その週末、隼人は東京の実家に戻ることにした。
飲み会のあと、陽花には連絡を取らなかった。メッセージに書かれていた「横塚」という人物について、問い質したい気持ちはあったが、なんと言えばいいかわからず、電話をかけることも、メッセージを送ることもできなかったのだ。
とにかく、会おう。
会って、直接、話をしなければ……。
そう思って、隼人は新幹線に乗りこんだ。
足元にはキャリーバッグがあり、ネコ太郎が入っている。実家の母親にネコ太郎の写真を送ったら、ぜひ連れて帰ってきてほしいと言われ、ペットホテルに預けるのではなく、いっしょに新幹線に乗ることになったのだった。
車両のどこからか、赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。
隼人にはそれが一瞬、猫の鳴き声のように聞こえて、ネコ太郎が騒ぎ始めたのかと焦った。だが、泣いているのは人間の赤ちゃんで、母親らしき人物が抱えて、あやしながら、座席のあいだを歩いていく。おそらく、ほかの乗客に迷惑がかからないよう、デッキへと向かったのだろう。
猫を連れている隼人にとって、赤ちゃんをあやしている母親のすがたは、他人事ではなかった。
もし、ネコ太郎が鳴き出したら、自分もデッキに行かないと……。
自分ひとりのときとちがって、猫を連れていると、気を遣うものだ。
新幹線に猫を乗せる方法を調べて、普通手回り品きっぷの存在を知った。きちんと料金を払い、所定のサイズ内のキャリーバッグに入れ、ルールに従っているので、問題はないはずなのだが、それでも、周囲の目というものがあり、気楽ではいられない。
隼人は足元に手を伸ばすと、キャリーバッグを少し開けて、様子をうかがう。先ほどからずっと、ネコ太郎は鳴き声ひとつあげず、キャリーバッグのなかでおとなしくしている。いまも、まるくなったまま、ちらりとこちらを見て、また顔を伏せた。
水はたっぷりあるし、おなかも空いてなさそうだし、だいじょうぶだよな。
ネコ太郎の様子を確認したあと、隼人は座席にもたれかかった。
車窓の景色をぼんやりと眺めながら、考えごとをする。
頭に浮かんでくるのは、陽花と過ごしていた日々のことばかりだ。
隼人が好きになったとき、陽花にはつきあっている彼氏がいた。だが、彼氏は裏切って、べつの女性と関係を持った。隼人は友人という関係で、その話を聞いていた。
相談を受けて、隼人は言ったのだ。
浮気をする男なんて最低だ、自分なら絶対に彼女を悲しませるようなことはしない、と。
そして、陽花は彼氏と別れることを決意した。浮気者の彼氏ではなく、隼人を選んでくれたのだった。
当時のことを思い出しながら、心の整理をしようとするが、どうにも考えがまとまらない。
一体、自分はどうすればいいのか……。
状況がしっかりと把握できていない以上、解決策も見出せそうになかった。
陽花は「裏切られる悲しさ」を知っているはずだ。
だから、浮気なんてしない。
そこのところは信じている。
あのメッセージのニュアンスからも、現在の陽花の置かれている立場はまだ告白されただけであり、浮気というようなものではない気がした。
だが、不安な気持ちになる。
もしかしたら、自分はまたしても天秤にかけられているのかもしれない。
前回は、浮気をした彼氏ではなく、自分が選ばれた。
そして、いまは彼氏となった自分が、べつの相手と比べられて……。
最悪のケースを想像して、隼人は軽く首を横に振る。
新幹線はようやく名古屋を通過したところで、東京にはなかなか着かない。
いまさらながら、大阪と東京は遠く離れているのだ、と痛感した。
これまで陽花とのあいだに、心の距離を感じることはなかった。ふれあうことはできなくても、電話で声を聞き、メッセージをやりとりすることで、通じ合っている気持ちになっていたのだ。
ふたりの関係に変化はないと思っていた。しかし、それは隼人の一方的な思いこみでしかなく、陽花のほうはそうではなかったのかもしれない。
大阪に遊びに行きたいと言いながら、陽花は結局、一度も来なかった。
隼人のほうには子猫の世話をしなければならないので会いに行けないという理由があったが、陽花はそうではなかったはずだ。もし、本当に、心から会いたいと思っていたのなら、大阪まで来てくれたのではないだろうか。
考えれば考えるほど、想像が悪い方向に広がっていく。
早く陽花に会って、確かめたいと思う一方、はっきりさせたくないような気もして……。
隼人の思いに関係なく、新幹線は定められた速度で進み、東京駅に着いた。
久々の実家は、ほとんど変わっていなかった。
一階はスポーツ用品店になっていて、特売品のシューズやラケットなどが店頭に展示されている。壁には父親が書いた「ガット張り替えます」という文字と値段表の紙が以前とおなじように貼られており、その隣には「少年剣士、大募集!」と剣道クラブの案内もあった。
ガラス張りの自動ドアの向こうに、店番をしている父親のすがたが見えた。
