鳥籠の鳥は、なにを考えているのだろう。
外の世界を渇望したりしないのだろうか。
自由がないと絶望したりしないのだろうか。
無邪気にさえずる小鳥を眺めながら、少女はそっと息をもらす。
夏の盛り。外の世界は眩しいくらいなのに、少女の居場所はいつだって昏かった。
じゃらっ。動くたびに足枷が嫌な音を立てる。
己の無力さを思い知らされるようで耳をふさいだ。
きっと、このままこの昏い場所で果てるのだ。
──そう思っていたのに。
「あなただけでも逃げて」
大切な人から投げかけられた言葉が、少女の運命を変えるだなんて──
いったい誰が予想しただろう。
プロローグ
ふと気がつくと、広大な花畑の中に横たわっていた。
頭がぼんやりしている。私はここでなにをしているのだろう。
「ここはどこ?」
ノロノロと起き上がれば、目の前には幻想的な風景が広がっていた。
深紅の彼岸花が乱れ咲いている。紅に染めた絹糸をより合わせたような花弁が、白い霧の中で揺れていた。朽ちかけた石の鳥居が花々の間に佇んでいる。花の合間を縫うように清水が流れていた。花畑は谷底に位置しているらしい。河原には大小さまざまな石が転がっていて、ときおり不自然に積み重なっている。モノクロな光景に、やけに彼岸花の紅が映えていた。そろそろと忍び寄る霧の冷たさが、心の温度まで奪っていくようだ。
──怖い。
幽玄な風景。彼岸花の妖しい美しさに圧倒される。
──落ち着け、私。
何度か深呼吸を繰り返して、記憶を探った。
ここに来る前はなにをしていたんだっけ。知らない場所にひとりでいるなんて、普通ではありえない。きっと特別な出来事があったはずだ。
「……あれ?」
間抜けな声がもれた。
靄がかかったように、うまく思考できなかったからだ。
じわじわと恐怖がせり上がってくる。
嫌な予感がしてならない。花の美しさが、ますます不安を募らせた。
彼岸花は〝幽霊花〟とも呼ばれている。ご存知のとおり墓地を彩ることが多い花だ。
川辺に積み上がった石、どこか不気味で物寂しい光景。
これじゃまるで──
死後の世界にでも迷い込んでしまったような。
「……アホか。んなわけないでしょっ!」
ばちん! 不安を紛らわせるように両頰を叩く。
変な妄想を振り払おうと、立ち上がって自分の体を確認した。
「足はちゃんとある! 体温は~……三十六度くらいっ! ド平熱! ほっぺたはジンジンしてるし、セーラー服は今日も可愛いっ!」
いきおいあまってくるりと回る。
ふわっとスカートのひだが膨らんで、臙脂のスカーフが風に遊んだ。
ぜったい似合うからと、進学先を厳選した上で無事にゲットした制服である。黒に近い濃紺の生地。金色のラインが渋めなスカーフの色にマッチしていた。身につけるだけでテンションが上がる最高の一着──……って、いまはいいか。
「大丈夫。どこから見てもごくごく普通の女子高生だ」
お化けやら幽霊やらになっちゃったわけじゃない。夢でもないようだけれど。
胸を撫で下ろして、キョロキョロと周りを見回す。
ともかく状況を把握したかった。ここはどこだろう?
