「Still Working?」
最近では「How are you?」のかわりにこの言葉が、LAのご近所同士の定番の挨拶になってきた。
「まだ仕事してる?」は、つまり「失業してない?大丈夫?」という意味だ。
コロナ失業が当たり前のご時世、仕事をキープできていれば「超ラッキー!」。そうでなければ「あんただけじゃない、周りもみーんな失業してるから元気出しなよ」と声を掛け合う長屋的な雰囲気があるのだ。
ほとんどの賃貸アパートでは毎年9月1日に家賃の値上げが断行される。このコロナ禍に一体どれだけ家賃が上がるのか、誰もが戦々恐々としている。もちろん、私もそのひとりだ。
そんなある日、市のホームページを見ていたら「COVID-19 緊急家賃補助」という告知を見つけた。
「コロナ禍で仕事や収入にマイナスの影響があった方、今後3カ月分の家賃をあなたに代わり、あなたの大家さんに直接、自治体が支払います。返済義務は一切ありません」とある。
な、なんと太っ腹なプログラムだ。自治体がこんな援助プログラムを?ちょっと信じられない。
うひょー!今まで税金払ってきてよかった。
さらに太字で「住民ならば誰でも応募できます。どんな移民ステイタスであろうと大丈夫です。受給者は応募者全員の中から抽選で選びます」とある。
つまり不法滞在している移民も、米国市民ではない外国人もステイタスは不問、ジャンジャン応募してね、という告知なのだ。
しかも抽選。
まるで宝くじ的な、なんともカリフォルニア・ドリーミングな響きではないか。
ひさびさに心が躍った。
失業や、仕事が減ったりキャンセルになった証拠を提出でき、さらに一定以下の年収なら、誰でも応募可とある。これ、応募しない手はないんじゃないか?
すでにプレスパスを申請して取材して執筆するはずだったイベントがコロナで中止になった告知メール、さらにコロナ禍で臨時休刊になった媒体のエディターからのメールなどは、全て保存してある。
思い返せば、昨年9月には、うちの家賃は月額にして40ドルも値上がりした。つまり年間にして約500ドルの値上げだった。
今年は一体いくら上がるのか、それを考えるだけで、夜中に起きてふと天井を見上げてしまう日々だ。
心配や不安には、キャッシュ注入が一番効く。
今後3カ月、夜中に家賃の心配をしなくていいとなると、どれだけ免疫力がアップするだろう。
応募したい。だが、ひとつだけ気になったのは、うちの大家さんのことだった。
もし受給者に選ばれたら、アパートのオーナーである大家さんに市から直接私の家賃分の小切手が送られることになる。
つまり、大家さんには、市の援助を受けたことが筒抜けになるわけだ。
自宅待機命令という非常事態とはいえ、公共援助に手を出すような困窮した居住者だと思われたら、こっちの立場が不利になる可能性もあるのではないか。
LA地区のアパートの空室率は2%を切っている。部屋をキープできていることがどれだけラッキーか。
それでなくても要求の多い住民と思われたくなくて、部屋の多少の不具合は我慢して、頻繁に修理を頼まないように気をつけてきた。
そこで、住民全員の家賃の支払いをとりまとめているマネージャーのドーンに相談してみることにした。
ドーンの本業は美容師で、彼女は私たちと同じアパートの住民だが、住民全員の家賃の小切手を毎月集めて大家さんに渡す仕事を担うかわり、自分のユニットの家賃は免除されている、という立場だ。
「抽選に当たれば家賃補助が出るんだけど、大家さんはどう反応すると思う?私は大家さんを個人的に知らないから、大家さんのことをよく知っているあなたに正直なところを聞きたい」とメールを書いた。
すると2分後にすぐ返事が来た。
「ミホ、カリフォルニアだけで7000人が死んでるんだよ。生存してるだけでラッキーのこの非常事態に、大家がどう思うかなんて気にする必要なんかない。即、応募しな。しかもこれに応募するのはうちの住民ではあんただけじゃない。他にもいるのを私は知ってる。大丈夫」。
