ポプラ社がお届けするストーリー&エッセイマガジン
メニュー
facebooktwitter
  1. トップ
  2. 小説連載一覧
  3. 幸せの国殺人事件
第1回

幸せの国殺人事件

   

 昨晩、小学校からの同級生の桶屋おけや太市たいちに「お前の母親、クソじゃね?」と言われた僕は、その意見に全面的に同意した。

 母親は、昨日の自分の発言を少しは後悔しているらしい。お弁当のおかずを豚の生姜焼きにしたり、晩ご飯のおかずを鶏の唐揚げにしたりと、僕の好物で機嫌を取ろうとしている。だけど僕は許す気はなかった。もう丸一日、母親とは口を利いていない。

 無心で数学のプリントの最後の問題を解くと、クリアファイルに挟んだ。宿題を済ませてから遊ぶという小学生時代の決まりを守り続けていることを、どうかと思うこともあるけれど、そうした方がさっぱりして気分がいいというのも本当だった。

 七月に入ってからは母親が勝手に申し込んできた塾の宿題も加わったので、今、僕の自由になる時間は夜の九時から眠るまでの三時間くらいしかない。太市は明け方まででも起きていられるらしいけれど、僕は十二時を過ぎるとどうしても眠くなってしまう。

 宿題のファイルを忘れないように通学リュックに仕舞うと、横のベッドの枕元に置いているリモコンに手を伸ばす。その時、階段を上ってくる足音が聞こえた。

海斗かいと――あんたいい加減にしなよ。ゲームばっかしてる自分が悪いんじゃん。お母さんに謝りなよ」

 いきなり部屋のドアが開いて、尖った声が響いた。六歳上の姉のあかねが、仁王立ちでこっちを睨んでいる。

 だけど全然迫力がない。大学生になってますます母親に顔が似てきた姉は、丸顔で垂れ目で、眉間にしわを寄せても困っているようにしか見えない。そして中一の僕より背が低い。姉の身長は一五三センチしかないので、この春に入学してすぐの身体測定で一六二センチだった僕が立ち上がると、見下ろす形になってしまう。

 そういうわけで、僕は椅子に座ったまま姉の方を見返した。ノックせずに開けるなよとか、姉ちゃんに関係ないとか、言いたいことはあったけど黙っていた。言い返すとますます機嫌が悪くなるに決まっているからだ。姉は晩ご飯の間、僕がずっと仏頂面で黙っていたせいで、居心地の悪い時間を過ごしたはずだ。その上、きっと夕飯のあとから今まで、母親に僕の愚痴を聞かされていたのだろう。

「僕、ゲームのやりすぎを注意されたんじゃないよ」

 丸いほっぺを膨らませた姉をそれ以上刺激しないように、僕はできるだけ穏やかな口調で異議を唱えた。

「お母さんに、もう太市とは遊ぶなって言われたんだ。お父さんが、太市みたいな子と遊んだら、悪い影響を受けるんじゃないかって心配してるって」

 僕がそう訴えると、姉は途端に決まり悪そうな顔になった。母親がいるだろうリビングの方向を振り返ると、深いため息をつく。そして「お母さん、なんでそういうこと言うかなあ」と、がっかりしたようにつぶやいた。

 毎晩遅くまで仕事をしていて、今日もまだ会社から帰っていない父は、僕たち子供にどういう友達がいて、何をして遊んでいるのか、まるで把握していない。昔からそうだったので、姉も分かっているはずだ。

 そして母親が、何かと嘘をつくということも、僕たち姉弟は小さい頃から思い知らされてきた。

 おばあちゃんが会いたがっているからと、小一の夏休みに二週間も姉と二人で母方の祖父母の家に預けられた時、母親は友達とヨーロッパ旅行に出かけていた。祖母にはご飯支度が大変だと嫌みを言われた。

 姉は高校受験の時、「お父さんが偏差値六〇以下の学校には行かせないと言っている」と聞かされて必死で勉強したそうだ。僕は反抗期の姉が酷いことを言って母親を傷つけたというのを信じ、姉を軽蔑していた時期がある。

 母親はいつもそうやって嘘を並べ立てて、自分が言いたいことを他の誰かが言っていたように装ったり、周りを味方につけようとしたりするのだ。

 昔は母親のそういう言動が理解できず、ただ戸惑ったり、振り回されたりするばかりだった。でもそんな環境に育った僕は成長とともに適応し、母親の嘘をいくらか見透かすことができるようになった。今回のことも、姉には「海斗がゲームをやりすぎるので注意したら怒った」とでも言ったのだろう。

