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貴公子探偵はチョイ足しグルメをご所望です

「うわぁ、なんだか……リッチなところ!」
 三田村みたむら一花いちか は、路地の真ん中で感嘆の溜息を漏らした。五月の爽やかな風が吹き抜け、一つに括った真っ黒な髪が中で揺れる。
 繁華街のほど近くなのに、このあたりは静寂に満ちていた。四方を取り囲んでいる家々はどれも立派で、かなり大きい。
 渋谷区松濤しょうとう
 日本でも指折りの高級住宅街である。位置的には渋谷東急本店や、Bunkamuraオーチャードホールのすぐ裏手。ほんの数百メートル先はもう渋谷駅だ。
 一花はこれから、この松濤界隈にある家を訪問する予定だった。スマートフォンで時刻を確認すると、午前九時四十六分。約束した時間まであと十五分を切っている。
「この服……大丈夫かな」
 自分の身体を見下ろして、首を捻った。
 ブルーのストライプシャツに、カーキ色のチノパンツ。足元は履き古したスニーカー。後ろで一つに括っただけのヘアスタイルと相まって、いささか地味だ。
 駅に降り立ってから道玄坂を通ってここまで歩いてきたが、若者の街・渋谷で一花の格好はやや浮いていた。端的に言ってしまえば、若さと華やかさが足りない。
 まだ二十三歳だというのに。
(ま、大丈夫だよね。地味なのはしょうがない!)
 少し落ち込みそうになったが、一花はふっと息を吐いて気を取り直した。
 そもそも、生まれてこのかた、お洒落とは無縁である。見てくれに気を遣う余裕などなかったのだ。……貧乏すぎて。
 一花の実家は東京都の東寄り、台東区 の下谷にある。下町風情漂う一角の中でも、とりわけ古いアパートの一室だ。母親と十歳下の妹が、今でもその部屋に住んでいる。
 父親は、一花が中学生のころ病死した。
 家計を支えてきたのは、調理師の資格を持っている母の登美代とみよである。二人の娘を抱え、母は大学の学食や給食センターなどの仕事をかけもちしていたが、暮らし向きは決して楽ではなかった。
 爪に火を灯すような……いや、爪に灯す火にさえ事欠く日々。
 食卓に上がるのは、格安の食材ばかりだった。調理師をしているだけあって母の料理はとても美味しかったが、頭の片隅ではいつもこう思っていた。「一度でいいから、ステーキが食べたい……」と。
 そんなある日、おかずのもやし炒めを見て俯いた一花に、母は言った。
「一花、笑って! 笑顔が一番よ。みんなの笑顔と、ちょっとの工夫があれば、もやしだっておからだって、サーロインステーキと同じくらい美味しくなるんだから!」
 笑顔が一番。
 母の定番フレーズは、今や一花のモットーになっている。やや貧相な体格で、これといって取り柄のない一花だが、少なくとも怒っているより笑っている方が印象はいいはずだ。それに、笑みを浮かべるのにお金はかからない。
 母の言葉……己のモットーを嚙み締め、一花はきゅっと唇の端を持ち上げた。
 何せ、今日はこれから大仕事が待ち受けている。働き口が見つかるかどうかの瀬戸際なのだ。
 地元の都立高校を卒業してから、一花は母と同じ調理師の資格を取るため、一年間専門学校に通った。無事に資格を取ったあとは、とにかく家を出て自立しようと思った。登美代は「ずっと家にいていいのよ」と言ってくれたが、とうに成人した娘がいつまでも親の世話になるわけにはいかない。
 とはいえ、働いて得たお金は一銭も無駄にしたくなかった。高校と専門学校の学費は奨学金で賄ったので、まずはそれを返さなければならないし、進学を控えている妹や母親の老後のために仕送りもしたい。
 そうなってくると、家賃の高さがネックである。どうせ働くなら職住一体……つまり、住み込みで雇ってもらえるところがいい。
 調理師の資格が活かせて、住み込みで働ける仕事─もろもろのことを考慮した結果、辿り着いたのが『家政婦』だった。
 一花は現在、『日だまりハウスサービス』という家政婦紹介所に所属している。
 登録された個人宅に家政婦を派遣する会社である。一日数時間だけの通いの家政婦から、家に住み込んでみっちり家事や雑用をこなすタイプまで、希望によって様々な働き方が選べる。
 一花がこの紹介所に所属して三年。半年ほどは、先輩について見習い家政婦として過ごした。
 初めて派遣されたのは、多摩市にある老夫婦の家だ。
