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メゾン美甘食堂

 プロローグ

 定年を迎えたさんが、一緒に暮らす家を出ていったのは三年前のことだ。
 知り合いがオーナーをしているマンションの食堂で料理人をすることになった、とは言っていたけれど、住み込みだと知ってびっくりした。話を切り出されたときは普通のレストランだと思っていたのだ。朝食と夕食を提供するため通勤時間がもったいないのだそうだ。って、昼食と夕食じゃなくて、朝食と夕食? それ、どういうお店だろう。
 定年後は寮母をやってみたい、募集情報を集めている、とその知り合いに話していたところ、じゃあこういう場所ならどうだと提案されたらしい。
 寮母をやりたいという話もはじめて聞いた。いきなりなぜ、と思ったけれど、僕もちょうど勤めているレストラン運営会社の仕事が忙しい時期だったので詳しい話のできないまま、引越しの日を迎えた。
 その後、たまに会うものの有美子さんも僕も忙しく、しかも僕のほうは会社が倒産したこともあってバイト生活に突入、前職の関係から飲食業が多く、浮き沈みの激しい業界でもあり、流されるように日々が過ぎた。
 そんなとき、有美子さんから連絡がきたのだ。
 骨折したと。
 慌てて病院に飛んでいったら、自分のことよりも、職場のことをまず話しだす。
 ──あの子たちのご飯はだいじょうぶかしら。マンションといってもあそこ、元は社員寮でしょ。当時から食堂でご飯を出していたから、それぞれの部屋には一口コンロしかないのよ。お湯を沸かすぐらいしか必要がなかったんでしょう。
 あきれたものの、有美子さんらしいとも思った。昔から人の心配ばかりしている。
 そして、ちょうどバイトの契約が切れるところだった僕に、食堂の料理人を依頼してきた。
 ふたつ返事で引き受けたのは、これで少しは有美子さんの役に立てる、わずかばかりでも恩返しができると思ったからだ。

 第一話 増本優の場合
 胃腸の不調をやわらげるひとり鍋のおかゆ


   1

 駅から徒歩十七分、築年数は四十年を越えるけど、その分、家賃はお安いですよ、と不動産仲介業者に紹介されて内見したそこを、三年前のわたしは一目で気に入った。部屋を、じゃなく、建物をだ。
 メゾンかも、という。
 外壁がグレーのタイル張りの六階建てで、一階の歩道側正面の広範囲に、色とりどりのガラスブロックがはまっている。二階より上のベランダ部分は同じグレーでも濃淡のある数色のタイルで構成され、柵は波のような曲線を描いて、建物が踊っているかのようだ。エントランスに足を踏み入れると床はフラットなモザイクタイル、風防室と内側のホールの間にオートロックの扉を挟むため分断されているが、円の模様になっている。このオートロックはあとからつけられたのだろう。扉を抜けたホールの先にはエレベーターと階段がある。ホールの壁は凹凸のあるモザイクタイルで花が描かれ、階段の手すりは三角と四角が組み合わさったがく模様になっていた。
 なんなんだ、このデコラティブな建物は。レトロで渋お洒落しゃれじゃないか。そう思って仲介業者さんにたずねたら、もとは建設会社の社員寮で、高度成長期に建てられた本社ビルの意匠をいくつか取り入れ、外観と一階を施工技術のモデルとして利用していたのだという。住居として使っていた二階以上はその役割がないため、普通のマンションと同じです、と言われた。
 その建設会社が倒産したあと、かねてよりこの凝ったデザインのビルに興味を持っていたオーナーが買い、ワンルームマンションとして集合郵便受けなどの設備を加えて、このたび入居者を募集中だそうだ。案内された四階の部屋はユニットバスとトイレ、備え付けのエアコンがあり、ミニキッチンはコンロが一口しかないけれど料理をしないので問題はない。近い条件下でさらに安い部屋もなくはなかったが、わたしは入居を申し込んだ。決め手はなんといってもレトロな外観だ。疲れて帰ってきても、温かく迎えてくれそうな予感がした。