「太市が学校に来なくなったからって、なんで遊ぶなとか言われなきゃいけないんだよ。そうやって子供に嘘つく方が、よっぽど悪影響じゃん」

 母親への苛立ちを、つい姉にぶつけてしまった。

 太市は中学に上がってから、学校を休みがちになり、五月以降は一度も登校していない。その理由を太市は話さないけれど、なんとなく僕には分かってもいて、だからこちらから尋ねることはしていない。

 姉もそのことを知っているので、僕が腹を立てる気持ちを分かってくれたのだと思う。「うん、そうだね」と、神妙な顔でうなずいた。

「まあ、でもお母さんのこと無視するのは良くないよ。明日からは普通にして、ゲームもほどほどにしなよ」

 母の虚言と弟の不機嫌に振り回された形となった姉は、少し疲れた様子でそれだけ言うと、部屋を出ていった。

 さっきより力のない足音が階段を下りていったのを聞いたあと、僕は再びベッドの上のリモコンを手に取ると、部屋の明かりを暗くした。天井の丸い照明に、小さなオレンジのランプが灯る。しばらくして暗さに目が慣れてきたところで立ち上がった。机やベッドと対角にあるテレビ台の方へ進み、テレビとゲーム機の電源を入れる。

 僕の部屋のテレビはアンテナに繋がっていない、ゲーム専用のものだ。ボイスチャット用のマイク付きイヤホンをつけながら、ぼんやりと光を放つ黒い液晶画面の前に座った。右上の隅に《入力1》と表示が出たあと、また画面は黒一色になる。やがてその中央に、静かで重厚なBGMとともに、ポツンと銀色の丸い月が浮かび上がる。

 カメラがズームするように月がだんだん近づいてきて、クレーターがくっきり見えるほどになった時、青白い炎が尾を引いて地表すれすれを斜めに横切る。直後、月の表面が輝き出し、画面が真っ暗になる。

 数秒後、夜の草原が映し出される。現実には存在しないだろう山羊とダチョウの中間のような動物の背中に乗った褐色の肌の少年が、夜空を見上げる。その空から青白い火球が落ちてくる。そして再び真っ黒になった画面に《World of Nightmare》のロゴが浮かび上がった。

 そこでスタートボタンを押した。いつもはこのオープニングは飛ばしてしまうけれど、今日はこのムービーを眺めて、ささくれた気分を落ち着けたかった。

 スタート画面に表示された自分のデータを選ぶ。ロードされるのを待ちながら、机の上のデジタル時計に目をやった。太市たちが来るのはいつも夜十時過ぎなので、まだあと一時間近くある。

《World of Nightmare》――「WoN」または「ワーナイ」という通称で呼ばれるこのオンラインゲームを、僕は小学四年の時に始めた。その頃からあまり人気のないゲームだったけれど、三年経った今はさらにプレイヤーが減って過疎気味になっている。

薗村そのむらもワーナイやってるんだ。こんなマイナーなゲームやってんの、クラスで俺らだけじゃね?」

 小四の夏の放課後、スイミングスクールのバスを待っていた僕に、自転車で通りかかった太市は濃い色の瞳をきらきらさせて言った。スイミングバッグにつけていたWoNの初回購入特典のノベルティタグが目に留まったらしい。

「俺の友達、誰もやってなくてさ。親に知らない人とチャット禁止って言われてて、全然仲間作れなくて。トカゲの巣のクエスト、一緒にやってくんない? 明日学校でアカウント教えっから」

 頼むよ、と人懐っこく笑って白い八重歯を覗かせた太市の自転車のカゴには、大きなスポーツバッグが突っ込んであった。バスケットボールの練習に行く途中だったようだ。

 太市は三年生の時から、バスケのクラブチームに所属していた。小柄だけどドリブルが上手くて足が速くて、さらにスリーポイントシュートというのをしょっちゅう決めるというので、女子からも人気があって目立っていた。対して僕はあまり友達がいなくて教室でも一人でいるようなタイプで、きっとWoNという共通点がなければ、僕らは友達になることはなかったと思う。

 太市は中学生になった今でも一五〇センチと僕より背は小さいけれど、髪も目の色も真っ黒で、年中日焼けしているような健康的な見た目をしている。バスケで声出しをするせいか、はきはきしゃべるし笑い声も大きくて、なんと言うか存在そのものが濃い。

 僕はプールの塩素で脱色されたみたいに髪の毛は茶色がかっているし、日焼けしても赤くなるばかりで年中色白で、その色の薄さが、影の薄さにも繋がっているような気がする。幼稚園からやっているスイミングで肺活量は鍛えられているはずなのに、声が小さくて、同級生と話しているとしょっちゅう「今なんて言ったの?」と聞き返される。

 そんな対照的な僕たちだったが、一緒に遊び出すと、自分と太市の違うところはだんだん気にならなくなっていった。トカゲの巣のクエストは、僕も太市もまだレベルが低くて何度も全滅したけれど、ついにクリアして報酬を山分けできた時は嬉しかった。