 夫婦は一花を孫娘のようにかわいがってくれた。派遣期間は二年ほどだったが、ここで家政婦としてのスキルがだいぶ身についたように思う。充実した日々は、夫婦が揃って老人ホームに入ったことで終わりを迎えた。
 次の派遣先は、世田谷区にある一軒家だった。
 そこに住んでいたのは六十代の男性で、とある不動産会社の社長を務めていた。足腰は丈夫だが仕事が忙しく、家のことまで手が回らないので家政婦を雇ったらしい。
 提示された賃金は比較的高めだったので、その点はよかった。……だが、よんどころない事情があり、たった半年でそこを去ることになってしまった。
 というわけで、これから訪問する家が一花の新たな派遣先……になるはずである。
 日だまりハウスサービスは業界内でも評判のいい会社だが、そこに所属しているからといってすんなりと次の仕事が見つかるわけではない。時には働く前に派遣先の家族が面接を希望することがある。顔を突き合わせて話をした結果、「この家政婦とは合わない」と言われれば、それまでだ。
 これから訪ねる家も、面接を希望していた。一花としては、なんとしても面接をクリアして、少しでも早く仕事を再開したい。
 世田谷の家を辞してから十日。現在は台東区の自宅に身を寄せている。
 母や妹は戻ってきた一花を温かく迎えてくれたが、いつまでも甘えているわけにはいかないだろう。何せ、家政婦の給料は派遣先から支払われる。つまり完全歩合制なので、仕事がなければ入ってくるものもゼロなのだ。
「よし! 面接、気合い入れなきゃ!」
 一花はそう呟いて、頰をパシッとはたいた。ついでに、肩に掛けていたトートバッグから、日だまりハウスサービスのロゴが入った封筒を取り出す。
 封筒の中には二枚の紙が入っていた。一枚は日だまりハウスサービスの本部スタッフが用意してくれた地図だ。赤いペンで、訪問先までの道順が書き込まれている。
 残るもう一枚は履歴書だった。こちらは面接の際、相手方に渡す予定である。
「えーと……『東雲しののめ邸。黒い塀で囲まれた角地。かなり広いからすぐ分かるはず』かぁ」
 地図の余白にそんなメモが書かれていた。「東雲さん、東雲さん」と呪文のように唱えながら、一花は歩き始める。
 松濤は、やはり高級住宅街だ。周りにあるのは、ゆったりとした住み心地のよさそうな家々。外観はどれも、かなりハイセンスである。おそらくデザイナーズ物件だろう。
 リッチな雰囲気に引かれて泥棒が寄ってきやすいのか、セキュリティー会社のステッカーがあちこちに貼られ、防犯カメラまで設置されていた。
 ただ歩いているだけなのに、漂ってくるセレブの空気に包まれて「ふわぁ~」と溜息が出てしまう。それに、渋谷とは思えないほど静かだ。
「え、もしかして、ここ?」
 しばらく歩いたところで、一花は足を止めた。
 目の前に現れたのは、艶出し加工がなされた黒御影石のブロック塀。高さは一花の背丈の三倍ほどあり、それがずーっと長く続いている。
 塀の中がどうなっているのか分からないが、囲まれた部分が一軒の家なのだろう。ざっと見渡す限り、敷地はかなり広そうだ。
 その塀に沿って進むと、やがて『東雲』という表札が見えた。すぐ横には大きな鉄製の門がある。
 目指していた場所に辿り着いた。時刻は九時五十五分。ちょうどいい頃合いである。

 一花は深呼吸をして心を落ち着けてから右手で封筒を抱え直し、左手でインターフォンを押した。
「日だまりハウスサービスから参りました、三田村一花です」
 インターフォンのマイクに向かってそう話すと、門がゆっくり開いた。
 そこをくぐると、すぐになだらかな上り坂になっていた。敷地の大部分に盛り土がしてあるようだ。門から奥に向かって、石のタイルが敷かれた幅二メートルほどのアプローチが延びている。
 その先に、四角い建物が見えた。
 鉄筋コンクリート製の母屋だ。右側にはシャッター付きの車庫と思われるものがくっついている。左側には芝生が生えた地面が広がっており、母屋へのアプローチから枝分かれする形で奥の方まで石畳の小径が延びていた。
 敷地を囲む塀の長さを考えると、小径の先……母屋の裏側は広大な庭になっていると思われる。総面積は一体どのくらいなのだろう。
 これだけ土地が広いなら建物をもう少し大きくしてもよさそうなものだが、あえてそうしていないようだった。ゆとりを残した贅沢な建て方だ。
 一花はこの家のあるじについて、日だまりハウスサービスの本部スタッフから少しだけ話を聞いている。
