検定調査審議会による審査が終わり、白表紙本にたくさんの付箋をつけて、雪吹は会社に戻ってきた。
隼人にとって検定は謎めいており、ベールの向こう側で行われているようなものだった。そこでなにが行われているのかはわからない。審議会の委員の意見を聞くことができる場に同行することも許されない。雪吹が持ち帰ってきた「検定意見書」だけがすべてだった。
検定意見書には指摘事項などが記載されている。それらの指摘をすべて修正して、再提出しなければならないのだ。
あれほど何度も念入りにチェックしたはずなのに、修正すべきところはいくつもあった。ざっと目を通しただけでも、いろんなページに「生徒にとって理解し難い表現である」や「誤りである」などといった指摘が入っている。
検定意見書を受け取って、確認していると、雪吹が声をかけてきた。
「指摘はありませんでしたよ」
隼人がどこをもっとも気にしていたのか、雪吹にもわかっているようだった。
特別な思いをこめて作ったページ……。
さまざまな家族のかたちの箇所には、なんの指摘もついていない。
つまり、問題なく通った、ということだ。
隼人は顔をあげ、喜びの表情を見せる。
「ありがとうございます!」
もう一度、そのページを見て、確かめてみたが、やはり、指摘はなかった。
一字一句、どこにも問題はなく、認められたのだ。
ほっとしたのと同時に、疑問も浮かぶ。
「でも、通らないかもしれないって言われたのに、どうして……」
同性のカップルを扱った内容は、かつては教科書の検定を通らなかったこともあるらしい。
それが、なぜ、今回はなんの指摘もなかったのか。
「時代の流れ、なのかもしれません」
少し考えて、雪吹は答えた。
「世界で広まりつつある多様化の流れにより、教科書で認められる基準も変化したのではないかと思われます。過去には認められなかったものが、現在においては認められるようになっている……。時代が変わるとは、そういうことなのでしょう」
「なるほど」
納得して、隼人はうなずく。
「以前とおなじようなものを作っていれば、変わっていることにも気づかなかったわけですから、一歩、踏み出してみたことの意味は大きいです。瀬口さんが新しい企画を提案してくれたおかげですね」
雪吹はそう言って、隼人のほうを見た。
褒めてくれているのだ。
最初のころは抑揚がなく冷ややかに思えた雪吹の口調だが、いまの隼人はその声に含まれた微妙なニュアンスに気づけるようになっていた。
認められた。
検定に通っただけでなく、雪吹が自分の仕事を評価してくれたことに、隼人は感激を隠せなかった。
「はい!」
うなずいた隼人に、雪吹はいつもの淡々とした口調で告げる。
「では、修正表を作っていきましょう。まだまだ、気は抜けませんよ」
隼人は再び、検定意見書に目を向けた。
完成まで、あと一息。
自分の仕事が着実に完成へと向かっている手応えを感じていた。
仕事を終え、隼人は充実した気持ちのまま、会社をあとにする。
帰宅途中の電車で、スマホを見ていたら、こんな一文が飛び込んできた。
〈会社、辞めちゃいました!〉
陽花がSNSで、そんな報告をしていたのだ。
以前、陽花と新宿御苑で交わした会話を思い出す。
大阪に行ってもいい、と陽花は言った。でも、自分のために仕事を辞めることになるのは申し訳なくて、そこまでの責任は負いきれない気がして、隼人はその提案を受け入れることができなかった。
SNSには投稿がつづき、陽花は新しい生活へと飛び立つことを決めたことをキラキラとした文章で語っていた。具体的には、ワーキング・ホリデーの制度を使って、オーストラリアに行くようだ。
浮かれていた気分が、途端に、落ちこんでいく。
またしても、隼人は失恋の痛みを感じた。
別れ話はとっくに終わっており、陽花とは恋人同士でもなんでもなく、自分がこんな気持ちになる筋合いはないというのに、それでも喪失感があった。
オーストラリア、か……。
陽花がそんなところに行くなんて、想像もしていなかった。英語が得意だという話も、海外で働いてみたいという希望も、聞いた覚えがない。つきあっていたころには陽花のことを理解できているつもりでいたが、本当のところはなにもわかっていなかったのかもしれない。自分が知らない面もたくさんあったのだろう。
スマホを持ったまま、隼人は軽く目を閉じる。
陽花は日本を出て行くのだ。
遠くに行ってしまう。
もう手の届かないところへ……。
今更ながら、ふたりのあいだに越えられない距離を感じた。
別れたくはなかった。
失うことが、こんなにつらいなんて……。
いったい、どうすればよかったのか。
なにが「正解」だったのだろう……。
別れた彼女のことを引きずって、うじうじと悩みつづけているのは情けないと思いつつ、それでも隼人は考えずにはいられなかった。
無事に検定は終わり、大大阪出版で作っている教科書はどれも合格となった。
年度が替わって、教科書の採択が始まると、編集部員たちもPR活動を手伝うため、営業部の社員たちといっしょに全国をまわるよう命じられた。
雪吹は北海道を担当することになり、一週間ほど出張をしていた。隼人の担当は近畿圏内だったので、泊まりがけの出張はなかったが、連日のように外まわりをして、各地の中学校へと挨拶にうかがっている。
隼人といっしょにまわるのは、営業部の荒木良一というベテラン社員だ。
「忘れもんはないか?」
社用車に乗りこみ、シートベルトを締めながら、荒木が声をかけてくる。
「はい。先生方にお渡しする資料はすべて持ちましたし、だいじょうぶだと思います」
鞄の中身を確認して、隼人は答えた。