 ところで、一階の色ガラスブロックの内側にあたる部分は、なんだろう。そこに通じるホールとの境には、花柄模様の金属の格子を外枠にして、似た模様の描かれたすりガラスの扉がはまっていた。これまた渋お洒落だ。仲介業者さんによると、もとは社員寮に付帯した食堂だったという。なるほど食堂か、ちゅうぼうが残っているなら飲食店が入るかも。リーズナブルな店ならいいな、と夢想しながら引越し荷物を片づけていたら、案内があった。
 あのスペースで、入居者専用の食堂を開くらしい。
 は? 社員寮の食堂を引き継ぐってこと? マンションの食堂って、ホテルの朝食サービスみたいなもの? それどんな福利厚生? いやいや会社じゃないのにそんな経費項目あるの? わけわかんないんですけど。
 わけがわからない、とほかの入居者も思っただろうけど、一度試してみようと考えたのか、食堂には何人もがやってきていた。朝はおにぎりとゆで卵に味噌汁、夜は日替わりの定食一種類がそれぞれ定額で、材料費プラス人件費程度ではと思われるほど安価だ。
 厨房から迎えてくれたのは、絵に描いたように人のよさそうな顔をしたおばちゃん。いぶかりながら食べたけど、これがかなり美味おいしい。マンションのオーナーが、遠方にいる大学生の孫から、学食が昼だけでなく朝食と夕食も提供して健康サポートをすることになって学生も保護者も大歓迎だと聞き、入居者へのサービスとして思いついたのだという。
 ニコニコ顔のおばちゃんからそう説明されて、築年数や駅までの距離から見てほかの物件との差別化という役割のほうが大きいかなと思ったけれど、それはそれとして、これからも利用しようと思った。外で食べるより安いし、日替わりならバラエティに富んでいるはず。そんな軽いノリだったけれど、今ではなくてはならない場所になった。わたしは社員寮から単身マンションになった最初の入居者のひとりなので、この三年間まるっと、おばちゃん──むろ有美子さんにお世話になってきた。
 なのに。なのに有美子さんが、骨折で入院するなんて。
 具合はどうなのだろうと思ったけど、それだけのためにマンションの管理会社に訊ねるのも、知りたがりの野次馬みたいで気が引ける。その後の案内を待とう、と思ったあとで気がついた。
 わたしの食生活はどうなるの?
 ため息をついても事態は好転しないので、残業を済ませた会社帰り、コンビニで大量のカップめんを買い込んできた。
 メゾン美甘に越してくるまでは、いつもこんなコンビニご飯やデリバリーだった。実家でも、両親が共働きだったためスーパーの総菜や冷凍食品ばかり。それならわたしが作ればいい、とならなかったのは男きょうだいの間の唯一の女で、兄をしてやんちゃをするたびに、女の子でしょとたしなめられたからだ。下手に作ろうものなら、同じ理屈でずっとわたしに任されてしまう。幼いながらもそう計算してキッチンに立ち入らないようにしていたほど、理不尽に感じていた。結果、いまだにインスタントラーメン程度しか作れないけれど、都会で生きていくなら困りはしない。
 最寄り駅からメゾン美甘に向かっていくときは、食堂の前を通ってからエントランスに辿たどりつく。とぼとぼと歩いていたら、色ガラスブロックの向こうが明るいことに気づいた。しばらく食堂を休みます、と案内があったのは一昨々日さきおとといだ。
 住人の誰かが食堂に入り込んでるんだろうか。だけどホールとの間の扉には、かぎがかかっていたはずだ。警察を呼んだほうがいいかな。でも誤解だったら、その人とトラブルになるかもしれない。
 ホールまで進んで、食堂に目をやる。いつもより暗いから、半分しかあかりをつけていないのだろう。扉の向こうをそっとうかがう。やはり人がいるようだ。模様つきのすりガラスごしだからよくわからないけど、影のようなものが動いている。
 オートロックの扉を入らないとホールに行けないから、外部から侵入するのは難しい。でも住人のあとについて入るという方法はある。厨房の奥は、社員寮のころは管理人さんの部屋だったそうだが、今は住み込みで働いている有美子さんの私室だ。そちら側にも通りに直接出られる扉がある。縦長ボタン式のダイヤルじょうまでついている業務用っぽい金属製の頑丈そうな扉だけど、それを突破した泥棒だろうか。だけど泥棒が灯りをつける?
