
序章
中泉琥珀は十六歳の誕生日に、父から衝撃の事実を知らされた。
「君は、猫又の生まれ変わりなんだ」
養父である劉生と血縁関係はない。両親は子に恵まれず、十六年前に子宝祈願の寺を訪ねた。偶然同じ日に、そこに捨てられていた琥珀に運命的なものを感じ、夫婦で引き取って育てることにしたという。
そこまでは琥珀もずっと知っていることだった。
父の追加情報によると、尾が三つに割れた死にかけの白い猫又が寺にやってきた翌朝、同じ場所にいたのが赤ん坊の琥珀だったらしい。住職が赤ん坊を見つけた時猫又の姿はすでになく、赤ん坊の瞳の色は猫又と同じ琥珀色だった。
父は真面目な顔で言う。
「住職さまがおっしゃるには、寺の本尊である阿弥陀如来さまのご加護があって、転生させていただいたのではないだろうかということだった」
それを聞いた琥珀の最初の感想は、『そんな馬鹿な』だった。
確かに琥珀は木登りが好きだし、魚も好きだ。おまけによく寝る。けれど、親への聞き分けも良く、女学校の成績も悪くない。真面目で控えめな文学少女で、普段から規範を外れるようなことをする子ではなかった。突然前世が猫又であったなどと、とんでもないことを聞かされても全くぴんと来ない。
ただ、琥珀には昔からよく見る夢があって、それはずっと気になっていた。
夢の中で、琥珀は大きな日本家屋で暮らしている。
ぼんやりとした景色の中にいつもあるのは美しく静かな庭と、大きな屋敷。それから小さな男の子の姿だった。
琥珀が昔から住んでいる家は木造二階建ての西洋風建築だ。白い壁に張り出した窓、大きめのバルコニーがついた造りのそれは、夢で見る屋敷とは似ても似つかない。あんな屋敷には行ったことがないはずだった。
何故、そんな夢を繰り返し見るのかも、また、何故目覚めたあとに胸がざわつくのかも琥珀にはわからなかった。ただ、事実を聞いて思ったことがある。
あの夢はもしかしたら前世の記憶で、あの屋敷はどこかに実在するかもしれない。
第一章 芝区三田四國町の猫屋敷
大正十年。六月十三日。薄曇りの午後三時半。
琥珀は女学校の授業を終え、自転車で疾走していた。
矢絣の着物、青搗色の袴に校章の入ったバックル、大きなリボンに髪を結い流し、編み上げブーツを履いた女学校の制服のまま力強くペダルを踏んでいる。
女子が自転車を乗り回すのは教師は勿論、近所の口さがないおばさまのみならず、道ゆく人にも良い顔はされない。
それでも琥珀は一つも気にしていない。ひと月ほど前、誕生日に買ってもらった自転車の練習を重ね、やっと乗りこなせるようになった二週間前から終業と同時に走り回っていた。
自宅のある小石川区から飯田橋を越え、琥珀の女学校がある麴町区番町を抜け、しばらく外濠沿いをずっと走っていく。
ぜぇ。はぁ。ぜぇ。はぁ。
昔から何度となく夢に見る、どこかにあるかもしれない屋敷を探すためだ。
琥珀の行動範囲はずっと、親との外出以外、自宅と学校周辺に限定されていて、一人でどこかに行くことだってあまりなかった。それなのにここ二週間、何かに取り憑つかれたかのように、毎日、自分が両親に引き取られたお寺の近くを探し回っていた。
琥珀のいたお寺は芝区の浜松町にあるが、夢で見た屋敷がその付近にあるとは限らない。ものすごく遠い可能性だってある。今日もまた無駄足に終わる可能性は高い。けれど、胸の内から湧いてくる強い想いが毎日琥珀を駆り立てていた。
風を切って走っていると、汗をかいた頭皮を風が抜けていく。
疾走する感覚は昔からどこか懐かしいような気がして好きだった。