「安全確認よし、っと」
荒木は左右を指さしてから、ハンドルを握る。
「さてさて、今日も張り切って行こか。いや、ほんま、春はええなあ。あたたかくなってくると、心が浮き浮きしてくる。いくつになっても、ピカピカの一年生気分やで。最近は桜の開花も早なって、びっくりするよな。これも温暖化ってやつなんやろな」
運転をしながら話しつづける荒木に、隼人はタイミングを見計らって相槌を打つ。
「そうですね」
荒木には親しみやすい雰囲気があり、積極的に話しかけてくれるので、最初は慣れない外まわりで緊張していた隼人も、すぐに打ち解けることができた。
「瀬口くんはたしか大阪城の近くに住んでるんやっけ? まさに今日行くあたりやな」
「あ、はい、窓からも見えるんです。休みの日とか、たまに走りに行っています」
「ええとこ、住んでるなあ。花見はしたんか?」
荒木の問いかけに、隼人は一瞬、胸が痛んだ。
花見のことを考えると、陽花のことを思い出してしまう。つきあっていたころには、春には必ず新宿御苑で花見デートをしたものだった。
大阪城公園も桜の名所らしく、花見のシーズンはにぎわっていた。カップルや家族連れが楽しそうに過ごしているなか、隼人はひとり黙々とジョギングをしていたのであった。
「ちゃんとした花見はしてないですね。桜が咲いたかと思うと、気づいたら終わっていました」
「今年は咲くのも早かったけど、散るのも早かったからなあ」
そんな話をしながら、荒木は車を走らせていく。
「今日はちょっと厳しいところまわるから、覚悟しときや」
荒木にそう言われて、隼人は聞き返した。
「厳しい、とは……?」
正面を向いたまま、荒木は話す。
「先生方はほんまに業務が多くて、忙しすぎるから、なかにはあからさまに訪問を嫌がられる場合もあったりするんや」
「そうなんですね。これまではいろんな話を聞かせてくださる親切な先生が多かったですが」
ここ数日、荒木といっしょに中学校をまわっていたが、いま使っている教科書の感想を聞いたり、授業での困りごとについて教えてもらったりして、とても勉強になると感じていた。
「それはな、最初に厳しいところに連れて行くのは可哀想やと思って、優しく話してくれはる先生のところを先にまわったんや。はじめにガツンと言われたら、落ちこむかもしれへんやろ。こっちもいろいろ気ぃ遣ってんやで。最近の若い子は、どうも打たれ弱いところがあるからな」
荒木は言葉を区切ると、ちらりと隼人のほうを見た。
「瀬口くんはどうや? 営業をやらされて、不満に思ってへんか?」
「いえ、不満とか、そういうことはまったく……。現場の先生方のご意見をうかがえるのは、教科書作りにとても役に立つと言いますか、ヒアリングしたことを編集としても活かしていきたいと思っております」
突然の質問に戸惑いつつも、隼人は答える。
かしこまった口調のせいで、取り繕ったようにも聞こえるが、本心からそう思っていた。
「うんうん、その調子で頼むで。実はな、前におったんや。編集をやりたくて入ったのに、営業をやらなあかんことで、こんな仕事はしたくないって言うて、辞めちゃった子が」
「それは……」
辞めちゃった、という言葉に、陽花のことが思い浮かんだ。
仕事を辞めたということは知っているが、その理由やきっかけなどはわからない。
合わないと思ったら、辞めてしまうのは、ひとつの選択肢として「あり」だろう。
隼人が思っているほどには、陽花は自分の仕事に対して思い入れがなかったのかもしれない。
それなら、あのとき、辞めても……。
大阪に行ってもいい、と言われたときに、陽花のすべてを引き受ける覚悟を持っていれば、未来は変わっていたのだろうか。
もし、ためらわず、べつの答えを出していたら……。
いまさら考えたところで、どうしようもないが、隼人はそう思わずにはいられない。
「まあ、瀬口くんは断られても、へこまず、ねばれそうな感じやよな」
荒木に言われて、隼人は顔をあげる。
「そんなふうに見えますか?」
「根性あるやつは面構えがちゃうからな。けど、人間ってわからへんもんやで。見るからに気ぃ弱そうで、すぐに辞めそうやと思っていた子が、意外とものになったりもするから」
そう言って、荒木はふと懐かしむような目をする。
「雪吹さんなんか、声もちっちゃいし、頼りなくて、だいじょうぶかいなと思ってたけど、いまじゃ、すっかり、うちの屋台骨やもんなあ」
「えっ、雪吹さんって……」
思いがけない話を聞いて、隼人が驚いていると、荒木は意味深な笑みを見せて、カーブを曲がった。
「だれしも、若いころはあったということや」
行く手に中学校の校舎が見えてくる。
気が弱そうで頼りないというのは、いまの雪吹のイメージとはまったく結びつかないが、荒木の口ぶりからすると、新人のころはそんな印象だったのだろう。
中学校に着くと、荒木は車を停め、隼人も降りていく。
「ほな、行こか」
まずは職員室に向かったが、担当の先生は不在だった。おそらくは部活中であろうと聞いて、荒木はグラウンドへと向かう。
グラウンドではジャージを着た生徒たちが走ったり、サッカーの練習をしたりと、それぞれの活動に打ちこんでいた。そこにひとりの女性教諭を見つけて、荒木は近づいていった。
「どうも、どうも、大岩先生、お忙しいところ、申し訳ありません。今度、うちに新しい編集部員が入ったんで、挨拶だけでもと思いまして」
隼人はあわてて、名刺を取り出す。
「大大阪出版の瀬口です。よろしくお願いいたします」
名刺を渡したあと、鞄を開けて、新しい教科書についての資料一式も取り出した。
「こちらが新しい教科書の資料になっておりまして。それから、いくつか、教材のサンプルもお持ちしましたので……」
