
自分は正しくて、何も間違ってないって顔してるね。
でも鬱陶しいんだよ。正論女。
***
春だ。
高須亜梨が雑居ビル五階の窓から地上を見下ろすと、そこかしこで桜が爆発せんばかりに咲いていることに気がついた。ペデストリアンデッキの植栽も、駅前広場の植木も、みんなみんな桜。ソメイヨシノ。冬の間は特に意識しなかった気づきである。
(春らんまんって感じ?)
レンガ敷きの駅前広場では、フリーマーケットやキッチンカーなんかが出店していて、みんなわいわいと楽しそうだ。全員花粉にやられてしまえと亜梨は思った。
外のうららかな空気とは裏腹に、亜梨の気分は沈んでいた。四月。春休みが終わってしまう。嫌だ。学校なんて、入学式なんて行きたくない。
窓際のカウンターテーブルに頰杖をつき、今日何度目かのため息をついたら、すぐ目の前を大きな猫が横切っていった。
それはちょっと西洋の血が入っているのか、微妙に毛足が長い白黒ハチワレで、まるでランウェイを歩くパリコレモデルのように、カウンターの端で綺麗なターンと『尻尾ピーン』のポーズを決めてみせた。
陰気な顔をするよりボクを見て! と言わんばかりの子だ。指先は尖っていて怖かろうと、亜梨が丸めた拳を向けると、猫は真っ直ぐ近づいてきて匂いをかぎ、そのまま額をすりつけてきた。
(なつっこい子だなあ)
自宅はペット禁止だが、祖父母の家では二匹飼っているので、猫には親しみがあった。小さな額から背中のあたりをなでるとモフモフのふわふわで、なんというか揉んでいるだけで毒素が抜けていく気がする。いい。これはいい。
「お待たせしました。カレーにゃイスでございます」
──ん?
一心不乱に猫をなでていたら、亜梨の脇に木製のトレイが置かれた。
楕円の皿にオーソドックスなカレーが盛り付けてあり、強いて言うなら人参が猫の形に型抜きしてあった。
「……カレーにゃイス」
「はい。カレーにゃイスでございます」
笑顔で頷くのが、キャビンアテンダントのように髪をぴったりまとめた美人で、ギャップがすごかった。白いシャツに黒のパンツ、ロングエプロンという恰好も、こういう姿勢のいい人がすると妙に格調高く見えるものだ。
でもカレーにゃイスか。猫ちゃんの人参か。亜梨は内心複雑に思いながら、ハチワレ猫から手を放した。
「……あの、ここいいお店ですね。本物の猫ちゃんが沢山いて、お茶やランチもできて」
「ありがとうございます。それは当店が猫カフェだからでございますね」
「そ、そうだったんですか?」
「ご存じなかった?」
「そこの駅前でチラシ配ってて、キャンペーンで安いって書いてあったからつい……」
どうりで店の看板猫と言い張るにしても、数が多いと思ったのだ。
お店の内装はごく普通のカフェ風だったが、さりげなくキャットタワーやキャットウォークが設置してある。入り口も、そういえば二重扉だった。
鞄に突っ込んでいたチラシを改めて見直せば、ちゃんと『猫かふぇ チェシャー・キャット』と書いてあるではないか。『猫かふぇ』部分のフォントは小さめだが、これは言い訳にはならない。
「ナルちゃんね。まあ必要そうな人に配って、とは言ったけど……」
「すみません。なんかもう個人的に落ち込みすぎてて、注意力がカスになっちゃってるんです」
「何か悲しいことでも?」
「……悲しいっていうか……高校生になりたくなくて」
呟きは、まるで蚊が鳴くほど小さいものになってしまった。
もともと自分は、こんなに弱虫でうじうじした人間ではなかったと思う。どちらかといえば言いたいことははっきり言うタイプで、新しい環境に尻込みするようなこともなかった。クラスの委員長も経験した。
でも曲がったこと、間違っていると思うことに黙っていられず、中学時代の終盤はクラスで完全に孤立してしまった。
(最後の合唱コンクールだから、悔いが残らないようにやろうって、そんなに言ったらいけないことだったのかな)
特に女子の不興を買い、非常にみじめな卒業式を迎えた。皆が別れを惜しむ中、亜梨と写真を撮ろうという子は現れなかった。
黒歴史を引きずりたくなくて、高校は知り合いが一人もいない学校を受験した。でも、やっぱりまだ怖い。
「また余計なこと言って嫌われるんじゃないかって、そればっかり頭の中でぐるぐる回るんです」
「そうですか。でしたらお客様、猫をかぶってみたらいかがです?」
「え? 猫?」
店員は、艶のある唇の端を上げ、にこにこしている。
「当店の、オプションサービスでございます。こちらをご覧ください、『猫をかぶる』で完璧な猫かぶりが体験できます」
カウンターテーブルのメニュー立てから、店のメニューを取って見せてくれた。
人間用の軽食やドリンク欄の下に、オプションとして猫用おやつが何種類か記載されている。さらに下の方に、『猫をかぶる』なるものまであったが、はっきり言って意味不明だ。何だこれ?
