 私はクールだったのか。

「そういう見方もありますね」誠は神妙な顔つきで頷く。李多の意見に納得したらしい。「ところで李多さん、長野へ高嶺ルビーを採りにいったと妹に聞いたんですが、成果はありました?」

「大アリよ。ひとまずお試しで十束、仕入れてきたんだ」

 李多の声が弾んでいる。心底うれしそうだ。よその花屋とおなじく、川原崎花店も売れ筋はバラやチューリップ、ユリ、カーネーションといったスタンダードな花ばかりだった。それでもやはり自分がいいと思った花を売りたいという気持ちが大きいのだろう。

「いまどちらに? 車の中っぽいですが」

「夕飯を食べおえて帰るところ。でもまだ長野だし、そっちに着くのは早くても九時だな。さすがにそんな時間までいないよね」

「すみません」と詫びて、明日は横浜のホテルで報告会があることなど、さきほどミドリに話した諸々を誠は手短に伝えた。

「今度、帰ってくるのはいつ?」

「まだこっちで結婚式していないので、来年にはどうにか」

「だったら奥さんにも会えるんだ。楽しみにしているよ。それじゃ仕事、頑張ってね」

「李多さんこそ。それと今後も妹をよろしくお願いします」

 誠はスマホをミドリに返すと、誠は椅子に腰をおろし、二杯目のカレーを食べはじめる。あれだけ遠慮していたのに一杯目よりも多めだった。

「光代さんも李多さんも昔と全然変わんないな。元気そうでなによりだよ」

 誠はしみじみと言う。ここでアルバイトをしていた頃を思いだしているのかもしれない。しばらく沈黙がつづく。それでも居心地が悪くなったり、気まずい雰囲気になったりはしない。ミドリはカレーを食べおえ、誠が食べる姿をぼんやり眺めていた。

 そういえば兄さん、私に用があるって言ってたな。

 美大を卒業したのに就職もせず、かといって千葉の実家にも戻ろうとしない妹に、兄として思うことはあるだろう。この先どうする、本気で画家になるつもりなのかと問い詰められたらどうしようと俄に不安になってくる。すると誠がこう言った。

「卒業制作の絵、おふくろが写真に撮って、LINEで送ってきたんだけどさ」ユニフォーム姿の馬淵千尋まぶちちひろが、いままさにバットでボールを捉えようする瞬間を描いたF一〇〇サイズの油絵だ。「スマホの画面じゃ小っちゃ過ぎたんで、パソコンに転送して、モニターでデカくして見た。すごくよかった」

「あ、ありがと」礼を言うものの、ミドリは心底よろこべない理由があった。

「モデルの子って、馬淵先生のお孫さんなんだろ。名前は千尋だったよな」

「あ、うん」

「俺がここでバイトしてたときは、まだ幼稚園から小学校へあがるくらいでさ。まさかあの子が野球をやるなんて思ってもなかったな。それにしてもおまえが絵を描くのが好きで、ウマいのも知っていたが、あそこまでとは思っていなかった。驚いたよ。臨場感があるっていうか、あの絵を見てると、モデルのあの子を応援する歓声が聞こえてくるようだった。奥さんにも見てもらったら、こんな素晴らしい絵を描ける妹がいることを、あなたは誇りに思うべきだって言われた」

 そこで誠はスプーンを止めた。ミドリの表情が曇っているのに気づいたらしい。

「なんだ、どうした? 浮かない顔して。俺は嘘ついてないぞ。身内だからって忖度そんたくもしていない。本気でおまえの絵を傑作だと」

「それはうれしいんだけど」

「けどなんだ?」

「千尋ちゃんがいま大変で」

「なにかあったのか」

「彼女、高三で野球部なんだ。女子も春夏はるなつに全国大会があって、彼女の高校は優勝候補って言われるくらい強豪校だったんだよ。ところが二ヶ月前の夏の大会で試合中、彼女、ヒドい怪我を負って」

