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猫と涙と昼行燈 公事宿まんぞく庵御裁許帖

 第一話 もてなしのみず徳利とっくり

  

「ふざけるな! この落とし前、きっちりつけてもらおうか!」
 狭いたなの中に大音声が響き渡る。は声の主、派手な身なりの小男を慌てて止めた。
「やめてください、すけさん」
 ここ、ゑびす屋は、かんかなざわちょうにある仕出し屋だ。店の中で拵こしらえた料理をじゅうばこに詰め、お座敷や家まで届けている。
 よわい十七の香乃は九つのときにふた親を病で亡くし、以降は父の知り合いだったゑびす屋のあるじささぞうと妻のおまきのもとでほうこうをしていた。
 ゑびす屋には他におたなものが七人ほどいるが、香乃の仕事はできあがった料理を相手先まで届けることだ。
 生まれついたころから身体が丈夫だった。特に足腰の強さに関しては、自分でも取り柄だと思っている。そんな香乃にとって、料理のお届けは性に合う仕事だった。
 身寄りのない自分を受け入れてくれたゑびす屋の夫婦には、たいそう感謝している。笹蔵やお槇は香乃を厳しく𠮟ることもあったが、きちんと手習いに通わせてくれたし、親代わりとなって生きる術すべを仕込んでくれた。
 二人に少しでも恩返しがしたい──香乃はその一心で、与えられた仕事を黙々とこなし続けた。
 ……なのに。
「あいすみません。すみません」
「どうぞお許しください」
 親代わりの笹蔵とお槇は、怒鳴られて身を縮めている。
 さっきから大声で喚いている由良之助は、ゑびす屋の近くにある老舗しにせふくきんらんの若旦那だ。
 由良之助の後ろには取り巻きの若者が数人おり、揃って香乃たちを睨んでいる。
 今日は朝一番にとあるしょうから注文が入ったので、香乃は重箱が包まれた風呂敷を抱えてゑびす屋を出た。
 その大店まであとはんちょうというところで、ふいに誰かが前に立ち塞がった。
 もちろん香乃は慌ててよけたが、目の前の相手は自ら突進してきた。
 あっ……と思ったときには重箱が空を舞っていた。断言できる。向こうの方から香乃にぶつかってきたのだ。
 その相手こそ、今怒鳴り散らしている小男。由良之助である。
 由良之助はもともとあまり素行がよくなかった。半年ほど前に金蘭屋の若旦那となってからは、さらに磨きがかかった。
 仕事そっちのけで取り巻きたちと付近をうろついては、りを邪魔したり、みずちゃの看板娘にしつこく絡んだりと好き放題。
 とにかく乱暴で、いけ好かない連中だ。神田界隈の者たちは、一味が現れるとの子を散らすように逃げていく。
 香乃もなるべく関わらないようにしていたつもりだったが、運悪く標的にされてしまったようだ。
 地面に落ちた重箱は無惨にも割れており、包んでいた風呂敷に中身の煮しめの汁が染みていた。
 その汁は、由良之助の派手な着物にもべったりとついた。
「あーあ、とんだ災難だ。この着物、いくらしたと思ってやがる」
 由良之助は茶色く変色してしまったところをこれ見よがしに指さしてなじった。
 そんな……自分からぶつかってきたのに! 反論しようとした香乃は、両脇を取り巻きたちにがっちり押さえられてしまった。
「この汚い風呂敷にゑびす屋と描いてあるな。お前はそこの奉公人か。よし、店に行って落とし前をつけてやる」
 にやりと笑う由良之助を先頭に、こうして香乃は、引っ立てられるようにしてゑびす屋に戻った。
「このたびは、うちの奉公人がとんだことを……」
 土下座する笹蔵の横でお槇も同じ姿勢を取り、藍染めの巾着袋を差し出した。
「どうか、これをお収めくださいまし」