「海斗、次は一緒に商人を隣町まで護衛するクエストやろうぜ。この報酬で装備揃えれば最強じゃね?」

 クエストを達成する頃には「海斗」と名前で呼ばれるようになっていたので、僕も「桶屋」じゃなく「太市」と呼ぶことにした。

 それから五年生になって太市の他にもう一人WoNを始めた子がいて、僕らは三人で週に何度か、同じ時間にプレイするようになった。太市が学校に来なくなってからは、WoNの中でしか会えていないけれど、それでも太市は僕にとって大事な友達だった。

 ただ、小学校からの太市を――あんなにも眩しく教室に存在していた太市を知っている僕としては、学校に太市がいない今の状況は、やっぱり悔しかった。

 ロード画面が切り替わり、前回終了時にオートセーブされた町の酒場に、僕のキャラクターである茶色の革の鎧を着たゴブリンが現れた。周りにいる戦士や魔法使いやエルフに話しかけられないうちに店を出る。知らない人とチャットで話すのは苦手だった。

 武器屋や道具屋、宿屋が並ぶ通りを、短い足でダッシュする。クエストを頼んでくる町人を無視して、町の外れまで辿り着いた。この先はモンスターが出るので、一応斧を構えた。だけど上手く避ければ戦わなくても済むのは経験で分かっている。

 夜の草原をカーブしながら延びる道を走り出す。町から少し離れると、明かりがないので星空のグラフィックが綺麗に見えた。でも足元には注意しないといけない。草むらからネズミやヘビのようなモンスターが飛び出してきたり、石に擬態したモンスターが道に転がっていたりするからだ。

 コントローラーのスティックを少しだけ倒すようにしてスピードを落とし、暗い小道を慎重に進む。緩やかな丘を越えて、その先にある浅い川を歩いて渡った。水中にいたピラニアみたいな魚のモンスターをうっかり踏みつけてしまったが、追いつかれる前に岸に上がることができた。

 そこからはマップに表示された道を外れ、岩や草以外に何もないフィールドを走っていく。太市たちとの待ち合わせの場所までは町や教会などのワープできるポイントがなく、こうして徒歩で向かうしかないのだが、何度も通っているので目印がなくても迷うことはなかった。丘をもう一つ越えると、やがて背の低い木がまばらに生えた荒野に、僕が敷いたレールと連結した二台のトロッコが見えてきた。

 町の民家が三軒は収まるくらいの広さの円形に敷かれたレールは、八本のカーブしたレールを繋いだもので、一本のレールを作るのにはメタル系の敵を一体倒した時に一個ずつ手に入る鉄鉱石が五十個も要る。つまりこのレール全部を作るには、四百体ものモンスターを倒さないといけなかったのだ。僕一人の力では、とても無理な工程だった。さらに枕木の材料の木材を入手するのには、林で木を切り出さなければならず、レール一つにつき、なぜか四十本も必要だった。質量的に完全におかしいが、そういうシステムになっているのだから仕方がない。

 レールで囲われた円形の土地には、ピンク色に塗られた木製のベンチや蔓で編んだ大きなカゴ、小ぶりなボート、外灯、呪いの泥人形など、これまでに作った雑多なものが並んでいる。ようやく目的の場所に辿り着いたところで、持ち物のリストを開いた。

 昨日、町の鍛冶屋に鉄鉱石を持っていって作ってもらった四つの車輪と、道具袋の中の木材三十本を選択し、《工作する》のアイコンを選ぶ。「カンカンカン」とトンカチで釘を打つような効果音が鳴り、四角い箱に車輪がついたトロッコが完成した。同じものをあと二台作るつもりなので、木材を採取するために、西の方角に見えている林に向かう。昨晩切り倒した分も、一日経ったのでもう生えてきているはずだ。

 WoNはキャラクターの属性や最初に選ぶクエストによってシナリオがいくつかに分かれるが、どのルートを進んでもいいことになっている。後から別のルートを選び直してプレイすることもできるし、さらにはシナリオを進めなくても、こうして道具や武器を作ったり、定期的に開催されるイベントで遊んだりできる、自由度の高いロールプレイングゲームだ。

 でも基本的にはモンスターを倒したりクエストをクリアしたりしてゴールドを稼いで装備を整えること、そして経験値を稼いでレベルを上げてキャラクターを強くすることで、最終的にはボスと戦って《悪夢》を祓い、夜しかないこの世界に夜明けをもたらす、というのが目的になっている――らしい。