資料などを渡そうとしたところ、大岩と呼ばれた先生はさえぎるように手を振った。
「そういうものは一切、受け取りませんので」
ぴしゃりと言われ、資料を持った手は行き場を失う。
「まあまあ、教材のほうはともかく、資料だけでも、どうか受け取ってやってくださいよ」
荒木が助け舟を出すように声をかけてきた。
「実は、この瀬口はすぐそこに住んでまして。自分が住んでいるところの学区というのも、ひとつの縁ですし。まあ、出身は東京なんで、地元というわけやないんですけど。なあ、瀬口くん」
「あ、はい。大阪城が窓から見えるのが気に入って、いまのマンションに決めました。通勤途中に、中学生たちが登校しているのを見かけることもあります」
そんなふうに話すと、相手も親近感を覚えたのか、わずかに態度が軟化した。
「そうなんですか。お近くに……」
ほんの少しだけ興味を持ってもらえたようだ。
そこですかさず、隼人は教材サンプルを抜き出して、資料だけを再び渡そうとする。
「あの、こちら、資料になります」
今度は受け取ってもらえたので、そのすきを逃さず、隼人は新しい教科書のアピールポイントについて一気に説明した。大岩は相槌を打つことはないが、いちおうは耳を傾けてくれているようではある。
荒木の話していた「厳しい」ということの意味が、隼人はなんとなくわかった気がした。
会話のキャッチボールができず、友好的ではない態度の相手に、一方的に話しかけるというのは、精神的につらいものだ。
隼人が説明を終えると、荒木が話を引き継いだ。
「大岩先生はいまも教務主任をされてはるんですよね? お役に立てそうなことがあったら、また、どしどし言うてください」
荒木の言葉に、大岩は目を合わせず、事務的な声で答える。
「ええ、管理職とも相談しておきます」
そして、グラウンドで部活をしている生徒に向かって、声を張りあげた。
「はいっ、そこ! もう一回!」
大岩が生徒たちのほうに近づいて行ったので、荒木もぺこりと頭をさげると歩き出した。
校舎に入ると、荒木は小声で隼人に話しかけてきた。
「なんで、大岩先生が教材のサンプルを受け取らへんかったのか、わかるか?」
しばらく考えて、隼人は首を左右に振る。
「いえ」
「サンプルとはいえ、教材ってのは本来なら代金を支払って購入すべきものやろ。それをいわばサービスとして、こっちは渡してるんやけど、潔癖な先生の場合にはそれすらも賄賂や汚職につながりかねないと考えるわけや」
「なるほど」
荒木の言おうとしていることがようやく理解できて、隼人はうなずいた。
教材のサンプルを渡すくらいは、どこの出版社も行っており、違法な行為ではない。しかし、金品のやりとりによって便宜を図るということは贈収賄罪に問われることもあるため、疑われるような行為はさけようというのだろう。
「当然、お歳暮やお中元なんかも受け取ってくれはれへんし。先生なんて大変な仕事やねんから多少の役得はあってもええんちゃうかと思うけど、昨今は公務員に対するバッシングもきついからなあ」
「立派な先生ですね」
「ほんま、しっかりしてはる。さすが、あの年で教務主任なだけあるわ。伸びる先生やで」
荒木の言う「伸びる」とは、えらくなるという意味合いのようだ。
現場で教員をしたあとに教育委員会に入るというのは、先生のなかでもいわゆる出世コースのようなものらしい。そういうひとは教科書の採択に関わる可能性も高いので、荒木は力を入れて営業をしているのだろう。
「ここの家庭科の先生はそんなにあれやけど、まあ、現場の意見を聞くのは大切やし、せっかくやから顔を出しておこか」
そう言いながら、荒木は迷いのない足取りで校舎のなかを進んでいく。しばらく廊下を歩いていると、家庭科準備室と書かれたプレートが見えてきた。
ドアをノックしたあと、荒木は挨拶をして、なかへと入っていく。
「どうも、どうも、お久しぶりです、橋本先生。その後、お変わりはないですか」
橋本と呼ばれたのは、先ほどの大岩に比べると気弱そうな女性教諭であった。
「この瀬口は今年度から入った編集部員なのですが、家庭分野を担当しておりまして」
荒木の紹介に、橋本はちらりと隼人のほうに目を向ける。
そのまなざしから、男性とはめずらしい……というニュアンスを感じ取った。
これまでにも度々、相手の反応からそう感じたことがあったので、隼人はいちいち気にせず、名刺を取り出す。
「大大阪出版の瀬口です。よろしくお願いいたします」
そう挨拶をしたものの、うまく話をつづけることができずにいると、荒木が横で口を開いた。
「瀬口は家政科でちゃんと学んだわけやなくて、家庭分野のことはまったくのド素人なんです。だからこそ、ぜひぜひ、現場の先生のお話を聞かせてやっていただきたくて。いま、お時間、よろしいですか?」
「ええ、それは構いませんが……」
「どうです、最近の子たちは。生活が便利になった分、どうも経験不足の子が増えてそうやなあと思いますけど、やっぱり、実技面が弱くなってますかね?」
荒木がそんなふうに話題を振ると、橋本はうなずき、生徒の様子などを語った。
「経験が足りていないというのはまさにそうで、こちらも実習の時間を多く取りたいところではあるのですが、なかなか難しくて……」
隼人は熱心にうなずきながら、重要だと思われることをメモに取る。
一度、口を開くと、橋本の話は止まらなかった。
「……教えることの多さに対して、授業時間が足りていないというのが、一番の問題ですね。副教科は受験科目ではないので、どうしても軽視されがちですし。だからといって、宿題を出しても、まじめにやってくる生徒は限られていますから。生徒に聞いた話だと、塾の先生に『副教科は捨てろ』なんて言われたりもするそうで」