 それによると、面接を希望している東雲氏は独り身。現在はこの家で、使用人と一緒に暮らしているらしい。
 その他のことについては、実際に会って確認してくれと言われている。
(こんなに立派な家の主って、どんな人なのかな……)
 未だ姿の見えない東雲氏のことを想像しつつ小径を進むと、やがて玄関の前に辿り着いた。全く同じタイミングで、観音開きの重厚な木戸が内側から開く。
「ようこそいらっしゃいました。どうぞこちらへ」
 玄関先に現れたのは、見事な白髪の老紳士だった。痩軀をぴったりした燕尾服で包み、鼻の下には髪と同じ色の髭をたくわえている。
 銀縁の丸い眼鏡をかけていて、やたらと姿勢がよかった。顔には穏やかな微笑みが浮かんでおり、向き合っていると自然と気分が和んでくる。
 この人物が東雲氏だろうか。それにしては、なんだか執事みたいな格好だが……と一花が首を傾げたところで、当の老紳士が口を開いた。
「東雲家の執事、服部はっとり林蔵りんぞうと申します」
 やはり執事だったようだ。東雲氏と一緒に暮らしているという使用人だろう。一花が改めて名前と面接を受けに来た旨を告げると、すぐにこう返ってきた。
「面接の件は存じております。その前に、まずはわたくしからいくつかお話をさせていただきましょう」
 家主と会う前に、この執事のお眼鏡に適う必要があるということか─そう思って少し身を硬くした一花に、穏やかな笑みが向けられた。
「おや、緊張させてしまいましたか。これは失礼。私の話は面接とは関係ありません。簡単な確認です。まずはこちらへどうぞ。庭に、見ていただきたいものがあるのですよ」
 白い手袋に包まれた執事の手が、外を指し示している。玄関先に立っていた一花は、導かれるまま庭に回った。
 個人の家の庭なのに、下手したら小学校の校庭と同じくらいはありそうだ。大部分は手入れの行き届いた芝生に覆われていて、敷地の端には庭木が何本も植えられている。
 中ほどには花壇があり、今はツツジが咲き誇っていた。五月の爽やかな気候も手伝って、立っているだけで気持ちがいい。うっかりすると、渋谷にいるのを忘れてしまいそうなほど緑豊かだ。
 ふと片隅に目をやると、倉庫のようなものがポツンと建っていた。老執事は一花を伴って、その小屋の前まで赴く。
「ここは『離れ』になっております。と言っても、ご覧の通りプレハブの簡易なもので、以前は物置だったのですよ」
 執事の手で小屋の引き戸が開け放たれ、一花は中を覗き込んだ。
「うわーっ、綺麗な部屋ですね!」
 外観は確かに質素だが、内側は思いのほかしっかりしている。
 まず、出入り口にはちゃんと靴脱ぎスペースがあった。続く二畳ほどの板の間はキッチンで、一ひと口くちのガスコンロや小さな冷蔵庫などが備え付けられている。
 奥に見えるのは、六畳の和室だった。要するに、一Kのマンションのような内装になっているのだ。
「当方の主は独り身の男性でして……。いろいろと気を遣うこともおありでしょうから、家政婦を迎えるにあたって取り急ぎこの離れをしつらえました。もし当家で働くことになりましたら、ここで寝起きしていただきたいのです。当然家賃はかかりませんし、光熱費は当家が負担いたしますが、母屋と比べると手狭ゆえ、ややご不便かもしれません。ご了承いただけますかな」
「手狭だなんて、そんな!」
 申し訳なさそうな態度を見せる老執事に向かって、一花は身を乗り出した。
「十分広いし、素敵です。それにここ……お風呂が付いてる!」
 そう。この離れにはバスルームがある。トイレと一体化したユニットバスのようだが、それでも風呂に変わりはない。
「はぁ……仰る通り、浴室は付いておりますが……」
 目を輝かせる一花を、執事は驚いた様子で見つめていた。「この娘は、風呂ごときでなぜ感激しているのだろう」と思っているに違いない。
 家に風呂が付いている─目の前の執事にとっては……いや、割と多くの者にとっては当たり前のことなのかもしれないが、そうでない場合もある。

 何を隠そう、一花の実家は『風呂ナシ物件』だ。間取りは六畳二間に、狭いキッチンとトイレが付いた二Kである。
 幸いにも斜め向かいに銭湯があるのだが、入浴するために洗面道具を抱えていちいち外に出なければならず、寒い日や雨の日はひどく億劫だった。
 だが、内湯があればその煩わしさから解放される。自分の部屋から湯船に直行できるなんて、なんと素晴らしいことか!