「らしい」という言い方しかできないのは、僕が始めて三年経っても、このゲームを一度もクリアできていないからだ。

 元々、僕はアクションゲームが苦手で、格闘ゲームでも必殺技を出したりきちんと防御をしたりということができず、すぐに負けてしまっていた。WoNのモンスターとの戦闘は、最初のうちは難易度が低くて武器を適当に振り回していても勝てるのだけど、中ボスくらいになるときちんと必殺技を使って、防御をしつつ相手の弱点を攻めないと倒すことができない。

 けれど運動神経に難がある僕には、キャラクターを思うように操作することが、なかなかできなかった。格闘ゲームに比べれば簡単なはずの必殺技のコンボが、敵を前にして焦れば焦るほど出せない。攻撃を回避しようとしているつもりなのに、わざわざモンスターが振り回した尻尾に突進してしまう始末だった。

 僕は最初に出会った中ボスに二十回挑んでも勝てなかったところで、それ以上戦うことは諦めた。そうして強い敵を倒して物語を前に進めるよりも、僕に合った楽しみ方があるかもしれないと考えたのだ。

 そして思い立った僕は、弱いモンスターを倒してこつこつ貯めたゴールドで土地を買った。それが太市たちとの待ち合わせ場所にもなっているあの広場だ。

 広場からしばらく走って林に着くと、奥の方の少し開けた辺りまで進んだ。草原を走ってくる途中にエンカウントしたゴーストタイプのモンスターにしつこく追いかけられていたけれど、林の入口で上手く撒くことができた。

 僕のキャラクターであるゴブリンは、斧が標準の武器なので、特に装備を変更しなくても木に向かって攻撃ボタンを押すだけで木材を採取することができる。一晩で六十本は無理でも、三十本は倒してトロッコをもう一台作りたい。僕は攻撃ボタンを連打しながら時計を振り返った。まだ九時半を過ぎたばかりだ。多分いける。

 テレビ画面に向き直ろうとした時、コントローラーが激しく振動した。攻撃を受けている。どうして――と暗い林に目を凝らす。ダメージを受けたことを示す赤い火花が散り、うめき声とともにゴブリンの体が大きく傾いだ。その拍子に視点が変わり、下から上を見上げる格好になる。

 ぎゅっと心臓が縮んだ。自分が斧を打ちつけた木の幹の上方に、巨大な蜘蛛の姿のモンスターが、逆さまになってがっしりとしがみついていた。しかも一体じゃない。その隣の木にも、向こうの木にもいる。この辺りは蜘蛛の縄張りになっていたのだ。

 林に蜘蛛のモンスターが出ることはたまにあるが、今回のような群れに遭遇したのは初めてだ。逃げようとする方向にも蜘蛛がいて、戦うしかない状況だった。でも蜘蛛は中ボスと違って普通のモンスターなので、斧を振り回すだけでもダメージを与えることはできるし、ヒットポイントもそれほど高くない。落ち着いて一体ずつ倒そうと、まずは正面にいる蜘蛛に向かっていった。ゴブリンが斧を構えて走り出すと同時に、コントローラーが震えて赤い火花が弾けた。

 後ろから別の蜘蛛に攻撃されてしまった。テンポの速い戦闘場面のBGMに、どんどん気持ちが焦ってくる。スティックを回して視点を変え、攻撃ボタンを連打した。画面の中を大蜘蛛が素早く移動し、気味の悪い牙の生えた口がアップになる。目の前が赤く光る。コントローラーが振動して、自分の体力ゲージが緑から黄色になる。

 ここで死んだら、町まで戻されてしまう。それはかなりの時間のロスだ。なんとかこの場を切り抜けて逃げ出したかった。けれど二体の蜘蛛に挟まれ、さらにもう一体の蜘蛛が近くにいるこの状況では、戦闘が下手な僕はもう死んだも同然だった。

 せめて早く終わらせてロス時間を短くしようと、抵抗するのをやめて棒立ちで蜘蛛に噛まれていた時だった。画面を斜めに白い光が走り、目の前にいた蜘蛛が撥ね飛ばされた。そして次の瞬間、ゴブリンの身長の二倍はありそうな大剣を振り回す、ゴブリンの四倍はありそうな屈強な体格の戦士が視界に割り込んできた。戦士はこちらに向き直ると、下から剣を振り上げる必殺技で、僕――ゴブリンの体ごと、背後にいた蜘蛛を切り裂いた。

 モンスター以外はダメージを受けない仕様なので僕はなんともなかったが、大剣の切っ先が目の前に迫った時には思わず首をすくめてしまった。戦士は三体目の蜘蛛を真っ二つにしながら、呆れたような声でチャットで話しかけてきた。

「林に現れた蜘蛛の大群を倒せってクエストが出てるんだよ。海斗なんか来ても餌になるだけじゃん」

 クエストをほとんど受けない僕は、今日出されているクエストのリストをきちんとチェックしていなかった。そういうモンスター征伐のクエストが出た時に該当のエリアに入ると、自動的にクエストを引き受けたことになってしまうのだ。