 ちゃりちゃりと銭の音がする。巾着袋の中身は、ゑびす屋の儲けだ。香乃はお槇にすがり、かぶりを振った。
女将おかみさん。どうしてきんを渡すのですか。私は何もしていません。由良之助さんの方からぶつかってきたんです」
「お香乃。そんなことは分かっているよ。でも、黙って謝った方がいい。……お前さんが正しいと言ってくれる人は、誰もいないからね」
 お槇は香乃の肩を優しくさすり、店の入り口にちらりと目をやった。
 こんに白抜きで『ゑびす屋』と描かれたれんをそっとめくり上げ、たくさんの野次馬が香乃たちの様子をうかがっているが、みな一様に口をつぐんでいる。
 中には香乃が体当たりされたところを見ていた者もいるのに、誰も助け舟を出してくれなかった。おそらく、由良之助たちが怖いのだろう。
「おいおい、たったこれっぽっちか。お前たちは俺をどこの誰だと思ってやがる。金蘭屋の跡取りだぞ。俺の着物が、こんなはした金で買えるはずねぇだろう」
 巾着袋を取り上げて中身を確かめていた由良之助は、へっと顔を歪めた。文句を言いつつも、中に入っていた銭はふところに収める。
 前掛け姿の笹蔵が、おずおずと口を開いた。
「では、いかほど用立てれば……」
「そうだな──あと百両」
「ひゃ、百両?!」
「そうだ。きっちり払ってもらうぜ。文句はねぇよなぁ」
 由良之助が顎をくいっとしゃくると、取り巻きたちが指をぽきぽきと鳴らす。もし断れば……きっと、ただでは済まない。
「そんな大金を払ったら、うちみたいなちっぽけな店はたちまち傾くぞ」
 笹蔵は呆然と肩を落とした。お槇は涙目で首をぶるぶると横に振る。
「店をなくすわけにはいかないよ。奉公人たちが路頭に迷う……」
 その奉公人たちはいたの方で身を寄せ合い、心配そうな顔を向けていた。店の外にいる野次馬の視線も突き刺さり、香乃の心に焦りと怒り、そして悲しみが募る。
 ──私は何もやっていない。嵌められただけ。なのに、どうしてもそのあかしが立てられない……。
 悔しかった。だがそれ以上に、笹蔵やお槇を泣かせたくないという気持ちが胸に募る。
「由良之助さん、申し訳ありません。この通り、お詫びいたします。だから、ゑびす屋につぐないを求めるのはおやめください」
 香乃は唇を嚙み締めながら、に手をついた。
「ん? ゑびす屋が償わないってんなら、お前が自分で払うのか。百両」
 由良之助はしみのついた着物をぐいっと引っ張った。
「それは……」
 香乃は土間に座り込んだまま言葉を詰まらせる。どうしよう……ごくりと喉を鳴らすと、店の外で声がした。
「百両なんて額がでかいぜ。誰かに間に入ってもらった方がいいんじゃねぇか」
「それもそうだな。おかきの親分でも呼んでこようぜ」
 あちこちから賛同の声が上がった。野次馬の一人が「とにかく誰かに知らせてくる」と身をひるがえす。
 そこで由良之助が「待った」と叫んだ。
「ああ、誰も呼ばなくていい。俺は事を荒立てる気はねぇんだ。詫びの言葉は聞けたことだし、今日のところはひとまず引き揚げてやる。──おい、帰るぞ」
 由良之助の一声で、取り巻きたちはぞろぞろと店の出入り口に向かった。群がっていた野次馬たちは一味に触れぬよう、慌てて脇に避ける。
「お香乃といったな。このままで済むと思うなよ。百両、お前が一人で償うってんならそれでもいいが、毎日ゑびす屋に来て取り立ててやる。覚悟しとけ」
 由良之助がぐにゃりと顔を歪ませて笑い、最後に店を出た。外にいた野次馬たちもさんさん散っていく。
 店の中に静けさが戻ったとき、香乃の心は決まっていた。
「旦那さま、女将さん。私──ゑびす屋を出ていきます」
