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第7回

(ロックダウン日記第7回)アパートの隣人、トムの青空理髪店

 今、うちのアパートの敷地内では「青空理髪店」が開店中だ。

 アパートの隣人のトムが、自分のユニットのすぐ横の細い路地で、客の髪の毛をカットしているのだ。

 このトムは、元モデルで、50代半ばの男性なのだが、本業は美容師で、ヘアサロン勤務だ。

 LAの自宅待機令が発令された直後の3月19日の夜、私がアパートの共同ランドリーで洗濯をしていると、トムがやってきてこう言った。「まいったな。勤務先のヘアサロンが閉鎖になっちまったよ」。

 それがもう半年前だ。

 この原稿を書いている9月1日現在、LAではヘアサロンに営業停止命令が出されたままの状態だ。

 いや、厳密には、サロンの室内に客を入れて営業することは、許されていない。

 唯一、OKなのは、室内ではなく、屋外で、美容師も客も完全にマスクを着用しての散髪ぐらいだ。

 もちろん、シャンプーは一切禁止されている。

 そんな中、トムの客たちが、彼の自宅アパートを訪ねてきて「髪を切ってくれ」と頼むのだ。

 トムは、彼と私のユニットの間にある細い路地に、高さを調節できる、くるくる回る小さい床屋椅子を置き、そこに客を座らせて、太陽の下で髪を切るようになった。

 トムはどうやら喘息持ちらしく、「マスク警察」の異名を取るほど、マスクを着用しない人間に対しては、めちゃくちゃ厳しい。

 つまり、マスクをしてない客は、絶対に受け付けないわけだ。

 そこは一応安心なのだが、問題は、私の部屋の仕事机の横にある窓の外、約2メートルの場所で散髪しているトムと客の会話が、まる聞こえなことだ。

 客は今のところ、全員男性だ。そして、彼らの話題は99.9%、恋愛についてだ。

 会話を盗み聞きする気はサラサラないのだが、彼らが大きな声で話しているので、いやでも聞こえてきてしまう。

 昨日の客の話は、こう始まった。


客「俺さ、例の彼女に二股かけられてたんだ。いや、最初からその気配は若干あったんだよ。でも、見抜けなかった。俺が彼女の家から帰った後、すぐ他の男を自宅に連れ込んでいた。俺が帰ってから、わずか2時間後に別の男が来てたんだ。同じ日に、しかも、たった2時間後ってのが、二股かけられてた事実以上にショックだったよ。完全に騙されてたよ、俺」

トム「まあ、そういうこともあるさ。俺なんか、ずい分前だけど、初めて一緒にベッドを共にした後に、『私、実は性病もちなの』って告白されたことがある」

客「まじか!せめて、寝る前に言うのが、マナーってもんだろ!」

トム「そうなんだ。さらに、彼女の元彼がショットガンを持って、俺のうちに来て『俺の女から手を引け』と脅されたよ」

客「ショットガン!まじか!で、どう対応したの?」

トム「友人からライフル借りて、武装したよ」

客「ひえー!でも、そうだよな。ショットガンに対抗するには、ライフルしかないもんな。で、どんな彼女だったの?」

トム「ファッションモデル。身長190センチあって、俺と同じぐらいの背丈で、すごい美人。だけど、性格は悪かった」

客「性格悪いって、どのぐらい悪いの?」

トム「レストランのウェイターへの態度が最悪だった。店で席に案内されると『ちょっと、この席は超アグリー!他の席に変えて!』って吐き捨てるように冷たく言うんだ。ウェイターには、店の内装デザインの責任はないのに、『醜い』って文句言ったって、ウェイターにはどうしようもないのにさ」

客「なんだ、その彼女。俺は、客商売のひとたちに、ひどい態度を取る女だけは、絶対にいやだな。だって、俺たちだって、客商売じゃないか」

トム「そうなんだよ。だから、俺が礼儀を少しずつ教えてやったのよ」

客「でもさ、性病を隠して新しいボーイフレンドとつきあう女なんて、性悪だな。よく我慢できたね」

トム「まあ、そうなんだよ。で、結局は、ショットガンで人を脅す前科持ちの元彼のもとに帰っていった。その時の言い草が『私にはああいうレベルの男ぐらいしか手に入らない。ああいうレベルの男が私には、ちょうどいい』だったんだ」