橋本はそう言って、肩をすくめる。
「そんなことを言われるんですか」
荒木は驚いたように目を見開いた。
「これからの時代、求められているのは『生きる力』で、年々、副教科の重要性が高まっているというのに、いまだに、そんなことを言わはる先生がおるんですねえ」
それを聞いて、橋本は大きくうなずく。
「そうなんですよ。手前味噌ではありますが、私、家庭科というのは生涯にわたって役に立つと思っているので、受験なんかより、よっぽど大切にしてほしいんですけど」
勢いよく言うと、橋本は我に返ったように、はっとして、照れ笑いを浮かべた。
「すみません。語りすぎてしまって……。今日はいろいろとお話を聞いていただいて、ありがとうございました」
橋本はそう言って、ぺこりと頭をさげる。
「いえいえ、とんでもない。こちらこそ、貴重なご意見、ありがとうございました」
荒木が言うのに合わせて、隼人も礼を述べ、ふたりは家庭科準備室をあとにした。
「やっぱり、実際に学校を訪れて、現場の先生方に話を聞かせていただくと、勉強になりますね」
隼人の言葉に、荒木はうなずく。
「そやろ。人間、やっぱり、顔を合わせて、直接、言葉を交わすことって、大事やからな」
そんな会話をしながら、校舎を出たところで、隼人はふと思いついた。
もしかして、ここは流果が通うはずの中学校なのではないだろうか。
くわしい学区のことは知らないが、隼人と流果の住んでいる場所は近く、その可能性は高そうだ。
しかし、流果はいま現在、不登校という状態なのである。たとえ、この学区なのだとしても、そもそも、中学校に通うことはないのかもしれない。
そういえば、最近、流果くんはうちに来ないな……。
一時期は毎週のように遊びに来ては、漫画を読んだり、ネコ太郎を可愛がったりしていたのに、気づけばしばらく会っていなかった。
営業部の荒木に連れられて、学校をまわることで、隼人は多くの経験を積み、仕事の面では忙しくも満ち足りた日々を送っていた。
教科書の採択は、選挙に似ている。いくつかの地区ごとに結果が出て、いくつかの候補のなかから選ばれるかどうかで、明暗が分かれるのだ。
採択の結果が知らされる時期には、編集部のある部屋の壁には大きな日本地図が貼られていた。日本地図は採択地区ごとに区切られており、そのなかにはいくつもの赤い造花が貼りつけられている。この赤い造花がついているところは、大大阪出版の教科書を使うことが決定した地区である。
「結果、出たで!」
新たにどこかの自治体から発表があったようで、淡路がいそいそと編集部にやって来て、声を張りあげた。
「まずは公立の広域採用地区、中学国語……」
淡路は採択が決定した教科書発行者の一覧を読みあげていく。
全員が固唾をのんで、耳を澄ませ、他社の名前であれば落胆して、自社の場合は感嘆の声をあげた。
「……家庭分野、大大阪出版!」
淡路がそう言うのを聞いて、隼人は思わずガッツポーズをした。
よっしゃ!
日本地図に、またひとつ、赤い造花が貼られる。
ここの子たちは、自分が手がけた教科書を使って、学ぶんだ……。
そう思うと、隼人の胸にはこれまでにないほどの充実感が広がった。
ある日。
隼人が仕事を終えて、マンションに戻り、郵便受けを確認すると、一通の手紙が届いていた。
ダイレクトメールの安っぽい封筒とはちがって、手でビリビリと破って開けることがためらわれるような豪華な紙質の封筒だったので、部屋に入ってからカッターナイフを使って丁寧に開封した。
中身は、結婚式の招待状だった。
新郎と新婦はどちらもサークルの先輩で、大学時代に隼人がお世話になった人物であった。当時からつきあっており、あのふたりが結婚するのか……と思うと、感慨深い気持ちになる。
会場は東京だが、もちろん、参加させてもらうつもりで、返信はがきに記入しようとしたところ、はたと気づいた。
陽花も出席するのでは……。
この先輩たちとは陽花も仲が良かったのだ。
陽花と顔を合わせることになるかもしれないと考えると、隼人は複雑な心境になる。
どんな顔をして会えばいいのか……。
そこに、インターフォンが鳴った。
モニターで訪問者を確認したあと、隼人は玄関ドアを開ける。
「流果くん、久しぶりだな」
「今日も、漫画、読んでいい?」
「おう、いいぞ」
流果が入ってくると、ネコ太郎が近づいて、出迎えるように体をすりすりとこすりつけた。
「ネコ太郎も、久しぶりやなあ」
流果はしゃがみこんで、ネコ太郎の頭をなでる。それから、部屋に入って、さっそく、本棚に近づいた。せっかく会えたので、隼人はいろいろと話したい気もしたが、流果が本に手を伸ばしたので、読書の邪魔はしないでおく。
さっきまでいた場所に戻った、隼人の目に入ってきたのは、結婚式の招待状である。
それを見つめながら、隼人は思案に暮れ、大きく息を吐いた。
「どうしたん? 悩みごと?」
流果が顔をあげて、隼人に問いかけてくる。
「あ、ごめん。ちょっと、まあ、悩んでいるというか……」
読書の邪魔をしないつもりが、気を遣わせてしまったようだ。
流果は心配げな目をして、隼人のほうを見ている。
少し迷ったが、隼人は事情を説明することにした。
「大学時代の先輩が結婚することになって……。出席したい気持ちはあるんだけど、もしかしたら、そこに会いたくないひとも来るかもしれないから、どうしたものかと思って」
「会いたくないひと、って?」
流果から直球で質問が飛んでくる。
「いわゆる元カノってやつ」