「猫をかぶれば、本音を隠して建前を使いこなすのも思いのまま。ちょうどあちらのお客様が、ご試着中ですね」
店員の視線の先に、電源席でノートパソコンを開く中年男性がいた。
ぱりっとしたスーツ姿に銀縁の眼鏡をかけて、出先で報告書を作るビジネスパーソンといった感じだが、頭に可愛い三毛猫ちゃんを乗せている。
三毛猫は男性の頭頂部から後頭部に沿うような形で覆い被さっており、非常にリラックスした風情で目を細めている。男性も男性で頭に猫ちゃんなど乗せていませんよとばかりに、シリアスな顔つきで書類作成に精を出している。
しばらく同じ姿勢で尻尾をゆらゆらさせていた三毛猫が、ついにあくびとともに居眠りを始め──とたんにその姿が、溶けるように消えてしまった。
( 噓。消えた?)
店員が、男性に声をかけた。
「うまく馴染んだようですね」
「ああ。私とこの玉姫ちゃんは、一心同体。ばしっと契約を決めてくるよ」
彼はまだ頭に何か乗っているかのように、頭上十センチあたりをなでながら『チェシャー・キャット』を出ていった。
「常連の中村様です。今日は大事な商談があるそうで」
「本当にそれで……猫がかぶれるようになるんですか? 余計なことを言わずにすむ?」
「ええ。猫があなたを守ってくれます」
マジか。マジなのか。
『猫かぶり』をしたい場合は、まずかぶりたい猫を指名するところから始めるのだという。その猫を頭に乗せ、充分に馴染むとその姿は誰にも見えなくなり、外へ連れ出せるのだそうだ。そして表に出しては危険な本音を察知して、守ってくれるという。
「まずは三日間レンタルをお薦めします。今なら初回無料のキャンペーン中です。いかがですか?」
「……ただでしたら、まあ……」
「かしこまりました。では、お好きな猫をご指名ください」
その瞬間、例の白黒ハチワレ猫が、ひょいと亜梨の膝に飛び乗ってきた。
「わ。うわ」
「逆指名ですね。この場合は猫の意向に従った方が、馴染みがよいです。名前はアントニオといいます」
店員はアントニオの脇の下とお尻を持って抱き上げると、そのままこちらの頭に乗せてくれた。
(……けっこう重い?)
頭から肩のあたりにかけて、ずっしりとした重量を感じる。でもふかふかの電気毛布をかぶっているようで、嫌な感じはない。むしろ心地いいぐらいだ。
その重量も、注文したカレーを食べ終える頃には、ほとんど感じられなくなった。あるのは何か生き物らしいものが『居る』という、漠然とした感覚だけである。
「アントニオと馴染みましたね。もう外に出ても大丈夫ですよ」
「本当ですか……?」
「返却期限を過ぎると、猫が店に戻ってしまいますので、お気を付けください」
亜梨は半信半疑ながら、そのまま会計を終えて店を出た。
駅前のそれなりに人通りの多いところを歩いているはずなのに、誰も「あ、猫!」と振り返ったり、指をさしたりする人はいなかった。
(いいの? ほんとにいいの? 私、頭に猫かぶってるんだよ……?)
それから二日後、恐れていた高校の入学式がやってきた。
体育館の壇上で、校長が新入生一同に祝いの言葉を述べていたが、まったくめでたくないぞと亜梨は思った。
教室に移ると、担任教師から今後のスケジュールや実力テストの説明を受けた。
そして現在は、自己紹介の後にクラス委員の選出が行われている。
案の定立候補者がいなかったので、すぐにくじ引きへ切り替えられた。亜梨は当たりを引かずにすんでほっとしているところだが、正直こういう無作為なやり方にはもやもやする。
「げ、俺当たりだ」
「男子は太田か。女子は──」
担任が教室内を見回すと、くじの紙を持って泣きそうになっている女の子がいた。
確か名前は唐津聖美さんだ。自己紹介の時も声が小さくて、気弱でおとなしそうな子だった。
彼女にやらせるの? 入学早々不登校になっちゃっても知らないよ?
「女子は唐津だな。ならこの先の進行は、この二人で──」
「先生、ちょっと待ってください!」
──んにゃおおおん。
その瞬間、今まで存在を全く主張しなかった頭上のアントニオが、大きな声で鳴いた。
世界が回転するような目眩が亜梨を襲う。
「げ、俺当たりだ」
「男子は太田か。女子は──」
気がつけばまた、同じ台詞のやり取りが繰り返されている。
「女子は唐津だな。ならこの先の進行は、この二人で頼むな」
──今、いったい何が起きた? もしかして、時間が巻き戻されたのか?