 笹蔵は目を見開いた。
「ここをやめるっていうのか。それで、食いはどうやって稼ぐんだ、お香乃」
「そうだよ。奉公人を放り出すわけにはいかないよ」
 お槇は必死に引き留めてくれた。だが、香乃の胸の内は変わらない。
「私がここにいたら、迷惑がかかります。もしまたあの人たちが来たら、私を馘首くびにしたと伝えてください。百両の件も、私に言えと突っぱねてください」
 香乃が一人で償い金を背負い、ゑびす屋を離れれば、おそらく店は助かる。
 だが百両などとうてい払えない。ほとぼりが冷めるまでどこかでひっそり暮らし、あとのことはそのときになったら考えるつもりだった。もう、こうするしかない。
 香乃は未練を断ち切るようにぱんと膝をはたいて立ち上がり、店の名前が入った前掛けを静かに外した。
「みなさん、お世話になりました。──旦那さま、女将さん。身寄りのない私をここに置いてくれて、ありがとうございます」
 笹蔵とお槇、そして他の奉公人たちに丁寧に頭を下げ、香乃は風呂敷包みを一つ背負って外に出た。
 秋の昼下がり。少し傾いた日が目に染みて、涙が零れそうになった。

  

 暮らしていくにはまず、働くところを見つけなければならない。草臥くたびれたべんけいじまの着物を纏ってゑびす屋をあとにした香乃は、近くの口入れ屋に足を運んだ。
 だが、そこのだいは渋い顔をした。
「あんたができるような仕事は、今はないねぇ」
 そのあとも何件か回ったが、返答は同じだった。かそれを上回る信用がない限り、十七の身寄りのない小娘を雇うところなどないのだ。
 どんどん日が傾いてきて、香乃は途方に暮れた。これからどうしよう。今日はちん宿やどにでも泊まろうか。でも、明日は? 明後日は……?
「ひゃぁっ!」
 そのとき、毛むくじゃらの塊がふいに足元に転がってきて、素っ頓狂な声を上げてしまった。目を凝らすと、『それ』はもぞもぞと動き出す。
 正体は三毛猫だった。身体のほとんどが白く、顔に茶と黒のぶちがある。
 しゃがんで手を差し出すと、猫は顔を摺り寄せてきた。
「人懐っこくていい子ね。誰かに飼われてるの? あら……?」
 撫で回しているうちに気付いた。猫は何か細長いものを咥えている。
 ごめんね……と言いながら口から外してみると、それは使い込まれた煙管きせるだった。は黒塗りの竹。吸い口とがんくびに凝った文様が刻まれていて、粋だ。
「おい、待て。そこの三毛猫、待ってくれ──」
 何やら気の抜けるような声が聞こえてきて、香乃は煙管と猫を抱えたまま立ち上がった。
 西日を背に受けて、藍色の着物を纏った男がよたよたと走ってくる。
「ああ、ろう、やっと追いついた」
 息を切らしながらすぐ傍までやってきたその男を見て、驚いた。
 頭の位置が、はるか上にある。年の頃はおそらく二十五、六。背丈の割に身体がひょろひょろしていて、まるで柳のようだった。月代さかやきのないそうはつまげはところどころ崩れ、ぼさぼさと毛が飛び出ている。
「俺の煙管を咥えていくなんて、ひどいじゃないか、三毛太郎」
 三毛太郎というのが猫の名前らしい。見たところ雌なのに、妙だと思った。その猫を追って現れたのは、煙管の持ち主のようだ。
「煙管、お返しいたします。この子は、あなたの飼い猫ですか?」
 香乃が尋ねると相手はまず煙管を受け取って懐にしまい、そのあと目をきらりと輝かせて顔を近づけてきた。
「いやあ、助かった。三毛太郎を捕まえてくれたのは、どこの女神さまだ」
「女神さまだなんて大袈裟な……香乃と申します」
「お香乃か。俺はろう。うちの悪戯猫を取り押さえてくれた礼がしたい。どうだい。そこの水茶屋で、一休みしないか」
