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第4回

(ロックダウン日記第4回)電話の向こうで「巨大な鯨」が潮を吹く!?

「ロックダウンあるある」で、今、アメリカで流行っているのが「疎遠になっていた旧友とZOOM経由で再び親交を温めること」らしい。

 アメリカの人口3億3000万人の多くが自宅待機命令下の生活に突入して30日が過ぎた4月末、SNSのリンクトイン経由で、私の元にこんな内容のメッセージが届いた。

「ミホ!クレイジーなこのパンデミックの時をどう過ごしてる?10年以上前、最後に電話で話したとき、君を怒らせてしまったけど、仲直りしたい。久しぶりに話せる?もしよかったら連絡して」。 

 旧友のティーグからのメッセージだった。

 彼とは、私が中西部のミシガン州北部の小さな街に住んでいた頃に知り合った。

 私が覚えているティーグは、冬と雪をこよなく愛するアウトドア・スポーツ派で、ギターを弾くミュージシャンでもあった。

 赤毛の長髪をポニーテールに結び、髭を生やしていて、どこから見ても完全にヒッピーの風体だった。

 彼は私が仕事の合間に通っていた地元の短期大学の英語のチューターを務めていて、私の英作文を丁寧に赤ペン添削してくれた。

 それが縁で友人になった。

 私がジャーナリズム大学院を卒業して、LAの新聞社に記者として就職した頃も、彼は北ミシガンに住み、同じ短大で働いていた。

 遠距離電話でときどき話をする間柄だったが、ある日、口論から喧嘩になり、それっきり全く連絡をしていなかった。

 いきなり届いたメッセージを前に、どうしようかちょっと考えた。

 怒濤のように懐かしいのは確かだ。だが、お互いの価値観の違いからくる苛立ちで、どちらからともなく電話を切った10年以上前の不快感のカケラが、まだ心の中に沈殿していた。

 でも、ティーグがいま、何をしているのか気になる。

 返信しようか。それとも返事は出さないでおこうか。

 ロックダウンで誰もが自宅缶詰を強いられる時期だからと、簡単に連絡がつき、安易に仲直りできる相手だと思われるのは嫌だった。

 返信をするかしないかは、自分次第。もし返事をしなければ、たぶん、もう、今後ティーグから連絡はないだろう。

 一方、もし返事をすれば、十数年ぶりに友情が復活するかもしれない。

 人間関係の生殺与奪の権が、いま自分の手の中にあった。

 どちらを選ぶにしても、少しの間、このパワーを掌握しておいてもいいかも、と思った。ちょっとしたリベンジみたいな感覚だった。

 そっとメッセージを閉じて、ログアウトし、仕事に戻った。

 仕事の電話取材に追いまくられた10日後の週末、ティーグからのメッセージを再び開いてみた。

「最後に電話したとき、その気はなかったのに君を怒らせてしまった」の「その気はなかったのに」の意味で「inadvertenly」という単語が使われていた。「仲直りしたい」には「heal that rift」というイディオムが使われている。

 ほんの3行ほどの短いメッセージの至る所に、いかにも大学で英作文を教えている教師っぽい語彙や、形容詞が散りばめられていた。

 私の周囲にいるアメリカ人新聞記者の友人たちは、同じ英語ネイティブでもこういうワード・チョイスはまずしない。もっと直接的な語彙を使うし、形容詞は、職業柄、ほとんど使わない。

 ふと、どこかの大学の教壇で教えているティーグの姿が浮かんだ。

 CNNの画面を見ると、その時点で、米国内で6万人を超える人数がコロナで死亡していた。人生は短い。あとで後悔はしたくなかった。

 返信メッセージを書き、自分の現在のメールアドレスも書き加えて、送信ボタンを押した。

 すると、数十分後にメールが返ってきた。

「返信ありがとう!嬉しい!実は、君の昔の携帯の番号がまだ使えるかなと思ってテキストメッセージを送ったら、こんな返事が来たんだ。『自分はここ数年この電話番号を使っている。もしかしたら将来、めちゃくちゃプリティな日本人女性に変身する時が来るかもしれないが、いまのところ、自分はまだ男だ』だって」。

 思わず吹き出した。

 メールでお互いの携帯の番号を交換し、日曜日に電話で話すことにした。

「今どこ?ミシガン?」とメールで聞くと、こう返信があった。

「いや、アラスカ。LAの君との時差は1時間だ」。

 アラスカ?!