あそこで衝動のままに手を挙げていたら、どうなっていたか。絶対に自分が役を代わる流れになっていた。先生には生意気だと目をつけられ、クラスの人にはでしゃばりだと思われるに違いない。それをアントニオが守ってくれたのだ。
くじ引きで選出された太田君と唐津さんが、担任に代わって黒板の前へ出ていきながら、言葉を交わしている。
「入学早々不運だなー。まあ助け合ってやってこうや」
「……う、うん……」
これが『猫をかぶる』の力なのか。亜梨は教室の隅で愕然としてしまった。
学校が終わると、家の最寄り駅近くにある『チェシャー・キャット』に行った。
店では前回と同じように猫とお客がくつろいでいて、店長だというあの綺麗な女性もいた。
「いらっしゃいませ──まあ、あの時の」
「こんにちは……」
「いかがでしたか、アントニオのかぶり心地は」
「すごくいいです」
そんな陳腐な一言では、足りないかもしれない。これは革命だ。
「今日、さっそく助けてもらいました」
「それはよかったです」
頭の上のアントニオが、もぞもぞとみじろぎして、亜梨から離れそうになったから、慌てて続けた。
「あの、延長料金っていくらぐらいかかりますか!? 」
亜梨の財布の中には父方母方、双方のジジババから貰った入学祝い金が入っている。「勉強の助けになるものを買いなさい」と言われているが、学校生活においてこれより重要な投資はないだろう?
猫をかぶった高校生活は、亜梨の想像以上に快適だった。
日々つるむ友人は、へたに上位入りを目指さず、クラスの中ぐらいのグループに落ち着いた。目立たないし攻撃もされない。毎日平和だ。
「亜梨ー、お昼食べよー」
「いいよー、りょうかーい。机合わせよ」
たまに生来のおせっかいや正論好きが顔を出してしまいそうになるが、そういう時はアントニオが鳴いてやり直させてくれるという安心感があった。
唯一、亜梨が手を挙げなかったせいでクラス委員になってしまった唐津聖美だけは気がかりだったが、いざ始まってしまえば苦手なりにがんばってタスクをこなしているようだった。
「あ、唐津さん? もしかして太田君探してる? さっき職員室に呼ばれてたよ」
「──どうもありがとう高須さん!」
聖美はぱっと顔を輝かせ、小走りに教室を出ていった。
「亜梨ってさ、わりと気配りの人だよね」
「そんなことないよ」
「いやあるよ絶対」
こうやってさりげなくフォローする方が、直接助けるより感謝してもらえるとは思わなかった。気を張っていた中学時代の自分に、教えてあげたい。
「駅前に新しい服屋できたの知ってる? 安めで可愛いの」
「知らない。見たい」
「じゃ、放課後寄ろう。亜梨も行くよね」
「ごめん、私はパスだ。図書当番があるから」
クラス委員にならなかった代わりに、図書委員になった。地味だが色々仕事が回ってくるのだ。
「また? なんか面倒な委員になっちゃったね」
「確かに予想外だったけど、ま、しょうがないよ。下っ端の一年だし」
「亜梨えらいー。私のイチゴを一つやろう」
ありがとう。そしてイチゴは嬉しい。
「麻衣子、あんまりよしよししなくていいよ。この子ってば、同じ委員の柳沢君が目当てなんだから」
「う」
友人の指摘は鋭く、ちょっとぎくりとした。
「誰? 誰? そのヤナギサワクンって」
「やめてやめてそんな身を乗り出さないで」
「一年A組の柳沢透君。水泳部所属のさわやかイケメン」
「うそー」
慌てふためく亜梨が面白いのか、友人二人はこの場にいない男子を肴に盛り上がりはじめた。亜梨は恥ずかしくて仕方なかったが、そうやって赤面してどきどきしている自分が、そんなに嫌いではなかったのだ。
「やっほ、柳沢君。それ戻ってきた本?」
「そう。なんかどばっと来た」
「わかった。棚に戻してくるね」
高校の図書室は、小中学校のそれとは比べものにならないほど規模が大きくて、一口に図書当番と言っても仕事は色々あった。カウンターに座って貸し出しと返却を受け付ける人、準備室で本の修理や新刊装備をする人、返却された本を棚に戻す人。亜梨はカウンターに座る柳沢透の後ろを通り、ブックトラックに積まれた本を両手に抱える。
「柳沢君、今日は部活ないの?」
「あるけど当番終わってから出るよ。筋トレだけだし」
「偉いねえ」
「勉強や委員会活動はおろそかにしちゃいけないってのが、顧問の方針なんだ。さぼったら怒られる」
カレンダーも五月半ばを過ぎると、一部の不真面目な輩は当番をさぼりはじめるが、彼は今のところ皆勤賞だった。すらりと細身で背が高く、ふだんプールの水に浸かっているせいか、角のない優しい面立ちをしている。
友人は透がイケメンだから好きなのだろうと言っていたが、見た目に反して浮わついていないところがいいのだ。当番の仕事は亜梨より熱心なぐらいだし、習熟度別のクラスでは一番上にいる。病気のお母さんにかわって、家事などもやるらしい。
(って、好きなのは認めちゃったな)
まあいい。そこのところは否定してもしょうがない。
「高須さんこそ、一人でそんなに持って大丈夫? 図鑑が多いし、俺が戻してこようか?」
「え、それはさすがに舐めすぎじゃ?」
──んにゃおおおおん。
その瞬間、くらりと世界が回転するほどの目眩が亜梨を襲った。
「──勉強や委員会活動はおろそかにしちゃいけないってのが、顧問の方針なんだ。さぼったら怒られる」
気がつけば、一度聞いた台詞を透が喋っている。
最近はあまり鳴かなくなった頭上のアントニオだが、今回はNGだったようだ。
そうか。いくらとっさの照れ隠しも入っていたとはいえ、気遣ってくれた人にあの返しはなかったかもしれない。
「高須さんこそ、一人でそんなに持って大丈夫? 図鑑が多いし、俺が戻してこようか?」
もっと優しく、可愛げのある言い方を心がけよということか。わかったよアントニオ。
ならばこれはどうだ。
「ありがとう。すごく嬉しいけど、これ私の仕事だから。私にやらせて」
笑顔付きで返した。熟考のおかげか、透の反応は悪くなかった。照れたように伏せた目が可愛かった。
