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第6回

 

 休日になり、(はや)()はようやく、(はる)()と電話で話すことができた。

「それで、結局、べつのイラストレーターさんに頼んで、なんとかなったんだけど、ほんと、信じられないよな。仕事を頼んだのに、それをちゃんとやらない人間がいるなんて」

 話題はついつい、仕事のことになる。

「うんうん、わかる~」

 電話の向こうで、陽花はそう相槌を打った。

「頼んだのにやってくれないひとって、結構いるよね。うちの会社も、経費の精算は月末までに持って来て下さいって言ってるのに、締め切り守らないひとが多いし」

「俺、約束は守るものだと思っているし、責任を果たすのは当然だと思うから、そうじゃない人間が社会に存在していることに衝撃を受けたというか」

「あ、でもさ、小学生のときに、夏休みの宿題をやらない子とか、いなかった?」

 陽花の言葉に、隼人は驚く。

「えっ、そんなの、許されないだろ」

 隼人にとって、宿題をすることは、顔を洗ったり、歯を磨いたりするのとおなじで、一日の予定に組み込まれていた。夏休みにするべきことをリストにして、計画表を作り、母親に進み具合を確認されていたのだ。だから、最後まで終わらない、という事態は考えられないことだった。

 しかし、言われてみると、夏休みの最終日に宿題が終わってないというネタは、漫画やアニメでよく見かける。子供たちが共感するのはそちらで、計画通りに宿題を終わらせるほうが少数派なのかもしれない。

「先生がわりと甘かったからか、べつに宿題を出さなくても怒られたりしなかったんだよね。だから、夏休みの宿題も、やらないままの子とかいて、ずるいなーって思ったよ」

「そっか。意外とそういう人間はいるのかもな。俺、いままであんまり意識してなかったけど」

 当時を思い返してみるが、自分が始業式の日に必ず提出していたことは覚えているものの、ほかの子たちのことなど気にもしていなかった。

「うちの会社なんか、基本的に、仕事をやりたくない人間の集まりだし。いかにサボるかってことをみんな考えてるよ」

「そうなのか?」

「隼人くんのところみたいに立派な仕事をしているわけじゃないから。お金のために働いているひとがほとんどで、仕事のモチベーションとかないし。親会社から来てるひとは能力が高くてやる気もあるんだけど、うちの会社のひとたちは言われた仕事をやるだけっていうか」

 陽花は沈んだ声を出したあと、はっとしたようにつづけた。

「あ、ごめんね、愚痴みたいなこと言っちゃって」

「まあ、でもさ、金のために働くのは、ある意味、当然と言えば当然だよな。金がないと生きていけないわけで」

 陽花をなぐさめようとして、隼人はそんなふうに言う。

「そうだよねー。お金を稼ぐのって、大変だよね。一ヶ月のお給料を見ると、あれだけ我慢して、これかあ……って思うし。隼人くんはどう? いまのお給料って、低すぎるとか思わない?」

「俺の場合、逆に、自分はこの給料分だけ、会社の役に立っているんだろうかって考えると、ちょっと不安になるかも。いまのところ教わることばかりで、利益は出せていないわけだし。もっと、スキルを身につけて、使える人材にならないとなー」

 隼人もつい愚痴っぽい口調になったが、すぐに気持ちを切り替えた。

「まあ、教科書作りってのは四年でまわっていくから、焦らずやっていこうと思う。直属の上司とは合わない感じだけど、ほかに相談できるひとを見つけることもできたし」

「隼人くんって、すごいよね。そんなふうに考えられるの、ほんと、すごいと思う。私も、隼人くんみたいに、やりがいの持てる仕事に就いていたら、もっと、前向きに考えられたのかなあ」

 すごい、というのは陽花の口癖のようなものではあるものの、ほめられて悪い気はしない。

 陽花と話していると、隼人はどんどん元気が出てきた。

「いや、すごいっていうほどのことはしてないんだけど。でも、自分の仕事が、教科書っていうかたちのあるものを作ることにつながっていて、それを使って子供たちが学ぶんだと思うと、責任重大っていうか、頑張らなきゃって気持ちになる」

「かたちがあるものを作る仕事って、憧れるなー。私の仕事は、なにも残らないっていうか、言われたことをするだけで、べつに頑張ったりするようなものじゃないし」

「でも、事務っていうのも、会社には欠かせないもので、大切な仕事だろ」

「まあね、だれかがやらなくちゃいけない仕事だとは思うんだけど、でも、それだったら、私じゃなくても……」

 陽花が話している途中で、ピーンポーンと玄関のほうから音が響いた。

「宅配便?」

 電話の向こうの陽花にも聞こえたらしく、そう問いかけられる。

 モニターを見ると、()()のすがたが映っていた。

「流果くんだ。前に話しただろ。ネコ()(ろう)を拾った小学生。ちょくちょく遊びに来るようになって」

 そう説明したあと、隼人はモニターの通話ボタンを押して、流果に話しかける。

「どうぞー。鍵は開いているからー」

 つづいて、電話越しに陽花に言った。

「そういうわけで、ごめん、またかける」

「うん、わかった。お仕事、忙しいみたいだけど、体には気をつけてね」

「ああ、陽花もな」

 電話を切ったあと、隼人は玄関に向かい、流果を出迎える。その足元に、ネコ太郎もやって来た。

「おじゃましまーす」

 流果はまず、ネコ太郎を撫でると、靴を脱いで、部屋へと入った。流果が歩くあとをネコ太郎もついていく。流果が洗面所で手を洗うために立ち止まると、ネコ太郎はその足にまとわりつき、体をこすりつけていた。自分を最初に拾ってくれた命の恩人だと覚えているわけではないのだろうが、流果が来ると、ネコ太郎は必ず、すり寄っていくのだ。