琥珀は芝公園で自転車を降りて息を整えた。
木陰で座って休憩していると一匹の猫がちてちてと歩み寄ってきた。白黒のハチワレ猫だった。昔怪我でもしたのか、片目を閉じている。首輪がついているのでどこかで飼われている猫だろう。
顎の下を撫でてやると気持ち良さそうに目を瞑った。
昔から猫にはすごく好かれる。琥珀は特別な猫好きというわけではなかったが、動物の中でも猫とは〝うまが合う〟ような気がしていた。もしかしてこれも前世の影響だったのだろうか。
しばらく撫でると猫は立ち上がってぶるぶると体を震わせた。濁ったダミ声で「な゛ー」と鳴き、数歩行って琥珀を振り返り、また鳴いた。どこかに案内しようとしているらしい。
自転車をひいて、猫のあとをついていくことにした。
ここまでずっと人通りが多かったが、芝公園を出て芝園橋を渡ると閑静な住宅街になる。幾つか路地を曲がり、ある屋敷を囲む、黒い瓦の葺かれた石塀沿いをずっと行く。
門の前まで来ると、猫はそこでもう一度琥珀を向いて「な゛ー」と鳴くと中に入っていってしまった。門は開いているが、さすがに他所様の屋敷の中にまではついていけない。そう思って立ちつくす。
大きな屋敷だった。
改めてよく見ると、屋根のついた黒い冠木門の中央に星形の印がある。この模様はなんだろう。神社とも武家屋敷とも違う雰囲気がある。
ずっと見つめるうちに強い郷愁を感じた琥珀は、吸い込まれるように門の中に入った。
門の中は白い砂利が敷かれている。妙な石塔が幾つかあるが、それ以外は変わった装飾は見あたらない。植物は煩くない程度に植えられていて、更紗灯台の赤い花が静かな風に揺れていた。
等間隔に敷かれた石畳を五十歩ほど行き、目の前に現れた屋敷を見た琥珀は息を呑んだ。
強い既視感が過る。琥珀は、この屋敷を知っている。
ここは、ずっと夢で見ていた屋敷だ。それが琥珀の夢からそのまま取り出したかのように、あるいはそれより鮮やかな色彩を持ってそこにあった。
しばらくぼんやりと立ちつくし、屋敷から目を離せずにいたが、猫の声がしたので、屋敷の脇を抜けてそちらへと行く。
そこには縁側があり、向かいには閑静な庭の風景が広がっていた。
その屋敷は、見れば見るほど夢で見たものと似ていた。中でも見覚えのある特徴的なものがあった。庭の奥の端にある半円形の茂みだ。
そこは竹でできたアーチに這わせた萩がもっさりと垂れ下がっていて、小さなトンネルのようになっている。もっとも、奥は塀にぶつかるので、正確にはトンネルというより草木でできた洞窟だった。
だらしなく伸びて垂れ下がった萩の葉に埋もれて小さくなっている入口を覗き込もうと近づくと、そこからにゅっと何かが出てきた。
猫だった。
一匹、また一匹と、猫が次々と出てくる。
猫達は琥珀を見ると皆嬉しそうに寄ってくる。
太った猫は体を擦りつけ撫でてくれとせがみ、小柄な猫は肩によじ登り、にゃあにゃあと鳴きながら琥珀を取り囲んでいく。あっという間に猫まみれになった。
ひい、ふう、みい、なんとなく指さして数えていくと全部で九匹いた。
そうして人の気配を感じて振り向くと、背後に三十代半ばくらいに見える着物姿の小柄な婦人がいて、琥珀を見つめていたのでびっくりした。
驚いたのは女性も同じらしく、ぽかんとした顔で立ちつくしている。
婦人の持っていた椀から、小さな魚がずるりと滑り落ちた。どうやら猫達にご飯をあげようとしていたらしい。
焦った琥珀は何故かその魚を手に取り、目の前にいた痩せたサバトラの猫に差し出した。
「ほ、ほら、お食べ」
