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第6回

(ロックダウン日記第6回) コロナ禍の教育現場、キャロルが高校教師を辞めた理由

「ミホ!ニュースがあるんだ。私、さっき退職届け出してきた。危険すぎて、もうこれ以上、学校で働き続けられない。時間あったら電話して。じゃね!」

 8月末のある朝起きると、留守電にそんなメッセージが残されていた。

 北ミシガンに住む親友のキャロルからだった。

 え、嘘!?

 録音を聞きながら、思わずスマホを落としそうになった。

 「教えることが、私の天職」。

 いつも笑顔でそう言う高校教師のキャロルが、9月の新学期直前に学校を辞める?!

 ちょ、ちょっと信じられない。

 心臓がドキドキしてきた。

 私が彼女と知り合った23年前からずっと、キャロルは北ミシガンの同じ学区の公立高校の「特殊学級」の教壇に立ってきた。

 ドラッグ、暴力、いじめ、家庭内虐待。そんな深刻な問題に直面してきた、情緒障害のある生徒ばかりを集めた「スペシャル・エデュケーション・クラス」の担任を務めてきたのだ。

 クラスの中には、教室内に銃を持ち込んだり、暴力沙汰を起こして、普通高校をキックアウトされ「最も危険な10代たち」というレッテルを貼られた男子生徒たちもいた。

 そんな一触即発の彼らを根気良く指導し、卒業まで導く。それも彼女の仕事なのだ。

 身長180センチ以上ある屈強な体格の男子生徒たちが、ナイフや武器をジャケットに隠して学校に持ち込もうした時も、ひるまず彼らを説得したキャロル。

 彼女の教室を訪れ、いかにもワルそうな生徒たちが奇声を上げているのを見るたび、私は恐怖で震え上がった。

 しかし、これまで一度も「危険すぎる」という言葉を、キャロルの口から聞いたことはなかったのだ。

「私、アンダードッグをほっとけない性格だから・・・」。

 アンダードッグとは、世の中から注目されない、脚光を浴びない、日陰の存在を指す言葉だ。

 慌てて彼女の番号をプッシュする。

 応答はなく、留守電だった。

 しばらくして、こんなテキストメッセージが届いた。

「今、気持の整理をしに、スーペリオール湖の近くに来てる。気温21度で涼しいよ。電波の状況が悪いから、町に戻ったら連絡するね」。

 そのメッセージには1枚の写真が添付されていた。

 文豪ヘミングウェイがこよなく愛した五大湖のひとつ、スーペリオール湖の透き通る水面と、水の下に見える赤や緑の石を写したショットだった。


「教師を辞める?!どういうこと?信じられないよ。本気なの?」。

 数日後、やっと彼女と連絡が取れると、私は矢継ぎ早に質問した。

「1000%本気だよ。だって、ダグを危険な目に遭わせるわけにはいかないもん」。

 ダグというのは、彼女の夫で、彼女より20歳年上の元美術教師だ。

 ダグはすでに引退し、自宅でアート作品を作って悠々自適に暮らしている。

「ダグが危険な目に遭うって、どういうことよ?」

「うちのクラスには、マスク反対派の親に育てられている生徒たちがたくさんいる。さらに、一部の過激な生徒たちが、誰かの顔に向かってわざと咳をしたり、唾を吐く可能性が高いんだよ。もし、飛沫が身体にかかったら?そして、もしウイルスを家に持ち帰ってしまったら?私には、ダグを殺すかもしれないリスクは、取れないよ」。

 つまり、コロナウイルスと、マスク着用を拒否する”反マスク派”のせいで、勤続23年の職場を離れることを余儀なくされるということなのか?!

 あまりの理不尽さに絶句した。

「ちょ、ちょっと待って。学校は守ってくれないの?仕切り板は?アクリルボードで生徒の机を囲むとかの対策は?対面じゃなく、ネットで遠隔授業はできないの?」

 電話の向こうで「ふーっ」という大きなため息が聞こえた。

「そんなこと、とっくに学区や教育委員会に何度も申し入れたよ。何度も強く要望したけど、予算がないという答えの一点張り。つまり、私たち教師やスタッフや生徒の安全が守られない状況で、対面授業をしろってこと。そんな理不尽な命令には、従えない」。

 同じ学校で、今回、退職届けを出したのは、キャロルだけではない。

 彼女の同僚で、勤続32年の、別の特殊学級担当の教師も辞めたという。

 その同僚教師のひとり娘には、免疫不全の持病があり、コロナに感染すると、即、死につながる危険があるからだ。

 これまでずっと打ち込んできた職か。それとも愛する家族の命か。

 教師がそんな究極の選択を迫られる。

 これがコロナウイルスが蔓延するこの国の現実なんだ。

 気温37度の真夏日なのに、背筋がぞっと冷たくなった。

 それにしても、本当にいま、辞めてしまって後悔しないのか?