「ここは片づけとく。木を切るなら端っこの方でやって」

 そう言われている間にも新たな蜘蛛が奥の方で丸い四つの目を光らせていて、僕はちゃんと返事をする余裕もなく慌てて林の外へと逃げ出した。

 林の外れで地道に木に斧を打ちつけ、二十本の木材を手に入れたところで、戦士が林から走り出てきた。もう戦闘は終わったらしく、大剣は背中の鞘に納まっている。

「ありがとう、未夢みむ。助かった」

 岩のような巨体の戦士のキャラクターを操作する烏丸からすま未夢は、僕と太市の三人目のゲーム仲間で、同じ中学に通っている。ちなみに身長は一四五センチしかなく、女子の中でも小さい方だと思う。

「いいよ。蜘蛛を倒すついでに、木材も十本くらい取ってきた。これだけあればトロッコ作れるでしょ?」

 未夢は僕より二〇センチ近く背が低くて力も弱く、足も遅い。やたらと長い前髪が常に目にかかっていて、黒板とか遠くを見る時はいつも細い目になる。視力だって悪そうなのに、なぜかゲームの戦闘は三人の中で最強だった。

「早く始めよう。こんな調子じゃいつまで経っても《ハピネスランド》完成しないよ」

 未夢が操る戦士が、トロッコのある広場の方へと走り出す。机の時計を見ると、もう十時を過ぎていた。未夢は僕よりも寝るのが早いので、いつも十一時にはログアウトしてしまうのだ。

 あの土地に《ハピネスランド》を作ることが、このWoNのゲームの中で僕が見つけた新たな楽しみ方であり、目的だった。

 未夢の木材と合わせれば、今日やりたかったことはできる。僕は斧を仕舞うと、戦士のあとについて走り出した。

   

《ハピネスランド》というのは、僕たちが住む神奈川県藤沢市に五年前まであった遊園地の名前だ。

 開園したのは一九八〇年だというので、僕らが生まれるより三十年近く前ということになる。敷地面積は十五万平米。海辺の町の遊園地ということもあってか、ジェットコースター、観覧車、メリーゴーランドなど定番の乗り物の他に、いかだを模した乗り物で急角度の滑り台を水路に向かって滑り下りたり、大きな池に浮かぶミニボートで島から島へ渡ったりといった、水に関するアトラクションが多かった記憶がある。市街地から離れた田んぼや畑の広がる一帯に位置しながらも、横浜湘南道路のインターに近く、藤沢駅から直通のバスも出ていたので、昔はそれなりの集客があったのだそうだ。

 僕が最後にハピネスランドに行ったのは、小学一年生の遠足だった。その頃にはすでにアトラクションもだいぶくたびれた印象で、塗装の剥げたメリーゴーランドはまるで骨董品みたいだったし、観覧車の窓は細かな傷がたくさんついていて、湘南の海や江の島のパノラマが全部ぼやけて見えた。

 それより昔にも、両親と姉とで何度か行っているはずだけど、僕が小さすぎたのか、あまりはっきり覚えていない。でも僕のアルバムには、《恐怖の館》の前で半べそをかいて父親に抱きついている写真や、強張った顔で回転ブランコのチェーンを掴んでいる写真が残されている。

 WoNのゲーム内に買った土地に、ハピネスランドを再現しようと考えたきっかけは、最初は単なる思いつきというか、気まぐれみたいなことだった。

 自由度の高いWoNでは、敵を倒してシナリオを進める以外にも、色々な遊び方ができる仕様になっている。例えば土地を買って畑を作り、植物を交配して薬草を作ったり、武器や防具などを自分で工作して売ったり、仲間と協力して町と町の間にレールを敷いて、新たな交通機関として使うこともできた。

 僕の選んだキャラクターのゴブリンには、手先が器用だという特性があって、工作のスキルや関連する能力のパラメーターが他のキャラクターより高かった。通常よりも作れる道具や家具の種類が多いので、それを試してみようと、僕は手始めにベンチを作った。

 まずは町の道具屋で頼まれた草花や鉱物集めなどのクエストを達成して、道具作りのレシピをもらう。それから素材を集めて《工作する》のアイコンを選べば出来上がりという手軽さで、しかも完成したものに色を塗ることも可能なのだ。

 試しに作ってみただけで、実際に使うつもりもなかったので、僕はふざけてベンチをピンク色に塗ってみた。そうして完成したベンチを自分の土地に配置した時、ハピネスランドの園内に置かれていたベンチが、ピンク色だったことを思い出した。

 元々この土地は、家や畑の用地として買ったのだけれど、別の考えが浮かんだ。この場所に、今は閉鎖されてしまった地元の遊園地――ハピネスランドを再現できたら、面白いかもしれない。

