父が重い病だと知らされたのは、今年(2021年)の6月の末だった。
ちょうどそのころ、私は家族をテーマにした小説の初稿を書き終えようとしていた。少し前に、別の出版社から依頼されたほんの短いエッセイに父との思い出を書いていた。実際の父について、あるいは家族について文章を書くのは初めてのことだった。
私が「家族」というものに興味を向けて文章を書くようになった理由は、簡単に思い当たるものがふたつある。
ひとつは3年前に子供が生まれたこと。
もうひとつは、コロナの流行で実家との多少の分断が生まれたことだった。
これは非常に書きづらいのだけど、私はコロナによって、極端に行動が制限されることには違和感があった。
もちろん、できる範囲のことはすれば良い。できる限りのことをした方が良い。マスクをして、手の消毒をして、人と会う機会を極力減らして――そういうのは、意識して実践してきた。
けれどすでに高齢になった両親について考えたとき、常にコロナへの対策だけを第一に考えることに抵抗があった。
あの人たちは(そしてもちろん私たちも)、まいにち死に近づいているのだ。
2020年の夏も、私は実家の両親に帰省を提案した。
でも母は、世の中がもう少し落ち着いてからで良いのではないか、と言った。父も同じ意見なのだと聞いた。
母は自分が病気になることよりも、他県のナンバープレートの車が自宅に止まるのに抵抗があるようだった。近所の人たちを不安にしたくないのだと言っていた。私にはあまり実感を持てない感覚だったけれど、想像することはできた。生き方における社会と個人の比率のようなものが、私と母ではやはり違うのだろう。
私は本心では、「あなたもそのうち死ぬんだよ」と言いたかった。母も、父も。この人たちは自分に、あとどれだけの時間が残されていると考えているのだろう。もう少し、もう少しと言って、その時間をどれだけ削るつもりなのだろう。
けれど実際には、そんなことは口にできなかった。「わかりました、ではそちらの判断を尊重します」という風に答えた。本当に、こんな風に堅苦しいメールを送ったように思う。
それから私は両親の顔をみないまま、1年ほど過ごした。
そのあいだに家族に関する、いくつかの文章を書いた。
そして今年の6月の末に、父が重い病だと連絡を受けた。
入院中の病院には顔を出すこともできないそうだ。
今考えても、社会的な正義は私の両親の方にあるのだと思う。
だから私たちは、正しい判断をしたのだ。
私は2020年に、無理に帰省するべきではなかったのだ。
人はこれ以上、社会の負担にならないように、いくつかの個人的な感情を殺して生きるべきなのだ。
――だれかがこんな風に言っていたなら、私は「その通りだ」と答える。
それは別に、口先だけの嘘ではない。本当に、なんて正しい意見なんだろうと思う。そして私は正しい意見を愛している。
でも。それでも。
この先は上手く言葉にできないのだけど、でも私の胸の中には、消しようのない反論だってある。
きっと私は正しい意見への愛と、形にならないあやふやで脆弱な反論を材料にして小説を書くのだと思う。
父の病を知らされた夜は、子供がなかなか寝つかなかった。
私はずいぶん遅い時間に、その子と妻とでドライブにでかけ、海辺の公園を散歩した。
公園の自動販売機では、キットカットが売られていた。
健康のために、長く生きるために、私は糖分を制限しているけれど、その夜はルールを破ることにした。
紙箱の中に、ちょうど個包装のものが3つ入っていて、妻と子と私でわけて食べた。
「父親の病気を知った日なんだから無敵だよ」と私が言うと、妻が笑った。
まったく正しくも、社会的でもない強がりで妻が笑ってくれたから、少しだけ救われた気がした。
子供はさんざん夜の公園を走り回って満足したのか、帰りの車の中で眠った。
その数日後に、私は家族をテーマにした小説を書き終えた。
その小説の、あとがきというか、まえがきというか、蛇足のようなものがこれだ。
この文章では作中の「ジャバウォック」という怪物について説明しているつもりなんだけど、上手く伝わるのかは自信がない。
なんにせよ私たちはジャバウォックがいる世界で生きている。たいていは上手く共存できるんだけど、たまにどうしても、バールだとかキットカットだとかでその怪物と闘わなければならない。「君の名前の横顔」というのは、だいたいそういう話なのだと思う。