客「なるほど、自尊心の低い女だな」

トム「そうなんだよ。一生懸命頑張って、自己研鑽して、世界でいちばん素晴らしい男をつかまえよう、という野心やガッツがないんだよ。どうせ自分なんてって、心の底で思ってるわけ。そんな彼女の自尊心を向上させようと、いろいろ教えてやった俺は、結局、彼女にとってダディ的な存在でしかなく、彼女はクズのもとに帰ってった」

客「モデル業界ってそういう女性ばかりなの?」


トム「まあ、健全な自尊心が育つ業界とは言い難いかもね。競争が激しいからトップに行くには相当の根性が必要だし。そもそも、自分は美人だから男はすぐなびくと思ってるパターンが多すぎる。男はそんな単純じゃないのにさ。ちゃんとした自尊心のない女は、まともな男からは、絶対に尊敬されないってことが、全くわかってないんだよ。だから、ああいう女は、一緒にいて自分がラクな、レベルの低い男としか長続きしない。彼女にとってはショットガンで人を脅す男が、お似合いだったってことさ。モデルだから、外見はめちゃくちゃ綺麗だよ、でも、年取ったら何も残らないシビアな業界であることも確かだ」

客「そうか。あ、そこそこ、そこがいつも盛り上がってて、いやなんだ。そこ、なんとかして」

トム「できる限りやるけど、俺は、髪の生えている方向を変えることはできないんだよ。あんたの髪は、生え際から、こっちの方向に向かって生えてるの。それはどうやっても変えられないんだよ。わかる?」

客「わかるけど、何とかして。ブラシでいくら梳かしても、そこの部分が、いつも決まらないのよ」

トム「じゃあ、ここをこうして切って、こっちに逃がすようにしたらどうかな?」

客「あ、いいね。盛り上がりが目立たなくなる。それでお願い」

トム「で、ビバリーヒルズの不動産業はどうなの?最近は?」

客「金持ちはガンガン家買ってるよ。キャッシュで。自宅隔離状態を余儀なくされているから、みんな広い家に住み替えたいんだな」

トム「なるほど」

客「ねえ、確かあんたも不動産セールスの資格試験受けてたよね?資格は持ってるんだろ?」

トム「持ってる。でも、まだ使ったことはないんだ。今、俺、アパレル事業に参入してるのよ」

客「アパレル?服なんか、このコロナ禍で、誰も買わないだろ」

トム「服じゃないよ、マスク。マスク作って売ったら、飛ぶように売れたのよ」

客「生産はどうしてるの?」

トム「倉庫借りて、人雇って、1日100枚から200枚ぐらい生産してる。業務用ミシン仕入れて」

客「すごいな、本格的じゃん。あとどのくらいやるつもり?」

トム「あと2年はマスクでガンガン稼げるって目算だよ。俺みたいな美容師は、失業保険出ないから、マスクで稼ぐよ」

客「2年!?まじかよ。そんなにずっとマスクしなくちゃいけないの、俺たち?」

トム「バスや電車など公共交通機関や店の中では必ずマスクしなきゃけない時代になってるから、今後、2~3年はみんなずっとマスクするよ」

客「そうだよな。俺が、わざわざあんたの家まで来るのも、あんたなら、絶対に消毒やマスクに気をつけているからなんだ」

トム「若いヘアスタイリストは危機感ないからな。俺は55歳以上で喘息もあるし、コロナにかかったら、8割死ぬ確率だから、ものすごく気をつけてる。若いやつみたいに、飲み会やって騒いだりしないし、感染しそうな場所には絶対に近寄らない。そもそも、酒はキリスト教徒になってからここ何年も一滴も飲んでない。俺、元アル中だから、そこは絶対なんだよ。それが逆に商売にうまく作用しているんだよな、皮肉にも」

客「しかしさ、トランプ、どうにかなんないのかな」

トム「いや、あいつ、本当に、再選されちゃうかもしれない。恐怖だよ」

客「そうだよな。俺の顧客は、富裕層やハリウッド・スターじゃない?ハリウッドの連中は、みんな反トランプ派だけど、ぶっちゃけ、別にトランプが再選されようと、スターの経済や生活に影響はないのよ。だけど、俺たちみたいな庶民にとっては、あいつがあと4年も大統領なんて、生活への打撃がデカずぎるよ」