 二回戦のことである。初回にショートへ打球を放ったあと、一塁にむかって駆けていき、ベースを踏もうとした瞬間に転倒し、左足を抱えてうずくまって、身動きができなくなり、担架で運ばれて退場した。これは球場まで応援にでかけていた千尋の母、百花に聞いた話である。その光景を想像するだけで、ミドリは胸が苦しくなった。百花といっしょにいた十重とえなどは暑さも相俟あいまって、気を失いかけたらしい。

「結局、その試合、負けちゃって。なにしろ千尋ちゃんはキャッチャーで、チームぜんたいを引っ張っていく存在だったからね。彼女の穴を他の選手では到底、埋められなかったんだ」

「いま大変って、言ったよな。つまりまだ怪我は治っちゃいないのか」

「球場とおなじ市内の病院で検査したら、左膝の十字靭帯じゅうじじんたい断裂と半月板損傷だとわかってそのまま入院、手術までおこなって八月おわりにようやく、こっちに戻ってきて、松葉杖をついて学校に通っているんだけどね。いまはリハビリ中で、完治するのに半年以上かかるんだって」

「そりゃ大変だ」誠は小さくため息をつく。

「馬淵先生んとこに花材を届けたときとかに、千尋ちゃんに会っているんだけどさ。彼女、野球と並行して華道もしてて、いまはそっちを集中してできるとは言うの。でも無理して明るく振る舞っているのがわかって、痛々しいくらいなんだ。でも私にはなんにもできないし」

「できてるよ」最後の一口を含むと、誠は言葉をつづけた。「おまえは千尋ちゃんを心配しているし、助けてやろうとも思っているんだろ。その気持ちは千尋ちゃんにも伝わっているさ。人間、心が弱っているときは敏感だからな。それはきっと励みになって、やる気を起こさせる。つまりおまえが存在するだけで、千尋ちゃんを救うんだ」

 こういうとこも昔と変わんないな、兄さん。

 熱血とはちがう。上から目線でもなければ説教臭くもない。正論かといえば、ややズレている気がしないでもない。だけど兄の言葉は胸に響く。

「食べ過ぎちゃったな」

 誠はお腹を軽く叩いて笑う。そして空になった皿を流し台まで持っていき、洗いだす。深作家は両親ともに農作業で忙しく、自分のことは自分でと躾けられてきたのが、三十路みそじを越えても抜けないようだ。

「芳賀がつくったのと負けず劣らず、いや、すでに超えたウマさだったと紀久子さんに伝えてくれ」

「もう帰るの?」

「ああ」

「五分だけいい?」

 キッチンの片隅にハンガーラックがある。その下にあるカゴがバッグの置き場になっていた。そこからミドリは自分のバッグを取りだして開く。

「なんだ、どうした?」

「兄さん、描いてあげる」

「マジか。そいつはうれしいな」

 バッグから葉書サイズのスケッチブックと筆入れをだす。

「座らないで」椅子に腰かけようとする誠を制した。「流し台を背に立ってくんない?」

「こうか?」

 誠はミドリのほうをむき、流し台に腰をもたせかけ、足を軽く交差させると腕を組んだ。カッコつけ過ぎだがよしとしよう。ミドリはスケッチブックをめくって白紙のページを開き、4Bの鉛筆を手にして躊躇なく描きだす。しばらくすると誠の頬が緩んできた。口角があがってもいる。