 うーん、と考えていたら、無意識に通勤用のバッグを抱きこんでしまった。はみ出すほどカップ麺を入れたエコバッグがはずみで金属の格子に当たり、大きな音が立った。やばい、と思う間もなく、食堂から影が近寄ってきた。逃げなきゃ。エレベーターは待っていられない。わたしの部屋は四階だけど階段に向かうしか──
「すみません。今日はまだやっていないんですよ」
 扉のきしむ音がして、続いて男性の声がした。
 それを背中で聞いて、振り向いた。穏やかな声だったからだ。
 背の高い、若い男性だ。若いといっても、部下のはらくんくらいで、二十代後半だろう。眼鏡めがねをかけていて、イケメンというほどではないけれど、細面でこざっぱりとしている。メゾン美甘で見かけたことのない人だった。
「あの……」
「食堂を利用している方ではないのですか?」
「してます。お世話になっています。でもあなた、どちらさまですか?」
 そう訊ねると、男性は頭を下げた。
あまもりりょうと申します。明日の夕食分から食堂を開けます。このあと利用者のみなさんにメッセージを送ろうと思ってたんですよ」
「有美子さんの代わりってこと?」
「はい。不在の間を任されました。みなさんには有美子さんって呼ばれてるんですか? 有美子さん」
 あなたこそなぜ名前のほうで呼ぶの、と不審がったのが表情に出てしまったのだろう、男性──雨森さんは笑顔をのぞかせる。
おいなんです。でも身内というだけで託されたわけではないですよ。正式に、オーナーの美甘さんから料理担当を任されました。食品衛生責任者の講習も受けてますし、調理師の受験資格まであと一歩という実務経験もあります」
「料理人の……卵さん、ですか?」
「ではないんですが、持っていて損はないので。ちなみに受験資格には週四日以上、一日六時間以上、二年以上の調理業務経験が必要なんです」
「はあ」
 料理人になる気はないということ? 世にいる資格マニアかな。じゃあなにをやって食べていこうとしてるのだろう。二十代も後半になって。
 おっといけない。この人はわたしの部下ではない。余計なお世話というものだ。
「そうなんですね。わたし、明日の夜は予定があるので、明後日あさっての朝食分からよろしくお願いします。四〇三号室のますもとゆうといいます」
「改めまして、どうぞよろしくお願いします」
 そう言って、雨森さんは食堂へと戻っていった。わたしはほっとしながらエレベーター
の上階行きボタンを押す。あ、有美子さんの具合をくのを忘れた。今度訊かなくては。
 ともあれ、わたしの食生活は守られた。ありがたい。カップ麺は日曜の食事に回そう。食堂が開いているのは月曜から土曜までで、日曜は休みなのだ。
 部屋に帰り着いたときにスマホが鳴った。食堂利用アプリの通知だ。朝食も夕食も、いつもは前日の午前十時までにここから注文する。さっき雨森さんが言っていたことと同じ、料理担当が一時的に代わって食堂を再開するというあいさつがお知らせ欄に載っていた。再開初回となる明日の夕食は締め切りを遅らせたので明日の朝九時までにご注文を、とある。このアプリは、当時大学生だったオーナーの孫が作ったそうだ。複数の支払いアプリへの遷移ボタンもあり、使い勝手がいい。食事の提供というきっかけとともに、メゾン美甘の住人はその孫のおかげで恩恵にあずかっている。優秀な子なんだろう。三年前に大学生ということは、そろそろ社会人かも。きっと活躍してるだろうな。
 それに比べて、とわたしは職場の部下を思いだす。原田くんもきのしたさんも、どうしてああも段取りが悪いんだろう。今日の残業も、ふたりの連絡ミスのしりぬぐいだった。
 わたしはつい先日、念願のチーフ職を得たばかりだ。張り切っていたものの、新しくやってきた部下の再教育からはじめなくてはいけないのかとがくぜんとした。高揚から一転、胃の痛い毎日だ。

   2

 翌々日の朝食の時間に、食堂に出向いた。
 エプロンをつけた雨森さんが厨房に立って、おはようございますとひとりひとりに声をかけている。落ち着いたかんじで、しっくりなじんでるんじゃない?