隼人は剣道をやめてしまったが、鷹人はつづけた。父親の剣道の技を鷹人は受け継いだ。隼人が父親とあまり話をしないようになってからも、鷹人はよき息子でありつづけたのだ。将来、この店を継ぐのも弟なのだろう。
隼人はそんなことを考えながら、店番をしている父親から目をそらして、裏口へとまわる。そして、階段をのぼって、二階の玄関へと向かった。
「ただいまー」
リビングに入ると、猫用のトイレやケージが置かれているのに気づいた。
「これ、ネコ太郎の?」
隼人が言うと、母親がキッチンから顔を出した。
「そうよ。ネコ太郎ちゃんのために、こんなのも用意しておいたの」
そう答えた母親の手には、隼人が一度も購入したことのない高級な猫用のエサの缶詰があった。
「おやつ、いっぱいあるから」
母親が用意していた猫用のおやつは、マグロやホタテの写真がパッケージに載っており、人間が見ても、おいしそうだ。
「贅沢を覚えて、家に戻ったときにいつものカリカリを食べなくなったら困るんだけど……」
そう言いつつも、母親がどれほどネコ太郎と会うのを楽しみにしていたのかということは伝わってきたので、おやつをあげることに対して、隼人は強く反対しなかった。
母親はさっそく、ささみジャーキーをひとつ取り出すと、キャリーバッグに近寄って、ネコ太郎に声をかける。
「ネコ太郎ちゃん、新幹線での移動、お疲れさまだったね。はい、おやつだよ」
隼人がキャリーバッグを床に置き、ジッパーを開けると、ネコ太郎は最初は警戒していたものの、おやつに釣られたのか、すぐに出てきた。
ネコ太郎はささみジャーキーを食べると、母親の手の匂いを嗅いだり、部屋を歩きまわったりしていた。
「鷹人は?」
弟の気配がないのを感じて、隼人はそう問いかけてみる。
「あの子ね、たぶん、デート」
含み笑いをしながら、母親は答えた。
その言葉に、隼人はショックを隠せない。
あいつにも、ついに、彼女ができたのか……。
「隼人のときもそうだったけど、ふたりとも、わかりやすいのよ」
動揺していると、追い打ちをかけるように母親はつづけた。
「朝からいそいそと用意をしていたし。最近、妙に機嫌がいいし。身なりを整えるのを面倒くさがっていたくせに、彼女ができた途端、ばっちり髪型を決めて出かけるようになるんだから」
陽花とつきあいはじめたころを思い返すと心当たりが多々あり、母親にいろいろと見抜かれていたことが気恥ずかしく、隼人はいたたまれない気持ちになった。
「ネコ太郎、だいじょうぶそうだな」
話題を変えるべく、ネコ太郎に視線を向ける。
ネコ太郎はリビングをうろついたあと、母親が用意してくれていた容器で水を飲んでいた。見知らぬ場所に連れて来られたものの、そんなに警戒している様子はなさそうだ。
「俺、ちょっと、自分の部屋にいるから」
隼人はそう言って、階段をのぼり、三階の自室へと向かう。
自分の部屋も、ほとんど変化はなかった。
本棚には漫画本がずらりと並び、部屋に置かれたベッドは布団もそのままだ。大阪へ引っ越すとき、隼人はベッドなどの大型家具を持って行かなかった。繁忙期だったので引っ越しの料金があまりにも高く、現地で調達するほうが安上がりだと母親に言われ、必要最低限のものだけを宅配便で送って、家具やベッドなどは近くのホームセンターで買いそろえたのだった。
ごろりとベッドの上に寝ころんで、気力が溜まるのを待つ。
そして、意を決すると、隼人は上半身を起こした。スマホを取り出して、陽花に電話をかける。
何度かの呼び出し音のあと、陽花の声がした。
「隼人くん?」
「あのさ、いま、東京にいるんだけど」
隼人の言葉に対して、陽花は驚きの声をあげた。
「えっ?」
「これから、会えないかな。どこでも、陽花の都合のいいところを言って。すぐに行くから」
「えっと、そんな、急に言われても……。東京って……」
突然のことに陽花は戸惑い、すぐには返事ができないようだ。
「ごめん。でも、どうしても、直接、会いたくて。いま、実家だから、陽花のところまで三十分もかからずに行けると思う」
隼人は一方的にそう告げる。
「わかった」
しばらくの沈黙のあと、陽花は答えた。
「じゃあ、私もいまから出るよ。場所は新宿御苑にしよう。いつものところで」
その返事に、隼人は少しほっとした。
「うん、待ってるから」
隼人はそう言って、電話を切った。
陽花は「いつものところ」と言ったが、新宿に行くのはかなり久しぶりだ。そのことに気づいて、陽花と毎週のようにデートをしていた日々をずいぶん遠くに感じた。
母親に「ちょっと出かけてくる」と伝えて、隼人は実家を出た。
新宿御苑は都心とは思えないほど自然が豊かで、陽花のお気に入りの場所だ。青い空と高層ビルが木々の緑の向こう側に見えるのが素敵なのだと、よく熱く語っていた。春には花見をしたり、秋には紅葉の写真を撮ったりと、何度もデートで訪れたものだ。
隼人のほうが早く着いたらしく、陽花のすがたはなかった。