猫は魚を旨そうにもりもりと食べた。
しばらくじっと黙ってそれを見つめていた琥珀は、意を決して勢いよく顔を上げ、言った。
「あのっ、猫に連れられてきました」
*
琥珀は女性と縁側に隣り合って座り、ちゃっかりお茶など出してもらっていた。
「勝手に上がり込んですみません。中泉琥珀と申します。その、怪しい者では……」
「いいのよ。女学生姿の怪しい人間はなかなかいないものよ。顔を上げてお菓子でも食べて」
琥珀は礼を言ってお菓子を手に取った。貝殻の形の可愛らしい最中だ。自転車で走り回ってくたびれていた体に甘味がじわりと染みわたる。
女性はにこにこしながら琥珀が食べるのを見ていた。
「この最中、神明町で売ってるんだけど、江の嶋っていって、作家の尾崎紅葉さんが名前をつけたお菓子なのよ」
「へぇ……素敵ですね。それにとても美味しいです」
「お茶も飲んでね」
「あ、ありがとうございます。わたし猫舌なんで、もう少ししたらいただきます」
「私は田上小梅よ」
「では、この家は田上さんのお屋敷なんですか?」
「ううん。私は下働きで来ているだけよ」
「そうなんですか……変わった雰囲気のお屋敷ですね」
「あぁ、この家、四季島家は代々陰陽師の家系なの」
「陰陽師……」
「そう。だから正面の式台から入ると、御神体が祀られた祭壇のあるご祈禱場になってるのよ」
陰陽師の家だったとは。なるほど。神社というわけでもないけれど普通の家とも少し違う、妙に不思議な雰囲気の屋敷だと思っていたので納得した。
「あの……変わった石塔が幾つかありましたけど」
「ああ、あれは……私も詳しくないんだけど……敷地にある五つの石塔を線で結ぶと、ちょうど中央に御神体があるようになっているの。このあたりは裏鬼門にあたるから、御神体を護るための結界になっているとか何とか……」
小梅はにこにこしながら色々と教えてくれる。
「猫……沢山いるんですね」
「この家は代々猫を守り神として飼うしきたりがあるのよ。これでも増えた分はもらい手を探してきちんと世話をできる数にとどめているんだけど……それでも、時々近所の人が連れてきたりするから……また増えちゃうのよね」
琥珀を連れてきた片目のハチワレ猫が縁側に上がってきて、琥珀のすぐ隣に来たので膝にのせてやる。
それを見た小梅が大きく目を見開いた。
「……どうかしましたか?」
「ごめんなさい……びっくりしただけ。今いる猫達は乱暴な飼い主から逃げてきた猫だとか、怪我をしてしまって捨てられたのを保護した子が多くて、普段警戒心が強くて……人になかなか懐かないのよ……特にその、政宗」
小梅は琥珀の膝にいる猫を指して言った。猫は呑気に前足を舐めている。
「この子ですか?」
「ええ、片目がつぶれているでしょう? どうも昔、人に酷い目に遭わされたらしくて……ここの猫では一番警戒心が強くて、私の膝にのったことなんてないのよ」
「え? こんなに懐こいのに?」
そう言うと、小梅は深く頷いた。
「それからあなたがさっきご飯をあげた満福……サバトラの子だけど……すごく痩せてたでしょう? あの子は変なものを食べさせられていたのか、食が極端に細くて……普段は食べてと言ってもあまり食べてくれないのよ」
「わたしは昔から猫には妙に好かれるんです」
「それは素晴らしい取り柄よ」
小梅は急に真顔になって琥珀の両手をぎゅっと握ってくる。
「琥珀ちゃん……! 良ければ……学校が終わってからでいいので、ここで簡単なお仕事をしてくれない?」
「お仕事……? どんな仕事ですか?」
「勿論、猫のお世話係よ!」
