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将来の犬(著/石田祥)

 まつしまはコンビニから戻ると、社内の休憩スペースで弁当を食べているつきやままさの前に座った。雅美は同じ総務課の先輩だ。佐奈が買ってきた昼食を見て、箸を止める。
「松嶋ちゃん、またデザート買ってる。ダイエットするって言ってたのに」
「それが、八百円以上買うと、ペットボトルが一本おまけで付いてくるんですよ。でもお弁当だけじゃ微妙に足りなくて」
「コンビニの策略に負けてるねえ」
「ほんと、それです」
 コンビニへ行くと余分な物まで買ってしまう。会計待ちの間、目についた季節限定のグミも追加してしまった。
「ついつい、無駄遣いしちゃうんですよね。全然お金が貯まらない」
 家具メーカーに入社してから五年。佐奈がこの会社を志望したきっかけは、シンプルだがアンティーク調を模したオリジナルブランドに引かれたからだ。いつかは椅子や机、食器棚など、すべての家具をそのブランドに揃えた自分好みの部屋で暮らしてみたい。
 そんな憧れを持ちながら、二十八歳になって実家からそう遠くないマンションで一人暮らしを始めたのだが、家電や引っ越し代に貯金の大半は消えて、買えたのは天然木の小さなスツールとラックだけだ。それだってとても高かった。
 次にお金が貯まったらチェストを買おうと、当初は頑張って弁当を作り、夜も自炊していた。けれど今は面倒臭さが勝って、惣菜を買うか、外食で済ませることが多い。
「まあ若い時はそんなもんよ。そのうち貯まるって。それに貯まらなくても平気よ。私も結婚した時、ほぼ貯金なかったし」
 雅美は十五歳ほど年上で、二人の子供を持つ兼業主婦だ。早起きして作るという弁当はいつも彩りがよく、水筒も持参している。
 休憩スペースでは他の部署の人も食事中だが、大抵が黙ってスマホを見ているだけだ。気さくでお喋り好きな雅美が一緒だと、他愛ない会話が弾む。
「築山さんって、結婚前は一人暮らししてたんですか?」
「ううん、実家よ。家のことは全部親にしてもらってたから、なんにもできなかったわよ」
 実家で暮らしていて、ほぼ貯金がないとは、いったい何に使っていたんだろう。そう思ったが、一回り以上年上の先輩に聞くことでもないかとやめておいた。
「そういえば松嶋ちゃん。お母さんの実家の片付け、終わった?」雅美が言った。
 週末に行った田舎のことだ。母方の祖父母が三年前に亡くなったあと、誰も住まなくなった家をそろそろ整理しようということになったのだ。
「なんとか。両親と兄夫婦と私で丸一日かかりました。懐かしい物がいっぱい出てきちゃって、みんなで話し込んでる時間のほうが長かったかも。写真とか、祖母がよく着けてたペンダントとか、母の子供の頃の通知簿なんかも出てきちゃって」
「ああ、わかる。思い出の品を見ると話が尽きないよね。写真も、捨てられなくて持ち帰っちゃうのよね。そんで、結局困るの」
「そうなんですよね」
 佐奈は共感して笑った。だがそのあと、ふと思った。
「もしかしたら、思い出話に浸り過ぎたせいかな。私、ここ最近、変な夢見るんですよね」
「え、何? 怖いやつ?」
「それが」と、コンビニ弁当を食べながら、頭の中で霞むイメージをなんとか表現する。
「すごく毛の長い何かに、ギューッて力いっぱい抱き着いてるんです」
 夢は、客観的でありながら、主観的でもあった。自分が主人公なのに、映像を観ている感じだ。
「へえ。なんだか気持ちよさそうだね」
「そうなんです。すごく気持ちよくて、顔の半分がバフッて埋もれちゃうくらいの柔らかさなんです。感触もリアルで、本当に何かを抱き締めている感じ。何に抱き着いてるのかわからないんですけど、めちゃくちゃ大きくて、たぶん、夢の中の私は子供なんですよね。小さい頃の私が、両手を伸ばして、そのフワフワにしがみついてる。フッカフカで温かくて、幸せな夢」
「それ、羨ましすぎるんだけど」雅美は切なそうだ。「私も何かを抱き締めたい。うちの子たち、もう中学生だからそういうのさせてくれないし」
「旦那さんにバフッてしてみては?」
「確かに毛深いけど、オッサンだよ? 無理無理」
 雅美はため息をついている。佐奈は弁当を食べ終わり、次はデザートだ。ピンクのクリームを絞り出した苺モンブランの誘惑に勝てなかった。最近、本当に無駄遣いが多い。贅沢はしていないが、節約もしていない。チェストが買えるのはいつになるだろう。
「なんだろうなあ、あのフワフワ」
 夢なんて、普段なら気にならない。目が覚めれば自然と忘れている。でもこの数日、同じ夢を見るのだ。起きたあとは、感覚の生々しさにしばらくぼうっとするほどだ。
 白っぽい、フワフワの長い毛。埋もれるほどの深さ。