いつものベンチのところで隼人が待っていると、人の流れのなかに陽花が歩いてくるのが見えた。
そのすがたを見て、隼人の胸に安堵が広がる。
もしかしたら、来てくれないかもしれない。
そんな不安が心の片隅にあったが、陽花のすがたを目にしたことで、消え去ったのだ。
「久しぶりだね、隼人くん」
陽花は微笑んだあと、わずかに困惑の表情を浮かべた。
「東京に戻るんだったら、もっと早くに連絡してくれたらよかったのに。いきなり言われて、びっくりしたよ」
責めるような口調ではあるが、その声色はやわらかく、本気で怒っているわけではなさそうだ。
「ごめん」
短く謝ったあと、隼人は言葉をつづけられなかった。
陽花は少し髪が伸びて、大人っぽくなっていた。
ふたり並んで、木々に囲まれた道を進んでいく。桜の季節ほどは混雑しておらず、人影はまばらだ。
あたりさわりのない会話をしつつ、隼人は例の件について切り出すタイミングをうかがっていた。
しばらく歩いていると、ベンチがあって、陽花はそこに腰かけた。そして、さらりと言った。
「メッセージ、気づいてくれたんだね」
隼人がためらっているうちに、陽花のほうから話題に出してきたのだ。
「告白って、どういうことなんだ?」
単刀直入に訊ねると、陽花はうつむきがちに話した。
「仕事関係のひとに、結婚を前提につきあってほしい、って言われて……。すごく困って、相談したくて、メッセージを送っちゃったんだけど、でも、隼人くん、忙しそうなのに余計な心配をかけたら迷惑かなと思い直して、すぐに取り消した」
陽花の口調に悪びれたところはなかった。
噓をついているようにも、隠し事をしているようにも思えない。しかし、隼人はまだすっきりしない気持ちでいた。
「それで、その、告白について、返事は?」
ほんの少しの沈黙のあと、答えが返ってくる。
「もちろん、断ったよ」
その言葉を聞いて、隼人は胸を撫でおろした。
「そっか」
一番の懸念が払拭され、ほっとする。
その途端、いろいろなことが気になってきた。
「相手って、どういうひとなんだ?」
まず、そう問いかけると、陽花は顔をあげて、苦笑いをしながら答えた。
「年がね、なんと、三十五歳」
その年齢を聞いて、隼人も驚きに目を見開く。
「えっ、マジで?」
「うん、びっくりしたよ」
陽花はうなずいて、溜息をついた。
「信じられないでしょう? 見た目もおじさんって感じで、恋愛対象だなんて考えられなくて、そんなひとに告白されるなんて、ショックで……。立場的に上のひとだから強くも言えないし、変な噂とか立てられても嫌だし、すぐには断れなくて、ほんと、困った」
「それ、ある意味、パワハラじゃないのか?」
思わず、隼人はそう指摘した。
「だよね。こっちは仕事だから仕方なく笑顔で対応しているのに、なれなれしくしてきて、どうしようって感じだった。親のことも知っていて、白石さんちのお嬢さんなら安心だとか言われて、ドン引きしたし」
「えー、それは怖いな。なんで、親のことも知ってるんだ?」
「うちの会社、父の取引先だからね。っていうか、職場のひと、ほとんど、父のこと知ってるから。それもあって、親にも相談しにくかったんだよね」
「ああ、そうか」
就職活動をしていたころ、陽花はなかなか内定がもらえず、最終的に父親の口利きで就職先を決めたのだった。縁故入社となると、しがらみがあるからこそ、気苦労も多いのだろう。
「いまの会社、嫌なことばっかりなんだけど、父の紹介っていうのもあって、そうそう気軽には辞められないし。こんなことなら、就活のとき、もっと自力で頑張ればよかった」
陽花はまたしても溜息をついて、視線を落とす。
「仕事、辞めたいのか?」
電話でも陽花はよく仕事の愚痴を漏らしていた。
だが、本気で辞めたいと思っているのかどうかは、隼人にはわからなかった。
「うん、辞めたい」
陽花はうつむいたまま、ぽつりとつぶやく。
「でも、辞めるのも、怖い。また就職活動することを考えると、不安で押しつぶされそうになる」
「大変だもんな」
実感をこめて、隼人はうなずいた。
書類選考や面接で落とされるたびに、メンタルにダメージを受けたものだ。あの不安定な気分を思い出すと、いまでも胃が痛くなる。
「結婚を前提に……なんて、ドラマでしか聞いたことがないような言葉だから、びっくりしたんだよね。なんか、嫁候補として見られているっていうか、好きとか、そういう気持ちでつきあうんじゃないんだなあと思って。学生時代の恋愛とは、ちがうんだよね。それで、改めて、人生について考えたりして……」
陽花はずっと地面を見つめたままだ。
「結婚するか、しないかとか、どんな相手と結婚するかで、人生は大きく変わってくるんだろうなと思うと、急に怖くなっちゃって。この先、どうやって生きていけばいいんだろう。十年後の自分なんて、想像もつかないよ」
陽花はどんどん言葉をつづける。
ただの雑談であれば、適当な相槌を打つこともできたかもしれない。しかし、自分の彼女が話す場合には、無関係とはいかず、どうにも重苦しさを感じた。
