8月8日の土曜日。
カリフォルニア州チノという街にある航空博物館「プレインズ・オブ・フェイム」を目指して、車で東に向かってひたすら走っていた。
自宅待機命令中、こんなに遠くに来るのは初めてだったが、この日、この場所で、どうしても見ておきたいものがあった。
真っ青な空の下、牛たちがのんびり干し草を食べている田園風景の中に、その博物館はある。
チノ空港に隣接するこの私設博物館には、主に20世紀に活躍した160機以上の戦闘機が世界中から集められ、展示されている。
マスクをして館内に入ると、アロハシャツを着た白髪の男性が、係員に尋ねていた。
「エノラ・ゲイはどこ?」
その言葉を耳にしたとたん、心臓をわしづかみにされたような気がした。
今日は米国時間の8日。広島と長崎に原爆が投下された6日と9日のちょうど真ん中の日に当たる。
この時期、予測されることではあるのだが、入館するなり「エノラ・ゲイ」という、日本人の自分にとっては破壊力満載のワードが飛び出してくるとは。
まだ十分に心の準備ができていないうちに、みぞおちにボディーブローを食らった感じだ。
「エノラ・ゲイ?ここにはないよ。ワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館に展示されているから、ワシントンに行かなきゃ」
「なーんだ、そうなのか」。
男性客はそう言い、その先にスタスタと歩いていった。
ちなみに「エノラ・ゲイ」は、広島に原爆を投下したB-29機のニックネームだ。
気を取り直して同じ係員に「ゼロの展示はどこですか?」と尋ねた。
「ゼロ?ゼロなら右側の格納庫に展示されてるよ。2機あるけど」
「オリジナルの栄エンジンを搭載した機はどっちですか?」
「それなら一番奥のやつだよ。手前に展示されているのが、アメリカ製のエンジンを搭載したゼロ。君、もしかして日本人?」
「はい、そうです」
「ウチにあるのが、世界で唯一飛行可能な現存するオリジナルの日本製エンジンを搭載したゼロの機体だって、知ってる?機体を分解して日本に運んで、デモンストレーションを3回ほどやったんだよ」
「はい、知ってます。今日はその機体の写真を撮りたいと思って来ました」。
「そうか。残念だけど、今はコロナ対応になっちゃってて、格納庫への客の出入りが制限されてるんだ。だから、奥までは入れない。たぶん手前にあるゼロしか写真は撮れないと思うけど、ごめんね」。
「そうですか。サンキュー」
彼に礼を言って先に進むと、滑走路に続く広場には、すでに黒山の人だかりができていた。
第2次世界大戦中の米軍の戦闘機の「F4Uコルセア」が、これから実際に空を飛ぶのだ。
その飛行イベントを見ようと、飛行機ファンや元パイロットたち、そして現役パイロットたちも集まって来ていた。
パタ、パタパタ、パタパタパタパタパタ・・・。
砂漠気候の乾いた空気にプロペラの回転する音が響く。
まだ翼部分を半分に折りたたんだまま、紺色のF4U機がゆっくりと滑走路に向かって進んでいく。
それを横目で見ながら、私は観客たちとは全く逆方向の格納庫を目指して歩き出した。
ギラつく太陽の下、コンクリートの上をカメラを背負って歩くと、汗がぶわっと噴き出てくる。体感温度は軽く39度という感じだ。
マスクをしていると、頭がだんだん朦朧としてくる。
あ、いた。
赤や灰色の古いドイツ製の戦闘機の向こうに、深緑色に赤い丸が描かれた機体が翼を広げているのが、ちらっと見えた。
漆のような光沢のある濃い緑色は遠くから見ても、はっとするほど美しかった。
零式艦上戦闘機。ゼロ戦だ。
戦争に使われていた飛行機が、これほど美しいデザインで作られていたという事実にしみじみ驚く。
1年前の今日亡くなった父は、この機体の写真を見たがっていた。
6年前に私がこの博物館を訪れた時、ゼロ戦の機体は細かく分解され、修復中だった。
日本製のエンジンはラップでぐるぐる巻きにされて無造作に床の上に置かれていた。
操縦席部分がまるで切り身のようになったゼロ戦の写真を撮って父にメールで送ると、こんな返事が来た。
「この写真は零戦の操縦席の解体部分でしょうか。零戦にしてはジュラルミンっぽくて豪華すぎる。零戦は軽量化するため、防護の鉄板などは取り付けられていなかったはずですが、修復加工したのでしょうか。機体全部が写った零戦の写真が見たいです。B-29の単独写真はないのですか。幼かった私が板下橋で機銃掃射を受けたP-51の写真はありますか?」。