 朝食のメニューはいつも同じで、おにぎりがふたつ、ゆで卵がひとつ、具がたっぷりの味噌汁、というパターンだ。おにぎりと味噌汁の具は日替わりで、アプリにメニューが出る。苦手な食材があれば、味噌汁の具なら残し、おにぎりの具は事前申請でこんか梅の好きなほうで用意される。
 今までと同じように、厨房との境となっているカウンターに、ラップで巻かれたおにぎりが並んでいた。各自がそれを取り、温めたい人は、食堂内にあるレンジにかける。わたしは温める派だ。今日のおにぎりは、さけと大葉、しらすと枝豆の二種類。白米の真ん中に具材を入れるパターンより、ご飯に混ぜ込む形のものが多く、今日の鮭もほぐしたものが入っている。白米の白に、オレンジ色、緑色と、色合いも目に鮮やかで食欲がそそられた。隣のカゴには、ゆで卵が積まれている。
 トレイを持って横にずれると、雨森さんが味噌汁のわんを差しだしてくれた。油揚げとまいたけが、薄茶色の汁の中に見える。秋はきのこの美味しい季節なのよ、と有美子さんが最後に教えてくれた言葉を思いだした。
 最後といっても、一時的にいないだけだけど。
「雨森さん、有美子さんの具合はいかがですか? どのくらい入院しなきゃいけないんですか?」
 数日来の疑問を訊ねてみる。
だいたいこつなので、けっこうかかるって聞いてます。具体的な月数はわからないんですがリハビリも要るので、復帰まで数ヵ月はかかるかと」
「そうなんですか。じゃあその間、雨森さんが代理なんですね」
「はい。ご心配をおかけしてすみません」
「いいえ、お大事にとお伝えください」
 数ヵ月とは大変そうだ、と思いながら空いている席に座った。朝食の設定時間は七時から九時まで。いつもわたしが朝食をる八時前がピークなのか、五階かける各階五部屋、最大二十五人いる住人の半数ほどが食堂に集っている。
 味噌汁をひとくち飲んで、はあ、と息をついた。
 天然とうま味調味料の区別のつく舌なんて持っていないけど、美味しいか不味まずいかぐらいはわかる。これは美味しい。有美子さんの味とそんしょくない。
 油揚げとまいたけのほかに、ほくほくする棒状のものが入っていた。大根? じゃがいも? いや、大根も入っているけど、これはながいもだ。長芋って、お味噌に合うんだ。
 枝豆のおにぎりも、ぱくり。ほのかな塩気と歯ごたえが心地いい。
 早く有美子さんに戻ってきてほしいけど、雨森さんも同じくらい美味しいご飯を出してくれるようだから、合格。って上から目線かな。
 ゆで卵のカラをいて、いざと口に入れたら、スマホに電話がかかってきた。課長からの着電なので無視するわけにもいかず、口元を覆って小声で出る。
「はい、増本です……え、その件は昨日、原田から連絡がいったはずで。……あ、いっていない、申し訳ありません。はい。では、あーと……行きます。今すぐ出社して対応しますので──」
 課長からのキレ気味の電話を受け、わたしは立ち上がった。ああもう、朝ご飯くらい、ゆっくり食べたい。
 卵の残りを味噌汁の汁で流し込み、もうひとつのおにぎりを手に持った。返却ワゴンにトレイを置く。もぐもぐとしながら謝る。
「ごめんなさい、お味噌汁を残して。急に出なくちゃいけなくなったんです。とても美味しかったです」
 雨森さんの顔は見ず、そそくさと食堂をあとにした。いったん部屋に戻ってから、上着とバッグをひっつかんで出かける。

 わたしが勤めているのは、トイレタリー商品──せっけんや洗剤、シャンプーなどの生活用品を扱う会社だ。その営業部のなかの、大規模小売店舗、つまりスーパーやドラッグストアなどと取引するチームに所属している。
 年末の大掃除に向けて、秋のうちからプッシュしていきたい商品を提案するなか、原田くんが大手スーパーへの連絡ミスを起こした。
