
先日、吉祥寺の書店・百年に寄った帰り、なんとなくそのまま帰るのも気が引けてビールを買って井の頭公園に向かった。4月の初旬。冬の寒さが和らぎ、桜が見頃を迎え、街にはこれから新歓の飲み会に行くと思わしき学生が賑わっている。
このまま帰るには惜しいような、でも誰かを誘うほどでもないような、春特有の浮かれたいい気分だったのだ。
すでに開けてしまったビールを片手に、公園の入り口に差し掛かったとき、笛を吹いているおじいさんに「ちょっと」と声をかけられる。井の頭公園で笛を吹いているおじいさんはべつにめずらしくないが、話しかけられたのは初めてだ。
少し身構えるも、次の瞬間「ね、いま何時?」ときかれ、顔のこわばりがほぐれる。なんだ、時間を知りたかっただけか。時計を見て、19時くらいですね、と答えると、おじいさんは一言まっすぐに言った。
「ちょうどいいな」
おおっと思う。へらっと笑って、何事もなかったかのように公園中央の湖の方へ歩き出しながら、胸のうちでは鐘が鳴っていた。
19時、たしかにちょうどいい。
これから笛の演奏をするにも、演奏を辞めて家路に着くにも、遊びに行くのも、一旦夕飯にするにも、人と合流するにも、わたしが書店の帰りに公園でビールを一杯飲むにもなんかよくわかんないけどちょうどいい。
19時は夜の入り口の時間なので、夕方に終止符打って何かを終えるのも、これから何か行動を起こすスタートとしても適している、という説明は一瞬でつけられる。
が、「19時」という言葉と「ちょうどいい」という言葉の組み合わせの魅力に対して、その説明では不足を感じる。イメージのふくらみに、説明が追いついていない。
「19時」という言葉と「ちょうどいい」という言葉の組み合わせを聞いて、頭の中に浮かぶ帰宅、外出、夕食、飲み会、ライブ、散歩といったそれぞれのシーンはばらばらだけど、しかしどれも同じトーンに統一されているような感覚がある。
帰宅と外出では意味的には真逆であるのに、19時の帰宅も、19時の外出も変わりない「ちょうどいい」の輝きを感じるのだ。こういう発見が好きだ。
別のある日、NHKオンデマンドでたまたま数学の番組を見ていた。
数式はそのシンプルな構成でこの世の真理を言い表すことができる。たとえば自分の部屋で机からペンが落ちるような身近な現象も、宇宙の星と星の間にはたらく力も、同じ式で表せる。さまざまな現象の中を、ひとつの式がスライドできるのだ。
それを見ていてふと、自分が作歌において求めていることに少し似通った部分があるような気がした。日常のなんでもないように感じられることから、人生の、人類の大きな感動までをひとつの歌ですーっとスライドしたいと常々思っているからだ。
それはちょうど「19時のちょうどよさ」が、さまざまなシーンの中をスライドして同じ輝きを与えるように。そこには大げさではあるが、真理めいた何かがある。
とはいえ歌は真理そのものではありえない。それは短歌も、声で歌う歌も同じだ。普遍で完全な真理は歌うに値しない。
歌にはまなざしがいる。ひとりの人間の目。歌われている内容がどんなに真理的であったとしても、歌になった瞬間、それは個人の真実に吸収される。そうやって個人の真実が、瞬間的にこの世の真理を凌駕するのが歌というものだろう。
ふとモーニング娘。の歌を思い出す。
2000年頃、イーカラというカラオケのおもちゃがあった。幼いわたしはそれを愛用していて、実家のリビングで毎日夢中で歌い狂っていた。10歳にも満たない子供が、抱いて抱いて抱いてOh LONELY NIGHT〜と歌っているのを見て親がどんな気持ちだったのかは知る由もないが、大人になってからも、その歌詞に感服することは多い。
「宇宙のどこにも見当たらないような/約束の口づけを原宿でしよう」が有名な『Do it! Now』だが、繰り返されるサビの「私の持ってる 未来行きの切符」というのは、前後の歌詞から欲望や夢のことだと読めるだろう。
特に欲望は、人間にとって、もっと言えば女性にとって、抑え込むことを美徳と教えられる機会が多いが、歌詞にも登場する「KISSがしたい」みたいな、ふつうの欲望こそが「わたし」を未来に導く切符なのだろう。
「食べたい」という欲望が人間の体をつくり、「他者と触れ合いたい」という欲望が、人間を繁栄させてきた以上、これはきれいな真理ではある。が、歌詞の中で描かれる原宿、終電、けんか、電話のバッテリー切れといった若者の暮らしのリアルなまなざしが、その真理を、個人の真実の中に吸収している。
もちろん、歌詞というのはメロディーにのり、歌手の声によって、初めて歌になるものであるため、歌詞だけを抜き取って、歌を語るのは乱暴である。が、こんなに大きな真理を、歌詞だけですら個人の真実に吸収する手腕には、やはり感服せざるを得ない。
「19時のちょうどよさ」は、実際、現時点で歌にするほどの発見ではない。自分のリアルとまだつながっていない感じがする。でも、心はたしかに動いた。小さな範囲ではあるが、すーっとスライドしても変わらない輝きを見た。
今は無理でも、未来のわたしのまなざしによって、この輝きがひとつの歌になるときが来るかもしれない。
笛のおじいさん、素敵な発見をありがとう。
伊藤 紺(いとう・こん)
歌人。1993年生まれ。歌集に『気がする朝』(ナナロク社)、『肌に流れる透明な気持ち』、『満ちる腕』(ともに短歌研究社)。