下手なことを言えば、墓穴を掘ってしまいそうである。
返答につまっていると、陽花が顔をあげた。
「隼人くんは、私とのこと、どう考えている?」
核心に迫るようなことを言われ、隼人は狼狽しながら、陽花の言葉を繰り返した。
「どう考えている、って言われても……」
話の流れから、陽花が言いたいのは、ふたりの結婚についてだということは推測ができた。
もちろん、その可能性を真剣に考えていないわけではない。だが、かなり先の話だと思っていた。いつかは……。ゆくゆくは……。そんな遠い未来の曖昧なイメージでしかなく、どう考えているかと問われても、明確な考えを示すことは難しかった。
別れたくはないが、結婚をする勇気もない。
突き詰めて考えれば、それが隼人の本音であろう。
この年で結婚を考えるなんて、いくらなんでも早すぎるのではないだろうか。
そんな思いが心に浮かぶものの、さすがに口には出さなかった。
「いまは仕事のことしか考えられないっていうか……」
これもまた、隼人の本音ではある。
「大阪にいるし、まだまだ当分、こっちには帰って来られないだろうから……」
無責任なことは言えない。
そう考えて、隼人は言葉を濁すしかなった。
困ったように微笑んだあと、陽花が口を開く。
「最初のころは、遠距離でも平気だし、待てると思ったんだよね」
陽花の声に不穏な響きを感じて、隼人はごくりと生唾を飲んだ。
「でも……」
逆接の接続詞をはさんで、陽花が言う。
「すぐに会えないって、つらいね。今日、こうして隼人くんと顔を合わせて、話ができたことで、ますます、会いたいときに会えないのはさみしいなあって実感した」
陽花の言葉に、隼人はただ謝ることしかできない。
「ごめん」
今度は隼人がうつむいて、視線を落とす。
「謝ってほしいわけじゃないんだよ」
陽花はゆっくりと首を左右に振った。
「隼人くんが仕事を大事に思う気持ちはわかるし、応援したいって思ってる。早くこっちに戻ってきてほしいとか、言いたくない」
そのあと、しばらく沈黙が流れた。
隼人は不安になって、顔をあげ、横を見た。
陽花はこちらを向いており、視線がぶつかった。
見つめ合いながら、陽花が言った。
「私、大阪に行ってもいいよ」
その一言に、隼人は衝撃を受けた。
「えっ、いや、でも、陽花も仕事があるだろ」
うれしさと困惑が交互に押し寄せて、気持ちの整理がつかない。大阪でのふたりの生活などを想像したあと、隼人の口から出てきたのは、やはり、仕事のことであった。
「親父さんのこともあって、気軽には辞められないって……」
「父にはきっと怒られると思うけど、隼人くんが望むなら、新しい生活に飛び込んでいく」
陽花がそこまで自分のことを想ってくれていることに喜びを感じる一方、戸惑う気持ちも強かった。
他人の人生を背負う覚悟が、自分にはあるのか。
そんな問いが心に浮かび、即座にうなずくことはできなかったのだ。
仕事も辞めて、家族とも離れて、大阪に来るなんて……。
自分のために、陽花にそんな決断をさせてもいいのだろうか。
そう考えるからこそ、隼人は答えを出せない。
陽花はじっとこちらを見ている。隼人の言葉を待っているようだ。
やがて、その瞳に失望の色が浮かんだ。
「なんにも言ってくれないんだね」
陽花は悲しげな声でつぶやき、視線をそらす。
「好きだけど、別れるしかないのかも、私たち」
正面を向いて、陽花は言った。
「別れるとか、なんで、そんな話になるんだ?」
さっきは大阪に行ってもいいとまで言ってくれたのに、突然、陽花が別れ話を切り出したので、隼人には理解が追いつかない。
陽花は目を合わせず、公園を歩くひとたちを眺めている。
「別れるとか、噓だよな……?」
そう言って、反応をうかがったところ、陽花はゆっくりと首を左右に振った。
「私には遠距離恋愛って、無理だったみたい。幸せな気持ちより、つらい気持ちのほうが大きくて」
「ごめん。これからはもっと頻繁に連絡するし、東京にも会いに来るから」
隼人は食い下がるが、陽花の気持ちは変わらない。
「それでも、無理だと思う」
「なんで……」
「そうやって謝ってもらったりするのも、つらいんだよ。わがままを言いたくないけど、我慢するのもつらくて……。このままでいたら、どんどん、自分のことが嫌になる」
陽花は両足の上に手を置いて、固く握りしめている。
「隼人くんのこと、彼氏だと思うと、つらくなるから、友達に戻りたい」
その後、隼人がなにを言おうと、結論が覆ることはなかった。
空は青く広がっており、絶好のデート日和だ。
手をつないだカップルが目の前を通り過ぎていく。
自分たちもあんなふうにデートをしているはずだったのに、なぜ、別れ話をすることになってしまったのか……。ベンチに座りながら、隼人は信じられない気持ちでいた。
隼人は放心状態のまま、電車に乗って、実家へと戻った。
母親がなにか話しかけてくるが、隼人は心ここにあらずでリビングのソファーに座り、生返事を繰り返す。