 羽毛布団、毛皮のコート、抱き枕。毛皮のコートは触ったこともないので、これは除外だ。羽毛布団と抱き枕は近いが、フワフワの長い毛ではない。
「なんだろうなあ」と、モヤモヤする。せっかく買った苺モンブランは、満腹になって食べられなくなった。

 用事で実家へ寄り、なんとはなしに母親に夢の話をした。すると母親があっさりと言った。
「佐奈、それ、コリー犬だわよ」
「……コリー犬?」
 佐奈はピンとこない。
「ほら。これでしょ」
 母親は田舎から持ち帰った段ボール箱の中から写真の束を出すと、何枚かめくって、一枚を見せてきた。
 どこかの家の前で、五人の子供が並んでいる写真だ。わかるのは子供の頃の兄と、その隣にいる自分だけ。兄は小学校低学年、自分は三歳くらいだろうか。
「これ、どこの家?」
なかさんって覚えてないか。おじいちゃんのご近所の人。あんたらよりちょっと上の子らがいて、よく遊びに行ったじゃない。この写真のあとに引っ越しちゃったから、今はどうしてるのか知らないけどね。中井さんちが大きなコリーを飼ってて、あんた、よく遊んでもらったじゃない。覚えてないの? ほら、昔テレビでやってた『名犬ラッシー』のコリーよ」
 幼い佐奈の隣に、ぴったりと犬が寄り添っている。
 大きい。犬は姿勢よく座り、まっすぐ前を向いている。立っている佐奈の頭とあまり差がなく、写真でもわかるほど毛量が多い。
「フッカフカ……」
「そうよ、フワフワでね。可愛かったわね。あんた、その犬のこと大好きで、おじいちゃんちに行くたびに、中井さんとこへ連れてけってうるさかったのよ。賢い犬でね、子供に抱き着かれても嫌がりもしないで、いつもじっとしてて。なんて名前だったかしらね。コリーの……」
「キング?」
 唐突に、あの夢の手触りが現実とシンクロした。手触り、頰触り。抱き着いた時の深みと、生き物特有の匂い。
「ああ、そうそう。キングよ。覚えてるじゃない。あんた、まだ小さかったから、遠慮なくギュッて胸元を摑んだりしちゃってさ。中井さんは大丈夫だって言うけど、大型犬でしょ。最初はヒヤヒヤしたのよ。でもこの犬、本当に賢くて」
 母親は微笑んで写真を見ている。まだ子供だった頃の息子と娘、自分の生家の近所風景。そして、大きな犬。
 すべてが懐かしいのだろう。
 だが佐奈に懐かしさはない。毎晩の夢に出てくるあれは、犬だった。視界いっぱいの白くて細い毛。タンポポの綿毛が草原になったような柔らかさは、幼い自分の実経験だったのだ。

「コリー?」
「ラフコリーです」
 佐奈はすぐに訂正した。コリーにはボーダーコリー、スムースコリーなど数犬種あり、佐奈の話に登場したのは、母が言っていた『名犬ラッシー』と同じ犬種のラフコリーだ。
 いつものようにコンビニで昼食を買ったあと、先に昼休憩していた雅美に話しかけた。夢の正体は、幼い頃に好きだった犬で、荷物整理をきっかけに記憶が蘇ったらしい。
 佐奈がスマホでラフコリーの画像を見せると、雅美は笑顔になった。
「ああ、この犬ね。なんか大型犬って久々に見たかも。最近、大きな犬飼ってる人、珍しいもんね」
 画像の犬は思い出のキングではないが、フワフワだ。
 コリーは毛足が長い。長いといっても人のロングヘアのようにまっすぐではなく、一定の流れで渦巻くように、全身を細い毛で覆われている。特に首回りから胸にかけては毛量がすごい。膨れて盛り上がり、成人式にレンタルした着物用のショールを自前で携えているようだ。ショールよりも豪華で、繊細で、美しい。
 胸元は真っ白で、他は琥珀色と黒が混じっている。顔は小さく、豊かな毛の中に輪郭が埋もれている。鼻先が細長く突き出し、小さな耳は先が折れている。
そして少し垂れた黒目だ。
「ゴージャスな犬ねえ。へえ、松嶋ちゃんが抱き着いてたのって、この犬なんだ」
「そうなんです。子供の頃に、このフッカフカの襟巻にバフッとして、ギューッてしてたみたい」
「それはたまんないわね。想像しただけで」雅美は箸を持ったまま、目を閉じた。「たまらんわ。やってみたい」
「そう……。やってみたいですよね。あの感じ」
 佐奈も目を閉じて、夢を再現する。両手でコリーの質量を作り出し、空気を抱き締めた。
 そこに、いる。
 そこに、ある。
 柔らかい毛。長くて細くて、温かい。
 キングのことを思い出してから、コリーについて調べた。体の高さは五、六十センチ。大人の腰より下くらい。とんでもなく大きいほどではないが、ペットとしては大型の部類だ。重さは三十キロ前後。佐奈が抱き上げられるギリギリだろうか。
 目を閉じながら、手でコリーを描く。大きさはこんなものだろうか。フワフワなので、実際の体軀は引き締まっているかもしれない。もっと強く抱き締めたら、意外と小さいかも。腕にすっぽり入るだろうか。でもあの襟巻が溢れ出しそうだ。逃げる襟巻をかき集めて、集めて、集めて――。