「……は?」
 猫の飼い主……史郎は、香乃の肩になれなれしく腕を回そうとしている。顔にはだらしない笑みが浮かんでいて、ひどくしまりがない。
「猫を捕まえたくらいで、お礼なんていりませんけど」
 香乃は史郎の手をかわし、眉を顰めた。
「そう言わずに、ちょいと一服。お代の心配ならしなくていいから。な?」
「結構です」
 何度断っても史郎は引こうとしなかった。香乃は文句を言おうとしたが、それより先に、抱えていた猫が「しゃーっ」と毛を逆立てて腕から飛び出す。
「うわっ、やめろ三毛太郎! なんでお前は、いつも俺に爪を立てるんだ?!」
「しゃーっ!!」
 三毛太郎は容赦がなかった。柳のような長身は、あっという間に傷だらけになっていく。
 最初は止めに入ろうとした香乃だが、さっきのなれなれしい態度がのうをよぎり、思い留まって静観を決め込んだ。
 やがて勝者……三毛太郎が悠々と歩いてきて、再び香乃の腕に収まる。
「心配なので、家まで送ります。どこに住んでいるか教えていただけますか」
 へたり込む敗者に声をかけると、長い腕がにゅっと伸びてきて肩を抱かれた。
「俺を送ってくれるのか。優しいねぇ」
「私が送りたいのは、あなたじゃなくて三毛太郎です。早く家を教えて」
 肩に乗った手をぺしんとはたいて、香乃はようやく気付いた。このひょろ長い男は、根っからの女ったらしだ。
「……冷たいな」
 史郎はぶつくさ言いながら、土埃の舞う江戸の道をとぼとぼと歩き始める。
 香乃は薄っぺらい背中を追いかけつつ、改めてあたりを見回した。
 今いるのはりょうごくひろこうを一本逸れた道端。働くところを探しているうちに、神田界隈から少し離れていたようだ。
 歩いていると、いくばくもしないうちに火の見やぐらと馬場が見えてきた。周りには似たような形の建物がずらりと並んでいる。
 おそらく旅籠はたごだろう。ほとんどが二階建てで、質素だ。
「このあたりには、旅籠が多いんですね」
 三毛太郎を抱いたまま言うと、史郎は引っ搔き傷のついた顔を僅かに上げた。
「ここはくろちょうさ。普通の旅籠もあるが、半分以上は宿やどだ」
「公事宿? 公事って、おぎょうさまがお裁きをする、あのお公事のことですか?」
「ああ、そうだ。そこら辺を歩いているのは、だいたいにんろんにんだね」
 公事とは、要するに訴訟のこと。
 人殺しや盗みは『ぎんすじ』といって、町奉行が直々に取り扱う。それ以外の様々な揉め事は『いりすじ』と呼ばれ、お役人の前で争う者同士が互いに言い分を述べ合い、さいを仰ぐ。こういった出入筋の訴訟が、公事である。
 香乃もそのくらいのことは知っていたが、あとは分からない。
「史郎さん。訴人や論人というのは何のことですか」
「出入筋で、訴え出た方を訴人、訴えられた方を論人と呼ぶんだ。公事宿に泊まるのは、たいていこのどちらかだな」
 時折引っ搔き傷に手を当てて顔を顰めながらも、史郎は詳しく話してくれた。
 江戸から離れた領地の揉め事も、江戸の奉行所で扱う。遠くからやってきた訴人や論人は、すべてに決着がつくまで奉行所に近い場所に留まらなければならない。ゆえに、公事の際はどうしてもどこかに泊まる必要がある。
 それらの者たちを、幕府公認で受け入れているのが公事宿だ。多くはここ、馬喰町に集まっている。
 一通り説明を終えると、史郎は一軒の建物の前で立ち止まった。周りにある他の宿より間口が少し広く、立派な檜の看板が掲げられている。
「まんぞく庵……?」
 香乃は看板に書かれていた文字を読み上げた。ここの屋号らしい。
 そうこうしているうちに戸が開いた。中から男が出てきて、目を丸くする。