「このあいだは、たこ焼き、ごちそうさま。流果くんのお母さんたち、すごくいいひとだな」

 隼人はそう言いながら、流果のためにクッションを用意した。

「本場のたこ焼きも、体験できたし。大阪って、やっぱ、一家に一台、たこ焼き器があるんだな」

(さき)ちゃんとすみれちゃんも、隼人くんに会えて、喜んでたよ」

 流果は勝手知ったる様子で本棚から漫画を取り出して、クッションに座る。

「えらい年の離れた友達やなって言われたけど、べつにええやんな。子供は子供と友達にならなあかんとか、そんな決まりないと思うし」

「そうか。俺と流果くんは、友達なのか」

 隼人がつぶやくと、流果は不服そうな声をあげた。

「えっ、友達とちゃうん? 隼人くん、僕のこと、友達と思ってないん?」

「いや、そういうわけじゃないんだが、改めて言われると、ちょっと戸惑ったというか……。でも、まあ、友達か。そうだな、友達だよな、うん」

 隼人のなかにも友達とは同年代だというイメージがあったので、小学生の流果との関係をなんと呼べばいいのか、わからないところがあった。

 しかし、本人が友達だと言うのなら、友達でいいのだろう。

 流果が漫画を読むのに集中しているので、隼人もノートパソコンを開いて、ネットを見ることにした。

 ぷっ、と噴き出すような音が、流果のほうから聞こえた。

 漫画を読みながら、流果はまた、ぷぷぷっと噴き出して、足をばたばたさせながら笑っている。

「これ、おもろすぎ」

「どこ?」

 隼人は流果が広げている漫画をのぞきこんだ。

「この話。パパ一号、なんで、こんなことになったん? パパ二号もアホすぎるし、みんな、あかんやん」

 流果が読んでいるのは『ムキムキ家族』という熱血少年ギャグ漫画である。

 隼人が小学生のころに流行っていて、もう連載は終了してしまったが、ギャグは古びておらず、いま流果が読んでも面白いようだ。

「このエピソード、アニメも笑えるんだよな。声とか効果音とか、全部おかしくて、爆笑した」

「えー、アニメ化されてるん? めっちゃ見たい!」

「さすがにDVDは持ってないが、動画配信があれば……」

 言いながら、隼人は検索をしてみた。

「おお、これだ。懐かしいなあ」

 アニメの第一話を見つけて、さっそく再生する。

「そうそう、このオープニングの曲がいいんだよな。作品のネタがうまく使われていて……」

 久々にアニメを見ることになったが、ギャグの切れ味はよく、バトルシーンは熱く、ほろりと感動する展開もありで、隼人は改めて素晴らしい作品だと思った。

 そして、気づく。

 この物語は、新しい家族のかたちを描いていたのだ、と……。

 主人公には、ふたりの父親がいて、パパ一号とパパ二号と呼ばれている。母親の存在はなく、父親ふたりがハチャメチャな生活をしながらも、愛情をもって、ときに厳しく、ときに優しく、主人公を育てているのだ。

 子供のころには深く考えていなかったが、流果と出会い、ふたりの母親を知ったことで、作品における家族の描き方について、理解度が深まった気がした。

「こんなふうに、みんな、受け入れてくれたらいいのに」

 アニメを見ながら、流果がぽつりとつぶやく。

「なんで、現実は、うまくいかへんのやろうな」

 それは授業参観のエピソードだった。

 風変わりな教育方針で育てられた主人公は、学校でいくつもトラブルを引き起こすが、最終的にはクラスメイトたちと打ち解けて、クラスに居場所を得ることができる。

 けれど、現実は……。

 流果の気持ちを想像すると、隼人は胸が痛んだ。



 隼人は会社のパソコンで、仕事の進捗を確認していく。

 新しく依頼したイラストも仕上がり、原稿は続々と集まって、教科書の紙面作りはかなり進んでいた。イラストや原稿は、メールの添付か、ファイル転送サービスで送られてくる。新しいイラストも、メールに添付されて、データで送られていた。

 隼人はイラストをプリントアウトして、()(ぶき)のところへと持って行く。

「こちら、確認していただきたいのですが……」

 雪吹はイラストを受け取ると、視線を向けた。そして、鉛筆を手に取り、いくつか書きこみをしていく。

「これ、いまどき、女性が皿洗いをしていて、男性がソファーでくつろいでいるなんて絵はないでしょう。それに、警察官が男性だけで、女性がいないのも、指摘されるでしょうね。男性は仕事、女性は家庭という性別による固定的な役割分担の意識に、()()(はら)先生は厳しいひとだから」