「松嶋ちゃん?」
 呼びかけられて、ハッとした。自分の手のひらを見るが、そこにコリーはいない。
「大丈夫? なんかを捏ね回していたけど」
 雅美は怪訝そうだ。どうやら無意識に、妙な手の動きをしていたらしい。
「エアコリーをしていました」
「何それ」
「エアラフコリーです。私のコリー。こんな感じの、こんな感じで」
 想像力を駆使して、手で空間を作り上げる。雅美は更に怪訝そうだ。
「え、ちょっと怖いんだけど。松嶋ちゃん、犬飼ったことあるんだっけ?」
「ないです」
 飼ったことはない。それどころか、大人になってからはさわった覚えもない。触れたのは夢の中だけだ。大好きだったキングも恐らく空に旅立ち、もう会う機会はないだろう。現実でコリーに触れることはできないのだ。
 そう思うと切なくて、胸が苦しい。癖のように買ったデザートは、また食べられなくなった。

 それから、コリーへの興味は日々の一部となった。今日の休憩でもコンビニで買った昼食を摂りながら、雅美に熱く語る。
「大型犬って、最低でも毎日二回、一時間は散歩したほうがいいんですって」
 どこかの誰かが飼っているコリーの動画を見ながら、佐奈は言った。コリーの飼育頭数は少ない。昨今の家庭事情により、大きな犬を飼う人は減っている。
「一時間を二回か。雨の日も雪の日も、でしょう? なかなかハードね。犬を飼う時にネックになるのって、それが一番かもね」
「確かに。毎日か……」
 佐奈は深くため息をついた。動画を上げているのは、何頭も大型犬を飼っている外国人だ。犬たちが草原ではしゃいでいる。
「でも、綺麗ですよね。見てくださいよ、この波打つ毛。目なんか、優しさで垂れちゃってるし」
「ブッ」と、いきなり背後から声がした。
 驚いて振り返ると、後ろのテーブルに男性の背中がある。向こうも振り返った。同期で企画課のながつまだ。
「え、長妻君。今、噴き出した?」
「優しさで垂れちゃってるって、何だよ」
 長妻はそう言うと、また背中を向けて笑い出した。佐奈はぽかんとしたあと、恥ずかしさで顔を赤らめた。
「だ、だって見てよ。この子の黒い瞳! 優しさが溢れ出してる」
 佐奈は立ち上がると、長妻の前にスマホを突き付けた。誰かのコリーが大きく映っている。
「ほら! 飼い主への愛で目が笑ってる。コリーってすごく性格がいい犬なんだからね。顔に出てるでしょう」
「そんな力説しなくても、知ってる。俺、子供の頃に犬飼ってたから、結構詳しいんだ」
「えっ、コリー?」
「コリーではないけど」
 長妻は自分のスマホを見せてきた。画面に映っているのは、中学生くらいの少年と犬だ。大型犬で、おでこから鼻までが真っ白の毛で八割れになっている。丸い眉と頰に小さな赤茶。カールした全身の黒い毛は艶々だ。
「俺のはバーニーズ。バーニーズ・マウンテン・ドッグって知ってる?」
 ものすごく美しい犬だ。色味はコリーに近いが、配色が明瞭で、姿形はまるで違う。顎回りはゆったりしていて、白目が見えるつぶらな瞳だ。
「綺麗な犬だね」
 無意識に、声に憧れが混じった。長妻は嬉しそうに笑う。
「だろ? バーニーズって温和で、人懐こくて、賢い犬なんだよ。大型だから飼いやすいってわけじゃないけど、一度飼うと忘れられない犬なんだよな」
 長妻は自分のスマホを見て微笑んでいる。
 同期だが、彼とは必要以上に喋ったことはない。仕事はできると社内で聞いたことがある。キビキビしていて、とっつきにくい印象だ。
「俺、いつかまた、バーニーズを飼うって決めてる」
 きっぱりと言い切った長妻に、佐奈は動揺した。胸のあたりがざわつく。
「そ、そうなんだ。大型犬、飼うんだ。へえ。ふうん。でも、大変だよ。散歩とかいっぱいいるし」
「知ってるって」と、長妻はからかうように言った。「マジで、世話にかかる時間は半端ないよ。フッカフカの毛並み保つために、風呂もリアルに大変だし。バフッとか、ギューッとか、楽しいとこだけ夢見てるようだけどね」
 以前話していた擬音語が出てきて、佐奈は頰を熱くした。
「なんでそれ知ってんの」
「松嶋さん、こないだからその話ばっかりしてるから」
 長妻は口元に笑みを浮かべると、休憩スペースから出て行った。佐奈はしばらく呆然としたあと、雅美に言った。
「今、私、長妻君に喧嘩売られました?」
「さあ。どうだろ」雅美は苦笑いしている。
「絶対に喧嘩売ってましたよね。どういう立ち位置でしょうか。大型犬飼ったことあるマウント? いつか飼うって決めてるマウント?」
「たぶんだけど、実際飼ったことがある立場として、軽く忠告したんじゃないかな。ほら、理想が高すぎると、ガッカリすることもあるでしょ」
「理想……」
 佐奈の頭の中にいるコリーは、理想ですらない。幼い頃の記憶が、夢に現れただけだ。大型犬を飼ったことがある長妻のリアルに対抗しようとは思わない。