 いきなり目の前に真っ白い氷河の塊のイメージがどーんと迫ってきた。


 私の記憶の中のティーグは、短大の非正規の英語チューターの職で何とか生計を立て、詩や小説を書いて暮らしている自由人だった。

 当時まだ20代だったティーグ。貴重な若さと天性の明るさと体力がありながら、キャリアに邁進する様子は微塵もなく、ヨガや音楽やサイクリングや瞑想などの余暇に情熱を傾けているように見えた。

 ちなみに、当時、彼のルームメイトで彼と同年代のケリーは、同じ短大で、終身雇用が約束された教授の身分をすでにゲットしていた。

 その後、私がボストンの大学院で学んでいた頃、たまたま東海岸のメイン州から北ミシガンに戻る途中だったティーグの車に便乗させてもらい、ふたりで18時間ぶっつづけのドライブをしたことがある。

 学生街のボストンにあるステーキ店での待ち合わせに「おーい!」と言いながら現れたティーグは、からし色のカーハート社製の防水ジャケットに、スノーブーツという、豪雪地帯ミシガンの農民ファッションに身を包んでいた。

 ちなみにミシガンに本社があるカーハート社の作る頑丈なジャケットは、ミシガン州の男性肉体労働者にとっての制服みたいなものだ。

 ひさしぶりの再会で、2分も経たないうちに、ティーグの口から機関銃のような勢いでFワードが飛び出した。

 店の中で勉強していたボストン大の大学生たちほぼ全員がぎょっとして彼を凝視した。

 刺すような周囲の視線も気にせず、大声で「オーサム!」(いいね!)とFワードを交互に連発し、ガハハと爆笑しながら話し続けるティーグ。

 東海岸のアカデミックでスノッブな学生街に、中西部の田舎の村から親戚がいきなり訪ねてきたような、強烈な違和感だった。

「待って。デザートも食べたい」と言うティーグを「もう暗くなるから、早く行こう」とせき立て、慌てて店を出て車で出発した。

 思えば、それがティーグと私が対面で会った最後だった。


「おーい!元気かー!?」。

 久しぶりに電話で聞くティーグの声は全く変わっていなかった。

 何千キロも離れたアラスカにいる彼の声が、まるですぐ隣にいるようにクリアに聞こえた。

「ここには、鯨もイルカも狼もサーモンも熊もいるから」。

 摂氏40度近い灼熱の砂漠のLAにいる自分と、暴風雨が吹き荒れて気温が7度しかないアラスカと電話がつながっていること自体が不思議だった。

 ティーグは、ミシガンの大学院でクリエイティブ・ライティングの修士号を取得した後、アラスカに移り住み、地元の大学で英語の教員をしていると言った。

 大自然と野生動物に囲まれた大学で教える傍ら、森林ハイキングツアーのガイドもしているという。

 昔からヒッピーでアウトドア派だったティーグにぴったりな生活ではないか。

 「そうなんだけど・・・」と彼は言った。

 彼のような大学教員は「島のリベラル」と呼ばれ、銃で狩猟をするのが趣味の、ブルーカラーや肉体労働者中心の地元の人たちとの間には、どうしても見えない壁があるようなのだ、という。

「だから、あんまり親しい友人がいいないんだ、ここには」。

 すでに10年以上もアラスカに住んでいるのに、銃も撃たず、サーモン漁もしないティーグは、周囲から「インテリ」と認識され、がっちり固まった地元民の人間関係になかなか入り込めないというのだ。