追加の撮影をしろとリクエストするメールだった。
戦争中、幼い子供だった父は、当時の男の子たちの多くがそうだったように軍人に憧れていて、終戦後もずっとそれを引きずっていた。
父の本棚には、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦の戦記物や山本五十六の伝記が並んでいた。
そんな父がお酒を飲んで酔っ払うと必ず戦争の話になった。
「それって軍国主義みたい」と高校生だった私が批判すると、父は顔を真っ赤にして怒り「おまえたちは何もわかってない」と、さらに飲んだ。手がつけられなかった。
父の怒りのトリガーになるのがいつも「戦争」という言葉だった。
だから「戦争」や「ゼロ戦」という言葉は、家族の誰もが、どんなことがあっても決して口にしないようになった。
私は就職して社会人になると、すぐに家を出た。
一刻も早く父の支配下から脱却して自由になりたかった。
その後、渡米してミシガン州の北部の人口6000人のスモールタウンの新聞社で記者として働き出すと、そこで私は「戦争」と不思議な形で再開した。
「この写真見て欲しいんだけど」。
ある日私をニューズルームに訪ねてきたのは、80代のアメリカ人男性だった。
第2次世界大戦で兵士として戦ったという彼は1枚の写真を私に手渡した。
白黒の婚姻写真だった。
着物姿の日本人の若い夫婦が写っている。
「戦場でこれを見つけて、それ以来、今までずっと持っていた。この写真のことは妻にも言ってない」。
その瞬間、はっきりわかった。
彼はこの写真に写っている男性、つまり日本兵と戦場で戦い、相手が戦死し、彼はその遺品を戦場から持ち帰ったのだ。
「君は終戦後、私が初めて会った日本人だ。できれば、この写真を家族の元に返したい」。
写真から得られる手がかりが少なすぎて、いろいろ手を尽くしたが、結局、彼の望みは叶えられなかった。だが、彼のように私を訪ねてくる元米軍兵士のおじいさんは、ひとりやふたりではなかった。
古い地図を持参して当時の戦局の話をしにくる人もいた。
戦場での自分の体験談を話す元軍人のおじいさんに、ミッドウェー島の位置や空母の配置を地図で示すと驚かれた。
「基地の場所や空母の名前や配置を、なぜ当時この世に存在すらしなかった君が、こんなに詳しく知ってるんだ?」
父が読んでいたミッドウェー海戦の本に図解入りで描かれていたから、いつの間にか覚えてしまっていたのだ。
自分の中で、ずっと封印していた「戦争」だったが、6年前に初めてチノのこの博物館を訪れ、修復中の切り身状態のゼロ戦の機体を見た瞬間、ふっと父のことを思い出した。
普段だったらトリガーになるような行動は絶対にしないのだが、その時だけは、なぜかそのゼロ戦の写真をメールで父に送ったのだった。
それは、そのゼロ戦が、博物館に眠っている歴史的遺産という位置づけではなく、今も実際に空を飛べる飛行機だったからだと思う。
製造されてから70年以上経った今も、空を飛ぶことができるマシン。
それはほとんど奇跡のようで、そこに宿る希望みたいなものを、父に伝えたかったのだと思う。
その後、忙しさにかまけてこの博物館に来るチャンスがないうちに、昨年、父は倒れ、末期の胃がんが見つかり、あっという間に亡くなった。
群衆が日蔭を求めて立ち寄る展示用格納庫の中の一番目立つ場所に、アメリカ製エンジンが搭載されたゼロ戦が飾られている。
日の丸が描かれた機体の翼の下の床に、小さな子供たちがペタンと座っている。
そして子供たちは立ち上がると、手を伸ばしてゼロ戦のプロペラやエンジン付近に触りはじめた。
パタパタパタパタ・・・・・。
音につられてふと上空を見上げると、F4Uが、真っ青な空をゆっくりと旋回しながら飛んでいた。
「ヒュー!」という歓声が群衆から上がる。
75年前には空中戦を繰り広げていた各国の戦闘機の機体たちが、いま、同じ博物館内で、翼を隣り合わせるように、同居している。
かつての敵も味方も、みんな一緒に同窓会をしているような、不思議な光景だった。
誰もがマスクをし、笑顔で、夢中でカメラのシャッターを押していた。
ジャズの音楽がかすかに流れ、飛行機柄のアロハシャツやTシャツを着たひとびとが、あちこちで歓談している。
F4Uの飛行を無事終え、汗を拭きながら水を飲んでいたパイロット氏に「ゼロ戦と、あなたが今日操縦したF4Uはどちらが速かったんですか?」と聞いてみた。