う~んと首を傾げる。さっぱりわからずに困り果てていると、ふいに誰かが私を追い越していった。相手の姿は霧に遮られて判然としないが、間違いなく人だ。
「あのっ」
とっさに声をかける。だが、人影は霧の奥に消えてしまった。
──後を追おうか。
刹那のあいだ迷っていると、すぐに別の誰かが横を素通りしていった。
「なんなの……!?」
辺りを見回して、ようやく状況を理解できた。
彼岸花畑を進む行列が、ちょうどこの場所に差し掛かっているのだ。
おおぜいの人が通り過ぎていく。だのに、誰も私を気にかける様子はない。相手の姿だってよくわからなかった。霧がすべてを覆い隠し、すぐそこにいるのに薄い影が動いているようにしか見えない。深い深い霧が、私と他人の世界を遮断しているようだった。
「怖い……」
困惑のあまり後ずさる。
「わっ」
うっかり誰かにぶつかってしまった。乳白色の霧がわずかに薄れて、男性らしき人物が首を傾げたのがわかる。
「大丈夫か。立ち止まったら危ねえぞ。歩き疲れたか? それとも怖いのか。こんだけ霧が深くちゃなあ。困ったもんだ」
声に戸惑いや警戒感はない。私を行列の一員だと勘違いしているのだろうか。
困惑していると、大柄な人物が近づいてきたのがわかった。
「仕方ないよ。行く先が見えないってのは不安になるもんさね」
声からして女性らしい。霧の向こうからすっと手が差し出された。
「繫いでなよ。もうちょっとで休憩のはずさ。はぐれないようにね」
「ええ……?」
とてもじゃないけど、高校生の私にかける言葉じゃなかった。相手からもこちらの姿は見えていないはず。子どもだとでも思われているのだろうか。
──どうしよう。
訂正するべきかと迷いはしたものの、けっきょく女性の手を取ろうと決めた。
──私は迷子だ。この人たちを逃したら次があるかわからない。
「じゃ、じゃあ」
いちおうは警戒しつつ、おずおずと手を伸ばす。
「おやまあ。冷たい手だねえ」
そう言うと、私の手をギュッと強く握りこんだ。繫いだ手のひらから優しい熱が伝播する。女性の気遣いが、不安でいっぱいだった心に沁みた。
「ありがとう」
「構わないよ。それに、女に冷えは大敵だろ?」
「たしかに」
たわいない話をしながら、彼岸花畑の中を進む。相手は私よりずいぶん背が高かった。頭上から感じる優しげなまなざし。温かく見守ってくれているのが霧越しにもわかった。
「いい人と会えてよかった」
心の底から安堵する。
とりあえず、知らない場所でひとりぼっちという状況からは脱せたようだ。
不安が消えたわけじゃないけど、女性の気遣いに救われた気がしていた。
「──ッ!?」
瞬間、息が詰まるほどの強風が花畑を吹き荒れていった。
「谷風だ! 荷物を押さえろ。飛ばされるぞ!」
誰かが注意を喚起している。轟々と唸りを上げた風が過ぎ去ると、世界はふたたび静寂を取り戻した。ほうっと安堵の息をもらす。
「大丈夫だったかい」
「あ、はい」
おもむろに顔を上げると、とたんに固まってしまった。
風で吹き飛ばされたのか、あれほど濃厚に世界を包み込んでいた霧がすっかり晴れている。いままでわからなかった女性の姿がはっきり見えた。
翠色の小袖。片手に編み笠と杖を持っていた。足袋に草鞋。時代劇にでも出てきそうな古めかしい旅装だ。髪を綺麗に結い上げ、髻には梅のかんざしが揺れている。なかなか美人だ。小さめの口に引かれた紅が鮮やかで、涼しげな目もとは色っぽかった。
思ったよりも大柄ではない。
見下ろされていると感じていたのは──彼女の首がにょろりと長かったからだ。
「ぎゃあああああああっ!? ろくろっ首────!!」
「ぎゃあああああああっ!? に、人間────!!」
私たちは同時に悲鳴を上げた。
「やだっ! なんで人間がいるんだいっ! 触っちまったよう! ど、どうしよう」
青ざめた顔をしたろくろっ首は、繫いだ手を振り払った。引きつった顔で手を体から遠ざけている。汚物に触った後の反応みたいだ。なんて失礼な!
「ひ、人をゴキブリみたいにっ……! さっきまであんなに優しかったくせに!」
「だまらっしゃい! 人間もゴキブリみたいなモンじゃないかっ!」
「ええええええ……! さすがにひどくない!?」
すると、行列に参加していたモノたちが、騒ぎを聞きつけて集まってきた。
「人間って本当か? お菊」
「そうだよう。ほらっ! ほらほらっ! そこにいる~! なんとかして源治郎!」
「うわ。マジだ。人間がこんな場所にいるなんて珍しいな。どっから迷い込んだ」
声に聞き覚えがある。源治郎と呼ばれたのは、さっきぶつかってしまった男性だった。
編み笠を被り、質素な僧服を身にまとっている。ざんばら頭に、ショリショリと無精髭を撫でる姿は飄々として、精悍な顔つきの青年僧だ。……だが、額の真ん中に第三の目が鎮座していた。明らかに普通の人間じゃない。
「どうした、どうした」
どしん、どしんと地響きがする。
──今度はなに!?