「人に任せてばっかりじゃ、いつまでたっても棚の配置覚えられないよ」
「この間、だいぶ彷徨ってたもんな」
「そうだよ。あの時も柳沢君に結局助けてもらったもんね。ほんとごめんね」
「いや、別に。昔から図書室とかはよく利用してたから、慣れてるだけなんだ。謝るとかは別に……」
正面から褒められたり謝られたりすると、透はむしろ戸惑うようだ。
こんなに恰好いいなら今までだって人気者だっただろうに、こういう素朴さはどこから来るのだろうと思う。
「柳沢君って、どこ中出身?」
「たぶん言っても知らないとこだよ。俺しかこの学校受けてないぐらいなんだ」
「ふうん。私と一緒だ……」
ともかく今は、柳沢透は『知る人ぞ知る』状態で、まだ注目している人は少ない。でも、時間の問題だろうから焦る気持ちもあった。
「高須さん。あのさ……」
「ん、何?」
「嫌ならもちろん断ってくれていいんだけど。その、今度の週末って空いてる?」
亜梨は驚きのあまり、抱えた本を落としそうになった。
「……前に話してた監督の新作、封切られたみたいなんだ……」
あまりにまじまじと見つめすぎたせいか、透は最後には顔を赤くした。
彼が前に話していた監督というのは、背景美術に定評があるアニメ監督のことで、その監督を好きらしい透は旧作やノベライズ本をお薦めしてくれたのである。共通の話題が欲しかった亜梨はもちろん観たし、読んだ。確かに繊細で素敵な作品だった。新作もできることなら透と一緒に観に行けたらいいなと思っていたのだ。ビバ!
「……い、行く行く。空いてる」
頭の中ではサンバのBGMがかかり、羽を背負ったダンサーが踊りだしているが、態度には出さないよう努力した。
透がぱっと笑顔になった。
「よかった。じゃあさ、後で連絡先教えて」
「わかった。当番終わってからね」
心は史上最高に浮き立っていたが、より一層の慎重さでもって当番仕事にあたった。亜梨は本を戻しに書架の森へ。他の生徒には見えない物陰で、よっしゃと小さくジャンプをする。これはアントニオも見逃してくれたようだった。
透と映画だ。男子と二人。恥ずかしながら、十五年生きてきて、初めての事件であった。
お誘いを受けた記念すべき日の夜、亜梨は風呂上がりのパジャマ姿のまま、勉強机にかじりついていた。
テスト勉強かって? そんなわけがない。
──財布の金を数えているのだ。
(うー……やっぱり厳しいな……)
『チェシャー・キャット』でかぶる猫をレンタルするにはお金が必要だが、最初に突っ込んだ高校入学の祝い金は、とっくに使い果たしていた。その後は数日空けたり、透との図書当番がある日だけレンタルしたりして延命をはかってきたが、そろそろ限界だ。
仮に最後の資金をデート当日のレンタル料に当てたとして、他はどうする? 遊びに行くのに映画代どころか、飲み物代すら払えないなんて笑えない。そんなのは絶対に駄目だ。
亜梨は自室を出ると、キッチンで食後の片付けをしている母親に聞いた。
「あのさー、お母さん。お母様。来月のお小遣いの前借りって……」
「駄目。あなたこの間そう言って、借りたばっかりじゃない」
「じゃあ再来月──すみません戯言を申しました」
「最近金遣いが荒すぎない? いったい何に使ってるのよ。ゲームの課金?」
追及の手が伸びてきたので、慌てて部屋へと逃げ帰った。
バイトをすることも考えたが、週末のデートにはとても間に合わないだろう。アプリで申し込める隙間バイトの登録は、残念ながら十八歳からだった。
机に置いていたスマホに、メッセージの新着通知が出た。透からだ。
──この幸せを逃したくないと思った。
亜梨が今誰にも嫌われず、平和な学校生活を送れているのは、猫をかぶっているからだ。今も頭の上にいる、目には見えない白黒ハチワレのアントニオのおかげ。
この子なしで大きな失敗をしたらと思うと、ぞっとする。空気を読むことに失敗してもやり直せないし、それがNGだと誰も教えてくれないのだ。
少し前までそれが当たり前だったはずなのに、もう今の亜梨にはよく思い出せないのだった。
デートを翌日に控えた金曜の放課後、亜梨は『チェシャー・キャット』に行った。
店は大きな建物に挟まれた古い雑居ビルに入っており、ふだんの亜梨ならまず訪れない場所だ。あの時、どうしてチラシ一枚で誘われるように入ってしまったのか、考えるほどに不思議である。
入り口の二重扉を開けると、中途半端な時間のせいか、お客は誰もおらず、猫とアルバイトの店員だけがくつろいでいた。
以前駅前でチラシを配っていた、二十歳ぐらいの女性である。服装こそ店長と一緒だが、シャツのボタンを外して襟元を大きく開き、ショッキングピンクのメッシュが入った黒髪ボブと三連ピアスが目立つので、だいぶ印象が違う。彼女はお客が座るソファに腰をおろしたまま、「らっしゃいませー……」とハスキーな声で言った。
「店長さんは、いないんですか……?」
「あのひと今日はやすみ」
そうか。そういうこともあるのかと思った。
「猫の延長しにきたんですか?」
「……いえ、そうじゃないです」
「そうなの? んじゃ、今日でおしまいね」
ぎりぎりまで粘ったが、期限延長用のまとまったお金は、用意できなかった。なけなしの貯金は、全部デート代として残す。そう決めた。
でも、ずっと亜梨を守ってきたアントニオが実体を取り戻し、とんと店の床に降り立った時は泣きたくなった。離れていかないでほしかった。
「あの、お店のメニューを見せてもらってもいいですか?」
「普通に遊んでくんだ。別にいいけど」
まだ何かあるはずだと思った。『猫をかぶる』のは難しくても、もうちょっと安めのオプションサービスが、この店にはあったはず。
店員から借りたメニュー表を、必死にチェックした。
(……あ、あった)
これだ。『猫をかぶる』より下に、『猫にまたたび』がある。
(なんだろう。つけるとモテるとか、そういう感じ? デートには悪くなさそう。でも、まだちょっと高いな。もっと下だと……『猫にかつおぶし』?)