「離れの件は問題ありませんな。では、今度は中へどうぞ。もう少し詳しいお話をいたしましょう」
 執事はプレハブ小屋に施錠すると、一花とともに来た道を戻り、家の中に入った。
 鉄筋コンクリート製の母屋の間取りは、七LDKだという。そのうち、通されたのは一階の客間だった。
 ベージュの壁紙で覆われ、天井からシャンデリアが下がったその部屋の広さは、およそ二十五畳。ふかふかの絨毯の真ん中にソファーセットが設置してあり、一花と執事はそこに向かい合って座る。
「……三田村一花さん。現在二十三歳。家政婦になられて三年ほどですか」
 執事は丸眼鏡を押し上げながら、一花が手渡した履歴書をしげしげと見つめた。
「住み込みで働ける家をご希望なのですな。その点はこちらの条件とも合致いたします。しかし……ご実家は下谷ですか。下谷にお住まいであれば、二十三区内どこでも移動は楽でしょう。当家ではなく、どこか別の家で通いの家政婦になられてもよろしいのでは?」
 そう聞かれて、一花はすぐさま答えた。
「うちはあまり裕福ではなくて、家もかなり狭いので……。私だけでも家を出た方がいいかな、と思いまして」
 忙しく働く母の代わりに、十歳下の妹・芽衣めいの面倒は一花が見てきた。
 実家では、二つある六畳間のうち一つが姉妹の部屋だ。残ったもう一つは、居間と客間と母の寝室を兼ねている。
 つまり、姉が家を出れば、妹が個室を使える。
 一花は昔から、自分一人だけの部屋というものにずっと憧れを抱いていた。口には出さないが、芽衣も同じ気持ちだろう。自分が個室を持てなかった分、妹の夢を叶えてやりたい。
 そのあたりのことも含め、すべてを包み隠さず説明した。母に仕送りをしたいことや、奨学金を返さなければならないことも、もちろん言い添える。
 調べればいずれ分かることだ。隠しても意味がないし……何より、噓は吐けない。
「さようですか。家族想いなのですな」
 一花の話が終わると、執事は優しそうな笑みを浮かべた。それから再び履歴書に視線を落とし、「おや」と首を傾げる。
「この項目に書かれていることですが……」

 執事の骨ばった指が示したのは、一花の住所でも経歴でもなく、最後に設けられた『特記事項』の欄だった。
「ここに『噓が吐けない体質』とありますが、これは一体、どういうことですかな?」
「あ、え、えーと……」
 一花はごくりと喉を鳴らした。
 やはり、突っ込まれてしまった。もしかしたらスルーしてくれるかもしれないと思ったが、甘かったようだ。
 質問されたからには、正直に答えるしかない。何せ一花は─文字通り噓が吐けないのだ。
「そこに書かれている通りです」
「……と、言いますと?」
「私は、噓が吐けない体質なんです」
「それはつまり……正直者ということですかな?」
「えーと、それとは少し、違うような……」
 一花が言葉を濁していると、突如として客間のドアがバーンと開いた。
「話は聞かせてもらったよ」
 出入り口の方から、凜とした声が響く。
 そこに佇んでいた『誰か』を見て、一花は目を見開いた。
 切り揃えられたサラサラの金髪と、緑がかった青い瞳。すっと通った鼻筋に、形の綺麗な唇。
 とにかく、顔立ちが甘く整っている。しなやかな体軀に、金ボタンの付いたベストと揃いのズボンがよく似合っていた。
 息を呑むほどの美男子─まるで、ヨーロッパの貴公子のようだ。
 その美しさに、一花はただただ、うっとりと見惚れていた。熱くなってくる頰と、速くなる鼓動をほったらかしにして……。



 客間の出入り口に佇んでいた貴公子は、部屋の真ん中までつかつかと歩いてきて、一人がけのソファーに悠然と腰を下ろした。
 近くで見ると、ますます美しい。そして、遠目で見るより若い……というか、あどけない気がした。年齢はおそらく、十代後半くらいだろう。
 身長百六十センチの一花より五センチほど背が高い。男性にしては小柄だが、身体つきがすらりとしていて足が長く、モデルのようなスタイルだ。
 美麗な貴公子は、ゆっくり口を開いた。
「僕の名は東雲リヒト。ここの家主だ」

「あなたが……家主さん?」