 一方、私がLAで以前、勤務していた新聞社はある意味、その真逆の世界だった。

 ニューズルームの私の机の周りは、スタンフォード卒、ブラウン卒、コロンビア卒、ハーバード卒などのアイビーリーグ卒のエリート記者に囲まれていた。

 さらに、出身大学がどこであれ、全ての記者は、洗練された手法で自分をスマートにボスに売り込む技に長けていた。

 彼らは、マネジングエディターの席の前を通るたびに、自分の家族や地元の何気ない話題から軽く振って、そこから自分が最近書いた記事のアピールに絶妙につなげていく。

 わずか30秒足らずの通りすがりの会話は、スムーズで、ユーモアたっぷりで、チャーミングで、ボスの斜め前の席に座っている自分も思わず魅了されてしまうほどの超絶技巧の話術で彩られていた。

「一生懸命仕事さえしていれば、上司のエディターは見ててくれ、評価してくれるはず」と思っていた私は、隣の席のスコットから「NO!!」と激しくダメ出しされた。

「ボスがウチの新聞の記事を毎日、全部読んでると思う?甘いよ。ここはアメリカだよ。アメリカ人になりきったつもりで、自分をアピールしなきゃ。いい記事書いてるんだから、自分を売り込まなきゃダメだよ!」。

 頭ではわかっていても、日本で生まれ育った自分には「自分を売り込む」というコンセプト自体が恥ずかしくて、どうしてもできなかった。

 そのかわり、編集部には誰よりも早く出社し、誰よりも遅くまでいた。クリスマス時期には、家族に会うために休暇を取る同僚たちの担当のカバーをし、土日も出社して記事を書いた。

 今で言うなら、テレワークしなければいけないのに、どうしても会社に出社してしまう昭和の猛烈サラリーマンみたいな感じだった。

 だが、そんなコテコテ日本人の価値観は、アメリカではズレまくっていた。

 アメリカは基本、ボスに徹底的に自分を売り込む文化で、それを恥ずかしいと思う感覚はないのだ。

 自信に溢れているのは、署名記事を執筆する記者だけではない。校閲と整理部のコピー・エディターの同僚も、「アイアム・グレイト」(自分はかなりいい線いってるよ)としらふで、かつ真顔で言っていた。そんな同僚を見ながら「異星人か」と思ってしまう自分の方が、ズレていた。

 そんな当時のことを、アラスカの針葉樹林の森林に降り注ぐ暴風雨の中にいるティーグにぽろっと話した。

「なるほど。つまり、日本のゲームのやり方で、アメリカのゲームで勝とうとしてたわけか。そりゃしんどかったね」。

 ティーグは、私の英語が今よりもっとひどかった時代から、いつも根気よく英文を添削してくれ、私の英語の実力を客観的に知っていた。チューターとしての彼の指導の仕方は「褒めて褒めてその個人を徹底的に伸ばす」だった。

 ティーグに添削してもらう時は、私も全く緊張せず、リラックスしていた。

 一方、新聞社で働く場合、ボスであるエディターには「クリーンなコピー」つまり、誤字脱字の絶対にない原稿を毎回渡すのが、最低限のお約束だ。

 ある日、記事の中でメイン州を「Main」と綴ってしまった。正しくは「Maine」とお終いに「e」がつくのだが、私はその綴りを知らなかった。

 するとボスの前で「あれ?君、英語はもうとっくにマスターしていると思っていたけど?」と年下の同僚に冷ややかに言われてしまった。

 あ、まずい!と思ったが、遅かった。こういうことでビクビクしている自分が、ボスに「自分はすごいんです」と売り込むなんて、100年早いと思っていた。

 十数年前に電話でティーグと喧嘩してしまったのは、大学という教育機関で、比較的ロングスパンな世界観で生きているティーグに、圧倒的に競争が激しいデイリーの締めきりがある新聞社の世界のことをいくら話しても、根本的に理解してもらえないことが原因だった。

「君はジャーナリズム大学院も卒業したんだし、今の職場で必要とされる能力は十分に備えていると判断されて入社したんだから、大丈夫だよ」と励ましてくれていたのだが「そんな簡単なことじゃないんだよ。学位と実際の仕事は何の関係もないんだってば」と反論していた。