俺は小学生相手になにを話しているんだ……と思いつつ、隼人は正直に答えた。
「別れたっていうか、振られたっていうか。ケンカしたわけじゃないんだけど、こっちは大阪で、向こうは東京だったから、うまくいかなくて……。気にせず、普通に接すればいいとは思うんだけど、顔を合わすのはつらいんだよな」
「そうなんやー。大人になっても、いろいろ大変やねんなあ」
流果は本を膝に抱えたまま、納得したように言う。
思えば最近はSNSを見てひとりで落ちこむことはあっても、プライベートについて話す機会はなく、陽花とのこともだれにも打ち明けていなかった。
流果と話しているうちに、隼人は心が軽くなっていくのを感じた。
「ほんと、人間関係って、どこに行っても、いくつになっても、うまくやるのは難しいもんだよ」
そう言って、隼人は肩をすくめる。
ふと、思い浮かんだのは雪吹のことだった。
入社当初は、雪吹に対して苦手意識を持って、胃が痛くなるほどであった。それが、いつの間にか、思い悩むこともなくなっていたのだ。
「でも、まあ、結構、なんとかなったりするものだけどな。状況は変わっていくものだから。行かないとずっと悩みつづけることになるけど、思いきって行ってみると、案外、平気だったりするんじゃないかって気もするし」
自分の考えをまとめたあと、隼人はもう一度、招待状のほうに目を向ける。そして、顔をあげた。
「よし、決めた。俺は行く」
やっぱ、先輩たちの門出を祝いたいもんな、うん。
心のなかでそう思って、大きくうなずく。
もし、陽花と顔を合わせることになっても、余計なことは気にしない。
決意すると、隼人はさっそくペンを執り、返信はがきの「出席」に丸をつけた。
それを見ていた流果が口を開く。
「隼人くんは前向きやな」
ぽつりとつぶやいたあと、流果は言葉をつづけた。
「行かないとずっと悩みつづけることになる……っていうの、なんか、わかる気がする」
流果はうつむき、足もとにいたネコ太郎をなでた。
「いまはいちおう、フリースクールに行ってるけど、そこは小学校までしかなくて、もうすぐ卒業やから……。フリースクールの先生が言うには、仕切り直しっていうか、中学校にはいろんな小学校の子が集まってくるから、人間関係を新しくするチャンスで……」
その口ぶりから、流果のなかには中学校に行きたい気持ちがあるのではないかと、隼人には感じられた。
「たしかに、中学校にあがるタイミングっていうのは、いいきっかけかもな。流果くんの気持ちとしてはどうなんだ?」
隼人の問いかけに、流果はうつむいたまま、答える。
「それが、自分でも、わからへんから迷ってる。自分みたいなやつが、ふつうの学校でやっていけると思わへんから……。すみれちゃんと咲ちゃんは、学校なんか行かんでええ、って言うし。ふたりとも、散々、学校では嫌な目に遭ってるから」
流果は心細そうな声で言って、また、ネコ太郎の背中をなでた。
「そっか。たしかに、世間でふつうじゃないって思われると、居場所がないように感じるのはよくわかる」
そう言ってうなずくと、隼人は言葉をつづけた。
「でも、学校も変わってきているから。教科書が四年に一回、新しくなるって話を前にしただろ? まさに、新しい教科書ができたところで……。流果くんが行きたくないって思うのは、たぶん、ふつうを押しつけてきて、窮屈で、枠組みにはめようとするような、そういう学校なんだと思う。でも、それを変えたくて。変化は微々たるものかもしれないけど、でも、少しずつ、変えていくことはできると思う」
流果と出会って、さまざまな家族のかたちを知って……。
その思いをこめて、新しい教科書を作った。
だからといって、すぐにひとびとの意識が変わるとは思わない。
それでも……。
隼人の言葉に、流果は顔をあげる。
「そうやな。久々に、学校に行ってみるのもいいかもしれへんな」
流果はそう言ったあと、また読書をはじめた。
学校という場所は、絶対に行かなければならないわけではないだろう。
行っても、行かなくても、どちらでもいい。
その上で、流果は行くことを選んだ。
隼人はそれがうれしくて、心のなかでエールを送った。
スケジュールを入れたときには、まだ先だと思っていたのに、気づけば先輩たちの結婚式の日が迫っていた。
隼人はあわてて荷造りをして、東京へと向かう。
久々に実家に帰ったところ、さっそく、会いたくない相手と顔を合わせることになった。
弟の鷹人がリビングのソファーに座り、テレビで野球中継を見ている。部屋にいるのは鷹人だけであり、母親のすがたは見当たらない。無視して通り過ぎるわけにもいかず、隼人は声をかけた。
「母さんは?」
隼人の問いに、鷹人はテレビに目を向けたまま、顔を動かさずに答えた。
「買い物」
隼人は荷物を下ろして、床にしゃがみ、キャリーバッグからネコ太郎を出す。
すると、野球中継の音が途切れた。鷹人がテレビを消して、ソファーから立ちあがる。
「俺、春から家を出るから」
唐突な鷹人の言葉に、隼人は顔をあげた。
「え?」
鷹人はその場で仁王立ちになり、隼人を見下ろすように言う。
成長期は過ぎたはずなのに、また背が伸びたようだ。小学生のころから鷹人は体格がよかった。弟のくせに自分より大きいので、ふたりで写真を撮られるたびに、隼人は複雑な気持ちを抱えていた。
「家を出るって、どういうことだ?」
隼人は立ちあがり、鷹人に聞き返す。
「警察官の採用試験に合格したから、警察学校に入学することになった」
思いがけない言葉に、隼人は目を見開いた。
「待てよ。店はどうするんだ?」
「べつに、父さん、元気なんだし。これまでどおり、店は父さんがやるだろ」