「そうだな、単純に比較はできないけど、ゼロは真っ直ぐ飛行する時にその速さが一番発揮できる。F4Uは曲がってぐっとターンする時に加速が一気に効くって感じだ」。
格納庫前の外の広場には、銀色の機体が美しい戦闘機P-51マスタングが展示されていた。
あ、P-51ってこれか。確か父のメールに「機銃掃射された」と書かれていた飛行機だ。
機体には「SPAM Can」という文字と、スパムの缶詰のイラストが大きく描かれている。
その機体の前では、フォード社製の自動車であるマスタングのスポーツカーが横付けされ、撮影会が行われていた。
「メイドイン・アメリカ」を濃縮して煮込みにしたような、ピカピカのマスタングの翼と銀色の機体。
「どうしてスパム缶詰の絵が戦闘機に描かれているんですか?」。
機体の前で撮影していたカメラマン氏に聞いてみた。
「うーん、戦闘機は金属でできてるだろ。そして、中に乗る兵士の身体は生身の肉だ。つまり『金属と肉』ってこと。要するに、煎じ詰めれば、戦闘機乗りは、スパムの缶詰の肉と同じだっていうことだろうな」
「金属と肉・・・。アイロニックすぎますね」。
「『皮肉』か!まさにその言葉、ぴったりだな!」
滑走路に続く道で飛行イベントの後片付けをしていたボランティアの男性と雑談すると、偶然、お互い近くに住むご近所さん同士であることがわかった。
彼はパイロットで、休日はボランティアでこの博物館のガイドを務めているという。
「君は日本人?ゼロはもう見た?」と聞かれた。
そこで、彼に、手前の一機は写真に撮れたものの、奥の日本製のエンジン搭載の機は、遠すぎて撮影できなかったと答えた。
「前に父から写真を撮るように頼まれていたんですが・・・」。
するとパトリックと名乗る彼は即座にこう言った。
「わかった。僕に任せて。一緒に来て」。
そう言うと彼は格納庫に向かって歩き出した。
「オリジナルのエンジンを積んだゼロを撮影できないまま帰るなんて、絶対ダメだよ。僕が特別に案内するから」。
いや、父は1年前にもう亡くなっているので・・・と言いかけたが、彼は興奮してこう話し続けた。
「日本製エンジンを搭載したあのゼロには、かのチャールズ・リンドバーグも乗ったんだ。ちゃんと飛行ログが残ってる」。
日本が作った戦闘機にどんな性能があるのかを、米国航空界のレジェンドが秘密裏に操縦して確かめていたのだという。
パトリックは展示柵を乗り越えて奥に展示されているゼロ戦まで案内してくれた。
近くで見るその機体は思ったよりもずっとコンパクトだった。
濃い緑と真っ赤な丸のコントラストが薄暗い格納庫の中でもくっきりと映える。
深緑と赤。この配色を考えた人は天才ではないか、と思った。
夢中でカメラのシャッターを押すと、パトリックがこう言った。
「操縦席の写真も撮らないと」。
そうは言っても操縦席の位置は高すぎて、どんなに背伸びをしても届かない。
するとパトリックはポケットから自分のスマホを取り出して機体の前方に近づいた。
そして操縦席のキャノピー部分の横で、めいっぱい背伸びし、操縦席をガラス越しにビデオ撮影してくれた。
3日後、パトリックからテキストメッセージとビデオが届いた。
ゼロ戦のパイロットたちがかつて座っていたであろう操縦席がちゃんと映像に映っていた。
さすがパイロット。計器部分も上から順になめるように撮影してある。
よく見ると、薄緑色をした操縦席の計器には、赤い丸印のついたレバーがついている。
こんな細部まで緑と赤丸で統一されているとは。
何という美意識だろう。
ひとつだけ惜しいのが、せっかく、厳粛な、歴史的な価値のある機体を映した貴重な映像なのに「サンキュー!サンキュー!」とけたたましく叫ぶ声が録音されていることだった。
それは、撮影してくれたパトリックに叫んでいる自分の声だった。
長野美穂
ジャーナリスト。東京の出版社で雑誌編集記者として働いた後、渡米。ミシガン州の地元米新聞社ペトスキー・ニューズ・レビューでインターン記者として働き、中絶問題の記事でミシガン・プレス・アソシエーションのフィーチャー記事賞を受賞した。その後独立し、ネイティブ・アメリカンの取材などに没頭。ボストン大学大学院を経て、イリノイ州のノースウェスタン大大学院でジャーナリズム修士号を取得。カリフォルニア州ロサンゼルスの新聞社インベスターズ・ビジネス・デイリーに入社し、約5年間、自動車業界・バイオテクノロジー・製薬・銀行などを担当する経済記者を経て、フリーランスジャーナリストとして活動している。テニス、カヤック、サッカーなどアウトドアスポーツが趣味。