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第2回

【できるだけ長く見たいもの②】素朴さをつくるもの

SNSに友人が組んだ花束の写真が流れてきた。

マーガレットっぽい、白い小さな2種類の花を中心に、色ちがいのチューリップのつぼみが3本。花はぎゅうぎゅうに詰まっておらず、葉っぱや茎の緑がたっぷり見える。とてもシンプル。

「さっきそのへんで摘んできました」と言われたら信じてしまいそうな素朴さに、わあ、いいな、いいなと心が浮き立つ。思わずメッセージを送る。友人は花束を送るとき、なるべく自分で組むのだと言う。

わかる。

チェーンの花屋さんの店先に用意されている、明るく華やかで人を選ばない花束ももちろんいいのだけど、個人的な理想は「今日摘んできた!」みたいな花束だ。

豪勢でなくていい。万人受けしなくていい。どこまでも素朴で、しかし決してみすぼらしくなく、作為的でなく、同じ地球に育った植物たちのやわらかな連帯を感じるような、そんな花束に魅力を感じる。

しかしこれを自分で組もうとするとなかなか難しい。

色の組み合わせが全然好きになれなかったり、それを防ごうと妙に神経質でつまらない感じになったり、値段に関係なくなぜか貧乏くさくなったり、逆にけばけばしくなったりする。

店員さんに何度も花をとってもらうのも忍びなくて、結局途中で諦めてしまう。

友人のように素朴で、唯一無二の、魅力ある花束を作るのは簡単そうに見えて全然簡単じゃない。

考えてみれば言葉も似ている。

素朴な語彙で、話し言葉のように、今、ひとりの人間からぴたっと生まれた、みたいな言葉に魅力を感じるが、素朴なものほど狙うのはむずかしい。

どこか定型文くさくなるか、狙いが透けて見えるか、点にこだわりすぎて前後の流れを遮るイキったものになってしまったりする。

もっと、こう、自分の生活や体と地続きのリアルさがほしい。ふつうでいいのに、ふつうがいいのに、ふつうにならない。

短歌をつくるときに大事にしていることとして、正直さと切実さを挙げることがある。

正直さとは、どこかで見たことがある何かっぽさに飲み込まれないこと。自分の中にある言葉以前の感情やイメージを、既存の表現に押し込めて変形させないこと。表現の目先の新しさよりも心にしっくりくるものを選ぶこと。

そして、切実さとはその気持ち、イメージを自分がたしかに強くもっていること。人に見せたいかはともかく、言葉にして、この体の外に出したいという強い気持ちがあること。という説明が近いと思う。

正直で切実な歌を目指しているわけではない。そのふたつが、「素朴さ」を生む大事な鍵だと思っているのだ。

自分の自然な語彙とリズム感に、それらが組み合わさるとき、どこからともなくころっとガラス玉が生まれるような、なんでもないけど、たしかなリアルさと飽きない魅力を兼ね備えた、唯一無二の歌になる。

このことを説明できるようになるまでに、短歌を書き始めてから7、8年くらいかかった。がむしゃらに歌を作っていると、いい歌が生まれるときによく使う筋肉のようなものがあることに気づいたのだ。

実は、花束の友人は優秀なデザイナーである。あの力強い素朴さには、長い年月をかけて鍛えられた、友人の創作の筋肉が関係しているのだろう。

自分で納得のいく花束を組めるようになるにはまだまだ長い時間がかかりそうだ。

でも、花のすごいところは、もらったら結局はどんな花束でもうれしいところ。

他者が自分のために花束を用意してくれたという事実を、花のボディーは全身で受け止めて、同時にはねのけて、美しくそこにある。いい匂いをさせて。

言葉じゃ、絶対にできないかたちで。

伊藤 紺(いとう・こん)
歌人。1993年生まれ。歌集に『気がする朝』(ナナロク社)、『肌に流れる透明な気持ち』、『満ちる腕』(ともに短歌研究社)。

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