別れるしかないという結論に隼人はいまだに納得がいかなかったが、しかし、陽花がこれ以上は交際をつづけていくのは無理だと言う以上、どうしようもできない。
もし、大阪に行かず、東京で就職していれば、陽花と別れずに済んだのだろうか……。
あるいは、すぐにでも仕事を辞めて、陽花のために東京に戻ると伝えたなら……。
でなければ、陽花が大阪に行ってもいいと言ってくれたときに、もっと喜んで、それを受け入れていれば……。
だが、隼人には選ぶことができなかった。
「それでね、このあと、鷹人が彼女をうちに連れて来るから、いっしょにご飯を食べましょうっていうことになって」
母親の声が耳に入って、素通りしていきそうになったが、引っかかる言葉があり、隼人は顔をあげた。
「鷹人の、彼女?」
聞き返すと、母親はキッチンから出てきて、壁にかけられた時計に目を向ける。
「そう、彼女を連れて来るんですって。さっき、電話があって。このあいだは向こうのおうちに鷹人が行ったから、今度はこっちに来るという流れになったらしいんだけど、あの子ったら急に言うんだから、まったく。こっちにも準備ってものがあるのに」
母親は文句を言いながらも、どこか浮き浮きした様子で、部屋の片づけをはじめた。
隼人は陽花を家に連れて来たことはなかった。彼女を親に紹介しようなんて考えもしなかったのだ。当然、陽花の両親にも会ったことはなかった。だが、鷹人はそうではないらしい。
「親に挨拶に来るなんて、結婚も視野に入れてるということかしら。鷹人は硬派だから、そういうところ、ちゃんとしそうよね。意志が強くて、信念を貫くタイプだし」
母親のそんな言葉が、隼人の心に突き刺さる。
自分が振られた直後に、弟が彼女連れで帰って来るなんて最悪だ……。
とてもじゃないが、そんな場に居合わせるのは耐えられない。
「ネコ太郎ちゃん、せっかく、くつろいでいるところ悪いんだけど、ちょっとごめんね。このへんも掃除機をかけるからね」
ソファーの下でまるくなっていたネコ太郎に、母親はそう声をかけて、掃除機の電源を入れる。掃除機から音が響くと、ネコ太郎は近づいて、毛を逆立てながら、飛びかかってきた。
「掃除機に近づいちゃダメよ、危ないってば。隼人、ネコ太郎ちゃんをどうにかして」
母親に声をかけられ、隼人はソファーから立ちあがり、ネコ太郎に手を伸ばす。
「こいつ、掃除機が嫌いで……」
ネコ太郎を抱きあげて、キャリーバッグに入れたあと、隼人はそのまま、荷造りをした。
「俺、いまから、大阪に戻る」
隼人が告げると、母親は呆れた声で聞き返す。
「いまから? 泊まっていくんじゃないの?」
「急ぎの仕事を思い出したから」
母親にそう伝えて、隼人は逃げるようにして、実家をあとにした。
自分でも馬鹿げているとは思うが、どうしても弟に会いたくなかったのだ。
剣道の試合で負けたときの苦い気分がよみがえる。
大人になったと思ったのに、いまだに自分は……。
恋人ではなく友達という関係に戻ったあと、陽花の様子はSNSを通して知ることになった。
以前はそれほど積極的にSNSを使っていなかったのに、急に更新の頻度が増えたのだ。
最初のころは日々の出来事をアップしていた。カフェに行ったり、コンビニスイーツを買ったりと、何気ない日常の写真が多かった。これまでなら隼人に送っていたであろうと思われる内容だ。コメントをつけるのも、未練がましいような気がして、隼人はただ見るだけにしておいた。その後、陽花は英会話教室に通い始めて、そこで出会った友人たちとバーベキューをしたり、ハロウィンパーティーに参加したりなど、交友関係も広がっているようだった。
いまのところ、結婚の報告はない。
自分と別れたあと、例の横塚という人物とつきあうのではないかと懸念を抱いていたが、SNSを見る限り、その気配は感じられなかった。
だが、安心はできない。あくまで、現時点においてはフリーでいるように見えるだけである。いつ、知りたくない事実を知ってしまうか、わからないのだ。
見なければいいと思うのに、つい、見てしまう。
SNSを見るたびに、陽花が元気そうでよかったと思う一方、自分と別れても平気な顔をしていることに苛立ちを感じた。そして、だれともつきあっていないことにほっとして、復縁の可能性を考える。陽花は「好きだけど」と言っていた。つまり、まだ、気持ちは残っているということだ。遠距離恋愛だから無理になっただけであり、状況が変われば……。
失恋の痛手は忘却によって癒されるというのなら、隼人の行っている行為は傷口に塩を塗りこむようなものであった。つきあっていたころ以上に、陽花のことを考える時間が増えている。過去の楽しかった思い出が何度も頭に浮かび、それが二度と戻らないのだと思うと、胸が締めつけられた。