「ね、ねこの……」
「毎日じゃなくてもいいんだけど……夕方に来て萩のトンネル、猫の巣になっているあそこでご飯をあげて、お水を替えて、はばかりのお掃除だけしてくれたらいいのよ」
小梅は必死な顔で捲し立てる。
「ほかの人にお願いして任せたこともあったんだけど、猫達が警戒してひっかいてしまったり、出したご飯を全く食べなかったりで、結局私が世話をしていたの……やってもらえたら、私も少し早めに帰って子の世話やお稽古事もできるし……何より猫達も喜ぶと思うの。お願い!」
猫のお世話係。琥珀は困っている猫は昔から放っておけない性質だ。自宅から少し遠いのが難点だが、別に難しいことは何もない。何より、この屋敷は夢に見ていたところで間違いない。もっと知りたい。
「……やります」
「本当に? 助かるわ! ありがとう!」
小梅がぱっと笑顔になり、ほっと息を吐いた。
「じゃあ、御影さまに聞いてみますね!」
「御影さまって……どなたですか」
「今の四季島のご当主さまで……あ、御影さま! おかえりなさいませ」
小梅の声につられて、琥珀はそちらを確認した。
平安時代のような白い狩衣に袴姿の、美しい青年が仏頂面でそこに立っていた。
長い髪は後ろで一つに纏まとめられている。すっと通った鼻筋に、涼しげな瞳。
その人にぴたりと視線を合わせた瞬間、世界から全ての音が消えた気がした。
一目で心を奪われた。
呼吸は止まり、内側から押されるように心臓がどっ、どっ、と音を立てて動くのがわかる。琥珀は自分の心の動揺でこんなにも体が反応するということを知らなかった。
小梅が御影に言う。
「御影さま! この子、中泉琥珀ちゃん、うちの猫が連れてきてくれたんですけど、猫達にすっごく懐かれてるんですよ。夕方のお世話をお任せしてもよろしいですか?」
御影は小梅の言葉を聞いてほんの一瞬だけこちらを見たが、すぐに視線を逸らし、どこかけだるげな顔で口を開いた。
「猫の世話係か……別に、かまわない」
その声は琥珀には、宝石を凝縮したらこんな音なのではないかと思うほど美しく感じられた。
御影。この人は御影さまというのか。
思わず胸に猫を抱いたまま、ふらふらとそちらに近寄っていく。吸い寄せられるような感覚だった。
間違いない。夢で見ていた男の子はきっと、この人だ。
胸の奥から温かい感情の濁流が込み上げてきて、胸が熱いもので満たされていく。苦しいくらいだった。自分では制御できないほどに感情が暴れている。
やっと会えた。
初めて会ったはずなのに、そんな気さえした。琥珀は何故だかその時、目の前のこの人も同じように思ってくれていると、疑わなかった。
「あのっ……わ、わたし……!」
しかし、御影は琥珀から顔を背けたまますっと手を伸ばし、琥珀を制止した。
「それ以上近寄るな」
「……え?」
「俺に、猫を寄せるな」
どうやら御影は─大の猫嫌いのようだった。
*
午前八時。小石川区小日向武島町。中泉邸。
琥珀が眠い目を擦り、顔を洗って髪を整え食堂へと入ると、父の劉生がすでにテーブルに着いていた。紅茶を飲みながら新聞を読んでいる。
大学で教鞭を執る天文学者である劉生は養母の八重子と共に、琥珀を女学校に通わせ、何不自由ない生活をさせてくれている。
琥珀の朝食は大抵、砂糖たっぷりの紅茶と、バターを塗ったパンだ。
グリニッジに留学経験のある劉生は、極薄切りにした角形パンを焦げるくらいにカリカリに焼くのが英国風だと言って、いつもそうしている。これに豚の燻製肉があればなおいいのだがと、よくぼやいている。
「お父さま、おはようございます」