 聞こえてきたのは、流暢な日本語だった。どう見ても西洋系の顔立ちなのに、ちょっと意外である。
 家主という言葉もミスマッチだ。自己紹介からすると彼こそが東雲氏─つまり、家政婦を雇いたがっているこの家の主ということになるのだが、それにしては歳が若すぎる。
 勝手なイメージだが、一花は東雲氏のことを独り身のおじいさんだと思っていた。実際、日だまりハウスサービスに登録している独身の男性は、六十代以上が多いのだ。
 目の前の情報を処理しきれずにいると、すぐ傍で綺麗な唇に笑みが乗った。
「林蔵と話してたことは把握してる。続きは、僕がじかに聞こう」
「面接の本番ということでありますか、リヒトさま」
 尋ねたのは老執事だ。貴公子は笑顔で頷く。
「そういうことだね。準備はいいかな、三田村一花」
 美形に名前を呼んでもらった。たったそれだけのことで、一花の心臓が跳ね上がる。面接の本番と言われて、さらに頭もフル回転し始めた。
「はい。面接、よろしくお願いします。えーと……東雲さま」
 ぺこっと頭を下げた一花の傍らで、綺麗な顔が僅かに歪む。
「うーん、ファミリーネームで呼ばれるのは好きじゃないな。リヒトって呼んでよ。それから、『さま』はいらない」
「えっ……でも」
 一花は咄嗟に前を見る。そこにいた執事は、主を『リヒトさま』と呼んでいた。さっきはそれに倣って『さま』と付けたのだ。
 そんな一花の視線に気付いたのか、貴公子は苦笑した。
「ああ……林蔵は、僕がいくら言っても呼び方を変えてくれないんだ。もう諦めた」
 名指しされた当人は「老いぼれ執事の習慣ゆえ、申し訳ありません」と頭を下げる。
「堅苦しいから、フルネームはやめて一花と呼ばせてもらう。だから、僕のこともリヒトと呼んでくれないかな。『さま』も付けないでほしい」
「この老いぼれのことは、林蔵とお呼びください」
 二人からそう言われて、一花は頷いた。
「分かりました。じゃあ……リヒトさんに、林蔵さん。改めまして、家政婦希望の三田村一花です」
 一花は意識して口角を引き上げた。とにもかくにも、このリヒトに気に入られなければ働き口にありつけない。一花は美しくないしお金もないが、母親譲りの笑顔だけは誰にも負けないはずだ。
 だから、必死に笑った。
 リヒトの顔にも天使のような笑みが浮かんだ……と思ったら、すぐさま射るような視線が飛んでくる。

「間抜けな顔だね」
 やや低く、重い声だった。さっきまでとは明らかにトーンが違う。
「……え?」
「一花は僕に雇ってもらいたいんだよね? なのに何のアピールもしないでへらへらしてるなんて、どういうつもりかな。笑顔だけで面接を乗りきれると思ってるの? 甘いよ」
 形のいい唇から零れた言葉が信じられなくて、一花は眉をひそめた。そうしている間にも、リヒトは林蔵が持っていた履歴書を手にする。
「ふーん。一花はここに来る前、別の家で家政婦をしていたんだね。期間は半年か」
 なんとなく棘のある言い方だった。
 口元は笑っているが、視線は鋭いままだ。まるでカタログ片手に、品定めでもされているような気分である。一花の胃がキュッと縮み、背中に嫌な汗が伝った。
「なぜ前の家の家政婦をやめちゃったの? 林蔵と話してたことは、僕も聞いてたよ。一花はお金に困ってるみたいじゃないか。住み込みを希望していたなら、前の家でも長く働く前提だったんだろう? それなのにたった半年でやめるなんて矛盾してるよね」
「うっ……」
 痛いところを突かれて、唸り声が漏れる。「ねぇ、どうしてやめたの?」と追い打ちをかけられ、さらに言葉に詰まった。
 ここは適当なことを言って切り抜けたいところだが、そういうわけにもいかない。一花はどうしても……どうしても、噓が吐けないのだ。
「……を、揉まれたんです」
 しぶしぶ絞り出した声はひどく掠れていて、一花自身も聞き取り辛かった。案の定、リヒトが怪訝そうな顔をする。
「揉まれた? 何を」
「何ってその、お…………お尻です」
 貴公子はポカンと口を開けたまま固まった。そんな顔をしているのに、やはりとても美しい。
「前の家主に卑劣な振る舞いをされたため、家政婦をやめた……ということですかな」