失恋をしたからといって、生活には特に大きな変化はなかった。会社に行き、仕事をして、家に帰る。喪失感を抱えて暮らす日々で、ネコ太郎の存在にはずいぶんと救われた。帰宅すると、玄関先まで出迎えてくれる。寝坊をしたら、顔を踏んで起こされる。仕事をしようとノートパソコンを広げれば、キーボードの上に寝そべってくる。もし、ひとりきりで部屋にいたならば、孤独がもっと身に沁みただろう。ネコ太郎のぬくもりがあったことで、自暴自棄にならずに済んだ。
また、ときどき、流果が遊びに来てくれることにも、かなり助けられた。流果という「友達」がいて、いっしょにアニメを見たり、漫画の話をしたりしながら、休日を過ごしていると、小学生だったころに戻ったような気分になる。あのころは彼女なんていなくても、毎日、それなりに楽しく過ごせていたのだ。それを思うと、たとえ彼女がいなくても、幸せな人生を歩めるのではないだろうかという気持ちになれた。
それに、仕事があった。
会社に行けば、仕事が待っている。
やるべきことが、つぎからつぎに出てくる。
与えられた課題に取り組んでいるあいだは、余計なことを考えず、痛みを忘れることができた。
会社と家の往復で、日々は過ぎていき、新年度を迎えた。会社には新卒社員が入ったものの、家庭科には配属されず、異動などもなく、社会人二年目になっても隼人の環境はあまり変わらなかった。目の前の仕事をこなして、スケジュール通りに進めていく。
原稿はすべて集まり、イラストや写真や資料なども配置され、教科書は完成形にかなり近づいていた。
検定に申請するための見本が出来あがったときには、自分の仕事が「かたちになった」という感動があった。
いわゆる白表紙本と呼ばれるもので、これを文部科学省に提出して、教科書にふさわしいかどうか審査されるのだ。
白い表紙には学年と教科名など最低限の情報しか記載されていない。それでも、教科書の「かたち」をしている。紙の質感も、厚みも、内容も、本物の教科書とほとんどおなじだ。
印刷所から届いたばかりの白表紙本をぱらぱらとめくっていると、自分が教科書作りをしているのだという手応えを感じた。
ページを眺めながら、隼人はひとり、充実感を嚙みしめる。
「白表紙本ができると、ようやく八合目という感じやな」
そう声がして、振り返ると、淡路が立っていた。
「これから貼り込み作業やろ。差し入れと、手伝いに来たで」
淡路の手にはお菓子の箱らしきものがあった。差し入れを渡したあと、淡路は白表紙本の詰まった段ボール箱を持ちあげる。
「ほな、行こか」
淡路が重い段ボール箱を抱えるのを見て、隼人はあわてて手を伸ばした。
「貸してください。運びます」
「かまへん、かまへん。これくらい持てるから。もう一個あるやろ。瀬口くんはそっちの箱、頼むわ」
淡路にそう言われ、隼人は残りの段ボール箱を持って、そのあとにつづく。
向かった先は会議室だ。会議室にはすでに雪吹がいて、修正のためのシールやカッターナイフなどの用意もされていた。
検定の申請日は決まっており、スケジュール厳守のため、印刷所に入稿する日は絶対にずらせない。そのため、入稿の直前は怒濤の忙しさであり、どうしても間に合わなかったり、見落としたりするところが出てしまう。
そんな「入稿後に見つかったミス」を修正した紙面のシールを貼りつけていく作業をこれから行うのだ。
「どんな感じや?」
淡路に声をかけられ、雪吹は沈鬱な声で答える。
「正直、厳しいです。淡路さんに手伝っていただけるのは本当に助かります」
雪吹の手元にはミスの一覧や修正のシールがあった。
隼人にとっては、はじめての作業なので基準がわからないが、雪吹の反応を見るに、今回はミスが多かったようだ。
そのうちのいくつかは、あきらかに隼人の過失であった。入稿したデータに資料をつけ忘れており、栄養素の表が空白になっていたのだ。ほかにも、何度も読み返したはずなのに誤字があったり、強調するべきところが太字になっていなかったりなど、自分が担当したページに修正すべき点を大量に見つけて、隼人は落ちこんでいた。
「ほんまやな。これはなかなか……」
修正の多さに、淡路も苦笑いを浮かべる。
「もっと人手がいるんやったら、ほかのひとも呼んで来るけど」
「とりあえず三人で進めてみて、それでも難しそうなら増援をお願いしたいです」
雪吹はそう答えながらも手を動かして、修正した紙面のシールをカッターナイフで器用に切り取っていく。
隼人も椅子に座り、雪吹を真似て、作業をはじめた。
文部科学省に提出するのは一週間後だ。
それまでに貼り込み作業をすべて終えなければならない。
雪吹も、淡路も、手慣れたものであり、スムーズに修正した紙面のシールを切り取り、白表紙本に貼っていく。ふたりは作業をどんどん進めていくのに、隼人はその半分も仕上げられないので、どうにも身が縮む。
「すみません。ミスが多くて……」
修正した紙面のシールのうち、隼人は「クーリング」という言葉を切り取っていた。消費生活のページでは「クーリング・オフ」という言葉が、なぜか「クリーニング・オフ」となっていたのだ。