 雪吹からの指示を受け、隼人はイラストレーターとやりとりをしなければならない。

 一度、提出してもらったのに、修正をお願いするのは、どうも気が引けるのだが、リテイクを出すのも、編集者の仕事なのだ。

()(ぐち)くんは、このイラストを受け取って、自分で気づいたところはありませんでしたか?」

 雪吹に問われ、隼人は答える。

「いちおう、ラフの段階で、気になったところについてはお伝えしておいたので、これで大丈夫だと思ったのですが……」

 教科書を作る上では、無意識の偏見についても考えねばならず、ステレオタイプな描き方は許されない。

 そのことは雪吹から繰り返し伝えられており、隼人は理解しているつもりだった。だが、それでも、いくつか、見落としているところがあった。

 たとえば、幼児の遊びを描いたイラストについて、雪吹は「ままごとに男の子も」と指示を入れた。葉っぱのお皿に花びらを入れて遊んでいるのは女の子ばかりで、男の子たちは棒をふりまわして遊んでおり、隼人はそのイラストに違和感を持たなかったのだが、言われてみると、ステレオタイプな描き方だという気がした。

「明日の編集会議でもいろいろ意見が出ると思うので、それを取りまとめてから、修正案を出して、先方に連絡してください」

「わかりました」

 女子は赤、男子は黒。

 かつて、ランドセルの色はほぼその二種類に分けられていたらしいが、隼人が小学生のころにはかなり多様化が進んでいた。隼人は黒色のランドセルを使っていたものの、売り場には茶色や青色や緑色のランドセルも並んでおり、女子には水色や淡い紫色が人気だった。

 ジェンダー平等は当然のことだと隼人も考えており、雪吹の指摘はもっともだと思う。

 それなら、これも……。

 隼人は手元のイラストに視線を落とした。

 そこには「家族」の絵が描かれている。

 父親、母親、兄、妹。

 四人家族のイラストについて、雪吹はなにも書いていない。修正の指示はなかったのだ。

 だが、これだけを「家族」だとしていいのだろうか。

 流果と母親たちのことを思い浮かべて、隼人は考えずにはいられない。

「あの、家族についてなのですが、夫婦と子供二人のいわゆる標準世帯だけでなく、もっと、いろいろな家族のかたちが載っていてもいいのではないでしょうか」

 思い切って提案してみると、雪吹は無表情で聞き返した。

「いろいろな家族、とは?」

「最近では同性のカップルもめずらしくはないわけで、母親がふたりの家族や父親がふたりの家族もあり得るといいますか……。あと、離婚もめずらしいものではなくなって、シングルの家庭も増えていますし。なのに、標準的な四人家族だけしか描かれておらず、多様性がないと、ステレオタイプな家族観の押しつけになるのではないかと思ったのです」

 隼人が言うと、雪吹はわずかにうなずいた。

「なるほど。その考え方は悪くはありません。いい気づきだと思います」

 そう答えたあと、雪吹はゆっくりと首を横に振る。

「しかし、いま現在、教科書において同性の夫婦を描くことは無理ですね」

「なぜですか」

 納得できず、隼人が問いかけると、雪吹は淡々とした口調で答えた。

「日本国内ではまだ同性婚は認められていませんから。現状、教育の現場でそこまで踏み込むことは難しいでしょう」

「え、でも……」

 法律で認められていないことは、事実だ。

 だが、法律で認められていなければ、家族ではないのだろうか。

 そんなことはないはずだ。

 そう思って、隼人は反論しようとしたが、雪吹のほうが先に言葉をつづけた。

「一九八五年に男女雇用機会均等法が制定され、現在は教科書においても男女共同参画社会にふさわしい表記が求められるようになっています。しかし、同性の婚姻の場合はそれとちがって、いまだ議論がつづいており、法的根拠がありません」

「でも、だからこそ、考えるきっかけになるというか、学びの機会として、取り上げるべきではないでしょうか」

 いつもなら、すぐに諦めて、自分の席へと戻っていただろう。

 何度も提案を却下されるうち、隼人は反論することをやめるようになっていた。雪吹は理解のない上司だ。どうせ、なにを言っても、聞き入れてはくれない。そう思って、余計なことは言わず、必要最低限のやりとりしかしないようになっていたのだ。

 だが、今回に限っては、どうにも諦めきれない。

 自分の意見は雪吹にはねつけられてばかりだが、それでも隼人は口を開く。

「家族のかたちはいろいろだと知ることで、意識も変わっていくと思うのです。まずは教育の現場から意識改革していく、という考え方もできるはずです。ジェンダーについては、どんどん、新しい価値観が取り入れられているのに、家族像がひとつしか提示されていないのは、古いと思います」