 いつか同年代の子とWoNをプレイすることがあったら、藤沢市の中学生なら遠足でハピネスランドには行ったことがあるはずだし、気づいてもらえるんじゃないだろうか。よくこんなの作ったなと呆れられる可能性もあるけれど、感心してもらえるかもしれない。

 初めはそんなことも考えていたけれど、誰かに見てもらわなくても、レシピや素材を集めてものを作るのは、僕にとっては楽しかった。幼稚園の時も、友達と遊ぶよりも黙々とブロックで乗り物や街を作っているような子供だったと母親が言っていたし、性に合っていたのだと思う。そしてピンクのベンチを三つと黄緑色のくずかごを二つ、白と赤に塗り分けたボートを一艘作った頃に、太市に一緒にクエストをやろうと誘われたのだ。

 二人でクエストをクリアして打ち解けたあとに、僕は実はこういうものを作っているのだと、初めて自分の土地に太市を案内した。

「これハピネスランドだよな」

 太市は見てすぐに分かってくれた。

「すげーよ、海斗。天才じゃね? これ、俺も一緒にやりたい。素材集め手伝うからさ」

 太市が僕には倒すことの難しいメタル系の敵を倒して鉄鉱石を集めてくれたので、町の鍛冶屋に頼んで鉄製の道具を作ることもできるようになった。そして翌年に太市が「隣のクラスの烏丸もワーナイやってて、しかも結構強いんだって」と聞き込んできて、未夢が僕らの仲間になった。

「何これやばい。ハピネスランドじゃん」

 未夢も見るなりそう言った。その頃にはベンチとくずかごとボートの他に、太市のおかげで外灯もできていた。

「手伝っていい? 私、ハピネスランドの年パス持ってたんだ」

 年間パスポートを持っていたほどのハピネスランドフリークの未夢が一員に加わったことで、WoNの世界にハピネスランドを再現するという僕の計画は急激に真剣味を帯び、そして加速した。未夢はその時点でドラゴン系の敵を余裕で倒せるほどのレベルと装備だったので、ここから集められる素材の種類が一気に増えた。難易度の高いクエストを達成することでしか手に入らないレアな素材も、「別にまた取ればいいから」と未夢は気前良く僕に譲ってくれた。

「未夢が早くに来てくれたから、助かったよ。蜘蛛にやられて死んでたら、また町からやり直さないといけないところだった」

 無事にトロッコを一台完成させたところで、改めて未夢にお礼を伝えた。トロッコを四台繋げることができたら黒く塗って、園内を一周するミニSLにするつもりだった。

「そうだ、これもあげる。太市が今日は来られないって言ってたから、代わりに私が素材集めようと思って早めに来たんだよ」

 未夢は蜘蛛のクエストをクリアした報酬である《大蜘蛛の糸》を僕に渡しながら、何気ない調子で言った。

「え? 太市来ないの? どうして――」

 やっぱり、昨日の母親の発言を伝えたのはまずかったのだろうか。

 母親の言動について、僕が太市や未夢に愚痴を言ったことは、以前にもあった。二人とも、あまり深刻なトーンでなく「それエグくね?」「完全毒親じゃん」と辛辣な言い様で盛り上がってくれて、おかげで僕はちょっと気が晴れたりするところがあった。

 昨日は母親の物言いにあんまり腹が立って、つい考えなく、こんなことを言われたと打ち明けてしまった。あとになって太市に嫌な思いをさせたのではと気づいたけれど、昨晩の時点では太市は特に気にする様子もなく、いつものように軽い調子で僕の母親の悪口を言っていたのだ。

 太市に申しわけなくて、何も言えずにいると、それを察したのか未夢が取りなすように「海斗のお母さんの話は関係ないと思うよ」と付け足した。

「でも、なんでかよく分かんない。真璃まりさん絡みでもなさそうだし」

 自分のせいではなかったとほっとした僕に、未夢は少し心配そうな声で告げる。

《真璃さん》というのは、冬美真璃といって、太市のバスケチームの先輩だった女子だ。僕たちより三学年上だけど太市とは昔から親しくしていて、もしかすると付き合っているのではないかと言われているらしい。

 僕は太市とは気恥ずかしくてそういう話をしたことがないので、確かなことは分からない。でも未夢は真璃が太市の彼女だと考えているらしく、「よりによってあの人じゃなくてもいいのに」と気に入らないようだった。未夢によれば、冬美真璃については不良の兄がいるとか問題行動が多いとか、色々と良くない噂が流れているのだそうだ。

 冬美真璃と会う用事があるから遊べないということはたまにあったけれど、それでもないとしたら、なぜ太市は今日は来られないのだろう。「太市は未夢になんて話したの?」と聞くと、未夢は「太市のLINE見てないんだね」と言った。僕にはなんのことか分からなかった。