挨拶をすると、劉生は新聞から顔を上げた。
いまだに眠くて、猫のように顔をゴシゴシしている琥珀を見て優しげに笑うと「おはよう。琥珀」と返してくれる。口髭を生やしたその顔立ちは夏目漱石先生に似ているようで、大学では漱石先生と呼ばれているらしい。
琥珀はテーブルに着いてパンに手を伸ばす前に口を開く。
母には昨晩言ってあったが、父の許可を取らなければならない。
「お父さま、わたし昨日、自転車で芝区の三田四國町のあたりにまいりまして」
「うん」
「そこにある陰陽師のお屋敷で猫のお世話係に任命されました」
劉生がまた、目を滑らせていた新聞から顔を上げた。
「ん? 何だね? ……猫の?」
「猫のお世話係です。お賃金もいただけるそうです。毎日学校が終わってから行って、日暮れ前には帰ります」
劉生は目を丸くした。
「……そうかそうか! 琥珀は猫に好かれるからね。私もご挨拶に伺ったほうが良いかな?」
「もし必要ありそうでしたらご相談いたします」
天文学者である劉生はどこか浮世離れしていて、世間の目や窮屈な社会常識などはあまり気にしない。大らかな父であった。そうでなければ、猫又の生まれ変わりかもしれない赤ん坊を引き取りはしないだろうというのは最近になって気づいたことだ。
「でも、六時までには帰るんだよ」
「わかりました」
食事を終え、学校へ行くために玄関へと向かうと、母の八重子が台所から出てきた。風呂敷に包まれた弁当を受け取った。八重子は小声で聞いてくる。
「琥珀、どうだった?」
「大丈夫でした。門限さえ守ればやって良いと」
「劉生さんは大らかだけど、ちょっと心配性なところもあるから……どうだろうと思ってたけど、良かったわね」
八重子は琥珀が珍しく自分から何かをやりたいと言い出したことを、とても喜んでくれていた。にこにこ顔の八重子に送り出されて、家を出た。
昨夜まで降っていた雨は上がったが、道はまだ雨の匂いを残している。さわやかな陽射しが道端の草に残った雫を照らし、眩しい。
琥珀が通う麴町区番町にある聖百合高等女学院までは自宅から徒歩二十分ほどだ。
校門をくぐると礼拝堂があり、登校時にはそこにある聖母像に手を合わせてから教室へと向かう。
「ごきげんよう、琥珀さん」
席に着くと、三つ編みを二つに折り高い位置でリボンをつけて纏める流行のマーガレット頭をした級友の野島愛子がにこにこと寄ってくる。
「これ、夢二の半襟ですのよ」
「とても可愛くて、お似合いですわ」
そこに仲良くしているもう一人の級友、三友花子が来て興奮気味に言う。
「ゆり子さんが少女画報にのったんですって!」
「まぁ! ぜひ見たいわ!」
二人は興奮気味に盛り上がる。
噂のゆり子は公爵家の令嬢で、来年には結婚して学校を辞めることが決まっている。彼女の結婚相手について少し噂をして、それから各々の結婚相手や将来に思いを馳せた雑談へと脱線していく。
「職業婦人にも憧れますわよね。これからは女性も社会に出て、一人の人間として教養を深めていく時代ですもの。琥珀さんは、何かありますの?」
「わたしですか?」
将来の希望。琥珀も勿論バスガールや電話交換手に憧れる気持ちはあった。琥珀は好奇心が旺盛で憧れや興味は多い。けれど、そのどれかに自分がなりたいかと問われると、どうにもしっくりこなかった。琥珀は与えられる勉学はこなすものの、猫のようにふわふわと目の前の日を生きていた。
「あら、何のお話ですの?」
級長の菅井志摩子が現れたので琥珀らは委縮して押し黙る。それにムッとしたのか、志摩子が険のある口調で言った。