 (きり)(ごえ)からアドバイスされたことを思い出す。

 認めてくれるようになるまで、しぶとく粘り強くへこたれず、つづけていれば、道は開ける……。

 それを信じて、立ち向かった。

 しかし、雪吹の反応は芳しくなかった。

 隼人の意見に耳を傾けてはいるものの、心を動かす様子はない。

「家族の個別性については、考慮しています。古い家族観の押しつけにはなっていません。教科書の本文で、私たちひとりひとりがそれぞれちがう存在であるように家族の形態もさまざまで、家庭の機能もすべての家庭においておなじように果たされているわけではない、ということは説明してありますから」

「そうですけど、でも、文章だけだとわかりにくいと思うんです。だいたい、教科書の文章って、持ってまわった言い方というか、癖が強くて、読みづらいですし」

 つい本音を漏らすと、雪吹は眉をひそめた。

 隼人はあわてて、付け加える。

「あ、いや、編集委員の先生方が心血を注いで書いてくださったありがたい文章だとは思っていますが、子供にとっては取っ付きにくいというか、もうちょっと嚙み砕いてほしいというか……」

 教科書の文章は、正確性を期するため、どうしても堅苦しくならざるを得ない。

 だからこそ、イラストや写真を効果的に使うことで、子供の興味を引き、視覚に訴える必要があるのだ。

「わかりやすく、一目で伝えるためには、イラストの持つ力は大きいです。いくら、文字で家族はさまざまだと説明してあっても、ぱっと見で、そこに標準的な四人家族の絵しか描かれていないと、当てはまらない子たちが疎外感を感じることもあるんじゃないかと……」

 教科書に描かれている家族が、父と母と子供のすがたであれば、それが唯一の理想的な家族像だというメッセージを伝えてしまうことになりかねない。

 それに傷つくかもしれない子のことを考えると、隼人は引き下がることができなかった。

「さまざまな家族のかたちが教科書にわかりやすく描かれていることで、多様な子供たちが、もっと、教科書を身近に感じてくれるようになると思うんです」

 切実な思いで、そう訴える。

 だが、雪吹には聞き入れてもらえなかった。

「学習指導要領では、家族とはなにか、定義されていません。家族を構成するひとびとについて、明確に規定されていない以上、こちらで勝手に解釈を広げることはリスクが大きいので、従来どおりのイラストを使うべきでしょう」

 雪吹はそう言うと、話を打ち切って、自分の作業に取りかかった。

 隼人はまたしても、すごすごと自分の席に戻るしかなかった。


 翌日になり、隼人は自分の仕事を終えると、編集会議の準備をした。

 仕出しの弁当の手配をしたり、お茶を淹れたりするのも慣れたものであり、編集委員のなかで特に厳しい宇治原に対しても、以前ほど気後れすることはなかった。

 編集会議がはじまると、隼人は議事録を取ることに集中する。

「この絵、問題があると思いませんか?」

 宇治原がそう言って、一枚のイラストを指さした。

 それは買い物をしているシーンを描いたイラストだった。女性が片方の手では子供の手を握り、もう片方の手ではカートを押しながら、食材を選んでいるのだ。

「スーパーマーケットで買い物をするのは母親だけでなく、父親であってもいいわけでしょう?」

 雪吹が言っていたとおり、宇治原はイラストのステレオタイプを見逃さなかった。

「それに、服装についても、ジェンダーバイアスをなくすため、色の偏りがないようにというお話をしたはずなのに、今回のイラストは、男性は寒色、女性は暖色が多いように思われます。そのような決めつけをなくすため、教育の現場から変えていかなければということは、いつもお伝えしていますよね」

 宇治原の指摘に、雪吹は神妙な顔をしてうなずく。

「申し訳ありません。今回、急遽、イラストレーターが変更となって、配慮が行き届いておらず……。ご指摘の点につきましては、早急に修正していただく手筈となっております」

「この家族団らんのイラストも、修正する必要がありますね。父親と男の子が座って、母親がお茶を運んでいますが、ジェンダーバイアスを感じさせます」

 宇治原はイラストを指し示しながら、話をつづけた。

「ここは両親が座っていて、男の子がお茶を用意するイラストにしてはどうかしら。内容的にも、お茶の淹れ方を学んだあと、子供がそれを家庭で実践しているという流れになりますし」

 すると、話を聞いていた(とみ)()が片手を挙げて、意見を述べた。

「そもそも、家族団らんの場で描かれているのが『両親ふたりと男の子ひとり』でいいのでしょうかね。この点について、もう一度、考えてみようじゃありませんか。このイラストでは、家族団らんの『食卓』が洋風の部屋に置かれたダイニングテーブルとなっています。いまふうの家庭ではありますが、もし、ここで描くのが理想的なモデルとしての『家族団らん』であれば、昔ながらの茶の間で祖父母といっしょに円卓を囲んでいるという図でも構わないわけです。むしろ、そのような大家族のイメージこそ、現代の子供たちに伝えていくべきかもしれません」