「なにニヤついているの」

「おまえも昔と変わんないなと思って」

「二十三にもなってガキっぽいって言いたいの?」

「ちがうよ。絵を描くときだけは真剣なところさ」

「だけってなによ」と文句を言いつつも、なにか他のことで真剣になれたことは思い当たらなかった。

 私には絵しかないからさ。

 蘭くんに言ったのは嘘偽りのない言葉だったのだ。

「はい、これ」

 完成するまで結局、十分近くかかってしまった絵をスケッチブックから切り離し、誠に差しだす。

「くれるのか」

「うん。でも兄さんにじゃない。奥さんにプレゼント」

「ありがと。よろこぶよ」誠は絵に視線を落とす。「卒業制作も力作でよかったけど、こういうラフの絵もいいな。なんというか素のおまえを感じることができる」

 ああ、そうか。

 ミドリは合点がいく。町中で気になる人物を描いていると、だれの目も気にしない素の自分でいられたのである。

「なにがあっても絵を描きつづけろよ」兄はニヤついたままだ。口調も軽い。でもミドリを見据える眼差しは鋭かった。「いいな」

「わかった」

 ヤバい。涙声になっちゃってるじゃん、私。

 そう思うと同時に涙が頬を伝っていくのを感じ、ミドリは慌てて手の甲で拭った。

 少しでも乱暴に扱えば折れてしまいそうな、細長く華奢きゃしゃで可憐な茎の先端に、数ミリ程度のちっぽけな花が群れて咲いている。色は赤というより濃いめのピンク色だ。ミドリはスマホを構え、花にピントをあわせ、撮影ボタンを押す。川原崎花店のSNSに〈本日のイチオシ!〉としてアップするためだ。

 以前は紀久子の役目だったのだが、正式に引き継ぎもしないまま、いつしかミドリに移行していた。写真だけでは味気ないので、ネットで検索して花言葉も載せる。蕎麦の花言葉を調べるために、スマホの画面をタップしかけると、光代さんからLINEが届いた。店の前に飾る黒板に書く言葉を送ってきたのだ。彼女が休みの日、代筆するのは李多の役目だったが、これも気づいたらミドリが書くようになっていた。

 いつもは花にまつわる言葉なのに今日はちがう。

〈世界に十月という月のあることが、あたし、うれしくてたまらないわ。モンゴメリ『赤毛のアン』〉

 十月初日の今日にピッタリだ。芳賀が『赤毛のアン』の舞台の島で働きだしたことを、光代さんも蘭くんから聞いたのかもしれない。

 

「どう? この花」

 李多が訊ねてくる。十月初日の今日は火曜日なので、花卉市場に仕入れにはいかず、朝八時からミドリと水揚げや花筒の水替え、店内の掃除、値札付けなどをおこなっていた。昨日、丸一日でかけていたのに、まるで疲れた様子はなく溌剌はつらつとしている。やはり花屋はタフでなければ生きていけないのだ。

「高嶺ルビーなんて名前だから、もっと派手できらびやかな花を想像していたので、こんな可憐で愛らしい花だとは思っていませんでした」

「たしかに」李多は高嶺ルビーに顔を寄せながら言う。「この花、なんで赤いんだと思う?」

「もともとこの花が、ネパールの標高四千メートル近い村で育っていたことに関係してます?」

「大いに関係あるわ。っていうかなんでそれ知ってるの? ネットで調べた?」

「いえ。昨日、兄に教えてもらいました。長野の会社と大学が共同で研究して、日本でも栽培できるようにしたって」

「さすが誠くんだな。ダテに種苗メーカーで働いてるわけじゃないな。じつは私も昨日、東三条くんの蕎麦仲間のみなさんに教えてもらったんだけどさ。過酷な環境で育つため、紫外線などの有害な光から自らを守るアントシアニンという赤い色素成分が蓄えられているんだって。その成分が花にでて赤いそうよ」

「へえぇ」

「ミドリちゃんっぽくない?」

 李多は高嶺ルビーからミドリに視線を移す。

 なにを言いだすんだ、このひとは。

「どういうことです?」

「画家を目指すきみの中には、情熱っていうアントシアニンがあるんじゃないのかなって」

 情熱か。そう言われると気恥ずかしい。でも絵を描きつづけたい気持ちがあるのは間違いない。

 私には絵しかない。

「他にも私っぽいとこありません?」

「たとえば?」

「可憐で愛らしいところとか」

「自分で言う?」

「自分で言わないと、だれも言ってくれないんで」

「そんなことないわよ」なぜか李多は意味ありげに笑う。「高嶺ルビーの写真、SNSにアップした?」

「いえ、まだです。蕎麦の花言葉を探してて」

「ミドリちゃんにピッタリのがあるわ。これも昨日、東三条くんに聞いたんだけど」

「なんです?」

「一生懸命」

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