トム「バイデンなあ。民主党、もっとちゃんとしてくれないと困るんだが、イマイチすぎる。トランプは、恐怖を煽って、民主党がアナーキストたちの集まりだというメッセージを流しているだろ。あれを鵜呑みにして、まるで自分の家が、明日、BLMのデモがらみの暴動で焼かれるかのように騒いでいるトランプ支持者が多いんだよな」

客「あんたが店で営業できるのはいつごろになりそう?」

トム「まだ先だろうな。ひとりでも店で感染者出したら、もう終わりだし。明日、ひさしぶりに店のミーティングあるけど、どうなるか」

客「ねえ、俺の新しいテスラ見る?買ったんだよ、モデルY。丸っこい流線型がかっこいいのよ。そこに駐車してあるから」

トム「おお、いいね。よーし、これで終わりだ。どう?」

客「ああ、いい感じ。よかった。ありがと!すっきりしたわ」


 その後、客が去って静かになってから、路地に出てみた。

 散髪用の椅子はそのままそこに残されていたが、客の髪の毛は、全て綺麗に掃除され、路地のコンクリートの上には、1本も毛髪が残っていなかった。

 トムがいつも使っているバーベキュー用のコンロや、園芸用の空の植木鉢は、路地にぐちゃぐちゃに置かれているのに、髪の毛だけは一本も残さず、完璧に片付けられているのが、あまりにも見事だった。

 開けっ放しになっているトムの部屋の玄関からは、いろんな色の髪の毛が生えた頭部だけのマネキン数体と、業務用のミシンが見える。

 その日の夜、民主党の下院議長、ナンシー・ペロシ氏が、サンフランシスコの行きつけのヘアサロンの店内で、マスクを着用せずにガウンを着て歩いている様子を映した店内防犯カメラの動画が、全米のニュースで一斉に流れた。

 ヘアサロン側が、FOXニュースに映像を提供したのだ。

「LAやサンフランシスコのヘアサロンは、どの店も、室内で営業することを固く禁じられてきたのに、ペロシ氏は政治家だからマスクもせずに特別扱いでサロン通いか」という議論がカリフォルニア中で巻き起こった。

 トランプ大統領は、すかさずツイートで「クレイジー・ナンシー」と呼び「人にマスクを着用しろと常に説教しているのに、自分がマスクをしていない上、他の店が閉鎖されているのに、自分が行く店だけオープンさせた」と攻撃した。

 カリフォルニア州には約60万人の美容師・理容師がいるが、彼らの多くはサロンの正社員ではなく、ギグワーカーと呼ばれる、サロンと契約を結んで働く、個人事業主だ。

 彼らは給与制ではないため、仕事がなければ、収入はない。

 そして9月2日、美容師たちの困窮をみかねたLA郡はついに、ヘアサロンに対し「通常の25%の人数の客に向けて店内サービスを提供するならば許す。ただし、できる限り屋外での営業も続けること」という苦肉の策を発表した。

 ただ、実際問題、通常の25%の数の客だけを対象にした店内営業では、多くのヘアサロンは、店舗の家賃すらまともに払えない。

 レイバーデイの祝日を迎えたLAの最高気温は、摂氏42度を超える予報だ。

 トムの青空床屋は、いつも週末が書き入れ時なのだが、灼熱の猛暑の中、客は果たして何人やってくるのか。

 LAの美容師たちは、今後、経済的にサバイバルできるかどうか、瀬戸際の秋を迎えている。


Profile

長野美穂

ジャーナリスト。東京の出版社で雑誌編集記者として働いた後、渡米。ミシガン州の地元米新聞社ペトスキー・ニューズ・レビューでインターン記者として働き、中絶問題の記事でミシガン・プレス・アソシエーションのフィーチャー記事賞を受賞した。その後独立し、ネイティブ・アメリカンの取材などに没頭。ボストン大学大学院を経て、イリノイ州のノースウェスタン大大学院でジャーナリズム修士号を取得。カリフォルニア州ロサンゼルスの新聞社インベスターズ・ビジネス・デイリーに入社し、約5年間、自動車業界・バイオテクノロジー・製薬・銀行などを担当する経済記者を経て、フリーランスジャーナリストとして活動している。テニス、カヤック、サッカーなどアウトドアスポーツが趣味。

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