 富野の意見に、宇治原は大きな声を出す。

「いやいや、それはいくらなんでも前時代的でしょう」

 宇治原は眉をひそめるが、富野は主張をつづけた。

「たしかに、大家族は少なくなり、茶の間の団らんも失われつつあります。前時代的と言えば前時代的なイメージではありますが、だからこそ、伝えていきたいではないですか。いくら少子化とはいえ、核家族しか描かれていないのではイメージの貧困につながりませんかね。多様な家族を描くことが、いまの時代には求められているとも言えるでしょう」

 多様な家族。

 それを聞いて、思わず、隼人は口を開いた。

「富野先生のご意見、素晴らしいと思います」

 勝手に発言をしたので、雪吹がぎょっとしたような表情を浮かべた。

 にらまれて無言の圧力をかけられていることはわかっていたが、隼人は気づかないふりをして、言葉をつづけた。

「富野先生がおっしゃるように、家族のイメージが限定されてしまうのは、よろしくありません」

 隼人は言いながら、宇治原のほうに目を向ける。

「教育の現場から意識を変えていくためにも、新しい家庭科の教科書で、さまざまな家族を紹介することは、実に意義のあることだと思います」

 いつも厳しいひとだけど……。

 宇治原はなんにでも文句をつけて、反対するというわけではない。

 正当な主張であれば、きっと、耳を傾けてくれるはずだ。

 そう信じて、隼人は訴えかけた。

「たとえば、シングル家庭であったり、祖父母と同居していたり、母親がふたりであったり、父親がふたりであったり、そういう多様な家族像を伝えることで、子供たちの学びは広がるのではないでしょうか」

 隼人は一気に言って、反応を待つ。

 まず、口を開いたのは、宇治原だった。

「いいこと言うじゃないの!」

 宇治原の声には好意的な響きがあった。

「封建的な大家族だけでなく、多様な家族像にはひとり親や同性カップルも含まれると考えると、これはなかなか意欲的な教科書になりそうね」

 宇治原につづいて、富野もうなずく。

「そうですね。いいじゃないですか、瀬口くん。まさに、新しい風だ。若いひとが入ってくれると、議論が活性化していいですね。ぜひ、多様な家族像を子供たちに伝える教科書を作りましょう」

 隼人の提案は、編集会議では却下されることなく、すんなりと受け入れられた。

 ほかの編集委員たちも、賛同してくれたようで、つぎつぎに意見を述べていく。

「このテーマは深く扱いたいので、家族団らんのイラストに限らず、いろいろな家族のすがたとして、個別にページを作ってもいいですね」

「家族の多様性については、先進国の例を出すのが、やはり、一番ではないかと」

「海外では同性カップルの子育てを描いた絵本なども出版されているので、そういう作品を紹介するコーナーを作るという手もあるかもしれません」

「そのアイディア、いいですね」

「家族といえば、ペットも大事な家族です」

「それなら、家族のイラストには、犬も入れたいところですね」

「当然、猫も家族です」

「そういえば、最近の子供たちは『家族ごっこ』をして遊ぶとき、お母さん役もお父さん役も人気がなくて、みんな、ペットの役をやりたがるそうですよ」

「従来的な母親像や父親像に当てはめられることに忌避感があるのでしょうねえ」

 編集会議は大いに盛りあがり、隼人は自分の意見を聞き入れてもらえたことで、高揚感を得ていた。

 雪吹だけがひとり、冷めた目をしていることに、隼人は気づいていなかった。


 編集会議で自分の意見が通ったことで、隼人はすっかり仕事のモチベーションを取り戻した。

 言われたことをするのと、自分の思いをこめた仕事をするのとでは、集中力もまったくちがってくる。

 家族についてのページは、編集会議で出たアイディアをもとに、いろいろな家族を描いた作品を紹介するという方向で、作り直してみた。

 海外の絵本や児童文学だけでなく、さりげなく『ムキムキ家族』の漫画の一コマも入れることにした。

 実際に画像を使わせてもらうことになれば許可を取らなければならないが、まだ企画段階なので、コピーしたものを切り貼りして、試作ページを仕上げていく。

 試作ページができあがると、隼人は顔をあげ、現実と向き合うことになった。

 このあと、雪吹に声をかけて、試作ページの確認をしてもらわなければならないのだ。

 雪吹とのあいだには決定的な亀裂が入っているであろう。

 スタンドプレーは嫌われる。

 それがわかっているからこそ、不興を買ったことは自覚していた。

「いま、お時間よろしいでしょうか」

 いつまでも躊躇していても仕方ないので、隼人はまず謝ることにした。

「先日の編集会議では勝手なことをして申し訳ありませんでした」

 雪吹は特に反応を見せず、隼人の言動についても責めることはなかった。

 試作ページを見せても、否定的な意見は返ってこない。

 雪吹がなにも言わないので、隼人は不安を抱えたまま、編集会議での意見をどのように取り入れ、ページ構成をどう変更することになったのか、説明していく。

「わかりました。では、これで進めてみてください」

 そんな言葉が雪吹の口から出たので、隼人は思わず、顔をあげた。

「えっ、本当に、いいんですか?」

 はじめて、自分の企画が通ったのだ。

 隼人がしみじみ喜びに浸っていると、雪吹は淡々とした口調で言った。

「編集会議でそうなった以上、そのような方向性で作ることに反対はしません。ただ、どちらにせよ、内容は検定で修正することになるでしょうから、余計な手間が増えただけだと思いますが」