こちらは『猫にまたたび』よりも、だいぶお手頃価格だった。今の亜梨でもぎりぎり出せて、デート代も残る。
「すみません! この、『猫にかつおぶし』っていうのを体験したいんですけど!」
「……えー、まじで?」
「まじもんのまじです」
窓辺の猫と同じぐらいだらだらしていた女性が、けだるそうに身を起こした。
「やめた方がいいんじゃない? 店長にも、ムヤミに薦めるなっていわれてんだけど」
「どういうプランなんですか?」
「いやよく知らないけど」
「なら口出す資格ないでしょ」
アントニオがいない亜梨の口は、締めるレバーがない蛇口状態であった。
こちらも切羽詰まっていた。今さら引き下がれなかった。
「いいから、お願いします! ポイントカードのスタンプも十個たまってるし。その割引も使って!」
「……はいはい。わかりました。どこにしまったかな……」
ピンクメッシュの店員は、けだるげに言ってレジ裏へ回った。そして薄いビニールの小袋を持ってきた。
「たぶんこれだと思う。『猫にかつおぶし』」
小袋の中に、どう見ても出汁パックとしか思えないものが一つ入っている。
「……お味噌汁でも作れってこと?」
「いやー、なんか匂い? が重要らしいよ。いろいろ招き寄せるとか」
つまりポプリのようなものか。
「あ、ちょっと待って。たしかどっかに使用法の紙が」
「大丈夫です。帰るんでお勘定お願いします!」
そうと決まったら、早く明日に備えたかった。亜梨は店員を急かして会計をすませ、『チェシャー・キャット』を後にした。
当日の朝は四時起きして、ピカピカに自分を磨いて鏡の前に立った。
服、よし。ヘアスタイル、よし。メイク、ちょっと背伸びしてがんばった。
あとは失言をカバーしてくれる猫がいれば完璧だったが、あいにくそれはかなわなかった。
でも、きっと大丈夫のはずだ。二ヶ月近くアントニオをかぶり続け、NGとOKの事例を沢山勉強できた。彼の助けを借りなくても、感じのいい自分になれると信じたい。
「今回はこれもあるし……」
亜梨は引き出しにしまっていた小袋から、『猫にかつおぶし』を取り出す。
見た目はやはり出汁パックで、かいでみても粉鰹にやや山椒が混じったような匂いしかしなかった。
これをむき出しで鞄に入れるのは少々抵抗があったが、香りがポイントなのだとピンクメッシュの店員は言っていた気がする。迷った末、軽くハンカチで包んでからトートバッグの中へ入れた。
そうして家を出る時は、ほぼ快晴に近かった。しかし、みるみるうちに暗雲がたちこめ、今から傘を取りに戻ると遅刻するという絶妙な距離で、大雨が降り出した。
(冗談。天気予報晴れだったのに!)