編集委員の先生から原稿をもらって、読んだときにはまったく気づかなかった。その後、校閲者に確認してもらったときに赤字で指摘が入っていたのにもかかわらず、隼人が見落としてしまったようだ。
誤表記のチェックや記述の事実確認などについては、専門家である校閲者に外注しているのだが、最終的な判断は編集者の仕事となる。校閲者の指摘がすべて正しいとは限らない。赤字を反映させるか、もとのままでいくか、ひとつずつ判断することになるのだが、隼人はいまさらながら、その責任の重さを痛感した。
「あれだけ細心の注意を払って、念には念を入れて、確認したつもりなのに、こんなにミスがあるなんて……」
淡路は顔をあげると、雪吹のほうを見た。
雪吹は手元を見つめて、作業をしながら、言葉を発する。
「白表紙本の段階で修正箇所があるのは想定内のことです。そのために貼り込み作業を行っているのですから」
「いや、でも、教科書において、ミスなんて絶対に許されないものなのに」
隼人の言葉に、雪吹は淡々と答える。
「最終的にすべて修正されていれば問題ありません。最初から完璧を求めるのではなく、完璧に仕上げていけばいいのです」
そう言われても、隼人は不安をぬぐい切れなかった。
完璧に仕上げることなんて可能なのだろうか……。
ミスに気づかないかもしれない、という恐怖。
大切なことを見過ごしてしまって、取り返しがつかない結果に……。
それはまさに、プライベートで起きてしまった出来事だった。陽花とのつきあいにおいて、隼人はミスを重ね、気づかないまま、修正できず、別れ話を切り出されることになった。失恋をしてからというもの、ついつい、思考がネガティブになりがちだ。
暗い表情でうつむいていると、淡路の明るい声が飛んできた。
「ミスのひとつやふたつ、気にせんでもええ。人間やねんから、しゃあないやろ。はじめから完璧を目指したら、なんもできへん」
その言葉に励まされ、隼人は顔をあげる。
「教科書を作るのって、責任重大ですよね。改めて、身が引き締まる思いです」
自分の仕事がようやく目に見えるかたちになり、手応えを感じる反面、プレッシャーも増した。
「責任感が強いのは立派やけど、そんなに気負う必要はないからな」
雪吹のほうをちらりと見て、淡路はつづける。
「だいたい、瀬口くんの仕事を確認したのは雪吹さんやろ。だから、責任うんぬん言うんやったら、雪吹さんにこそ監督責任があるわけで」
「えっ、それは……」
思わぬところに話の矛先が向き、隼人は焦ったが、雪吹は気にしていない様子だ。
「そうですね。ダブルチェックをしたはずなのに、彼のミスに気づけなかったのは私のミスです」
相変わらず顔はあげず、手を動かしながら、平坦な口調で雪吹は答える。
その様子を見て、淡路は悪戯っぽい笑みを浮かべ、口を開いた。
「そんで、雪吹さんを雇ってるのはうちなわけで、最終的に責任を取ることになる人間はここにおるわ」
言いながら、淡路は自分の胸をぽんっと叩いた。
「だから、瀬口くんも、雪吹さんも、自分のやれる範囲で精一杯やってくれたらええねん」
淡路の言葉は雪吹を責めているわけではなく、むしろ、その背負っているものを軽くしようとしているのだろう。
「ひとりの人間にできることは限りがあるからな。そのために、会社があるんや。協力して、まわりに頼って、なんぼやで」
雪吹は手元の作業が一区切りついたらしく、動きを止めて、顔をあげた。しかし、会話に入ってくることはなく、またうつむいて、作業をはじめる。
淡路も白表紙本を開いて、修正のシールを貼りつけていたが、その手を止めて、隼人のほうを見た。
「ここか、瀬口くんがどうしても作りたかったページは」
それはさまざまな家族についてのコーナーだった。
「あ、はい。編集会議で意見を出したら、編集委員の先生方にも賛同していただけて」
「雪吹さんから企画のこと聞いて、どんどん、やってみなはれとは言うたんやけど、これまた斬新でインパクトのあるページやね」
どうやら、隼人の知らないところで、雪吹は淡路に話を通していたようだ。
「これ、漫画なんやろ?」
「そうです。個人的に好きな漫画で、いまの子供たちにも人気がありますし、キャッチーな絵柄なので、興味を持ってもらえるかと」
「なるほどなあ。時代やなあ」
自分が企画したページをまじまじと見つめられて、隼人はどうにも落ちつかない。
「もしかしたら検定に通らないかもしれない、というようなことを雪吹さんには言われたんですけど、標準家族だけじゃないっていうのは、どうしても入れたくて……。知り合いに、母親がふたりという家庭環境の子がいて。以前の家庭の描き方だと、その子の家族が『ないもの』にされているみたいな気がしたんです。そんな私情みたいなものを持ちこむのもどうかとも思ったんですが、でも、そういう子って、ほかにもいるはずだし、家庭科で家庭というものを考えるときに、新しい気づきがあるといいなと思ったので」
評価が不安なこともあり、いつもより饒舌になっていた。
「私情、大いに結構」
大きくうなずいて、淡路は言う。