 公立校で教科書が使われるようになるまでには、大きな関門がふたつある。

 文部科学省の「検定」と自治体の「採択」だ。

 教科書はできあがったあと、検定の申請をして、教科書調査官などによる調査を受け、審議会が行われることになる。そして、文部科学大臣の検定を経て、ようやく、発行できるようになるのだ。

 隼人はまだ、検定の申請を経験していないので、そこでどのようなことが行われるのか、いまいち、よくわかっていなかった。

「それって、つまり、どうせ、新しいことをやっても、検定に通らないから無駄ってことですか?」

 隼人が言うと、雪吹は静かな声で答えた。

「以前にも、家族の多様化を描いた高校の家庭科教科書があって、それは検定不合格となったと聞きました。だから、勝手に解釈を広げることはリスクが大きい、と伝えたわけです」

 それを聞いて、隼人は驚き、目を見開く。

「もちろん、検定意見に従い、内容を修正して、再審査を受けることはできますが、作業が増えることを考えると、欠陥箇所が多いのは望ましいことではありません」

 雪吹の言うように、修正をすることになれば二度手間であり、最初からなにも言われないようにしておくほうが賢明なのかもしれない。

「でも、検定で、修正になるかどうかは、やってみないとわからないですよね」

 雪吹は思案するように、少し黙ったあと、隼人のほうを見た。

「そうですね。ただ、私の経験上、熱意のあるひとほど、燃え尽きやすいです」

 隼人に目を向けながらも、雪吹はべつのだれかを見ているようだった。

「やってみて、通らない。頑張ったことが、無駄になる。その繰り返しで、心が折れてしまうくらいなら、最初から過度な思い入れを持たず、淡々とこなしていくほうが、結果的に長くつづけられることもあります」

 もしかして……。

 心配してくれているのだろうか。

 雪吹の言葉は、怒っているというより、案じているようなニュアンスに思えたのだ。

 隼人はそこに込められた思いを読み取ろうとするが、雪吹は表情を変えることなく話す。

「教科書作りで、自分のやりたいようにできることなんて、ほとんどないと思ってください。あちらに気を遣い、こちらに配慮して、修正、修正、また修正で……。そういう仕事だとわかった上で、チャレンジしたいというのでしたら、やってみてもいいとは思います」

 雪吹の本音はわかりづらいが、その言葉は自分を応援してくれているのだと隼人は受け取ることにした。

 へこたれず、粘りつづけたことで、ついに認めてもらえたのかもしれない。

「ありがとうございます。やれるだけのことをやってみます」

 まだ、この先に検定が待っている。

 だが、企画が通っただけでも、一歩前進だ。

 隼人は仕事に手応えを感じて、意気揚々と自分の席に戻った。


 数日後。

 霧越たちの飲み会に誘われ、隼人はまた高架下の居酒屋で、どて焼きと生ビールを味わうことになった。

 例によって、(あい)(はら)にネコ太郎の写真を見せてほしいと迫られ、隼人はスマホを渡す。

「いいなあ……。家に帰ったら、こんな可愛い子が待ってくれているなんて、いいなあ……」

 藍原はつぶやきながら、ネコ太郎の写真を眺めている。

「うちも、家に帰ったら、こんな可愛い子が待ってくれているよ」

 霧越がそう言って、自分のスマホの画面を見せてきた。

 そこには、つぶらな瞳をした黒い子犬が写っていた。

「わあ、可愛い! 豆柴ですか?」

 モナが声を弾ませて、スマホを見つめる。

「そう、新しい家族。うちの娘が、どうしても犬がほしいって言って。娘はすっかり反抗期になっちゃっているんだけど、子犬のおかげで、家族の会話も増えて、助かったよ」

「やっぱり、ペットも家族なんですね」

 編集会議での意見を思い出して、隼人は納得したように言う。

「ちょうど、家庭科の教科書で、さまざまな家族のあり方を取りあげようという話になって……。それで、家族の多様性を紹介するページの企画を出したら、はじめて、雪吹さんに認めてもらえました」

 隼人が話すと、霧越はうれしそうな表情を浮かべた。

「おお、それはよかった。おめでとう。さあ、飲もう、飲もう」

 ビールのジョッキを掲げ、霧越と隼人は乾杯を行う。

 サラダが運ばれてきたので、各自、それぞれの皿に取り、話をつづけた。

「ありがとうございます。霧越さんにアドバイスいただいたように、へこたれず、粘ってみました」

 隼人は明るい口調でそう伝えたあと、声を沈ませる。

「でも、以前に、家族の多様化を描いた教科書があって、それは検定で不合格になったらしいという話を雪吹さんに聞いて……。そういうこともあるんですか?」

 霧越も少し表情を曇らせて、首を傾げた。

「うーん、それだけが理由で、不合格というのはないんじゃないかな。たとえ欠陥箇所があったとしても、たいていは修正して、再審査を受けるはずだ」

「それなら、どうして……」

 もし、検定で不合格ということになれば、教科書を発行できないことになり、会社にとっては一大事だ。

「因果関係が逆なのかもしれないな。不合格になった教科書があって、なぜなのだろうということで、それが原因じゃないかと噂されている、とか」

「なるほど。不合格になっても、理由はよくわからないものなんですか?」

「うちでは不合格を出したことがないから、くわしいところはわからないが、()(びゅう)の検定意見があまりにも多くて、修正が間に合わないと判断されて、不合格になったという話は聞くね」