 一時の突発的な判断で、一生のキャリアを断ち切っていいのか?

「もう十分考えて、決断した。後悔しないよ。家族の命がかかってるんだから」とキャロル。

 彼女はすでに生徒全員に個別に電話をかけ、退職を告げていた。

「ダグの命を守るため、私、教師は辞めるけど、もし何かあったら、電話1本ですぐ駆けつけるから、いつでも連絡して」。

 そう生徒に伝え、彼らの親たち全員にも電話したという。


 キャロルは、これまで何度も、自分の生徒たちを自宅の牧場に招いていた。

 キャロルの自宅は、東京ドームの大きさに近い4万平方メートルの広さがある巨大な牧草地だ。

 そこで2頭の馬を放牧している。

 鞍をつけずにベアバックで馬を乗りこなすキャロルは、まるでアルプスの少女ハイジみたいな感じだ。

 彼女の家に行くたび、いつもこのベアバック乗りにトライしてみるのだが、馬が一斉に全力疾走し出すと、死ぬほど怖い。

 彼女の生徒たちは、その牧場で、生まれて初めて馬に触るという体験を味わった。

 ある生徒の親は、重度のドラッグ中毒で、生徒自身に処方されたADHD(注意欠如・多動性障害)の薬まで、自分の子供の鞄から盗んで全部飲んでしまう。

 そんな家庭環境で育った生徒は、馬に触って、生まれて初めて心の底から「安心する」という感覚がどんなものかをしみじみ味わった。

 キャロルは、自然の中で動物と触れあうと、ささくれ立っていた生徒たちの情緒が落ち着くことを知っていたからこそ、機会を作って、積極的に生徒たちを自宅に招いてきた。

 馬に触って生徒がもし怪我したらどうするんだ、という学校経営陣の声には「私が全責任を取ります」と直談判して許可を取りつけた。

「私はもう学校にはいないけど、これからも、つらいことがあったら、いつでも馬を触りにおいで」と生徒たちに伝えたのが昨日だという。

 生徒たちのために、ここまでする教師を、私は他に知らない。

 家庭で虐待され、普通高校でいじめに遭い、精神的に追い詰められ、行き場をなくした多くの生徒たちにとって、彼女の牧場はまるで、オアシスのような場所だった。

 彼女より20歳年上のダグは、自宅にやってくるそんな彼女の生徒たちにアート作品作りを提案し、一緒にペンキを塗りながら、どうやって鬱屈した感情をプラスの方向で発散すればいいか、身体で教えてきた。

 キャロルの退職が不可避となると、彼女の生徒たちは、一体どうなるのか?