「いや、でも、おまえが警察官とか……」
驚きを隠せず、隼人は首を左右に振る。
「警察官なんて、そんな立派な仕事、できるのか?」
すると、鷹人は薄く笑って答えた。
「そっちこそ。教科書なんて、立派なひとが作るものだとばかり思ってたけど。でも、兄貴みたいなやつでも、ちゃんと、できてるんだろ? だったら、俺みたいなやつが警察官になってもいいんじゃないかと思った」
「なんだよ、それ」
怪訝な顔をする隼人に、鷹人は言う。
「兄貴のおかげで、自信が持てたんだよ」
鷹人は手を伸ばすと、隼人の肩をぽんぽんと叩いた。そして、横を通り過ぎていく。
相変わらず、鷹人のほうが背は高い。
だが、隼人はなぜか、いつものように圧倒されるような気持ちにはならなかった。それどころか、鷹人のうしろすがたを見て、幼い日のことを思い出す。
にいちゃん、にいちゃん……と言って、自分を追いかけてきた幼稚園のころのあどけない笑顔が浮かんだ。それから、剣道の試合で、対峙して、負けた日のことも……。
鷹人は真剣なまなざしで、兄である自分に挑んできたのだ。
どんなときも怯えず、立ち向かっていた。
「鷹人!」
リビングから出ようとしていた弟を呼び止めて、隼人は声をかける。
「おまえ、向いてると思うぞ、警察官に」
鷹人は振り返ると、うなずいた。
「まあ、兄貴が家庭科の教科書を作るっていうのよりは、向いてると思うな。自分でも」
そう軽口を叩いて、鷹人は階段をのぼっていく。
隼人はもう劣等感を抱いてはいなかった。
ただ誇らしいような気持ちが胸にあった。
翌日。
隼人はスーツを着て、ご祝儀袋を忘れずに持ち、結婚式の会場へと向かった。
物心ついてからというもの、隼人は結婚式に出席するのはこれがはじめてだった。もしかしたら幼いころに親戚の結婚式に連れられたことがあるのかもしれないが、記憶には残っていない。
結婚式では先輩たちの幸せそうなすがたを見ることができて、胸を打たれた。両家の親たちは喜びの涙を目に浮かべ、親戚や友人らに囲まれて、新郎と新婦は満面の笑みで手を振っている。
「おめでとう!」
「おめでとう!」
「おめでとうございます!」
祝福の声や拍手に包まれ、あまりに幸せに満ちた空間だったので、隼人はカルチャーショックのようなものを感じた。
そもそも、結婚というものに現実感がなかった。
それが、いま、幸せな情景を目の当たりにして、自分と地続きに存在しているものだと認識を得て、そのリアリティに驚いたのだった。
「おめでとうございます!」
陽花の声がした。
耳に馴染んだ明るい声に、隼人は胸が締めつけられる。
陽花のすがたは、つねに視界に入っていた。
清楚な淡いピンク色のドレスを着て、ショールを羽織っている。髪をアップでまとめているせいか、ずいぶんと大人っぽい雰囲気だ。
会場で陽花に気づいた瞬間、隼人は思わず見惚れてしまった。それからずっと、陽花のほうを気にしている。新郎新婦が登場してきたときも、来賓のスピーチのときも、つい、視界の端で追っていた。
おなじ場にいながら、一度も言葉は交わしていない。陽花も、隼人のことには気づいているようだったが、声をかけてくることはなかった。
チャペルでの挙式、披露宴、二次会とつづき、隼人が大学時代の懐かしい面々と旧交を温めていると、陽花が会場から出て行くのに気づいた。
もう帰るのか?
そのうしろすがたを見て、隼人は焦燥感に駆られる。
考えるより先に、体が動いていた。
「ごめん、また連絡する」
隼人は旧友たちにそう言い残して、陽花のあとを追いかける。
これを逃したら、二度と会えないかも……。
廊下に出ると、陽花のすがたは見当たらなかった。
どっちに行ったんだ?
焦りを隠せず、隼人はきょろきょろとあたりを見まわす。
追いかけて、どうするのか。
見つけたとして、なにを言うのか。
いまさら、どうしようもない。それなのに、廊下の先に陽花を見つけた途端、隼人はほっとして、駆け寄らずにはいられなかった。
「隼人くん……?」
少し驚いたような顔をして、陽花が立ち止まる。
陽花が出てきたのが化粧室だということを理解して、どうやら帰るつもりではなく、お手洗いに行っていただけだと気づき、隼人はますます動揺した。
「いや、えっと、その……元気か?」
当たり障りのない言葉をかけると、陽花は微笑んだ。
「元気だよ。隼人くんも、変わりなさそうだね」
その言葉に、隼人は答えた。
「ああ。なんも変わってない」
いまも変わらず、好きだ。
陽花を見つめながら、そう痛感する。
「オーストラリアに行ってたのか?」
話題を振ると、弾むような声が返ってきた。
「うん。楽しかったよ。グレートバリアリーフ、すっごく綺麗だった」
「サンゴ礁だっけ?」
「そうそう。ほんと、地上の楽園って感じだった。住んでたのはメルボルンだから、かなり都会だったのね。でも、やっぱり、自然の美しさを満喫したいと思って、ケアンズとか旅行したんだよ。ケアンズをまわってたときが一番、楽しかったな」
そう言ったあと、陽花の顔からは笑みが消え、わずかに表情を曇らせた。
「人生を変えたくて、海外に行ってみたんだけど、結局、あんまり変わらずに日本に帰ってきちゃった感じで……。一年くらいじゃ、ひとって変わらないものだね」
肩をすくめて、陽花は言う。
「ワーホリから帰って、いまは実家なのか?」
「うん。こっちで仕事探しをしているところ。仕事を見つけたら、ひとり暮らしをしようとは思ってるんだけど。会社を辞めたことで父と大喧嘩しちゃったから、いつまでも実家にはいたくないし」
「やっぱ、そのあたりはもめたんだな」