「ええなあ、光り輝いているように見えるわ」
淡路は満足そうに目を細めて、そのページを眺めている。
「仕事は個人の思い入れがあってこそや」
しみじみとした口調で、淡路は言った。
「作り手が思いをこめた部分っていうのは、なんか、伝わってくるもんがあるねん。それが、人間が仕事をする意味やで」
もう一度うなずき、淡路は話をつづける。
「こういう個性のあるページを作るからこそ、うちみたいな会社が存在している意味がある。学習指導要領をなぞるだけやったら、それこそ国定教科書をひとつだけ作ったらええわけで。でも、そんなん、つまらんやろ。教科書を作る会社がいくつもあって、それぞれに知恵を絞った教科書を作って、選択肢があるっていうのが、豊かさや」
淡路の言葉を嚙みしめながら、隼人は修正のシールを貼りつけていく。
仕事は個人の思い入れがあってこそ。
選択肢があるっていうのが、豊かさ。
それはちょっとした雑談ではあったが、そこで得た考え方は、その後、隼人が仕事をしていくにあたって、とても大きな影響を及ぼすことになった。
☆☆☆
淡路せつこには後継者がいない。
大大阪出版は祖父が創業した会社であり、それを父が継承した。そして、父はもっとも信頼していた社員を自分の後継者とするため、娘との縁組を進め、婿入りさせた。当時はお見合い結婚はめずらしいことではなく、結婚とは家と家が結びつくものだという意識が強かったので、自分の結婚相手が親に決められることに、淡路はなんの疑問も抱かなかった。
父が見込んだだけあって、淡路と結婚した相手は才覚に優れており、従業員を大切にして、成果をあげた。また、夫としても、真面目一筋で、浮気はせず、暴力は振るわず、家族を大切にして、申し分のない人物であった。結婚してすぐに淡路は家庭に入った。もとより、父には娘を会社の仕事に関わらせるつもりなどなく、淡路自身もその時代を生きた多くの女性とおなじように良妻賢母を目指すのが当然だと思っていたのだ。
ところが、夫は志半ばにして亡くなり、混乱を避けるため、古参社員たちに頼まれて、かたちだけの代表として担ぎ出されることになった。最初は形式上の役割だったはずが、生来のお節介な性分から大人しくしていられず、気づけば陣頭指揮を執るようになっていた。
ほんま、人生ってわからへんもんやで。
心のなかでつぶやき、淡路は社長室へと入っていく。マホガニー製の重厚な執務机で仕事をするたびに、これを使っているのがなぜ夫ではなく自分なのか、不思議な気持ちになった。
中学の家庭分野で貼り込み作業を手伝ったあと、今年度、新入社員が配属された部署にも顔を出しておいた。
大大阪出版のような地方の知名度のない企業にとって、新卒採用は大きな課題であり、いつも苦戦させられる。リーマンショック直後はともかく、ここ数年の有効求人倍率は高くなる一方で、採用が厳しい状況がつづいていた。
生命に新陳代謝が欠かせないように、組織も新しい人材を必要とする。
淡路が求めるのは、組織が停滞しないよう、新しい風を起こしてくれる人材であった。
リスクを取らず安定志向で確実に仕事をこなす雪吹のもとに、あえて門外漢の新人を配置したのも、組織を膠着させないためである。
瀬口くんに声をかけたんは、正解やったな。
たまたま、東京出張の折に見かけて、一本釣りしてみたところ、うまくいった。
就職で大阪から東京に出て行くことはあっても、向こうからやって来るというのはレアケースだ。
いや、まだ、わからへんか。
軽く左右に首を振り、淡路は考える。
長いこと、いてくれるといいんやけど……。
どの新人にも期待をかけ、成長を楽しみにしているからこそ、辞められたときのダメージは大きい。
教科書作りは四年に一度のサイクルでまわっていく。そのサイクルを繰り返すことで、仕事を覚え、成長していくのだ。
その途中で去っていく者もいるが、それもまた人生であり、こればかりは縁としか言いようがなかった。
亡き夫とのあいだに、子供はできなかった。いまとなっては、この大大阪出版がふたりをつなぐ存在であり、忘れ形見のようなものだ。
それに、教科書というものは、全国の子供たちに届く。
血のつながっている子供を育てることはできなかったが、教育の分野で仕事をすることで、何千何万の子供たちの成長に関わっている。そう考えると、さみしさを感じることはなかった。
四年に一度のサイクルというのは、長いようで、あっという間である。
「あと何回、教科書作りの現場に立ち会えるんやろうな」
しんみりとした口調で、淡路はひとりつぶやいた。
藤野恵美(ふじの・めぐみ)
1978年大阪府生まれ。2003年、『ねこまた妖怪伝』で第2回ジュニア冒険小説大賞を受賞し、翌年デビュー。著書に、13年、啓文堂大賞(文庫部門)を受賞した『ハルさん』のほか、『初恋料理教室』『わたしの恋人』『ぼくの嘘』『ふたりの文化祭』『ショコラティエ』『淀川八景』『しあわせなハリネズミ』『涙をなくした君に』『きみの傷跡』などがある。