 霧越の話を聞いて、隼人はなんとなく雪吹がおそれていることがわかってきた。

「だから、雪吹さんはリスクを取らないことを第一に考えるんですよね。修正が必要になりそうなところは、少しでも減らしておきたい、と……」

 その会話に、モナも加わった。

「イラストレーターさんの件も、そういうことだよね」

 モナはビールを飲み、隼人のほうを見る。

「聞いたよ、ムーン9さんのこと」

 モナに言われて、隼人は驚く。

 隼人はほかの教科の情報など把握していないのに、こちらの出来事はすっかり知られているようだ。

「売れっ子さんに依頼すると、締め切りを守ってくれないだけじゃなく、バックレもあるんだねー、怖い怖い」

 モナがわざとらしく震えてみせると、霧越は苦笑を浮かべた。

「今回みたいなのはレアケースだと思うよ。たいていの場合、たとえ締め切りに遅れたとしても、最終的には間に合わせてくれるものだし」

 霧越はそう言ったあと、軽く肩をすくめる。

「ただ、ムーンさんはすっかりブレイクしちゃって、うちで描いていただくにはビッグになりすぎたのもあって、信じきれなかったのかも。雪吹さんとしても苦渋の決断だったんじゃないかな」

 霧越の言わんとすることは、隼人にはわかりそうで、いまいち、わからなかった。

「締め切りを破られたあと、それでも信じて、待つっていうことがあるんですか?」

 隼人が問いかけると、霧越はうなずいた。

「多少はね。そもそも、前倒しでスケジュールを組んで、先方にはオーバーしても構わない締め切りを伝えているし。このあたりは暗黙の了解というか。不測の事態も考えて、余裕は持たせておかないと」