陽花は父親の紹介で会社に入っており、しがらみに悩んでいたのだ。
「父の前ではずっといい子だったから、突然、娘が勝手なことを言い出して、ショックだったみたい」
いたずらっぽく笑って、陽花は話す。
「自分ではもっと早くに反抗期をやっておくべきだったと思うよ。親に心配かけないように、親の望むとおりの道を進んでいこうと思っていたけど、耐え切れなくなっちゃった」
「反抗期、か」
陽花につられて、隼人も笑いながら繰り返した。
親の望むように生きられない。生きたくはない。
隼人にとって、その思いは剣道を辞めたときに感じたものだった。
「遅すぎる反抗期に、自分探しの旅って、ダサすぎるでしょう」
陽花は自嘲するように言う。
「いちおう、向こうで語学学校に通ったり、ファームで働いたりはしてたんだけど、英語は武器になるほどじゃなくて。やりたいことを見つけたくて、いろいろ挑戦してみたのに、やりたいことも見つからないままだよ」
ふと声を沈ませた陽花だったが、顔をあげて、明るい表情を見せた。
「でも、ワーホリで多様な価値観に触れたことで、いい経験になったよ。細かいことでうじうじ悩んでいるのがバカらしくなるっていうか。それに、結構、自信もついた。私、どこでも働けるな、と思って」
「それはすごいな」
隼人は感心して、そう相槌を打つ。
以前の陽花に対しては「守ってあげたい」という思いを強く持っていた。
しかし、いまの陽花はとてもしっかりしており、自分の出る幕はないのかもしれない。
「隼人くんは? 仕事、頑張ってる?」
「まあ、それなりに」
うなずいた隼人を見て、陽花は少しさみしそうに笑った。
「そっか。じゃあ、やっぱり、当分、東京には戻らないんだよね」
陽花の声音に、どこか残念そうな響きがあるような気がして、隼人の心は乱れた。
別れていて、恋人同士でもなんでもないのに、なぜ、そんな言い方をするのか……。
陽花に別れ話を切り出されたときのことがよみがえり、胸がますます苦しくなる。
「あのときは、ごめん」
隼人はそう言うと、頭をさげた。
「せっかく、大阪に行ってもいいって言ってくれたのに、俺、それを受け入れることができなくて」
すると、陽花は両手を横に振って、明るい声で言った。
「いいよ、全然。そのおかげで、吹っ切れたっていうか、仕事を辞めて、ワーホリにも行けたし」
「あのあと、すごく後悔して……」
隼人が思わず口にすると、陽花は聞き返した。
「後悔って?」
「陽花の人生を背負うことを考えると、その覚悟がなかったっていうか。好きなひとと生きていく、っていう、当然のことを実現できなかった」
沈黙が流れて、陽花が口を開いた。
「私、べつに、隼人くんに自分の人生を背負ってもらおうなんて思ってなかったよ」
なにも言えずにいると、陽花はつづけた。
「隼人くんって、そういうところあるよね。いい意味で男らしいっていうか、考え方が古いっていうか。いまどき、男のひとに養ってもらおうとは思わないし」
陽花の言うとおり、以前の自分は固定観念に縛られていたところがあった。
だが、家庭科の教科書を作ることになり、隼人の意識は変わっていった。
「ふたりで働いて、ふたりで暮らしていったらいいんじゃないかな」
陽花の言葉に、隼人は大きくうなずいて、同意した。
「そうだな。ほんと、そう思う」
いまの隼人には、陽花の言いたいことがわかる気がした。
従来のイメージや役割にとらわれず、自分たちにとってベストなかたちを見つけていくことも、できたのではないだろうか……。
怯むのではなく、挑むべきだった。
新しく、変えていく。
結婚というものに対しても、そんな気持ちを持っていれば、あんな結末にはならなかったはずだ。
会話が途切れて、ふたりは見つめ合う。
先に口を開いたのは、陽花だった。
「隼人くんは、いま、つきあっているひと、いる?」
陽花の問いかけに、隼人はあわてて首を横に振った。
「ううん。俺は……」
未練たらしいことを言いかけて、隼人は口をつぐむ。
「そっちは?」
聞き返すと、陽花は意味深な笑みを浮かべた。
「すごくモテたんだよ、私。ワーホリのあいだ、いろんな国のひとに声をかけられて」
陽花はなにか言いたげな目をして、隼人を見つめる。
「でも、だれかさんみたいに、まじめで、一途に思ってくれるひとはいなかったな」
もしかして、陽花もまだ、自分のことを……。
会話の流れから、隼人はそう思わずにはいられなかった。
「好きなひとと生きていく、っていいよね」
親密さを感じさせる口調で、陽花は話しかけてくる。
「先輩たちの結婚式を見て、私もあんなふうに幸せになりたいなあって思ったよ」
どう考えても、別れた恋人ではなく、つきあっていたころの雰囲気だ。
「遠距離恋愛だったころは、大阪ってすごく遠い気がしていた。でも、オーストラリアと日本の距離に比べたら、東京と大阪の距離なんて微々たるものだよね」
陽花は親指と人差し指を動かして、離したり、近づけたりして、距離の差をあらわす。
「そりゃ、オーストラリアと比べたらな。まあ、近いと言えば近いか」
東京から大阪に引っ越すとなると、実家からは離れることになるし、友達とも気軽に会えなくなるし、陽花にとってはつらいだろうと思っていた。
しかし、大阪どころか、もっと遠い異国の地で、陽花はひとりで生活をしていたのだ。
「大阪って、家賃、安いよね」
すぐには真意が理解できないでいると、陽花は言葉をつづけた。
「東京でひとり暮らしする金額で、大阪だとふたり暮らしできるんじゃない?」
隼人は頭のなかでぐるぐると考えを巡らせながら、黙ったままで立ち尽くしている。
もしかして、まだ、間に合うのか……?