「日付の確認、数値の確認、もっと徹底したほうがいいね。どうチェックしていったのか、教えてくれるかな」
 同じことが起きないようにしたいから、と、原田くんを責めない言い方を心がける。少しでもキツいととらえられたら、パワハラになる。わたし自身はよく、課長から詰められているけれど、部下の子には言えない。
「普通にチェックしたんですけどねえ。なんで漏れちゃったかな」
 原田くんからの返事は、ぼんやりとしていた。どこをなぜ間違ったのか、自分でもわかっていないのだろう。どうやってチェックしたのか具体的に訊き出して、もう少しこうしたほうがいい、こんな工夫をしたらどうかな、とアドバイスをしたけれど、理解できただろうか。原田くんは入社してもう五年は経っているはずなのに、よく凡ミスを起こす。しかも自分の注意不足をしっかりと受け止めていないようすだ。
 あー、いらいらする。きみの「普通に」とはなんだ、なんて課長のようにキレられたら楽なのに。
「じゃあ次回は気をつけてね。指差し確認をしたほうがいいよ」
「やだなあ、指差し確認だなんて。子供じゃないんだから」
 呆れた表情で原田くんが笑う。子供レベルの間違いをしておきながらなにを言う。
「いったん子供になったつもりで、やってみようか」
 はーい、と言いながら、原田くんは去っていった。はいは伸ばさない!
 原田くんへの注意で時間を取られ、自分の仕事が進まなかった。机のひきだしに入れている買い置きの栄養パンと誰かからのお土産みやげのお菓子で、五分ほどでお昼を済ます。午後イチに打ち合わせのある会議室に行こうとして、バッグにおにぎりが入ったままだと思いだした。食べ損ねた朝食の残りだ。今から食べていては間に合わないと、フセンに名前を書いて給湯室の冷蔵庫に入れた。
 会議は紛糾し、時間が延長された。……また残業か。
 執務室に戻ると、木下さんがデスクについたまま、ぐすぐすと泣いていた。木下さんは原田くんの二期下だ。会社で泣いちゃいけないなんてことはないけれど、社会人ならトイレに行って泣くものじゃない? この考えは古いのだろうか。
 ともかくも、なにが起きたのかを訊ねる。いわく、担当する地区のドラッグストアから連絡があり、弊社のシャンプーの発注漏れがあったため急ぎ納品を求められたがイレギュラーなので正規のルートでと案内したら、相手から強い口調で文句を言われた。しかもそのようすを聞きつけた課長からも怒られたという。
「断ったらいけないでしょ。なんとか物流部ロジと話をつけて、商品を回さないと。下手するとうちのを入れてもらえなくなるよ」
「だけどこの間も似たようなことがあって、結局、原田さんが直納に行ったじゃないですか。私、今日、どうしても外せない用があって、あの店まで行ってたら間に合わないんです。だから正規ルートのスケジュールでなんとかなるようならそれで、っていうか、どうですかと打診しただけなんですけど、断ったと誤解されて」
 まだ目の赤い木下さんが、口をとがらせながら言う。直納とは、本来の物流ルートではなく営業担当者が直接納品に出向くことだ。でもこれは、断っているな。打診しただけで、ドラッグストアの担当者が激高するわけがない。
「それでロジとの調整は?」
「課長が行きました。私には任せられないって」
 なんだか嫌な予感がする。
 そう思ったとたんに内線電話が鳴った。相手は課長だ。モノの確保ができたので、わたしに直納に行けと言う。
「どうしてわたしなんでしょう。木下さんの担当先ですが」
 電話に向かってそういうと、木下さんが大きく両手を振ってから腕でバツを作り、次には拝むポーズを見せてきた。
「上の人間が謝りに行ったほうがいいだろ。木下さんがまた余計なことを言うかもしれないし」