そのメールを読んだ瞬間、応募を決めた。
さっそく必要書類を集める作業にとりかかる。
現在の家賃価格が表記された賃貸リース契約書、収入証明や銀行口座の残高、仕事が減った証拠のメールや運転免許証などを、PDFファイルか、スマホで撮影した写真の形で、自治体が作った応募用のサイトにアップロードするだけでいい。
「読めさえすれば、どんな形のファイルでアップロードしてもOKです」と応募要項に記述がある。
サクサクとPDFファイルを作成しサイトに次々アップしていく。
申請書の欄を埋めるという単純作業にひたすら没頭するうち、ここ数カ月間、ほとんど感じたことがなかった奇妙な手応えが湧いてきた。
何も考えず、ただ空欄を埋める無機質な作業が、こんなに癒やしに近いものだとは。
なんだかわからないが、何かが前に少しずつ進んでいるような、そんな感覚だ。
そもそも必要書類を紙で提出する必要がないので、コピーを取る必要がないのがいい。この合理性が、いかにもこの国の自治体らしい。
うちを含め、アメリカの一般家庭にはプリンターなどないし、この国には日本の街角にあるようなコンビニは存在しない。
必要書類のコピーを取りに、コピー機がある店に申請者が殺到してしまうと、地域のウイルス感染拡大につながって逆効果であることを自治体は熟知している。
だからこそ、申請はペーパーレスで完結させるぞ、という市の強い意志が伝わってきて好感が持てる。
そうでなくても、7月15日の確定申告の締めきり日を前に、コピー機のある店には人が殺到して感染ホットスポットと化していた。
アメリカでは、たとえサラリーマンであっても労働者のほとんど全ての人が確定申告をする義務がある。納税はオンラインでも可能だが、税務署に直接郵送しなければならない場合が多い。そのため、必要書類をコピーしなければならない人がたくさんいるのだ。
「死」と「税金」は人生では避けられないものだが、税金を払うための書類のコピーを店で取った結果、店でウイルスに感染して死ぬのは、笑えないジョークだ。
カリフォルニア州内でのコロナ死者数は7500人を突破している。しつこいようだが、この数字は感染者数ではない。死者数が5桁に近い数なのだ。
応募のサイトには「インターネットのアクセスがない方には、紙の申請書も配布しています」という告知があり、ネット弱者が損をしないような配慮もなされている。
この自治体の告知、読めば読むほどよくできていて、感心する。
よくある質問のQ&Aコーナーにはすでに30項目近い想定問答がすでにずらっと載っている。
「賃貸契約の書類が見つからないんですが、どうすればいいですか?」という質問には「家賃のレシートや支払われた小切手の記録、水道料金の引き落とし記録など、その場所に一定期間住んでいるという証明を何か出して下さい」とある。
役所なのに、やたらフレキシブルなのだ。
「英語がわからないのですが」という質問には「オンライン申請書であなたの言語を選んで回答してください」とある。
「受給者に選ばれたら、どれだけ早く援助が得られるのですか?」という問いには「選ばれた人と大家さんには自治体がすぐに連絡し、来たるべき家賃をカバーします」とある。
つまり7月中旬に申請を締め切り、抽選を経て、8月1日から支払いが始まるということか。
これは驚異的なスピードだ。
全ての項目を埋め、最後のページにたどりつくと、次の一文に目が留まった。
「このプログラムは連邦政府からの資金で支えられています。ここにアップロードされた個人情報のすべては、今後5年間、市や州や連邦政府がシェアする可能性があります」。
え?今後5年間も運転免許証や銀行残高などの個人情報が連邦政府にシェアされてしまう可能性が?