亜梨は駅まで必死に走った。急に湿度が上がった車内に詰め込まれてもみくちゃになり、朝がんばってふわっとさせたヘアスタイルは、目的の駅に到着する頃にはぺしゃんこの落ち武者になった。
なんとか約束の映画館に到着したが、化粧室で落ち武者をお菊人形レベルにまで落ち着かせていたせいで、五分押しになってしまった。
「ごめん柳沢君、遅れた!」
「いいよ高須さん。それよりまずいことになったよ」
ロビーにいた私服の透──かっこいい&かっこいい──が、青ざめた顔で近づいてきた。
「どうかしたの?」
「俺たちが観る予定の映画、機材故障で上映中止だって」
「えー!?」
そんな馬鹿なと思ったが、本当にピンポイントでその映画だけ『中止』と紙が貼ってあった。横で係員が、返金などの対応に追われている。
「チケット代は払い戻してもらえたけどさ、どうしようかこの後」
「……いつ再開するかもわからないんだよね。じゃあ……待ってるのもあれだし、他の映画にする?」
「そうだね。そうしようか」
目的は透と同じ時間と場所を共有することであり、映画の内容自体をうんぬんするつもりはなかったのだ。席が取れて上映開始時間が一番近いものを、一緒に観ることにした。
しかし。
だがしかし。
(限度ってもんがあるでしょう……)
映画が終わった後のファストフード店で、亜梨は十二ラウンド戦ったボクサーの気分になっていた。
面白いつまらない以前に、意味がわからないのが辛かった。くすりとも笑えないギャグに、思い出したように挟まる暴力とお色気シーンの繰り返し。あれはいったいなんだったのだ。
答えを求めるためにスマホで検索したが、漫画原作を実写化した劇場版だったらしい。レビューサイトではどれも酷評の嵐。主演女優の棒読みな絶叫が、今も耳にこびりついて離れない。
「ちょっと、個性的な映画だったね……」
「そうだね。でもCGとかはさすがに綺麗だったよ」
さすが柳沢透、あれを観てまず見所を見つけて褒めるとは性格がいい。
こちらはうっかりすると思うさまこき下ろしてしまいそうで、それだけはしてはいけないと耐え忍んでいる。それにしても辛い。しんどい。
「あれ、これ中身違うじゃん。ベーコンエッグ頼んだのに……」
透は頼んだ商品を取り違えられたようで、困惑気味に呟いている。
──いくらなんでもおかしくないかと思った。
どうしてこう、立て続けにトラブルばかりが起きるのだ。恋が芽生えるどころか、めったにない不運が集中して襲ってきている気がする。
その時亜梨の頭に浮かんだのは、『チェシャー・キャット』のけだるい目をしたアルバイト店員の顔だった。
『いやー、なんか匂い? が重要らしいよ。いろいろ招き寄せるとか』
まさか。そんなまさか。
亜梨の脈が急に速くなり、喉が渇いてくる。
「あのさ、柳沢君。クイズなんだけど、『猫にまたたび』って、どういう意味か知ってる?」
「ことわざの? 大好物のたとえだったり、効果が著しかったりすることを表すよね」
「そうそう。じゃ『猫にかつおぶし』は?」
「それは確か油断ならないこととか、危険な状態であることのたとえだよね」
「ぜんぜん違うじゃん!」
亜梨の得意科目は英語と数学で、今日ほど真面目に国語でことわざを覚えていればよかったと思ったことはない。
「どうかしたの、高須さん」
鞄に入れていた『猫にかつおぶし』は、猫まっしぐらな恋がかなうポプリではなく、トラブルを招き寄せるアイテムだったのだ。
青ざめる亜梨の前で、透のスマホが着信で震えはじめた。『りさ』というひらがなの名前が出ている。
「ちょっと、ごめん。電話してくる」
透が断りを入れて、少し離れた柱の陰で電話に出た。何やら話し込んでいるが、深刻な感じだ。
「……だから、もうちょっとだけ待ちな。わがまま言うなよ。すぐに父さんが行くって言ってるんだろ? な?」
通話を終えて帰ってきても、彼の表情は晴れなかった。
「何かあったの?」
「いや、大丈夫。なんでもないよ」
「全然そんな感じじゃなかったよね」
亜梨が率直に訊ねると、透は困った顔になり、やがて言いにくそうに切り出した。
「……母がちょっと、入院することになったみたいなんだ」
「え。それって大変じゃ」
「別に初めてのことじゃないんだよ。数値が改善されないなら手術した方がいいとは言われてたんだ。今回検査したらやっぱり思わしくない結果だったらしくて……ただちょっと予定より急だったから、病院に付き添って行ってる妹がパニくってるみたいで」
それは心配だし、混乱もするだろう。
この『予定外』も、亜梨のせいなのだろうか。『猫にかつおぶし』が引き起こす災いの力に、透の家族まで巻き込まれてしまったのか。
「や。でも、ほんと大丈夫だから。休出の父も早上がりして顔出すって言ってるし、今俺が出る幕なんて全然ないんだよ──」
無理やり笑っている透が逆に痛々しくて、そんな透に申し訳なくてしょうがなかった。
とっさにどやしつけていた。
「ばかあ! 何へらへら笑ってんの!」
正気に戻れ。笑っている場合か。
「出る幕ない? んなわけないでしょ。こんなとこで見栄はりなアホ女にうつつを抜かしてるより、お母さんと妹のとこに行け! それより大事なことなんてあるか!」
「た、高須さん」
「ほら行くよ!」