 だが、羨ましい。
 急に、未来を見据えた彼に嫉妬した。長妻はバーニーズを飼うと決めている。そんなこと考えつかなかった。
「私も決めた」
「え?」
「私も、犬を飼います。決めました。絶対にコリーを飼います」
 そう言うと、残ったコンビニ飯を綺麗に平らげた。

 犬を飼うと決めてから、数日後だ。「あれ」と、先に昼休憩に来ていた佐奈を見て、長妻が言った。「珍しい。コンビニじゃないんだ」
 佐奈は気恥ずかしくなって、作ってきた弁当を手で隠した。今日は雅美が休みなので一人だ。
「別にいいでしょ」
「いいよ、別に。でもマイボトルまで持ってきてるし。何? 金欠?」
 長妻のほうは、コンビニのレジ袋を提げている。佐奈はちょっと得意になった。
「違うよ。節約してるの。お金貯めるんだ、私」
「へえ、偉いじゃん」長妻は後ろの席に座った。背を向けたまま喋り続ける。「何? 海外旅行でもすんの?」
「ううん。私も犬飼うから」
 視界の端っこで長妻が振り返った。驚いたらしい。佐奈は更に得意になった。
「コリーは長毛だから、月一くらいでトリミングがいるの。病院代も高いから、保険にも入らなきゃ。色々お金がかかるから、今から貯金しておくんだ」
 これは理想ではない。コリーを飼うための現実的な計画だ。
 まずはコンビニで物を買うのを控えた。外食よりも自炊にして、無駄遣いを減らす。地道だが、できるところから始めている。
「何、それ」
 長妻の声が低い。佐奈が首をひねると、彼はこっちに体を向けている。表情が険阻だ。
「俺がバーニーズ飼うって言ったから、真似してんの?」
 長妻の表情の硬さに、一瞬佐奈はひるんだ。だがすぐに睨み返した。
「違うよ。私が飼うのはラフコリー。私、ちっさい頃からコリーに憧れてたの。大人になった今だから、真剣に考えることにしたんだ」
「いや。真剣って言うけど……。松嶋さんって実家?」
「ううん。ワンルームマンションで一人暮らし」
「大型犬だよ? わかってる?」
「それは」佐奈はムッとした。だが、今はまだ手始めだ。「じゃあ、長妻君はバーニーズが飼える環境なの?」
「俺も一人暮らしだよ。でも俺、いずれは一軒家に住むから」
「え……」
 佐奈は言い淀んだ。長妻は挑むような目で見てくる。
 一軒家。これも、今まで考えたことがなかった。
 今暮らしている部屋も実家も、マンションだ。マンションで大型犬を飼うことは無理ではない。飼育が許可されていて、広いエレベーターや足ふき場があるなら可能だ。だが都内の賃貸で、そんな好条件のマンションはとても家賃が払えないし、そもそも単身用では難しい。
 確かにコリーを飼うなら、一軒家が望ましいかもしれない。
「長妻君、家買うの?」
「それはまだわからない。借りるかもしれないし。古くてもいいから、広くて、庭があって、車も置ける家。できればちょっと田舎のほうで、いい散歩道があるような場所」
 具体的だ。しっかりと条件を絞っている。
 佐奈の頭の中に、少し前に片付けに行った母親の実家が浮かんだ。コリーには、あれぐらい牧歌的なほうがいい。
 幸せなイメージにぼうっとした。だがのどかな環境は、色々と不便でもある。
「車って、いると思う?」
「そりゃ……。っていうか松嶋さん、犬飼うって本気なの?」
「本気だよ。そのための節約だし。いらないサブスクだって解約したよ」
 上目で睨むと、長妻は表情を緩めた。
「結構、ガチじゃん」
「だからガチだって。車かあ。でも私、そもそも免許がない。ないとまずいかな」
「ないよりは、あったほうがいいよ。病院はどうやって連れて行くのさ」
「そ、そっか。移動には車がいるよね」
 どこかのサイトに、動物の医療費はライフスタイルに影響するとまで書いてあった。それもあっての節約生活スタートだが、想像しきれていない部分も多い。
「俺はたまにはドッグランに連れて行って、リードなしで走らせてやりたいし、旅行も一緒に行きたいし」
「旅行! 私も行きたい!」
 コリーを車に乗せて旅行。考えただけで、顔が緩んでくる。
「だろ?」今度は長妻のほうが得意げだ。「俺はドライブがてら温泉に行きたい」
「いいね、いいね。一緒に温泉」ワクワクして声が弾む。「えー、どこがいいかな。海とか見える場所がいいよね」
「まあ、そういうのも追い追い考えれば? すぐってわけじゃないだろうし」
 長妻は先に食事を済ませて出て行った。すると、別の部署の若い女性が二人、佐奈に話しかけてきた。
「あの、ちょっといいですか? 今のって企画の長妻さんですよね。わざとじゃないんですけど、喋ってるのが聞こえてきちゃって。その、旅行の話って本当かなって」
 妙に言いにくそうだ。二人とも顔は知っている程度で、いつ休憩スペースに来たのかも気づかなかった。