しかもこの条件に合意するという宣誓にデジタル署名をしなければ、最後の申請ボタンを押すことができないしくみになっている。
こ、これは嫌だ。
市や州はともかく、ビッグブラザーと呼ばれる米連邦政府に自分の銀行口座番号や残高まで把握されてしまうなんて、怖すぎる。
応募告知には「個人情報は守秘します」とはっきり明記されているのに。
そもそも、市の援助プログラムなのに、連邦政府の資金が注入されていることが申請の最終ページまで明らかにされないって、どういうことなのか。
しかし、ここまでの作業にすでに半日を費やしていた。ここで申請を諦めるのは悔しい。
そこで問い合わせ先の電話番号に直接かけて聞いてみることにした。
役所の人々も自宅待機命令中なのだから、まさか人間が電話に応答することはないだろう、留守電だろうと思っていると、なんと人が出た。
「応募の個人情報は守秘すると書いてあるのに、連邦政府とも情報をシェアする可能性がある、とありますよね、これは矛盾しませんか?」と聞いてみた。
すると、アリーと名乗る女性は「確かにそうですね。滞在許可証を持たない移民の方々にも安心して応募していただきたいので、上司に確認してみます。折り返し明日電話しますね」と丁寧に答えてくれた。
さらに「連邦政府に個人情報をシェアされたくないという懸念は、確かに、すごくよくわかります」と彼女はつぶやいた。
もしかしたら、不法滞在をしている移民だと思われたのかもしれない。ちなみに彼女が使ったのは「アンドキュメンティッドな方々」という言葉だった。
直訳すれば「書類がない方々」つまり正式な滞在許可証やビザがない人、という意味だ。
「不法移民」は「イリーガル・エイリアン」という英語でも表現できるが、慈善団体やカリフォルニア州知事やLA市長は「イリーガル」や「エイリアン」という言葉は決して使わない。
あくまで「アンドキュメンティッド」というソフトな言葉を使う。
この言葉には、彼らは滞在許可証なしで米国に住んではいるが、犯罪者ではない、というニュアンスが込められている。
賛否両論あれど、それが移民フレンドリー政策で政治と経済が回っているこの州の基本姿勢であり、お約束なのだ。
2日後、彼女から電話が来た。役所から折り返しの連絡があること自体、この国では奇跡に近い。
「実は、このプログラムは、連邦政府を含め、いろんなソースから資金をかき集めているので、あの文面は、形式上どうしても申請書に入れなければならないそうなんです。ただ、私たちは、応募者の方々の大事な個人情報を外部とシェアすることは一切しません。滞在許可証のない移民の方々にも、安心して応募していただきたいので」
アリーはそう言った。
何なんだろう、この、血が通ったような温かみのある答えは。
お役所っぽい冷たさが1ミリもない。日頃、市役所のお堅い対応に慣れていた身からすると、ちょっと信じがたい。
「あの、失礼ですが、アリーさん、あなたは本当に市役所の方なんですか?」と聞いてみた。
すると、彼女は市役所の職員ではなく、この家賃補助の緊急プログラムを市と共に立ち上げた非営利の慈善団体のスタッフだと答えた。
さらに、ネットに載せた問い合わせ電話番号は、実は彼女の携帯番号で、今は自宅で仕事をしながら何百件という問い合わせに答えているという。
「よかったら、今度、うちの団体に遊びに来て下さい。ベニスにあるので」。
海の近くにあるというその慈善団体のサイトを見ると、カトリック教会のシスターたちが地域の貧しい人々を助けるために1970年代に立ち上げた団体であることが記されていた。
セピア色をした古い写真の中に看板を掲げるひとりの若いシスターの姿が写っている。その写真がサイトの一番上に載っていた。
その緑がかったセピア色の写真を見た瞬間、懐かしさのような感情がじわっと湧いてきた。
そして、張り詰めていた気持がふっと緩んだ。
資金繰りや仕事、全く見えないこの先のことを思うと、自分の不安な現状は何ひとつ変わってはいない。