 上手いこと話をまとめてくれたのは、執事の林蔵だった。一花はこくりと頷いて、膝の上で拳を握る。
 脳裡をよぎったのは、前の派遣先である世田谷の家の主─腹がポコンと出ていてずんぐりとした、タヌキそっくりの人物だ。
 彼は最初のうちは、一花に優しく接してくれた。
 だが、すぐに本性を現した。とにかく、朝起きてから夜寝るまで、暇さえあれば一花の尻を触って撫でて揉んでくるのだ。
 しばらくは我慢したが、住み込みで働いていたので逃げ場がない。毎日毎日毎日……しつこく粘っこく尻を追いかけ回され、十日前、ついに一花はブチ切れた。

 タヌキ親父の頰に張り手を一発─それであっさりクビである。
「そりゃ、ビンタしたのは私が悪かったですよ?! でも、耐えられなかったんです!」
 すべてをありのままに説明すると、一人がけのソファーにふんぞり返っていたリヒトはいかにもつまらなそうに「ふーん」と呟いた。
「そういう経緯があるなら、こっちが聞く前に話してほしいな。じゃないと『たった半年でやめていく自分勝手な家政婦』だって誤解するだろう。さっきも言ったけど、ただへらへら笑ってるだけじゃ意味がない。何のためにわざわざ面接してるか分かってる? 僕は、一花が信用できる人物かどうか見極めたいんだ」
「ううっ……」
 言うことがいちいち辛辣である。しかも、内容は正しい。
「そもそも履歴書を見せた時点で『なぜ前の職場を半年でやめたの?』と聞かれるのは想定できたはずだよね。あらかじめ伝えておいてくれれば僕から質問する手間が省けたのに。時間を無駄にした。一花は人生において時間がどれだけ大切か分かる? 一度過ぎた時間は、もう二度と戻ってこないんだよ」
「す、すみません」
 一花より若そうなのに『人生において』とは大仰である。辛辣な上に、ちょっと嫌みだ。まるで姑に叱られている嫁のような気分になってくる。
「さて一花」
 貴公子は、悠然と座ったまま一花の名を呼んだ。
「一花は、この家の家政婦になりたいんだよね。つまり、僕のために働きたいわけだ」
「えっ! は、はい」
「だったら聞くけど─僕のことをどう思う?」
「……は?」
「一花がここで働くとしたら、ほぼ毎日、一緒に過ごすことになる。僕は共同生活を営むのに相応しい人物かな」
「ええっ!」
 突然そんなことを聞かれて、面食らった。
 最初、一花はリヒトの華麗な容姿に見惚れた。だがこの貴公子は、完全に毒舌家だ。畳みかけるような言い回しが、いちいち心にグサッとくる。
 正直なところ、絶対に友達にはなりたくないタイプである。
「僕のこと、どう思う?」
 再びリヒトに聞かれて、言葉に詰まった。
 東雲家の主であるリヒトは、一花を雇うかどうかの決定権を持っている。「ぶっちゃけ性格悪いですよね」などと馬鹿正直な感想を伝えたら、どうなるかは目に見えている。
 とりあえず、ここは愛想よくしておくべきだろう。
「……リヒトさんは、た、大変素晴らしい人だと思います!」

 一花は腹にぐっと力を込め、最後まで言いきった。
 が、途端に鼻がムズムズし始めて、慌てて口を押さえる。
「……っくしょん!」
 堪えきれなかった。飛び出したくしゃみが、静かな客間にこだまする。
「ふーん、素晴らしい人か。それは一花の本音なの?」
 リヒトの問いに、一花はこくこく頷いた。
「も、もちろん、本音ですよ。……っくしゅん!」
「正直に言ってほしいな。本当に僕のこと、いい人だと思ってる?」
「思ってます。リヒトさんは穏やかで優しそうで、いい人に違いない……っくしょん、くしゅん、は、はっくしょん!」
 その後、派手なくしゃみが十回以上乱れ飛んだ。なんとか抑えようと顔に力を入れたせいで、目にうっすらと涙が滲む。
「大丈夫ですかな」
 林蔵が、心配そうな顔を向けてきた。一花は「大丈夫です」と返そうとしたが、またもやくしゃみに遮られる。
(だ、駄目。もう誤魔化せない……!)
 こうなったら話すしかない─己の厄介な『体質』について。
「私、噓を吐くとくしゃみが出ちゃうんです」

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