「旅行? ええ、でも先の話。そのうち行けたらなっていうくらいで」
「あ、そうなんですか……。旅行する感じなんだ」
 二人は暗い顔で離れていく。彼女たちも犬を飼いたいと思っているのだろうか。それなら仲間だが、ヒソヒソ小声で喋っていて、なんだか近寄りがたい。
 まあいいやと、また弁当を食べ始める。自分で作るようになってから、労力を無駄にしたくないので食べ残すことはなくなった。頭の中では、助手席にコリーを乗せてドライブしたり、温泉宿で一緒にくつろいだり、夕焼けに染まる砂浜をともに駆けている姿が浮かぶ。
 もう夢ではない。コリーを飼うと決めてから、目が覚めていても、主観と客観が入り混じった幸せな気持ちになれる。

 佐奈は仕事の合間に雅美に話しかけた。
「築山さん、受験補助の一覧って、これでしたっけ?」
 パソコン画面には、総務部の社内規定のページが開かれている。雅美は頷いた。
「うん、そうよ。よその部署からの質問?」
「いいえ。私が受けようと思って」
 会社で役立ちそうな資格試験には、一定の補助が出る。英語能力やAI系などジャンルは多岐だ。
「うちは総務だから、衛生管理やキャリア系の試験に受かれば評価にプラスですよね。あとは家具メーカー的に、インテリアでしょうか。あ、カラーコーディネーターもある。教材の補助もありだって」
「へえ、松嶋ちゃん。昇進を目指してるんだ」
「昇進というよりは、昇給です。有資格者のほうが査定に有利ですよね」
「うん。そうよ。そっか、松嶋ちゃん、仕事に目覚めたんだ」
「目覚めたというか、欲しい物のために、仕事を頑張ろうかなと思って」
「ああ、そういえば、うちのブランドのチェストが欲しいって言ってたもんね」
「それもですけど、家です」
「家?」と、雅美は目を丸くしている。
「はい。私、一軒家が欲しいんです。そのために、今のうちから頭金を貯めるんです」
 佐奈は未来の計画に目を輝かせた。雅美は一瞬間を空けたが、頷いた。
「家かあ。そっかあ。若くても一軒家が欲しいって人、たまに聞くもんね。まあ、女性では珍しいかもしれないけど、そういうのも楽しいかもね」
「はい。できれば田舎のほうの古民家で、平屋がいいかなと思って」
「平屋か。渋いねえ。逆におしゃれかも」
「そうでしょう? 古い民家にうちのアンティーク調の家具って、ぴったりですよね。私、できるだけ家中を自由に行き来させてあげたいんです。階段があると、上り下りが大変でしょう。足腰の負担にもなるし。大型だから、柵をしても乗り越えちゃうし、それなら初めから二階はなしでいいかなって」
「うん……。誰と住むのかよくわかんないな」と、雅美は腕組みをした。「今ってこういうこと聞くのNGかもしれないけど、松嶋ちゃん、結婚のご予定は?」
「まさか。ありませんよ。相手もいないし」
 そんなふうに誤解されていたとは。佐奈は笑った。
「でも犬を飼う予定はあります」
「あ、そっちか。なるほどね。そっか、そっか」
 雅美は合点したように何度も頷く。
「そっか。松嶋ちゃんは、そうなんだね。犬と住むための家か。そっか……。でも古民家ってどうなんだろうね」
「え、駄目ですか?」
「駄目じゃないけど、私の友達で、ウサギ飼ってる子がいてね、すごく大事にしてるのよ」
「ウサギさん」
「うん。その子、日中働いてるから家には誰もいないの。だから夏はウサギのためにずっとクーラー点けっぱなしなんだって」
「えっ、クーラーを点けっぱなし? ずっとだと、電気代がすごいんじゃ」
「そうなのよ。電気代もなんだけど、あまりに古い民家だと冷暖房の効きがどうなのかなって思って。余計なことかもしれないけど」
「いいえ。余計じゃありません」
 これは重要だ。佐奈は真剣に考えた。いつか犬を飼う家の参考にと、よさそうな古民家をチェックしていたが、外観や間取りばかりで電圧や気密性は気にしていなかった。近年の夏は、冷房なしでは過ごせないほどの暑さだ。動物が人間のように汗だくになるかはわからないが、犬だって暑ければグッタリするだろう。
 コリーの豪華な被毛を思い浮かべた。あれをサラサラに保つのは大変だろう。幼い頃、記憶の奥底に染み付くほどフワフワだったキングは、さぞ丁寧に手入れをされ、愛されていたのだ。
 私も、私のコリーにはそうしてあげたい。
 総務課は会社ビルの一階にあり、各課に呼ばれるので移動が多い。佐奈が上階へ行こうとすると、長妻がエントランスでエレベーターの到着待ちをしていた。
「長妻君」佐奈は彼に声をかけた。「私、一軒家買うことにした」 
「いきなりだな。購入決定?」
「今すぐじゃないけどね。それでね、田舎にある平屋の古民家がいいなって思ったんだけど」
「おお、俺と被るな」
 長妻が笑う。佐奈は真顔だ。向こうは犬飼い経験者だ。知っているかもしれないが、情報共有をして損はない。