亜梨は透の腕をつかんで引っ張った。人でごったがえす店の中を進み、途中、諸悪の根源である『猫にかつおぶし』は、ゴミ箱に捨てた。建物の外に出たら、通りかかったタクシーを拾うために手をあげる。
「──はいお客さん、どちらに?」
「病院、病院、ええと──柳沢君どこ!?」
「ち、中央医療センター」
「だそうです。急いで」
「了解!」
ハンドルを握る運転手が、武者震いをひとつして、少々荒っぽい運転が始まった。
ここまでアントニオの鳴き声は、ついぞ聞こえなかった。そうだった。もうかぶる猫もいないのだった。
タクシーで透の母親の入院先に乗り付け、透を妹の『りさ』ちゃんのもとへ送り届け、そうすればもう亜梨の任務は完了だ。部外者の出る幕はない。
それでも亜梨は一階ロビーのベンチで、透のことを待っていた。やむにやまれぬ理由があったからだ。
「高須さん」
わざわざ上階の病室から、ここまで透に下りてきてもらった。
「ごめんなさい、柳沢君。取り込み中だったよね」
「気にしないで」
「お母さん、具合どう?」
「大丈夫、今すぐどうこうって感じじゃないよ。今は妹と一緒に、病室でテレビ見てる」
「そう。ならよかった……」
まずは一安心だ。その点だけは。
「……あのっ、大変に申し上げにくいお願いなんですが、どうかバス代を貸していただけないでしょうか」
「え? バス代?」
「にひゃくえんでいいんです。タクシー代に、有り金ぜんぶ使っちゃって……通学定期もここまでカバーしてなくて……」
本当に、さっさと帰れよと思うが、それすらできない自分が情けない。
人を罵り振り回し、化けの皮もべろべろにはがれたところであろうが、あげくお金貸してくださいときた。もはや落ちるところまで落ちた感がある。
「──は、払うよ払うよ、ごめん! というかタクシー代なんて、うちが最初から全部もつべきものだったよ。気が動転してて、そこまで思いつかなかった。ほんとごめん」
「そうじゃないんだよ、柳沢君。こうなったのは全部……私のせいなの」
亜梨は膝の上に置いた両手に、力をこめた。
せめて真っ向から相手に向き合えていたら、今ここで罪悪感に押しつぶされ、透の顔がまともに見られないなどということには、なっていなかったはずだ。
「私はでしゃばりの自己中で、いらないことを言ったりやったりして、中学ではみんなに嫌われてた。普通の人が普通に読める空気が、読めないの。高校でも繰り返したらどうしようって思ったら、猫をかぶるのをやめられなくなった」
頭の上で存在感を放つ、存外可愛い声で鳴く、亜梨の大事なお守り。
「今日だって柳沢君に好きになってもらいたくて、『チェシャー・キャット』で『猫にかつおぶし』を買ったら、とんでもないことになっちゃって」
「チェシャー・キャット……?」
「そう。だからごめんなさい、雨も映画の機材故障もベーコンエッグ・バーガーが来なかったのも、みんな私のせいなの。柳沢君のお母さんまで不運に巻き込んじゃって、本当に申し訳なくて。ごめんね」
泣きながら顔を上げた亜梨は、信じられないものを見た。
思わず目をこする。
「柳沢君、どうして頭に猫を乗せてるの……?」
猫だ。
猫がいるのだ。
それはスリムなボディに青い瞳のロシアンブルーで、柳沢透の頭の上という不安定な高所であっても、優雅に尻尾を沿わせて座っていた。
「え、そ、そんな馬鹿な……うわっ」
透が慌てて頭に両手をやったら、猫はとんと床に飛び降り、そのまま病院のロビーを素早く駆け抜け、閉まりかけの自動扉から外へと駆け出していった。
本来病院はペット厳禁のはずで、突然ロビーに現れたように見えた猫に、周囲はどよめいた。
でも亜梨は、目の前の透から目を離せなかった。
「もしかして柳沢君も、今まで『猫をかぶって』いたの……?」
「って、まさか高須さんも……?」
おいおい。
どういうことだよ、おい。
***
その日は頭が混乱していたし、御家族の入院の方が大事だったので、いったん日を改めて話し合おうということになった。
そして透の部活も委員会活動もない放課後を選び、二人で『チェシャー・キャット』を訪れたのだ。
亜梨と透が選んだのは、四人がけのテーブル席だ。一見して落ち着いたカフェ風の店内のいたるところに、洋猫から和猫まで様々な猫がくつろいでいる。
席に座っていると自らアントニオが近づいてきて、制服のハイソックスのあたりにすりすりと頭をこすりつけてきた。亜梨は目を細める。
「この子が、アントニオだよ。私がよくかぶってた猫」
「そっか。俺が指名してたルルは、あそこにいるよ」
透が指さすのは天井近くのキャットウォークで、つんと澄ました顔をしている美猫である。いっこうに降りてこないところも、猫らしいなと思った。
「でも、ほんとにびっくりしたよ。柳沢君まで『猫をかぶる』を利用してたなんて……」
「意外だった?」
「うん。だって私から見たら、直さなきゃいけない要素がなかったから……」
透が小さく笑った。皮肉とはっきりわかる表情を見せたのは初めてな気がした。
「とんでもない。俺、中学時代はめちゃくちゃ地味な陰キャだったんだよ。休み時間は図書室が居場所だったタイプ」
冗談だろうと思った。
しかし彼は証拠だと言って、高校の学生証を見せてくれた。