「客が来たのかと思ったが、史郎さんか。そんなに傷だらけで、一体どうした」
「どうもこうもないよ。三毛太郎の奴……。ああ痛い」
 史郎は香乃の腕の中に収まっている毛玉を恨めしそうに睨んだ。
 建物から出てきた男は、苦笑いしながら中を指さす。
「史郎さん。とにかく、傷の手当てをしてくるといい。膿んだりしたら大変だ」
「そうする」
 頼りない足取りで、史郎は奥に消えていった。
 それを見送っていた男に、香乃は抱えたままだった猫をそっと差し出す。
「私は香乃と申します。そこの道端でひと悶着あって、三毛太郎と……一応、史郎さんをここまでお送りしました」
「それは助かった。わたしはぜんいち。このまんぞく庵の主だ。お香乃さんといったね。中に入ってくれ。史郎さんたちを送ってくれた礼に、茶でも出す」
 地面に下ろされた三毛太郎が、まんぞく庵の中へすーっと飛び込んでいった。香乃も言われるまま善一のあとに続く。
 史郎はかなり背が高かったが、善一も負けていない。ともに六尺弱はあるだろう。歳も同じくらいだ。痩せ気味の史郎に対し、善一の身体はほどよく締まっている。
 まんぞく庵に足を踏み入れると、すぐに広い土間があった。入り口を背にして左手にちょうがあり、台の上にすずりや筆、そろばんが置いてある。
 土間を上がった先は板張りの廊下で、左側には二階へと続く階段が、右にはふすまが閉じられた部屋がいくつか並んでいた。奥は水場のようだが、様子は窺えない。何かを煮炊きしているのか、しそうな香りが漂ってくる。
 善一は香乃を一番手前の部屋へ通すと一度奥に引っ込み、湯吞みを二つ持ってすぐに戻ってきた。
「今、ゆうの仕込みが始まったところだ。忙しくて誰も手が離せないから、この茶はわたしが淹れた。あまり美味うまくないかもしれないが、勘弁してほしい」
 主人自ら出してくれたお茶を、香乃はかしこまって受け取った。ゑびす屋を出てから何も口にしていない。ほどよいぬるさの番茶が身に染みる。
「お香乃さん。史郎さんを送り届けてくれてありがとう。恩に着る」
 質素な六畳間に、小さな卓が置かれていた。善一はその卓に自分の湯吞みを置き、丁寧に頭を下げる。
「恩に着るだなんて。私、そんなたいそうなことはしてません」
「いや、助かった。史郎さんは、ここ──まんぞく庵の、大事な手代だ」
「手代? 史郎さんは、ここで働いているんですか?」
「ああ、そうだ。公事宿の手代は、普通の店のそれとは違う。ここにはお公事に臨まなければならない人たちが来るが、ほとんどは訴訟の素人だ。公事宿の手代は、そういう人たちに代わってすべてを引き受け、勝ち公事に導く」
 公事がどういうものか香乃にはよく分からないが、やたらとややこしいことだけは察しが付く。公事宿の手代は、そんなややこしくて難しいことを代わりにこなすのだ。つまり、相当の切れ者でないと務まらないだろう。
 そこまで考えて、はてと首を傾げた。頭の中にある史郎の顔は、ひどくしまりがない。どう考えても、切れ者とはほど遠い。
 黙り込んでしまった香乃の胸の内を察したのか、善一が軽く笑った。
「史郎さんは、普段はのんびりしているからな」
 そんな話をしていると、六畳間の襖がからりと開いた。
 俎上に載せていた当の本人が、かもに頭をぶつけないようにひょいと肩を竦めて部屋に入ってくる。顔を洗ったのか、さっきより少しさっぱりしていた。
「やれやれ。ひどい目に遭ったよ。三毛太郎のせいで昼寝ができなかったし……どこかの誰かには冷たくされるし」
 史郎は不満げな目をちらちらと香乃に向けてくる。