「さきほど少女画報のお話をされてましたけれど……学校内への雑誌の持ち込みは禁止されていますわよ」
「い、いえ、持ってきてはいませんのよ!」
志摩子はじっと疑るような視線を投げていたが、本当に持っていないのがわかると少し残念そうに息を吐いた。
「……琥珀さんは職業婦人になられるの?」
琥珀は学校で、大人しいものの学問の成績はいい。志摩子には妙な対抗心を持たれているのを感じていた。何かとつっかかってくることが多い。
「え? いやあ……その、憧れですわ」
「学術優秀ですものねぇ……」
志摩子は褒めにしては棘のある声で言って去っていった。
「行った……」
ほうと息を吐き、三人で顔を見合わせて笑う。
その後、始業の鐘が鳴り、先生が入ってくると、ざわめいていた教室は鳴りを潜めた。
学校はそれなりに楽しい。学校内に溢れる噂話。流行り言葉。先生の悪口。少女小説に出てくるような先輩と後輩の疑似恋愛関係。流行歌や少女画。オペラや活動写真の話題。けれど、琥珀にとっては父の顔を潰さぬため勉学をする場所であり、ずっとどこか埋没しきれない場所でもあった。
ここにはない何かを探すような感覚はずっとあった。琥珀はそれを好奇心だとばかり思っていた。でも、違ったのかもしれない。
脳裏に四季島の屋敷がちらちらと浮かぶ。
琥珀は早く学校を出たくてうずうずしていた。
*
琥珀が四季島家で猫の世話係を始めてから、早四日が経過していた。
四季島の屋敷に入るとすぐに、待ちかねたように猫が寄ってくるようになった。時間で判断しているのか、それとも琥珀の足音を覚えたのかもしれない。
「満福、今日もちゃんと食べてね」
痩せ猫の満福は甘えた声を出して体を擦りつけてくる。少しだけ太ってきた。良いことだ。その場にしゃがんで少し戯れていると、一匹、また一匹と増えていく。
その時、帰宅した御影が門を入ってきたので心臓がドクンと鳴った。
今日は神主のような狩衣姿ではなく、もう少し動きやすそうな着物に袴姿で、書物を数冊、小脇に抱えていた。
御影は長身で、女性には見えない男性の骨格であるにもかかわらず不思議と中性的で、静謐な色気がある。彼の一挙手一投足には目を吸い寄せられてしまう不思議な魅力があった。琥珀は少し緊張しながらも声をかける。
「御影さま、おかえりなさいませ」
御影の手のひらがゆっくりと伸ばされる。
「……猫まみれで近寄るな」
しかしながら形良いその唇から紡がれる言葉はとても無愛想で冷たい。
御影は琥珀の横をすっと通り過ぎて、玄関に入っていってしまった。
琥珀はこの四日間、御影と全く仲良くなれずにいた。
会話らしい会話もまだしていない。夢の中にいたあの男児は大人になって、何があったのかは知らないが、すっかり猫嫌いになってしまったようだった。
おまけに彼は陰陽師だ。猫嫌いの陰陽師に元猫又だなんてバレたら、調伏されてしまうかもしれない。まさかとは思うが恐怖感は拭えない。
それでも気にはなるもので、機会を見つけて何度か話しかけてはみたが、今のところ「寄るな」と「猫だ」しか言われていない。いずれも琥珀が猫にまみれていたせいだ。そういう時大抵、御影の顔は猫から大きく背けられているので、琥珀の顔をきちんと認識しているかどうかも怪しい。
御影は見る限りいつもけだるげで表情薄く、覇気がない。
ここ数日で知ったことは、三年前、四季島家の前当主である彼の父親がスペイン風邪で急逝し、当時二十歳であった御影が当主となったこと。また、母親は彼が七歳の時に先に亡くなっているということだった。