 かつてボストンで学生生活をしていたある日、Amazonから荷物が届いた。

 何も注文していないのに何だろうと思って開けると、ティーグから贈られた本が一冊入っていた。ベトナムの有名な僧侶が書いたという教えの本だった。

 以前からティーグが禅や瞑想やスピリチュアル的なものに興味があるのは知っていたが、私はそんなティーグの一面を心から疎ましく思っていた。

 現実社会と直面して闘う勇気がない人間が逃げ込むのが、スピリチュアルだと思っていた。

 私には、大学という安全地帯で実社会から隔絶されたように生きているように見えたティーグだが、いま、改めて彼の近況を聞くと、大学教員の世界には、私が知らない苦労がたくさんあるようだった。

 無数の島が点在するアラスカという土地柄、サテライトキャンパスの宿命で、コロナ以前からすでに75%の授業はオンラインで行われていた、とティーグは言う。

 これは、ひとが好きで、学生との対面授業が大好きなティーグの魅力が十分に活かされない設定だ。

 それでもIT技術を駆使して少しでも対面授業に近い臨場感を出そうとティーグは試行錯誤していた。

 昔はコンピュータやITに弱かったはずのティーグが、遠隔授業に必要なさまざまなツールを使いこなしていることが新鮮だった。

 彼の一番の葛藤は、1年生の英作文のクラスをいくつも同時に担当しなくてはならず、創作文芸を教えるというより、ある意味「作文採点マシーン」の役割を期待されているという点だった。

 ティーグの口癖は今も昔も「オーサム!」(いいね!)で、これは中学生男子あたりが好んで使うバカっぽさ100%という感じの語彙なのだが、ティーグの書き言葉は、それとは似ても似つかない。

 彼が書く小説や詩は、シリアスでダークで、心の奥底に抑圧していた怒りや違和感をモチーフにした、はっとするほど鋭い作品だ。

 太陽のように明るい外側の人格と内面の深淵。この二面性がティーグなのだが、遠隔授業でそれがどこまで学生に伝わるのだろうか。

「コロナだし、今年はミシガンには帰れないだろうね」。

 どちらからともなく、そんな言葉が出た。ミシガンは私たちふたりにとって「行く」ではなく「帰る」場所なのだ。

 かつてその日暮らしだったティーグは、今では大学教員として収入の安定を手に入れ、さらに、アラスカ州が州民に分配する小切手を毎年受け取っているという。

「筋金入りの環境保護派だったはずの自分も、気づいたら、アラスカの石油採取の利益の恩恵に絡め取られてた。自分の両手は、石油の利権の金を受け取って、もう汚れてしまった」と笑う。

「コロナが収まったら、アラスカにおいでよ。一応、同じ西海岸側だから。シアトルのずっと北」。

「鯨はいる?」と聞くと、

「ウチから歩いてすぐの所にもいるよ」とのこと。

「潮を吹くのは見える?」

「見えるよ。たいていは、姿が見えるよりも先に、息を吐く音が聞こえる。シューッという音がしたら、近くにいるなとわかる。それからゆっくりと水面に出てくる」

 巨大な鯨が潮を吹く光景が浮かんだ。

 ずっと感じていなかった 安心に似た感情がわき上がってきた。

 アラスカに行ってみたい。

 心の底からそう思った。


Profile

長野美穂

ジャーナリスト。東京の出版社で雑誌編集記者として働いた後、渡米。ミシガン州の地元米新聞社ペトスキー・ニューズ・レビューでインターン記者として働き、中絶問題の記事でミシガン・プレス・アソシエーションのフィーチャー記事賞を受賞した。その後独立し、ネイティブ・アメリカンの取材などに没頭。ボストン大学大学院を経て、イリノイ州のノースウェスタン大大学院でジャーナリズム修士号を取得。カリフォルニア州ロサンゼルスの新聞社インベスターズ・ビジネス・デイリーに入社し、約5年間、自動車業界・バイオテクノロジー・製薬・銀行などを担当する経済記者を経て、フリーランスジャーナリストとして活動している。テニス、カヤック、サッカーなどアウトドアスポーツが趣味。

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