 やはり、切れ者には見えない。本当に公事宿の手代なのかしら……そう思っていると、善一が優しい声で言った。
「お香乃さん。後日、改めて礼に伺いたい。どこに住んでいるんだ。見ない顔だから、近所ではないな。荷物を抱えているが、どこかに出かけた帰りだろうか」
「え、あの……私の家は……」
 住むところはない。働き口も失った。
 まごまごしていると、善一が「何かあったのか?」と首を捻る。
 香乃は今まで起こったことをぽつぽつと話した。
 ゑびす屋を出るときは自分の食い扶持くらいどうにかなると思っていたが、ままならない。由良之助たちにありもしないことで言いがかりをつけられた悔しさが今になって押し寄せ、目頭がじわじわと熱くなる。
 堪えきれなくなって涙が零れる寸前、史郎が大きな溜息を吐いた。
「──お香乃。悪いが、目の前で泣かないでくれ。俺は、人の涙が苦手なんだ」
 込み上げていたものが、すーっと引っ込んだ。史郎は卓に肘をつき、眉間に皺を寄せ、そっぽを向いている。
 他人の身の上話など面倒臭いと思っているのだろうか。確かに史郎には関係のないことかもしれないが、それにしたって溜息まで吐いて水を差すなんてひどい。
 不安や悲しみを打ち消す勢いで怒りが湧いてきて、香乃は史郎を睨んだ。
「善一、いるかい?」
 だがふいに声がして、顰め面を緩めた。
 するりと部屋に入ってきたのは、よろけ縞の渋い着物を身に着けた白髪まじりの女だ。背筋がしゃんと伸びていて、動きがきびきびしている。
「おっかさん。どうした」
 善一が驚いて立ち上がった。
「おんや、女将。ここんとこに皺が寄ってるよ。ああ、いつものことか」
 史郎は座ったまま、眉と眉の間を指さす。現れたのは善一の母親で、なおかつここの女将のようだ。
「史郎。あたしを年寄り扱いすると張っ倒すよ。……おや、そこの娘は誰だい」
 女将は史郎に一喝してから香乃を見やった。香乃は自ら名乗り、善一が事の次第をかいつまんで話す。
「へぇ。お香乃はうちの猫を送ってきてくれたんだね。それはありがとうよ。……ところで善一、ちょいとひとっ走りしてきておくれ。さっきしゅったつしたお客が、大事なものを部屋に忘れていっちまったんだよ」
「大事なものとは?」
「土産に買った大福餅さ。あのお客、お公事に勝ったら、道中でそれを食べるのを楽しみにしてたんだ。なのに部屋に置いたまま、少し前にここを発っちまった。急いで届けておくれ。あの人はかわから来た。帰りは東海道を上るはずだから、きょうばしの方に行けば会える。走れば追いつくかもしれない」
 母親の頼み事を聞いた善一は、眉尻を僅かに下げた。
「おっかさん。客を追いかけたいのはやまやまだが、これから夕餉の仕度がある。わたしが抜けたら、板場が回らないんじゃないか?」
「ああ、そうだったねぇ。どうしよう。みんな自分の仕事にかかりきりだし、あたしの足じゃ追いつきっこないし……」
 生の菓子はすぐに悪くなる。あとで送るわけにもいかないだろう。女将は史郎にちらりと目を向けた。
「俺は嫌だよ。女ならともかく、男の客を追っかけるなんて、まっぴら御免……」
「何だって? もう一回言ってご覧。史郎。あんた、怠ける気じゃないだろうね」
「あー……今日はちょいと怪我をしてるんだ。無理無理」
 長身の手代は、わざとらしく傷に手を当てた。怪我をしているのは本当なので女将もそれ以上は言わず、困り果てた様子で溜息を吐く。
 ハの字に下がった女将と善一の眉を見て、香乃は思わず口を挟んだ。
「あの、よければ、私が忘れ物を届けましょうか……」
「え、あんたが? 大福餅を忘れていったのは男の客だよ。おなの足で追いつけるのかい」
 女将は目を丸くして、香乃を上から下まで眺めた。