「会議が長引いたせいで仕事が押しているんです。残業予定なんです。上ということなら、わたしより課長のほうが効果は高いのでは」
「俺はさっき電話で謝ったし、取引先との会食があるんだよ」
 なんでこうなるんだろう。ああ、下も下なら、上も上だ。

 結局、直納に行ってから会社に戻って仕事を少し片づけ、終わらない分は明日に回すことにした。食堂に夕食を頼んでいたからだ。夕食の時間は夜七時から九時半入室までで、十時には閉まる。予約制のためこういうときに融通が利かないけれど、その分、延々と仕事をしない理由にはなる。有美子さんも、健康のためには夕食の時間を遅くしないほうがいいと言っていたし。
 九時半ギリギリになります、とアプリ経由で伝えていた。部屋には戻らず、ホールから直接食堂へと入る。すれ違いで誰かが出ていって、食堂には厨房の雨森さんひとりだけだ。この時間になることは以前もたびたびあったけど、厨房にいる人が異なるせいか、妙に緊張を感じる。
「お疲れさまでした」
 優しい声をかけられて、つい、ため息が出た。
「ありがとう。うん、ちょっと疲れました。今日はイレギュラーが多くて」
「そうだったんですね。今、ご飯を用意しますね。先にお茶を飲んでいらしてください」
 雨森さんはそう言って、カウンターのポットを手で示す。お茶はセルフサービスだ。
「いえお水で。お水がいいんです。ここのグラス、好きだから」
 わたしは厨房に近い席に荷物を置いた。脚の高いカウンタースツールもあって、夕食時は、ひとりふたりならカウンターで食べることもできる。有美子さんが厨房にいるときは話をしたくてそうしていたけれど、雨森さんと差し向かいでは落ち着かない。
 そのまま備え付きのウォーターサーバーに向かう。水もセルフサービスだ。そばのサイドボードに入ったアデリアグラスをひとつ、手に取る。今日は、オレンジ色のガーベラのような花模様のものを選んでみた。
 アデリアグラスというのは、昭和レトロの代表のようなかわいいガラス食器だ。ガラスの上に、花の絵がプリントされているものが有名だろう。風船や鳥の模様もある。
 最初に見たときに、わたしの好みにぴったりで嬉しくなった。誰が選んだのかと有美子さんに訊ねてみたら、オーナーである美甘さんの亡くなった妻の実家近くで作られている製品で、実家仕舞いをしたときに大量に出てきたのだという。ということは、アデリアレトロという復刻版じゃなく、昔の品物が含まれているかもしれない。マニアにはお宝じゃないだろうか。食堂で使う食器は、そういった古い物を利用しているようで、色や形が均一ではない。キッチュな花柄やふちに放物線のラインの入った、これまたレトロ喫茶で使われているような皿もあって、そういったものに当たるとうれしくなる。
 こういうレトロなものって建物の雰囲気に合っていて素敵ですね、という声がわたし以外からも届いたのか、ゆっくりとだけど食堂の調度品が変わっていった。たとえばコップの入っているサイドボードも、最初はただ長机にグラスが並べられていただけだったのが、昭和中期のものが手に入ったとかで、木製で短い脚のついたものに入れ替えられた。扉が縁のないガラスの引き戸なので、乱暴に扱わないようちょっとだけ気を遣う。美甘さんはマンション管理をなりわいとする会社の会長──元社長で、ここ以外にもマンションやビルを所有している。引越しに伴って家具を処分する人から引き取ったのだという。テーブルとは社員寮の食堂だったころのままだそうだけど、テーブルには赤と白のギンガムチェックのカバーがかけられた。椅子も徐々に木製のものに替わった。処分品が出るたびに直して入れ替えているそうで、座面の高さはほぼ同じでも、背のところがとうになっているものあり、柵状になっているものありと、形はバラバラだ。そういう寄せ集め感も面白いと思う。今日はどの椅子に座ろうかと考えるだけで楽しいし、気分も一新できる。