萩のトンネル前に行き、猫達にご飯をあげながらどうしたものかと考え込む。
「琥珀ちゃーん、お茶にしましょ」
小梅に呼ばれて、肩に小柄な猫をのせたまま縁側に行くと、お茶とお菓子を用意してくれていた。
「わぁ、ありがとうございます」
一仕事終えた琥珀は、温かい番茶を飲みながら甘い饅頭に舌鼓を打った。そこに、もう一人の下働きである源造がやってきた。
「おうおう、揃って何を食ってんだ?」
「亜墨利加饅頭ですよ。源さんもどうぞ」
小梅がにこにこ笑って答える。
四季島家には通いのお手伝いが二人いて、小梅が食事や洗濯などの家事を、源造が薪割りや庭仕事などの力仕事を担当している。
源造はもう初老といって良いが、短い髪に恰幅の良い体、いかめしい顔立ちでいかにも江戸っ子といった貫禄がある。初めて会った時は少し怖かったが、彼も猫が琥珀に懐いているのを見てとても喜んでくれた。
源造はいかつい見た目に反して甘党のようで、すぐに破顔して饅頭に手を伸ばした。
「この、クルミがのってんのが憎いねぇ」
甘味をしみじみと味わっている顔は実に幸せそうで、琥珀もつられるようにもう一口、口に入れて味わった。
「琥珀ちゃんが来てくれるようになってから猫達がすごく伸び伸びしてるわ。本当に助かってるんだけど……ここでのお仕事、親御さんは知ってらっしゃるの? 大丈夫かしら?」
「大丈夫です。うちの父は本郷で教鞭を執っている天文学者なんですが……宇宙単位で物を考えているから細かいことはあまり言わないんです」
ちょっとふざけて言うと、小梅は「ふふ。それなら良かった」と言って柔らかに笑う。けれど、琥珀にはちょっとした不安があった。
「わたしは良いんですけど……もしかして、御影さまはお嫌ではないでしょうか」
どうも、嫌われているような気さえする。
「御影さまはお仕事は真面目で優秀な方なんだけど、それ以外はちょっと無頓着というか……だいぶ不愛想な人なのよ。でも、琥珀ちゃんが猫のお世話をしてくれているのを悪く思う気持ちは絶対にないのよ! 気にせず、楽しくお世話してもらえたら嬉しいわ」
「そうなんですかね……」
ションボリしている琥珀を慰めるように源造が饅頭を追加で差し出してくる。
「昔はあんなんじゃあなかったんだけどな……坊ちゃんは旦那さんが亡くなってからすっかりすさんじまったんだよ」
「そうなんですか?」
「ああ、大勢いた屋敷の使用人をみィんなお役御免にしてよう……そのくせ思い詰めたみてえに化物相手の仕事ばっかガツガツやってよ……まるで、自分から独りぼっちになろうとしてるみてえだったよ……」
「え、でも小梅さんと源さんは、いますよね」
「おりゃあ残ると言って聞かなかったんだ! んな馬鹿な話は聞けねえよ! 坊ちゃんが一人でマトモな生活できるわけねえからな! 放っといたら薪も割らずに冬に凍死すんだろ!」
「は、はあ……」
「小梅は元々猫の世話係として唯一残されてたんだけどな……見かねて坊ちゃんの飯の用意やら屋敷の掃除やらもするようになったんだよ……最低限の生活はさせねえと、ありゃあ駄目になる」
源造はふうとため息を吐いた。
「でもよう……人はいずれは必ず死ぬ。だからって、はなから人との関わりを絶っちまうのはちいっと極端だろう? そう思わねえか?」
いつの間にか琥珀の膝の上にいた政宗を何となく見る。
政宗は前足に顔を埋めて寝に入った。ふこふこと規則的に動くその腹をさらりと撫でる。
「……わたし、やっぱり御影さまともっと仲良くなりたいです」
「うーん、じゃあ……お部屋にお茶を持っていくのはどうかしら!」