「私は仕出し屋で働いていて、毎日重箱を運んでいました。走るのは得意です」
 香乃はとんと胸を叩いた。唯一の取り柄は健脚だ。追いついてみせる。
「ふぅん。どうやら相当自信があるみたいだね。分かった、任せる。ああ、名乗り遅れた。あたしは。ここの女将さ」
 女将……多津はこくりと頷き、すぐさま大福餅の詰まった箱を持ってきた。
わらはありますか」
 出入り口に向かいながら尋ねると、善一が履物を差し出してくる。
 幸いにも、足にぴったりと合っていた。これなら行ける。
「大福餅を忘れたお客は、二の字の入った青いはっを着てる。頼んだよ、お香乃」
「お香乃さん、くれぐれも気を付けてくれ」
「分かりました。行ってきます!」
 多津と善一、そして史郎に見守られ、香乃は勢いよく駆け出した。

 香乃の足は出立の差をものともしなかった。多津に言われた通りの恰好をした男に追いついたのは、京橋を二町ほど南に行った場所。わりちょうの手前だ。
 大福餅を渡すと法被姿の男は泣いて喜び、その場で一筆、お礼のふみをしたためてくれた。
 それを持って帰ると、まんぞく庵は夕餉の後片付けの真っ最中。たすき掛けをした多津からさっきの六畳間で待つように言われ、香乃はそこで上がった息を整える。
「お香乃さん、お帰り」
「ご苦労だったね」
 しばらくして、善一と多津が額の汗を拭きながら姿を現した。史郎もぼさぼさの頭を搔きつつやってきて、卓の前に腰を下ろす。
 香乃は、大福餅の客がしたためた文を差し出した。
「本当に行ってきてくれたんだねぇ、お香乃。すごく速かったじゃないか」
「男のわたしより健脚だな。驚いた」
 多津と善一は、香乃を口々に褒めた。
 役に立てて何よりだ。胸を撫で下ろしていると、史郎がぼそりと言う。
「走って客を追いかける元気があるなら、いっそ他の仕事もお香乃がやってくれないかねぇ。そうしたら俺の手間が減って、もっと昼寝ができるのに……」
「──それだよ、史郎!」
 多津がふいに声を張り上げた。びくりと身を竦めた史郎を押しのけ、そのまま息子と向き合う。
「おっかさん。言わなくても何を考えているか分かった。わたしも賛成だ」
 善一はゆっくり頷き、香乃に向き直った。
「お香乃さん。もしよかったら──ここで働かないか」
 香乃が目を見開くと、多津が身を乗り出す。
「さっき善一から聞いたけど、行く当てがないんだろ。ならうちで働けばいい。ちょうど人手が足りなくて困ってたんだ。それに、お香乃の走りっぷりと心意気、あたしは気に入った。……ほら、史郎も何か言いな」
 多津に肘で小突かれた史郎は「ええ、俺もかい」などとぼやきつつも、僅かに居住まいを正す。
「俺から言えることは一つだけさ。ここにいるかどうか決めるのは、お香乃自身だ。──どうする?」
 こんなにありがたい話はない。
 どうする──その問いの答えは決まっていた。
 香乃はまずしゃんと背を伸ばしてから、ぺこりとお辞儀をする。
「──私、働きます! よろしくお願いします!」

  *

続きは8月1日ごろ発売の『猫と涙と昼行燈 公事宿まんぞく庵御裁許帖』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
相沢泉見(あいざわ・いずみ)
千葉県在住。 『貴公子探偵はチョイ足しグルメをご所望です』にて、第10回ポプラ社小説新人賞奨励賞を受賞。著書に『帝都鬼恋物語 煤かぶり令嬢の結婚』、『大正着物鬼譚 花街の困り事、承ります』など。

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