振り返ると、やたら大きな毛むくじゃらお化けと目があった。獅子舞のような顔つきをしていて、ゴワゴワうねった髪の毛を地面に散らしている。脚や胴体は見えない。もしかしたら首しかないのかもしれなかった。ぎょろりと血走った目を私に向けたお化けは──
「おとろしや~……」
意外にも、臆病な大型犬のようにブルブルと巨軀を縮こまらせた。
「なんなの……!?」
気がつけば、よくわからない生き物に取り囲まれていた。一本足の破れかけた傘、ふわふわした毛玉、着物姿の雀……。昔話や絵本なんかで見た奇々怪々なあやかしたちが、ずらりと勢揃いしている。
「人間だ」「人間……」「なんでここに」
しかもだ。理由はわからないが、誰もが怯えた顔をしているではないか。
思わずじりじりと後ずさった。ありえない状況に体が震える。
仮装行列? いや、どう見ても作り物じゃない。
──じゃあ、なんだっていうの。本物のあやかし……?
もしかして百鬼夜行なのだろうか。昔話に聞いた、真夜中にあやかしが作る行列。
話によると、出会った人間はもれなく死んでしまうとか──
──これってヤバくない?
青ざめていると、やたら濃い影が頭上から差し込んできた。
そろそろと顔を上げて、目の前に広がった光景に「ひっ」と息を呑んだ。
「ニンゲン……ニンゲン……」
私を見下ろしていたのは骸骨である。それも山と見紛うほど巨大だ。尋常ではない数の骸骨が寄り集まり、ひとつの形をなそうとしていた。がらり、がらがら。がらがらがらっ! 巨大な骸骨に、小さな骸骨がよじ登って同化する。ときおり失敗しては、地面に打ち付けられた骨が砕け散った。地獄のようなおぞましい光景だ。
震え上がった私に、骸骨は威嚇するように白い歯を打ち鳴らした。
ぬうっと顔を覗きこんで──
「ニンゲン、クラウ」
世にも恐ろしい発言をしたのだった。
「そんな……」
へたり、と地面に座り込む。逃げ出したくても足が震えて動けない。
「人間なんて喰ってしまえ!!」
容赦ない野次が飛んできた。思わず身をすくめると「そうだ、そうだ」とあやかしたちが地面を踏みならす。彼岸花が無残に踏み潰されていった。粉々になった花が、未来の自分を象徴しているようで、自然と涙があふれてくる。
──噓でしょ? このまま、化け物に食われちゃうのかな?
痛いのは怖い。怖いのは嫌だ。どうして私がこんな目に。
「だ、誰か。誰か助けてよおっ……!!」
「なんの騒ぎだ」
涙ながらに叫んだ瞬間、ふいに男性の声が割って入った。
「ワタリの旦那」
大騒ぎしていたあやかしたちが静まり返る。
そろそろと視線を上げれば、ひとりの青年の姿が目に入った。
恐怖の渦中にいてもなお、ハッとするほど目を引く人だ。凜とした立ち姿が美しい。
肌は透き通るように白かった。長めの黒髪を肩口で切り揃えていて、深い藍色に黄緑が入り交じった瞳を持っている。長いまつげが印象的で、鼻筋は絵筆で引いたように通っていた。薄い唇は桜色に淡く色づき、どことなく日本人とは違うルーツを感じさせる。
服装も特徴的だ。ハイネックのシャツの上に、和柄の裏地が鮮やかな羽織を着ていた。ゆったりとした黒いパンツ。裾からはゴツゴツした編み上げブーツが顔を覗かせている。小物使いも巧みで、洒落た和洋折衷スタイルだ。
「賑やかだと思って来てみれば……人間か」
青年は、ジロリと私を睥へい睨げいして言った。眉間に皺を寄せ、深々とため息をつく。
集まったあやかしたちに向けて、一転して柔らかな口調で言った。
「落ち着いてくれ。行列は神聖なものだ。人間なんかの血で汚してはいけない」
「だけどよ──」
異を唱えたのは、源治郎と呼ばれた三ツ目の怪僧だ。