「学校は、果たして替わりの教師を見つけられると思う?」とキャロルに聞いてみた。

「さあ、どうだろうね。できれば、若くて、エネルギーと情熱がある教師が見つかってほしいけど」。

 しかし、実際問題、もし優秀な教師なら、当然すでに職についているはずで、9月8日から学校が始まるというこんな切羽詰まった時期に、無職でいるとは考えにくい。

 今回の退職で、キャロルが失うのは、教師としてのキャリアだけでなく、給料、年金、保険、その他のベネフィットまるごと一切合切だ。

 ミシガン州の教師の場合、30年間勤め上げれば、教師の年金や引退後の医療保険がフルで受け取れるため、30年に数年満たない時期に、途中で退職する人はほとんどいない。

 医療保険は、ダグがすでに引退用教師の保険を持っているため、彼の保険で家族全員がカバーされるが、キャロルの月々の給料は、もうこの先入ってこない。

 彼女のように、特殊学級教育専門の修士号を持つ教師の数はそもそも少ない。

 彼女の給与は年収900万ほどで、ミシガン州の教師の中でもトップクラスだ。

 その全てを、家族の命を守るためとは言え、このタイミングで捨ててしまうのは、怖くないのだろうか。

 大学生になったばかりの息子の学費も払わなければいけないのに。

「ダグの命は、お金とは比較できないから。しばらく休んで、もし暇に飽きたら、何か仕事見つけるよ」。

 若い頃から教師になると決めて、大学の専攻を選び、フルタイムで働きながら専門の修士号を取り、危険を顧みずに教壇に立ち、教育に打ち込んできた彼女。

 それはひとえに「問題児」とくくられてしまう生徒たちの可能性を、何とかして引き出してやりたい、という情熱ゆえだ。


 ずっと前に、キャロルとダグの家で1週間の夏休みを過ごし、帰りにダグに空港までトラックで送ってもらったことがあった。

 とうもろこし畑とひまわり畑がひたすら続く田舎道で、トラックの窓を全開にしてダグはこう言った。

「ミホ、あんた、子供を産む気はないのか?」

「うーん、考えてないな。実際、そんな余裕ないもん」。

「あんたは、仕事に打ち込みたいんだろ。でも、もしあんたが子供を産みたいなら、俺とキャロルが育ててやるから、いつでも産んで俺たちに預けていいよ」。

「は?何言ってんの?」

「俺も若い頃は、子育てがめちゃくちゃ下手だったんだが、経験を積んで、年を取ると、子育てスキルがぐっと上がっていることに気づいたんだよ。親として余裕ができたんだな。だから、もうひとりぐらい大丈夫。アジア系の子ってきっとかわいいと思うんだ。子供に会いたい時、いつでも会いに来ていいから」。

 実は、ダグは、キャロルと再婚する前に2度ほど結婚していて、すでに娘がふたりいるのだ。

 その後再婚したキャロルとの間に息子がひとりいる。

 つまり彼はすでに3人の子持ちであり、おまけに、彼の娘たちと、キャロルはほとんど同じ年なのだ。

 ダグは若い頃は、俳優のジョージ・クルーニーにそっくりだった。  

 ちなみに、美男美女のカップル、ダグとキャロルの息子は、俳優のライアン・ゴスリングにそっくりだ。

「いやダグ、馬とか牛じゃないんだから、子育てが途中で嫌になったから、もうやーめた、ってワケにはいかないんだよ」

「もちろん、わかってるよ」

「じゃ、もし私が産んだ子がグレたり、全く言うこと聞かない子だったらどうするのよ?」

「キャロルは、そういう子を教育するプロフェッショナルだから、大丈夫。どんなケースでも対処できる。それはあんたも、よーく知ってるだろ」 

 確かに、それはそうだが。

「俺も教師の端くれとして、今までたくさんの教師たちを見てきたけど、キャロルは別格でピカ一の教師だよ。家族だからひいき目で言うんじゃないんだ。客観的に見ても、彼女の教師としての力量はすごいよ。見てて、ほとんど感動するレベルだ」。

 ダグのその言葉に、私も無言で頷いた。

 インフルエンサーというバズワードがいま、巷で流行っているが、キャロルのような教師の存在こそ、生徒の個人個人の人生にかかわり、大きな影響を与えるという意味で、真のインフルエンサーではないのか。

 そんな彼女の教師人生が終わってしまう。

 これをコロナ禍と言わず、何と言えばいいのだ。

 コロナが憎い。

 ワクチンさえ完成していれば、彼女が教師を辞める必要もなかったのではないか。

 ミシガンに”マスク反対派”さえいなければ、あるいは、彼女はこの秋も、教壇に立っていたはずではないのか。

 キャロルと電話で話しながら、いろんな想いが交錯する。

「昨日、自分の教室に残っていた私物を取りに行ったんだけど、清掃係の用務員も、通学バスの運転手も、校内カフェテリアの食事係も、皆、新学期が怖くてたまらないって言ってたよ」。

 キャロルは、これから先、学校で働き続けなければならない同僚たちの身の安全を何よりも案じていた。

「よし、じゃ、そろそろ馬にブラシかけて、鶏小屋を掃除してくるか。じゃ、またね!」。

 キャロルはそう明るく言って、電話を切った。

 電話から伝わるその声の明るさが、切なくて、涙が出そうになった。


Profile

長野美穂

ジャーナリスト。東京の出版社で雑誌編集記者として働いた後、渡米。ミシガン州の地元米新聞社ペトスキー・ニューズ・レビューでインターン記者として働き、中絶問題の記事でミシガン・プレス・アソシエーションのフィーチャー記事賞を受賞した。その後独立し、ネイティブ・アメリカンの取材などに没頭。ボストン大学大学院を経て、イリノイ州のノースウェスタン大大学院でジャーナリズム修士号を取得。カリフォルニア州ロサンゼルスの新聞社インベスターズ・ビジネス・デイリーに入社し、約5年間、自動車業界・バイオテクノロジー・製薬・銀行などを担当する経済記者を経て、フリーランスジャーナリストとして活動している。テニス、カヤック、サッカーなどアウトドアスポーツが趣味。

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