「おう、猫なしで挨拶すりゃ、ちったぁしゃべれんじゃねぇか?」
「あ、それはそうかもしれません!」
二人の意見に琥珀はこくこくと頷いた。小梅にお茶の用意をしてもらい、早速それを持っていくことにした。
部屋数が多い屋敷だったが、琥珀は迷いなく御影の部屋の前まで来た。はぁ、と大きく息を吐く。琥珀にはだいぶ勇気のいる行動だ。緊張で心臓がどくどくと鳴っていた。
「御影さま、お茶をお持ちしました」
返事はなかった。何度か呼びかけたあと、思い切って襖を開けると短い廊下の先に、また襖があった。
部屋はここではなかったのか。そう思ってそこを開けるとまた襖がある。見た目よりずっと広い家なのだなと思い、もう一枚開けた。
おかしい。
開けても開けても襖しかない。さっきから何枚開けただろうか。妙な空間に迷い込んでいる気がする。何枚開けたかも忘れた頃、荒く息を落とした折に盆にのせた熱いお茶が溢れ、手に少しかかった。
「ぎにゃあぁ!」
叫んでいると目の前の襖が開いて御影が顔を覗かせた。眠そうな顔をしている。
背後に見えた御影の部屋は雑然としていた。とにかく書物の量が多い。
「さっきから君は何を一人で大騒ぎしているんだ……」
「あっ、御影さま! お茶をお持ちしようとしたのですが、全然辿り着けず……何故ですか!?」
「何故と言われても……猫よけの結界ならやっているが……ヒトは入れるはずだ」
それを聞いてぎょっとした。
御影は怪訝な顔をして琥珀の顔を覗き込む。この上なく不審なものを見る目つきに危機感を覚えなければならないところなのに、至近距離に美しい顔が来たため、ドキドキしてしまう。
御影はしばらく琥珀の顔をまじまじと見ていたが、ふいに眉根を寄せ、困った顔で言う。
「君の目は猫のようだな」
「え?」
「見ていると、ざわざわとした気持ちになる……」
「ざ、ざわざわですか?」
御影は少し考え込んでいたが、顔を上げて言う。
「率直に言うと苦手だ。猫が周りにいなくとも近寄られたくない」
「い、いくらなんでも率直すぎませんか!?」
御影は琥珀の手の盆から湯呑みを取るとお茶を一息に飲み干した。
「お茶をありがとう。ごちそうさま」
御影は湯呑みを盆に戻すとさっと襖を閉めた。
「あぁっ、御影さま! 御影さま! 御影さまー!」
琥珀は襖をカリカリとしたが、今度は開けてもらえず、自分で開けてみてもやはり奥に短い廊下と襖があるだけであった。
琥珀は走って縁側に戻り、付近にいた太った灰猫の腹に顔を埋めた。
「おおおおお! やっぱりすげなくされましたー!」
「琥珀ちゃん。御影さまは誰に対しても無愛想なだけだから……元気出して」
「そうだよ。坊ちゃんは一目惚れで懸想されてわざわざ訪ねてきた別嬪さんを軒先で追い返したこともあんだ。そこまで気にすんなって」
「それは何となく聞きたくなかったです……!」
「でもぉ、御影さまはある意味率直な方だから、本当に嫌なら雇わないわよ」
それは、そうかもしれない。御影が率直すぎることはさきほど痛感したばかりだ。
琥珀は小梅と源造の言葉に一喜一憂したのだった。
*
続きは発売中の『元猫又ですが、陰陽師の家で猫のお世話係になったら婚約することになりました。』で、ぜひお楽しみください!

■著者プロフィール
村田天(むらた・てん)
神奈川県出身。2019年、ネット小説大賞を受賞、『藤倉君のニセ彼女』(一二三文庫)でデビュー。著書に『魔女の婚姻 偽花嫁と冷酷騎士の初恋』(富士見L文庫)『俺と妹の血、つながってませんでした』(ファンタジア文庫)などがある。