写真は全員、入試の願書を使い回しているはずだ。詰め襟を着た柳沢透はハリー・ポッターのような野暮ったい丸眼鏡をかけ、髪は強い天パで爆発していた。
思わず目の前の、さらさら短髪で眼鏡のレンズで顔の輪郭が歪んでいない、リアル透と見比べてしまう。
「……もしかして入試の時、隣にいた?」
「当たり。消しゴム千切って俺にくれたよね」
今さら思い出した。
試験開始直前に自分の消しゴムを教卓の下に飛ばしてしまった、哀れな少年がいた。試験監督に言い出せずに固まっていたから、とっさに自分の消しゴムを分けてあげたのだ。
あの時は試験に集中していたから、少年がどんな顔をしていたかなどほとんど印象に残らなかった。せいぜい髪形が個性的だったなという程度である。
「いやでも、よく化け……変身したねえ……」
「見た目は服屋と美容室の人になんとかしてもらって、中身は『猫をかぶる』の力でやり直してやり直して、勝ちパターンをつかんでいった感じだよ」
「わかる。私もそう」
「いかにも運動部でございって顔してるけど、俺は勢いと雰囲気で部活をしている。基礎トレの時はアニメの考察でしのいでいる」
そうやって何度も挑戦しては失敗し、さわやかで人当たりのいい、勉強もスポーツもできる柳沢透像を作り上げたのだという。ものすごい努力ではないだろうか。
「でもさ、柳沢君。猫をかぶり続けるって、難しくない? 気力じゃなくて、金銭面で。私、先にお金がつきちゃってさ……」
「俺もあの日の夕方までは、ぎりぎり保つはずだったんだよ」
透は苦々しくぼやいた。
しかし入院騒ぎでデートが引き延ばされたため、よりにもよって病院のロビーで期限切れになってしまったというのが真相らしい。彼が借りていた猫のルルは、こうして『チェシャー・キャット』に帰還済みである。
「……けっきょく、どっちも自分をよく見せようとしてたってことだね。本性はこんなんでがっかりしたでしょう」
「どうだろう。少なくとも俺は、豪快に消しゴム千切って大きい方を俺にくれた高須さんに惚れてたから、ギャップはそんなになかったよ……」
うわ。ちょっと待って。
さらりと急な告白に、息と心臓が止まってしまう。そうしたら向こうも急に赤面して、両手で顔を覆ってしまった。気づいてなかったんかい!
「待って待って、今のなし。やり直させて……って、もう戻れないんだクソ」
なんだかもう、グダグダだ。お互いスマートさのかけらもない。
でも、これがかぶる猫のない、やり直しのきかない自分たちなのだろう。
「……柳沢君てさ、猫好き?」
「え……猫? 好きは好きだよ。毛が飛ぶから、家じゃ飼えないけど」
そうか。そうなのか。
こういう猫カフェに男子一人で来てしまえるぐらいなのだから、元々そういう傾向はあるのだろう。そんなことも、これから知っていかないといけないのだ。
「じゃあさ、今度またここに来ようよ。猫のレンタルはなしで、ただ遊びに」
亜梨が提案したら、透もまた嬉しそうに笑って、びっと親指をたてた。前ほどの恰好よさはないが、悪くない感じの笑い方だった。
少しずつ、少しずつ、近づいていければいい。
「──おまたせしました。ウインにゃー・コーヒーのお客様」
そこへ、亜梨たちのテーブルに、エプロン姿の女性がやってきた。
黒髪を一つにまとめた立ち姿も美しい、このカフェの店長だ。
亜梨は手をあげた。
「私です」
それは一見して普通のウインナー・コーヒーであったが、添えられたクッキーが猫の形をしていた。
「先日は申し訳ありません。私が新店の準備で離れている時に、説明不足のものをお売りしてしまったようで」
「……いえ、いいんです。ちゃんと聞こうとしなかった私も悪いんで……」
「適度なスリルを求める方には、ご好評なんですよ」
「新しい店を出すんですか?」
透が質問すると、店長は微笑を維持したまま頷いた。
「ええ。お客様のご愛顧にお応えして、姉妹店を出します。よろしかったらおいでください」
彼女は新店舗のチラシを、亜梨たちにくれた。
「は虫類カフェ『レッド・スネーク』……?」
「そちらでは各種のは虫類と触れあえるほか、オプションで『長いものに巻かれる』ことが可能になっており──」
「やめた方がいいと思いますよ」
端的な指摘が、透と完全に重なった。案外私たちは仲良くやれるのではないかと亜梨は思った。
*
本作は、2月4日発売の『猫さえいれば、たいていのことはうまくいく。肉球の巻』(ポプラ文庫)に収録されます。
■ 書籍情報
『猫さえいれば、 たいていのことはうまくいく。肉球の巻』

君さえいれば今日もしあわせ――
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■ 著者プロフィール
竹岡葉月(たけおか・はづき)
1999年度ノベル大賞佳作受賞を経てコバルト文庫よりデビュー。以降、少女小説、ライトノベル、漫画原作など多方面で活躍する。著書に、「おいしいベランダ。」「谷中びんづめカフェ竹善」「犬飼いちゃんと猫飼い先生」「旦那の同僚がエルフかもしれません」などの各シリーズ、『恋するアクアリウム。』『つばめ館ポットラック〜謎か料理をご持参ください〜』『音無橋、たもと屋の純情 旅立つ人への天津飯』など多数。共著に、『泣きたい午後のご褒美』『すばらしき新式食』などがある。