 もしかしたら、もう少し待てば、イラストは仕上がったのかもしれない。

 しかし、雪吹はすぐに代わりのイラストレーターを立てることを決めたのだった。

「デッドラインでなくても、雪吹さんが早めに手を打ったのは、なんらかの不穏な感じを受け取っていたのではないかという気がするね」

「不穏な感じ、とは?」

 隼人は首を傾げて、聞き返す。

「好事魔多し。仕事がうまくいって、忙しくなるほど、崩れるときには一気に崩れてしまったりするものだから」

 霧越はそう言って、ビールを一口飲む。

「ありますね、そういうこと」

 モナがうなずき、言葉をつづけた。

「ブレイクして、お金がいっぱい入ってくると、仕事のモチベーションも低下してしまうんでしょうね」

「まあ、理由はそれだけではないんだろうけど。長い人生、少し休む時期があってもいいんじゃないかな」

 霧越はまたビールを飲むと、どこか遠い目をした。

 休む時期、という言葉に、隼人は流果のことを思い浮かべる。

 いま、流果は学校を休んでいるが……。

「また、復活するんでしょうか?」

 隼人のつぶやきに、霧越が答える。

「そればかりは本人次第だろうね」

 すると、藍原が顔をあげ、隼人にスマホを差し出してきた。

「瀬口さん、猫ちゃんの写真、ありがとうございました」

 深々と頭をさげて、礼を言ったあと、藍原は気まずそうな顔になる。

「そして、申し訳ありません。見るつもりはなかったのですが、通知がポップアップされて、視界に入ってしまいました」

 隼人は気恥ずかしさを感じながら、スマホを受け取った。

 たぶん、陽花からのメッセージだろう。

 そう思いつつ、画面を見てみると、そこには「メッセージの送信を取り消しました」と表示されていた。

「彼女? 遠距離恋愛も大変だね」

 からかうような口調で、モナが言う。

 隼人は首をひねりつつ、もう一度、アプリを確認してみた。

「いや、でも、いま見たら、すでに取り消されていたみたいで……」

 モナはそれを聞くと、はっとした。

「あ、ごめん」

 深刻な声で言われて、隼人は怪訝な顔をする。

「え、なんで、謝るんですか」

 モナは答えず、目をそらした。

 そこに、藍原がおずおずと口を開く。

「さっきのメッセージですが、読むつもりはなかったものの、視界に入ったので、内容は覚えています」

 モナはなにか言いたげに、藍原に向かって両手をばたばたさせると、首を横に振った。

「なんなんですか、モナさん、さっきから……」

 モナの様子を気にしつつも、隼人は藍原のほうを向く。

「藍原さん、メッセージにはなんと書いて……」

 隼人が訊ねようとすると、モナがさえぎった。

「待って待って! それ、ほんとに、聞いちゃう? 聞いていいの?」

 藍原はどうすればいいのかという表情で、隼人とモナの顔を交互に見ている。

「やめておいたほうがいいと思うけどなー」

 モナは渋い顔をして、首を左右に振った。

「相手が送信を取り消したってことは、読まれたくないと思ったってことでしょう? それって、絶対、知らないほうがいいことだと思うんだけど」

「でも、気になるじゃないですか」

 隼人はそう言って、藍原のほうを見た。

「私もたまたま読んでしまったものの、これをお伝えしていいものだろうかという気はするのですが……」

 藍原は困惑した表情を浮かべ、ためらっている。

「そんなふうに言われると、ますます気になりますよ。メッセージ、なんて書いてあったんですか? 教えてください」

 隼人が詰め寄ると、藍原は観念したようにうなずいた。

「わかりました」

 軽く目を閉じて、藍原は暗誦する。

「どうしよう、(よこ)(づか)さんに告白されちゃった」

 え? ええ? えええ?

 意味がわからず、隼人の頭のなかは疑問符でいっぱいになった。

 藍原はゆっくりと目を開け、申し訳なさそうな顔をして、隼人のほうを見る。

「私が思いますに、このメッセージは彼女さんが誤送信してしまったのではないかと……」

 それを聞き、霧越がうなずく。

「ああ、いわゆる誤爆ってやつだね」

 霧越は得心したように言ったが、隼人はまだ状況がつかめず、ぼんやりと宙を見つめていた。

 横塚って、だれだ?

 一体、どういうことなんだ……。

「瀬口くんの反応を見た感じだと、この横塚なる人物に心当たりはないのかな?」

 霧越にそう問われて、隼人は首を傾げる。

「まったく、心当たりが……」

「なるほど。それなら、やはり、誤送信の可能性が高そうだ」

 霧越につづいて、藍原が口を開く。

「おそらく、彼女さんは友達に送るつもりの相談のメッセージをまちがえて、彼氏に送ってしまい、それに気づいて、あわてて取り消した、というところではないでしょうか」

 藍原の推測を聞いて、隼人はようやく、自分の置かれている状況を理解した。

「えっと、つまり、これって、だれか、彼女にちょっかいをかけている男がいる、ってことですかね……?」

 動揺しまくっている隼人に、モナは気の毒そうなまなざしを向けた。

「だから言ったのに。瀬口くん、薄々、なんか気づいてなかったの?」

 陽花と電話で話をしていたときには、そんな気配などまったくうかがえなかった。

 本人に問いただしたほうがいいのだろうか。

 だが、なんと言えばいいのか……。

 思いがけない展開に、隼人はただただ困惑するしかなかった。


  ☆☆☆

 


 横塚(ただ)(ゆき)は、彼女に振られたばかりであった。

 交際して三年目になる彼女に海外赴任の話が持ちあがり、行ってしまったら当分のあいだは帰国できないと言われ、横塚はそろそろ年貢の納め時かと思い、夜景の美しいレストランで、指輪を見せて、告げたのだ。結婚しよう、仕事を辞めて支えてほしい、と。だが、あっさりと断られた。

 感激して涙を流すと思っていた彼女の反応は冷ややかなもので、どうして自分が仕事を辞めなければならないのかと責められた。せっかく覚悟を決めてプロポーズをしたのに受け入れられないなんて、横塚には信じられなかった。一流企業に勤務しており、高収入で高学歴で高身長とハイスペックであることは自覚していた。だから、結婚できるとなれば喜ぶとばかり思っていたのだ。

 別れるつもりなど毛頭なかった。それなのに、気持ちのすれちがいから、言い争いがヒートアップして、横塚は「俺よりも仕事を取ると言うのか」と口走ることになり、彼女は「そうよ」と答えて、ふたりの関係には終止符が打たれたのだった。

 その数か月後、(しら)(いし)陽花と出会った。

 出向先の新入社員で、はにかんだような笑顔が可愛くて、周囲からの評判もよかった。いまどきの女の子にしてはめずらしく、控えめで、よく気が利く。

 会社でお茶を淹れてもらったり、飲み会でサラダを取り分けてもらったりして、ますます好感を持った。

 積極的に話しかけるようにして、距離を詰め、連絡先も手に入れた。

 出向の期間が終わり、送別会が行われ、ふたりで駅までの道を歩くことになり、横塚はこれが最後のチャンスとばかりに、陽花に思いを伝えることにした。

 結婚を前提につきあってくれないか。

 陽花は困ったような表情を浮かべて、返事を保留したのであった。

藤野恵美(ふじの・めぐみ)
1978年大阪府生まれ。2003年、『ねこまた妖怪伝』で第2回ジュニア冒険小説大賞を受賞し、翌年デビュー。著書に、13年、啓文堂大賞(文庫部門)を受賞した『ハルさん』のほか、『初恋料理教室』『わたしの恋人』『ぼくの嘘』『ふたりの文化祭』『ショコラティエ』『淀川八景』『しあわせなハリネズミ』『涙をなくした君に』『きみの傷跡』などがある。

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