 今日の夕食は、秋刀魚さんまの塩焼きとポテトサラダ、卵スープに五目ご飯だった。ご飯は多めに炊いてあり、明日、干しエビを足しておにぎりにする予定らしい。たまにその手のリメイクパターンがある。もう一品のおにぎりはたしか、たらこだった。明日が楽しみだ。
 とそこで、朝のおにぎりを冷蔵庫に入れたままだったと思いだした。明日は外回りの予定だから食べられない。朝出勤したら、冷凍室に移さないと。
「このポテトサラダ、美味しいです。この黒いの、なんですか? こういうポテトサラダ、はじめて食べます」
「ひじきです。ひじきは貧血に効くし、身体の水分代謝を高めてくれるんですよ。有美子さんが用意してくれたレシピは一般的なポテトサラダだったんですが、少しアレンジを。有美子さんも許可してくれたので」
 雨森さんが、片づけものをしながら答える。
 水分代謝? ひじきが貧血にいいって話はどこかで聞いたけど、代謝が高まるとどうなるの? まあいいや、美味しければ満足だ。
 卵スープもほんわりした柔らかい味で、一日の疲れが溶けていきそうだ。
 有美子さんが厨房に立っていたころも、急な残業で最後のひとりになることがあった。そういうときはカウンター席について、会社のを口にした。有美子さんは、その気持ちはわかるよ、とよくうなずきながら聞いてくれた。有美子さんは、見かけは若く見えるけれど、六十を少し過ぎたぐらいの歳で、定年までずっと働いていたという。女性が出世できない時代を経てなんとか課長にまでなったそうで、さまざまな苦労をしたらしい。わたしはまだ三十四歳だけど、同じ道を辿るのだろうか。今どきはもう少しは上に行けるはずだが、上と下に挟まれて調整役をするのは変わらない。
「今日……、ホント、疲れたんですよ。下の子たちが次々とやらかしてくれて」
 いつもの気分で、つい、口に出した。
「下の子……ですか?」
「部下のことです。たかがチーフ……名目だけの主任なんですけどね。でも尻拭いはしなくちゃいけないでしょ。一方でコンプラ重視で、注意したいけどキツくは言えないから気を遣うしかなくて」
「そうですね、気は遣うでしょう」
 雨森さんが軽くうなずく。
「ねー。なんでわたしばっかり、って思いますよ」
「いえ、気を遣うのは全員でしょう。立場も考え方も年齢も違うのだから、誰だって、気を遣って生きているんじゃないですか。おそらく部下の方も、彼らなりに遣ってますよ」
「それはそうですね」
 と返したけれど、内心でイラっとした。
 実情を訊きもせず、なにを表面的な正論を言ってるんだ。仮に雨森さんが大卒だとしたら、卒業して四年から六年といったところだろう。それで調理の実務経験が二年に満たないのなら、ほかの仕事もしていたということ。しかも有美子さんが不在の間の代理なら、直前までやっていた仕事は辞めているわけだ。ここの仕事が終わったらどうするつもりなのか。おそらく責任ある立場になったことはないだろう。そんな途切れ途切れの仕事経験で、わかったようなことを言わないでほしい。
 ご飯の味は合格、だけど有美子さんと同じようないやしを求めることはできない。それはそうだ、人生の経験値が違う。ここは食堂なのだから、それで充分と割り切ればいい。
 わたしは大人のたしなみで笑顔を保ったまま、淡々と残りを食べて部屋に戻った。
 ひと息ついたあと、お風呂の湯を張りながら洗濯しようとバッグの中身を確かめていたら、ハンカチがないことに気づいた。
 最後に使ったのはいつだっけ、と記憶を辿り、食堂で夕食を供されたときだと思いだした。仕事着のままだったから、汚れ防止で膝にかけたのだ。