「それがね、古すぎると、クーラーが効きにくいかもしれないんだって。それに平屋は、屋根から伝わる熱で温度が高くなりがちだってネットに書いてあった」
「へえ、そうなんだ。そっか、デメリットもあるか。なんとなくビジュアル的にいいかなって考えてたんだけど」
「わかる。私もそう。古めかしい家に、濃い色の無垢の家具なんか素敵だよね」
 話しているうちに、描いていた青写真が変わってきた。犬がいるなら、高級志向の家具よりも実用性を重視したほうがいいかもしれない。
「エイジング加工してるやつとか、ほんとのリメイク家具でもいいかも」
「犬がちょっとくらいガリガリしても気にならないやつな。俺は玄関に土間のある家がいい」
「いいね、それ。ひんやりしてて、犬が腹ばいになったら気持ちよさそうだよね」
「そうそう。それに古民家の風呂って結構でかくてさ、全身洗うのにいいかなって思ったんだよな」
「わかるわかる。思い切りブルブルッてしたいよね」
 タイル張りの古い風呂場で、長毛のコリーを懸命に洗っている自分の姿が目に浮かぶ。風呂が嫌でションボリとしているコリー。でも、とても従順で賢いので、我慢してくれている。ビショビショになっても、エレガントだ。
 ふと、長妻の犬のことも思った。彼の話を聞いてから、バーニーズについて調べた。バーニーズもコリーと同じくとても従順だ。きっと風呂場では、嫌だけど我慢してくれるだろう。ビショビショに濡れそぼって、シュンとしている姿も浮かんでくる。
 エレベーターが到着したので、他の社員も一緒に乗り込む。長妻が先に降りて、佐奈はそのままだ。すると乗り合わせた別の部署の中年男性が言った。
「君ら、家買うんだ」
「え? いえ、まだ買うとは。借りるかもしれませんし」
「そっか。なんかいいねえ。夢があって」
 顔だけは知っている社員だが、なんだか嬉しくなって、佐奈は頷いた。
「はい。夢があります」
 夢に出てきたコリーが、未来の夢になる。いつの間にか憧れていたアンティーク調の家具は、傷がついても味が出るようなどっしりとした物に変わっている。
 犬について、他にも知るべきことがたくさんあるだろう。きっとそのたびに、憧れも変化していくのだ。

「私も、だいぶ学んだわよ」
 雅美が自分のスマホ画面を見せてきた。映っているのは、コリーだ。
「検索してるせいで、最近犬の動画ばっかり上がってくるのよね」
「私は住宅情報の広告。あと、車の案内」
 佐奈はすっかり定着した自炊弁当と水筒を持参して、昼休憩中だ。前に座るのは雅美だ。
「松嶋ちゃん、家と車を同時に買うのはちょっと危険じゃない? 貯金が一気になくなっちゃうわよ」
「車は、たぶん諦めます」と、佐奈は小さく息をついた。「免許取るのが難しいかなって。私、ドンくさいし、親に相談したら、不安があるならやめておいたほうがいいって」
「それは言えてるかも。無理することないよ。それにペットタクシーってのもあるそうよ。動物病院行く時には、それを頼めばいいんじゃない?」
「そんなのあるんですか」
 最近、雅美とは犬の話ばかりだ。以前はダラダラと会社の愚痴を言い合っていたが、今のほうが楽しい。
「また勝手に動画が上がってきた」と、雅美が笑う。「『大型犬ランキング最新版』だって。もう知ってるわよ。一位は不動のゴールデンレトリーバーよね。街中で見かけるのはこの犬種くらいだもん」
「私のコリーは何位ですか?」
 佐奈が聞くと、雅美はスマホをスクロールしている。
「うーんと……。圏外みたい」
「やっぱり」わかっていたが、突如上位に躍り出る可能性にすがってみた。「あんなに可愛いのに、人気はないんですよね。どうしてだろう」
「うちの娘も、推しアイドルの人気がいまいちだって嘆いてたわ。人の好みって、それぞれだしね」
 それでも自分の犬がチヤホヤされないのは面白くない。不服のまま、聞く。
「バーニーズはどうですか?」
「はいはい。長妻君の犬ね。ライバルのバーニーズ君は、五位です」
「えー、まあまあ人気者……」
 佐奈は膨れた。人の犬にヤキモチを焼くのはどうかと思う。が、周囲で大型犬を飼う予定があるのは長妻だけだ。なんとなく比較してしまう。
「あはは。でもコリーもバーニーズも、外で見たことないくらいレアだけどね。性格とか、飼う環境とかは割と被ってるよね。あ、コメント書いてある。人と触れ合うのが好きなので、にぎやかな環境がお薦めだって。でも、昼間はお留守番だよね。寂しくないように犬の友達でもいればいいんでしょうけどね」
 雅美は笑ってスマホを眺めている。
「人の夢って楽しいわよね。自分じゃ見られないようなことだから、ワクワクしちゃう。おまけに自分のことよりも真剣になるから不思議よね。私まで、いつか犬を飼えるかもって、そんな期待しちゃうわよ」
「そうですか……」