「ここには人間が好物の奴らがたんまりいる。我慢させるなんてちっと可哀想じゃ──」
「やめるんだ、源治郎」
青年が言葉を遮る。不思議な色をした瞳に哀愁をにじませ、しみじみと語りかけた。
「そういうのは〝もうお仕舞い〟だ。人間と積極的に関わろうとするのはよせ」
しばしの沈黙が落ち、怪僧はへらっと表情を緩める。
「……そっか。そうだったよな。すまねえ」
ボリボリと頰をかいて、青年に信頼がこもったまなざしを向けた。
「それで。どうするんだよ、コイツ」
「俺が判断する」
「わかった。任せた。お前らもいいだろ? がしゃ髑髏も」
怪僧の言葉で、あやかしたちが一様に大人しくなった。青年と源治郎が行列の主導者らしい。あの巨大な骸骨はがしゃ髑髏と言うようだ。ガチガチと不満げに歯を鳴らしたものの、もう私を襲うのは諦めたようだった。
「……たす、かった?」
全身がぐっしょりと汗で濡れていた。力がうまく入らず、立ち上がれない。
「ほら」
座り込んだままの私に、青年が手を差し出してきた。
「あ、ありがとう。ワタリ、さん? あなたも人間……ですよね?」
「ワタリというのは職業の名称だ。俺はカゲロウ。いちおう人間だ。先祖代々、日本中を漂泊しながら、あやかしの世話をしている」
「そ、そうなんですか。なんでまた人間のあなたが……?」
「…………」
青年は、深々とため息をついた。
詳しく説明する気はないようで、あからさまに話題を変える。
「そういえば、名を聞いてなかったな」
「さ、桜坂雪白っていいます」
「そうか。雪白、どうしてこの場所に?」
「わからないんです。気がついたらここにいて──」
「…………。誰かに連れられて来たんじゃないのか?」
「まさか!」
すかさず否定した私に、カゲロウは怪訝な表情を隠そうともしなかった。
「ここは〝幽世 〟だ。普通の人間が立ち入れる場所ではないんだがな。手引きした者がいないのなら、神隠しにでも遭ったのか?」
「神隠し!? か、幽世……? よくわからないです。つまり、ここは普通の世界じゃないってことですか。あ、あの。元の世界に帰れますよね?」
「問題ない。世界の境界は曖昧だ。そう悲観しなくともいい。ともかく、あやかし共に喰われる前に帰れ。送ってやるから」
「……! ありがとう!!」
よかった。ぶっきらぼうだが面倒見のいい人だ。
「それで、家はどこだ」
「えっと──」
質問に答えようとして固まる。
「私って、どこから来たんだろ……?」
頭の中が真っ白なのに気づいて、じわりと嫌な汗が全身ににじんだ。
おかしい。住んでいた場所を思い浮かべようにも、なんの記憶も蘇ってこない。
「そ、そうだ!」
体中のポケットを探った。
どこかに身分を証明するものが入っているかもしれない!
「…………。ない」
愕然としてつぶやく。
「帰りたいのに、どこへ帰ればいいかわかんない……」
そしてようやく気づいた。記憶のほとんどが曖昧な事実に。
かろうじて名前は覚えているものの、どこで生まれて、どこから来たのかわからない。
「アンタ、もしかして記憶喪失って奴かい?」
お菊と呼ばれたろくろっ首が私に訊ねた。
ぱちぱちと目を瞬いて、じわりと目もとをにじませる。
認めたくなかった。でも、否定するだけの根拠もなくて。
「ど、どどどど、どうしようっ……!」
頭を抱えていると、カゲロウがじりじりと距離を取りつつあるのに気づいた。
「あの……?」
声をかけると、彼は真顔のままスチャッと片手を挙げた。
「面倒な気配がするから戻る。ひとりでがんばれよ。さあ、お前らいくぞ!」
「はあああああああああっ!?」
噓でしょう!? せっかく同じ人間を見つけたってのに!