手遅れではなく、これからでも人生を変えることが……。
その可能性を考えて、隼人は胸が高鳴った。
「いまって結婚してもしなくても、どちらでもいいと思うんだよ。でもさ、だからこそ、憧れちゃうんだよね。好きなひとから、プロポーズされるっていうシチュエーションに」
陽花はうながすように微笑みかけてくる。
「私、どこでも働けると思うから、大阪で職探しをしよっかな」
そこまで言われて、隼人もようやく確信が持てた。
いまでも、陽花のことが好きだ。
ずっと、いっしょに生きていきたい。
「結婚してください」
頭に浮かんだ言葉のうち、緊張していたせいか、最後のひとつしか声にならなかった。
ただシンプルに、自分の思いを伝えた。
決めるのは、相手だ。
陽花は目を見開いたあと、ゆっくりと微笑む。
そして、短く返事をした。
☆☆☆
橋本千衣香は悩んでいた。
自分は教師に向いていないのではないか、と……。
生徒たちは可愛い。未来を作る子どもたちを育んでいく仕事に憧れ、それが叶ったことはうれしく、やりがいも感じている。
ただ、保護者の理不尽なクレームと業務の多さに疲れ果てていた。
いま、教育の現場で求められているのは、効率よく物事をこなして、どんな相手にも笑顔で接して、そつなくトラブルを解決できるような要領のよさなのだろう。そして、自分のような人間には致命的にその素質が欠けていることを痛感していた。
授業は丁寧に行い、生徒には親身になって対応しているが、それだけでは認められなくて……。
勤務校に向かう途中、幸せそうなカップルを見かけた。駅の改札を通ったあと、ふたりは手を振って、それぞれ、べつのホームに降りていく。
新婚さんかな……。
そのカップルの男性のほうに見覚えがあるような気がして、記憶を掘り返していく。
生徒の保護者じゃないし、仕事関係にも思えるけど……。
しばらく悩んで、やっと、思い出した。
以前、教科書の営業に来ていたひとだ。
家庭科の教科書を作っているらしく、授業について熱く語ってしまったことがあった。
幸い、相手はこちらに気づいていないようだった。内心でほっとして、足早に通り過ぎていく。べつに、気づかれたからといって問題があるわけではないが、プライベートを目撃するというのはどうにも気まずい。それに、独り身の自分がうらやましく見ていたとか、誤解されても困る。たしかに、朝、おなじ場所で目覚めて、いっしょに朝食をとり、玄関を出て、仲睦まじく並んで歩き、それぞれの通勤先に向かうような新婚生活に憧れないわけではないが、いまは多様性の時代で、恋愛のほかにも楽しいことはたくさんある。結婚するかしないかは、人生のオプションのひとつにしか過ぎない。負け惜しみでなく、本心でそう思っている。それなのに、いまだに職場にいる年配の先生たちは、独身はさみしいものだと決めつけたり、家庭科を教えているのに家庭を持っていないのはいかがなものかなどと本人は冗談のつもりのくだらないことを言ってきたりするので、本当に腹が立つのだ。
思わず拳を握りしめ、眉間に皺が寄ってしまっていたので、あわてて力をゆるめて、平静を装う。
教師という仕事は評判が大事であり、勤務校の近くではいつも以上に気をつけなければならない。いつ、どこで、だれに見られているか、わからないのだ。
校舎に入ると、真新しい制服を着た一年生が「おはようございます」と声をかけてきた。まだ、あどけなさが残っており、中学校にも慣れていない様子で、なんとも初々しい。
職員会議のあと、教室へと向かう。
辞めたい辞めたいと思いつつ、今年も担任を持つことになったので、当分は辞められそうになかった。
新年度なので、教科書を配布する。
すると、あるひとりの男子生徒が受け取った教科書を開いて、熱心に眺めていた。
たいていの生徒は教科書に興味を持たない。名前を書くように指示すると、ネームペンを持ち、裏表紙に書きこんでいくだけである。
だが、時折、教科書のページをめくって、読みはじめる生徒もいる。そのとき、選ばれるのは、国語の教科書だ。活字の好きな生徒にとっては、読み物として楽しいのだろう。
その生徒が読んでいるのは、国語ではなかった。
家庭科の教科書とはめずらしい……。
そう思って、うれしい気持ちになる。
見つめている先には「さまざまな家族」と書かれていた。今年度から使用する教科書には、父親と母親と子どもがふたりのいわゆる「標準家庭」だけでなく、父親がふたり、母親がふたりといった同性カップルの家族も描かれており、なかなか攻めた内容になっているのだ。
教科書を見つめている生徒のすがたに、失いかけていた感情がよみがえってくる。
学ぼうという意欲。
それに呼応する情熱。
興味を持ってくれる生徒がいるのだ。
もう少し、教師をつづけよう。
春風に乗って、桜の花びらが一枚、舞いこんでくる。顔をあげると、窓の向こうに、満開の桜が見えた。
終わり
藤野恵美(ふじの・めぐみ)
1978年大阪府生まれ。2003年、『ねこまた妖怪伝』で第2回ジュニア冒険小説大賞を受賞し、翌年デビュー。著書に、13年、啓文堂大賞(文庫部門)を受賞した『ハルさん』のほか、『初恋料理教室』『わたしの恋人』『ぼくの嘘』『ふたりの文化祭』『ショコラティエ』『淀川八景』『しあわせなハリネズミ』『涙をなくした君に』『きみの傷跡』などがある。