 佐奈は虚ろに答えた。雅美の話の途中で、気になることが出てきた。
 休憩スペースにコンビニ袋を持った長妻が入ってきた。佐奈を見て、「お疲れ」と後ろの席に座る。以前からたまに昼食時間が重なっていたらしいが、存在を意識したのは犬の話を始めてからだ。佐奈は座ったまま体をひねった。
「長妻君、ちょうどいいところに来た」
「何? いい物件でも見つかった?」
「もし多頭飼いしたいって言ったら、どうする?」
「またいきなりだな。大型犬の多頭飼いはきついぜ」
「だよね……」
 佐奈はがっかりして眉根を寄せた。長妻はコンビニのおにぎりを食べながら笑う。
「なんで? もう一匹夢に出てきたとか?」
「違うよ。コリーもバーニーズも、にぎやかな環境がいいんだって。でも平日は朝から晩まで、ずっと一人ぼっちでしょう? もう一匹いれば寂しくないかなって思ったんだけど」
「ああ、そういうこと。でも、大型犬ってマジですごい力なんだ。俺が犬飼ってた時は、散歩はいつも大人と一緒だった。バーニーズは自制が利くし、無駄に引っ張ったりしないけど、それでも走り出したら抑えるのは大変だぜ。二匹だと女子にはちょっとな」
 リードを離さないようにしっかり手にからめる長妻と、力強く歩くバーニーズのペアが想像できる。男性でもきついなら、佐奈にも覚悟が必要だ。
「私、めちゃくちゃ筋トレするよ」
「いや。そういう問題じゃない」
「うう……」
 夢を現実に置き換えると、ボロボロと綻びが生じる。だが、コリーが寂しさでシュンと項垂れている姿を想像すると、こっちまで悲しくなる。
 ひねっていた体を戻し、テーブルで頰杖をつく。前にいる雅美はむず痒そうな顔をしているが、黙っている。
 後ろから長妻が言う。
「とりあえず、一度本物を見に行ってみたら? コリーのブリーダー。よかったら付いていってやるけど」
「え、駄目だよ。だってまだ住むところとか検討中だもん。こんなぼんやりした状態でコリーに会いに行ったら、申し訳ないよ」
「ふうん。まあ、順序は人それぞれか」と、長妻は物憂げな感じだ。「あのさあ、もし俺らが同じような環境で、それぞれ大きな犬を飼うんだとしたら、近場に住むのはありかもしれないな」
「ご近所ってこと?」
「そう。近くなら協力し合えるだろ。いや、それより、似たような感じの一軒家を探してるなら、いっそのことルームシェアしたほうが効率がいいかもな」
 淡々とした声だ。不貞腐れていた佐奈は少しだけ首をそらせた。
「ルームシェア?」
「俺、運転できるし、なんかあったら車出すし。そしたら家は郊外でもオッケーだろ。松嶋さんのほうにメリットありじゃない?」
「いや、でも」
「同じような夢なら、なんでもシェアしたほうが叶うだろ」
 長妻はそう言うと、早々に昼食を終えて立ち上がった。
「あれ? もう行くんだ」
「うん。午後からミーティング。俺が提案したオフィスソリューションの企画だから、最終チェックしないと。絶対に通したいから」
「へー、頑張ってるね」
「うん、まあ」
 長妻が出て行ったあと、雅美がしみじみと言った。
「今どきの若者っていう言い方、NGかもしれないけど、今の若い人ってすごいわね。縛られないというか、発想が自由っていうか」そして納得するように頷いている。「そうかあ。長妻君は、そうなのかあ。そうなのかと思ってたけど、そうなのね」 
 佐奈はぼんやりしながら、彼が言ったことを頭の中で反芻していた。
 大きな犬を飼うために、同じような犬を飼う人と、シェアをする。
 縛られない自由な発想だ。感嘆の息が漏れた。
「さすが企画課ですよね。犬のためにルームシェアか……。思いつかなかったな」
「え、そっちなの? 今の人ってそっちなの? 私の価値観が古すぎる?」
 雅美はなぜか驚いていた。
 佐奈の夢はまだ靄がかかっている。だがゆっくりと、ほんの少しずつ、形が見えてきた。
 
 誰が言い出したのか不明だが、久しぶりに会社近くの居酒屋で同期が集まった。
十数名が横長の座敷に並んで、にぎわう。入社当時はこんな飲み会もよくあったが、配置が変わったり、忙しかったりで、話す機会も少なくなった。佐奈から少し離れた席に座る長妻もそうだ。犬という共通点がなければ、関わりはなかっただろう。
 みんなが酔って崩れ始めた頃、佐奈の前にいる同期の男性が赤い顔で言った。
「松嶋さんって、長妻と付き合ってるってほんと?」
 佐奈はビールを噴き出しかけた。隣にいた女性も顔を覗き込んでくる。
「私もその噂聞いた。松嶋ちゃんと長妻君が旅行するとか、二人で住む家を探してるとか」
「何、それ」佐奈は目を丸くした。「違う、違う。犬のことを相談してたの。私、将来、大型犬飼うから」
「大型犬?」と、二人は声を揃えた。
 佐奈は長妻を見た。向こうもこっちに視線を向けている。どういうつもりかわからないが、黙っている。シェアの話のあと、彼とは今日まで会う機会がなかった。