「見てない。うち、スマホはリビングに置いとく決まりなんだ」

 二階に上がる前、リビングの充電ケーブルにスマホを繋いだ時は、特に新しいメッセージは来ていなかった。母親と顔を合わせることを考えると、できればリビングには立ち入りたくない。どういうメッセージだったのかと尋ねると、未夢は困ったように「海斗にも読んでほしいんだけど」と訴える。

「なんかね、ちょっと太市、変な感じなの。とにかく今日はWoNできないって。理由は多分、動画を見れば分かると思う」

「動画って何? ゲームの動画?」

「ううん、そうじゃないみたい。太市も人からもらった動画なんだって。それを私と海斗に見てほしいって書いてた。私、怖くてまだ見れてない」

 要領を得ない話に首を傾げる。太市が時々ゲームの実況動画のリンクを送ってくることはあったが、動画そのものを送ってきたことは、ほとんどなかった。未夢が怖くて見られないというのもよく分からない。とりあえず、実際に見てみるしかなさそうだ。

 僕は未夢にすぐに戻ると言って部屋を出ると、リビングに向かった。母親は頭にタオルを巻いてパジャマを着た風呂上がりの格好でソファーに腰掛け、お気に入りの刑事ドラマを観ているところだった。いつも何かと走っている若い刑事が、今回も宅配便のトラックを追いかけて走っている。

「友達に宿題教えてほしいって頼まれてたから、スマホちょっと持っていく」

 約一日ぶりに母親に声をかけると、「友達って誰?」と振り返る。丸い顔は化粧水を塗ったばかりなのか、てかてかと光っていた。

「烏丸さん」と答えると、母親はつまらなそうな顔になった。

「いつまでも小学校の同級生とばかり付き合ってないで、新しい友達を作りなさいよ。もう一学期も終わるのに。水泳部の子とは遊ばないの?」

「練習中はあまり話さないし、僕だけ別メニューでトレーニングしてたりするから」

 母親に強く言われて水泳部に入部したものの、うちの中学には僕と同じ競技をやっている部員は一人もいなかった。

 幼稚園からスイミングスクールに通っていた僕は、小学校高学年になって、コーチの勧めでオープンウォータースイミングのジュニアクラスに登録した。通称OWSと呼ばれるオープンウォータースイミングは、海や湖などの自然の水の中を泳ぐ長距離水泳競技で、リレーのように仲間と協力して泳ぐことも、他の個人種目のように隣のレーンの選手と速さを競い合って泳ぐこともない。黙々と自分のペースで泳ぐことが好きな僕には合っていて、六年生の時は中学生に交じって湘南の海の三キロのコースを泳ぎ切った。秋に開催される中学生大会で上位の成績を残すことを目標に、今もトレーニングを続けている。

 僕のすることにあまり関心のない父に、この競技をやることに決めたと話した時は、珍しく嬉しそうな顔をしていた。四国の離島出身の父は、息子の僕に海斗と名づけるほど、海が好きだったからだ。

 一応、中体連の大会では男子一五〇〇メートル自由形にエントリーしているけれど、OWSの練習会で部活を休むことのある僕は、水泳部内の同級生の輪から浮いていた。でもそういうことを母親に話せば、自分からみんなに挨拶しなさいとか、もっと大きな声でしゃべりなさいとか、あれこれと指図を受けるのは目に見えている。僕は「今は大会も近いから」と曖昧に答えて、スマホを手にリビングを出た。

 二階への階段を上りながらLINEをチェックする。僕と未夢と太市の三人のグループLINEに、太市から二件のメッセージが届いていた。一つは動画のファイルで、もう一つは太市にしては長い文章が書かれている。

《この動画、WoNで知り合った人にもらったんだけど、海斗と未夢にも見てほしい。本物だったらやばいから、今日はWoNはやめとく》

 確かに未夢が言ったとおり、様子が変だった。本物だったらやばいというのはどういう意味だろう。いったい何が写っているのか、動画のファイルのサムネイルは真っ黒で、まるで判断がつかなかった。

 自分の部屋に戻ると、ボイスチャットのイヤホンを付ける。未夢のキャラクターである戦士はさっきと同じ場所に立っていた。

「スマホ取ってきた。動画、一緒に見よう」

 チャットをオンにして声をかけると、少し遅れて未夢が答える。

「ごめん。今、太市にLINEしてた。どうしたのって聞いても既読にならなくて」

 不安そうな声だった。僕もなんだか緊張して息苦しくなってくる。

「何が写ってるのか、これだと全然分からないな。せーので再生しよう。いい?」

 うん、と小さく返事があったので、スマホを横向きにすると「せーの」と声をかけ、動画ファイルをタップした。

 最初、画面は黒いままだった。けど少しして、スマホのディスプレイいっぱいに、薄暗い、ホテルの一室のような洋室が映し出された。高級そうな絨毯と凝った柄の壁紙。右手に暖炉のようなものが見えている。他の調度品はなく、人の姿もなかった。こんなところに泊まったことはないはずだけれど、この絨毯や壁の感じは、なぜだか見覚えがあるように思えた。