──逃がすもんか!
「ちょおっと、待ったああああああああ!」
ダッシュで駆け寄り、青年にしがみつく。
恥も外聞もかなぐり捨て、彼の腰にグリグリと顔をすりつけた。
「置いていかないで──!! 同じ人間のよしみでしょう!?」
「やめろってば! 俺はあやかし共の面倒だけで、いっぱいいっぱいなんだっ!」
「噓だあ! こ~んなにたくさんいるんだもの! か弱い女子高生がひとり増えたって変わんないわよ!」
「誰がか弱いだ。変わる。ぜったいに変わる!!」
「イケメンなんだから謎の包容力を見せなさいよ! ほら、スパダリムーブして!!」
「顔は関係ないだろう! スパダリってなんだ。褒めてくれて悪い気はしないが!」
「だったら!」
「無理なものは無理だッ!」
何度否定されたって諦めるわけにはいかなかった。
こんな恐ろしい世界に取り残されたくない。生きるために必死だ。
「お願い~~~ッ!!」
ひたすら懇願していると、誰かの笑い声が聞こえてきた。
「なんだか面白い事態になってるけど、大丈夫~?」
「ゲッ……」
カゲロウが変な声をもらす。
声がした方を見ると、いやに渋いオジサンが立っていた。
「こんにちは。お嬢さん。そんなつれない小僧より、僕みたいなイケててニヒルなオジサンに頼った方がいいんじゃないかな?」
現れたのは、壮年を過ぎた紳士だ。
灰色になった髪をていねいに撫でつけている。年相応に皺が寄っているものの、垂れ目がちで爛々と輝く黒い瞳や、全身から発するオーラ、ハイブランドのスーツが若々しい印象を与えていた。かなりのイケオジだが、容易に心を許したらいけないような軽さがある。
イタリア男の匂いと言えばわかりやすいだろうか。ノリで女を口説きそうなオジサン。第一印象はそれだった。
「……誰ですか」
カゲロウの背中に隠れて訊ねれば、脱力した様子の青年が答えをくれた。
「小野篁。冥府の役人で、俺の上司だ」
「冥府の役人?」
「閻魔大王は知ってるでしょ? 僕はね、死んだ人間の魂を裁く仕事をしてるんだよ。ワタリ家業を営む人たちの管理もしていてね……まあ、詳しい説明は追々するとして。ほうら飴ちゃんだ。お腹空いてないかい。出ておいで~?」
「嫌です!」
飴の包みをちらつかされるも、シャーッと仔猫のように威嚇する。
オジサンは「嫌われちゃったねえ」なんてニコニコしていたが、ひたとカゲロウに視線を向けると、一転して真顔になった。
「ところでカゲロウくん」
「は、はい……」
「困っているお嬢さんを見捨てようだなんて、ひどい話だと思わないかい」
「……ッ!」
威圧的な気配を漂わせたオジサンは、やたら高そうな腕時計をいじりながら続けた。
「こんな場所に来ちゃったからには、彼女にも事情があるんだろうさ。困っている女性を助けないなんて紳士の風上にも置けない。しばらく面倒を見てあげたらどうかな? なんなら、君の仕事を手伝ってもらったらどう。人手不足だって文句を言ってたよね」
「……それは……」
なにやら考えこんでいるカゲロウに、オジサンはにんまり笑って続けた。
「それに。君が彼女の面倒を見ようとしないのは、いつもの癖が出ちゃうからだろ。いくあてがない記憶喪失の少女なんて、まさにどんぴしゃりだもんねえ」
カゲロウが気まずそうに黙り込むと、周囲のあやかしたちから声が上がった。
「なに言ってんだ。それがワタリの旦那のいいところだろ!」
「そうだ、そうだ。アタシらが、どれだけお世話になってると思ってんのさ」
「引っ込め、オッサン!」
「なにがイケオジだ。ジジイはジジイ。若モンに勝てるわけがねえだろ!」
「ねえ待って。僕に対する態度ひどくない!?」
オジサンが涙目になると、あやかしたちがドッと沸いた。
えらい人ではあるようだが、あまり敬われてはいないらしい……。