 もう十時半だ。おそらく食堂の鍵は閉まっている。でもまだ雨森さんが片づけや仕込みをしているかもしれない。ハンカチには名前など書いていない。忘れ物として取り置かれていればいいけれど、そういう配慮のできる人だろうか。買って間もない品物だから、処分されては困る。忘れ去られたまま明日の朝になって、誰かに踏まれる、なんてのはもっと嫌だ。
 迷ったのはほんの少しで、わたしはすぐさま一階に下りた。灯りがついているなら入れてもらう、消えているならメモでも貼ってこようと、メモパッドとペンも持った。
 はたして灯りはついていた。「忘れ物があって」と声をかけると、扉は開いた。
「ハンカチですよね。掃除のときに気づきました。どなたのものかわからなかったので、朝、カウンターにでも置いておこうと」
「そのままいただいて帰ります。カウンターですね」
 わたしは雨森さんの横をすり抜けて食堂へと入った。いつもの距離感でカウンターに進もうとしたら、机にぶつかった。位置がずらされていたのだ。厨房に近いところの空間があいていて、そこに見慣れぬ物体があった。……担架?
「これ、なんですか?」
「キャンプコットです。簡易ベッド。家から持ってきたんですが、パーツの締まりがゆるくなったので、広いところで修理させてもらおうと思って」
「広いところですか」
 入ったことはないけれど、建物全体と食堂の位置関係からみて、有美子さんの部屋はわたしたちの借りているワンルームより少し広いはずだ。
 思わず問うた言葉に、雨森さんは照れたような困ったような表情になった。
「ただいま床が本に覆われていて、どこにどう片づけたらいいかわからない状態なんですよ。有美子さんは読書家でこだわりのある人だから、雑に触るのははばかられて。なんとかこのキャンプコットを入れるスペースだけは見つけたんですが」
「床が本に……ですか? 有美子さんって几帳面な方かと思ってましたが」
「几帳面ですよ。几帳面に、こだわりごとに本が積まれているんです。骨折の状況はご存じですか? 踏み台に乗って棚の上の本を取ろうとしたところバランスを崩して、積まれた本の上に落下したんです。棚からも本が落ちてきているし、各所に積まれた本も崩れているしで、こんとんとしてます。有美子さんに確かめながらでないと戻せなくて」
「よほどの本があったんですね。でもベッドには本はないでしょうに」
 あるんです、と表情に書いてあったけれど、雨森さんはそう言わず、笑っていた。わたしも愛想笑いを返す。
 雨森さんはカウンターからハンカチを取ってきてくれた。どうも、と言ってわたしは食堂を出る。
 雨森さんってよくわからない人だ。でも有美子さんも変わった人だったんだ。

  *

続きは12月10日ごろ発売の『メゾン美甘』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
水生大海(みずき・ひろみ)
三重県生まれ。漫画家を経て、2005年、チュンソフト小説大賞同賞受賞。08年『少女たちの羅針盤』(旧題「罪人いずくにか」)が島田荘司選第1回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞優秀作に選ばれ、翌年デビュー。14年、「五度目の春のヒヨコ」(『エール! 2』/『ひよっこ社労士のヒナコ』所収)が、25年、「あの日、キャンプ場で」(『その嘘を、なかったことには』所収)が、日本推理作家協会賞(短編部門)の候補となる。他の著書に、ドラマ化されたグルメミステリー「ランチ探偵」シリーズのほか、「まねき猫事件ノート」シリーズ、『ノゾミくん、こっちにおいで』『最後のページをめくるまで』『あなたが選ぶ結末は』『マザー/コンプレックス』『救世主』など多数。

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