 動きのない画面を見守っていると、画面の左手で何かがちらちらと動いているのに気づいた。目を凝らすと、それは絨毯の床に落ちた影だった。はっきりとは見えないが、早送りしているのかと思うような激しい動きだ。

「左の方に誰かいるね」と未夢に話しかけるが、動画に見入っているのか返事はない。

 そこでふと気づいてスマホの音量を上げる。最大にしても、なんの音もしなかった。ということは、この動画には音声が入っていないのかもしれない。

 床の影は相変わらず激しく動いている。人間だとは思うのだが、何をしているのかまったく分からない。一度再生を止めてよく見ようとした時、「あっ」と未夢が声を上げた。

 こちらは特に状況に変化はない。きっと未夢の方が少し再生するのが早くて、先を見ているのだろう。息を詰めて画面を睨んでいると、影が動いていた画面の左側から、白いものが飛び込んできた。

 心構えをしていたので、僕は声を上げなかった。それは白いワンピースを着た女の人だった。その人は左手から現れると、そのまま床にうつ伏せに倒れた。ショートカットの後頭部が映っているが、顔は腕の陰になっていて見えない。女の人はどうにか床に肘を突き、起き上がろうとしているようだ。「やめて!」と未夢が鋭く叫んだ。その直後、黒い影が画面をよぎった。

 うつ伏せの女の人の後頭部に、黒くて細い、けれど重たそうな棒のようなものが打ちつけられた。画面左手に現れた棒を握る人物は、黒い手袋をしていて、体形が分かりにくい黒のレインコートらしきものを着ていた。上半身の一部しか映っていないので、男か女かも分からない。

 女の人は身を守ろうとするように横向きになって体を丸め、頭を抱えた。その彼女の両手ごと打ち砕くように、女の人の頭に、何度も棒が振り下ろされた。やがて女の人の手が床に落ちる。手の甲が裂け、赤っぽい肉の中から白いものが覗いていた。僕は声も出せず、画面から目を逸らせずにいた。未夢は何か言おうとして、言葉にならなかったのか、細い声でうめいた。

 やがてレインコートを着た人物は動きを止めると、足元に倒れた女の人をじっと観察するように見下ろした。女の人はぴくりとも動かなかった。絨毯の一部は黒っぽく染みになっていた。

 イヤホンから、ひゅっと未夢が息を呑んだような音がした。次の瞬間、レインコートの人物がこちらへ向かって歩いてきた。黒い手袋をはめた右手が真正面から伸びる。画面がぐらりと揺れ、そして映像は途切れた。

 スマホを手にしたまま、しばらく動けなかった。テレビのゲーム画面がスリープモードになって我に返る。

「――未夢、大丈夫?」

 こんな時に、何を言ったらいいのか分からなかったけれど、とにかく声をかけた。未夢は答えなかった。ショックで言葉が出ないのだろうか。少し待ってから、もう一度名前を呼ぶと、「海斗、気づいたよね?」と未夢が確かめるように言った。なんのこと、と尋ねると、未夢は苛立たしげに尖った声を上げた。

「今の部屋、ハピネスランドの《恐怖の館》だよ。あのお化け屋敷の」

 その言葉で、うちのアルバムに貼られた昔の写真を思い出した。恐怖の館の前で僕を抱いている父親の向こうに、特徴的な柄のエントランスの内装が写り込んでいたのだ。

 館の中がどんなふうだったかまでは覚えていないが、ハピネスランドにしょっちゅう行っていた未夢は絶対に間違いないと断言した。

「なんなの、この動画。太市、なんでこんなの送ってきたの?」

「きっと僕らのことを怖がらせようとして送ったんだよ。こんなの、フェイク動画に決まってるって」

 泣きそうな声の未夢に、強い調子で言って聞かせながらも、心臓が苦しいくらい脈打っていた。本当にフェイクだったら、あんなふうに身体が傷つくだろうか。あんなふうに血が流れるだろうか。

 押し潰されそうな思いで固まっていたその時、僕ら二人に同時にLINEメッセージが届いて、驚いた未夢が小さく叫んだ。

 太市からのメッセージだった。短い文面が三つ。

「動画見た?」「このことで話したい」「明日学校終わったらうち来て」

このページをシェアするfacebooktwitter

関連書籍

themeテーマから探す