なんとも和気あいあいとした雰囲気に虚を衝かれていると、カゲロウが深々と嘆息した。
「……わかりました。わかりましたよ! コイツの面倒を見ればいいんでしょ」
「ありがとう。カゲロウさん!」
感激のあまりに抱きつこうとすると、ひらりと躱されてしまった。
「……カゲロウでいい。それに記憶が戻るまでだからな」
「もちろん。オジサンが言ったとおり、仕事の手伝いもします。タダ飯ぐらいは嫌だし」
「いや、別に仕事は……」
カゲロウが言葉を濁す。
しかし、笑顔の小野篁と視線が合うと、諦めたかのようにかぶりを振った。
「わかった。お前にも手伝ってもらおう」
「ありがとうございます! それで、ワタリの仕事って……?」
「言ったろ。ワタリはあやかしの世話役だ。最初から最後まで責任を持って面倒を見る」
「そっか、さっきもそう言ってました、よ、ね……」
ごくりと唾を飲みこむ。
──あんまりにも賑やかだから、すっかり忘れていたけど。
改めて確認してみると、あやかしたちの姿は異様だった。
人に近い姿をした者もいるが、まるで理解できない姿形をしている者もいる。
血走った目。鋭い爪。剝む き出しになった牙……可愛げなんてどこにもない。
むしろ、不思議と恐怖心をかきたてる姿をしていた。
──彼らの面倒を、私が……?
「……ニンゲン、ウマソウダナ……ヤッパリ、タベタラダメ?」
がしゃ髑髏がつぶやく。ぽたり、口もとから透明なしずくがしたたり落ちた。
ぞわぞわぞわっ! あまりの恐怖に、カゲロウの背中に逃げ込む。
──本当に大丈夫なの!? た、食べられずにお世話できるのかなあ……?
不安に思っていると、
──ちりりんっ!
ふいに涼やかな音色が聞こえた。
「なんの音?」
首を傾げていると、カゲロウが遠くを見ているのがわかった。
「……仕事だ」
「え?」
「アイツらが俺を呼んでる」
ポカンとしていると、カゲロウはスタスタと歩き出してしまった。
「源治郎、行列は任せた。ちょっと現世まで迎えに行ってくる」
「りょ~かい。早く戻ってこいよ」
「えっ? えっ? わ、私は?」
思わずカゲロウの背中とオジサンの顔を見比べる。
自称ニヒルなイケオジは、ちょっと困ったように笑って言った。
「どうやら〝向こうの世界〟で、カゲロウくんにSOSを出してるあやかしがいるみたいだね。そういう子を助けるのもワタリの仕事だ。君も一緒にいっておいで」
「う、うん……!」
慌てて後を追うと、背後からオジサンの陽気な声が聞こえた。
「いってらっしゃい! 応援してるからね~!」
こうして、私──桜坂雪白は、カゲロウの仕事を手伝うことになった。
うっかり迷い込んでしまった百鬼夜行。
謎めいた美青年、カゲロウ。自称ニヒルなイケオジ小野篁。
おどろおどろしいあやかしたち……。
そして、記憶喪失になってしまった私。
これからどうなるのだろう。
私はどこから来たの? ちゃんと記憶は戻るの?
なにもわからない。
ただ、ひとつだけはっきりしている事実があった。
「油断したら化け物に喰われる……!」
──ぜったいに気を抜くんじゃないわよ、雪白。
嚙みしめるように自分に言い聞かせた。
あやかしと適度な距離を保ちつつ、身の安全を確保するべし!
じゃなきゃ、近い将来に待っているのは──無残な死だ。
*
続きは発売中の『幽世のおくりごと 百鬼夜行の世話人と化け仕舞い』で、ぜひお楽しみください。

■著者プロフィール
忍丸(しのぶまる)
『異世界おもてなしご飯』(カドカワBOOKS)でデビュー。著作に「わが家は幽世の貸本屋さん」シリーズ(ことのは文庫)、『花咲くキッチン』(富士見L文庫)、『古都鎌倉、あやかし喫茶で会いましょう 』(一二三文庫)など多数。