だが、この家賃援助は、やはりアリーが繰り返し言うように「アンドキュメンティッド」のひとびとが受け取るのがふさわしいのではないか、という気がしてきた。
「国民が失業で苦しんでいるのに、違法移民にまで家賃援助かよ」という批判の声があるのは知っていた。
だが、不法移民の彼らが、夜明けから日没まで、安い賃金で気温が40度以上に達する畑でいちごやレタスを収穫して働いているからこそ、私たち住民はパンデミックの最中でも新鮮な野菜や果物を買うことができる、というのもまた事実だった。
それに、たとえ形だけだとしても連邦政府に個人情報をシェアすることを許可する、という署名は、できればしたくない。
念のため、移民法弁護士たちに片っ端から電話をかけて意見を聞いてみることにした。
「連邦政府の資金が入った公共援助は、あなたがガイジンならもらわないほうがいい。この国の公共福祉にぶる下がる移民と判断されると、将来、アメリカ市民権を取りたい時と思った時に足枷になるかもしれない」というアドバイスが2件あった。
アラブ系の移民法弁護士に電話してみると「まあこの非常事態だから、援助を受けたり、申請したりしても問題ないと思うけど、彼がこの先再選されたら、どんなクレイジーな移民排除の規制を打ち出してくるかわからないのは確かだな」とのこと。
ちなみに「彼」とはトランプ大統領のことだ。
最後に「スーパーロイヤー」の異名を取る大御所の移民法弁護士に電話をしてみた。
「はい、アダムです」
「あの、COVID-19の緊急家賃援助というプログラムがあって、申請するか迷っているのですが」
「何?COVID-19の検査?」
「いえ、家賃援助です」
「君、コロナ検査を受けてもこの国からキックアウトされることはないから、必要なら是非コロナ検査を受けなさい。大丈夫だから」
「いえ、検査ではなくて・・・」
「僕、移民弁護士40年やってるから、何千件も扱ってきたから言えるけど、これだけとんでもない非常事態で、コロナ検査を移民が受けるのを怖がる必要はないよ。大丈夫、検査受けなさい!」
そこで電話が切れた。
いろいろ考えた結果、家賃補助の申請はしなかった。
となれば、あとはひたすら全力で稼ぐのみだ。
記事を書いて、原稿料で生計を立てている私にとって、日本の出版社や報道機関からの原稿料の支払いに欠かせないのが、日米租税条約という、日本の税務署に提出する用紙だった。
この用紙ばかりは「紙」に「直筆サイン」をして日本の税務署に提出しなければならない。
そうしないと仕事先からギャラが振り込まれない。
その租税条約の用紙の手持ちが、ほとんど底をつきかけていた。店でコピーを取る必要がある。
しかし、あいにく、いつも行っていた近くの店は先月の暴動と略奪で破壊されてしまっていた。
ならば大型店に行くしかないか。
4カ月ぶりに、こわごわショッピングセンターまで行くと、巨大な店舗は丸ごと閉鎖になっており、駐車場は空だった。
カリフォルニア州の感染者数がついに33万人を超え、感染爆発が止まらないため、7月13日に州知事が再度、閉鎖命令を出したのだ。
レストランもジムも全部ふたたび閉まり、ロックダウン第二章が始まった。
どこかで何とかして書類をコピーしなければ。
そして、働き続けるんだ。
長野美穂
ジャーナリスト。東京の出版社で雑誌編集記者として働いた後、渡米。ミシガン州の地元米新聞社ペトスキー・ニューズ・レビューでインターン記者として働き、中絶問題の記事でミシガン・プレス・アソシエーションのフィーチャー記事賞を受賞した。その後独立し、ネイティブ・アメリカンの取材などに没頭。ボストン大学大学院を経て、イリノイ州のノースウェスタン大大学院でジャーナリズム修士号を取得。カリフォルニア州ロサンゼルスの新聞社インベスターズ・ビジネス・デイリーに入社し、約5年間、自動車業界・バイオテクノロジー・製薬・銀行などを担当する経済記者を経て、フリーランスジャーナリストとして活動している。テニス、カヤック、サッカーなどアウトドアスポーツが趣味。