「大きな犬を飼うの? 松嶋ちゃんが?」同期の女性は驚いている。
「うん」長妻の視線を感じつつ、頷く。「ラフコリーを飼うって決めてるの」
「えー、ラフコリーってでかい犬だろ。世話が大変じゃん」
「うん。だから色々勉強中。私、犬飼ったことないから、だから長妻君に」
「それまずいだろ」
「え?」
「犬飼ったことない人がいきなり大型犬は無謀だよ」
「そうだよ。松嶋ちゃんに大きいワンコとか、イメージ湧かない」
「で、でも、コリーを飼うのが夢なんだ。そのために貯金もしてるし」
「そりゃあ、一度は犬を飼ってみたいってのは、わからなくもないけどさ」
「だよね。憧れる」
 二人が賛同してくれて、佐奈はホッとした。だがすぐに意見された。
「だけど、いくら夢でも、飼ったあとで無理ってのが一番まずいからさ、やめておいたほうがいいよ」
「そうだよね。ちょっと現実的じゃないよね」
 二人は責めるふうでも、諭すふうでもない。
 現実的じゃない夢。
 急にフワフワと頭の上で浮かんでいたものが、ズシリとのし掛かってきた。重さに負けて、自然と顔が俯く。
 一度も犬を飼ったことない人が大型犬を飼いたいと思うのは、そんなに駄目なことだろうか。確実に叶う確証がなければ、夢見ることすら許されないのだろうか。
「海外に行ったことない人が、海外を旅行すんのは現実的じゃない?」
 顔を上げると、視線を感じた。長妻がこっちを見ている。
「免許持ってない人が金貯めて、いつかでっかい外車に乗りたいのも、やめといたほうがいい? 犬を飼った経験がないから、それが夢になるんだろ。憧れを現実にするかは、その人次第だよ。松嶋さんは現実にしたあと、無理ってならないように俺と一緒に勉強中なの」
 長妻の喋り方はゆったりとしていて、からかっているみたいだ。同期の二人は顔を見合わせたあと、探るように言った。
「長妻って、やっぱり松嶋さんと付き合ってんの?」
「いや」と、長妻はすぐに否定した。「でもいつか、犬と暮らす者同士だから」
 そう言って、佐奈に笑いかける。
 犬と暮らす。不意に夢が未来図に変わった。
 ああ、そうか。私たち、犬と暮らす者同士なんだ。

 帰り道、なんとはなしに佐奈は長妻と二人で夜道を駅へと向かって歩いた。
「私、いつも同じ課の先輩に犬の話をしてるんだ。先輩はうんうんって聞いてくれるんだけど、よく考えてみたら、さっきみたいに言われるのが当たり前だよね」
「どんな夢見ようと、その人の自由だろ。まあ、言われて考えが変わるなら、それまでだけどね」
「変わらない」と、佐奈は長妻に笑いかけた。両腕で大きく輪を作ると、空間いっぱいにコリーを想像する。
「絶対にコリーと暮らす。そんで、昔みたいに抱き着くの。フッカフカで気持ちいいんだから」
「いや。実際のコリー、そこまででかくないから。マジで一度、見に行ってみれば? 付いて行ってやるからさ」
「駄目だよ。もしそこで運命の出会いがあったら困るもん」
「じゃあ全部揃ってからにすんの? 松嶋さんって、慎重なんだか大雑把なんだか、わかんないな」
 長妻は呆れている。自分でも順序付けはわからない。でも、真剣だ。
「そういや俺、ちょっといい物件見つけた」
 そう言って、長妻がスマホを見せてきた。郊外の一戸建て賃貸。写真では一階の半分がコンクリートのフリースペースで、注釈にバイクや車など趣味の人向けと書いてある。
「これ、いいね!」
 佐奈は目を見開いた。この広い空間で、コリーがユサユサと尻尾を振っているのが目に浮かんでくる。
「私、ここ借りようかな」
「いや、早いって。俺が見つけたんだけど」
「でもここいいよ。かなりいいよ」
「だろ? まだ借りるつもりはないけど、週末見に行く。参考のために」
「私も行く! 私が行く!」
「なんでだよ」長妻は笑っていた。
 自分では着実に進んでいるつもりだ。コンビニで無駄遣いするのをやめた。貯金も微妙だが増えてきているし、資格の勉強と、あと寝る前に筋トレも始めた。
 犬と暮らす将来は、たぶん、そう遠くない。

  *

■著者プロフィール
石田祥(いしだ・しょう)
1975年、京都府生まれ。高校卒業後、金融会社に入社し、のちに通信会社勤務の傍ら小説の執筆を始める。2014年、第9回日本ラブストーリー大賞を受賞した『トマトの先生』でデビュー。『猫を処方いたします。』が第11回京都本大賞、第13回うつのみや大賞文庫部門を受賞する。著書に、「猫を処方いたします。」「ドッグカフェ・ワンノアール」の各シリーズの他、『元カレの猫を、預かりまして。』『夜は不思議などうぶつえん』『火星より。応答せよ、妹』『京都お抹茶迷宮』がある。

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